先日(2009年11月5日)の、衆議院予算委員会のようすには、正直がっかりした。これが国政を担当したり、国政に直接影響を与える人たちに態度かと思うと、もう選挙に行くのを止めてやろうかと思ってしまった。
立ち見の議員が邪魔だから、審議ができない。これはわかる。でも立ち見が出ないような部屋でやる工夫というものはなかったのかと、素人目には思えてしまうんだけど。どの議員さんも、選挙の結果議員さんになられたわけで、議論に参加しなくても、その場にいる資格はあるんじゃないかな。
それと野次。これは今までもずうっと感じてきたことだけど(私が国会などというものを、ニュースやなんかで見始めてからずうっと)、野次ってのは有権者の票なんだよね。本当に有権者は、野次なんかのために投票したのだろうか? 自分が投票した議員さんが野次しか飛ばしていないと知ったら、有権者はきっとがっかりすると思うよ。
人の話をよく聞きなさい。これは私がほんの小さな子供だった頃から、言われ続けてきたことである。人の話を聞かないで(あるいは聞かせないように)野次を飛ばしているんだったら、はっきり言ってそんな議員さんの話も聞く必要はないよね。選挙演説をしている時に、誰かが野次り倒して、演説を聞こえないようにしたら、こういった議員さんはどう感じるのだろうか。自分がされた時だけは腹を立てる? 自分はやっているのに。おかしいよね。
この傾向はいつもいうことだが、朝っぱらから政治家を呼んだ番組なんかでも同じだよね。とにかく人の言うことを聞かない。人に喋らせないようにする。テレビタレントがやっても見苦しいけれど、政治家の皆さんはテレビタレントではなく、この国の経営について責任を持っているわけでしょ。もう少しなんとかならないもんかね。
もちろん、かつて本ブログでも書いたように、テレビ番組であれば「時間制限」がある。限られた時間内で、自分の主張を、できるだけたくさん発言したい気持ちもわからないではない。けれども今はこれだけインターネットが発達しているんだから、きちんとした形で発表することもできるんじゃないかな。もちろん、魅力的なものでなければ、誰も見てくれないだろうけどね。そこですでに政治家としての資質が問われているから、有権者も誰を支援するかの判断材料になって、いいのではないかな。
まあしかし、先日の予算委員会のは醜態だったね。特に名前を呼び捨てにしての罵りあいは、まるで質の悪い、小学校の学級会か、それ以下だったよ。これ、テレビで放映されているってことは、将来を担うはずの子供達も見ているんだからね。
私が、国政を担っている人たちに、「君子であっていただきたい。君子でないのなら、せめて君子であろうと努力していただきたい」と思うのは、こういった醜態はどんどん次の世代に受け継がれていきかねないからだ。人は取り合えず、見たものをまねするからね。これを真似ぶ→学ぶっていうよね。
男は(男に限らないと思うが)四十を過ぎたら、自分の顔に責任を持ちなさいという言葉があるが、顔だけじゃなくて、行動にも責任を持っていただきたいものだ。人生の後輩達は、みんな見ているんだよ。望むと望まざるとに関わらず。テレビが放映するから。きっとこれは海外でも流されているだろう。これだけインターネットが発達しているんだし。
情熱があれば、感情が激することもあるだろう。でも相手を呼ぶときには、せめて「○○さん」「○○君」、役職があるんだったら、名前の後ろに役職をつけてもいい。いくらでも呼び方があるんじゃないのか。飲み屋でお酒が入って、つい昔の同僚同士で呼び捨てにしあっているわけじゃないだろうに。
若い人にこんな姿を見かけることがある。わざと粗野な言葉を使う。わざと大声で怒鳴るように喋る。成人していないのに、わざわざ人前でタバコを吸ったり、お酒を飲んだりする。人前でそうしてみせるってことは、人の目を意識しているんだろうね、きっと。
でもそれは勇気の証明でも、自分の強さを証明しているわけでもないんだよ。勇気がある人って、むしろ平凡に暮らしている人の中から現れることが多いし、いざとなったとき、わが身を省みないで人助けをするなんて人は、日ごろ目立たず、大人しく暮らしている人の中に多いもんなんだけどね(もちろん、例外はあるだろうけど)。
昔々に見た『スターウォーズ・帝国の逆襲』で、ヨーダに師事するために行ったルーク・スカイウォーカーが、「偉大な戦士を探している」と言うと、ヨーダ自身が答える。「戦いで人は偉かならん」 これはなんとも味わいのある言葉だ(私自身は、戦いで人は偉くなる場合もあるのではないかと思っているけど。もちろんこの戦いは、ただの戦争という意味ではないよ)。
粗野な言葉を使っても、大声で怒鳴っても、それだけでは強くもならないし、成長もしない。法律をこれ見よがしに破って見せても、それだけでその人が英雄になるわけではない。特に年齢制限なんか、誰でも制限年齢になれば、合法的にできるわけだし。大臣を呼び捨てにしても、政権政党に返り咲きできるわけではない。人にその情熱を曲解されるだけ。
情熱は必要だと思うけど、情熱を上手に表現しなければ、人には通じないと思うよ。どんな芸術でも、どんなに自分が激しく感動したものがあっても、それを相手に伝える技術や人格を持たない人は、やっぱり何もできないんじゃないかな。自分がどんなに高邁な理想を持っていても、誰も耳を貸してくれないのではないだろうか。
だから昔の人は、人格を磨こうとしたんだろうね。情熱だけでは何もできないことを知っていたから。だいぶ前『女性の品格』なる本がベストセラーになったみたいだが、やっぱり品格は女性だけでなく、どんな人にも必要なんじゃないかと思う。
でも「私は君子ではありません」などと、一番偉いかもしれない人が言い切ったら、なんとなく寂しいよね。せめて「君子になれないけど、努力している」とかなんとか言えばよかったんだけど。でもお金の問題で苦戦しているみたいだから、それも言えなかったんだろうか。してみると、思いのほか正直な方なのかも知れない。
私は正直より、国民に幸せを与えてくれる人が好きなんだけどね。まあ、私としては、情熱を上手に表現でき、その理想が私にとって好ましい人に投票するというのは、基本姿勢なんだけど。だから前の岡山県知事選みたいに、どちらにも入れたくないときには「棄権」という意思表示をすることもある。
棄権が多くて、投票率が30%とか35%とかに達しなかったら、どの候補も落選なんて規則はできないかな。そうしていいと思える人材が現れるまでは待つ。あるいは選挙管理委員会なんかが、捜し歩いてお願いする。これも現実的ではないけれど、思わず考えてしまう私である。私が考えても世の中は大して変わりそうもないけど。
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