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2009年11月11日 (水)

武士の情け

 イギリス人英会話講師殺害の容疑者が、とうとう捕まったそうである。テレビなどでは、その話でもちきりだ。逃げ続けるとしても、人は人と接触しないでいられない生き物だから、逃げおおせる確率は決して高くはないだろう。逮捕されたときには、素直に捕まったみたいだから、きっと逃亡生活に疲れていたんじゃないかと思う。

 人はちょっとした心配事があっても、安眠できなかったりする。私なんかだったら、狂ったように練習して、酒を飲んで、臍天で寝てしまえばいいんだけど、官憲に追われていたら、そうすることもできなかったろうし。

 どんないきさつで事件を起こしたのかは知らないが、そして罪は罪なわけだが、逃げ続けるのは大変だったろうね。この上は一刻も早く、物事をすっきりとさせて、罪を償ってもらいたい。

 にしてもパスポート取得はねえ… もともと海外へ出るために、英会話を習っていたのかもしれないけど、パスポートを取得して、正式な形で国外へでるのは難しかったんじゃないだろうか。手続きは、何もしていない人にとっては、なんてことはないことだけど、顔は確認されるからね。

 不正な手段で海外へ出ても、表では生活が難しいだろう。するといきおい裏の世界に入らざるを得ない。すると今度は自分の安全が確保できなくなる。日本国のパスポートは、基本的に日本国民が外国で安全に暮らすために必要なものだ。犯罪を犯して海外へ逃げても、割が合わないことが多いんじゃないだろうか。

 それはさておき、容疑者のご両親にマスコミが殺到したのは、私には少し酷に見えた。おそらくはご両親も、子供は生んでも、そう育てたつもりはなかっただろう。ましてや子供ももう30歳である。未成年ではない。なのにあれこれ質問しているのを見て、「うわあ、可哀そう」と、反射的に感じてしまった。きっとご両親も、ある種の被害者なんじゃないかな。

 昔々オリンピックで、サッカー日本ティームが、下馬評での圧倒的不利を覆して、ブラジルに勝ったことがあった。あの時、日本のテレビ局クルーは、ブラジルのテレビ局クルーの所まで行って、あれこれインタビューするという暴挙をしたことがあるが、あれは私はとても恥ずかしい行為だと感じた。「慎み」がないと思ったんだね。でも今回の容疑者のご両親に対するインタビューは、若干、「武士の情け」がないんじゃないかと思っちゃったよ。

 ま、「武士の情け」って言葉自体、すでに死語となっているのかも知れないけれど。

2009年11月10日 (火)

地球最後の日

 今までいろんな「予言」がなされてきましたな。富士山が噴火するなんてのもあったし、二十世紀には日本が沈没するなんて予言もありました。超有名なところでは、ノストラダムスの1999年第七の月なんてのもありました。

 誰かがそんなことを言うと、大抵の人は、いくらかは不安になってしまう。信じたくないけれど、それを真っ向から否定するだけの情報を持っていないからだ。でもとりあえず私だけでなく、大方の人は1999年第七の月は、無事に通り過ぎて生き延びる事ができましたな。

 二十世紀末までに日本が沈没するなんて予言をしていたのは、JFK暗殺を予言した人だったり、ヒーリングで超有名な人だったりするけれど、我々日本人にとって嬉しいことに、今でも日本列島は海の上にある。最近の地球物理学の研究によると、日本は物理的に沈没しないんだそうな。それどころか数千万年の未来には、今太平洋にある島々が、遠路はるばるやってきて、日本の国土が広がっていたりするという説があったりする。エライ違いだね、沈没と比べたら。

 私は「日本が沈没する」って、ご丁寧に沈没したあとの地図まで描いていていた人がいるけれど、あれは小松左京さんの『日本沈没』という小説がヒットするってのを、つい間違えて、本当に日本が沈没するって思っちゃったんじゃないかと解釈しているけど、どんなもんだろう。

 小松左京さんも竹内均先生に質問して、「日本は沈没しない」と言われて、日本列島が地殻の上ででんぐり返るって考え方で、無理やり日本を沈めてしまったそうだけど(私は小松さんの作品も大好きで、読み狂った時期がありますから。この強引に沈めてしまうところが、ダイナミックでいいなあ…なんて。筒井康隆さんの『日本以外全部沈没』も好きですよ。DVDも持っているくらいだから)、予言者の皆さんの期待を裏切って、今でも日本列島は浮かんでいる(国としては政治家のみなさんがしっかりしていないと、沈没しかねないと心配しているけど)。

 1997年第七の月には、残念と言うかラッキーと言うか、アンゴルモアの大王は降りてはこなかった(少なくとも私の知る範囲では)。まあ予言ってのは、それが起こらないように予防すれば、当たりにくくなる性格はあるんだろうけど。

 でも人が不安になると、なんとなく世の中の雰囲気が、少々荒っぽくなるような気がしますな。どうせ○年にはみんな死んでしまうんだから、なんて投げやりな気分が世の中を覆うのだろうか。投げやりはいかんですよ。少しでも望みがあったら、どこまでも粘り強く生きてみなければ。

 勝負は下駄を履くまでわからない。これは相撲界の言葉なんだそうだけど、人生もそうだよね。諦めてたまるもんかい!って思っている人は、最後まで強いよ。そして本当に最後には笑う人だっているんだよね、けっこうな確率で。

 私は知らないが(写真や映像は見たけど)、1910年、ハレー彗星が姿を現したとき(前回の1986年だったかは私も観測しました。写真も撮影したかな。どこかへ行ったけど。残念ながら暗くて、1910年の記録や話だけを聞いていた私は、けっこう裏切られた気持ちがしました)、あれは地球にぶつかるとか、水星の尻尾には青酸ガスが含まれているので、どちらにしても地球人類は滅びるとか言われたみたいだ。

 実際ハレー彗星の尻尾は、地球の大気圏をかすめたらしい。当時の人は青酸ガスを吸わないように、息を止める練習をしていたそうだから、かなり笑える(この映像、どこかで見たような記憶が…)。中には、どうせ死んでしまうんだからって、全財産を使い果たして待っていた人もいたという(話を聞いたことがある)。

 ところがどっこい、無事に生き延びたんですな。洗面器にはった水の中に顔をつけて、息を止める練習をしていた人たちには、大した害はなかっただろう。でも全財産を使い果たして、地球最後の日を待っていた人たちは、かなり虚しい思いをしたのではないだろうか。(それなりに経済効果はあったと思うが)

 まあ地球最後の日が、運悪く来ちまったら、みんな死んじゃうんだから、諦めるしかないわな。でも僅かでも望みがあったら、生き延びる工夫をすべきだと私は思うよね。確かに人類最後の一人にはなりたくはないけどね。それでもペットが1匹でも生き延びていたら、その世話をするために、やっぱり生き延びるほうを選ぶかな。

 とっても潔くない生き方みたいだけど、生命を与えられて生まれてきたんだから、燃え尽きるまでは燃やしていたいよね。

2009年11月 9日 (月)

今のあなたは、あの頃なりたかったあなたですか…?

 今のあなたは、あの頃なりたかったあなたですか…? なんてCC(キャッチ・コピー)で宣伝している映画があるらしい。機嫌が悪いときだったら、「大きなお世話じゃ!!」と言いたくなるようなCCだ。

 幸いなことに機嫌は悪くないので、ちょっとこのCCで考えてみたい。「あの頃」というのが一つ大きな問題だが、まあ大学生の頃(それも4年生の頃。学年によって変わったからね)を「あの頃」として考えてみよう。(中学生の頃だったら、漫画家志望だったから、完全にアウトだよね。絵がすでに描けなくなっているもん)

 まず体型。なりたかった自分からみると、随分お腹が大きくなっちゃったなあ。これは明らかに「なりたかった私」ではない。太るなんて考えたこともなかったよ。私は体重が増えないで苦労したんだから。今は減らなくて苦労しているけど。

 視力も落ちたなあ。記憶力も落ちたし、柔軟性なんか、目茶落ちたよ(ストレッチなんかやる時間はない。夜やっていたら、そのまま寝ている)。こんなはずではなかった自分に、どんどんなって言っている。

 でも人生の進路だけは、大きく遠回りをしたけれど、ゆっくりとだが、あの頃の自分がなりたかった方向に方向転換しているのは感じるね。確かに普通に暮らしているよりはやらなければならないことが多いから(しかも他人には理解されないことが多い。最近では周囲に理解を求めるという行為をしなくなった。そんな時間があったら、前に進んだ方が速いからである。どうせ結果が出たら、わかる人にはわかってもらえるし)、しんどいけどね。

 なんでもそうだが、自分がやれることと、やりたいことの間には、大きな隔たりがあることが少なくない。私もそうだった。何をやったらいいのかわからなくて、あれこれいろんなことをやってみた。結局それが長い間かけて、私に少しずつ「力」をつけてくれたんではないかと思う。長い間しんどかったけど(今とそんなに違わない)。

 よく大人たちは言うじゃないか。「今頑張っておいたら、先で楽ができるから」って。あれって大嘘だからね。今頑張っておいたら、先でも頑張れるだけの素地ができるだけで。もちろん頑張らなければ、できなかったことができるようにはならないけどね。たまに「頑張らない」ってのがカッコイイって言う人もいるけど、あれも頑張る気がない人が言っているだけ。人と違う何かをやろうと思ったら、頑張らないでどうする?

 身体運用で「頑張らないで」って言う人がいるよね。あの「頑張る」ってのは、私が言っている頑張るとは違うよ。あれは筋繊維を過度に緊張させたり、何処かに大変な無理をかけていることを指す。無理をしているところは「過度に」頑張っているのかも知れないけれど、感覚やら、柔軟性やらは昼寝をしている状態だから、自分の全部が頑張っている状態ではないんだよね。

 幼い頃から頑張っていれば、またどこかで頑張らなければならなくなったときに、頑張れる自分になっていくだけで、「楽」なんてできない。きっと一生できないんじゃないかと思う。「あの頃なりたかった自分」の中に、私の場合、「楽」になっているというのはなかったなあ。

 私が子供の頃は日本は経済的に発展していた。どんどん豊かになっていた時期らしい。それでも学校から帰ると、両親は一所懸命働いていた。それでも生活が楽だったことはない。私は両親を見て、「大人になるってのは、こうやって仕事をすることだ。それでも金銭的に楽にはならないんだなあ」と、小学生の頃、しっかり頭に刻み付けた。私への両親からの、何よりの贈り物だったと思っている。

 ただ苦労した分は、誰かに認められるようなことをしたかった。今でもそれが達成できたとは言えないけれど、少しずつ変わっているように思う。こんなもんなんだよね。やったことがすぐに、すべて他人に拍手で迎えられるようになったら、人間、どうしても傲慢になったりしかねないから。

 少しずつ、少しずつ、あの頃なりたかった自分に近づいていけたら、それで十分である。今の状態は、そんなに悪いとは思わないよ。いくつかは悩みのタネもあるけどね。でも、あの頃なりたかった自分になろうとしている自分がいるので、まあ合格点をあげてもいい。

2009年11月 8日 (日)

朱に交われば……

 昨日、蔵(などというものがある家である。なにしろ古いもんで…)を片付けていた母が、懐かしい本を見つけてくれていた。一つは高橋留美子さんの『うる星やつら』だったが、もう一つ(4冊ありました。シリーズものなので、一つと数えます)は、私が大学時代に読みふけった小説である。

 見つけてくれたり、何かの形で私の目の前に現れるときは、きっと私に「もう一度読み返してみなさい」と誰かが言っているのだと、さっそく『うる星やつら』は夕飯のときにうるうるしながら読み(何巻かは秘密)、高橋留美子さんって、ストーリーテリングが上手いなあとほとほと感心し(何十回目の感心か忘れましたけど)、もう一つの小説の方は、寝る前にと部屋に持って上がった。

 はっきり言って今の私の文章は、我ながらひどいもんだと呆れている。学生時代の方がはるかにましだった。どうしてだろう。それはきっと読書量や、読書の質と関係があるんだろうなと思ってはいたけど、まさにその通り。今は日本語の小説を読む暇がなくなっていたんだねえ。

 いい文章を読んでいれば、いい文章が出てくる確率は高い。最近の私はボキャ貧に悩んでいるが(言葉が出てこない。すでにボケが始まっていると、自分で密かに嘆いている)、そりゃそうだ。語彙ってのは常にいい文章で刺激し続けていないと、どこかへ置き忘れてしまうもの。

 とりあえず、大学時代の自分に戻りたい。「泣きながら~、ちぎった写真を、てのひらに並べてみるの」である。すでにこの歌が古い? まあそんなこんなで、とりあえず好きだった小説は、つねに身近に置いておくことに決定した。どうせ片づけが苦手な私である。いまさら本の10冊や20冊、増えたところで大差はない。

 問題は、ページを開くが早いか、意識を失うが早いかだけの問題である。私は寝る前にDVDなどを見ることが多いが、機械を操作した記憶はあっても、1秒も見た記憶がないことが多い人だから(よく疲れているんですな。ちなみに我が家ではこれを、「DVDを寝る」と言います)、読むことができるだろうか。もしかすると究極の「つんどく」にならないだろうかと、いささか心配だ。

「乱読」していれば、いろんな知識が身につく。「積読」をしてしまうと、身の回りが片付かなくなる。読書はそれぞれ、そのスタイルに合わせて、発達させてくれる能力が異なる。そしていい本は、いい知識を身につけさせてくれる。これって、いい友人が増えたようなもんだ。

 昔々「近朱者赤、近墨者黒」と言った偉い人がいたそうな。いわゆる、「朱に交われば赤くなる、墨に交われば黒くなる」ということで、人はその交わるものの影響を強く受けるという言葉だが、やっぱり交わる者によって、その人の色(行動とか性格とか、思考とか言葉遣いとか)は強く影響を受けますな。

 強く影響を受けるのがわかっていれば、やはり付き合う人間や、読む本を選ぶのは、当然のこと。かつて「お前は人の話を聞かない」と言われ続けた私であるが、自分にとってこれは有用とか、勉強になるって話は、誰よりも熱心に聴いていた。でも忙しさにかまけて、本を読んでいなかった(外国語の本ばかりだったので、日本語がヘタになってしまった)。これは即、矯正しなけらばならないと決心した、昨夜である。

 でもこれから、またしても外国語を翻訳しなければならないんだよ。必要だから仕方がないんだけど……  ……どうする? ため息である。

2009年11月 7日 (土)

情熱と品格

 先日(2009年11月5日)の、衆議院予算委員会のようすには、正直がっかりした。これが国政を担当したり、国政に直接影響を与える人たちに態度かと思うと、もう選挙に行くのを止めてやろうかと思ってしまった。

 立ち見の議員が邪魔だから、審議ができない。これはわかる。でも立ち見が出ないような部屋でやる工夫というものはなかったのかと、素人目には思えてしまうんだけど。どの議員さんも、選挙の結果議員さんになられたわけで、議論に参加しなくても、その場にいる資格はあるんじゃないかな。

 それと野次。これは今までもずうっと感じてきたことだけど(私が国会などというものを、ニュースやなんかで見始めてからずうっと)、野次ってのは有権者の票なんだよね。本当に有権者は、野次なんかのために投票したのだろうか? 自分が投票した議員さんが野次しか飛ばしていないと知ったら、有権者はきっとがっかりすると思うよ。

 人の話をよく聞きなさい。これは私がほんの小さな子供だった頃から、言われ続けてきたことである。人の話を聞かないで(あるいは聞かせないように)野次を飛ばしているんだったら、はっきり言ってそんな議員さんの話も聞く必要はないよね。選挙演説をしている時に、誰かが野次り倒して、演説を聞こえないようにしたら、こういった議員さんはどう感じるのだろうか。自分がされた時だけは腹を立てる? 自分はやっているのに。おかしいよね。

 この傾向はいつもいうことだが、朝っぱらから政治家を呼んだ番組なんかでも同じだよね。とにかく人の言うことを聞かない。人に喋らせないようにする。テレビタレントがやっても見苦しいけれど、政治家の皆さんはテレビタレントではなく、この国の経営について責任を持っているわけでしょ。もう少しなんとかならないもんかね。

 もちろん、かつて本ブログでも書いたように、テレビ番組であれば「時間制限」がある。限られた時間内で、自分の主張を、できるだけたくさん発言したい気持ちもわからないではない。けれども今はこれだけインターネットが発達しているんだから、きちんとした形で発表することもできるんじゃないかな。もちろん、魅力的なものでなければ、誰も見てくれないだろうけどね。そこですでに政治家としての資質が問われているから、有権者も誰を支援するかの判断材料になって、いいのではないかな。

 まあしかし、先日の予算委員会のは醜態だったね。特に名前を呼び捨てにしての罵りあいは、まるで質の悪い、小学校の学級会か、それ以下だったよ。これ、テレビで放映されているってことは、将来を担うはずの子供達も見ているんだからね。

 私が、国政を担っている人たちに、「君子であっていただきたい。君子でないのなら、せめて君子であろうと努力していただきたい」と思うのは、こういった醜態はどんどん次の世代に受け継がれていきかねないからだ。人は取り合えず、見たものをまねするからね。これを真似ぶ→学ぶっていうよね。

 男は(男に限らないと思うが)四十を過ぎたら、自分の顔に責任を持ちなさいという言葉があるが、顔だけじゃなくて、行動にも責任を持っていただきたいものだ。人生の後輩達は、みんな見ているんだよ。望むと望まざるとに関わらず。テレビが放映するから。きっとこれは海外でも流されているだろう。これだけインターネットが発達しているんだし。

 情熱があれば、感情が激することもあるだろう。でも相手を呼ぶときには、せめて「○○さん」「○○君」、役職があるんだったら、名前の後ろに役職をつけてもいい。いくらでも呼び方があるんじゃないのか。飲み屋でお酒が入って、つい昔の同僚同士で呼び捨てにしあっているわけじゃないだろうに。

 若い人にこんな姿を見かけることがある。わざと粗野な言葉を使う。わざと大声で怒鳴るように喋る。成人していないのに、わざわざ人前でタバコを吸ったり、お酒を飲んだりする。人前でそうしてみせるってことは、人の目を意識しているんだろうね、きっと。

 でもそれは勇気の証明でも、自分の強さを証明しているわけでもないんだよ。勇気がある人って、むしろ平凡に暮らしている人の中から現れることが多いし、いざとなったとき、わが身を省みないで人助けをするなんて人は、日ごろ目立たず、大人しく暮らしている人の中に多いもんなんだけどね(もちろん、例外はあるだろうけど)。

 昔々に見た『スターウォーズ・帝国の逆襲』で、ヨーダに師事するために行ったルーク・スカイウォーカーが、「偉大な戦士を探している」と言うと、ヨーダ自身が答える。「戦いで人は偉かならん」 これはなんとも味わいのある言葉だ(私自身は、戦いで人は偉くなる場合もあるのではないかと思っているけど。もちろんこの戦いは、ただの戦争という意味ではないよ)。

 粗野な言葉を使っても、大声で怒鳴っても、それだけでは強くもならないし、成長もしない。法律をこれ見よがしに破って見せても、それだけでその人が英雄になるわけではない。特に年齢制限なんか、誰でも制限年齢になれば、合法的にできるわけだし。大臣を呼び捨てにしても、政権政党に返り咲きできるわけではない。人にその情熱を曲解されるだけ。

 情熱は必要だと思うけど、情熱を上手に表現しなければ、人には通じないと思うよ。どんな芸術でも、どんなに自分が激しく感動したものがあっても、それを相手に伝える技術や人格を持たない人は、やっぱり何もできないんじゃないかな。自分がどんなに高邁な理想を持っていても、誰も耳を貸してくれないのではないだろうか。

 だから昔の人は、人格を磨こうとしたんだろうね。情熱だけでは何もできないことを知っていたから。だいぶ前『女性の品格』なる本がベストセラーになったみたいだが、やっぱり品格は女性だけでなく、どんな人にも必要なんじゃないかと思う。

 でも「私は君子ではありません」などと、一番偉いかもしれない人が言い切ったら、なんとなく寂しいよね。せめて「君子になれないけど、努力している」とかなんとか言えばよかったんだけど。でもお金の問題で苦戦しているみたいだから、それも言えなかったんだろうか。してみると、思いのほか正直な方なのかも知れない。

 私は正直より、国民に幸せを与えてくれる人が好きなんだけどね。まあ、私としては、情熱を上手に表現でき、その理想が私にとって好ましい人に投票するというのは、基本姿勢なんだけど。だから前の岡山県知事選みたいに、どちらにも入れたくないときには「棄権」という意思表示をすることもある。

 棄権が多くて、投票率が30%とか35%とかに達しなかったら、どの候補も落選なんて規則はできないかな。そうしていいと思える人材が現れるまでは待つ。あるいは選挙管理委員会なんかが、捜し歩いてお願いする。これも現実的ではないけれど、思わず考えてしまう私である。私が考えても世の中は大して変わりそうもないけど。

2009年11月 6日 (金)

勝負強い

 いや、驚いた。松井選手が凄いのは知っていたが、4打数3安打、6打点のMVPでしょ。これは凄い。シーズン中は、浮いたり沈んだりに見えていたけど、ここへ来て凄い活躍だったよね。

 これ見て一番に思い出したのは、高校野球の頃だった。明徳高校対星稜高校の、有名な5打席連続敬遠事件だ。まさにあれは事件なみのインパクトがあったけれど、今こうしてみると、ボロカスに言われた明徳のM監督に、先見の明があったんじゃないかと思うくらいだ。

 大リーグでこの勝負強さだよ。トーナメントで1回負けたらお終いって状況なら、もっと凄いことをやったかも知れない。とりあえず当時から凄い選手だって評判だったし。勝負を一番に優先すれば、そりゃ敬遠もしたくなるわな。

 あの時は解説者も連続敬遠に非常に批判的だった。でも敬遠しないでいわゆる勝負したら(打てなかったかも知れないけど)、危険と判断したんだろうね。どうしても勝ちたいと思ったら、敬遠だって戦法の一つだから、しかたがないよ。

 プロ野球だったら、来ている観客の皆さんがお金を払っている以上、客席が「勝負を見たい」ケースだったら、打たれるのがわかっていても勝負しなければならないだろうけど、チームとしての勝敗が最優先と考えたら、勝負しないのもまた大切な戦い方かも知れない。ましてや高校生が勝負しなかったって、凄い勇気のいることだったろうね、きっと。

 もしここまでの凄い勝負強さをM監督が感じ取って、5打席連続敬遠をしたのであれば、松井選手の凄さを誰よりも高く評価していたのは、M監督だったってことになるよね。勝負に勝つために、最大限の敬意を払って敬遠したんだったらね。

 松井選手が只者でないのは、いまさら私などが言う必要もないけど、5打席連続敬遠ができた人たちにも(それでしっかり試合に勝っているんだから)、凄いなあと、改めて思った。

 かつて桑田投手に「松井選手は凄いですけど、どなたが指導されているんですか?」と尋ねたとき、桑田投手は「長島監督でしょ」とさらりと言っておられた。ちょっと我々にはわかりにくい日本語(かなあ? だいぶカタカナも混じっていたけど)を使われて、時に何を言っておられるのかわからなかったけど、やっぱり長島さんも凄かったんだろうね。

 そういえば長島さんも、めっぽう勝負強かったよね。勝負強さは、指導可能なんだろうか?

2009年11月 5日 (木)

そっくり

 昨日あたりから、例の、イギリス人英会話講師のお嬢さん殺害容疑者に関する話が爆発的に増えた。整形手術ってのは、確かに自分を隠してしまうのに考えられることだが、最初の整形手術は「元の顔」を人前に晒すわけだから、どうしてその時点で発覚しなかったんだろうと、不思議に思う。

 まあ裏のある業界というように聞いているので、裏でやっていたらわからないよね。それでも手術ってのは、誰かの手を借りなければならないから、大変だ。自分の表を変えても、世の中を生きていくためには、自分の本籍なり住所なり、家族なり、知人なりの証明が必要なことも少なくないので、どこかでバレてしまうだろうね。

 美容整形などが盛んな国もあるようだけど、どうしても必要に迫られなければ、親がくれた顔なので、できるだけ自然のまんまにしておきたい(厳しい人生を生きた人は、厳しい顔になるかもしれないし、のんびりした人生を生きた人は、のんびりした顔になるかも知れない。顔は人生を語るというけれど、まさにその通りである)。

 特徴を変えれば、すべてが変わって見えるようになるというのはよくわかる。私だってまったく違う人種とか民族を見たら、だれの顔を見ても、区別がつかないもの。その人種とか民族とかとある程度付き合って、特徴を細かいところまで理解しなければ、個人個人の顔を見分けることが難しい。

 私はよく誤魔化すことがある。AさんとBさんが似ているだろうというような会話で、「ああ、似てる、似てる。目が二つあって、鼻が顔の真ん中にあって、その下に口があって、頭の両側に一つずつ耳があって…」 当たり前である。ようするに、特徴がさっぱりわかっていないということだ。

 ヒトとしての生物な特徴は、人類共通である。それを似ている要素には、普通は入れない。要するに細かいところまでは見ていないと告白しているのと同じだよね。

 似たものを表現するといえば、声帯模写とか形態模写とかなんかがあるよね。テレビなんかで芸人さんがよくされているのを見かけるけれど、何を真似ているのかというと、やっぱり特徴を真似るのが基本中の基本みたいだ。大昔のことでいつのことだったか忘れたけれど、松田聖子さんが何かの賞を貰って、受賞の場で泣いて、それから暫く「松田聖子の物まねをやりま~す」てのが流行したことがある。

 それを物まねか何かで審査されていた、往年の名優Oさん(故人)が「泣きゃあ、聖子ちゃんってもんでもないでしょう」と評しておられた。まさにその通りである。その泣き方がよほど特徴的でなければ、泣くだけでマネをしたことにはならないよね。

 私が大好きだった(今も)松田優作さんが『太陽にほえろ!』で殉職したときのシーンも、皆真似したもんだよね(年がわかる?)。「なんじゃあ、こりゃあ!?」って奴。上手かったよねえ、あの感情表現。やっぱ天才だったんだろうね。

 でも優作さんの存在感、キャラクターが真似できないで、ただ「なんじゃあ、こりゃあ!?」だけ真似ても、似ていなかったよね。(そして松田優作さんの存在感が真似できる人は、そうたくさんはいないのは当たり前なんだけど)

 スポーツなんかでも、指導者は自分が学んできたドリルなんかを選手に伝えることがある。この時、上手い指導者とヘタな指導者ははっきりと分かれる。上手い指導者は、動きのポイントと特徴を捉えるのが巧みなので、上手に教えることができる。ヘタな指導者は、とりあえず全部伝えようとして、そのドリルを見せてくれたオリジナルと自分との違いに気づかないことが多くて、同じことをやったつもりで、全然違うものを教えていることが多い。

 恐ろしいことに、現役時代にまあまあ競技力が高かった選手でも、指導者になったら、こういったことがヘタな人もいる。競技力はそれほどでもなかったのに、こういうことなら任せとけというタイプもいる。指導力がそれだけで決まるものではないとは思うけど、こういうタイプの指導者の中には、指導者になって結果を出す人が案外多いように思う。

 自分が高いパフォーマンスを出すには、自分の動きに詳しいだけでいいのだけれど、他人の動きを他人に伝えようと思ったら、人の動きの特徴を掴まなければならないからね。そういえば私の亡き父は、人の動き(それもかなり奇矯な動き)をまねするのが上手かった。

 父はスポーツの指導なんかしたことがなかったけれど、私にもその血は流れているらしく、わりと苦労しないで動きを伝えることができているよ。私は奇矯な動きなんかやらないけどね(本人はそう信じている。十分奇矯だという声があるかも知れない)。

2009年11月 4日 (水)

大気汚染

 毎日のように屋外でトレーニングしていると、季節の変わり方がよくわかるけれど、今日は冬みたいだった。一応、冬の準備はこの時期にはしているので、冬の装いでやったら、汗が出た出た。やっぱり、まだ冬ではなかった。

 暖かかったのから急に気温が下がると、実際よりも寒く感じるよね。風が強かったら尚更だ。それでも、折角だから、時間さえあれば(時になくても)練習はする。たまには真っ暗な中で練習していたりする。「やると決めたらやる」

 でも次第に動くのに適していない季節になってきたなあ。だいたい日没が早すぎるよ。まあ暗ければ、他の人がいなくなるから、好きなだけ好きな練習をして、かまわないんだけどね。この気楽さがいい。

 でも、今年の春くらいから、とみに感じることだけど、なんだか数年前より空気が汚くなっているように思うね。春は私は花粉症があるので、確かなことはわからないが、今年なんかのケースだと、花粉よりも黄砂の方がきつかったように思う。

 走っていて一番以前との違いを感じるのが、痰の絡み方。それと寝ていて鼻が詰まる。これって空気が汚れている証拠じゃないかな。お陰で年中喉飴が放せなくなったよ。年中喉がいがらっぽいし。

 気温が下がってきたので、練習後、シャワーを浴びても、気を抜いたら風邪をひいてしまう。(実は、汗をかく生活を続けているわりには、私は汗をかいたままいるのが大嫌いな人である)そこで着替えをするわけだが、飲み物が変わってきたね。

 何を飲むのかというと、大量に熱い鉄観音を淹れて、吹きながら飲むんだね。するとまた汗が出たりするんだけど。身体は温まるよ。そのうち、緩やかに体温が平熱に戻っていく。そして私は再び仕事に戻るのである。

 空気が汚くなっているとしたら、おそらく西から空気がやってきているのではないだろうか(ジェット気流はあるし、高気圧、低気圧なんでも西からやってくるんだもんね)。でも練習した後も、西のお茶を飲んでいるから(さすがに冬はトイレが近くなるけど)、まあ仕方がないのかな。

 これは肉体的な大気汚染の話だけど、熱気を帯びてきた国会の論戦も、結構な大気汚染のような気がするね。いろんな議論が行われているけど、国民は、今より暮らしやすくなれば、何でもいいんじゃないかと思うよ。議論で相手を言い負かしても、その結果、幸せな暮らしができないんだったら、対して意味はないよね。

 しかし野党の弱点が見えてきた気がするね。それは今まで外交をしてきた経験がないということだ。外交は外国との合意や駆け引きだから、連続性が重視されると思うんだけど、何でもかんでも変えようとばかりする意識が先立ったら、相手の国は「ざけんじゃねえ」ってことになるかも知れないよね。

 国内のことは、何だかんだ言っても、国内ですむことが殆どだろうけど、外交はちょっと難しいよね。「受け」だけを狙ったような発言に終始するんでなくて、なんとかうまくやっておくれよね。口先だけで国民を誤魔化すんでなくてね。こういうのは、私はもしかしたら「精神的大気汚染」なんじゃないかと思っているから。なんとなくうまく言い逃れることさえできたらいいような。

2009年11月 3日 (火)

便利は不便、不便は便利

 だいぶ以前のことになるが、ニロチカの近藤さんと話をしていて、魚を飼育するにしても、あまり飼い主が楽ができる道具を使うと、いざと言うときに困った問題が起こるなんて話になった。

 その通りであって、あまり便利なものを使って飼っていると、魚の顔や水草の状態や、水の状態を見なくなってしまうんだね。中でも一番失敗の確率が高いのが、タイマー付き自動給餌機。これは最低の道具だわ。

 昔々、私が遠征か何かで1週間近く家を空けることがあって、水槽にこの機械をセットして行った。帰ってきて、水槽を見て驚いたのは、その道具の下の底に餌が堆積していたんだ。

 勿論、餌の量は慎重に検討した結果、多すぎないようにしていたんだけどね。理由は簡単にわかった。人間が餌やるときって、あちこちに餌がいくようにしているよね、無意識のうちに。そうすれば強い魚だけが餌を独占して、弱い魚が餌を食べられないって現象が起こらないから。

 でも機械にはそんな気配りは無理ってもんなんだね。それでいつも同じところにドバって落ちるから、そこに餌が堆積して腐っていたんだね。水の調子を元に戻すのに苦労したよ。バランスがいい水は少々のことではびくともしないけど、一端調子を狂わせたらなかなか元に戻らない。

 他の電気製品でも同じことが言えるわけで、最近あれこれとたくさんの機能が一つの機械についていたりするけど、どれか一つでも壊れたら、全部買い換えなきゃいけなくなっている。最近の機械は修理するよりは、新しく買ったほうが安くつく場合も少なくないから。

 だから便利なのは、調子よくいっているときだけで、一つ調子が狂ったら、便利なものほど不便だと感じてしまうよ。

 これに対して昔風の道具なんか、調子が悪かったら、拳骨でドンっと殴ったら直ったりするくらいで、使うにも独特のテクニックが必要だったりする。こういうのは少々機械の具合がわるくても「騙し騙し」言うことを聞かせることができたりするんで、案外便利だったりするんだけどね。

 人間でも似たようなことが言えるよね。何でもできる人が一人いたら、職場としては大変に便利なわけだけど、この人がインフルエンザにでも罹って欠席したら、一気に業務が停止したりするから。これってとっても不便な話だ。

 不便な道具を使っている人間は、人間の側で工夫するから、人が伸びたりするけど、あまりに便利な道具ばかりだと、人は工夫しないもんね。工夫するところに人間のよさがあると私は思っているんで、便利さもほどほどが一番かな。

2009年11月 2日 (月)

棚から本マグロ!?

 いやあ、秋の陽は岩石落としだ(ルー・テーズじゃねえっての!!)。10分トレーニングを始めるのが遅いと、とっぷりと陽が暮れますな。いつも通りなれたコースだから、それほど危険ではないけれど、それでも石ころに足をとられそうになった。いい練習になった。

 何よりも今日は中島みゆきさんの、紫綬褒章が嬉しかったね。私も青春時代から、ずうっとみゆきさんの歌のお世話になってきたから。

 だれだって人生に躓いたり、悩みを抱えたり、自分ではどうしようもない事態に途方に暮れることはあるだろう。抑えることができない悲しみや、怒りや、絶叫したくなる懊悩や、いろんなものを抱えて生きているんだろう。

 私の場合は、人生に絶望して、やけになりかけたとき、いつもみゆきさんの歌を聴いていた。おかげでいまのところ官憲のお世話にならないで、どうにか生きている。そして今の仕事を選んだのも、実はみゆきさんの影響が大きかったのではないかと思っている。もう深層意識にまで根を下ろしているから、どこからどこまでかわからなくなっているけどね。

『中島みゆきのオールナイトニッポン』、大好きでしたね。睡眠不足になるのも構わないで、聞いていましたっけ。それでいつも救われたような気がしていたのは、私だけではなかったんだろうと思う。というのはコンサートに行った時の熱気が凄かったもんね。

 どんな歌手の人だって、コンサートはそれなりに熱気があるもんだけど、やっぱりどこか少し違っていたと思うよ。そして新潮社から『伝われ、愛』が出たときは、すぐ買った。泣いたなあ。もう、感動して、感動して。

 この本は何冊も買ったんだけど(たぶん10冊くらいは買ったと思う)、不思議なことにすぐなくなるんだよね。みんな人が持ってっちゃう。おいおい、俺のを残しといてくれ~っ!! なんてね。今じゃ、手元に文庫本になったのが1冊と、ハードカバーだったのが1冊しか残っていない。出版元に問い合わせても「絶版です」なんだって。

 ものごとに悩んだり、いらいらするときには今でも読み返す。あの頃のオールナイトニッポンの雰囲気と同時に、自分の思い出が大挙して蘇ってきて、ちょっとパニクってしまうけれど、それでもちゃんと魂が浄化されているんだよね。

 私は魂の浄化ってのを大切にしているけど、それを最初に教えてくれたのは、みゆきさんだった。そうしてこの嫌なことが多い人生をどうにか生き延びている。身体は飯食って寝ていれば維持できるけれど、心に溜まる人生の垢や滓は、何かで浄化していかなければ溜まる一方だから。気がついたら、とんでもなくつまらなくなってしまった自分がいて、生きていくのが嫌になったりするからね。

 でも嬉しかったなあ。みゆきさんの歌を泣きながら聴いていた、自分の青春時代までが表彰されたような気がしたよ。これでまた少し頑張って生きてみようかって、元気が出た。

 本当に、みゆきさん、おめでとう! コンサートに行くだけで、まだ一対一でお会いしたことはないけど、私も、もうちょっといい仕事ができるように、頑張るね。ありがとうございました。

 これからもいい歌、聞かせてくださいね。

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