中国の鋼鉄刀剣・11 ~鋼鉄刀剣の成熟期 宋元(2)~
大陸と日本列島の関係が深くなったのは、きっと我々が歴史で習ったこと以外にも、いくつもあったに違いない。例えば我が家なんて、顔を見るだけで、いろんな民族の遺伝子が混じっていることがわかる。だから教科書に書いてあることを鵜呑みにする気になんか、とてもなれない。
でも歴史の勉強は大切だ。嫌で嫌でたまらなかった年号覚えだって、今となっては歴史の横軸を作ってくれるのに、けっこう役立っている。ちなみに私にとって歴史は、その地域の流れ(歴史的つながり)という縦軸と、各地の歴史の同時性という横軸と、時間の流れの中で、どういう人間がどういう状況で、何をどう考え、どう決断し、その結果がどうなったかという高さ(あるいは深まり)を考えていく立体的なものなので、「人間」という要素を結構重視している(だから司馬遷の『史記』が好きなのかもしれない)。
『中国刀
剣』という力作は、先日の訪中で探してみたのだが、残念なことに書店にはなかった。この本は、私の中での歴史観に、少し厚みを与えてくれるような気がしている(著者が中国の人なので、あちらから見た意見にも触れられるしね・・・日本人的には「?」をつけるところもなくはないけれど)。観点を増やすことは、データが増えることにつながったり、データの精度を増してくれる。これはこれで、見事な「科学的思考」になっているもんね。
で、今回は久しぶりに『中国の鋼鉄刀剣』の11回目、日本の歴史にも大きな影響を与えた「元」までである。
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『中国の鋼鉄刀剣』・11 ~鋼鉄刀剣の成熟期 宋・元(2)~
第二節 夏・金刀剣
★ 西夏剣
西夏(西暦1032年~1227年)は、党頂族がたてた国である。宋代に興り、鉄器の冶煉と製造業の発達は、まず「熔用之袋」たる「坩堝」で冶鉄した刀剣を作り出した。西夏を建てた党頂族は尚武の気風に溢れ、刀剣製造の技術も傑出していた。
北宋の『太平老人・袖中錦』に「契丹鞍、夏国剣、高麗秘色、皆為天下第一、他処雖効之、終不能及」とある。その他高名な詩人の詩の中にも、西夏の刀剣を賛美する言葉は多く遺され
ている。
宋の皇帝・欽宗も、常に夏国剣を帯びており、その珍貴精美は疑う余地がないものである。けれども残念なことに、西夏の剣は現存するものが極めて少ない。左の図を見ると、刀身は長大で、後ろが幅広く先細りになっており、切っ先は鋭利で護手は前彎しており、大三葉形であり、中央アジアの古剣の風格を持っている。
遼寧省博物館所蔵の、ただ1枚しか遺されていない、貴重な金代の仏教絵画に、剣を持った甲士が描かれている。面容は凶悪で、胡人のように見えるが、身につけている走行は宋様式に見える。
長剣の剣首は三耳様式で、剣鍔は円盤形に見え、剣身は細長く、根部には呑口がある。この絵が描かれた背景を詳しく研究しなければ、この剣を金国製だと断定することはできないが、この剣が中原の、宋剣の風格を色濃く備えていることは認めていいと思う。
比較的きれいな形の金国剣は、金代のレリーフに見て取ることができる。その形は宋剣に似ており、剣首は大きくて、三耳をしており、剣当は盤形である。しかも幸運なことに、レリーフに描かれた金国剣は、出土した実物で証明されており、北京の金代墳墓から出てきた発見されたものは、長く、
刃は秘匿、剣根には呑口があり、環首は大きくて三耳であった。
剣体は金銀で装飾され、Ⅹ線で透視して見ると、北斗七星のデザインがある。この剣と金代の墳墓のレリーフに遺された剣の形は、多くの点で特徴が一致しており、この時代の多くの剣の特徴を表したものと考えられる。
これとよく似た、環首が大きく、三耳の透けたものは、宋剣にも現われていたが、金と宋とでどちらが先にこのようなものを作ったかは不明である。確かなことは、中原と北方民族の刀剣間では、お互いに影響を与え合っていたことである。
第三節 元代刀剣
★ 元刀
蒙古の軍刀は馬上で使われることが多かったため、環刀と彎刀の両方の特色を持っていた。『多桑蒙古史』によれば、「よく考えられたものは、僅かに曲がった刀を持つ」とある。このように元代の蒙古刀は、僅かに彎曲したものが主流であった。
☆ 環刀
刀柄は環首で、短く、彎曲していた。南宋の『黒韃事略』に記載された蒙古兵の様子は、「環刀を持ち、巧みに振り回す。軽くて犀利で、短くて扁平である」とある。宋では蒙古を黒韃靼と呼んだ。『黒韃事略』は正確で内容豊富な蒙古見聞録であり、歴史的資料としての価値も非常に高い。
環刀の刀身は既に失伝しており、実物も図も遺されていないが、この本のお陰で、軽くて使いやすいということから、刃は幅広ではないことが推測でき、犀利という形容から先端が鋭く尖っていたことが考えられる。しかも騎兵が使っていたわけだから、刀身は太く短くはなかったということがわかり、これらを総合すると蒙古の環刀は、長くて刃幅は狭く、先端は尖った彎刀であろうと推測することができる。
宋代には世界各地から中国に人がやって来ていたが、イスラム教徒は回回人と呼ばれていた。彼らは中央アジアの特徴を環刀に持ち込んだようで、これはイスラムの彎刀の流れをくむものである。
元晩期には、環刀は王族が身につけるはい刀になっていた。『元史』巻の40『順帝本紀』にはその
ような記載が見られる。
この環刀は今のところ出土した実物はないが、元代の著名な絵画作品『捜山図』に描かれたものがある。この絵は、二郎神君ら神兵天装が、山に潜んだ魔物を探した故事を題材にしたもので、甲冑などの武具の多くは元代のものをモデルにしている。
その
中に赤髪を振り乱した裸の男が描かれているが、手には双刀を持っている。全体的に彎刃であり、背は厚く身は平らで、脊はなく刀尖は上にはね上がり、先端に向かって細く尖っていて、大層鋭利である。刀根には呑口があり、背部は長く、刃は短い。これは後世の清代の腰刀の呑口とは相反している。環首と柄は接しており、護手は桃形で、宋代の手刀鍔とよく似ている。
環刀は狭身曲刃を除いては、まだ少数は直刀であり、これらは刀身はひろく、背は厚く、刃は窄かった。刀体の断面は三角形で、開刃角は狭小であり、叩き切る性能は極めて優れていたのではないかと推測される。直刃環刀と宋代手刀とは、形の面でよく似ており、漢式中原兵器のようである。
☆ 彎刀
彎刀は環刀とよく似ているが、刀首に環がない。刀身は狭く、彎曲しており、刀柄は斜め下方に傾いている。これは刀身が弧を描いているのと逆向きである。護手は十字形である可能性がある。こういった刀柄の形は、遊牧民族の間では広く採用されており、騎馬での戦では、刀を叩きつけたり、まっすぐに突き刺したりするので、こういった戦い方には有利で、手から抜け落ちにくかった。後金、清朝のはい刀でも、この様式が採用されている。
彎刀の起源は、中国 西北部の遊牧民族に求めることができる。蒙古が西征のおり、西アジアとイスラム諸族の、刀剣製造技術の影響を受けたものと考えられる。元が中国を統治した頃には、すでに中国の元の軍隊でも使用されていた。元代の画家が描いているところを見ると、元の世宗は近衛
兵にこの彎刀をはい刀にするように制定していたようである。
この種の彎刀は、当時のペルシャの細密画に見ることができる。西アジアを征服した蒙古貴族の宴会を描いたものだが、数名の男子の腰にあるはい刀は彎刀になっている。
元が
宋を滅ぼした後、刀は知らず知らずの間に漢式の影響を受け、「きょう西省」の元代の墳墓から出土した騎馬俑の騎士が帯びたものは、円頂帽と服装は、典型的な蒙古式のものだが、はい刀は、太く短く、少しだけ彎曲しており、刀柄と刀身の彎曲方向が一致している。ただし刀首には雲紋があり、刀鍔の様式と刀柄の巻き方には、あきらかに中原文化の影響が見て取れる。
★ 元剣
学者
の中には、元代の兵器では剣は刀よりも優れていたという者もいるようだが、実物はきわめて稀にしか出土されず、この説を証明することは難しい。確かに出土した騎馬俑のうち少しの例では、剣を持っているものがある。けれども長さが短く、護身用の匕首に しか見えず、実戦で戦闘に使われていたとは考えにくい。常識的に考えれば、遊牧民族が騎馬での戦を行ううえでは、彎刀の方が戦闘力が優れているだろう。
元
が中国を征服した後、引き続き東征を行い、日本へ侵攻した。日本の13世紀の戦図の中に、蒙古軍が直剣を持ったものも描かれてはいるが、これは長身狭刃で、護手はとても大きい。
蒙古軍が海を渡って日本を攻める上で、多数の馬を連れて行くことができず、陸戦で有利な直剣を携帯したという部分もあったのではなかろうか。
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※ 元の軍隊と刀剣
元の軍隊構成は複雑で、主力は蒙古人、色目人および漢人からなっていた。色目人は当時の中国西部民族の総称であり、粟特人、党頂人、吐蕃人などであり、漢人には契丹、女真、高麗などの部族も含まれていた。
元軍は蒙古兵を主体とし、騎兵が主力であり、漢軍、新附軍は歩兵が主力で、騎馬兵はそれを補うものであった。また元軍は水軍と砲軍も編成していた。
本来蒙古軍は遊牧民族からなっており、弓兵を最も重視していて、接近戦では刀剣など叩き切る武器や、斧、錘など叩きつける武器を主武器としていた。その中で元の刀剣は種類が複雑であり、その由来から3つに分けることができる。
○ 蒙古自制刀剣
13世紀初頭、蒙古には装甲兵が極めて少なかった。さらに鉄を産しなかったので、蒙古で早期の部族間抗争で用いられた刀剣の大部分は、契丹や金、西夏などで買った鉄で作ったものであり、正統な蒙古刀剣は、残念ながらない。蒙古刀剣の雛形は、やはり直刀が主体であって、軍ではこれと彎刀を兼備した。
○ イスラムとインドの刀剣
蒙古各部族の統一後、成吉思汗やその後継者たちは、中央アジア、西アジアに大遠征を行った。その過程で蒙古軍は先進的なイスラムやインドの刀剣と出会い、同時に各部族の器物とそれを作る技術者を捕らえた。そして彼らに蒙古軍が使う刀剣の製造を命じた。
蒙古人は短期間のうちに、先進的な錬鉄技術や兵器製造技術を習得し、大幅な改良を加えた。こうしてできた刀剣は元式刀剣と呼ばれ、現在世界各国の博物館や私的収蔵家の所有になっている。元朝と中西アジアの絵画、彫刻、陶俑や磁器などにも、当時の刀剣の形を見ることができる。
○ 宋式刀剣
宋式刀剣には宋朝の遺留品的な刀剣と、元宋工芸が融合して生産されたものが含まれる。元が宋を滅ぼした後、漢人軍隊と、彼らが作った宋朝の武具が残された。元が中原の冶鉄および武具製造技術を統治し、刀剣製造用の精鋼局を作り、鋲鉄生産と鋲鉄刀剣などの武具製造を行わせた。その規格は厳格であり、職人達は厳格な政府管理下に置かれた。
※ 著名的元青花甕上的絵画
2005年、ロンドンの好事家がオークションで、元青花人物甕を1400万ポンドで競り落とした。これは23000元以上に相当するが、今までで最も高値がついた磁器である。甕上の絵は「鬼谷下山」というテーマで、春秋戦国時代の故事を描いたものだが、兵士が着ている衣服は元代のものであり、宋式の甲冑をつけ、元式の彎刀を腰につけている。
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元と言えば私は「元寇」とマルコ・ポーロの『当方見聞録』ぐらいしか知らなかった。この本のおかげで、いろいろと知識を増やすことができた。感謝・感謝である。何気なく衝動買いしたものでも、読んでみるといろんな知らなかったことが書いてあって、とても勉強になりますな。
今年もまた、有意義な勉強をしろということなんでしょう、きっと。





こんにちは。はじめまして、宋代の剣について調べていたらたどり着きました。
この”中国 刀剣”の本は、どこでお知りになりましたか?出版社を調べたら案の定中国のものでした。
投稿: 堂島ちか | 2009年5月17日 (日) 23時26分
はじめまして! コメントありがとうございます。
実はこの本は、私が訪中(広東省珠海市ですが)したおり、珠海最大の本屋さん(文華書城といいます)で偶然見つけたものです。
それも最後の1冊だったらしく、あまりの力作に感動してしまって、それ以来訪中のたびに探してはいるのですが、見つけることができません。
本当は何冊か手に入れば、どうしても研究してみたい人には、定価+送料でお分けしようかと思っていたくらいです(そちら方面の専門家の人には、素晴らしい資料になると思うので。私がしているのは、あくまで紹介ていどのことです。素晴らしい研究だと思い、私だけが知っているのがとても残念に感じられたのです)。
以後、訪中のたびに探しているのですが、今日に至るまで、1冊として発見されておりません。
私が入手した本には、2007年7月第2版(私が買ったのは2007年の8月です)とありますから、よほど中国でも評価が高かったのではないかと思います(というのは、中国では重版することがほとんどなく、たいていは初版でおしまいになります。だから見つけたときに買っておかないと、次に来たときなんて思っていたら、何処にもなくなってしまいます。もちろん、店員も冷たく、「没有。不知道」と言うだけです。私もこれで何冊か買い損ねた本があります)。
もしも宋代の資料をどうしてもほしいと仰るなら、ご連絡ください。(当然のことですが、全部中国語。しかも著者の皇甫江先生の知的レベルが高く、専門用語満載で、辞書にも載っていない文字がじゃんじゃん出ていますけど…)
あまり日本にはこの種のことで正確な情報が入っていないと感じています。とても残念なことですが…
よろしくお願いいたします。
投稿: 偶然屋さん | 2009年5月18日 (月) 11時52分
僕 一冊 持てる。もう売り切った。
投稿: 西門 | 2009年9月 3日 (木) 13時34分