めっきり秋らしくなりまして、朝晩は寒いくらいの時もありますな。こういう時期には熱燗でキューっと、なんてとてもよろしいようで。秋は読書の秋と言われるそうですが、やっぱり夜が長いから? でも現代は夜も明るいので、結構外で遊べますけどね。
私の住んでいるあたりは、夜になると人通りも少ないので(まだ。近隣に大型電気店などなど、大型店舗がやってきていますので、夜10時くらいまではまだ明るいところもありますが)、もうおんもで活動する気にはなれません。
夜は一杯やりながら、読書。これは学生時代から続いている私のライフスタイルでございます(このごろはDVDを見ていたりしますが。なにしろ海外で書い溜めたものが多く、なかなか見終われない)。まあ、これが今のところ、一番のんびりした時間かな(学生時代からそう感じでおりましたから)。
ということで、久しぶりの『戦国の竜虎』でございます。前章で孫臏(そんびん)の「以逸待労」の計で完膚なきまでに叩きのめされた龐涓(ほうけん)が、どのような策に出ますことやら……
* * * *
『戦国の竜虎』・41 ~第九章 無中生有(1)~
【1】真相露見
鐘離秋(
しょうりしゅう)が夫の衣服を縫っていた。夫の公孫閲(こうそんえつ)は外出している。前の負け戦から帰宅して、彼女の夫は代わらず優しかった。最初は夫に冷たかった彼女も、最近は公孫閲の、どこまでも彼女に対して優しくあろうという態度に、少しずつ凍っていた心も溶け始めていた。彼女の心の中心を占めているのは、相変わらず孫臏だったが、公孫閲の存在も容認し始めているのだった。
そこへ唐突に二人の兵士が入って来た。鐘離秋は顔を上げて彼らを見る。彼らはきわめて事務的な口調で、用向きを伝える。
「鐘離秋、龐元帥が元帥府にお越し願えまいかと仰っておられます」 鐘離秋は理由を尋ねた。
「龐元帥が? 私などに何の御用でしょう」
「我々も知らされてはおりません」 鐘離秋は針仕事に戻ろうとした。
「用向きも定かでないようなことに、私は参りません」 彼女は龐涓の謀士、公孫閲の妻である。いかに元帥府につめる者とはいえ、一介の兵士が気安く口がきける存在ではない。だが二人の兵士はその言葉を聞くと、強引に彼女の両腕を捉えた。それは罪人を連行するのと同じであった。
「来ないといわれようが、来ていただく」
「何をする、無礼な。この手を放しなさい! 私は行かない」 暴れて抵抗しようとするが、大の男二人に両側から腕を捉えられては、ろくに抵抗することもできない。そのままほとんど引きずられるようにして連行される。
「理由はすでに申しております。元帥がお呼びです。これ以上の理由が必要ですか?」 口調は丁寧だが、兵士達の行動には、有無を言わさない強引さばかりが目だった。
「この手を放しなさい! 何をするの?」
公孫閲の住まいと元帥府はさほど遠くない。すぐに彼女は龐涓の前に引きずり出された。兵士達は彼女を龐涓の前に突き出す。
「元帥、ご命令どおり、鐘離秋を連れて参りました」 突き飛ばされたひょうしに転んだ鐘離秋は、膝のほこりを払いながら立ち上がる。背中を向けていた龐涓が、ゆっくりと振り返った。
「うむ。下がっておれ」 龐涓は兵士を下がらせると、塵を払っている鐘離秋を見据えて言った。「鐘離秋、わしがなぜそなたを呼びつけたか、わかるか?」
「わかりません」 彼女は龐涓の顔を見もしないで答える。
「そなたの姉は斉におって、わしに生き恥をかかせてくれた。わしには人前に出せる面もなくなってしもうたわ」 自尊心の強い龐涓にとって、四カ国の兵士や将軍たちが見守る中での恥辱は、死んでも忘れられそうもなかった。
「それは姉がやったこと。私には何の関係もございません」 鐘離秋は顔を上げ、まっすぐに龐涓の目を見ながら言い放った。
「本当に関係はないのか? お前達が孫臏を逃がしたのであろう? でなければ脚の悪い奴が斉になど逃げられるはずがなかろう? そして孫臏はお前の姉を使って、わしに恥をかかせた」 これは龐涓としては最も持ちやすい考え方である。
「私は孫臏を逃がしてはおりません」 彼女の答えていることは事実だった。だが龐涓にそれを信じろというのは難しかった。
「お前でなければ、他の誰が逃がしたと言うのじゃ?」
「知り
ません」 本当は知っていた。彼女は自分の夫の公孫閲と、姉に斉から使者として魏に来ていた禽滑(きんかつ)が協力して彼を斉に連れ出したことは、姉から聞かされて知っていた。龐涓は彼女のほうに歩み寄った。
「まさか… 公孫閲ではあるまいの?」 これはかねてより龐涓が疑っていたことである。公孫閲のような有能な男が、よほどの隙を見せない限り、孫臏が脱出できるはずがない。だがもしも彼が何らかの理由で孫臏脱出に協力したと考えれば、簡単に脱出することができたであろう。
「違います。彼ではありません」 鐘離秋はあれほど嫌っていたはずの夫を庇った。決して彼女が望んだ結婚ではなかったが、夫はなかなか心を開こうとはしない彼女に対して、いつも精一杯の献身な愛情を注いでいた。情が移らないはずがなかった。
「彼でなければ、誰だというのじゃ?」 龐涓はなおも詰問した。
「知りません。知るわけがないでしょう!」 鐘離秋はきっぱりと答えた。だが龐涓もそんな言葉を信じるようなやわな男ではない。
「鐘離秋、どうしてもお前が真実を語りたくないというのなら、わしにも考えがある」 龐涓はくるりと背を向け、喋り続けた。「お前を兵士達にくれてやって、彼らの思うようにさせてやってもよいのだぞ。わしが言っておることの意味がわかるか?」 彼は恥知らずなことを口にしていた。それが鐘離秋の心の怒りを爆発させた。彼女はつぶらな瞳で龐涓をにらみつけた。
「お前など、死んでしまえ!」 だが龐涓はその言葉に答える代わりに、兵士を呼んだ。
「誰か!」 その言葉に先ほど彼女を連行してきた兵士が「ここに!」と返事しながらすぐに現れる。「この女を軍営に連れてゆけ! 兵士どもに、好きにさせろ!」 両側から兵士が彼女の腕を捉える。
「お前…!」 怒りのあまり、鐘離秋の口から、続く言葉が出てこなかった。彼女を連れて行こうとする兵士達に抵抗して暴れるが、兵士達の力は彼女よりもはるかに強かった。彼女には振りほどくことができない。
「放して! 放してよ!」 喚きながらも連れていかれそうになる。鐘離秋は諦めた。「わかったわ。言います。言うから放して」 龐涓も馬鹿ではない。もしも彼女を兵士たちの慰み者にすれば、まず夫の公孫閲が黙ってはいないだろう。そして彼女も永遠に口を割ることはないだろう。すべては龐涓の望んでいない方に動き出す。だが鐘離秋に何かを喋らせるには、死ぬことよりも嫌な罰をちらつかせるしかなかったのである。
「放してやれ」 鐘離秋は両腕を掴んでいた兵士の腕をふりほどくと、再び龐涓の前に立った。すでに彼女の心は決まっていた。すべて自分がかぶって死んでやろう。生きていても二度と孫臏と幸せな生活が送れるとも思えなかった。自分一人が罪をかぶることで、他の人間を生かすことができるのなら、ろくに楽しいこともないこの世にいる意味もなかった。ましてや自分が愛してもいないのに、それを知っていながら献身的に愛してくれている夫を道連れにする気などなかった。
「孫臏を逃がしたのは、私です」 彼女は小声だが、しっかりとした口調で言った。
「他には?」
「姉と一緒に逃がしました」 自分と今は斉の孫臏のもとにいる姉の仕業にしておけば、他には累は及ばない。今まで頑として口を割らなかったわりにはあまりに素直な答で、龐涓には信じられなかった。いかに鐘離春(しょうりしゅん)が手伝ったとは言え、あれほどの厳重な警備の目を盗んで、大の男を逃がすことがそんなに簡単とも思えなかった。重ねて詰問する。
「お前達二人だけなのか?」
「そうです。私たち二人で、まず彼を私たちの家に隠し、それから彼の衣服を川辺に捨てました。そして騒ぎが収まるのを待って、姉が彼を斉に届けたのです」 覚悟を決めた彼女は、龐涓の鋭い目線をものともせず、真っ直ぐに彼の目を見ながら話していた。
その彼
女の頬を、怒りにまかせた龐涓の平手が襲った。その勢いに彼女は壁際まで吹っ飛んだが、龐涓の顔を見据えると喋り続けた。
「叩きなさい! 私を叩き殺しなさい! でも私の仇は孫先生が打ってくださる。お前では孫先生には絶対に勝てない。どうせ彼に殺されるんだ!」 最後の方は龐涓を嘲笑していた。それを見て龐涓の怒りが爆発した。
「この女を連れて行け! 斬首の上、晒せ!」
「はっ! 来いっ! こっちへ来るんだ!」 二人の兵士は彼女を引っ立てて行こうとした。だが彼女の口からは龐涓を罵る言葉が、奔流のようにあふれ出していた。
「お前など死んでしまえ! 死ね、龐涓! 孫先生に殺されるんだ! あっはっは……」
連行されながら鐘離秋は喚き続けていた。その姿を見送りながら、内心龐涓は思っていた。ちがう、まだこれは真相ではない。これは彼女が一人で罪をかぶって、真相を隠そうとしているだけだ、と。
* * * *
その頃彼女の家では、気の利いた銅鏡を手にした公孫閲が彼女を探していた。この時代の鏡は銅を磨いて作ったものである。鏡は容姿を映すだけでなく、魂まで映すといわれた超貴重品であったが、公孫閲は愛する妻を喜ばせようと、今まで鏡を捜し求めていたのであった
。彼の妻は彼が知る限り最も美しい女であった。ちなみに我が国で有名な、邪馬台国の女王、卑弥呼に青銅鏡100枚が贈られたのは、この時代から600年も後のことである。
「おまえ、おまえ……」 あちこちと探して歩いたが、見ると鐘離秋が縫っていた彼の衣服が、床の上に投げ出されたままになっている。それを拾い上げた公孫閲の脳裏を、一つの疑念が駆け抜けていった。
鐘離秋は床の上に縫いかけのものを投げ捨てていくような女ではない。では誰かに連れ去られたのだ。誰が? 公孫閲はその時、斉から引き揚げる馬車の上で会話したときの龐涓の、疑念に満ちた顔を思い出していた。あれから斉に引き返し、孫臏の「以逸待労」の計に敗れなければ、彼の罪は許されていただろう。だが結果は大敗を喫してしまった。そうなれば、誰が敗戦の原因を作ったかという問題に発展する。
孫臏の世話をしていたのは鐘離秋である。そして彼を愛しさえしていた。一番に孫臏逃亡を疑われるのは、彼の妻である鐘離秋ではないか。まさか……
公孫閲は衣服を投げ捨てるようにおくと、表へ駆け出していた。
* * * *
公開処刑が行われる広場に、断頭台を前に、後ろ手に縛られた鐘離秋が座らされていた。断頭台とは
いっても、後の西洋のギロチンではない。ただの巨大な木でできた台である。その上に罪人を押さえつけ、その首を砍刀という、中華包丁を長くしたような刀で落とすのだ。周囲を10名以上の兵士が囲い、朱色の服を着た執行官が二人立っていた。
「あんな可愛い娘が、可哀想に……」
「何をやらかしたんじゃ?」
「謀叛の罪らしい……」 都の人々も集まってきており、ざわざわと噂しあっていた。この時代は大罪を犯すと公開処刑されるのが一般的だった。公開することで、その悲惨さを多くの人が目にする。それを見て怖気づけば、そういう人たちは罪を犯さなくなる。見せしめという力の理論だったが、現代のように法が整備される前の時代に、一定の効果が上がっていたのもまた事実であった。
群集は次第に増え、ざわめきが大きくなる。その中でひときわ大きな声で、指揮官が命令した。
「時間である。やれっ!」
一人の兵士が彼女を断頭台の上に押さえつけた。覚悟を決めた鐘離秋は抵抗もせずになすがままになる。見物人たちにも興味はあるものの、
気の毒そうな表情が広がる。自分が死ぬことで全てが円く収まればそれでいい。私は生きるのに疲れた、そう感じて諦め切っている鐘離秋の顔は、蒼白ではあるもののあまりにも堂々としていた。
執行官が首切り刀を振り上げる。そのときである、群集の間を風のように駆け抜ける、一人の男の姿があった。公孫閲である。彼は大きく刀を振り上げた執行官めがけて飛鳥のように飛び上がった。そして肩口あたりに強烈な蹴りを入
れる。執行官は吹っ飛び、指揮官と公孫閲を見る。
「何やつ!」 遅ればせながら警護の兵士達が矛を構える。
「公孫先生、あなたでしたか?」 指揮官の呆れたような言葉が漏れる。指揮官の声に、全てを諦めきって断頭台の上に身を横たえていた鐘離秋が身体を起こした。
「あなた……やっぱり来たのね… 私一人で全部かぶって死ぬつもりだったのに……」 彼女の目はあきらかに夫にそう告げていた。だがそれを見て公孫閲は指揮官に申し込んだ。
「ちょっと待っていてくだされ。私が元帥に会って、申し開きをしてきますので」 そう言うと彼は再び駆けて行った。その後ろ姿を見送りながら、鐘離秋は心の中で思っていた。私を救うということは、あなたが死ぬということなのよ。それでもあなたは行くのね。私が一人死んでいけば、何もかも円く収まるのに……
だがこの妻を深く愛している男には、妻のためになるのなら、自分の生命など何とも思っていなかったのである。
* * * *
公孫閲は龐涓に、鐘離秋の助命嘆願をしていた。龐涓は彼に喋りたいだけ喋らせておいていた。彼の最初の読み通り、公孫閲が加担していたのは間違いないところだろう。それを確かめるためにも、彼の助命嘆願をすぐに聞いてやるつもりはなかった。
「あの女は孫臏を逃がしたのじゃ。生命を助けるわけにはいかん!」
「彼女が逃がしたわけではありません」 公孫閲はことここにいたっては真相を話さないわけにはいかないと覚悟を決めていた。彼は龐涓の前に跪き、顔を伏せたまま答えていた。
「あの女と、姉の鐘離春が孫臏めを逃がしたのじゃ」 それは鐘離秋が言ったのと同じことである。だが公孫閲は顔を上げ、まっすぐに龐涓の目を見ながら、真実を話そうとしていた。彼にとっては彼の持っているすべてのものが、鐘離秋のためのものだったのである。
「元帥、本当のことを申し上げます。孫臏を逃がしたのは私でございます。私は鐘離秋を心から愛しております。彼女を私のものとするためには、孫臏に魏にいてもらっては困ったのです。それで彼を斉に逃がしました」 彼の本心だった。そのために龐涓を裏切ることになったのだが、彼は悪びれないで話していた。だがそれは龐涓には理解しにくいことだった。
「たかが女一人のために、自分の一生をぶち壊すのか? あの女に、それほどの値打ちがあるというのか?」 怒りのあまり、怒鳴り声になるのを抑えられない龐涓の目を真っ直ぐに見返しながら、公孫閲は臆することなく答えた。
「はい。彼女は私の生命でございます。彼女がいなければ、私は生きているつもりはございません」 龐涓は公孫閲がむしろ淡々と答えるのを聞いて、この男は事実喋ったとおりにするだろうと悟った。
「わしがその方をどのように処罰しようと考えておるか、わかるか?」
「わかります」 龐涓のどのような言葉にも、公孫閲は眉ひとつ動かすことなく答えた。この男には、いつでも死ぬ覚悟はできていた。彼は天下無双の剣士である。剣士は戦う人間だ。戦う人間にとって、死はいつも隣にあるものだった。
「よし、わかった」 龐涓は跪いたままの公孫閲を見下ろしたまま言った。「誰かおるか?」
「元帥!」と答えながら衛士が入ってくる。
「執行官に伝えよ。鐘離秋を放してやれ」 衛士が返事をしてすっ飛んでいくのを見て、公孫閲の顔に安堵の色が広がった。そしてすぐさま抱拳の礼をして、龐涓を見上げる。
「ありがとうございます」 礼を言う公孫閲に、龐涓は重ねて短く言った。
「立て」 公孫閲の顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。鐘離秋は実際に孫臏を逃がしていないのだから、罪は許されるかもしれない。だが自分は国家反逆罪と、龐涓を裏切るという二重の罪を犯
している。どう考えても死罪は免れないところだった。
「私を殺さないので?」 公孫閲は不思議そうな顔になる。だが龐涓は厳しい表情を崩さず、彼に申し渡した。
「公孫閲、わしはその方に孫臏を殺すことを命ずる」 公孫閲は再び、頭を垂れた。
「ありがとうございます、元帥。この公孫閲、元帥のためなら、火の中でも水の中でも喜んで赴く所存でございます」 公孫閲は思いつめた表情で答えた。龐涓には流浪の身を拾ってもらった。以後何度となく、世話になってきている。なおかつ今また反逆の罪を許されたのである。彼が感激したのも無理はない。だが龐涓にも、さらに厳しい要求があった。
「ただし条件がある。その方、自分の手を汚してはならぬ。別人の手を借りて彼を始末するのじゃ」 ただ許されただけでは、公孫閲には負い目が残るだけである。だからそれに応えるには、難題を与え、それを見事達成させればよい。
お金を払わないのにものをもらえば、それは施しを受けたことになってしまう。相応しい対価を支払えば、とれは対等の商取引となる。そして貴重なものを買うときには、大枚をはたかねばならない。龐涓は公孫閲に大枚をはたかせようとしていたのである。
龐涓は公孫閲という男が好きであった。それは自分の部下として優秀だったからだけではない。人間として、自分とは全く異なった価値観を持って身軽に動いている公孫閲に好意を持っていたのだ。彼を失うことなど、龐涓はほんの僅かも考えたことはない。だから彼が見事任務を果たしたあとには、何の負い目もない状態にしたかった。
事実、公孫閲にとっては、自らが赴いて孫臏を暗殺するほうが簡単であったろう。だが龐涓はそれを禁じた。公孫閲の技量はよく知っている。おそらく謀略を駆使するであろう。それによって斉の国内が混乱するという期待もあったし、その後の戦国の流れにも大きな影響を与えるはずだ、という読みがあった。
「どのようにいたせばよろしゅうございましょうか?」 公孫閲は尋ねた。
「今日のことはすぐに大勢に知られてしまうじゃろう。わしはその方の妻を殺そうとした。そこでそなたは妻を殺されそうになったことを口実に、斉に亡命するのじゃ。妻の生命を狙われたと言えば、斉でも信用されるに違いない。斉に到着したら、相国の鄒忌(すうき)を訪ねよ。そして鄒忌の信任を得るのじゃ。鄒忌と田忌、孫臏は勢力争いをしておる。鄒忌の手を借りて、孫臏を片付けるのじゃ」
こうすれば斉国内で人材どうしのつぶしあいが起こり、斉自体が弱体化していく。そのための工作全般を公孫閲にやらせようというのが龐涓の考えであった。鐘離秋を殺そうとしたことから、一つの流れができようとしていた。兵家の真骨頂とは、発生したある事象を活用して、様々な策を展開していくところにあった。
「よろしゅうございまする」 暫く龐涓の目を真っ直ぐに見返していた公孫閲が、静かにだが、きっぱりとした口調で答えた。彼は龐涓の命を命がけで果たそうと決心していた。
(つづく)
* * * *
【第九
章に登場する主な人物】
孫臏(そん・びん):斉の軍師。『孫子の兵法』を著した孫武の曾孫。鬼谷子のもとで兵法を学び、鬼谷子よりただ一人、『孫子の兵法』を授けられた。それを嫉妬した龐涓によって魏に誘い出され、『孫子の兵法』を奪うために臏刑(膝蓋骨を削られる)に処せられる。
狂人のふりをして魏から斉へ逃れ、田忌大将軍の謀士、斉軍の軍師として、龐涓を桂林の戦い、四カ国連合軍の斉攻撃、その帰りの魏軍の攻撃などで破っている。
龐涓(ほう・けん):魏国の元帥。鬼谷子門下では、孫臏と双璧と呼ばれた秀才であった。鬼谷子が自分が望んだ『孫子の兵法』を、自分には「ない」と騙しておきながら、孫臏にだけ授けたことに嫉妬して、孫臏を魏に呼んで謀にかけた。
軍事にかけては魏の圧倒的な国力を背景に、力と謀略両方の外交を行っているが、斉に孫臏が逃れ、軍師となっていらい、3度戦って3度とも敗戦の憂き目をみている。
公孫閲(こうそん・えつ):龐涓の謀士。剣の達人。もとは斉の出身であったが、田氏が姜氏から王位を簒奪したことにより、斉を出奔した一族の子孫。
鐘離秋を心の底から愛し、鐘離秋が孫臏から心を動かさないのを見て、孫臏を魏から逃がす工作をする。結果、鐘離秋と結婚できたが、今は斉に逃げた孫臏に敗戦した龐涓によって疑われている身の上である。
鐘離秋(しょうり・しゅう):田氏による斉の王位簒奪の時、魏に逃れてきた一族の姉妹の妹。孫臏を愛していたが、孫臏は魏から脱出するため彼女をも騙す。
彼女は孫臏を逃がすため、公孫閲に嫁いだが、毎日の暮らしの中で満たされないものを感じている。鐘離春の妹だが、姉と違って武術の心得はない。
鐘離春(しょうり・しゅん):鐘離秋の姉。女性ではあるが将軍に憧れ、兵法を好む。剣の腕も達人である。
孫臏を魏から脱出させ、彼の護衛をしているうちに次第に彼に惹かれていく。鐘離姉妹は一途さという共通点を持っているが、大変に勝気なうえ、大変な短気である。
禽滑(きん・かつ):田忌の謀士。墨子のもとで学ぶ。弁舌爽やかにして、頭脳明晰な男で、孫臏救出のため、魏に使いをしては龐涓に気に入られ、自分の幕下に加わらないかと誘われるほどであった。
鐘離春に一目ぼれしているが、鐘離春は孫臏以外眼中になしという態度なので、悩んでいる。
鄒忌(すう・き):斉の相国。実は功臣であったが、田忌の発言力が強くなるにつれて、嫉妬し、彼との勢力争いに狂奔するようになる。孫臏が田忌の幕下に加わってからは、彼の勢力は押されがちになり、先の四カ国連合軍に攻め込まれたときに、孫臏を人質に出すことに賛成したため、その後の魏の侵略の前に、「命に不服従」という理由で、さらし者の刑に処せられ、田忌、孫臏との不和が決定的になっている。現在は斉の朝廷内での勢力回復に腐心している。
田忌(でん・き):斉の大将軍。
斉王の一族にして、軍事を一手に司る。当初は何度か龐涓の魏軍に敗れたが、孫臏を得てからは無敗である。豪放磊落のように見えながら、その実、繊細な男であり、孫臏を尊敬して師事している。
鄒忌とは鄒忌が文官のトップ、彼が武官のトップということで、なにかと張り合うことが多いが、田忌が斉のこと全体を考えて発言することが多いのに対し、鄒忌は己の勢力拡大のために動くことが多い。本章では彼による大規模な軍事活動は、残念ながらない。
田国(でん・こく):斉の若手の将軍。
斉王の一族にして、勇猛果敢な将軍。最初は孫臏のやり方に反抗し、罰棒の刑を受けたりしたが、そのあまりに見事な用兵に感動し、今や孫臏を崇拝するまでになっている。
先の四カ国連合軍による斉攻めの時には、鐘離春と、敵軍の真っ只中で龐涓を捉えるという離れ業を成し遂げた。
斉の威王(せいのいおう):田氏斉第三代目の王。(一番右)
文人王で臨淄に文人を集め、斉の文化を高からしめた王。軍事には疎く、田忌や孫臏を困らせることもしばしばである。本章では度量の大きなところを見せそうになるが……
易者(えきしゃ):斉の臨淄の街角で易を立てている老人。
その易は非常によく当たり、斉の大夫たちは、重要なことの決定にはすべて彼に占わせる。今回は何も知らない彼を巻き込んだ謀略が展開され、知ってはならぬことを知ってしまう。
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