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2009年7月31日 (金)

『戦国の竜虎』・54 ~第十一章 趁火打劫〔4〕 田忌の帰国~

 大切な人を残して、自分ひとりだけ帰らなければならなかったことがある。海外へ行くと、どうしてもチケットの関係で、こういったことが起こるのだが、きっと我々の父母や、それ以上の世代には、こういった体験をされた人も少なくないのではないだろうか。

 日本が今のように平和ではなかったころ(私は今でも乱世だと思っているけど)、やむなく大切な人と別れなければならなかった人たちが、たくさんいたのではないかと思う。今の平和な世の中でも後ろ髪を引かれるわけだから、当時の人たちの思いはいかばかりだったであろう。今のように、ジェット機で一ッ飛びという具合にもいかなかっただろうし。

 人は出会いと別れを繰り返す。その中には、嬉しい出会いもあれば嫌な出会いもある。嬉しい別れもあるだろうし、哀しい別れもある。それが結果的にひと時の別れでしかなかったとしても、その時に人がどう感じるか。それは人と人の付き合い方によって決まるのではないだろうか。

 孫臏(そん・びん)は田忌(でん・き)を帰国させることを条件に、『孫子の兵法』を書くと楚王に約束する。その時の両者の思いはいかばかりであったろうか。というわけで『戦国の竜虎』その第54回目の始まり、はじまり~

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・54 ~第十一章 趁火打劫〔4〕 田忌の帰国~

【4】田忌の帰国

 賓舎に移されたものの、孫臏と田忌は居心地がよさそうではなかった。特に113田忌の顔は冴えなかった。寝台の上に腰をおろそうと、塵を払う孫臏を見て、田忌は小走りで駆け寄って来た。田忌は孫臏の脚を気遣い、寝台の上に両足を上げてめくれた衣のすそを直す。孫臏は田忌の気遣いをさらに気遣った。

「将軍、どうかもうお休みください。明日はいよいよ斉に帰国の旅ですぞ」 田忌には孫臏を気遣う気持ちが強かった。自分は斉に帰れる。だが自分だけが帰ることに対する後ろめたさもあった。

「田将軍、あなたは斉の千軍万馬を統率されるお立場ですぞ。そのためにも、もっとご自分の身体を気をつけられたほうがよいと思います。どうか私に構わず、お休みください」 だが田忌の思いは違った。

「先生は簡単に仰るが、わしは一時でも長く、先生とおりたいのじゃ」 確かに孫臏を田忌の関係は単純な軍師と将軍の間柄ではなかった。田忌は誰よりも孫臏を信頼していたし、尊敬もしていた。単なる門客と主人ではなく、むしろ孫臏が師匠で田忌が弟子といったふうにも見えた。

「困りましたなあ。私はもう寝ますぞ」

 孫臏は孫臏で、何とか田忌を休ませようとしていた。だが田忌は寝ていたくなかったのである。楚王や史皇大夫の肚はわかっている。斉と同盟を結んだとは言っても、根本的に楚は敵国であった。自分一人が斉に帰って、脚の不自由な孫臏を一人、楚に残していかなければならないことが情けなかったのである。

「どうぞ。遠慮なく先生は寝てくだされ。わしは先生が寝ているを、ここでこうして守っておる」 そういえば斉から楚に来る道中もそうであった。刺客を用心して、こうして田忌は寝ずの番をしていたのである。孫臏は田忌を見て笑った。笑うことで田忌を安心させようとしていた。

「将軍、もう刺客はおりませぬぞ。見張りの必要はございません。どうかお早くお休みください」 田忌がぼそっと言った。

「今となっては、刺客にいてもらいたいくらいじゃ」

 その言葉が終わるか終わらないかという時に、部屋の外に人の気配を感じて、孫臏は叫んだ。

「誰だっ!?」

「あたしだ。鐘離春(しょうり・しゅん)だ」 短い答が返ってくる。

「鐘離春! おお、早く!」 慌てて孫臏は寝台から降りようとする。田忌は入り口へ走った。孫臏は杖を取ると、もどかしそうに戸口へ急いだ。

「鐘離春!」 田忌が彼女を部屋へ通す。彼女は男装はしていなかったが、手には剣を持っていた。

「さあ、これからあたしについておいで」 彼女が低い声で言った。

「どこへ?」 大柄な田忌が覗き込むようにして尋ねる。

「あたしについてくれば、ここから逃げられる」 彼女は飲み屋で龐涓(ほう・けん)の従者と楚国の宮衛が話しているのを耳にし、すぐに彼らが逃げられるように準備をしていたのである。

「本当か?」 鐘離春は頷く。

「腕利きの命知らずを何十人も雇った。彼らが逃亡を手助けしてくれる」 

「そんなことができるのか?」 田忌は尋ねたが、彼女は自信満々であった。実は楚は彼女が剣の修行をしてあるいた国であったのだ。その時知り合った男達は、彼女のためにいくらでも力を貸してくれる。侠の精神で彼女とその命知らずたちは結ばれていた。

「大丈夫」

 田忌は思わず孫臏の方を向いた。その顔には「先生、一緒に逃げませぬか」と書いてあった。彼は孫臏と一緒の帰国を一番に考えている。鐘離春の話はまさにわたりに船だったのである。

「先生、どうじゃ? 彼女の言うことを聞いてみぬか?」 だが予想に反して孫臏は彼女の申し出を拒絶した。

「それはできませぬ。我らは今動くべきではございませぬ」

 鐘離春が呆れるやら、腹が立つやらという顔をした。

「何をバカなことを言ってるの? 龐涓が来ているのよ! 殺されてからでは遅いのよ!!」 この期に及んでも孫臏はまだ自分の計算にこだわっていた。それは彼を愛してやまない鐘離春には理解できなかったし、田忌にもわからないことだった。

「龐涓は私を殺せないだろう。楚王は『孫子の兵法』を欲しがっているからな」 言ってしまえば、孫臏の生命は、楚王の欲望の強さにかかっていたのである。ただ孫臏は楚王を、物欲が強く、我が強い俗物と見ていた。楚王が彼が見たとおりの男であれば、彼の生命は守られるはずだ。

 だが鐘離春は孫臏の、そんな落ち着き振りが気に食わなかった。彼女の性は火であり、孫臏の本性は水である。あの殺された易者の言ったことは正しいのだ。

「楚王は信用できない男だよ。あんたが兵法を書き終わったら、龐涓にあんたを渡して、それでおしまいさ。そうしたら兵法は手に入る。龐涓には恩をかけれる。あんたとの約束なんか守るはずがないんだよ! 先生、早く逃げなければ!!」

 田忌も彼女に同調した。懇願するように孫臏に言う。

「彼女の言うことは間違っておらぬ。先生が兵法を書き終わったら、解放などするものか。今一緒に逃げるんじゃ」

 だが孫臏はあくまで楚王との約束に拘っていた。それは国交を考えた場合の王道である。だが同時に人間臭さを感じさせないほどであった。

「将軍、楚王はすでに将軍の斉帰国を認めております。もしここで我らが逃げたりすれば、楚王はどういう手を打つでしょうか? 我ら両名とも斉には帰れなくなりますぞ」

 一国の使者が結んだ約をたがえるとなると、国交がおかしくなる。楚としては斉に難癖をつける格好の材料を手にいてることになるのだ。すると斉に帰れば斉に迷惑がかかる。鄒忌(すう・き)らはますます彼らに策を講じやすくなる。確かに田忌と孫臏にとって、好ましい状況へとはつながらなかった。

「そんなことはない。あたしたちと一緒に、ここを出ればよい」 鐘離春はそこまでは深く考えていなかった。彼女は素晴らしい人物だったが、感情が勝ち、深く物事を考えるのが苦手という弱点があった。

「鐘離姑娘、あなたの行為は大変に有難いと思う。だが楚国はあまりにも広い。楚軍が沿道を固めたら、翼を持った鳥でさえ、この国から脱出するは難しかろう」

 孫臏は鐘離春を宥めるように言った。

「ここから逃げないということは、ここで死ぬということだよ。それでもいいんだね?」 鐘離春の言葉も脅迫めいてきた。しかしそれがまた現実であるとも言える。

「私はここで死ぬつもりはない。時機を待っているだけだ」 孫臏は答えたが、脚の不自由な孫臏が一人で時機を待っていると言ってみても、いざという時に動けるかどうかがわからなかった。

 好機というものはある。だが好機を活用して突破口を開けるのは、すでに準備ができている者だけである。そして準備が完全であればあるほど、好機は増えてくる。さまざまな能力に優れている者ほど、多くのチャンスをものにできるのは、好機を捉えて自分の思うように動く能力があるからだ。脚が不自由というだけで、楚国からの脱出を考えれば、好機は減ってしまうのである。

「ふん。それならそうしなさい。あんたはここで好機を待つ。あたしはこれから田将軍と逃げる。それでいいわね?」 

 孫臏は反論した。

「だが、田将軍は逃げなくても、明日正式に帰国できるんだ」 その通りであった。楚王の約束である以上、少なくとも楚国領内での安全は保証されるであろう。鐘離春の護衛は必要ないのだった。

「あんたが言いたいことはつまりこうね。あたしがやったのは余計なことだと」 鐘離春は激高しかけていた。その時である。招かざる客の声がした。

「孫先生、開けてくだされ」

「史皇大夫じゃ!」 三人は顔を見合わせた。忍び込んでいる鐘離春が見つかれば大変な問題になる。なにしろここは楚王の賓舎なのだ。牢獄ほどでなくとも、護衛の兵士もいる。孫臏は鐘離春に奥の寝所を指差した。

「奥へ、早く!」 その間も史皇大夫の声がせっつく。

「孫先生、早く開けてくだされ」 

 史皇大夫の催促に、孫臏と鐘離春が奥の寝所に姿を消すのを確認してから、田忌が戸口に迎えに出た。閂をあけると史皇大夫のいけ好かない顔がぬっと入ってきた。

113_2 「田将軍、今、孫先生はどなたと話しておられたのございますか?」

「わしとじゃ。積もる話もあるからの」

「違いますな、あなたの声ではなかった」 史皇大夫は部屋の隅から隅まで目を配る。そして奥の寝所へ入ろうとした。田忌は慌てて巨体を奥の間と史皇大夫の間に滑り込ませ、入らせないようにする。

「史皇大夫、入ってはならん」 田忌の顔に笑みが浮かぶ。彼も演技しているのだ。何しろ中には孫臏が女と一緒にいるのだから。

「見られとうないものでもございますのか?」 だが田忌はここでも演技を続けた。

「ない。ただ孫先生は寝ておられる」 笑いを浮かべたまま田忌は答える。もちろん史皇大夫がそんなことを信じないのを承知の上で言っているのである。

「ふん。田将軍、嘘はいけませんなあ。彼は今しがた、確かに誰かと話しておった。こんなに短い間に寝てしまうということはありませんな」

 田忌の横をすり抜けるようにして置くに入ろうとする。そうはさせじと田忌が動く。そうしているうちに、当の孫臏が奥から出てきた。

「史皇大夫、あなたの仰るとおり、私は寝ておりませんでした」 笑顔で答える孫臏を見て、史皇大夫もいつもの顔に戻る。だが質問は変えない。

「孫先生、奥におられるのは、どなたでございますか?」

「どうしてもお知りになりたいのですか?」 孫臏は平然と史皇大夫の前を通り過ぎながら聞いた。

「私は我が君より、お二方の安全を守るように言いつけられております。お二方に関係するすべての人間は把握しておかなければなりませぬ」 いつの時代でも似たようなものだが、自分が正当な義務を遂行しているように言えば、大抵の無礼は許されるものだ。

「もしも私が、嫌だと言ったら?」

「それならば兵を呼ぶだけでございます」 いつもへらへらとお愛想笑いばかり浮かべている史皇大夫の本性はこんなものだった。歩く笑裏蔵刀といったところだ。

「この嘘つきが!」 田忌がいつもの表情に戻って、吐き捨てるように言った。

「私は自分の職務に忠実に行動しておるだけでございます」 まさに蛙の面に小便である。

「史皇大夫、そうまで仰るなら仕方ありませんな。どうぞお入りください」 孫臏の許しが出たので、史皇大夫は勇んで入ろうとした。それを孫臏は止める。

「あ、ちょっと待ちなさい。私にも条件がございます」 何事を応諾するときにでも、見事なくらい条件や要求を突きつける。孫臏のこういった呼吸は見事であった。

「ふん。どうぞ」

113_3  「ここで見たことは、どうぞ、ご内密に願いたい」

「ははあ、それは大丈夫でございますよ」 何が大丈夫なものかと田忌は思った。この男、事と次第によっては、言いふらすに決まっておる。第一それは史皇大夫の顔に張り付いたへらへら笑いが、「私を信用してはなりませんよ」と雄弁に物語っていた。田忌はさらに身を割り込ませ、彼を寝所にいかせないようにした。

「田将軍、史皇大夫を行かせてあげてくだされ」

 孫臏は田忌を促した。仕方なさそうに田忌は道を開けたが、心配そうな表情で孫臏を見た。

 派手な動作で史皇大夫が帳を跳ね除ける。そして中をのぞいた彼の目に見えたのは、孫臏の寝台の113_4上に悩ましく身を横たえた妙齢の女性の姿であった。女は史皇大夫の方をちらりと見て「うふん」という声を立ててみせる。史皇大夫も思わず喉をごくんと鳴らし、ついでつられたように引きつった笑いを浮かべた。

 寝所から出てきた史皇大夫は笑っていた。

「はははは… いやあ、孫先生といえども、聖人君子ではないということですな」

 成人男子が女性を求めるのは当たり前のことである。だが史皇大夫の言葉には、聖人君子面をしたお前でも女が抱きたいかといった揶揄が含まれていた。

「私は自分のことを聖人君子だなどとは一度たりとも申しておりませんぞ」 孫臏もしゃれっと答える。

「以前、私どもがあれほど大勢、美人をあてがいましたおりには、一人としてお眼鏡にかないませんでしたのに…」

 以前歓待したときには、公認で女遊びができたのに、づして今頃、密かに女を抱くのかというのである。だが孫臏はそれにはぴしりと答えた。

「私は他人にあれこれと指図されるのを好みませぬ」 女の世話までしてほしくはない。自分には自分の好みがあるといっているのである。

「先生、あの女人をどこで手に入れられました?」 それこそが史皇大夫にとって最も重要な問題であるはずだったのだが、孫臏は言葉を濁した。

「それを調べることも、あなたの職務のうちに入りますかな?」 女をどこから手に入れたか? どこで知り合ったのかなどは、男としてあまり知られたくないことでもある。案の定史皇大夫も深追いはしてこなかった。

「いやいや、ちょっと聞いてみただけでございます。いや、まことにお楽しみのところ、しつれいいたしました。いやいや… なんとも、はや…」

 彼が深追いできない最大の理由は、やはり『孫子の兵法』にあった。機嫌よく書いてもらわなければならない。『孫子の兵法』が手に入るまでは、何でも言うことを聞けと楚王に言われていたこともあるが、彼が『孫子の兵法』を手に入れるという最終的な目的に忠実だからこそ、鐘離春の件はかえって問題にされなかったのだ。たかが女人一人という甘い読みもあった。

「史皇大夫、くれぐれも約束をお忘れなきよう」 孫臏が念を押す。

「わかっております」 言いながら賓舎を出て行く。その後姿を見送りながら、田忌が吐き捨てた。

「ふん。下劣な俗物めが!!」 そして孫臏の方を振り向く。

「孫先生、どうしたものかな?」 だが孫臏は落ち着いていた。

「大謀の前の小事は忍ばねばなりませぬ」 奥の寝所から服装を整えた鐘離春が出てきた。

「行くなら行く。残るなら残る。好きにすればいいけど、あたしを信用してないようだから、あたしは帰るよ」

 誇り高い彼女が、男の前で衣服の乱れた姿を見せるなどということは、考えられなかった。おそらく孫臏のためだと我慢したのであろう。でなければ史皇大夫を一刀のもとに切り捨て、そのまま遁走したかも知れなかった。それでも彼女を捕らえることはできなかったろう。

 彼女だけならいくらでも自由に動ける。動けないのは孫臏や田忌がいるからであった。だが今度は彼女は完全に自制していた。

「鐘離姑娘、あなたを信用していないなどと、言わないでくれ」 孫臏が慌てて言い訳をする。

「言い訳なんていらない。あんたの気持ちはわかってる。あんたはあんたの好きなようにすればいいのよ」

 鐘離春は、孫臏が寝言で彼女の名前ばかりを呼んでいた夜のことを思い出していた。あの夜彼女は決心していた。孫臏には孫臏の好きなように生きてもらおう。そして自分は生命をかけて彼を守るだけだと。

 だが孫臏はそんなことは知らない。かれが知っているのは、彼が易者の言葉を伝えたばかりに、彼女を傷つけてしまったことだけである。だから鐘離春の言葉は、孫臏には厳しく聞こえた。孫臏は母親に説教されている子供のように、黙って下を向いたまま立ちすくんでいた。

 鐘離春は声の調子を変えた。いつもの優しい声に戻っていた。田忌に向かって抱拳をする。113_5

「田将軍、明日はお見送りできませんが、道中くれぐれもお気をつけてお帰りください」

「おお、かたじけない」 田忌も抱拳で答える。その前を鐘離春は音もなく通り過ぎ、入り口から風のように姿を消した。

 田忌は少しだけ安心した。明日鐘離春が彼を見送らないということは、鐘離春はきっと楚に残って孫臏を守り続けるに違いない。彼女は今は表立って動くことはできないが、影が形に添うように、孫臏の傍に必ずいるのだ。

      *      *      *      *

 翌朝114は田忌の斉への帰国である。途中までは孫臏も馬車に添乗して見送る。後ろの馬車には史皇大夫が護衛の兵士と一緒に乗っている。田忌はほとんど言葉を発しなかった。そうしているうちにも、見送りの場所までやってきた。孫臏も田忌も馬車から降り、別れの挨拶をする。

「先生お一人をここに残していくには忍びぬ」 田忌は心の底から孫臏のことを心配していた。ここでの別れが今生の別れということになることもあるのだ。だが孫臏は田忌を元気付けるように明るく振舞っていた。

「ご安心ください。彼らは私をどうすることもできせんから」 後ろの馬車の史皇大夫たちの方をちらっと見る。

「それでも心配じゃ。鐘離春も言っておったが、『孫子の兵法』を書き上げても、楚王はやすやすと先生を解放してはくれぬじゃろうし…」 だがそれにも孫臏は自身がありそうに振舞っていた。

「手はあります」 田忌は女々しいほどであった。

「我らが二人おれば、何事であろうと相談することができた。じゃがこれからは先生お一人じゃ。膝のこともあるし。わしが何もしてあげられぬ…」

 田忌は漢(おとこ)として孫臏に惚れ抜いていた。いざとなれば自分ひとりでも孫臏を守り抜くといった気概を持っていた。だが今から孫臏は一人になってしまう。それを思うと、田忌のいかつい顔がゆがみ、涙がこぼれそうになるのだ。

「田将軍、ご心配召されるな。この私が孫先生のお世話をよく看させていただきます。何不自由なくお世話いたしますゆえ」

 いつの間にかやってきた史皇大夫が割って入った。もういい加減にして、さっさと帰れという督促であろう。田忌はこのへらへら笑いが顔に張り付いた男を嫌いぬいていた。お前が面倒を看るから、よけい心配なのじゃと、怒鳴りつけたくなるくらいだった。

114_2 「では将軍、そろそろお発ちください。家では皆さまが将軍のお帰りを、首を長くして待ち焦がれておられることでございましょう」 孫臏は田忌の肩を叩いて促す。

「孫先生、くれぐれも御身大切に…」 抱拳をして別れの挨拶をする田忌の声は震えていた。孫臏114_3はそれに頷いて答える。名残を振り切るようにして馬車に乗り込んだ田忌は、もう後ろを振り返らなかった。彼は涙を孫臏に見せたくなかったのである。

「出せ」 短く御者に命じる。御者は車を出した。

 遠ざかっていく田忌の、今まで見たことがないような小さな姿を見送りながら、孫臏は自分の表情も114_4厳しくなっているのに気がついていなかった。たった一人の盟友が去っていく。これから彼は楚で一人で生き延びていかねばならないのだ。

帰国する田忌は、帰国後もきっと鄒忌たちに対抗しなければならない。二人の男はそれぞれ別の地で、それぞれの闘いをしなければならなくなったのである。

                  (つづく)

      *      *      *      *

 さて、とうとう孫臏は一人っきりになってしまいました。彼の周りには『孫子の兵法』を狙う楚王、史皇大夫、龐涓がおります。いかに鐘離春がいるとは言っても、表には姿を見せることができません。さてさて、次回はどうなりますことやら。次回、第十一章の最終回、〔5〕趁火打劫の計にご期待くださいね。

2009年7月30日 (木)

『戦国の竜虎』・53 ~第十一章 趁火打劫〔3〕 駆け引き~

 空はもう真夏だよ。でも今一歩(昨年に比べると)気温が上がりきっていないような気がする(昨日は蒸し暑かったけどね。岡山では。トレーニング後、久々に身体が火照って、寝られなかった)。このあたりが気象台が「梅雨明け宣言」を出さない理由なのかもね。

 科学が発達しすぎると、分析が細かいところまでできるようになるから、「まあいいや。もうこの辺で梅雨明け宣言、やっちゃおう!」なんて具合にいかなくなるのかもね。でも自然界なんて毎年同じように変わっていくわけではないから、あんまり深く考えすぎないようにした方がいいと思うよ。

 もともと天気予報なんて、気象災害を逃れるために発達したものだから、災害にさえあわないのであれば、気象台の発表なんかに縛られる必要はないと私は思っている。勿論、私はさっさと真夏用の行動パターンに変わっているから、気象台の発表を「参考程度」にしか聞いていないので、問題はないんだけどね。

 そんなに気象台の発表に生活が左右されるのなら、「今日の気温は35℃を超えました。ただちに仕事も勉強も止めて、帰宅させなさい」なんてのがあってもいいんじゃないかな。でもほとんどそんなことはなくて、皆自己責任で健康管理をさせているじゃないか。こういうところは自己責任なんだから、事故にさえあわないんだったら、海水浴にでも何でも行ったらいいんじゃないかな。

 ということで『戦国の竜虎』第53回目でございます。楚の朝廷で楚王、史皇大夫(しこうたいふ)、龐涓(ほう・けん)、孫臏(そん・びん)入り乱れての駆け引き合戦が始まります…

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『戦国の竜虎』・53 ~第十一章 趁火打劫〔3〕 駆け引き~

【3】駆け引き

 龐涓が謁見の間を退出した後、宝玉の入った箱を抱えてでようとする楚王を押しとどめるように、史皇大夫が小走りにやってきた。

「大王112」 楚王はそちらを振り返る。

「なんじゃ?」 史皇大夫は息を弾ませて言う。

「孫臏を龐涓に渡してはなりませぬぞ」 楚王は今更何を言うかという表情を見せた。

「その方、孫臏がわしを補佐することを呑まねば、殺せと申しておったではないか。誰が彼を殺そうが同じではないか。人情を考えれば、龐涓に殺させてやった方が良かろう。こうしておけば、斉の怒りも余にではなく、龐涓に向かおう。さらに龐涓に貸しを作っておくも悪くはない」

 途中で何度も口を挟もうとしていた史皇大夫は、楚王が喋り終わったので即座に反論した。

「お待ちください。孫臏を龐涓が殺すのと、我々が殺すのとでは、まったく意味が異なってまいります」 史皇大夫は交渉を得意としている。そして孫臏を殺すことの、国家間に与える重大な影響を熟知していた。だが楚王はそこまでは難しく考えていなかった。

「孫臏が死ぬということについては、同じであろうが」 それはただの結果である。その結果をそれぞれの国が自分達に有利になるように解釈し、殺した後の国家間の関係が進展していくのである。

「大王、もしも誰か第三者が、大王が殺してしまいたい者を捕らえたといたします。大王はその第三者に余にも珍しい宝を与えて身柄を受け取り、これを殺すことができたら、腹の底から満足おできになりまするか?」

 普通はなんとなく釈然としないものである。だが楚王の価値観は、普通とは少し異なっていた。彼の宝玉を愛する気持ちは、常軌を逸していたのである。

「そやつの値打ちしだいじゃな。宝玉と比べてみなければわからぬ」 史皇大夫は具体的に話をしてみた。

「ではこの宝玉と孫臏を比べてみてくだされ。孫臏はこの宝玉よりも安うございまするか?」

 楚王は考えてみた。孫臏は稀代の兵家である。並みの男ではない。彼を手に入れれば天下をその手に収めることができる。天下に覇を称えることができれば、宝玉などは自然に集まってくるものである。大変俗物な考え方だが、それだけでも孫臏の値打ちの重さがわかった。

「龐涓は聡明な男にございます。損な取り引きは決していたしませぬ。私の見たところ、彼の真意は、それを知る者に百戦百勝を保証するという『孫子の兵法』を手に入れることではございませんでしょうか」

 なぜ龐涓は、このような世にも珍しい宝玉を持ってきてまで、孫臏の身柄を要求するのか。それは用があるのは孫臏の生命ではなく、彼だけが継承したという『孫子の兵法』だからではないのか。

「なるほどな…」 目先の欲に目がくらんだ楚王も、ようやく本質が見えてきた。だが幸いなことに、まだ孫臏の身柄は、楚王の手元にあった。史皇大夫はなおも言葉を続けた。

「しかし此度彼が楚国に来てくれたお陰で、我らも大切なことに気づきましたぞ。我らとて『孫子の兵法』を手に入れて悪かろうはずはございませぬ。もし『孫子の兵法』を手に入れましたら、我らが天下に覇を称えることも夢ではなくなりまする」 

 これは楚王にとっても魅力的な考えだった。楚王も俄然、『孫子の兵法』に対する欲求が湧いてきた。

「しかし彼が簡単に『孫子の兵法』を渡すと思うか?」 楚王の言葉に、史皇大夫はにやりと笑った。

「私に一つ、思案がございます」 彼はいかにも自信がありそうであった。

      *      *      *      *

 獄の中では孫臏と田忌が机の上に小石を並べて、戦陣の演練をしていた。どこにいても、暇さえあればこうして戦陣の研究を続けているのである。だが田忌の心は机の上にはなさそうだった。だが孫臏はいつでも集中が切れない。

「ここに備えが足りませぬぞ」

 孫臏は不備を指摘し、田忌から新たな石を受け取り、そこに配置する。この時代には『孫子の兵法』を書いた孫武が活躍していた春秋末期とは異なり、両軍ともに大軍を率いて大平原で陣を敷いて対峙するという戦い方が増えていた。それは、孫武が揚子江下流の呉で活躍していたのに対し、中原という肥沃な地域で覇権の争奪戦が行われていたからである。

 時代とともに戦の姿も変化していくのだ。百年という時間は、単純に『孫子の兵法』を知ってさえいれば戦に勝てるという単純な状況をなくしていた。どんな兵法でも、それを使うものによって生きもすれば死にもする。『孫子の兵法』を持っていても、呉国は越国に亡ぼされてしまったのが好例である。

 だからいつも次の戦、これからの戦を想定して、新しい兵法を開発していく必要があった。彼は曽祖父の孫武の記した『孫子の兵法』をベースにして、新しい時代に十分に対応できる、112_2自分の兵法を作ろうと、研究に余念がなかった。

「これでよいかな?」 田忌から受け取った小石を置いて、孫臏は頷いた。

「はい。これでよくなりました」

 だが田忌はそんなに高度な兵法は理解できなかった。彼の頭の中にあるのは、一刻も早く斉に帰国することだけだったのである。

「わしらはこんな所で、なすすべもなく無駄に時間を過ごしている。今頃、家はどうしておるじゃろうか?」

 孫臏は戦陣の研究に余念がなかったので、時間を無駄にしてはいなかったが、田忌はただただ帰国を願うばかりであった。その時間は確かに無駄であったかも知れない。だが彼は鄒忌(すう・き)の動きや、出国する際の威王の言葉が気になってしかたがなかったのである。彼らが帰国しなければ、一族は皆殺しにされるのだ。神経が繊細な田忌には耐えられないことだったのである。

「大王は我らの手紙をお受け取りになったはずですから、我々の境遇はご存知でございましょう。我々の家人を手にかけるとは思えませんな」

 孫臏は打てるだけの手を打った後は、あまり悩まない。だが田忌はそこまではドライに割り切れなかった。それはまた田忌にとって斉国が、どれほど重く大きなものであるかを意味していた。

「いや、わしが心配しておるのは鄒忌のことじゃ。あの曲者のことじゃ、なた何か下らぬ策を弄しておるのではないかとな」

 そんな会話をしている時に、獄の扉が開いた。入ってきたのはいつもの兵士ではなく、史皇大夫であった。

「田将軍、孫先生、よくないお知らせでございます」 相変わらずにこにこ笑いながら話しかける。田忌は一瞬で不機嫌な顔になった。

「良くない話ならせねばよかろう」 この男が顔を出すとろくなことがない。田忌は吐き捨てるように言った。この男はよほどわしのことが嫌いなのじゃなと、史皇大夫も顔を背けた。だが暫く小石を弄んでいた孫臏が口を開いた。

「史皇大夫、何事でございますかな?」

 史皇大夫にとっても、やっと話を切り出せる雰囲気になった。やっと口を開く。

「龐涓が魏国より参りましたぞ。彼は先生を魏に連れて帰りたいそうにございます」 それを言わなければ史皇大夫の策は始まらない。だがそれも田忌には気に食わなかった。斉国大将軍たる自分が無視されたように感じたのだ。

「わしは? わしはどうなのじゃ? わしも一緒にか?」 だが史皇大夫の返事は冷たかった。いつも史皇大夫を見下すような目で見ることへのお返しの意味もあった。

「あなたにはそのような値打ちはない」 お前などは何の意味もないのじゃという、見下した目線であった。だがそれではおさまらないのば田忌である。

「それは承知できぬな。孫先生とわしは、艱難辛苦をともにした兄弟じゃ。わしが魏へと行かぬなら、孫先生も連れては行かせぬ」 だが史皇大夫はあっさりとその言葉を無視した。彼らは捕らえられている身である。どう喚いたところで、どうとでもできるのだ。史皇大夫は孫臏だけに語りかけた。

「孫先生には魏国に行かずにすむ方法がございます。それは我が君の提案を承諾していただかなくてはなりませぬが…」 笑顔を向けて孫臏に語りかけるのを見て、田忌は吼えた。

「去ね!去んでその方の王に伝えるがよい! 殺されてもわしらの気持ちは変わらんとな!!」 だが史皇大夫はあからさまに不機嫌そうな顔を田忌の方に向けた。

「此度の話には、そなたなど関係ないのじゃ」

 それまで黙って聞いていた孫臏が口を開いた。

「それで楚王は何と仰っておられるのかな?」

 やっと取り引きが始まると、史皇大夫はますます笑顔になった。

「我が君が仰るには、先生が『孫子の兵法』を我が君のために書いてくだされば、先生を龐涓には渡さぬそうでございます。それどころか、斉国への帰国もお認めになるそうでございますぞ。どうでございましょう?」

「ふん! きれいごとをぬかすな!!」 田忌が横合いから吐き捨てるように言った。

112_3 「そなたには尋いておらぬ! そなたは兵法を知らぬ。そなたに尋くことなど、何もないのじゃ!」 史皇大夫は侮蔑の目つきで田忌を見ていた。そして一瞬で笑顔に戻り、孫臏に返答を求める。まるで瞬間芸の百面相である。「いかがでございましょう、孫先生?」

 それに対してヘンがないくらい孫臏はあっさりと答えた。

「よろしゅうございます。楚王の提案、承諾いたしましょう。ただし私にも条件がございます。それを呑んでいただけぬなら、承諾はできませぬな」

『孫子の兵法』さえ手に入れば、後はどうなろうと知ったことではない。基本的に史皇大夫の思考法はそうである。史皇大夫は機嫌よく孫臏に尋ねた。

「何でございます? 仰ってくだされ」

「田将軍の帰国でございます」 だがそれには田忌自身が即座に異を唱えた。

「それはいかん! 帰国するのであれば、我ら両名が揃ってでなければならん!!」 あなたは黙っていてくださいというように孫臏は手を振る。史皇大夫も悩んでいた。ここで彼が一人で許可を出せるような問題ではなかった。

「ううむ… 田将軍の帰国でございますか… 許可するわけには参りませぬなあ…」 小声で拒絶するが孫臏も譲らない。

「さようでございまするか。ならば私も『孫子の兵法』を書くわけにはまいりませぬ。私を龐涓に渡すのなら、好きにしてくだされ。私はすでに一度死んでおります。今更死ぬことなどなんとも思うてはおりませぬ。 さ、田将軍、戦陣の演練を続けましょう」

 取り付く島もないというのはこういうことかと思えるくらい、くるりと背中を史皇大夫に向けたかと思うと、二度と史皇大夫の方を向こうともしなかった。

「仕方がない。わかりました。私が先生のお考えを我が君にお伝えいたしましょう」 そんな言葉など耳にも入らないといった風で、孫臏は田忌と戦陣の演練に没頭したふりをしていた。しかたなく史皇大夫は頭を振り振り、獄から出て行った。

「孫先生、すでに申した通り、わし一人でおめおめと帰るわけにはいかん。かりにわし一人が帰ったとしても、鄒忌の陰謀は止められん」 史皇大夫が完全に帰ったのを確認して、田忌が言った。だが孫臏としても今はこれしか手がなかったのである。田忌か孫臏かのどちらかでも帰国して見張っていないと、鄒忌が何を始めても止められなくなってしまう。

「田将軍、あなただけでも斉に帰国していただかなければなりませぬ。我らのどちらかがいなければ、鄒忌は独裁を始めてしまいます。我らのどちらか一人でも斉におれば、彼も独裁はできませぬ」

 だが田忌には、自分ひとりでは鄒忌を押さえきる自信はなかった。

「しかし、もしも鄒忌が、先生が楚国に仕えて、斉に弓引こうとしていると中傷したら、先生の二人の従兄どのはいかがする?」

「もしもそのようなことになりましたら、二人の従兄には、もう一度斉を出るようにお伝えください」 国を捨てるということがどういうことか、痛いほど知っている孫臏はため息をついた。

「孫先生、どうしてそのようなことができよう?」 田忌の言葉を手で遮り、孫臏は言葉を続けた。

「田将軍、これはあなたのためだけで申しておるのではございません。斉国全体のことを思えばこそ、申し上げているのです」

 田忌は孫臏の右手を固く握り締めた。彼らは自分達のことでなく、斉国全体のことを憂える同志だったのである。

      *      *      *      *

「わかった。孫臏の条件を呑もう。田忌など帰国させればよい。要するに『孫子の兵法』が手に入ればよいのじゃ。『孫子の兵法』さえあれば、田忌など二人おっても怖うはないわ」

 史皇大夫からの伝言を聞き、楚王はあっさりと孫臏の申し出を承諾した。彼は欲が深いし俗物である。だがバカではなかった。

「その方、すぐに彼らを賓舎に移し、田忌が帰国できるよう取り計らえ」 『孫子の兵法』をくれるのなら、彼らはすでに罪人ではない。それなりの賓舎に住まわせねばならない。

「御意。ですが大王、龐涓はいかがいたしますか?」

「あの男か。あれも帰国させてしまえ」 だが帰国させるにはそれだけの理由が必要である。史皇大夫はそれを口にした。

「ですが龐涓はどのように説得いたしましょうか?」 一度楚王は彼の孫臏を引き渡せという要求に応諾していたのである。それなりの理由がなければ、以後何かと魏国との関係で難癖をつけられることになりそうだった。

「そうじゃの。彼にはこう答えてやれ。孫臏は楚国に留まり、余に使えることを承諾したとな」 孫臏が楚国に仕えるということは、魏国はもう楚国に対して戦を仕掛けられぬぞと宣言したようなものである。それだけ孫臏の存在には重みがあった。

「わかりました」 史皇大夫は頭を下げると退出した。

      *      *      *      *

 賓舎に史皇大夫を迎え、龐涓はその応対をしていた。状況はどうやら、かなり大113きな変化を見せたようだった。

「楚王がそのように仰られたのか?」

「はい。我が君が仰るには、孫臏はお渡しできぬと」

 龐涓は内心穏やかではないはずなのに、表情に変化を出さなかった。だが楚王に対する糾弾は忘れない。

「楚王はころころとご意見を変えられるお方のようじゃ。天下の信を失いますぞ」 覇者を目指すものの最も大きな要素は、天下に信があるということである。そこを衝くことで龐涓は楚王を非難していた。

「ですが孫臏が我が君を補佐すれば、仮に我が君が天下に信を失ったとしても、天下の方で我が君に何もすることができなくなるでございましょう」 見事な力の理論である。勝てば官軍というやつだ。

「ほう。それは一体どういうことでございますかな?」 龐涓はわかりきっていることを、わざわざ尋ねた。

「孫臏はすでに我が君の提案を承諾し、以後我が君を補佐すると申しましたのでな」 史皇大夫の言葉には、もしも孫臏が楚軍を率いて魏国を攻めたら、その時は龐涓、そなたももう歯が立つまいといった響きがあった。

「ありえん。そんなことを彼が呑むはずがない」 だが誰が何と言おうと、孫臏は楚国のために『孫子の兵法』を書くと承諾した。それを知らせないためにも、史皇大夫は自分勝手に作文してごまかした。

「孫臏が申しまするには、斉王は彼を信用しないのだそうでございます。今更斉国へ帰国しても、重用されないことがわかっているのなら、この際わが楚国に仕えたほうが自分の才能を発揮できると」

 龐涓は思わず叫んだ。。

「それは嘘じゃ! 彼がそんなことを言うはずがない。仮に言ったとしても、絶対に本心ではない。絶対に騙されてはなりませんぞ!!」

 嘘だというからには、龐涓は史皇大夫が言ったことをすべて否定して見せなければならなかった。肯定したら自分が楚国に留まる理由はなくなってしまう。

「ですが孫臏の申すことには説得力がございました。それに我らには彼の言葉を疑わねばならない理由もございませぬ」

「ありえん。嘘じゃ。間違いなく嘘じゃ。彼は楚国に来てから、自由に行動できなかったであろう。そしてわしが楚国に来たを知って、楚王の提案を承諾したように見せただけじゃ。彼はわしに殺されることを恐れておる。これは緩兵の計じゃ。わしが帰国したのを知れば、また態度を変えるに違いない」

 だが史皇大夫の今の任務は、とりあえず龐涓を帰国させることだった。彼はそのため嘘を一つついた。勿論、駆け引きだけで楚王に仕えている史皇大夫である。嘘をつくことに対する禁忌はなかった。

「孫臏は龐元帥が楚にお出でになったことを知りませぬ」 それはまた龐涓の頭の中とは違う話だった。

「ではなぜに楚王の提案を承諾したのじゃ?」

 ここでも史皇大夫は作文をした。彼は龐涓がもうここ楚の国都・郢(えい)に留まる理由はないと納得させねばならなかったのだ。

「孫臏が言うには、提案を呑まなかったのは田忌で、彼ではないと」

「では今では田忌もその提案とやらを呑んでおるのか?」

「まだ呑んでおりませぬ。ですから我が君は彼だけ先に、斉に帰国させるおつもりでございます」 

 これは事実である。巧妙に嘘と真実を混ぜて行う彼らの駆け引きは、よほど嘘をつきなれた人間しかできない芸当であった。正直者がこんなマネをすると、自分の喋ったことのどこまでが真実で、どこからが嘘なのかわからなくなってしまう。

「田忌の帰してはならん。虎を山に帰せば、害を蒙るは必定」 龐涓は強く否定した。

「これは龐元帥らしくもないことを仰る。孫臏が軍師でなければ、田忌程度、恐れるに足りないのではございませぬか。龐元帥、私の記憶に間違いがなければ、孫臏が軍師となる前は元帥は数度、田忌を破っておられますな?」

 龐涓の本心はそんなところにあったのではない。田忌を捕らえておけば、それを餌に孫臏を操ることもできると言いたかったのだが、一刻も早く龐涓を追い出したい史皇大夫は龐涓をおだてにかかっていた。

「ふん。あの程度の男。もとよりわしの相手ができるような男ではないわ」 龐涓は吐き捨てるように言った。だがその言葉が、目の前の史皇大夫の計にかかった瞬間だった。

「そうでございましょう。元帥のようなお方が、なぜに田忌程度を虎と恐れられるのかわかりませぬ」 一種の褒め殺しである。龐涓は史皇大夫の口車に乗せられてしまったと気がついたが、すでに手遅れだった。

「わしは彼をおそれているのではない。…まあよいわ。楚国の内情にまでは立ち入らぬことにしよう。楚王にお会いしたい。暇乞いをいたす」

 途中でため息をついて、龐涓はこれ以上史皇大夫と話を続ける愚を悟った。実利がない。時間の無駄である。こういった時は、この男よりも上位にあって、しかも議論しやすい人間を相手にした方がよい。それは楚王その人である。だがその前に調べておくことがあった。今は史皇族大夫を追い返しておいたほうがよい。

「わかりました。そのように我が君にお伝えいたしておきます。失礼いたします」 史皇大夫は上手く自分の使命を果たしたと思っていた。だが龐涓にとってはただの厄介払いをしただけのことであった。

 史皇大夫が完全にいなくなるのを待って、龐涓は吐き出すように言った。113_2

「ふん。タヌキめが」 ほんのわずか思案して人を呼ぶ。今必要なのは、楚の朝廷内部の精度の高い情報だった。「誰かおらぬか?」

 魏から連れてきた小物が現れる。龐涓はその耳元で何事か囁いた。小物はそれに頷いて聞いていただ、やがて抱拳をすると急いで表に出かけて行った。

      *      *      *      *

  小物が向かったのは、楚の王宮からほど近い飲み屋であった。彼もただの小物ではない。わざわざ龐涓が敵地、楚国に連れてくるような男である。間者としても腕利きであった。彼は龐涓が楚の朝廷を相手に駆け引きをしている間に、楚の朝廷に勤める宮衛やら舎人やらに113_3あたりをつけていた。

「まず、これを」 そういって魏の小物は懐から黄金を2両取り出す。

「何だよ、改まって。お前とオレの間だろう? 気を使うなよ」 楚の王宮に仕えていると思しき小物が答えた。けれども急いでそれを懐にしまう。だがその時、傍らのテーブルに鐘離春がいるのは彼らの知るところではなかった。彼女は男装していたし、小物は鐘離春など知らなかったからである。

「お前、どうして楚王は孫臏を龐元帥に渡さないのか知ってはおらんか?」 鐘離春の耳にはこんな会話が物凄く効率よくひっかかる。

「うむ。よくはわからんが」

「すまんが、それを教えてくれ。夕方、またここで待っておるから」 大金を貰った楚の小物は、大仰に抱拳をして立ち上がった。それに龐涓のところの小物113_4が鷹揚に応える。

「わかった。それではまた夕方」

 鐘離春のすぐ横を通って出て、行く楚の宮人を横目で見ながら、彼女は今注意を集中すべきところを知った。こういった活動は彼女の得意とするところであった。

      *      *      *      *

 賓舎ではさすがの龐涓も、落ち着かない様子で小物を待っていた。正確な情報がなければ、いかに彼であっても動くわけにはいかなかったのだ。そこへ小物が帰って来た。

113_5 「元帥、わかりましてございます。孫臏は楚王に、『孫子の兵法』を書き与えることを承諾したそうにございます。その条件として、まず田忌を斉に帰国させるのに同意いたしました。また『孫子の兵法』を手に入れ次第、孫臏も解放するとのことでございます」。

 龐涓はにやりと笑った。どうせそんなことだろうと思っていた。そうであれば彼には打つ手があった。彼は独り言ちた。

「上手い具合にやったつもりじゃろうが、そうはいかんぞ」

                         (つづく)

      *      *      *      *

 タヌキとキツネの化かしあいという言葉があるけれど、こういうのを楽しむ余裕があると、史皇大夫や楚王、龐涓の騙しあいも面白く感じますね。そこに鐘離春も絡んできましたぞ。さて次回はどうなるのでございましょうか。乞うご期待!!

2009年7月29日 (水)

『戦国の竜虎』・52 ~第十一章 趁火打劫〔2〕 龐涓来る~

 趁火打劫(ちんかだきょう)だが、これはそのまんま翻訳すると、「火のある間に劫を働け」ということで、問題は「劫」である。この文字の意味は辞書によれば、① 暴力で奪い取る、略奪する ② 暴力で人を脅しつけるという意味である(他に①(仏)ごう、極めて長い時間、永劫 ② 災難 という意味もあるが、打という動詞の後だから、暴力で云々というほうが正しいだろう)。

 簡単に言うと、火事に遭遇して困っている人を、更に脅しつけて何かを奪い取ってやろうということであって、こうなると火事場泥棒よりも始末が悪い。日本ではこういうことは大変良くないことと考えられているが、これは『三十六計』では第五計だから、あちらでは兵法としては存在を認められているわけだ。

 確かに『美学』的に考えれば、多くの人が「そんなことをやる人は、人間じゃない」と感じると思うが、方法の一つとして取り上げているということは、現実にそういう方法も認められているわけだから、相手がしかけてくる可能性はある。ということは仕掛けられないためには、火事を起こさないようにしなければならないのである。

 溺れる犬には石をぶつけろという強烈なことを言う文化というのは、なかなかこちらの想像を超えている。私が始めて『三十六計』と出会った頃には、「いやあ、これって私にはできないなあ」と感じるものが少なくなかったのは、実はそういうことが原因であった。でも今ではあちらから『厚黒学』なんかの本を買ってきて読んでいたりするから、以前ほどは違和感を感じなくなったけどね。

 まあ、毎日が生き残りをかけた戦いであれば、あらゆる戦い方や駆け引きが発達するのであろう。ということで、楚国に滞在を強要されている(つまり火事が起こっているわけですな)孫臏(そん・びん)と田忌(でん・き)に火事場泥棒(ここでは龐涓:ほう・けん)が入るのが今回からでございます。さあ、始まり、はじまり~…

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・52 ~第十一章 趁火打劫〔2〕 龐涓来る~

【2】龐涓来る

「大王、彼らは箸にも棒にもかかりませぬ。美女を与えても、てんで相手にいたしませぬ」 史皇大夫(しこうたいふ)には実際打つ手がなかった。

「で、彼らは何が欲しいのじゃ?」 欲しいのは物ではなかった。それが楚王にはよく理解できていなかった。

「彼らは帰国することしか考えておりませぬ。夢の中でさえ、故郷のことしか思うておらぬようでございます」

 楚王はため息をついた112。打つ手がないのか。あさっての方向に目線をやり、途方に暮れる。

「大王、私の見るところでは、彼らにはつける薬はございませぬな。ここはすっぱりと殺しておいたほうがよいと思われます」

 史皇大夫は遠慮なく殺せと言ったが、楚王にはたっぷりと未練があった。何と言っても天下に覇を称えられるかどうかといった瀬戸際なのだ。

「いや、殺すことはならぬ。そうじゃのう……」 しばし考えをめぐらす。「仕方がない、獄へ送ってやろう。牢獄の中で少し頭を冷やしてやれば、彼らとて考えが変わるやも知れん。そして余の提案を受け入れる気になれば、獄から出してやると言うのじゃ」

 飴を与えても受諾しないのであれば、今度は鞭を与えるだけである。飴の後の鞭は、その辛さが一際わかるものだし、鞭の後の飴もその甘さが際立つものだ。だが史皇大夫はまだ疑っていた。戦国の世で天下に名を轟かすような人間が、少々のことで自分の考えを変えるとは思えなかったのである。

「ですが大王、もしも彼らが、一生大王の提案を呑まなければ、いかがいたしましょう?」

「ふん。その時は一生日の光が拝めないだけのことじゃ」 楚王は笑った。ここは楚の国、すべては自分の思いのままになる。

      *      *      *      *

 獄へ送るといっても、そこは程度の問題であった。そんなに酷い環境ではない。檻にはなっていて、周囲に護衛の兵士が四六時中張り付いているが、なんとか暮らしていくことはできる。

112_2  窓から差し込んでくる明かりの中に孫臏は立っていた。田忌は机の前に座り込んでいる。田忌は何かを苛々と風呂敷の中に包みながら、孫臏に尋ねた。

「孫先生、もう随分と日がたちましたが、脱出の妙計はござらぬか?」 

「一つないわけではございませぬが、将軍がこの計を承知してくださるかどうか…」

 孫臏は窓の外にゴミを投げながら答えた。田忌は急きこんで聞いた。

「それはどんな計でござる? 早う教えてくだされ」 孫臏は腰を下ろそうとした。それを田忌が手助けする。

「簡単なことでございます。楚王の申し出を受け入れるのです。その代わり将軍を斉に帰国させてもらいます」 だがそれを聞いたとたん、田忌はその案を却下した。

「いかん! いかんぞ、それは! 孫先生一人を楚国に残して、どうしてわしだけ帰国できよう」 田忌は豪放に見えるがその実、非常に繊細な男である。情にも篤い。そんな田忌が脚の不自由な孫臏だけを残して、斉に帰国するなど、認めるはずがなかった。だが孫臏は笑って答えた。

「御心配くださいますな。ここにいれば栄耀栄華は思いのままでございます。美人に囲まれて、贅沢のし放題でございますよ。私のことは心配しないで、将軍は斉にお帰りください」

 それが田忌の心の負担を軽くするために言っていることは、田忌は痛いほど知っていた。孫臏が斉を忘れることはない。ポンと田忌の膝を叩いた孫臏だったが、田忌は即座に反論した。

「わしは先生のことを心配しているだけで言うたのではない。斉国が心配なのじゃ。斉国はわしがおらんでもやっていけるが、孫先生、そなたがおらねば立ち行かぬ。その先生が帰国されぬのに、どうしてわしだけおめおめと帰国できようか」

 だが孫臏はまだにやにや笑っていた。

「いや、将軍は人間的にも優れておられる。何よりも人の上に立つ威厳を備えておられます。もしも将軍が斉におられなかったら、後は鄒忌(すう・き)たちの思うがままではございませぬか。将軍がおられなければ、彼らは必ずや斉国を危ううするようなことをしでかしましょうな」

 その時、外から兵士の声がした。

「ほら、飯じゃ」 どんぶりに飯を盛り、その上になにかを乗せたような粗末な食事が出てくる。「食え」 それを横目でにらみながら田忌が怒声を漏らした。

「おのれ、食えとは何事じゃ! いやしくもわしは斉国の大将軍じゃぞ。このような犬の飯が食えるか! いらぬ、持って帰れ!!」 だが兵士の返事は冷たかった。

「史皇大夫のご命令じゃ。お前達が大王の出された条件を呑まなければ、このようなものしか食えぬ112_3わ!」

「おのれっ!!」 思わずどんぶりをぶつけようとした田忌の右腕を、孫臏は抑えた。孫臏はいつでもいざと言うときに動けるように、体力を落とさないことを重視していたのである。

「およしなさい。食えぬことを思えば、食えさえすれば何でもようございませぬか。食えばよい」 孫臏は田忌がぶつけようとしたどんぶりを、そっと自分の方に持ってきた。田忌は指についた飯粒を床に叩きつけている。手指を衣で拭いて、孫臏は手づかみでそのどんぶりの中のものを食べ始めた。

「うん。この飯はまずくない」 言いながらむしゃむしゃと食べる。五本箸で味をみた孫臏は、自分の前にあったどんぶりを田忌に勧めた。「将軍、この飯はその昔、龐涓が私に出したものに比べればはるかにいけますぞ。うん、まずくない」

 孫臏はむしゃむしゃと旨そうに平らげてしまった。それに促されるように田忌も食事に手をつける。牢獄の食事である。そんなに美味しいはずがない。けれども食べなければ体力が落ちてくる。そうなってはいざという時には動けない。それを知らせようとして孫臏は飯を食ったのだということは田忌にもわかった。恨めしそうな顔をしてはいたが、田忌もどんぶりに手をつけた。

      *      *      *      *

 楚王のもとへてんでもない知らせが入っていた。なんとあの龐涓が直々に楚国へやって来、謁見を希望しているというのだ。楚王の頭の中には、あの方城の戦いでの屈辱的な記憶が蘇っていた。余がどのような気持ちでいたか、知らないとでも言うのであろうか。楚王はどのように料理してやろうかと、頭の中でいろいろと考えていた。

 謁見の間を龐涓は堂々と歩んでいた。斜め後ろにはなにやら小箱を捧げ持った小物がつき従っている。おそらく楚王は自分を殺そうと思っているなどということは一切眼中にないといった態度であった。龐涓は楚王の前に膝をつき、抱拳をした。

112_4 「龐涓、楚王にお目見えいたしまする」 床に頭をつける。ややあって、仏頂面をした楚王が口を開いた。

「龐涓、そなたの肝が太いのは認めよう」 だが龐涓はにこやかに応じた。

「ほう。それはどのような意味でございましょうな?」 楚王もにやりと笑って答える。

「ふふん。方城の戦いでは、余は満天下に恥を晒した。今日その方がわが国に来るとは、よい度胸じゃ。殺されることは覚悟の上じゃな?」

 当然のことである。不倶戴天の敵が、単身楚国を訪れているのである。生命は楚王の思いのままになる。当然、生命はなくなることを覚悟していなければならない。だが龐涓は不敵に笑った。

「ふふふふ… この龐涓、大王の仰ることの意味がようわかりませぬ。大王が賢王であることは、すでに天下に広く知られておりまする。もしも他国からの使者を、正当な理由もなく斬ったとあれば、信義を解くことも、理を明らかにすることもできなくなりますぞ。であれば、どうして私を斬ったりできまするか?」

 まず道理を持って楚王を説得した。楚王が他国の使者を、理由もなくただの恨みから斬るようなことがあったとすれば、天下に信用を失うぞと忠告したのである。龐涓は言葉を続けた。

「さらに方城での戦いは、私は魏王の臣下として臨んでおりました。魏王のために死力を尽くすは、理の当然でございます。賢明をもって鳴る大王が、たとえ他国のとはいえ忠臣を殺すわけがございませぬ」

 これまた道理である。他国のとはいえ、忠臣を私怨で斬ったりすれば、これまた天下に信をなくしてしまうのである。

「ふん。よう動く舌じゃの」 楚王は不貞腐れていた。確かに龐涓の言っていることは道理にかなったことばかりなのである。だが龐涓は相変わらず笑みを浮かべたままだった。

「私のために申しておるのではございませぬ。大王のためを思えばこそ申し上げておるのでございます。大王は楚の君王にございます。真の賢明な君主でございますれば、一時的に利を失うこともございましょうが、最後には天下に覇を称えられるのは間違いまいでしょう」

 今度はお世辞に弱い楚王の心をくすぐっていた。楚王も機嫌を直したような顔になる。

「さようか。ではそこに座ってよいぞ」 少し笑みを浮かべて、楚王が席を示した。龐涓はすぐには座らず、言葉を続けた。

「ありがとうございまする。ですがその前に、つまらぬものでございますが、これをお近づきの印としてお収めください」 龐涓の後ろに控えていた小物が、箱を捧げて進み出る。それは楚王の後ろにはべっていた宮衛が受け取り、楚王の前に運ぶ。さっそくその蓋をとった楚王の前に、見事な玉が姿を現した。思わず楚王が感嘆の声をあげた。

112_5 「ほう! これはなんと見事な!! う~む、かの有名な和氏の璧といえども、ここまでは美しゅうはなかろうの。う~む……」 和氏の璧とは、後に「完璧帰趙(璧をまっとうし、趙に帰る)」という成語の元になった璧のことである。

 楚の国に卞和(べん・か)という樵がいた。その男があるとき山中で素晴らしい玉の原石を見つけ、それを当時の楚王である、歴王に献上した。ところが歴王はそれを偽ものであるとして、卞和の左足を切り落としてしまったのである。これが「げっけい」という刑罰である。

 歴王が崩御し、武王が後を継ぐと卞和はまたもその原石を献上しに王宮に行った。するとこんどもそれは偽物だといわれ、今度は右足を切り落とされてしまったのである。武王が崩じ、文王が王位についたとき、卞和は王宮にはいかず、山奥に原石を持って入り、三日三晩泣き続けた。

 この噂を聞いて文王は人を遣わし、今までのいきさつを聞いてその原石を磨かせたところ、世にも珍しい美しい璧となったのである。これを記念して文王は卞和は文王より賞され、出来た璧を「和氏の璧(かしのへき)」と名づけたのだが、その後この璧はさまざまな国を転々とし、孫臏と龐涓が争ったこの時代から60年ほど後には、趙の恵文王のものとなっていた。

 それを知って秦の昭襄王が、秦の城15城と和氏の璧との交換を迫ったことから、値打ちのあるもののことを「価値連城」と呼ぶことになった。和氏の璧はその時、趙の繆賢の食客であった藺相如(りん・しょうじょ)がうまく立ち回って、無事に趙へ持ち帰ったので、これから「完璧帰趙」という成語が生まれたのである。それは本編とは関係のない、戦国後期のことになるので、本題へ戻る。

 あまりの美しさに、箱から玉を取り出す楚王の手が震えるほどであった。触れると壊れるのではないかと思うほどに美しい、それはそれは見事なものである。龐涓は最初に道理を説き、次におだて、最後には楚王が何よりも好むという玉を出すことによって、見事に楚王の心を捉えてしまったのである。

 楚王が玉に見とれている間に、龐涓は席についていた。

「そうでございますな。かの有名な和氏の璧よりもこちらの方が美しいかも知れませぬな」 楚王は大きく頷いた。

「そうじゃ。まことにその通りじゃ。ところで龐元帥、何ゆえに余にこのような、二つとない宝玉をくださるのじゃな?」 もう楚王の龐涓にたいする言葉使いまでが変わっていた。

「つまらぬことでございますよ」

「何じゃ? 申してみよ。余がかなえてつかわす」 もう楚王の目線は玉から離れなかった。玉をためつすがめつしながら、龐涓と話をしようというのである。

「聞いたところによりますと、今、孫臏は大王のもとにおりますそうな」 楚王はまったく隠さなかった。

「そのとおりじゃ」

「大王は彼に何かお考えでございましょうか?」 相手を有頂天にしてしまえば、普段なら聞くことができないことも聞ける。精神が高揚すると、言わなくていいことまで口にするからである。まして楚王は幼少時より我儘放題に育てられた。細かい駆け引きまではできなかったのである。

「楚国に留めおいて、余の補佐をさせようと思うておる」 にこにこと満面に笑みをたたえて答えた楚王に、龐涓は難しい顔をしてみせた。

「大王、私はかつて彼とともに、三年間学びました。よって彼の品性はよく存じております。彼は芯からの斉国人でございます。故郷を思う気持ちは大変強うございまして、少々のことでは変えられませぬ。私が彼を我が君に推薦いたしましたおりにも、我が君は彼を客卿として厚遇いたしました。彼を私に替えて、魏国の元帥とするとまで仰ったのでございますが、彼は我が君に背きました。それでも我が君は彼の才能を惜しみ、生命だけは奪わなかったのでございますが、彼は計を用いて斉国へと逃亡したのでございます。ですから大王、もしも彼を楚に留め置かれましょうとも、彼が大王を補佐するなどとは考えられませぬ」

 あなたのためを思えばこそ、こう言っているのですよという恩を売るような喋り方だが、こういった場合の常套手段であった。生き馬の目を抜くような生き方をしている人間が、己の利益を考えないで、ただただ他人のためだけを考えてものを言ったりするはずなどないのが、それだからこそ、こういったものの言い方をしたのである。

「では、そなたはどうせよと…?」 楚王の目が龐涓の上に止まった。

「殺さねばなりませぬ」 龐涓は表情も変えることなく平然と言い放った。

「殺せと申すか。しかし殺すには惜しい人材じゃ。彼のような人才は得がたい」 ここは楚王の宮殿である。確かに世にも珍しい宝玉は受け取ったが、ここからが本格的な交渉である。楚王の宮殿ということは、楚王が圧倒的に有利な立場にいるということだ。

「確かに彼は人才と言えましょう。ですが彼が今後補佐する人物が大王でなく、大王の敵であれば、大王は虎を養って、憂いを残しているようなものでございますぞ。大王、孫臏は生かしておくべきではございませぬ」

 楚王は薄ら笑いを浮かべた。

「なるほどな、龐元帥。そなたが世にこのような宝玉をくれたのは、孫臏を除くためであったか」 楚王は手に持った宝玉を置きながら言った。そろそろ交渉は本格化してきたのである。

「そればかりではございませぬ。孫臏は我が魏国では罪人でございます。また私にとっては不倶戴天の敵でございますれば、どうか彼を私におあずけください。彼を魏国に連れ帰り、魏国にて処刑いたしたく存じます」 楚王は顔に笑みを浮かべた。

「ほほう、龐元帥。どうやら余にも話が見えてまいったぞ。孫臏はすでに数回そなたを打ち破っておるな。さすがの元帥も彼に当たって、威信が地に落ちたわけじゃ。そこでこの期に私怨を晴らそうというのであろう?」

 楚王の言葉は必ずしも正鵠を射ていたわけではない。だがかなり近いところを理解していた。

「恨みを晴らすという気持ちでございましたら、世間の大方の人間は、みな持っておるでしょうな。そして恨みを晴らすためでございましたら、人は手段を選ばないものでございます。どうか孫臏の身柄を私にお預けください。彼を連れ帰って、魏国にて処刑いたします。そうすれば仮に斉国が怒ったとしても、それを受けるは我が魏国で大王の楚国ではございませぬ」 

 どことなく楚国に恩を売るような喋り方である。中国という国は、今も昔も面子を大事にする国である。そうであれば龐涓の言っていることは、面子を潰さないですむやり方かもしれなかった。

「大王、孫臏を殺さなければ、後顧の憂いを残すは間違いございませぬぞ」 畳み掛けるように言う。だが楚王もバカではなかった。にやりと笑いながら切り返す。

「しかしな、龐元帥。余が聞いたところでは、孫臏が魏国を去った理由は、今そなたが申しておったこととは違っておったぞ。そなたの迫害から逃れるために、斉国に逃げたと、余は聞いておる」 

 楚王の反撃は、語調は柔らかだったが、かなりの威力を持っていた。龐涓も仕方なく笑って答える。

「大王はまことに聡明であらせられる。大王のお目を誤魔化すことなどできそうにございませぬな。わかりました、本音を申し上げましょう。彼が魏国におった時、私は決めたのでございます。彼とともに天は戴かぬと。私がおれば彼はおれませぬ。彼がおるのであれば、私はおれませぬ。彼とはそういった関係でございます」

 むしろ本音をいくらか混ぜたほうが効果的かと、龐涓は戦法を変えた。暫く考えた後、楚王は答えた。

「わかった。龐元帥。その方に孫臏を渡すことにしよう」 本音を聞いて納得したのか、楚王は龐涓の要求にこたえることにした。龐涓はゆっくり抱拳をす112_6る。これでやっと積年の恨みを晴らすことができる。同時に運が良ければ、『孫子の兵法』を手に入れることができるかも知れない。

 もし『孫子の兵法』が手に入ったなら、自分には『孫子の兵法』は失われたと嘘をついてまで与えてくれなかった鬼谷子にも復讐できる。孫臏には求められもしていないのに与えた『孫子の兵法』である。師が愛した弟子から、愛されなかった弟子がそれを奪い取るのだ。それは龐涓が夢にまで見たことであった。

「かたじけのうござりまする」 そこには勝利を確信した龐涓がいた。

              (つづく)

      *      *      *      *

 さてさて、これはエライことになりましたよ。危うし孫臏!! チャンスだ龐涓!! ということで、また次回をお楽しみに。

2009年7月28日 (火)

『戦国の竜虎』・51 ~第十一章 趁火打劫〔1〕 夢の中では嘘は語れない~

 梅雨明け宣言が出ないので、海水浴場は悲鳴をあげているそうだ。仮に梅雨明け宣言が出ようと、天気が悪かったら、やっぱり海水浴客の出足はよくないと思うが、やっぱり梅雨明け宣言が出てたら、天気が悪かっても気合で海水浴に行く人がいるのだろうか。

 でも私は「海の家」は好きだなあ。雰囲気がいいよ。大抵のところがそんなに美味しいとは思わないけど、やっぱり海辺に行ったら「海の家」で食事しないわけにはいかない。いつも車で行くから、ビールが飲めないのが残念だけど。

 ということで、これから孫臏(そん・びん)、龐涓(ほう・けん)、楚王と史皇大夫(しこうたいふ)入り乱れて、三つ巴の寝技合戦の始まり、始まり~

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・51 ~第十一章 趁火打劫〔1〕 夢の中では嘘は語れない~

【1】夢の中では嘘は語れないPhoto 

 笑顔で龐葱(ほう・そう)の報告を聞く龐涓がいた。彼は心の底から喜んでいた。やはり龐涓は公孫閲(こうそん・えつ)を信頼していたのである。それよりも彼を友として好いていた。彼の手柄が我がことのように嬉しかった。

111「さすがじゃ。見事なものじゃ、公孫閲。龐葱、そなたどう思う? 楚王はよく孫臏を殺すであろうかの?」 龐涓の目の前にいるのは彼の甥である。龐葱も『戦国策・魏策二』に「三人言而成虎(三人言いて虎を成す)」と言った逸話を残した傑物である。さすがに状況分析も優れたものがあった。

「叔父上、楚王は天下を狙う心が強うございます。さすればまず孫臏を用いることを考えるのではありませぬか。もしも孫臏が楚王の要求を呑めば、楚王は彼を殺さぬでございましょう」 龐涓はゆっくりと頷くと、龐葱に命じた。

「うむ。そなたもそう思うか。では馬車を準備させよ。わしが直々に楚に行き、楚王と交渉してまいる」 だが龐葱は叔父を引きとめようとした。

「叔父上、叔父上は先の魏楚方城の戦いで、楚軍を完膚なきまでに打ち破っております。もしも叔父上ご自身が楚に赴かれますと、楚王は叔父上を亡き者にしようとするに違いありませぬ。ここは私が叔父上に替わって楚に赴き、交渉してまいりたいと存じます」

 だが笑いながら龐涓は彼を制した。

「龐葱、有難いことじゃが、残念なことにそなたはまだ若い。経験も浅い。ここはやはりわしが行ったがよい」

「ですが万一、楚王が叔父上を殺そうとしたら何となさいます?」 龐涓はにっこりと笑った。

「楚王が好きなものは二つある。一に美玉、二にお世辞じゃ。わしは楚王が好むものを持っていく。楚王はわしを害するどころか、賓客として扱うてくれるじゃろう」 

 このあたりは鬼谷子に学んだ者の自信であろうか。鬼谷子の学派は後に縦横家と呼ばれる。徒手空拳でどこの国にでも赴き、舌先三寸で勝負をつけるという離れ業を確立した学派だったのである。

 鬼谷子の門下には孫臏、龐涓以外にも、蘇秦(そ・しん)、張儀(ちょう・ぎ)という逸材を輩出しているが、彼らは戦国末期に合従・連衡という計で戦国の七雄を操っている。鬼谷子門下の優等生であった龐涓にしても、当然のようにそういった話術は心得ていた。

      *      *      *      *

 その頃、史皇大11夫は楚王に詰め寄っていた。

「大王、迷ってはなりませぬ。田忌(でん・き)と孫臏は、即刻処刑すべきでございます」 だがわずか二日前には、彼らを殺そうと言った楚王の態度が変わっていた。だが二日の間に、楚王には別の欲が湧いていたのである。

「殺すには惜しいとは思わぬか?」 楚王が史皇大夫を説得しようとしていた。二日前とは立場が正反対である。

「彼らは大王を補佐せぬとはっきり申しました。ここで彼らを生かしておくは、後顧の憂いを残すようなものでございます」

 だが楚王には、孫臏だけが伝承している、それを知る者に百戦百勝をもたらすという『孫子の兵法』がほしくなっていたのだ。もしも孫臏が彼を補佐したなら、悼王(とうおう)が呉起(ご・き)を擁してかなわなかった覇者への道が開ける。

「彼らの用い方を考えねばならん。彼らの心を変えられるものなら変えてみたい」 

史皇大夫はその見通しを甘いと踏んでいた。

「私の見るところでは、それは難しいと存じます」 

 だが楚王はものが欲しくなると、どうしても手にいれなければ気がすまない、子供っぽい性格をしていた。

「よいよい。その方に責任を持たせるつもりはない。じゃが彼らに余の心がわかれば、彼らとて心が変わるかも知れぬ。よいか、彼らの待遇を良くするのじゃ。何でも望むものを与えよ。女が欲しいと言えば、女も与えるがよい」

 その程度のことで一国の大将軍と軍師を務めた男達が志を曲げるとも思えなかったが、子供っぽいといっても楚王は彼の主である。臣下は主のために努力しなければならないのだ。史皇大夫は謁見の間を退出すると、首を振りながら賓舎へ向かった。

      *      *      *      *

 賓舎が特上のものに替えられたことで、田忌と孫臏は、すぐに殺されるのではなさそうだと悟った。死刑囚に贅沢をさせておく必要などないからである。だがそれは同時に、帰国を許すという意味でもなかった。やはり暇を持11_2て余す生活であることには変わりはなかった。

 布に線を引いて作ったものの上に、宝貝で作ったコマを並べていく。孫臏は暇さえあれば戦陣の演練ばかりやっていた。田忌もその相手をする。

「それを見殺しにしてはなりませんな。それを失えば、全局が破綻いたしますぞ」 この時代にはまだ囲碁、将棋は成立していない。戦陣の張り方の演習としてのゲームであった。悠然と隅を取った孫臏に対して、田忌は明らかに苛立っていた。

「もうよいわ、こんなもの」 コマを置くと、田忌は立ち上がる。

「では演練はこのあたりでお終いといたしますか」  

 田忌は賓舎の窓際をうろうろとしながら、吐き捨てるように言った。

「そんなもの、のんびりとやっておる気になれん」 相変わらず孫臏は慌てなかった。

「では何をいたしまする?」 

 田忌は落ち着き払っている孫臏が不思議でならなかった。この男には郷愁の念がないのだろうか。そして今の斉がどうなっているのか、心配はしていないのだろうか。田忌には大きな家があったし、数多くの一族を守り、養っていかなければならなかった。

「今のわしには、斉へ帰国することしか考えられん」 

 孫臏は黙って笑いながら、コマを片付けていた。腹の中ではこう言っていた。だからあなたは斉の大11_3将軍として相応しいのですよ、と。そこへ若い女が二人、食事を持って入ってきた。とたんに田忌が彼女らを制止する。

「おいおい、誰が入ってよいと言った?」 

「はい。史皇大夫に申し付けられました。お食事をお持ちするように、と」 食事には酒もついている。酒がついているということは、彼女らは酒の接待をするように申し付けられていたに違いない。だが田忌の苛々はおさまっていなかった。

「いらん、いらん。出て行きなさい」 

 女達は困っていた。

「でも…… 召し上がっていただけなければ、私たちが史皇大夫に叱られまする」 先ほどの女が答えた。それでも田忌は冷たかった。

「史皇大夫の都合など、わしの知ったことか。さあ、出て行きなさい」

「でも… お願いでございます。お召し上がりください」

 両手で食事を持ったまま、女たちは本当に困ったような顔をしていた。彼女らは史皇大夫から命じられたことを忠実にしているだけである。彼女らにとっては田忌と孫臏に、気持ちよく食事してもらうのが任務だった。孫臏は気の毒になった。

「娘さんたち、我らのことは気にしなくてよろしい。将軍はあなたたちをからかってみただけですよ。それをそこに置いておいてください。あとは我々でいただきますから」 この助け舟に娘たちはすくわれたような顔になって、食事を置いて退出していった。

「将軍、あの娘たちは、我々の気をひこうとしているだけですよ。当り散らすのは大人げないのではございませんかな」 田忌はあきれていた。

「まったく、軍師はいつでも冗談が言えるお人じゃな」 半ば腹を立てたまま、半ばあきれ返って田忌が答える。だが孫臏は昔のことを思い出していた。

「私はかつてブタの檻に入れられ、ブタの餌を食わされました。あの時のことに比べれば、此度のことなど、何でもございませんよ」 田忌も少し機嫌を直してきた。

「軍師、そんなにあっけらかんと言わんでくだされ。ブタの餌を喰らいながら、気が触れたマネを続けるのは、なかなか大変なことでござったじゃろうに」

「そうですな。あれに比べれば、此度のことなど何でもございませんな」 言いながら田忌の背中をおして食卓につけようとするが、なかなか田忌も強情を張る。

「まあ、一献傾けようではございませんか」

 田忌は本来難しい顔をし続けているのが得意ではない。孫臏が悲惨だった昔話を笑いながら打ち明けたものだから、この程度のことでいつまでも怒っているのがバカらしくなってきていた。それでも食卓につかない田忌の手を引っ張って、孫臏は無理やり食卓につかせる。

「まあ、座って」 自分も座る。「美女に酒とくれば、噂に聞く神仙の暮らしのようではございませんか」 

 田忌の杯に酒を満たし、ついで自分の杯にも満たす。

「考えてみれば将軍、斉を出てより、酒を飲むこともできませなんだなあ。今夜くらいは呑んで酔っても罰は当たりますまい。酔えば家へも帰れるというもの」 田忌が子供のような顔をして聞いた。

「家へ?」 家と聞いては田忌は我慢できなかった。

「酔えば、夢の中で故郷に帰れますぞ」 田忌は難しい顔をしているのに疲れていた。もうこのあたりで11_4気分をほぐしたかった。

「はははは…… そうか! そうじゃの! では我らの家のために乾杯といくか!」 やっと表情を和らげた田忌は、杯に手を伸ばした。

「そうですよ。さあ、ほれほれ…」

「先生も、ほれ」 乾杯の作法どおり、飲み干して空にした杯をお互いに見せ合う。

「悪くない」

「うむ、よい酒じゃ」 やっと機嫌よく杯を交わしだしたところへ、史皇大夫がひょっこりと顔を出した。二人が酒を酌み交わしているのを見て、微笑が浮かぶ。だが田忌は史皇大夫を無視したまま、左手で肉をむしり取って頬ばった。

「いや、お二方。楽しそうでございますな。酒と料理はお口に合いますか?」

11_5 「ふん、おぬしの面を見ると、せっかくの酒が不味うなるわ」 食べさしの肉を皿の上に放り出しながら、立ち上がろうとして、田忌は動作を止めた。そのままどうと倒れこんでしまう。

「将軍、将軍、どうなされた…!?」 それを見て慌てて立ち上がろうとした孫臏も、途中で動きを止め、史皇大夫の方へ倒れこんだ。史皇大夫の胸倉を掴みながらうめくように言う。

「こに酒は…? 何か盛ったな…?」

 二人が昏倒したのを見て、史皇大夫は両手を打った。それを合図に、さきほどの女が現れる。史皇大夫は命令した。

111_2 「よいか、この二人の面倒をよくみるのじゃぞ」 二人の女は従順に頭を下げる。

「わかりました」

「彼らが寝ている間に言うたことを、一言残らず憶えておくのじゃ。一字としてもらしてはならぬぞ」 してみると田忌と孫臏は、何か特殊な薬を盛られたのかも知れなかった。

「わかりましてございます」 頭を下げて二人の面倒を見始めた女を見ながら、史皇大夫は憎憎しげな笑みを浮かべて「ふん」と言った。その顔こそがこの男の本当の顔を現していたのかも知れない。

      *      *      *      *

 田忌の鼾が聞こえていた。孫臏は掛け布を撥ね脱ぐ。そばに控えていた女が、それを掛け直した。

「鐘離…春…」

111_3 「先生、何を仰っておられます?」

「鐘離春…」

 女は聞き耳を立てた。寝言で喋ったことは、一言残らず憶えておかなければならないのだ。

「鐘離春? 鐘離春とは何者でございます? 先生の奥様でございますか?」 だが孫臏は再び深い眠りの世界へ戻って行った。

「鐘離春……?」 その名の持っている意味は、女にはわからなかった。だがその賓舎の窓の外には当の鐘離春が影のように張り付いていた。彼女は口では何と言おうと、いつもこのように影が形んに寄り添うように、いつも孫臏を守っていたのである。

 今度は孫臏は掛け布を頭まで被ってしまう。女がそれを元通りに直すと、再び孫臏がうめくように言った。

111_4 「鐘離春……  鐘離春……」 孫臏が口にした言葉と言えばそれだけだった。それを耳にした鐘離春は、胸が熱くなった。あのバカな男が… あたしの前では強がってばかりいて。本当は…  孫臏が愛しているのは、やっぱりあたししかいないんだ。夢の中には嘘は持っていけない。この瞬間に彼女の心は決まった。それまでも影に日向に孫臏を守ってきたが、今以降、いつでも孫臏のためにだったら死んでやろう。あたしの生命なんて惜しくない。思わず涙がこぼれそうになって、鐘離春は窓際から離れた。

 だが部屋の中では史皇大夫がうろうろしていた。

「孫臏は何を言っておる?」 孫臏につきっきりの女が寝所から出てくるのを待ちかねたように尋ねる。

「鐘離春、と申しておりまする」 女は聞いたとおりを答える。

「鐘離春? 何者じゃ、それは」

「わかりませぬ。それ以外のことは何も…」

 史皇大夫がもう少し注意深ければ、きっとどこかで聞いたことがあったはずの名前である。魏、楚、韓、燕の四カ国連合軍が臨淄を囲んだとき、孫臏は擒賊擒王の奇計で龐涓を何万という軍の真ん中で捕らえ、形勢を一気に逆転した。あの時の将軍の名前は、すでに天下に聞こえ始めていた。田国に名前とともに、鐘離春の名前もである。史皇大夫が自分が関係しなかった戦の情報に疎いために、孫臏の口から漏れた名前の意味がわからなかったのだ。

 田忌の係だった女も出てくる。史皇大夫は彼女からも聞き出す。

「田忌の方はどうじゃ? 何か言ったか?」

「はい。帰りたいと申しておりました」

「帰りたい?」 田忌の望みは本心からそうだったのだ。自分が策士であるため、誰を見ても本当のことを言っているようには思えないのは、史皇大夫の哀しい性のようなものになっていた。

「斉へ帰りたいとだけ」 史皇大夫はアテが外れたことを知った。あまり立派とはいえない髭をしごく。

「それだけか? 他には何も言っておらなんだか?」 女は頷くばかりだった。

                     (続く)

      *      *      *      *

 はい、悪趣味な史皇大夫ですが、今しばらくお付き合い願います。この人はこうやって生きることしか知らないんですね。まだまだ悪さをいたします、でも時々恥をかきます、はい。

【第十一章の主な登場人物】

11_6 孫臏(そん・びん):本編の主人公。孫子の末裔にして『孫子の兵法』を鬼谷子より、たった一人だけ許される。

 本章では斉の相国・鄒忌(すう・き)と公孫閲の陰謀により、借刀殺人の計にかけられ、楚国に派遣された後の行動を描いている。11_7

田忌(でん・き):今は兵権を返還しただ、元は斉の大将軍。

孫臏を門客として迎えてから、斉の朝廷で大きな権力を握り、それを妬まれて楚国へと使いに出された。豪胆に見えて繊細、孫臏のことを兄弟とも師匠とも思っている。

11_8 鐘離春(しょうり・しゅん):孫臏の護衛。

 魏から孫臏を脱出させたとき以来、ずうっと孫臏を守り続けている。彼女から結婚の申し出があったが、孫臏に拒絶され、怒りのあまり斉を出奔した。その後も密かに孫臏を守り続けている。剣術の達人で、男装を好んでする。

11_9 龐涓(ほう・けん):魏国の元帥。

 孫臏とは鬼谷子門下の同窓生。鬼谷子が孫臏には教えた『孫子の兵法』が自分にはその資格がないと与えられなかったので、なんとかして『孫子の兵法』を手に入れようと画策している。本章では斉に潜入させた腹心の公孫閲の成果に乗り、自分が楚国に乗り込んで、孫臏の持つ『孫子の兵法』を手に入れようとする。

11_10 龐葱(ほう・そう):魏国の将軍。龐涓の甥。

『戦国策・魏策二』にある「三人言而成虎」の逸話を残したのは、本編第三十四章『苦肉計』で紹介するが、公孫閲が斉に出た後、龐涓が自分の腹心として育てようとしている人材。

11_11 史皇大夫(しこうたいふ):楚王の謀臣。

 楚王に仕え、己の才覚で楚を強国にしようとするが、残念ながら力量不足。そこでさまざまな陰謀を巡らせ、生き延びる方法を探している。表はいつも愛想笑いを浮かべながらも、常に相手の隙を狙っているような人物。

11_12 楚王(そおう):楚国の王様。

 玉と追従が大好きという超俗物王。しかしながら強欲で、天下に覇を唱えようという野心も持っている。本章では斉から葱を背負ってきた鴨(田忌と孫臏)の処遇を巡っていろいろと陰謀を巡らす。それに孫臏や龐涓の策が絡んでお話が進展していく。

2009年7月27日 (月)

『戦国の竜虎』・50 ~第十章 借刀殺人〔5〕 借刀殺人の計~

 いや、毎晩痛い。これで4本目の親知らずだが、生えるだけでここまでしんどい目を見るのは初めてである。母は年のせいで、身体のあちこちが固くなっているからだというが、確かに柔軟性などはかなり(どころか!)低下しているが、お肉も固くなっちゃったのね。

 まあいいや。痛いけど、歯が抜けるよりははるかにめでたいことだから(しかし、この痛さは何とかならんもんかね? 歯医者のNさんは「今が一番痛いとき」と仰った。でもこの痛さって、もう3日くらいは続いているよ。何でも3日たてば変化は出ると信じているんだけどなあ。明日も歯医者さん通いである。女性スタッフのみなさんがとても親切なので、好感を持っている。歯医者は嫌いだけど…)、辛抱しますか。

 ということで復活『戦国の竜虎』の5回目、通しで50回目でございます。今回は私の嫌いなキャラが出てまいりますぞ…

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・50 ~第十章 借刀殺人〔5〕 借刀殺人の計~

【5】借刀殺人の計

 楚の国都・郢(えい)に到着した後、田忌(でん・き)と孫臏(そん・びん)は賓舎に通された。今はその立場ではないと言っても、斉の全軍に号令102していた大将軍とその軍師である。賓舎は豪華だった。だがいつまでたっても楚王への謁見は叶わなかった。

 田忌は暇をもてあまして、戦陣の演練をやっていた。孫臏は脚が悪いのに、立ち上がってうろうろしていた。

「到着して5日になるのに、まだ何の音沙汰もないとは、不思議でございますな」 孫臏は楚王の態度に、なんとなく不安を感じていた。それに答えるように田忌が言う。

「楚王は忙しいのかも知れん」 だがそれにしても遅すぎる。

「かりにもっと忙しかったとしても、我々は斉からの使者でございます。他国からの使者に目通りさせぬとは、楚王はよほど礼儀を知らないと思われますな」 戦陣の演練に使っていた石を投げ出すようにして田忌もそれを認めたような返事をする。

「ひょっとすると、楚王は斉楚同盟に不賛成なのかも知れぬ」 それにしても、何の動きもないのが不思議だった。

「不賛成なら不賛成で、何か言ってきてもよさそうではございませんかな」 孫臏が杖で床を一つ、コツンと打った。明らかに彼は苛立っていた。田忌が聞いた。

「軍師はどう思われる?」 孫臏は首を振った。

「まだ読めませぬ」 それを聞いて田忌が言う。

「では明日行って、問いただそうではござらんか」 だが孫臏はまたも首を振った。

「いや、それも感心いたしません。何か不測の事態が起こったのかも知れませぬし。そうすると藪をつついて蛇を出さぬとも限りませんからな」 不測の事態と聞いて田忌が色めきたった。

「不測の事態じゃと?  何がどう不測なのじゃ?」 その時部屋の外で物音がした。

「誰だ!?」 孫臏が鋭く誰何し、簾の下りた窓から外を窺ったが、何者がいたのかはわからなかった。ここは楚国の郢である。誰かが彼らを見張っていても、何の不思議もなかった。

      *      *      *      *

「このところ、田忌と孫臏はいかがいたしておる?」 楚王は卓の上に置いたお気に入りの玉をためつすがめつしながら聞いた。その卓には見事な玉のほかにもう一つ、気になるものが置いてあった。それは斉から送られてきた密書である。中には、田忌と孫臏は楚国の内情を調べに行った間者であると書いてあった。楚国は戦国時代の南方の雄である。

「私が見ましたところ、彼らはわが国の内情を調べにきたようには見えませぬな」 史皇大夫(しこうたいふ)は、実は賓舎にいる二人を監視していたのである。彼らは毎日暇を持て余しているものの、これといって怪しい活動は行っていなかった。

「しかし斉からの使者は、彼らは我が楚国を探りにきたと言うておったぞ。うむ、史皇大夫、そなたは彼らをいかが処置すればいいと思う?」 その間もずうっと楚王は玉を眺めまわしたり、撫でさすったりしている。彼が生命の次に大切にしているのは、これらの玉であった。

「大王、この際でございます。彼らが我が国のことを探りに来たかどうかなど問題ではございませぬ。最も大切なことは、彼らをこの楚に引き留めておくことでございます」

 史皇大夫は策士である。楚王よりははるかに深読みもする。彼は彼なりに、思いもかけずいきなり飛び込んできた飛び切りの宝を、どのように使えば楚国に一番有利かを考えていた。

「引き留めておくじゃと?」 楚王は怪訝な顔をした。だが史皇大夫は当たり前のような顔で答えた。

「さようでございます。田忌は斉の大将軍でございました。斉軍の内情には通じております。大王が彼を重用なされば、もはや斉軍は恐るに足りません。また孫臏は当代きっての将才でございます。聞くところによれば、あの『孫子の兵法』にも通じておるとか。彼を上手く使うことができれば、大王が天下を得るも夢ではございませんぞ」

 もし彼らの協力が得られればという前提の話であったが、楚王には魅力的な話である。仮に彼らが協力しなかったとしても、斉軍の柱がなくなっているのである。斉軍が弱体化することは、国境を接している楚としては、心配の種が減り、なおかつ斉を侵略することができるようになったことになる。楚としては田忌と孫臏を国から出さないようにすればいいだけだ。

「うむ。その方の言うこと、もっともじゃ。史皇大夫、その方、彼らを我が国に留め置く方策を講じよ。しかしそれでも彼らが我が国に引き止められなければ、いかがいたすのじゃ?」

「その時は殺してしまいまする。大王の手に入らぬものを、他者に渡す必要はございません」 史皇大夫はさらりと言ってのけた。弱肉強食の時代である。ものごとを躊躇していては、目的などいつまでたっても達成できない。食えるときに相手を食っておかなければ、次は相手にこちらが食われるかもしれないのである。

「じゃがな、彼らを殺してしまえば、斉は余を非難するのではないか?」 この当時の中国の諸国は覇者を目指していた。覇者になるために最も必要とされるのは仁である。他国からの使者を、許しもなく殺したのでは、仁があるとは言われないだろう。どこの国王も仁がないと言われないように相手を叩くのに気を使っていたのである。だがいつもへらへら笑いを浮かべているだけのような史皇大夫は、そんなことはなんとも思っていなかった。

「田忌と孫臏が死んでしまった斉が大王を非難したとて、何ほどのことがございましょう? その時は軍隊を102_2派遣して、かの国を打ち負かせばいいだけの話ではございませんか」 要するに切り札を渡してしまった斉が悪いのである。

「なるほどな。うむ。では史皇大夫、その方に田忌と孫臏の相手を任せるぞ」

「御意」 史皇大夫は抱拳をした。

      *      *      *      *

「やあ、史皇大夫。ようこそ。さ、どうぞ、どうぞ」 田忌がにこにこと史皇大夫を迎え入れる。やっと楚王の側近が姿を現したのである。これから斉楚同盟の話が始まるだろう。史皇大夫もにこにこと応じた。

「せっかく楚にまでお越しいただいたというに、あいにく楚王は大変に多忙を極めておられまして、いまだに会談の時間を持てませぬ。まことに相すまぬことだと仰っておりました」 形どおりの侘びを並べる。

「そのようなこと、お気になさることはございませぬ。我ら、待てと言われれば、いくらでも待ちますぞ」 本当は苛々していたのに、田忌がうわべを取り繕う。

102_3 「いやいや。大王は使者殿にまことに申し訳なく思し召し、つまらないものではございますが、贈り物を賜れました」 史皇大夫が両手を打つと、二人の宮衛が盆に玉を持って現れた。

「いや、史皇大夫。このような大層なもの、いただくわけにはまいりませんぞ」 田忌がにこにこと満面に笑みを湛えたまま遠慮する。だが史皇大夫も楚王からの贈り物を渡さなければ、役目を果たしたことにならない。

「田将軍、孫先生、お二方は我が楚国の賓客でございます。その賓客を粗略に扱ったということで、我が君は大層悔いておられます。これをお収め願えなければ、大王はお二方が大変に不機嫌ではないかと解釈なされますぞ」 なんだか半分脅迫めいている。それを聞いて田忌と孫臏は顔を見合わせて笑った。

「わかり申した。ではいただきましょう」 にこにこと笑顔で話が進んでいた。そして表情を全く変えることなく、史皇大夫は折り畳まれた布を懐から取り出した。当時はまだ紙は発明されていない。手紙はほとんどが布に書かれていたのである。

「田将軍、孫先生、我が君がお二方にこれをお見せするようにと仰せでございました」 にこにこと笑顔の史皇族大夫から、やはりにこにこと笑っている田忌の手紙がうやうやしく手渡される。

 だがそれを読み始めると、田忌の表情が変わった。その手紙には彼らが楚を探りに行ったと書いてあったのである。田忌はそれを孫臏に渡した。

「これは流言蜚語の類じゃ」 孫臏も史皇大夫を詰問する。

「これはどういうことでございますかな?」  だが史皇大夫は表情も変えなかった。

「どうということもございませぬ。ここに書いてある通りでございます。これはさる斉の朝廷の要人から送られてきたものにございます」

 しゃらりとした顔で言う。その書が鄒忌(すう・き)が送ってきたものだということはすぐに二人にはわかった。こうしておけば楚王は田忌と孫臏を殺すであろう。それこそが「借刀殺人」だったのである。だが史皇大夫にはそんなものは関係なかった。彼の任務は、田忌と孫臏に、楚国に留まる気にさせることであった。斉の朝廷にはもうお二方の居場所はございませんよと遠まわしに言いたかったのである。だが田忌は正論で反論した。

「史皇大夫、我が君からの書はすでにお見せいたした通りじゃ。我々を信じてくだされ。われらは同盟を結びに来たのでござる。楚の内情などと探りに来たのではござらん」 だが史皇大夫はまたもしゃらっと言った。

「いや、信じろと言われましても、あなた方は兵家でございますよ。兵家と言えば虚虚実実、真真假假と言われております。私ごときがどうして、何が本当で何が嘘だと見抜けましょうか?」 史皇大夫のタヌキぶりが遺憾なく発揮されようとしていた。

「わしも斉の田忌じゃ。天に誓って、嘘はついておらん」 そんなことはすでに史皇大夫にはわかっていた。だがここでの議論は、彼らの言葉の真贋論争ではなく、彼らを斉に帰らせないようにし、あわよくば楚王のために働かせるようにすることであった。

「私もそのように思いますが、ただ… 大王を信用させる方法がございませぬ」 交渉の場で有利を占めようと思えば、二枚腰、三枚腰であることが必要である。自分は信用してやってもよいが、それでは主人がうんと言わないと言って、どんどん相手の出せる条件をなくしていくのである。こんな方法は我々の生活の中でも見かけるが、目的意識がはっきりしていない場合にはあまり有効な方法にはならない。

「ではわしが嘘をついていると、楚王は思われておるのじゃな?」 史皇大夫は笑った。

「もしも嘘の一つもつけぬようなお方なら、戦場で敵を打ち負かすことなど、とてもできないでしょうからな」 癪に障る物言いだった。後々、この二人は犬猿の仲になっていく。実直な田忌に対し、慇懃無礼を絵に描いたような史皇大夫である。無理もなかった。だが孫臏は落ち着いて言った。

「我らは友好国102_4へやってまいりました。友好国とは友のようなもの。友には嘘はつかぬものでございますが」 

「ではどのようにすれば、お二方が我が君に友であると信用させられますかな?」 まったく、ああいえばこう言う、こう言えばああ言うの典型であった。

「それはどういう意味でございますかな?」 単刀直入に孫臏が聞いた。この男とあれこれ話しても埒が明かないと思ったのであろう。

「楚国にお留まりなされ。そして我が君にお仕えなされ」 はは~ん、それが言いたかったのかと田忌と孫臏は納得した。田忌が孫臏の方をちらりと見て答える。

「それは無理というものじゃ」

「では我が君も、お二人を友としてはお認めにならないでしょうな」 まだ薄ら笑いを浮かべたままの史皇大夫は、へらへらと軽口を叩くような気安さで言った。

「そなた、わしらの弱みにつけ込んではおらぬか?」 田忌の忍耐が切れ掛かっていた。

「弱みにつけ込むなどと… とんでもない。私はお二方のためを思えばこそ申し上げているのでございます。考えてもみなされ、斉ではすでにお二方が楚に潜入して探っていると我が君に書を送ってくるような方がおるのですぞ。探っているのが事実かそうでないかは関係ございません。お二方は他国に送り込まれた後、そこで処刑されるように仕向けられているのでございます。もしもこのまま帰国なされても、けっしていい事にはならないと思います。しかしながら楚に留まってくだされば、我が君はお二方を重用すると仰っているのでございます」 

 相手の弱みにつけ込むのは、戦国の世のならいである。つけ込まれたくなければ、弱みなど他人に見せないことだ。だが誰にでも弱みはあるものだし、それを他人に衝かれることもある。今の孫臏と田忌がそうであった。だが孫臏はあくまで筋を通そうとしていた。

「わかりました、史皇大夫。ですが我ら両名は斉の使者でございます。斉と楚の同盟を結ばせなければなりませぬ。任務を果たさないで楚に留まる、留まらないと言っても仕方のないことでございます」 まずそれが使者としての義務である。それは史皇大夫も認めないわけにはいかなかった。

「それもそうでございますな。わかりました。私から我が君に申し上げましょう。きっと楚と斉の同盟を結んでごらんにいれますぞ」

 戦国の世に盟約などがどれほどの意味を持つのかわからなかったが、使命は使命である。何事でも実行できる力を持たなければ効力を持たない盟約でしかなくても、王命を果たすのが最優先であった。そしてこの不利な状況の中で、孫臏は相手の史皇大夫に盟約を結ぶことを確約させたのである。更に彼はもう一つの要求を出そうとしていた。

「同盟が無事結べたとしても、我ら両名は、帰国してそれを我が君に報告せねばなりません」 まさに正論である。だがさすがにそれは史皇大夫が認めなかった。相変わらずしゃれっとした顔で言う。

「いやいや、孫先生や田将軍おん自らが報告なさることもありますまい。伴の者にでも報告させればそれで十分でございましょう」 だが田忌がそれを遮った。彼は威王に言われているのだ。帰国しなければ、一族を皆殺しにすると。

「そうはいかんぞ。我らは斉の使者じゃ。使者である以上は、我らがじきじきにご報告せねばならん。これは使者としての当然の務めじゃ」 田忌の声には少し怒りがこもっていた。

「田将軍、そう先を焦られましては、うまくいく話も壊れまする。よくよくお考えの上、慎重にお答えくだされ」 そして史皇大夫は孫臏の顔も覗き込んだ。「では、今日はこのあたりで失礼つかまつります」

   拱手をしてさっさと退出する。後には彼のへらへら笑いだけが漂っているような、なんとも嫌な雰囲気が残った。

「予想外じゃったの。まさか楚王がそのようなことを企んでおったとは。これから我らはどのように102_5動けばよいのじゃろう?」 田忌の態度には明らかに楚王と史皇大夫への嫌悪感が現れていた。孫臏は楚王からという書をいじくりながら、ぽつんと言った。

「まずは同盟を結ぶことですな。楚王の親書を手に入れたら、早馬を飛ばして大王にご報告いたします。他のことはそれから考えることにいたしましょう」

      102_7*      *      *      *

 楚から斉へと続く道を、早馬は走り去った。これで楚と斉の同盟は成ったが、使者である孫臏と田忌は楚都・郢に留め置かれたままであった。楚の王宮では、楚王が苛々とした口調で、傍らの史皇大夫にきつい言葉を投げつけていた。

「同盟はすでに成ったぞ。余の親書はすでに渡したはずじゃ。何ゆえ彼らは余の要求に答えようとせぬ?」

「彼らが申しまするには、今少し、仔細を思案したいと」 とりなすように史皇大夫が言う。彼は楚王と孫臏、田忌をつなぐパイプ役といったところだ。

「もしも余の提案を拒むのであれば、余は彼らを殺すぞ」 だが史皇大夫は楚王を諫めようとしていた。

「大王、急いては事を仕損じるとか申しまする。孫臏を得る者は天下を得ます。あと二日、ご猶予を願いまする」 二日の間に孫臏に翻意させるつもりなのだ。

「二日たっても彼らが受け入れなければ、いかがいたすのじゃ?」 不機嫌に言った楚王の言葉に、史皇大夫はいつも通りうまく答える。彼は楚王の扱い方には秀でていた。二日後にも楚王の考えが変わっていなかったとしても、二日後には二日後の言い訳ができることを知っていた102_6からである。

「その時になって殺しても、遅くはないのではないでしょうか?」 楚王はしぶしぶ頷いた。

「よし。もう二日だけは待ってやろう」 楚王は足音も荒く、謁見の間を出て行った。

      *      *      *      *

 賓舎では孫臏と田忌が時間稼ぎをしていた。彼らの使命は、斉と楚の同盟を結ぶことである。それを果たすためには、どのように情勢が変わっても、早馬が無事に威王のもとに届かなければならない。だから早馬が、何があっても楚王の指示のままことが進む楚領から、脱出するまでは時間を稼がなくてはならなかったのだ。

「親書を持たせた者も、もう楚領から出た頃でございましょう」 孫臏の言葉に田忌も頷いた。そこへ102_8またしてもへらへら笑いが入ってきた。拱手するがその動作には恭しさは全く感じられない。この男の本質が出ているからに違いなかった。

「田将軍、孫先生、二日たってしまいましたぞ。どのような結論にたどり着かれましたかな?」  田忌がわざと惚けた。

「史皇大夫、何がどうのようなじゃ?」 

「楚国に留まっていただけるかどうかということでございます」 今度は田忌はきっぱりと答えた。

「その仰せにはお応えしかねる」 まだ史皇大夫のへらへら笑いは消えていなかった。

「お考えは変わりませぬか?」

「くどいっ!!」 今度は史皇大夫は孫臏に尋ねた。

「孫先生、あなたはいかがでございますか?」 史皇大夫は気安く孫臏を軽く小突きながら聞いた。

「あ、田将軍がすでにお答えしていると思いましたがな」 呆けたような顔をして孫臏が答えた。しかし事が事だけに史皇大夫も念を押す。

「どうしてもお考えは変わりませんか?」 へらへら笑いから脅迫するように、僅かに史皇大夫の態度が変わった。田忌はそれに答えて断言した。

「大丈夫の言葉である。九鼎よりも重い!」 田忌はまるで汚らわしいものを見るかのような目で史皇大夫の小柄な身体を見下ろしていた。

「わかりました。残念でございますが、我が君の仰せでございます。お二方には死んでいただくよりありませぬな」 史皇大夫の顔には笑みはなかったが、それでもへらへら笑いが漂っているような気がしていた。

      ☆      ☆      ☆      ☆

『借刀殺人』は『三十六計』の中の第三計である。その意味するところは、他人の手を借り、自分の手を汚すことなく敵を倒すことである。

 鄒忌と公孫閲はこの計を用いて孫臏と田忌を楚国に送り、楚王の手で彼らを除こうとし、死地に陥れた。だが刺客は失敗し、史皇大夫と楚王の間にも様々な思惑が交錯しており、このまますんなりと話が進むとは考えられない。

 この後、事態がいかに展開するか、次章『趁火打却(ちんかだきょう)』をご期待ください。

      *      *      *      *

 なんやらごたごたと内紛ものを書いているようで、すっきりしませんでしたな、この第十章は。でもまあ本物の兵法は、戦場でなくても使えるものでしょうから、こんな使い方の方がはるかに現代社会に適しているといえるかもしれません。この章には龐涓(ほう・けん)が登場しませんでしたが、次章からは彼も大活躍いたします(ということは孫臏は大変だ)。ではでは……

2009年7月26日 (日)

『戦国の竜虎』・49 ~第十章 借刀殺人〔4〕 刺客~

 親知らずが治った治ったと喜んでいたら、単純に鎮痛剤が効いていただけでございました。薬が切れたら痛いの熱いの… いやあこれで4本の親知らずが生え揃うわけですが(やっとこれで一人前?)、最後の1本だけに痛いよ~。大学時代までに3本生えていたのに、どうしてこんなに久しぶりに生えるのかなあ… また若かった頃みたいに元気出して、やりたい放題をやれってえのかなあ…

 それはともかく、今は口を冷やせと歯医者さんに言われたのをいいことに、アイスクリームばかりを食べている。それって、今度は虫歯になりそう…? でもうがいも2時間おきにやっているから、ま、いいか。でも太るかも。

 で雨の中を音楽を聴きながら車を転がしていたら、懐かしいダニエル・リカーリのスキャットだよ~ん。いい雰囲気だね~、と思っていたらB.J.トーマスの『雨にぬれても』に変わっちゃった。はい、外は土砂降りでございます。「雨にぬれても」なんて悠長なことを言っている余裕はなさそうでございます。

 ということで、数年前に某総理大臣が流行らせた「刺客」でございますが、あんまり有名になっていい言葉と違いますねえ。というのは今度自分の地盤を継がせようとしている次男坊に、もしもどこかの有力な政党が「刺客」を立てたら、どんな気がするんだろう? そしてもし落選でもしたら、どうするんでしょうね。でもそれって、自分がやって見せたことなんだけどね。

 歴史は繰り返します。時として攻守ところを入れ替えて、繰り返すこともありますから、まああんまり感心できない手は使わないほうがよろしいのではございませんかな。ということで今日は復活『戦国の竜虎』の4回目でございます。タイトルも『刺客』でございます…

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・49 ~第十章 借刀殺人〔4〕 刺客~

【4】 刺客

 その夜、田忌(でん・き)と孫臏(そん・びん)が止まっている旅籠の外で蠢く影があった。全身黒ずくめの二つの影である。彼らは塀を乗り越え、旅籠の壁に忍び寄り、窓から中を覗き込んだ。

 まず剣で扉をこじ開けようとしたが、先ほど田忌が確認したおかげ、でびくともしない。そのうち中で寝ずの番をする習慣がついていたのか、田忌が物音に気づいたらしく、野太い声がした。

「誰じゃ?」 慌てて二つの影は姿を隠す。その後当直の護衛がやってきたが、黒ずくめの二人は見つからない。当直の護衛が姿を消すと、今度は黒い影の片方がなにやら道具を持っ101て姿を現した。弩である。

 弩という強力な飛び道具は、戦国時代になって開発された。それまでの弓に比べ射るのに動作が小さくて澄み、命中精度、飛距離ともに飛躍的に伸びたものである。そうして窓の格子の間から覗き込み、矢を射掛ける。確かに矢は、寝台の上にある誰かが寝ているらしい盛り上がりに命中した。

「やったな!」 慎重の高い方が弩を持っている方に 小声で言った。弩を持った刺客は小さく頷く。

「行って見て来いよ」 背の高い方が頷く。「慎重になりすぎて、失敗などするなよ」 部屋の中には二人いるはずである。まだ矢は1本しか射ていない。もう一人は剣で殺すつもりなのだろうか。

「もし死んでおらなんだら、帰ってどう報告すればいいのじゃ?」 背の高い刺客のほうである。案外心配性なのかもしれない。

「毒矢が当たって死なぬ者などおらんわ」 窓の下で二人の刺客が囁く微かな声が続いていたが、それとは別の男のものではないが低い声が響いた。

「心配するな。彼らを殺させはしない」 刺客がまったく気がつかないうちに、一人の人物が影のように近づいていた。二人の刺客は完全に虚を衝かれていた。だが気を取り戻して誰何した。

「お前は何者じゃ?」

「お前達を殺す者じゃ」 鐘離春(しょうり・しゅん)であった。鐘離春の声は氷のようだった。

「やれるものなら、やってみい!」 二人の刺客も剣を構える。彼らとて刺客をするくらいだから、腕に覚えがないわけがない。だが鐘離春の繰り出した切っ先の鋭さに、先ほど弩で射掛けたほうの刺客は防戦一方になった。それほど鐘離春の剣は凄まじかった。もう一人はさっさと遁走の術に移る。

 彼らも刺客としての役目はある。二人いるというのは、仕事を見届ける意味もあるし、片方でも生き延びて、結果を報告しなければならないからだ。一人、鐘離春と剣を交えた方は、脂汗を流しながら、もう一人が逃げ延びる時間を稼いでいる。だが鐘離春の剣技は彼の想像をはるかに超えていた。

「剣を捨てろ! 生命まで取ろうとは言わぬ」 鐘離春の降伏勧告にも意地だけで言い返す。

「ふざけたことをぬかすな!」 だが防戦一方の彼はあっと言う間に剣を弾き飛ばされた。その頃、旅籠の中では孫臏と田忌がひそひそと話し合っていた。

「孫先生、大丈夫でござるか?」

「生きておりますぞ」 弩から放たれた矢は、彼の寝ていた寝台の掛け布に突き立っている。寝台の下にいなければ殺されているところだった。

「聞きましたか? そとで何か起こったようでございますぞ。わしが行って見て来ましょう。鐘離春の声のように思うたが」 田忌がのそのそ起きだす。

「兵は詐を以って立101_2ちます。まさか我らをおびき出す罠ではないでしょうな?」 孫臏は用心深かった。その時、田忌がちゃんと閉めたはずの扉が、いきなり開いた。そこから刺客が一人転がり込んでくる。

「孫臏、出といで。どうせどこかに隠れてるんだろう?」 その声に、寝台の下か101_3ら孫臏が顔を出した。仁王立ちになっている鐘離春に比べて、なんとも情けない間の抜けた姿だった。 

「鐘離姑娘、あなただったか…」 寝台の下から孫臏が答える。田忌ものそのそと寝台の下から這い出してきた。

「一人は捕まえた。そいつだよ。もう一人は逃げた」 それだけ言うと、鐘離春はくるりと身を翻し、闇の中に消えて行った。

「あっ、鐘離姑娘!」 孫臏は慌てて寝台の下から這い出し、鐘離姑娘と連呼しながら外へ飛び出して名を叫んだが、返事もなければ影も見えない。急に動いたので、膝に激痛を覚えてしゃがみこんでしまう。

 その頃になってやっと従者が駆け寄ってくる。しゃがみこんだ孫臏に従者の一人が肩を貸して立ち上がらせ、そこらを探し回るが鐘離春の姿はどこにも見えなかった。

101_4「孫先生、いかがなされました?」 従者の問いに孫臏はそっけなく答えた。

「いや、なんでもない。それ よりも門を開けよ」 開いた門から外を見ても、漆黒の闇が広がるばかりで、どこにも鐘離春の気配が感じられず、闇の中に鐘離姑娘を呼ぶ孫臏の声が吸い込まれていくだけだった。

      *      *      *      *

 宿舎の中では捉えられた刺客が座らされていた。周囲を田忌と、兵士達がぐるっと取り巻いている。田忌が尋問する。

「言え、誰に頼まれたのじゃ?」 刺客の条件として依頼主のことは一切明かさないというものがある。この刺客もそうであった。簡単に口を割ったりしない。兵士の一人が剣を突きつけた。

「言わねば斬る」 だが刺客はふてぶてしくそちらにちらりと目を送っただけで無視した。田忌が吐き出すように言った。

「ふん。お前が口を割らんでも、わしは知っておるぞ。鄒忌(すう・き)であろうが。どうじゃ?」 刺客は表情も変えなかった。そして一瞬彼らの隙を見つけると、傍らにあった太い柱に、気合もろとも飛んだ。柱に激突して鈍い音を立てて倒れる。兵士の一人がすぐに倒れた刺客の頚動脈に手を当てたが、すでに脈はなかった。

「将軍、死ん101_5でおります」 死ぬことによって自分が口を割らないようにする。命を粗末にしているようだが、大切な命を以って依頼主に誠を示したのである。刺客というのはこういう男たちなのだ。田忌はため息をついた。

「こやつも漢(おとこ)じゃ。連れて行って丁重に葬ってやれ」 田忌も漢である。刺客の心意気を愛でて、それに相応しい葬り方を命じた。それにしても鄒忌の奴、小汚いマネをしおる。田忌のハラワタは煮えくり返っていた。鄒忌のために生命を落としたこの刺客の方が気の毒に思えたのである。

      *      *      *      *

 刺客たちを片付けた田忌たちの旅路は、一転、気が楽なものになった。確かに斉の朝廷内では鄒忌にしてやられ、厄介払いのような楚への旅であったが、刺客の危険が去った今となっては気分がまったく違う。馬車の上の田忌は上機嫌であった。

「はははは… 軍師、刺客どもが片付いたので、これで安心して楚への使者の仕事が出来ますな」 だが孫臏はひねくれたことを言った。101_6

「できることなら私は、もう一度刺客に狙われてみたい」 彼は呑気な顔をして、さらりと言った。

「何ということを申すのじゃ?」 田忌が聞きとがめるが、孫臏は何の苦もないような顔で言った。それは彼がいかに鐘離春に依存しているか、そしてそれを当たり前のように思っているかを表すものだった。

「もう一度刺客に襲われれば、また彼女に会えますからな」 田忌はこの神業のような用兵ができる男が、実は鐘離春を心から愛しているのを感じていた。ここまで信頼しきっているのは、愛情なしには考えられなかった。

「軍師はまだ彼女のことを思っておるのじゃな?」 だが孫臏の言葉には可愛げがなかった。

「違います。彼女に、禽先生が仰っていたことが本当かどうかを確認したいのです。もう一つ、いつから我らをつけていたのかも。あの夜、どうして彼女は我々が寝台の下で眠っていることを知ったのでしょうな? 我らは彼女がどこにいるのかまったくわかりませんが、彼女はどうして我らが、いつどこで何をしているかを知っているんでしょうな?」 

 確かにそれも謎であった。だが孫臏が鐘離春を愛しているのは、田忌の目には明らかだった。

「そうじゃの。もしも鐘離春が男じゃったら、天下に相手ができるものはおらんじゃろうの」 その言葉には孫臏も素直に応じた。

「さようでございますな。今でも彼女の相手ができる者は、天下にそうはいないでしょうな。私の知っている範囲では、彼女よりも腕が立つものと言えばただ一人でございましょう」 そんな手練がまだいるのかと田忌は思った。

「それは誰じゃ?」 

「龐涓(ほう・けん)の謀臣、公孫閲(こうそん・えつ)でございます」 孫臏の答に、あの龐涓ならば、そのような者でも抱えているかも知れぬなと、田忌は感心した。だがもとはと言えば、鐘離春にしても公孫閲にしても、斉の王位を田氏が簒奪した時には、斉の臣下だった者たちの血筋だったのである。

      *      *     *      *

 もう夜も遅かった。公孫閲が扉を開けると、鐘離秋(しょうり・しゅう)は起きて寝台に腰掛けていた。公孫閲はすまなそうな笑みを浮かべて彼女に謝った。剣を取っては天下無敵の公孫閲だったが、彼は自分の妻を心の底から愛していた。彼女を手に入れるために、大恩ある龐涓ですら裏切ろうとしたくらいなのだから。

「ははは… すまなかった。また遅くなってしまったね。相国があまりに上機嫌で、私を放してくれなかったんだよ。私としても相国の門客だから、彼の面子を潰すわけにはいかない。どうか許しておくれ」

 孫臏と田忌を公職から引き摺り下ろし、楚へと使いに出しておいて刺客を放った。今の斉には鄒忌の敵はいなかった。しかも公孫閲はそういった状況を作り出した最大の功労者である。鄒忌の彼に対する信任は厚かった。だが浮かれている公孫閲の目の前で、鐘離秋の表情は硬かった。

「私が相国の下僕から聞いた話では、孫臏から軍権を取り上げ、楚に派遣したのは相国でございますそうな」  自分の肩に腕を回している公孫閲の顔を真っ直ぐに見ながら、鐘離秋は言った。部屋の中に一瞬で気まずい空気が充満した。公孫閲はしぶしぶ彼女の言ったことを認める。

「その通りだ」 さらに追い討ちをかけるように鐘離秋は言葉を続けた。

「まだあるわ。孫臏の護衛の一人が人を殺したそうね。そしてその護衛は女だったとか。今国中をあげて探しているそうね」 下を向いた公孫閲も観念したように鐘離秋の顔を見て頷いた。

「うん」 今度は鐘離秋の方が視線を外す。

「その護衛って、もしかしたら姉さんじゃない?」 再びまっすぐに妻に見つめられて、公孫閲の立場は苦しくなった。彼の最愛の妻は、彼の敵である孫臏の傍に仕えている。妻は最愛の人だが、その姉は敵の側に仕えているのである。しぶしぶ公孫閲は認めた。

「その通りだ」 まるで叱られた子供のようだった。

「どうして早く教えてくれないのよ?」 公孫閲は苦しげに答えた。

「私が一番恐れているのは、お前が知ってしまったら、姉さんの身代わりになってしまうんじゃないかということだ」 鐘離秋は頷いた。

「そうかもしれないわね。でもこれでもう私は姉さんに会えなくなってしまったじゃないの?」 泣き出した秋を見て、公孫閲は彼女を抱きしめて慰めるしかできなかった。

「そんなに悲しむことはないよ。善かれ悪しかれ、私たちも時期を見て、ここを出るつもりだからね。それに今、相国に申し上げて、大王にお前の姉さんの罪を赦してもらえるように上奏してもらっているところなんだ。そうすれば姉さんが帰国し次第、また会えるじゃないか」 まるで泣いている子供をあやしているようなものだった。

「相国はあなたの言うことを聞いてくれるの?」 泣き泣き秋が尋ねる。公孫閲は自信たっぷりに答えた。

「ああ。も102ちろんだよ。今では私を一番信用してくれているしね」 

「じゃあ、大王は相国の言うことを聞いてくれるの?」 秋はまた公孫閲の方に向き直った。

「もちろんだよ。国家の大切なことはすべて、相国が仕切っているよ」 秋は真っ直ぐに夫の顔を見た。公孫閲はこれに弱かった。

「公孫、あなたに一つだけお願いしていい?」 改まった様子に、公孫閲はどぎまぎしてしまう。だが大抵のことなら彼は妻の言うことを聞くつもりだった。

「もちろんだよ。何でも言うといい」 鐘離秋は口を開いた。その時公孫閲は、しまった、安請負してしまったと思ったが、もう遅い。

「私が聞いたところでは、孫臏が兵権を剥奪されたのは、相国に罪を着せられたからだというじゃない。あなたから相国に、孫臏に難癖をつけないように言ってくださらない?」 孫臏が軍師でなくなったのは、彼の衛士である鐘離春の易者殺しの容疑が原因である。少なくとも表向きはそうなっているはずなのに、それが鄒忌の仕業だと、表に出歩くことのない鐘離秋ですら知っていたのだ。

 しかも鄒忌に取り入ることで、斉の朝廷に食い込もうとしている公孫閲には、一番難しい願いだった。彼が鄒忌のもとに身を寄せたのは、何はおいても孫臏潰しのためである。なのに秋は孫臏を助けろという。それは龐涓の命令とも、鄒忌の希望とも反対のことだったのである。

 さらに孫臏は公孫閲にとっては、妻を争ったライバルである。だから立場を考えれば公孫閲にとっての孫臏は、不倶戴天の敵でしかなかったのだ。公孫閲はすまなさそうな顔をして言いわけをした。

「他のことなら何でもかなえるけれど、そのことだけはちょっとなあ… 相国と孫臏はずうっと反目し合っていて、溝が深いからね」

「でも相国が一番信頼しているのはあなたなんでしょ? もしも相国があなたの願いを叶えなかったら、相国はあなたの面子を潰したことになるんじゃない?」 秋には公孫閲の微妙な立場は理解できていなかった。人間関係は簡単な計算のようにはいかないものだ。

「話としてはそうだけど、この件ばかりはなあ…」 公孫閲は弱りきっていた。

「公孫、これだけ叶えてくれたら、他のことは何だって我慢するから…」 最愛の妻にそこまで言われたら、公孫閲も呑まざるを得ない。ただ現実にそれができるかどうかとなると、まず不可能だ。人は追い込まれたときには仕方なく嘘をつくことがある。この時の公孫閲もそうであった。

「わかった。なんとかやってみるよ…」 やっと鐘離秋の顔に微笑みが戻った。その時部屋の外から男の声がした。公孫閲を呼んでいる。

「誰だ?」 久しぶりに夫婦水入らずになろうとしている時の邪魔である。公孫閲の声は不機嫌だった。

「私でございます。例の件で…」 扉を薄く開けて首を出してみれば、刺客に出した男の片方である。この男を妻に見られるわけにはいかない。慌てて公孫閲は男に返事をした。

「少し待っておれ」 そして鐘離秋に言い訳をする。このところの公孫閲は秋に言い訳ばかりしていた。それは彼がいかに孫臏らを追い落とすために活躍しているかという証であった。「悪い。すこしだけ待っていてくれないか」 すたすたと男を待たせている部屋に行く。鐘離秋も夫が忙しくしているのはよく知っていた。だがその忙しさは彼女が愛した孫臏を潰すためだったのである。

      *      *      *      *

 鄒忌はくつろいだ格好で竹簡を読んでいた。この男はただの腹黒ではない。きちんとした教養もあり、政治手腕も確かであった。歴史上百家争鳴と言われた空前の思想世界の盛況が訪れたのは、斉の威王とその子の宜王(ぎおう)の時代の臨淄(りんし)であったが、彼の一族からも後に鄒桁(すう・えん)という大哲学者が現れている。彼自身も大変な勉強家であった。

「相国、刺客は失102_2敗いたしました」 部屋に入るといきなり公孫閲は切り出した。鄒忌は持っていた竹簡を放り出すように取り落とした。

「そなた、刺客が万事上手くやると申しておったではないか」 思わず詰るように言う。

「刺客の申すには、暗闇の中に、密かに田忌と孫臏を助ける者がおったそうにございます。二人の刺客は、その者の敵ではなかったとか」 公孫閲は刺客から受けた報告のまま鄒忌に告げた。

「それは誰じゃ?」 そんなことができる人間は、公孫閲には一人しか思い浮かばなかった。

「おそらく鐘離春でしょうな」 だが鄒忌としては、どうして彼らの陰謀が彼らに漏れたかの方が気になっていた。

「そやつがどうしてこんなことを知っておるのじゃ?」 もちろんそれは公孫閲にもわからなかった。だが客観的事実のみを語った。

「彼女の腕は私もよく知っておりますが、天下広しと言えども、彼女の相手ができる人間は数人とはおりますまいな」 だが今の鄒忌が一番必要としていたのは、強い弱いではなく、次にどんな手を打てばよいかということであった。

「では田忌と孫臏はいかがいたすのじゃ?」 だが公孫閲は自信があった。だいたい刺客などは最初から計画にはなかったことなのである。本来は楚王の刀を借りて、田忌と孫臏を殺す予定だったのだ。

「まだ楚王がおります。すでにかれらは楚領に入っております。楚王も彼らを手放したりはしないでしょう」 田忌にしても斉国の軍事のすべてを司る大将軍だった男である。孫臏は噂に聞く『孫子の兵法』の唯一の伝承者である。そんなご馳走を背負った鴨を、楚王が素直に返すはずがない。

「そうであることを祈るばかりじゃな」 難しい顔をしたまま、鄒忌が言った。すでに田忌も孫臏も楚国にいる。もう手出ししようにも、鄒忌には打つ手がなかったのである。

                      (つづく)

      *      *      *      *

 いやあ、古代中国にはいろいろな刺客がおりますな。そして刺客には刺客独特の美学があったりするので、司馬遷は『史記』の中にわざわざ『刺客列伝』を残しているぐらいでございます。

「士為知己者死、女為説己者容(士は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のためにたかちづくる):予譲『史記・刺客列伝』)」

「風xiaoxiao(嘯にくさかんむり口なし)兮易水寒、壮士一去兮不復還(風はしょうしょうとして易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず)と謳われたjing(刑にくさかんむり)ke(車へんに可):日本では《けいか》と呼ばれておりますな)」などもすべてこの刺客列伝でございますよ。

 今の日本の政治界で、こんな美学がある刺客なら、まだいいんですけどね……

2009年7月25日 (土)

『戦国の竜虎』・48 ~第十章 借刀殺人〔3〕安眠~

 いやあ現代の医学は素晴らしいですな。あれほど痛かった親知らず、昨夜も寝られなかった親知らず、肉を被ったまま生えてきて、膿を持っていた親知らず(どうりで練習後、じっとしていられないくらい痛んだはずだ)も、今朝幼馴染の歯医者さんNさんのところで1回治療したばかりで、嘘のように楽になった。

 今では欠伸もできるようになった(痛くて口が開かなかったのね。首の後ろがガチガチで、上を向くことも難しかったんだよ)。貰った薬を1回飲んだだけでである。何度も言うが、医学や科学の進歩は素晴らしい!! 薬などが発達していなかった大昔の人は大変だったろうなあと思う。

 臏刑(びんけい:本ブログの読者にはおなじみ、膝蓋骨を切除する春秋戦国の頃の刑罰ですな)に処せられた孫臏(そん・びん)が、まず感染症にかからなかっただけでも、彼を看護した鐘離秋(しょうり・しゅん)がどれだけ手厚く看護したかがわかりますな。何しろ薬草を煎じて、それに浸した布で傷口を拭ったり、せいぜいが薬草を食べるくらいだったわけだから。

 ちなみに以前も書きましたが、膝蓋骨のなくなった人間が、はたして歩けるかどうかということは友人のお医者さんに調べていただきました。現在そういう刑罰がないのではっきりとしたことは言えないけれど、人体の構造上、立って歩くくらいは可能ではないかというお答えです。

 それから臏刑をよくyue(月へんにリ)刑と勘違いした記述が多く見られます(中国古代の歴史モノをマンガで紹介してくださった大功労者の横山光輝さんの『史記』でもそう描かれておりました。もちろんそんなことで横山先生の大きな業績にけちをつける気はありません。横山先生が中国モノを描き始められた頃は、まだ日中国交が今のように自由だったわけではなく、乏しい資料の中からできるだけ精度の高い資料を使って描かれていたと思います…私も殆ど持っていますもん。愛読者と言ってもいいくらいですよ…。それによって興味を持たれた人も少なくないのではないでしょうか。これは偉大な業績だと思います)。

 yue刑(日本読みをすれば「げっけい」)は足を切断する(たぶん足首付近で)刑で、和氏の璧で有名な和氏が処せられたのがこの(げっけい)です。冗談じゃないけど、当時の刑罰ではこれは案外軽いものでした。エライ時代ですね。でも罪びとですから、刑の後の手当ても不十分だったかも知れません。感染症でなくなった人も少なくなかったでしょうね。これまたエライ時代だったわけです。そういったエライ時代の話の3回目の始まり、はじまり…

      *      *      *      *

『戦国Photoの竜虎』・48 ~第十章 借刀殺人〔3〕安眠~

   楚への長い道のりを馬車に揺られながら、田忌(でん・き)は隣の孫臏に話しかけた。彼らは兵権を返還した直後に威王(いおう)に呼び出されると、楚国との同盟を正式に締結する使者として楚に使いするように命じられたのであ101_4る。

「孫先生、何を考えておられる?」 

 孫臏は難しい顔をして考え込んでいた。彼には威王の行動が不思議だった。兵権を返還して隠居し、無力になった田忌と孫臏に、すぐに楚へと派遣したのである。しかも二人は斉軍のためにはいなくてはならない重要人物だった。ふたりがいなくなるということは、国が守れなくなるということなのにである。

「この数日、考えれば考えるほど、大王の御意思がわからなくなるのです。なぜ大王は我ら両人を楚に使いさせることに拘りになったかと」 孫臏は田忌の顔を見もせずに言った。

「大王が仰るには、我ら両人はすでに楚軍と接触しておるので、交渉にも都合がよかろうということであった」 それは威王が言った言葉のままである。だが彼ら両人を、危険が伴うかもしれない旅路に同時に出すということ自体、常識では考えられぬことであった。

「ですがあなたは大将軍、私は軍師でした。大王は我らが楚国の虜になることの意味にお気づきではなかったのでしょうか?」

 彼らが他国に囚われれば、斉軍が機能しなくなるだけではない。斉の軍事機密がすべて漏れてしまうのである。それに気づかない威王ではないはずだ。だが田忌が心配していたのはそれ以上に孫臏のことであった。

「わしが恐れているのはそんなことではない。大王のお言葉が軍師の自尊心を傷つけてしまったのではないかということじゃ。軍師が斉をどれほど大切に思うておるかを、大王は果たしてご存知なのかとな」 田忌は悩ましく頭を振った。「それに軍師には仰られなんだが、わしが命を受けたとき、もしも帰国せねば、101我らの家族をすべて連座させ、全員を斬ると仰った。その時の大王の様子から見ると、すでに軍師の二人の従兄殿が斉に帰国されているとご存知のようであった」

 斉を裏切って他国に仕えたり逃亡したりすれば、一族を皆殺しにする。つまり家族は人質だというわけである。孫臏の目線は前方から動かなかった。ただ少し表情がこわばったように見えた。

「大王はわしらに何か悪意を持っておるのじゃろうか? もしも大王がわしらに悪意を持っておるのであれば、わしらを国外には出さんと思うのじゃが…」 だが孫臏はすでに犯人を推測していた。威王ならば斉国の損失になるようなことはしない。軍事には暗い威王だが、斉国全体のことはよく考えている王である。だが威王の傍に仕える人間となると、自分の欲望のために得失が見えなくなっている人物がいた。

「これは大王の御意思ではありませんな。おそらくは鄒忌(すう・き)の陰謀でございましょう。彼は我らがもとの地位に復するを恐れております。此度の楚国への派遣は、まず間違いなく彼の策でございましょう」 鄒忌の陰謀と聞いて、田忌の表情がこわばった。

「奴の陰謀じゃとすれば、次に奴が打つ手はなんじゃとお考えか?」 孫臏は表情も変えずに答えた。

「たぶん、刺客を放って、道中でわれらを暗殺しようとするでしょうな。楚領に入れば、何が起こっても斉の責任ではございませんからな」

      *      *      *      *

 相国府では公孫閲(こうそん・えつ)が鄒忌を説得していた。

101_2 「その通りでございます。私が刺客と雇います。道中で彼らを亡き者としてしまうためでございます」 力説する公孫閲に、横たわるようにして聞いていた鄒忌が身を起こした。

「じゃが、そなたは言うておらなんだか? 楚王の刀を借りると」 公孫閲は軽く笑った。鄒忌は斉の朝廷には詳しいかもしれないが、それゆえに発想が固かった。朝廷ではそんなに変わったことが起こらないからである。発想が固いと、こんな些細なことにも拘ってしまうのが滑稽だった。公孫閲に言わせれば、要するに田忌と孫臏を殺せばいいのだろうということになる。

「楚王の刀を使うのも『借』でございますが、刺客の刀を使うも『借』でございます。彼らを亡き者にすることができれば、誰の刀を使ってもよいのでございます」 だが鄒忌は目線を落とした。彼には斉の相国という立場がある。だが公孫閲は彼の立場をよく理解していないのではないかと思えるところがあった。

「それはいかん。もしも道中で彼らが暗殺されるようなことがあれば、一番に疑われるのはわしじゃ」 だが公孫閲も鄒忌の立場が理解できていないわけではなかった。鄒忌は田忌と孫臏を亡き者とした後、斉の全権を掌握したいのだ。それには田忌と孫臏を殺したのが自分だということを知られてはならなかった。

「ではこういたしましょう。斉領では彼らに手を出さず、楚領に入ってから暗殺すると。そうすれば彼らを殺された責任は楚国にあることになります」 だが鄒忌はその案にも賛成しなかった。

「じゃが楚には、彼らを殺さなければならん理由がない」 確かにその通りである。公孫閲はさらに意見を変えた。

「では魏国に殺させてはいかがでございましょう。龐涓(ほう・けん)が彼らを殺したということで」 それならばあり得る話だ。龐涓の孫臏に対する恨みは骨髄に達しているだろう。しかしそれでもまだ鄒忌の不安は消えなかった。

「もしも暗殺に失敗したらいかがする」

「その時には楚王の刀を使うのでございますよ」 公孫閲は笑った。慎重の上にも慎重を期す鄒忌よりもまだ用心深いくらいに感じられた。だが最後の不安がまだ残っていた。朝廷内部の権力闘争しかしらなかった鄒忌には、刺客の雇い方などは知らなかったのである。

「じゃがわしは刺客を使う方法がわからん」 そこまで自身ありげに言うのなら、後はお前がやるのじゃろうな、という顔で鄒忌は公孫閲を見た。だが公孫閲は自信たっぷりであった。彼は綺麗な交渉から、裏の工作まで、すべて知り尽くしていたのである。

「大丈夫でございます。すべてこの公孫閲にお任せあれ」

      *      *      *      *

 馬車が楚と書いた石碑を通り過ぎた。ここから楚領である。田忌が孫臏に言った。

「やれやれ、やっと楚に入りましたぞ。これで我らも一安心じゃ。鄒忌の手もここまでは及ぶまい」 だが孫臏は厳しい表情を崩さなかった。

「そうは思えませんな。私が鄒忌であれば、必ずや大将軍が予想もしていないところで襲わせるでしょうからな。これを『孫子の兵法』では其の不意に出で、その不備を責めると申します」 厳しい顔の孫臏に珍しく田忌が反論した。

「それはもしも軍師が鄒忌であった場合の話じゃ。じゃがここ数日、軍師は毎晩実によく眠っておいでじゃ。わしは寝ずの番をしておる。いまさら軍師にそのようなことを言われても、納得がいきませんな」

 田忌は鼾をかいて熟睡している孫臏の横で、目を真っ赤にして見張っているのである。多少の恨めしい気持ちもあった。

「私が大将軍にそのようなことをお願いしましたかな? 寝ずの番など必要ございませんのに」

 可愛げのない言葉である。時々孫臏はこういった言葉を口にする悪い癖があった。本人は兵法を熟知すれば当然、今がなにをせねばならない時かはわかると言いたいのであろうが、それは凡人にとっては嫌味になることもある。

「わしは従者どもが油断するときがあるからと、寝ずに番をしておったのじゃ。せめて楚領に入るまでは頑張ろうとな」 孫臏はそんな言葉を意に介さなかった。

「寝ずの番は結構ですな。あいにく私は脚が悪いので、刺客が現れても捕らえることができませんからな」 田忌はそれを聞いてにやりと笑った。

「軍師と一緒に捕らえられんとは残念至極」 軽口を叩くことで孫臏は田忌の緊張をほぐそうとしたのかも知れない。ただ彼らに従う従者は多くはない。彼らは楚の国都・郢(えい)へと急いだ。

      *      *      *      *

  旅籠とはいってもこの時代のものは粗末なものである。茅で屋根をふいた、土壁の建物でしかない。もしもこのような建物の中にいるとき、本格的な襲撃を受けたら、身を守ることはできないだろう。

 簾で隠しただけの旅籠の窓から光が漏れていた。窓には格子がついている。孫臏は旅籠の寝台に身を横たえていた。田忌は反対側の寝台に腰を下ろし、僅かな明かりで竹簡に目を通している。窓の外で足音がした。

「誰じゃっ?」 田忌が鋭い声で誰何した。

「将軍、私でございます」 それは彼らに従ってきている兵士の声であった。田忌はその兵士に念を押す。

「くれぐれも、居眠りなどするでないぞ」

「わかっております」

「それからな、真夜中にはわしに声をかけるんじゃぞ」 お互いが寝ていないことを確認すると同時に、異常がないことを確かめ合うのである。

 孫臏は寝台の上に仰向けに寝転がると、大きな欠伸をした。それを見て田忌は出入り口の様子を確認に行く。

「将軍、何をしておいでですかな?」

「刺客がわしらの不備を責めてくるのを防いでおるのじゃ」 昼間孫臏から聞かされた兵法の一節を使って答える。しっかりと戸締りが出来ていたのを確認すると、両手をパンパンと払う。

「どうしても眠らないのでございますか?」 孫臏が尋ねた。

「眠らないのではない。眠れんのじゃ」 身を起こしていた孫臏は再び寝台の上に仰向けになった。

「無理もございませんな。それが人情と言うもの。いくら肚が座った人間であっても、いつ敵が攻めてくるかわからない状態では、不安なのは当たり前です。実を言うと私もあまり眠れんのです」

 田忌は101_3白状する孫臏の寝台の足元に腰を下ろし、詰問口調になった。連日の不眠の番のために、少しばかり気がたっていた。なんとなく孫臏は眠れない自分を笑っているように感じたのである。大将軍であるのに、見えぬ刺客を恐れるのはおかしいと。

「では軍師は、刺客が恐ろしくはないのか?」

「いや、私もまったく怖くないといえば嘘になります」 孫臏は回りくどい言い方をする。その言い方も癪に障った。

「怖いなら怖いで、そういえばよいと思うが」 孫臏は田忌の自尊心を傷つけたのに気がついた。

「いや、私も怖うございますよ」 

「怖くないのなら、無理して怖いなどと言うてもらう必要はござらん」 田忌も駄々をこねる子供のようになっていた。

「いやいや、私も実は怖くてたまらんのです」 この孫臏の言葉で、へそが曲がりかけていた田忌もやっと機嫌を直した。

「孫先生、先生もわしも、戦場では威風堂々としておるのに、いつどこから来るかわからん刺客相手では寝ることもままならん。それにしても腹が立つのは鄒忌の奴じゃ。大国斉の相国ともあろう者が、このような姑息な手を使いおって。返す返すも下らん奴じゃ」

 吐き棄てるように鄒忌を罵る。武人の田忌には鄒忌のような陰でこそこそやるタイプは許せなかった。だが孫臏はどこまでも現実派だった。時として小面が憎くなるほどである。

「今は鄒忌を罵ってもしかたがございません。とりあえずいかにすれば眠れるかを考えなければ」 だが隣で田忌はため息をつきながら首を振った。

「軍師に妙計ありと言えども、わしは眠ることもできん。刺客がいなくなるまではな」

 寝返りを打った孫臏に吐き出すように田忌が言った。彼は今は何よりも睡眠がほしかったのである。だが『孫子の兵法』といっても、戦場のことは書いてあっても、刺客に対する対策までは書いていないに違いなかった。

「俗にこんなことを言いますな。物を恐れれば、それが怖くてしかたなくなる。今の我々は、いつ襲ってくるかわからない刺客を気にして、こんなに緊張している…」 突然、孫臏が身を起こした。「『孫子の兵法』には…」

「刺客相手では『孫子の兵法』も役に立つまい」 さえぎるように田忌が言う。

「まあ最後までお聞きください。兵法にこうあります。よく守る者は、敵はその攻める所を知らずと。ですから我々は、彼らにどこを攻めればいいかわからなくしてしまえばよいのです」

『孫子の兵法』は古今東西で最高の兵書と呼ばれている。今、孫臏はその応用を思いついたのだ。

「じゃが具体的に何をどうせいというのじゃ?」 田忌はいらいらと尋ねた。

「刺客は斉国の使者を狙っております。でしたら我らの衣服を、我らの従者どもに着せて帰国させ、道すがら、斉の使者は病気になったので、臨淄に帰還したとのニセ情報を流させればいいのです。彼らが使者の代行をしているという情報を流せば、刺客は誰をどこで、いつ襲撃すればよいのかわからなくなります」

 誰でもよく使う手である。影武者の非常に古いタイプの策だ。田忌が孫臏の顔を覗き込んだ。

「で、我々はどうすればいいんじゃ?」

「我らは一般市民の服装になり、間道を通って郢へ行けばよいのです。この計はいかがでございます」 だが田忌の気持ちはおさまらなかった。彼は今すぐ、ここで寝ることができる策を必要としていたのである。

「なんじゃ、それは明日以降の手ではないか。今夜のわしが寝るにはどうすればよいかは。わしは今すぐに、ここで寝たいのじゃ」 ため息をつきながら孫臏が身体を起こした。

「そのことでございますか。それについては一つ策がございます。ちと窮屈ですが、寝ることはできます」 とたんに田忌が目を輝かせた。

「おう。窮屈など何でもないわい。寝ることができさえすればの」

 孫臏は田忌の耳元に口を近づけて何事か囁いた。知ってしまえば当たり前の、何と言うこともない策だった。だがそれを聞いた田忌は大きくうなずくと、もぞもぞと自分の寝台の下に潜り込んだ。掛け布の陰にかくれる時、彼は孫臏ににっこりと笑ってみせた。彼らは寝台の上に布を丸めてその上に掛け布をかぶせて人が寝ているように見せかけ、自分達は寝台の下に潜り込んで寝ることにしたのである。これも相手に、その責めるところを明らかにしない方法の一つであった。

 それから2300年以上の歴史の中で、この方法で自分の生命を永らえた人間は数多い。

                       (つづく)

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 生命を狙われるって、こういうことなんですな。普通にしていればいいところで、普通にしていられなくなる。あらゆるところで敵の裏をかく工夫をしなければならないんですな。でもなかなかこんな生き方は難しそうです。

2009年7月24日 (金)

『戦国の竜虎』・47 ~第十章 借刀殺人〔2〕 兵権返還~

 昔の人は自分の身の潔白を示す時に、いろんなことをやったのだそうである。木下藤吉郎は上手に主君の織田信長に取り入った人だが、「やばいっ!」と感じると、城の蔵を開け放って大散財してどんちゃん騒ぎをやらかし、軍資金を空っぽにしたりして逆心がないことを証明して見せたりしたのだそうだ。

 もし麻生太郎首相が、自分の全財産(企業も豪邸も)売っぱらって定額給付金の資金にしていたら、きっと名宰相として日本の歴史に名を残したことだろうし、今頃「解散・総選挙」なんて事態にはならなかっただろうな~。中国の戦国末期の人、趙の平原君・趙勝は国都邯鄲が秦国の軍に包囲された時、李同の進言に従って、自分の財産をすべて提供して食料や軍資金にしたという。

 もともと秦に邯鄲を包囲される原因を作ったのは、趙勝の外交上のミスもあったのだが、この全財産を提供するという行為によって、彼の名は「戦国の四公子」の中に加えられているようなものである(ちなみに私はこの四公子の中では魏の信陵君が一番の人物だと思っているけれど)。

「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」と空也上人は詠んだそうだが、なかなか「身を捨てて浮かむ瀬もあれ」という御仁は見かけなくなった。これでリーダーがどうのこうのと言っても始まらないような気がする。案外そういった人物は民間に隠れているのかも知れないけれどね(でも一昔前と比べれば、随分減ったんじゃないかな。言っておくけど、自分を粗末にしろと言っているんじゃないよ。貴重なものでなければ「身」にはならないからね)。

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『戦国の竜虎』・47 ~Photo第十章 借刀殺人〔2〕 兵権返還~

【2】兵権返還

 鄒忌(すう・き)は、自分と公孫閲(こうそん・えつ)が立てた謀略を完結させるために、威王の傍に張り付いていた。もともと彼は斉国の相国である。大王の傍に張り付いていても不思議はない。だが話している内容が問題だった。威王の一族の田忌(でん・き)が大将軍になって軍権を握って以来、自分の発言力が彼に弱められたような気がしてならなかった。

 もともと彼は文人である。軍事については素人だ。田忌も最初のうちは魏の龐涓(ほう・けん)に何度か敗戦したので、それを笑いものにするだけで自分の立場は守れた。この男の不思議なところは、斉国が魏国に負ければ自分も徳をするわけではないのに、田忌が恥をかけば、それで自分が得をしたように感じるところだった。

 いつの世にもこういった手合いはいる。誰かが損をしても自分が儲かるわけではないのに、それで自分が益を得たように錯覚する人間である。おそらくそれのもとにあるのは嫉妬という感情なのだろうが、嫉妬してそれを態度や言葉に出したところで、自分はちっとも高まらない。それに気がつかないで嫉妬を繰り返していれば、その大言壮語ゆえに自分の実力を披露しなければならなくなったり、自分の言葉に自分が酔ってしまい本当の自分を見失うことになって、遠からず取り返しのつかない失敗をしてしまう。

 その時は嫉妬の言葉を聞いていた周囲の人間がすべて敵に回るのである。嫉妬が見苦しいものであることは誰でも知っている。嫉妬を口や態度に出すような人間が失敗して溺れる犬になったら、見ている人間は中立を保ってくれたりはしない。皆石をぶつけるのである。嫉妬を言葉や態度に表すことの怖さはここにある。だが鄒忌のような頭脳明晰な男であっても、嫉妬自体が持つ罠に嵌ってしまい、気がつかないようであった。

 彼は自101分が政敵だとみなしている人間を叩き潰すために、ありもしないことを威王に吹き込み続けていた。

「大王、田忌が易者殺 しを白状したなら、すぐに彼と孫臏(そん・びん)を捕らえねばならんと存じますが」 彼はかつて孫臏にさらし者の刑を受けたことがある。その時の恥辱は忘れたことがない。田忌も政敵だったが孫臏は雪辱せねばならない人間であった。だが威王の考えは少し異なった。

「かりに田忌が易者殺しを認めたとしても、余は彼を捕らえるつもりはない」 威王もバカではなかった。たかが易者一人を殺したからといって、斉国の守りの要である人間を失うつもりはなかった。威王は知っていた。鄒忌は政はできても、敵が攻めてきたときには使い物にならない。国を経営していくためには、文と武の両輪が必要不可欠なのである。

「ですが彼らは一度は退いたように見せかけても、必ず再び王位を狙って動きますぞ」 威王がいるのに王位を狙うということは、国家にたいする反逆である。反逆は死刑と決まっていた。今の鄒忌は自分の感情に支配され、斉という国のことは念頭にないようであった。「彼らの表面のしおらしい動きに誤魔化されてはなりませぬ」

「余は誤魔化されたりはしておらん。ここで余が静観するは、余にとって有利と思うからじゃ。それに彼らが鐘離春(しょうり・しゅん)を捕らえた後、その供述を持って彼らを処罰しなければ、大夫たちも市民も納得せぬじゃろう」 すでに数度龐涓の大軍を目の前で破っている孫臏は、市民には大変な人気であった。正当な理由なく彼を処罰したりすれば、威王自身が信用されなくなってしまうかもしれない。田忌と孫臏を処罰しないことが威王にとって有利ということは、国家を経営していくうえでの問題だった。

「しかし、もし彼らが鐘離春を捕らえられなかったらいかがいたしまするか。もしかしたら彼らには鐘離春を捕らえるつもりはないかも知れませぬ」 鄒忌は何としてもこの際、田忌と孫臏を葬り去ろうとしていた。だが威王は鄒忌以上にしたたかだった。にやりと笑って言う。

「ふ… それならば彼らは余に対して負い目があるわけじゃ。余は彼らを型どおり処するだけじゃ」 微笑みを浮かべた威王はさすがに大国斉の為政者だった。彼の政治は武と文のバランスを取る、それに尽きた。そしてそれだけに文しかない鄒忌にとってもなかなか思うように操れない相手であった。

      *      *      *      *

 相国府では鄒忌から話を聞いた公孫閲が大笑いをしていた。

「はははは…… 鐘離春が動いてくれたお陰で、嘘が本当になってしまいましたな。相国、これぞ天意と申すものでございましょうな」

 だが鄒忌はまだ安心はしていなかった。

「わしが恐れておるのは、鐘離春が帰ってきて、本当のことを大王に申し上げることじゃ」 そうなれば易者殺しの事件は最初から審議のしなおしになる。だが心配しているはずの鄒忌の顔には笑顔があった。今の状況では圧倒的に彼らの方が有利である。田忌や孫臏の側ではまだ何が起こっているかもしかとは掴んでいないはずだった。

「相国、鉄は熱いうちに打てと申します。もし鐘離春が帰ってきて、大王に真相101_2を打ち明けるのが怖いのでございますれば、今のうちに田忌と孫臏を一気に死地に追い落としてしまうはいかがでございましょう?」 謀略でも相手を一気にしとめられないときには、いくつかの謀を連続してかけていく。これを連環の計というが、これは特に珍しいことではなかった。

「わかっておる」 何を当たり前のことをといった顔で、鄒忌は笑いながらうなずいた。

      *      *      *      *

 それとは逆に田忌の将軍府では、重苦しい雰囲気が漂っていた。田忌、孫臏、禽滑(きん・かつ)の三人が頭をつき合わせて善後策を練っている。

「将101_3軍、ここは一刻も早く、軍権を大王に返還すべきですな」 孫臏が田忌に言った。威王から軍を返還するように求められても、将軍の印を返還するまでは田忌が将軍である。ここで孫臏が言っているのは、大将軍の印を威王に返せというのである。だが田忌はそれを拒んだ。

「駄目じゃ、駄目じゃ。そんなことをしたら、ますます鄒忌につけ込まれるだけじゃ」 だが孫臏が問題にしていたのは鄒忌ではなかった。基本的に文官の鄒忌には実戦力はない。鄒忌に煽られた威王がどう動くかの方がはるかに重大だった。なんと言っても威王には最終決定権がある。

「鄒忌には我らに手を出すにも実戦力はございません。ここで重要なのは、大王がどう動くかということです。我々が兵権のすべてを放棄し大王に返還すれば、我々に逆心のないことは大王にもおわかりいただけましょう。ここは我らが罪に落とされないようにして、生き延びることが肝心でございます。生きてさえおれば望みもございましょう。さらに言えば、鄒忌が軍を動かそうとしても、軍には田国(でん・こく)将軍らもおります。鄒忌に彼らは動かすことはできますまい」

 田忌は難しい顔をして孫臏の話を聞いていた。横合いから禽滑が口を挟んだ。

「将軍、私も軍師の仰ることがもっともだと思います。ここは軍権に固執して生命を危険にさらすよりも、まず大王の疑心を解き、再度機会を窺うがよいと考えます」 田忌もこれを聞いて、仕方がないという表情になった。最優先なのは、生き延びるということなのである。

      *      *      *      *

 すでに兵権の返還については威王より匂わされてはいたが、翌朝早々に田忌と孫臏はそれぞれ111大将軍の印、軍師の印を持って登朝した。

「大王、このところこの田忌、体調が優れませぬ。大将軍の身でありながら、軍を掌握することが難しゅうなりました。ここに大将軍の印をお返しし、隠居させていただきたく存知まする。私に代わって新たなものを大将軍としてくださりませ」

 舎人がやってきて田忌から大将軍の印を受け取り、威王の前に運ぶ。それを見て威王は、形どおりの応対をした。

「田忌よ、余はその方より軍権を召し上げるつもりはない。じゃがその方の体調が悪いということであれば、その方に大将軍の激務をさせるわけにもいかぬ。従って暫時その方の軍権を預かりおくものとする。余はその方にしっかりと養生することを希望しておる。健康が回復したなら、また余のために力を貸してもらいたい」

「有難い仰せにございます」 田忌は叩頭の礼をする。立ち上がろうとする時、今度は孫臏が口を開いた。

「大王、私は田将軍の門客でございます。田将軍が軍権をお返しするのであれば、私が軍師を続けるわけにはまいりませぬ。そこで私も軍師の印をお返ししたく存知まする」 威王はため息をついた。田忌が大将軍職を去るということは、この稀代の軍師も去るということを意味していた。だが孫臏の言う通り、田忌が職を辞したのに孫臏には続けさせることはできなかった。

「孫臏、その方は得がたい軍師である。余もその方から軍師の印を受け取りたくはない。じゃが鐘離春はそのほうの従者である。彼女が易者を殺したとあっては、その方に軍師を続けさせるわけにはまいらぬ。朝廷の大夫たちもその方を軍師としておくは認めぬじゃろう。そこでその方の軍師の任を解くことにする」 もうすっかり易者殺しは鐘離春だということにされていた。

 頭を下げて軍師の印を左手で差し出す孫臏から、舎人が印を受け取り威王の前に置く。

「じゃがその方の功は大きく、余もそれに応えねばならぬ。余はその方に、その方の祖先の封地であった土地を与えよう。そこで安楽に暮らすがよい」 孫臏の祖先の土地というのはいわくのある土地であった。『孫子の兵法』を記した孫武(そん・ぶ)も、実は一族の内輪もめから呉の国に出奔し、そこで頭角を現した。そして呉王の性格を見抜いた彼は、功なった後再び斉に戻ったのである。この時呉に残った伍子胥(ご・ししょ)らは終わりを全うしていない。

 だが斉に帰った孫武の子孫たちも、斉国が田氏に簒奪されたおり、国外へと追放になった。苦労の旅の後、孫臏は鬼谷子に弟子入りができたのだが、それでも斉へはなかなか帰国することがかなわなかったのである。

「ありがとうございまする」 孫臏は頭をさげながら礼を述べた。ただこの謀略を仕掛けたのが鄒忌である以上、まだまだ警戒し続けなければならなかった。戦国の世である。政敵を追い落とすために殺すなどということは日常茶飯事だった。どんな切れ者であっても、悪い流れになれば身を隠す必要があったのだ。孫臏よりも数十年前の有名な兵法家・呉起(ご・き:『呉子の兵法』を記した。昔から兵法といえば『孫・呉』と呼ばれる「呉」の著者である)も、何度となく仕える国を変えている。

      *      *      *      *

 相国府では宴会が行われていた。正面に鄒忌と公孫閲が座り、彼らの前で女が舞を舞っている。鄒忌は上機嫌であった。

「公孫先生、呑りましょう! いや、今日はめでたい。そなたの無中生有の計に乾杯じゃ。飲み干そうではないか」 

 今回ばかりは公孫閲の顔にも笑みが浮かんでいた。両手で杯を持ちながら言う。

「それと、相国の雪辱にも乾杯でございますな」 そのまま一気に飲み干す。これで鄒忌が朝廷での権力を一気に回復したのは明らかだった。この夜の鄒忌は安心しきった顔をしていた。

「田忌の奴も孫臏も、これで身の程を知ったことであろう。ふふふふふ… さあさあ、もっと呑もうではないか」 確かにこれで政敵の勢力をなくしてしまった鄒忌は安泰だったかも知れない。そしてその謀臣としての公孫閲の立場も強くなる。だが公孫閲はその程度で満足する男ではなかった。だいたい龐涓から彼に命じられたのは、自分の手を汚すことなく孫臏を始末することだったのである。今回の無中生有の計は、その第一段階に過ぎなかったのだ。

「相国、田忌や孫臏が権力を失ったといっても、それで安心はできませぬぞ。彼らが生きている限り、いつどこでどういうことが起こるかわかりませぬからな」  それは鄒忌も考えていたことだった。この際、徹底的にやっておいた方がよい。

「もちろんじゃ。そなた、何かよい策でもあるのか?」 公孫閲は話しにくそうな顔をした。女どもは舞を舞っているし、その後ろには楽士もいる。鄒忌の後ろには酒壺を抱えた女もいた。謀は密なるを持ってよしとしなければならない。鄒忌もすぐにそれに気がついた。両手を叩いて舞を止めさせ、彼女らを退出させる。

「さあ、こ101_4れでよかろう。どのような策じゃ?」 公孫閲は声を低くして話し始めた。

「一番確実なのは、刺客を雇い、彼らを暗殺させることでしょうな」 だが鄒忌はそれを言下に却下した。

「それは駄目じゃ。軍隊を失ったとはいえ、田忌は大勢の門客を抱えておる。その中には剣術の使い手も大勢おる。もしも刺客が失敗してしまえば、これまでの苦労が水の泡じゃ。彼らを誰かが狙うて失脚させたなどと言い出す奴が出ぬとも限らん。更に仮に成功したとしても、田忌子飼いの将軍たちがおる。奴らはまず一番にわしを疑うじゃろう。そうすれば、今度はわしが危ない」 

 公孫閲にとっては鄒忌の生命などどうでもよかった。鄒忌は公孫閲にとっては目的を達成するための道具に過ぎない。だがそれを今勘ぐられるのは賢くなかった。そう判断した公孫閲は、次の策を口にした。

「では借刀殺人の計はいかがでございますか?」 借刀殺人とは第三者の手を借りて、目的としたことを行う、ここでは田忌と孫臏を殺すことである。自分の手を汚さないで目的を達成するのだが、文人である鄒忌にはピンと来ていなかった。彼は眉間に皺を寄せたまま尋ねた。

「誰の刀を借りるというのじゃ?」

「楚の刀でございます」 公孫閲の頭の中には、すでに策はできていた。

「どうやって楚の刀を借りるというのじゃ?」 公孫閲は説明を始めた。

「前回、楚軍が撤退したとき、確か斉は楚国と盟約を結んだのではございませんでしたかな?」

「その通りじゃが……」 さすがに龐涓の傍近く仕えただけあって、いろいろなことを知っておるなと、鄒忌は感心していた。

「では相国は時を見て大王にこう上奏なされ。田忌と孫臏を楚国に派遣して、あの時の盟約を正式に結ばせてはどうかと。そうしておいて密かに間者を派遣して、楚王にこう吹き込むのです。田忌と孫臏は天下に野望を持っている。魏国を倒した後は天下の諸侯を従えるつもりで、楚へも使いのふりをして実は楚の内情を探っているのです、と。そうすれば楚王が彼らを殺してくれるでしょう」

 説得力のある策である。鄒忌もにんまりした。だが彼はそういったことが得意ではなかった。彼の得意は内政であって外交ではない。

「策としては良い。じゃがわしには楚へ行ってくれるような間者がおらん」 こういった謀略はやはり兵家の得意とするところだ。いかに内政が巧みで、朝廷内での権力闘争を得意としていてもできないところだ。だが公孫閲はそうではなかった。彼はある意味オールマイティーであった。

「大丈夫でございます。私が一人知っております。この男、以前魏にも来ておりました」 

「おうそれはよい。それではこの件はそなたにまかせてもよいな。公孫先生、天下の人は孫臏を、超人的な機知を持ち、功名至極な策を立てられると言うておるが、わしの見るところではそなたの方が一枚上じゃな。ははははは…… いや、愉快じゃ。呑りましょう。うん、借刀殺人の計に乾杯じゃ!」

 鄒忌は上機嫌だった。公孫閲と杯を合わせる。この二人の策略は物事を思うままに動かそうとしていた。だが鄒忌が一つだけ見落としていたことがある。それは公孫閲の策に依存すれば依存するほど、公孫閲の存在が強く、大きくなっていくことであった。そこまで策を立てられる人間が、はたしていつまで鄒忌の下についているか、それはこの時の鄒忌にはわからなかった。

                     (つづく)

      *      *      *      *

 いや、親知らずの痛みに耐えながら打つのはしんどいですなあ。ではまた明日。

2009年7月23日 (木)

『戦国の竜虎』・46 ~第十章「借刀殺人」〔1〕誤解~

 今朝の朝日新聞を見て、河野衆議院議長が引退することを知った。日本陸連などの会長などを務めておられるが、なんとなくイメージ的に好感を持っていなかった。けれども今朝の新聞から5回ほど連載で、自身の政治家生活を振り返られるそうである。今朝のがその第1回だったが、やはりちゃんとものを見ておられたのだなあと思う。数年前に日本陸連の表彰を受けたとき、表彰状にお名前が出ていたが、これからは胸を張って額の中に入れておこうと思う(今までは飾っていなかった)。

 人の一生は一部分だけを見てはわからない。でも人は自分から見える一部分しか見ないで、その人のすべてを知っているかのような評価を下すことがある。傲慢な態度だと思っていたが、なんのことはない、自分もその傾向をちゃんと持っていたのだ(自分で思っていただけで、他人には口外していないけど)。長い目でものを見るってことは、なかなか難しいことなんだなと、改めて思った。

      *      *      *      *

『戦国の竜虎』・46 ~第十章「借刀殺人(しゃくとうさつじん)」〔1〕誤解~

 田忌(でん・き)は孫臏(そん・びん)と並んで歩きながら尋ねた。昨夜、彼が婚姻について易を立てて101もらいにいった易者が殺された事件で、鐘離春(しょうり・しゅん)が犯人ではないかというのだ。本来ならばまず一番に彼女を庇わなければならないはずなのだ。

「先生は、どうして鐘離春を疑うのじゃ?」

「彼女は私のところに嫁ぎたいという気持ちを持っておりました。ですが私が易者に立ててもらった易では、私とは相性がよくないと出ました。それを言うと彼女は怒り始めたのです」 どんな頭脳明晰な男でも、情報量が足らなければ、とんでもない判断ミスをやらかす典型である。もし易者が、相国の鄒忌(すう・き)と公孫閲(こうそん・えつ)の陰謀に巻き込まれたということを知っていたら、全く異なった結論を出していたであろう。「彼女は一度怒り出すと、誰にも止めることはできません。」

「いくらなんでも、易くらいのことで、易者を殺したりはしないじゃろう」 田忌は言ったが孫臏は首を横に振った。

「将軍は彼女をわかっておられないのです。彼女が腹を立てると、大王のお命でも奪うかもしれません」 そうするに足りる理由があれば、確かに彼女ならそうするかも知れない。彼女にはそれを可能にするだけの功夫もあった。なにしろ彼女は剣の名手である。

「しかし先生、彼女のことをそこまで言うものではありませんぞ」 この点については田忌の方がはるかに理性的に判断しているようであった。そこへ禽滑と一緒に、鐘離春捜索に出かけていた舎人が報告に現れた。

「大将軍、鐘離春はおりません。すでにこの臨淄(りんし)を出たのではないかと思われます」 この期に及んで孫臏は彼女が出奔したのを知らなかった。自分の言葉が彼女をどれほど傷つけたのか、気がついていなかったのである。

「いつからおらぬのじゃ?」

「昨夜からです。禽先生が人を連れて探しておられますが、まだ見つかってはおりません」孫臏は田忌の顔を見た。そこへもう一人の舎人が、息を切らして報告に来た。

「大将軍、大王のお召しでございます」 きっと何かが起こっているに違いなかった。孫臏の脳裏を不安が過ぎったが、ここは田忌としては、急いで参内した方がいい。

「将軍、急ぎ参内を」 孫臏は田忌を促した。直前に参内したときには、威王は兵権を返還しろといわんばかりの態度であった。何かの陰謀が進行しているのかも知れなかった。そうすると田忌と孫臏には何らかの嫌疑がかけられている可能性もあった。

      *      *      *      *

 田忌は威10王の前で叩頭の礼をしていた。

「田忌、お召しにより、まかりこしました」

「おう。腰を下ろしてよい」 威王は田忌の顔すら見ずに、自分の左の席をあごで示す。

「ありがとうございます」 礼を言って田忌が座ろうとする前に、威王は話し始めた。

「この臨淄城内で易者が殺されたことは、すでに聞き及んでおろうな?」

「はい。聞いております」 聞いておりますどころではない。彼も孫臏も、易者が首を切られて死んでいるのを実際に見ている。

「誰が殺したのか、その方、存じておりのではないか?」 威王は少し間を置いた。「その方の手の者が殺したと申す者がおってな」 つい先ほどまで孫臏と話していたことである。孫臏が鐘離春がやったという以上は、その可能性は高いと田忌は思っていた。

「そうかも知れませぬ」

「それは誰じゃ?」 威王は尋ねたが、田忌としても確信が持てないことは言えない。

「まだ憶測に過ぎませぬ。証拠もございませぬし」

「推測でもよい。申せ。それは誰じゃ?」 国王にそこまで言われれば、言わないわけにはいかない。

「鐘離春かもしれませぬ」 威王も鐘離春の名は知っていた。何万という敵の中で、田国将軍とともに龐涓(ほう・けん)を捉えたことは、天下に鳴り響いていた。

「おう。あの孫臏のところの女衛士か。あの者がなにゆえ易者などを殺す必要があったのじゃ?」 言ったところで、その理由を威王が理解するかどうかはわからなかったが、それでも田忌としては言わないわけにはいかない。

「婚姻のことに関してでございます。易者は彼女は孫臏とは縁がないと言いました。それで孫臏が彼女を拒絶したことを恨んでのことではないかと思います」 これはあくまで孫臏の想像にすぎない。

「ふん。それは誰が言っておるのじゃ?」 威王は最初から信用していなかった。彼は鄒忌に吹き込まれたとおり、田忌が王位を狙っており、それについて易者に易を立てさせ、口封じのために殺させたと考えていた。

「これは… 軍師の推測にございます」 そんな言葉は爪の垢ほども信用していなかった。威王は田忌に命じた。

「その方、すぐに鐘離春を捉えてまいれ。余がじきじきに取調べをしてつかわす」 ということは、田忌の言葉など一言も信じていないということだった。

「ですが彼女は昨夜、私の家から出て行っております」 あまりにも都合よく鐘離春はいなくなっていた。何かやばいことをした人間は、証拠を残したり、捕まったりしないように高飛びをする。それは今も昔も同じであった。それにしてもあまりにもタイミングよく鐘離春の姿が消えてしまっていた。

「その者をできるだけ早く捉えるのじゃ」 威王はもうほとんど、田忌が王座を狙っているという鄒忌の言葉を信じていた。田忌は思い気持ちで王宮を辞した。

      *      *      *      *

 帰宅するやいなや、田忌は孫臏に相談した。孫臏はそれを聞くと、暫く考え込んだ。

「大王はこの件をそんなに深くお考えでしたか。それにしても鐘離春のこと、何故口に出されました?」 田忌はすまなさそうに何度も頭を下げながら答えた。

「言わないわけにはいかなかったのじゃ。大王はすべて知っているようじゃった」 何故大王はそんなことを知っていたのだろう。それが孫臏には不思議だった。

「大王はどうして知っていたのだろう……?」 孫臏は独り言のようにつぶやいた。

「大王は鐘離春を捉えよとわしに命じられた」 孫臏は不思議そうな顔をした。

「易者のことだけでございますか?」 易者が死んだのだけならば、わざわざ大王が出てくることはない。それなりの係があるからだ。田忌は自分が感じたことを素直に答えた。

「わしにはそうでもあるように見えるし、それだけでないようにも見えた」 あまりにも手際がよすぎた。彼らが予想しているよりもはるかに速いスピードで物事が流れていく。それは策にかかってしまったときによく起こる現象である。誰かが敷いたレールの上を、彼らが対策を立てる間もなく、物事が進行していくのである。

      *      *      *      *

  ちょうどそこへ、禽滑(きん・かつ)がため息をつきながら、疲れた顔で帰ってきた。

「鐘離春は見つかりました?」 孫臏の問いに禽滑は答えた。

「おりません。臨淄の宿という宿をしらみつぶしに調べましたが、彼女はおりません。城の四方の門に行って尋ねましたら、西門の兵士が言っておりました。昨夜、背中に剣を背負った人が、城門を登っていったと。その兵士が言う特徴からいって、この人物が鐘離春であったのではないかと思います。そこで私は馬に乗って追いかけたのですが、追いつけませんでした」

 すまなさそうに報告する禽滑を見て、孫臏はため息をついた。鐘離春はいなくなってしまったのでは、彼女から真相を聞くことはできない。しかし彼女がいなくなってしまったことは、本当に彼女が易者を殺して逃げた可能性が高まるのである。

「ということは、彼女が易者殺しの真犯人か……」 孫臏の言葉に禽滑が聞き耳を立てた。彼はまだ易者が殺されたことを知らなかったのである。

「誰が殺したのです?」 田忌が短く答えた。

「鐘離春じゃ」 だが禽滑にはまだ話が見えていなかった。

「彼女10_2が誰を殺したというのです?」 

「昨夜遅く、彼女は易者を殺したのじゃ」 田忌がいまいましそうに答えた。だが禽滑にはそれが信じられなかった。

「どうして鐘離春が殺したといえるんです?」 禽滑の知っている事実と田忌の答えとが明らかに矛盾し始めていた。

「軍師の推測じゃ。おそらく婚姻についての卦のことで腹を立て、易者を 殺したのではあるまいかな」 孫臏は二人に背中を向けたまま聞いている。

「それはありえませんな。私は易者を、昨夜遅くに見かけております」 見かけているだけではない。お前がろくでもない卦を立てるから、彼女が出て行き、夜遅くまで探しに歩かなければならないと愚痴までこぼしているのだ。

 背中を向けていた孫臏がくるりと振り向いた。もしそうなら易者を殺したのは、鐘離春ではない。禽滑はまだ言葉を続けた。

「それに西門の兵士によれば、彼女が城壁を越えたのは夜半前だったそうです。その時は易者は生きていたのだから、易者を殺したのは絶対に彼女ではありませんぞ」

 孫臏は勢い込んで禽滑に尋ねた。

「先生が易者を見かけたのはどこですか?」

「路上ですよ。相国府の者と、相国府に向かっておりました」 孫臏は重ねて確認した。

「見間違いではございませんな?」

「絶対にございません。私は易者と話をしましたからな。絶対に間違ってはおりません」 だが孫臏が知りたかったのはその背後にあることだった。一緒にいたのが相国府の者だとなると、彼らに罠をかけようとしているものの正体が見えてくるのだ。

「私が言っているのは、その従者のことです。間違いなく相国府の者でしょうな?」 だが禽滑はそれも請け負った。

「それも間違いございません。以前、相国府で会ったことがございます」 禽滑の言葉はすべてが鐘離春の潔白を証明するものであった。すると彼女に易者殺しの罪をなすって一番得をする者は誰かということだ。

「わかった。易者が殺されたのは鄒忌の陰謀だ」 ようやく理屈が通ってきた。田忌の口からも後悔の言葉が出る。

「くそっ! そうなら、わしはとんでもない間違いを犯してしまった」 

 孫臏がぼそりと言った。

「目に見える攻撃は防げますが、見えない攻撃は防ぎにくいものですな…」 

      *      *      *      *

【第十章の主な10_3登場人物】

孫臏(そん・びん):斉の軍師。

『孫子の兵法』を鬼谷子より授けられた唯一の人物。そのためほうけんの策に嵌められて臏刑(膝蓋骨を取り去る刑罰)を受けた。後、斉に脱出、数度ほうけんの軍を破っている。斉では田忌将軍の門客だが、相国鄒忌とは政敵である。Photo

田忌(でん・き):斉の大将軍。

 斉の王族にして、斉の全軍をつかさどる。孫臏を門客に迎えて以来、勢力が拡大、そのため鄒忌相国とは仲が悪い。本章では彼が王位を密かに狙っていると鄒忌にそそのかされた威王によって、次第に不利な立場においやられている。10_4

鄒忌(すう・き):斉の相国。

 昔は文治派政治家として辣腕を振るったが、田忌らが台頭するにつれて、嫉妬心から権勢欲にかられて、田忌むと孫臏の失脚を画策する。魏国より彼の家に入った公孫閲の助けを借りて、これより様々な策を実行する。10_5

公孫閲(こうそん・えつ):鄒忌の家の門客。

 もとは魏の龐涓(ほうけん)の謀臣。鐘離秋を妻にするために、孫臏を逃がす。その罪を認めたため、龐涓によって斉への潜伏を命じられ、斉国を内部から混乱させるために送り込まれた。剣の腕は天下無双。謀略の腕もそうとうなものである。10_6

禽滑(きん・かつ):田忌の謀臣。

 墨家で墨子の弟子である。弁舌さわやかで有能であるが、時に軽はずみな失敗もする。鐘離春を好いているが、鐘離春が孫臏にしか目をくれないので、一人で悩んでいる。10_7

斉の威王(せいのいおう):田氏斉の3代目の王。

 文治派の王で、次の王宣王とともに臨淄に数多くの学者や哲学者を集め、百家争鳴という社会現象を演出した王。孫臏を見出し、斉の軍師として活躍させるが、信頼は弱い。10_8

鐘離春(しょうり・しゅん):孫臏の女衛士。

 孫臏を斉から脱出させるために大活躍していらい、彼の衛士として仕える。孫臏を愛しているが、求婚を拒絶されたため、斉を出奔する。それが鄒忌の策と絡まり、孫臏や田忌の立場がよけいに難しくなってしまう。10_9

鐘離秋(しょうり・しゅう):公孫閲の妻。鐘離春の妹。

 孫臏の世話係として面倒を見るうちに、孫臏に恋をした。けれども公孫閲の策略によって、彼の妻となった。公孫閲には心から愛されているが、本人はそれに気がつきながらも応えるつもりはない。孫臏脱出の手引きをしたかどで、龐涓に死刑にされかけた。10_10

史皇大夫(しこうたいふ):楚王の謀臣。

 楚王の謀臣として活躍する。表向きは柔和だが、その実駆け引きの塊で、内面は大変利己的な男である。本章以降、彼は楚の外交と謀略の分野で活躍する。10_11

楚王(そおう):楚の王。

 宝玉とおべっかがなによりも好きだという王様。かなりこずるいが、やることに隙が多い。今回は『孫子の兵法』を手に入れようとあれこれ画策するが…

10_12 二人の刺客(ふたりのしかく):公孫閲に雇われた刺客。

 楚の使いする孫臏と田忌を亡き者にしようと送り込まれるのだが…

2009年7月22日 (水)

香炉峰雪撥簾看、夏天日食電子里看(あはは、てんで韻が踏めてねえでやんの…)

 年甲斐もなく親知らずが痛い。我ながら心身ともに幼いとは思うが、いまさら親知らず(たぶん最後の1本)が生えているとしたら、これは悲しむべきというより、喜ぶべきかも知れない。それにしても頸の左側から肩にかけて違和感があったりするので、やっぱり親知らずは痛い。

 さてさて、全国的に皆既日食フィーバーみたいである。残念ながら今日の岡山は、朝からずうっと分厚い雲に覆われていて、46年ぶりだという皆既日食を実際にみることはできない。まあ仕事もあることだし、これは仕方のないことだ。

 昔々、唐代の大詩人、白楽天は「日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒 遺愛寺鐘(傾けるという字がない)枕聴 香炉峰雪撥簾看…」などと詩を読んだ。なかなか悠々自適な生活だったようだが、こちとらはそんな真似ができるほどのんびりはできない。でも観測できるところへいくことはできなくても、親切なテレビ局がわざわざテレビで映してくれているお陰で、クーラーにかかったまま(ひっくり返ってとはいかないが)、快適に見ることができる。

 もちろん現場で見たほどの感動はないんだろうけどね。でもやっぱり便利な時代になりました。昔だったら巫女さんが殺されたかも知れないとんでもないできごとだけど(卑弥呼…日巫女?…は日食のせいで殺されたという説は、結構言われていますよね!)、今は「すげえなあ」「綺麗だな~」で済むところが、科学の発達であろうか。

 でも昔の人はびっくりしただろうね。中国の歴史なんかだと、「天無二日、土無二王(礼記):天に二日なく、土に二王なし」なんて言葉があるけれど、そのたった一つの太陽がなくなるんだもんね。再び姿を現すまでの数分間は、古代人達はいかばかりの気持ちであったろうかなんて想像しちゃいますね。だいたいあの国には「杞国有人憂天地崩墜 身亡所奇 廃寝食者(列子):杞の国に人の天地崩墜せば、身を寄せるところ亡からんことを憂えて 寝食を廃する者あり…ダイエットできるでしょうな、さぞかし」なんてことを考えたりする人がいたりするわけで、皆既日食なんかだったら、暴動が起こったんじゃないかな。為政者に徳がないせいだ、なんて言って。

 さてそろそろ『戦国の竜虎』でも再会すべえと思って、確か前は第10章までいってたよなあ、なんてチェックして驚いた。なんと9章までしか進んでいなかったのである。やれやれ… 何しろ全部で36章あるので、もう記憶がいい加減になってしまっているんだよね。

 これは私がまだ全然中国語がわからなかった頃に、偶然あちらで手に入れたDVDセット(36枚組)が原点で、あまり何度も見ているうちに、自分が入り込んでしまって、とりあえず原作はあるものの、私が大きく入り込んでしまった形で紹介してしまっているものである。まあ、春秋戦国時代の紹介にでもなればいいかな~程度しか思っていないんだよね。

 その割には原作に出ていない時代考証をやってみたり、時代背景、人間関係なんかを調べる芯になってくれているので、私としては、もしかしたら最も人間の思想がダイナミックに展開された時代を勉強する上で、凄い助けになっているんだね。世界史なんかを見ても、これだけ制約を受けないで(中国の土着の宗教や思想などの影響は受けているように思うけど)人間が自分の思想を発展させ、それで世に名を出そうとした時代は珍しいんじゃないかと思うよ。

 その根本に、歴史が古いこと、早くから文字を持ったこと、様々な民族が活動したこと、国土が広く、様々な環境があったことなどなどがあったのは間違いない。自由な発想で、ダイナミックかつ図太く生き抜く様を見ていると、どうしても強力な宗教の支配下(影響下?)に、神を恐れて生活していたヨーロッパ諸国には見られない、「人間」の本当の姿が見えそうな気がするんだよね。

 このDVDは何度見直したかわからない。買って来て最初に一通り見るのに、1ヶ月もかかってしまった。当然その頃は言葉がさっぱりわからんちんだったので、内容も1割か2割程度しか理解できなかった。でも少しずつ勉強が進むにつれて、いろんなことがわかり始め、今では「ちょっと待て、ここでのこいつと、あそこでのこいつでは、キャラが変わっているんじゃないか?」なんてことまでがわかり始め、そうするとこのドラマの原点をお作りになった人たちの、大変な教養の高さまでがわかりだし、やっぱり尊敬してしまったんだよね。もちろん尊敬はしても、それを鵜呑みにしたりはしないけど。

 誰でもこんな経験があるんじゃないかな。自分の大好きな小説やマンガなんかでは、登場人物への入れ込み方が激しくて、作者がどういうつもりで作っているかよりも、自分だけのストーリーや、キャラができてしまうという。まさにそれなんですよね。で、第10章をまだやっていなかったので、今日明日中にも再開する予定だったのが、大きく予定が狂ってしまいました。

 でも素敵な(権謀術数がお好きでない人にはそうでもないかも知れないけれど。私は人間を理解する意味で、こういった頭の体操は大好きですよ)お話なので、とりあえず再開する準備だけはしておかないといけない。そこで今までのものを、極く簡単に紹介しておきますね。

 第一章『上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)』:これは人を二階(屋根でもいい)に上げておいて、降りられないように梯子を外すという計で、相手が周章狼狽しているうちに叩くという意味と、退路を断つことによって死力を尽くさせるという意味があります。

 魏楚方城の戦いで強力な楚軍の反撃に遭遇したPhoto_11 龐涓(ほう・けん)は師匠である鬼谷子(きこくし)によい打開策を尋ねるため、腹心、公孫閲(こうそん・えつ)を派遣しますが、鬼谷子は自分の代わりに、愛弟子孫臏(そん・びん)を紹介します。すると孫臏は、すぐにはそんないい策は出ないという答。それに対して師の鬼谷子が公孫閲に与えていたアドバイスが「高台に上がり降りするための梯子を外しておけ」ということでした。公孫閲がその通りにすると、追い詰められた孫臏は期待にたがわず一つの計を思いつき、それを公孫閲に伝えます。

 その計を鬼谷先生が立てた計だと伝えるように孫臏に言われた公孫閲は、龐涓にその通りを実行させ、魏軍は一見無謀だとも思えるような進撃を開始し、退路を断たれた兵達の死に物狂いの戦いで、楚軍をこてんぱんにやっつけてしまうのです。

 勝ち戦に気分をよくした龐涓と公孫閲が話をしていると、その中に鬼谷子に「もうそれは失われてしまった」と言われて教えてもらえなかった『孫子の兵法』が、実は孫臏には伝えられていたことを知り、龐涓は激しく孫臏に嫉妬するのでした。

 第二章『笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)』では、自分には教えてもらえなかった『孫子の兵法』を何としても手に入れようと、兄弟子孫臏を魏の国都(前回までは安邑としていましたが…司馬遷の『史記』に従うとそういうことになりますが、戦の展開などを考えるたり、1974年出土の『孫臏兵法』などを読んだりすると、この時代の魏の国都は大梁ということになります)大梁に呼び、魏王に推薦します。彼を元帥にし、自分は副帥でいいというのですが、まだ魏国に功のない孫臏は固辞します。

 ところがこれは龐涓が孫臏に仕掛けた罠で、孫臏に謀反の心ありということで、彼を死刑にしようとします。それを友人として尽力するような顔をして、臏刑(びんけい:膝蓋骨を抜き取る刑です。いくつかの著書には切断されたと書いてありますが、足を切断する刑はげっけい〔げつは月へんにリで、中国風に読めば「ユエ」と言います〕に処し、生命を助けてもらったことに感謝し、自分は二度と戦場に立てないと諦めた孫臏から、『孫子の兵法』を教えてもらうという約束をします。なおこの章から、孫臏の身の回りの世話をするために登場した鐘離秋(しょうり・しゅう)という若い女性が、孫臏に激しく思慕するようになります。

 第三章『假痴不顛(かちふてん)』では、彼を臏刑に処したのは、実は龐涓の罠だということを、趙国の趙離(ちょう・り)大夫に教えられ、『孫子の兵法』を彼に渡さないために、気が狂ったふりをします。気が狂ったふりをしてすでに書いていたものを捨て、あらぬことを喚き散らし、愛してくれる鐘離秋の好意も無視してしまうのですが、それは孫臏に趙離大夫を紹介した公孫閲も知っておりました。

 彼は鐘離秋を愛しており、秋を手に入れるためには、流浪の身であった彼を拾ってくれた龐涓まで裏切ろうとします。もちろん孫臏が偽りの発狂であるとは、鐘離秋にも知らせないという約束をさせられます。そして公孫閲は鐘離秋を自分のものにするために計をかけ、孫臏は魏を脱出する機会を窺うのでした。

 第四章『金蝉脱殻(きんせんだっかく)』では、孫臏を心配するあまり病気のようになってしまった鐘離秋の姉、鐘離春(しょうり・しゅん)が気の触れた孫臏を殺そうとします。彼女は第一章で鬼谷先生に兵法を学びにきて、女性だからという理由で追い返された人物でした。剣術の達人である彼女に殺されそうになったとき、孫臏はとうとう「ここで功績を立てることもなく朽ち果てるのか」と呟きます。

 これで孫臏が正気であること、龐涓の罠にかけられたことなどを知った鐘離春は、孫臏を脱出させるために骨折り始めるのです。彼女は斉の国に行き、田忌(でん・き)将軍を訪ねます。そして田忌自身は動けないような事柄なので、彼の名代として謀臣の禽滑(きん・かつ)が魏に使いすることになります。

 禽滑は魏で龐涓に面会しますが、龐涓にすっかり気に入られ、「3年たったら…」と逃げ句を言って逃れ、その足で鐘離春、公孫閲に導かれ、自分の連れてきた従者を孫臏の身代わりに置いて、孫臏を斉に連れ出すことに成功するのでした。

 第五章『李代桃僵(りだいとうきょう)』では、孫臏は気が触れて川辺をさまよっているうちに、川に落ちて死んだように工作していましたが、孫臏の死を嘆く鐘離秋を公孫閲が娶りに動きます。けれどもどうしても公孫閲を好きになれない秋のために、鐘離春は寝ている公孫閲を暗殺しようとします。

 ところが公孫閲も天下無敵の剣士で、さすがの鐘離春も歯が立ちません。そして春は泣く泣く妹を公孫閲に嫁がせたのでした。孫臏を無事に斉に逃がすためとは言え、鐘離春は実の妹を助けることができなかったと悔やみますが、彼女の庇護を必要とする妹がいなくなった春は、斉へ孫臏を訪ねて行きます。ここで田忌賽馬の故事で名高い、田忌と斉の威王の競馬が催されますが、孫臏は見事な策で、いつも負けてばかりいた田忌に勝たせ、それがきっかけになって威王に目通りします。

 第六章『囲魏救趙(いぎきゅうちょう)』では、趙の国都・邯鄲(かんたん)を攻められ、趙離大夫が斉へ救援要請にきます。威王は田忌を大将軍に、孫臏を軍師として救援に出しますが、孫臏は直接邯鄲へは向かわず、魏都・大梁へ兵を進めます。これにはいろいろな反対があったものの、いざ蓋を開けてみると強兵でなる魏国の軍が面白いように策に嵌ってしまいます。中国古代史上有名な「桂陵の戦い」ですが、これ以後魏軍はつねに、孫臏の囲魏救趙の計を警戒するようになります。

 これを見て、戦は策を立てて行うものだということを知った田国(でん・こく)ら若手の将軍たちは、孫臏を師としてあがめ始めるのでした。そして孫臏が斉にいることを知った龐涓は、誰が彼を逃がしたのかと公孫閲や鐘離秋を疑い始めます。

 第七章『擒賊擒王(きんぞくきんおう)』では、桂陵の戦いに敗れた龐涓が、雪辱のために魏・楚・韓・燕の4カ国連合軍で、斉の国都・臨淄(りんし)を包囲します。これを「国都を開放して敵を誘い込み殲滅する」という案を提出した孫臏は威王から怒りを買いますが、結局は龐涓の脅しに屈し、3日以内に敵軍を追い払わなければ孫臏の身柄を渡すという約束をしてしまいます。

 伐交によって次第に連合国の意志をばらばらにしていた孫臏ですが、とうとう刻限がやってきてしまい、身柄を渡されるというその時、田国将軍と将軍に扮した鐘離春の活躍で、敵陣のど真ん中で龐涓を捉えることに成功します。そこで人質となった龐涓に即時撤退を約束させ、4カ国連合軍は虚しく引き上げることになるのですが…

 第八章『以逸待労(いいつたいろう)』では、虚しく引き上げる魏軍兵士は、戦に負けたわけでもないのに、退却するをよしとしない意見が強くなり、龐涓はその言葉に乗せられるように再び斉にとって返し、斉軍に挑みます。しかし斉軍は英気を養っており、それに対して魏軍は長期の行軍によって疲れ果てていて、散々に打ち破られてしまいます。そこで龐涓は一端兵を退き、態勢を整えることになるのでした。

 第九章『無中生有(むちゅうしょうゆう)』では、一度魏に引き上げた龐涓は、とにかく孫臏を逃がした犯人を捜し始めます。そしてそれを鐘離秋だと見当をつけ、彼女を死刑にしようとしますが、公孫閲が間一髪彼女を救い、本当のことを白状するのです。それを聞いた龐涓は、公孫閲を処刑する代わりに斉へ送り込み、田忌や孫臏の政敵である相国鄒忌(すう・き)の家に門客として入らせ、密かに彼らを罠にかけるように命令します。

 公孫閲は見事鄒忌の家に入り込み、田忌には斉王の座に就きたいという野望があると鄒忌に言わせ、彼を貶めるために易者を殺害します。そこへ運悪く、鐘離春に求婚された孫臏が占ってもらいに行き、その結果の悪さに腹を立てた鐘離春が出奔するということが重なり、彼らの立場は非常に不利になってしまうのでした。

 とまあだいたいこんなところでしたね。なにしろこれでまだ四分の一なので、これからまた腰をすえて打っていかなければなりません。でも通り一遍の兵法の解説書にない面白さがあると思うので、また期待しておいてくださいね。

 なかなか前に進まないけど、何せいろいろと準備が必要なもんで…

2009年7月21日 (火)

衆議院の解散

 とうとう衆議院が解散してしまいましたな。テレビのニュース番組は、番組を作るのが楽(?)なのかな。少なくともネタ探しには苦労しない(?)かも知れないね。まあ、結果が殆ど見えるような解散みたいに感じますね。何党が勝っても負けてもいいけど、なんとか暮らしやすいいい日本にしていただきたいと思っておりますよ。

 心配なのは、批判するほうは割合気軽にものが言えるけれど、現実に自分達が運営していかなければならない立場に立ったら、思ったほど動けるのかということですな。どんなものでも実際にやってみると、想像していたのよりははるかに困難なことが多い。やってみたことがない方が、現実の重さを知らないから、割と気軽に発言できるもんだからね。

 身体運用なんかでも同じだよ。いろいろとご批評(時にご批判)をちょうだいすることがあるけれど、中には参考にさせていただくようなものがある代わりに、「あれあれ、これは何が言いたいのかな? 自分の方が凄いぞと言いたいだけなのかな?」というものがあったりする。

 世の中には凄い人がたくさんいるのを私は知っている。でも凄いのと、その人がそこへ到達できる道を残すのとは、また別物だと思っている。凄い人が師匠なのに、お弟子さんがさっぱり、といったケースもたくさん見てきたからね。あまり凄すぎると、かえってお弟子さんに伝わらないことがたくさんあるから。

 あまりに高いレベルを見てしまうと、人間はあまりの情報量の多さに、消化不良を起こしてしまい、かえって出来なくなってしまうってことは、今まで何百回となく見てきた。だから凄く高いレベルをお見せするほうが、かえって情報を伝えるうえでは、やってはならないことではないかと思っている。選手としては大切だと思うけどね。

 でもそのあたりのレベルで伝えようとしていると、人には「なんだつまらない。この程度か」と思われることもあるようですな。そうして結構なご批評を下さったりする。まあそれでもいいんだけどね。でも批評された側としては、いつだって参考意見としてみているから、批評の内容はけっこう分析していたりするんだよ。

 そしてその分析の結果、「なんだ、こんなこともわからないで、上から目線で批判しているのか」となると、参考にする値打ちすらないということになってしまう。物を発表するってことは、大衆の面前で素っ裸になるのと同じだと、かつて大作家の某氏(私はその方の大ファンであった)が仰っていたけれど、自分が書いたことによって裸体を見せるだけの覚悟がないと、なかなか書けないよね。書いたことでレベルを測られていると思ったら、怖くもあるよ。

 昔、少しものを習った師匠がこう仰っていた。ものを発表するのなら、その10倍は知らなくてはならない。この考え方には私は結構納得していますね。そして結構実践しています。だって大衆の面前で全裸になるなんて恥ずかしいもの。「氷山の一角」という言葉があるけれど、人様に見せるのは、それくらいでいいのではないかとも思っているし。

 昔々お師匠様のK先生が、私がある実技書のことを批判したら、「本を書くってのはそういうこと。多くの人が、『まあ、このくらいなら許せるか』ぐらいで書かないと、あまり細かなことまで書いても、殆どの人は理解できないし、かえって不親切になる。一番深いところは、勝負の場でしか見せてはいけないんだ」と諭してくださったことがある。これも大切な師匠の言葉として、できるだけ守っていくようにしている。私はいい師匠に恵まれたからね。

 だからものを発表するにしても、実際にものを伝えようとすると、なかなか大変なんだよね。それに比べて批評は簡単だ。一億総評論家と言われたのはもう30年くらい前だけど、批判するだけなら誰だってできるからね。どんな深い内容でも、自分が理解できるレベルで、自分勝手に解釈し、それを自分勝手に批評するのは、まあ、その人の勝手かな。もちろん思想・言論の自由が保証されているわが国では、言い換えれば権利かも知れない。他人がやったことを批評すれば、なんとなく自分の方が偉くなったような気がするしね。実は全然偉くなっていないんだけどね。

 政治でもそれと同じなんだよね。確かに政権政党がここ何年もやってきたことには、私も感心しないことはいくつもあったし、それで現実にしんどい目に遭わされていたりするけど、でも「じゃあ、お前やってみろ」と言われたら、「ちょっと待ってね。30年ほど勉強してからでいいですか?」と言い逃れしたくなる。私は政治の専門家でもないし。他人のやったことを批判することの簡単さと、それに比べて自分が実際にしなければならない難しさとが比べ物にならないくらい厳しいって知っているからね。

 一般的に経験が乏しい人ほど、辛らつな(時に上から目線の)批評をしてくれるけど、そういう人ほど現実にはまったくできなかったりするから面白いんだよね。そういう人も私は何十人(どころか!)も見てきたからね(お付き合いはしなかった。役に立たないから)。

 さあこれから日本の政治の場でもそういったところが見られるのかな?(本当は暮らしやすい、いい日本にしてもらいたいんだけど)声高に相手を批判しないと、政権奪取は難しいらしいから、けっこうきついことを言うんだろうけどさ。でもあまり酷評していると、自分がやるときに失敗が許されなくなっちゃうよ。人事ながら、ちょっと心配…かな? 8月30日は必ず投票に参ります。でも私だったら、「やれるもんなら、やってみな! 国政って難しいんだぞ!」くらいは言うかも知れないね(テレビの某キャスターに、「やれるもんなら、やってみな解散」なんていわれたりして…)。でも案外それが本音だったりして… 「やれるPhotoもんなら、やってみな!」

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2009年7月20日 (月)

かなとこってると思ったら、やっぱり…

 相変わらず、我が岡山県では梅雨明け宣言は出ていないようである。梅雨の定義を細かくしていくと、いつまでたっても梅雨は明けないような気がするここ数年なのだが、私的にはセミが鳴いて、雷がなったら梅雨明けだと、勝手に判断しているので、私的には梅雨は明けたつもりでいる。でもなんとなく昔の夏とは、ちょっと違うような気がするね。

 で昨日久しぶりに屋外で練習した。テレビの画面には「雷雨注意報」などが出ていたのだが、やれるときにやっておかなければ、いつまでたっても何もできない。まあその時できることをやっておくというのが、私の基本的スタイルなんだけどね。(昔は出来なくてもやってやるなんて生き急いでいた頃もあったなあ…)

 で意図Photo的にでこぼこのところで練習していたのだけど、昨年の夏(ほどではないけど、まだ)みたいな雲が出ていたので、「ほう、今年ももう夏だな」なんて感慨に耽っていた。私の練習場は、いつも綺麗な雲が見えるんだよ。そして私は雲を見るのがすきなんだね。雲が一瞬として同じ姿をしていないところも好きだし、見る方向によって全然違う見え方をするのも好きなんだね。特に夕方ときたら、横から夕日を浴びて綺麗なこと綺麗なこと。

 そろそろ今年も積乱雲が発達し始めたなあ、なんて思っていた。でも今年の夏は昨年までに比べてやたらと風が強い。こういう年もあるのかなあ。普通は夕暮れ時なんて「備前のベタ凪」って言葉があるように、ほとんど風が吹かないのが我が岡山県の夏の特徴なんだけどね。でも昨日はどんどん雲が西から東へと飛んでいっているのがわかった。

 練習は一段落ついていたので、のんびりデジカメなどを向ける余裕がある。Photo_2 よく見ると北東にある雲が時折ピカッと光っている。積乱雲の中でよくある雷らしい。下から見ると積乱雲のようには見えないけど、きっとこの上に立派な雲が乗っているのだろう。昔々私が高校生だった頃、我が家に泊まりにきた友人と、夜の積乱雲の中の落雷を見て感動したときのことを、不意に思い出した。あれも迫力満点だったなあ。空の半分以上を横に、まるで巨大な網がかかったかのように、電光が走るんだよ。あれよりも感動したのは、中国で落雷のたびに周囲が真昼よりも明るいのではないかと思うくらい明るくなるのを見たとき。大陸は凄いなあ(亜熱帯だったからかも?)と感心した。

Photo_3  綺麗なんだけどね。これは最初の奴と殆ど同じアングルで撮影したものだけど、もう雲の形が変化しているでしょ? 本当に上空での風は強かったらしい。不思議なことに、いつもはうるさいカワウがあまり見えないで、アオサギが私のすぐ近くを飛んでいく。アオサギって近くで見ると、結構大きな鳥なんだよ。翼を広げると私が両腕を広げたのと比べたら、どっちが大きいのかな。でも私はこの鳥が浅瀬でじっと獲物を待っている景色が好きだ。哲学者が沈思黙考しているような風情がある(全然そんなことをしているわけではありません。餌となる小魚を待っているだけです、たぶん)。

Photo_4  そんなこんなを夢想しながら川面を見たら、雲が写っていた。いつも私が「美しいなあ」と感動する、光と水と風の芸術である。この夏こそこういった風景を満喫したいと思っておりますが、はてさてそんな暇がございますかどうか(今年は久しぶりに「釣り」を復活させてやろうと画策しておるのですが、これまたどうなることか。昔はよく行ったんだけどねえ)。

 ここでの練習が終わって、土手に上がる。私の習性というか条件反射というか、上り坂があるPhoto_5と、どうしても駆け上がりたくなるので、面倒だが2本ほどダッシュで上がってみた(ダッシュっていうほどスピードは上げなかったけど)。土手に上がってみると、日は雲の向こうで山の端に沈みかけ、ちょっとだけ夕闇が迫っていた。で帰りがけにちょっと見てみたら、積乱雲と呼ぶほど成長はしていないが、垂直に発達する雲の上の部分が見事に横に流れている。金床雲の極小版である。

「おうおう、なりは小さくても、しっかり金床ってるじゃない」その時は単純にそうとしか思わなかった。でも昨年夏の私のブログにも書いたように、金床っているときは上空で気流が乱れているんだよね。こういう時にはよく雷雨になることがある。実は今回もその例外ではなかった。

 夜中の何時だったかなあ、あまりの雨音に目が覚めたよ。そして凄い雷鳴。我が家のチャーちゃんは怖がってあちこちをうろうろ。どこに逃げようってんだろう? なんて言ってもネコにはそんなことはわからないしね。私はそのまま寝ていたけど、結局チャーちゃんは一晩中寝なかったらしい(その代わり、今日の昼は爆睡しておりましたが)。

 テレビの天気予報によると、まだこれを梅雨の豪雨としているらしい。我が岡山県内で竜巻が発生したという噂も聞いた。でもそれって梅雨なんかなあ? このままいくとまたしても梅雨明け宣言を出せないままで終わるかも。関東とかでは梅雨明け宣言しているんだから、もうそろそろ宣言してもいいんじゃない。そして激しく降ったとしたら、夏の集中豪雨なんて言っても、誰もそんなに怒らないんじゃないかな。豪雨は梅雨であれ、夏であれ、降るときには降るんだから。

 ま、私的Photo_6には「金床ったら夏」なんですけどね。少々じめじめしても。

←安而不忘危!大雨や気象災害 の被害を受けないことも、護身なんでしょうね。すると外界のことにもっと敏感にならなけりゃなりませんね。私は自然界の動物の動きを参考にしていますけど。人間にない感覚を持っていますから。

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2009年7月19日 (日)

またまた眠い…

 PCの前に座っただけで、猛烈な眠気に襲われる。確かに過労気味に加えて睡眠不足ではあるのだが、PCの前に座ると眠くなるというのは、「パブロフの犬」化しているようで(眠いので、打ち間違いも少なくない。だいたい打つスピードがのろい。まるで『のろいの卵』である…高橋留美子さんの『うる星やつら』参照のこと)怖い。

 そのうち指や手のひら、拳でキーを叩くのではなくなって、キーに頭突きをやったりするとヤバイ(山下洋輔さんの『ピアノ弾きよじれ旅』参照のこと)。もう眠くて眠くて… いっそのことこのまま床に横たわって寝てしまったろうかなどと思ったりもする。ここのところ頑張り過ぎたからなあ。そうでなくても乏しくなった集中力が切れてしまいそうである。

 それにしても、もうすぐ衆議院解散だというのに、「麻生おろし」だの何だのと喧しい。「大根おろし」なら食べれるし、私は好きなのだが、とうとう「麻生おろし」などという運動も封印された? のかな。まあ、窮地に臨んで、団結が緩むというのは、「自分だけは助かりたい」という弱さが出ているんじゃないかなと思ったりするんだけどね。

 例えばドラマや戦記などでよく見かけるのは、犯罪や何かを犯したものを相手に、揺さぶりをかけるアレである。まず犯人を別々に隔離して、意思統一ができないようにしておき、「おい、誰々はもう真相をはいたぞ。お前もそろそろ本当のことを言わんかい」という奴であったり、『項羽と劉邦』だかにあった、「おい、○○将軍は降伏して、すでに我が軍に下ったぞ。あとはお前だけだ」と言って、相手の結束を崩していく策略にかかりやすいんだね。

 何かを共同でやった場合、仲間やチームメイトを信頼しなければならないのだが、信頼の度合いが試されるというシーンだ。無条件に固く信頼しておらず、利害関係が絡んだ信頼だったりすれば、こういう時はその「利」で釣られたら、案外簡単に転ぶ。どこまでも相手を信じるということは、利害がからんではできないとさえ思うくらいである。

 でもこれから正念場を迎えるのには、ちょっとお寒い状況なんじゃないかな。勿論、今回の総選挙は私は投票に行きますけどね。でも支持政党としては、ごたごたしているところはちょっとね。見苦しいとどうしても、「ここ大丈夫かなあ?」って気持ちが先に立っちゃうよね。

 私は歴史が好きだけど、国の内部が乱れていても、強力な外的が現れたときに一つに纏まれた国は、そう簡単に滅びなかったりしたように記憶している。それに対して「自分だけは…」と考えて、目先の利益に釣られるような人物が現れた国は、ほぼ全部といっていいほど亡んでいる。

 こんなことは歴史がちょっと好きだったら、 誰でも知っていることだと思う。別に中国史(昨日の夕方も、中国人留学生で歴史好きのH君と、長話をしていた)だけではないよ。織田信長は武田氏を亡ぼしたが、亡ぼされた武田勝頼は、こと戦にかけては、父、武田信玄よりも強いと言われた武将である。ただ信玄の頃からの宿将にたくさん離反されている。

 ただの戦の強さよりも、身内をいかに結束させる手腕があるかというのが、大きな要素だという証であろう。でも見ていてもう辟易とするくらい下らないシーンを見せられすぎたので、もう十分である。テレビ局が番組を作るうえで新しいネタを探さなくてすむくらいのメリットしかないだろう。

 こうなったPhotoらあっさり寝ちまったほうが言いですな!

←安而不忘危! 存而不忘亡! 治而不忘乱! この言葉がわかっていたら、ここまで混迷を深めていなかっただろうね。するとこの護身本は、現代の政治家さんにも必要?

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2009年7月18日 (土)

マイ・ペース、ユア・ペース ~大雪山系の遭難事故に思う~

 夏の北海道から悲惨なニュースがあった。大雪山系で多くの方々が遭難されたそうである。ご冥福をお祈りしたい。

 このニュースを知って一番に思い出したのは、プチ山籠もりした時の経験だ。時期は6月中旬。大して高い山ではなかったが、人里離れた場所をわざわざ選んだ。目的は、果たして自分は、自分が決めたことを最後までやり通せる人間か? ということを確かめるためであった。

 山の夜は冷えるのを知っていたので、一応冬の準備はしていた(手袋を忘れていた。これは後からの大変な反省材料になった)。一応6月の中旬だったので、下界ではもうかなり暑かったと記憶しているが、人間の気配がしてはいけないので(人間の世界と離れることも目的の一つだった。自然の中で、自分を見つめ直すということも目標の一つだった)、わざわざ山奥へ入った記憶がある。

 ここはツキノワグマが出没するところで、当時はそれが最大の恐怖だった。もしツキノワグマに出会ったら、山奥は彼らのホームグラウンドである、いくつか護身用のものを持ってはいたが、彼らにはなまなかなものは通用しない。例えば人間になら致命傷を与えられるようなものでも、身体が丈夫で、力もあり、動きが俊敏で巧みな彼らに通用するかどうかはわからない。まして明かりなどはないのである。

 人間が取り入れる情報の7割から8割は、視覚からの情報だという。嗅覚や聴覚の発達した野生動物とは違い、足場の悪いところで彼らと出会ったら100%不利なのだ。護身用の道具だって、大抵のものは対人間用のもので、仮に野球のバットで殴っても、ツキノワグマを確実にしとめられるとは思えない(持っていったものの中には、バットよりは強力なものがいくつもあったけど…)。

 小説なんかで書いてあるようなことは、現実の世の中ではほとんど期待できない。小説を書いた人の殆どは、自分が体験していないことを、想像で書いているからである。もちろんだらかといって、それが感動的でないとは言えない。現実に読む人を感動させる力はあるのだが、それは読者の側も、現実を知らないから起こる現象なのかも知れない。

 実際に大自然を感じたのは、自分が真っ暗な山の中で(懐中電灯を持ってはいたが、使うのは最小限度にしておいた。できるだけ自然なままでいろんなことを感じたかったからだ)、一人ぼっちだと気がついてからである。そこから先は、「自然はいいなあ…」なんて感情は、少しも起こらなくなった。ただ自分が何も周囲のことを感知する能力がないことを知らされて、ひたすら怖い。

 恐怖の正体に気がついたのは、その時である。人は未知のもの、未経験なもの、知ろうとしても知ることができないものには、恐怖を感じる。未知なものに対してうきうきするなんてことを言う人がいるが、それは期待できる未来を予想しているからである。期待できる未来などなく、周囲のことすら感知できなければ、そこにあるのは恐怖しかない。

 一晩やそこいらでは、この恐怖を超えて、他のものには気がつかなかった。この時感じたのは、やはり「慣れ」が不可欠だということだ。慣れなければ周囲を感じる余裕が出ない。「慣れ」を「馴れ合い」という意味に取る人もいるが、大自然の中には「馴れ合い」など存在しない。自然の中では、人の感情などは問題にもされない。自然は自然のあるがままに動いていく。こんなことはほんの少し自然と触れあい、自然の懐に抱かれてみればわかることである。

 ついでに「自然の懐に抱かれる」という言葉だが、なんとなく安らぎを覚えるようなイメージを持つこの言葉も、現実に人の住む社会から切り離されて、本当に自然の懐に抱かれてみたら、安らぐかどうかがすぐにわかる。そこにあるのは「緊張感」でしかない。その緊張感が当たり前になったものにしか、自然の中で暮らすことは出来ない。

 私がそれをしたのは6月の中旬だったということもあって、一年で一番夜が短い時期だった。それでも一晩山奥に立ちつくし、空が少しずつ白んできて小鳥の鳴き声が聞こえ始め、最初の太陽の光が木立の間から差し込んだのを見た瞬間、あれは感動だった。自然の中で一晩生き延びたことの喜びだったかも知れない(山小屋など、人為的なものは一つとしてないところだった)。深夜には草や木も眠る(「草木も眠る丑三つ時」という言葉があるが、実際は深夜12時頃には草や木も寝ている気がした。もちろん、こんなことは科学的にはわからない。私がそう感じただけのことである)。そして空が白んでくるにつれて、周囲の草や木が起き出してくるのを感じたのである。

 悪いことにそれから少しして雨が降り出した。山の天気は変わりやすい。深夜にはあまりの寒さに長いグラウンドコートを羽織って、首の周りにはタオルを巻いて体温の低下を防いでいたのだが、手袋を忘れていたため、指先は目茶冷たくなっていた。吐く息が白いなんてもんじゃない。その上に激しいとはいえなかったが、しとしと雨である。

 もう太陽が昇っているころだったから、さほどでもなかったが、あれが夜だったら、私のプチ山籠もりは、その時点で終了だったろうと思う。中国山地の大したところではない。ちょっと山の奥に入ったところで(今はだいぶ開発されているようだが)ある。それでも「ああ、人は簡単に遭難できるんだろうな」と感じるには十分であった。

 もちろん今回遭難された方々は、どなたもベテランということで、ガイドさんもついていたという。よく我々がたまに登山などをすると、ガイドさんは「自分のペースで登ってくださいね」とアドバイスしてくださる。だから皆さん、自分のペースはご存知だったと思う。でも大自然にも大自然のペースがあるんだよね。

 大自然のペースと自分のペースの接点に、その時の自分がやらなければならないことがある。もしも大自然のご機嫌が悪くて、凄いハイペースだったら、人間の側が自分のペースを守っていても、接点ができない。すると勢いがある方が勝ってしまう。この場合の勝ち負けは、容易に生命の問題になってしまう。スポーツなんかでは相手や周囲のペースに負けてしまったら、ただそのゲームで負けるだけで許してもらえるが、大自然を相手にすると負けは即、死につながることも少なくはない。

 自分にできること、できないことを知るのは『孫子の兵法』でいう「知己」だ。そして自然界の状態やその変化を知るのは「知彼」である。「知彼知己者百戦不殆(彼を知り、己を知る者は、百戦してあやうからず)」という掟はここでも成り立ってしまう。

 つまり「知己」とは、自分のその時の体力や健康状態、運動能力、装備などの準備も含めたものだろう。「知彼」は、地形や環境、天候などの変化などの知識や情報、それに予測なども含まれるのではないだろうか。これはそこに住んでいてすらわからないことがあるので、最も注意を要するものだ(なにしろ、「観測史上初」なんて言葉が、頻繁に使われる昨今ですから)。まして初めて行ったところだったりしたら、慎重の上にも慎重に、これが基本ですな。そうして己でそれをクリアできないと思ったら、潔く撤退する。

 スポーツの試合なんかだったら、撤退するわけにはいかないこともあるけど、大自然を相手にしたら、撤退というのは私は勇気ある行動だと思う。「ヤバイ」と感じたらすぐに防御できるのは、判断力に優れている証だし、その人が優柔不断だったらできないことだしね(優柔不断な人は、撤退するにしても、判断が遅れることがよくある)。今回も勇気ある下山をした人たちもいたみたいだし。私は見事な決断力だと思う。

 なんて滅多に山なんか登らない私が言えることじゃないんだけどね。でも基本的な考えは、まったく「護身」と同じなんだよね。何故って? それは一つ間違えば生命を失うような危険と、いつも隣り合わせのことだから。

 私は臆病者だと自分でも思っているが、若かった頃はいざしらず、今頃ならトレーニングだって慎重だ。トレーニングマップなんてものを作るんだって、臆病者が慎重に取り組んでいるからだと思う。もちろんトレーニングマップってのは、ただの地図的なものではないよ。自分の体調や精神状態なども考え合わせた上での指標である。

 それは「たかが」トレーニングであっても、危険と隣あわせだということを知っているからだ。特に夏季なんかだと、熱中症一つをとっても、致命傷になることが往々にしてあるよね。これも丁寧に自分の身体と周囲の状況とを観察していかなければ、案外身近なところに危険が潜んでいたりするんだよ。そして慣れているはずのトレーニング(コース)だって、その日、その日で微妙に変化していたりするんだ。自分に注意深く、そして相手を軽く見ない。これが基本だと、私は思う。

 たくさんの方々が亡くなられた不幸な事件だと思うが、生きている我々はこういった人たちの貴重な生命から、何かを学んでいかなければならないと思い、敢えて今日の題材とした。みんなそれぞれが置かれた立場でベストを尽くしたのだとは思うけど、けれども企画した会社の社長さんの発言のうち、次のは感心できなかった(責任を取って辞任されるということだが、失われた生命は帰って来ないわけだし)。「引き返す道もあったと思うが、判断が間違いだったかどうかはわからない」 でも私は間違いだったと思いますよ。人命が失われているんだから。

 いろんなところから、いろんな人がやってきて、ツアーとして登山すれば、新たな出会いがあったり、新鮮なナニモノかが得られたりして、素敵な体験になると思う。それはそれでいいことなのだが、それもこれも安全であることが土台になっている。知らない人で、その人のペースがわからなかったり、他の人のペースについていけなかったりしたら、今度は新鮮な出会いであったはずのものの短所が顔を出す。長所の裏側には必ず短所が存在する。

 昔々、私がたまに山に登るとき、ガイドさんだったかが教えてくれた。「家を出てから、家に帰るまでが登山です。みなさん、気をつけて行って来てください」 当たり前の言葉だが、今はやけに大切で重たい言葉のように感じる。当たり前の言葉を、当たり前のように語れるのが、素晴らしいことではないかと思う。Photo_3

←安而不忘危! 「護身」の考えは、護身術だけでなく、生きていく上ですべてに通じるものです。本書は各地の図書館などでも閲覧できるようです。

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【閲覧可能図書館例】

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http://www.tosyo.city.tsu.mie.jp/kirameki/newly/index.html

http://www4.city.inazawa.aichi.jp/tosho/newlist/publication.asp?id=00&pg=24

http://wwwlib.city.ina.nagano.jp/newlist/publication.asp?id=07&pg=6

http://www.lib.adachi.tokyo.jp/new/list15.html

https://Photo_2www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/Newbook/0108.html

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2009年7月17日 (金)

続発する…

 口の中を噛むと、直後に同じところかその近くを、もっと強烈に噛んでしまう。これはまあわからないでもない。噛んだことろは腫れているから、噛みやすくなっているかも知れないし、もう噛むまいと、いつもと少し違った口の動かし方をするから、つい噛んでしまうのかも知れない。

 今日は悲惨だった。ガラス器具を前任者(?もっと前の人かも?)が大量に棚の中に放置していたので、それを使用可能な状態に戻そうと整理整頓していたら、なんと割れた破片が奥の方にあって「あっ」と思ったら、指を切っていた。あれれ…? 手や指を切るなんて随分久しぶりだと思っていたら、なんと同じ棚の別のところでまた切ってしまった。

 なんちゅうこっちゃ? こんなことがあるんだなあと思っていたら、今度はカッターナイフ(切れ味が悪かった)がいきなり切れ、紙だけでなく私の左手の人差し指まで切ってしまった。去年一年間で切ったことがあったっけ? あってもきっと1度くらいではないかな、と思うくらいなのに、今日だけで3年分くらい切ったような気になってしまう。

 なんか動き方がいつもと違うのだろうか(毎晩包丁を使っているのにね。これだと「やったかな?」と思っても切っていないのに)? まあ僅かにタイミングがずれたりしただけで、危ないことはよくあるから、仕方がないっちゃあ仕方がないんだろうけど。

 それにしても朝からテレビは、やれ「両院総会」だのなんだのと騒いでいる。私たちはそんなこと、知ったこっちゃあないのに、そんなことばかりで公共の(?)電波が独占されている。まあ総理大臣が途中やめで、仕事を放り投げるって減少も続いたから、それが当たり前のことになっちゃったのかな。投げ出さなかったら、無理にでも投げ出さそうとしているように、私なんかみたいな外野には思えてしまうよ。続発しないといけないのかな?

 先日も書いたけど、わずか10ヶ月前には、「この人しかいない」なんて雰囲気で選出したはずの人である。選挙まであとわずかなのに、それでも引きずり下ろすのかね。引き摺り下ろしても、少なくとも10ヶ月前の状態だったら、それよりもいい人はいないんじゃないの?

 続発してほしくないもの、悲惨な事故や事件。続発してほしくないもの、景気の低迷と無能な為政者による収入の減少。続発してほしくないもの、大雨や雷雨(落雷)。続発してほしくないもの、大量の出費などなど… いくらでもあるね。逆に続発して欲しいものは、私にとっていいことだったら何でもいいよ。

 あ、これを打っている間に、左手の出血が止まった。切ったところを固めるには、乾かすのが一番である。あれこれいろんな人が出てきて、いろんな処置をしようとしたら、いつまでたっても傷口はふさがらないもんだ。最近の政治についても同じようなことが言えるような気がするけどPhoto

←安而不忘危! 悲劇を続発させないためにも。本書は 図書館などでも閲覧できるようですが。

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2009年7月16日 (木)

夏の夕飯に粟とサツマイモのお粥

 夏である。暑い! 汗をかく。私の場合は半端でないくらい、自分から進んで汗をかくようにしている。毎日自分の身体中の水分が入れ替わるくらいの感じ(あくまでイメージ)で汗をかくと、妙に体調がいいのが不思議だ(疲れが残るので、睡眠はたっぷりとりたい)。

 我が家では当たり前だが、「ビールは一杯目が美味しい」などという言葉はない。2杯目も3杯目の4杯目も美味しい。1杯目しか美味しいと感じないのであれば、それは汗のかきようが足りないのではないかと思ったりする。もちろんほどよい疲労があるので、夜は爆睡してしまう(汗をかきすぎている場合、寝ていて身体が火照ってしまうことがある。これは1シーズンに何度かあるけど、それでトレーニングを微調整する)。

 さて汗の成分は水、塩化ナトリウム、尿素、カルシウム、塩素、マグネシウム、乳酸などなどと言われているが、汗をかいたからと言って、水だけ飲んでいればいいというわけではないことは、現代人の常識としてどなたもご存知ではないかと思う。私がかつて知っていた長距離走の指導者の中には、汗とともにミネラルが失われているのを計算に入れていないで、どんどん選手を潰した人もいたので(過去形)、ミネラル分の補給は、意図的にやってないと大変だ。

 さて夏になると、なんとなく消化器官の弱っているような気がする。きっと冷たいものや、水分を多量に摂取するからだろう。そこで我が家では夕食は相変わらずお粥である。お粥の利点は、消化器官を冷やさない(その前にビールで十分冷やしておりますが)、消化しやすい、入れるものによって栄養補給がかなり簡単にできるなどなどたくさんある。

 中でも汗を大量にかくということは、水分が身体から失われ、自然なお通じが不自然に変わりやすくなるということでもある。そこでこのあたりの問題の解決も同時に狙って、いろいろなタイプのものを作ってみる。中華粥から出発した試みが、今やいい方向に向いてきた。

 一昨日試Photoみたものは「粟とサツマイモとシラス干しのお粥」であった。材料は大したものではない。 粟は100g、サツマイモはざっと250g、シラス干は左のパックの約半分である(残りは酢醤油…醤油はほんの少し。食酢とレモン主体である…で、わしゃわしゃと食べてしまう)。夏は我が家のシラス干しの消費量がグンと増える。これは発汗によるカルシウムの減少対策である。

 ちなみに粟の栄養素は、食物繊維、カルシウム、マグネシウム、鉄、カリウムなどであって、サツマイモは食物繊維、ビタミンB1、ビタミンC、ビタミンE、カリウム、炭水化物、タンパク質など、シラス干しはカルシウムとビタミンDなどである。これだけ並べただけで、何を目的にしたお粥かわかろうというものだ。

 ようするにミネラルの補給と自然なお通じである。粟などを食べていると、小鳥のように、そのうち空を飛び出すかも知れない(母は粟の大ファンである)。発汗量の多い季節なので、失われやすいものを主体に補給してやるのだ。

 芋はPhoto_2金時のいいのが、大抵のスーパーで、さほど高価な値段でもなく手に入る。しらす干しも今がシーズンらしく、たいていのスーパーに置いてある。 サツマイモは皮をつけたままで(金時は固くて皮が剥きにくい。さらに茹でると柔らかいので、洗うだけである)一辺5㎜から1㎝弱くらいの大きさで賽の目にしておく。この頃には粟は水洗いしてすでに過熱を始めておく。

 それからサツマイモをドバっといれ、暫くしてしらす干しを入れ、弱火でことこと煮て30分ほどで火を止める。もちろんこちらはビールをプシュっとやっているので、時間待ちに悩まされることはない。むしろ煮あがったものをすぐ食べて火傷するより、火を止めて暫く待って、火傷しPhoto_3ない程度まで冷めたほうが食べやすい。

 あとは食べるだけなんだよね。 これがまたなかなかイケルんだよね。今年は夏の夕食に、ほとんど悩みがないよ。必要な栄養分がわかったら、それを含んだ食材でお粥にするだけだから。作るのは簡単。しかもお酒を飲む時間まで稼げるし。こんないい食品、他にないんじゃない? おかげで体調がけっこういいよ。自然に体重もコントロールできるし。次からダイエット用のお粥でもやってみようか?Photo_4

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2009年7月15日 (水)

子供たちに見せたくない場面

 ここのところ毎朝、テレビで政治関連のニュースが流されている。でもどうして政治家とか、政治評論家の皆さんって、相手が話し終わるまで待って、ご自分の意見を述べられないのだろうか。相手に喋り終わらせないで、とにかく自分の意見だけを言う。これは同様な場面でお顔を見せておられる評論家さんたちにも共通している傾向のような気がする。

 私が子供の頃は(私がおっちょこちょいだったせいもあるが)、「相手の話をよく聞いてそれから話しなさい」と言われたものだ。確かにテレビの番組なんだから時間制限はあるんだろう。でもいくら時間制限があると言っても、相手の発言中に、それを妨害するような割り込み方をしているのは、どうみても感心できない。

 大声で怒鳴り散らしたら、その意見が通るというのとあまり違わないような気がする。相手に発言させようとしないんだからね。番組の時間制限の問題は、どの番組にも(きっと)有能な司会者の方がおいでなんだから、強引にでも時間の割り当てを作って、それを守って発言してもらえばいいんじゃないかな。

 とにかく毎朝くりかえされる政治論争はまとまりがなくて、聞いててわけがわからなくなる。たった一つわかることは、相手に対して好意を持っていないらしいなということだけである。私が知りたいのは、この国がどうなっていくか、私たちの将来は明るいのか暗いのかなんてことだけであって、政治家さんたちが、誰が誰に好意を持っていて、誰が誰に好意を持っていないかなんてゴシップまがいのことには何の興味もないんだよ。

 それにしても10ヶ月前にはあれだけ評判のよかった麻生総理大臣に対しての風当たりの強いこと。確かあの時は総裁選なんていうのがあって、麻生さんが圧倒的な指示を集めて快勝したんじゃなかったっけ。でもわずか10ヶ月で変わってしまうんだね。「人の世は移りにけりないたずらに」だね、まさに。

 あのときには麻生さんしかいないってな雰囲気だったんだけどね。でも今じゃ「麻生おろし」なんでしょ? あの時麻生さんを支持した人たちの中に、今や麻生おろしに加わっている人が大勢いるんじゃないでしょうね(マスコミの報道を見ると、大勢いるように感じてしまうよ)。もしそうだったら、あまり格好よくないよね。

 我々は一般市民なので、難しい政治の話はわからない。ただ小泉、安部、福田、麻生と続いたここ4人の総理大臣の中では、私は高速道路料金を値下げしたのがポイントになって、漢字を読み間違えようが、少しくらいおかしなことを喋ろうが、麻生さんが一番、一般の人間にはプラスがあったのではないかと思っている(定額給付金については、残念ながらあまり大きなインパクトはなかった。私の場合はリモコンのヘリコプターに化けました)。

 もちろん日本であるから、一般庶民は総理大臣を選出することはできない。そして誰が総理大臣に最も適しているのかも、実のところよく知らない。でもなあ、10ヶ月前に麻生さんを力いっぱい指示した人が、今声高に麻生おろしをしていたら、あんまり子供達に見せたい風景じゃないなあ。

 確かに人間は神様ではないから過ちは犯す。人を評価し間違えることもあるだろう。でも10ヶ月前に味方だった人たちが敵に回って叩いていたとしたら、人を裏切ることなんてなんとも思わないって、国の上に立つ人たちがお手本を見せているように見えるんだよ。政治家の人たちの中には永田町だけが日本で、その他は日本領土でないように感じているのかも知れないけれど、選挙で国民から選ばれているんだからね。次の日本を引っ張っていくかも知れない子供達も、自分達の姿を見ているってことを、少しは意識してもらいたいもんだ。

 8月30日が選挙なんだそうだが、それまでひときわ暑い夏を迎えるであろう政治家の先生方に、一番希望するのはそういう点だよね。あとは個人個人主張する点は違うのは当たり前だし、それをどう思うかも有権者の自由だから、それなりに頑張ってもらえばいいんだけどね。

 子供たちに見せたくない場面だけは、あまり見せなPhoto いようにしていただきたいものだ。

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2009年7月14日 (火)

天網恢恢疎而不失(てんもうかいかいそにしてうしなわず)???

 夏である。今日はきっと猛暑日ではないのだろうか?(気象台がどういうかわからないが、少なくとも私が仕事していたところは、明らかに35℃を超えていたように感じた)おまけに太陽がギラギラと照りつけて、オキシダント注意報が出るのではないかと思ったくらいである。風もなかったし(出たかどうかは知らない)。

 忘れ物をしたので取りに帰ったら、居候ネコの子猫が「にゃ~ん」と言いながら出てきた。(飼い猫のチャーちゃんは、テーブルの下でひっくり返っていた。可哀そうだったので…チャーちゃんは毛長族なので…クーラーのスウィッチを弱で入れてあげた。例によって「ありがとう」も言わないで、そのままひっくり返っていた。彼は母にはもの凄く懐いているが、私には冷たい)

 実は我が家には植物や水溜りがたくさんあるので、(ビオトープなんて言葉が流行するはるか前から、いくつも作っていた)夏になると虫が発生する。ボウフラなんかだとグッピーの出番になるけど(めちゃくちゃ綺麗なグッピーになりますよ!! ペアで入れておくと、秋口には1ペアだったのが群れになっていたりします)、空中を飛ぶのはもっぱらクモに頼っている。窓に止まるガなんかはヤモリが食べているし。

 クモは巣を作るので、庭を歩いていると、しょっちゅう顔にかぶさって鬱陶しい。でも一応我が家では保護の対象なので、巣は壊してもクモは殺さない。その他カナヘビも適当に昆虫を食べてくれるので、もちろん保護している。庭に植物が多いので、食物連鎖の底辺が大きいから、どうしても動物が増える。それも食物連鎖に任せてしまおうというのが私の基本的な考え方である。

 さて最近はラケット状の虫退治の器具ができた。安価であって、前回中国に行った時、屋外のレストラン(広東料理)で食べているとき、小王が得意げにラケットみたいなので蚊をバチPhotoッ! バチッ! と退治しているのが羨ましくて(まるで子供ですな、我ながら)、帰国してすぐホームセンターで見つけ購入した。

 最初はこれでも蝿を退治するのはなかなか難しかったが、やり方を覚えると案外簡単である。バチッ! 蝿の足や羽は燃えている。このバチッ!という手ごたえがなんとも言えない充実感で、母などは嵌ってしまったくらいである(私が嵌っていないとは言わないよ)。

 ところが何が原因かわからないけど、ショウジョウバエが発生しやがったので、こいつを使ってみたら、一向にバチッといわない。何度やってもいわないのでよく見てみたら、ショウジョウバエの方がこの網の目よりも小さいんだね。つまりスイスイと網の目をくぐっていたのである。

 これはムPhoto_2カついたので、なんぞいいものはないかと探していたら、あったあった、園芸店にあった。これが対ショウジョウバエ用の秘密兵器である(後ろにいる、耳が尖がった、尻尾のある四足動物…一般的にネコと呼ばれている。居候ネコの子供である。写真を撮影しようとしたらダッシュしてきて、横になった…ではない )。左側のミミカキグサは対ショウジョウバエ用ではない。タヌキモの仲間だから、空中を飛ぶショウジョウバエを捕まえることはできない。ただ可愛らしい花が咲いていたので買ってきた。黄色い花をつけるものなら、我が家のビオトープに毎年勝手に自生している。

 真ん中のがハエトリグサで、一番「らしい」植物。一番右のはヨツマタモウセンゴケという。これが我が家のショウジョウバエ対策である。ただ幾つか難点がある。というのは食卓に置いたら、おかずと間違えて、ついお箸を伸ばしてしまう(私がやっちゃうんだよね)ことと、やはり食卓に上げるには若干問題があることだ。

 ま、ネコだって大きな虫は取ってくれるし(先日は結構な大きさの鼠を捕まえて、ぼろくそに弄んだあと、食っちゃったそうである…母談。立派なネコに育っている。ネコはネズミを捕まえるからネコで、トリを捕まえればトコ、ヘビを捕まえればへコというんだそうだが、ムシを捕まえたらムコ? 嫁さんは誰? ちなみに我が家の居候ネコの子供は全員オスなんですけど)、考えようによっちゃあ虫取り網みたいなものである。

 クモも網、ヤモリも網、カナヘビも網、ネコも網、虫退治用のラケットも網、食虫植物も網。いろんな網があるもんだ。こうして我が家では夏の虫害を乗り切っていく。こういうのも天網恢恢疎而不失(てんもうかいかい そにしてうしなわず:天網恢恢疎而不漏…てんもうかいかい そにしてもらさず、と言うのは『古今本考正』孫kuang(金へんに廣)にある言葉。一般的にはこちらがよく使われる)かも知れないね。

 天が悪人を捕まえるために準備している網は、目が粗くて大きいが、捕り損ねることはないという意味の『老子』にある言葉だが、今の世の中のように悪人がはびこる時代になると、天網恢恢疎而失かも知れませんな。

Photo_3 ←安而不忘危! でも護身は天網恢恢疎而不失でなければなりませんね。

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2009年7月13日 (月)

人の評価・2 ~悪意と評価~

 中学生の頃、私は漫画家志望であった。その頃、とんでもない名著に出会った。石森章太郎(後の石の森章太郎)さんの『マンガ家入門』『続マンガ家入門』である。(出版されたのはもっと早かったと思うが、私が中学生になってやっと買えたので、私にとっては中学生時代の出会いであった)これは素敵な本で、当時売れっ子だった石森さんが、よくこんな本を書けたなあと思うようなものであった(ファンレターも何度か送ったくらいだ)。

 その中に作品と読者のことが書いてあった。自分の描いたことの80%がわかってくれる人が1割(この数字は記憶が曖昧)50%わかってくれる人が20%、少しだけわかってくれる人が50%、全然わかってくれない人が20%(まさかと思うでしょうが、いるんですよ)と書いておられた。これは「天才・石森章太郎にして言えることではないか」と長い間思っていたが、誰にでも(才能がなければないほどヒドイというのは、ここ10年ほどで余計にわかった)起こり得る現象である。

 人は他人のことはわからない。幸い私の周囲には、私を理解してくれたり、理解しようとしてくれる人がたくさんいるので、時々その幸せに気がつかなくなって、時として傲慢になったりしてしまうが、やっぱり時々は立ち止まって考えてみなければならない問題のようである。

 何かを発表すれば、それについて様々な評価をしてくれる人がいらっしゃる。これは大変有難いことだ。他人のすることに関心を持ってくださっているからである。そのことについては感謝するのだが、身に覚えのない酷評などをしてくださると、「おいおい、この人、何か私に恨みでもあるんかいな?」と考えてしまう。

 仕事であれなんであれ、物事を発表する際には、様々な事情が生じる。内輪の事情など表に出すべきではないだろう。私は一部の芸人さんのように、楽屋をネタにするつもりはないからである。そしてそれについてどんな評価が出ても、あまりそれについてどうこうする気はない。もちろん人間だから、褒められれば嬉しいし、貶されれば腹も立つ。

 ただ基本的に、自分では自分がどうしても客観的に見ることができない部分もあるから、多少人の評価を参考にはする。だいたいあまり器用な方ではないので、今までもいろんな人に叱られながら育ってきた。私自身は「自分は褒められると、もっと伸びる」と思っているが、上手に私を褒めて伸ばしてくれた人は少ない。

 でも叱ってくれるとは言っても、悪意があるのとないのとは、誰でもすぐに感じるよね。だいたい悪意を持って人を酷評するのを「クサす」というわけだけど、いくら人をクサしても自分が上達するわけでも、強くなるわけでもないのに、どうしてクサそうなどと考えるのだろうか? きっとクサすことによって、自分の方が優れていると感じ、安心したり、優越感を持つんだろうね。何を思ったってかまわないんだよ、心の中ではね。でもそれを投げつけると、その人に対して何か特別な感情を持っているんじゃないかと勘ぐられることになるよね。

 今の世の中、「誰でもよかった」なんて怖い事件が起こるぐらいだから、「誰でもいい。ぼろくそに言っておこう」なんてストレス発散方法はあるんだろうけど、これはマイナス面もあるよ。まず悪意を持っているだけで、その人の意見は客観性を欠いているからね。そして下手なことを言おうものなら、どこまで理解しているかまでわかってしまう。矛盾などしていたら、「あんた何がいいたいん?」てなことになってしまう。まあ相手をクサそうと思えば、どうしても上から目線になるだろうから、聞いててあまりいい気分にはなれないしね。

 いや実際に上なら、上から目線でいいと思うよ。でも上なら上だと実証しなければならないし。それはそれで大変だと思うんだ。よくあったよ、私の職場でも。人のやったことをつべこべ評価ばかりしている上役がいた。いろんな人がそれをやられ、とうとう私のところへもお鉢が回ってきたので、私は言った。「そんなら、まずあんたがやってよ。あんたがやって見せてくれたら、俺はそれよりちょっとだけ上手にやって見せるから」 この人には嫌われたけど、他の人には感謝されたよ。そのあとこの男は、あまり下らない評価をしなくなったからね。実質、上でない人間が上から目線でものを言うと、いつか恥をかく。世の中ってうまくできているからね。

 でも悪意のある言葉って、はっきりわかるよね。もうだいぶ前になるけど、私の上司にそういうやつがいた(今はこの世にいなくなってしまったんだそうな。私が知らないうちに戸籍をあちらに移しやがった)。この男、言葉は口から言葉が「立て板に水」というくらいに出てくるのに、聞いた後どうにも気分が悪いことが多かった。それはこの男が「悪意」からものを言う男だったからである。よく「孔子さま」と言っていた男だったが、「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん:論語・学而篇)」を絵に描いたような男だった。「論語読みの論語知らず」の典型だ。

 私は他人の評価も参考にする。悪意のない評価はそのためのいいアドバイスになる。悪意のある評価(いわゆる悪口の類)だと思えば、積極的に無視することにしている。悪意によって人は伸ばしてもらうことはない。悪意のある人間のお陰で伸びることはなくはないが、それは相手を倒そうなどという、こちらにも邪な欲望が湧いてくるから疲れる。自分がやろうとしていることからブレてくるし。

 スポーツ界なんかでも、特定の選手を贔屓して、特定の選手にきつくあたることはよく見かける。これも悪意が土台になっていることが少なくないが、それで潰された選手は少なくない。いくら相手が立場的に上にいても、「悪意」が感じられたら、一切そいつの言うことを聞くことはない。相手が悪意をもって評価しているのであれば、その指示を守ったところで、所詮悪意である。こちらが潰れることはあっても伸びることはない。

 でもわざわざ悪意のある評価をくれたりすると、その人間にとってはとても無視できない存在なんだろうなと思ったりもする。だって無視できる範囲なら、わざわざ時間と労力とまでを使って評価をしたりしないもの。Photo

←安而不忘危! 君子不近険地(くんしあやうきにちかよらず)。わざわざ敵を作るのは愚の骨頂です。

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2009年7月12日 (日)

夏は元気をつけないと ~山薬蓮子粥を作るっ!!~

 今日は随分暑くなりました。まだ雨が何度か降るかも知れないけれど、だいたい夏になっちゃいましたね(昨年、いつまでたっても「梅雨明け宣言」を出さないで、タイミングを失った気象台をもう信じていない? 最近、天気はだいぶあたるようになりましたけど、梅雨明けの定義なんかで迷っていたら、本当は明けてしまっているのに、いつまでたっても梅雨のまんま、なんてことが起こりますからね)。私は雷やセミの方を信用しているので、私的には、もうそろそろ梅雨は明けるんだろうなと考えております。

 夏になると暑いので、どうしても冷たいものを摂取しがちになります。すると胃をはじめとする消化器官が弱ってしまうので、体調が悪くなることが多いんですな。もちろん冷たい飲み物は、体温を下げる上では大変有効ではないかと思うので、私もよく飲みます。吸収だって速いといいますからね。でもそれだけに頼っていたのでは、本来ある程度の体温を維持していなければならないはずの消化器官が冷えすぎ、参っちゃうんですな。

 体調を整えることも、広義には護身なので、やはり我々が常日頃から心がけていなければならないことではないかと思います。私が護身術という狭い範囲で物事を考えないのは、人間が幸せに生きていくことを本質的に考えているからだと思ってくださって結構です。すると格闘技術としての護身術は、護身の中の、ほんの一部だと気づくはずです。中でも健康状態をいい状態で保っておくのは、護身の中でも重要な部分だと考えています。

 そこで今年は、冬にお粥は私が作ると決めてから、私が岡山にいるときには、ただの一日も休むことなく、お粥を作り続けておりますが、今日は昨夜母に絶賛されたお粥を紹介いたしましょう。健康的にもよさそうだし。

 今回のベースは『山薬蓮子粥』と言います。ヤマノイモと蓮の実のお粥でございますな。材料として使うのは、確かテキストにはヤマノイモと蓮の実をそれぞれ25gずつ。お米が150gで、これらをことこと煮込んで、最後に大匙1杯のお砂糖を加えろとなっていたと記憶しております。

 ところが少なくとも我が家では、お粥に砂糖を入れたら、どれも凄まじい味になってしまいましたので、ここはお塩と言い変えるように心がけております。さっぱりしていないと、後口がねえ…

 蓮の実Photoは、私が中国から買って帰った、真空パックのものでございまして、芯を取り除いたものだと思って水にかしたら、残念なことに芯ありのものだったので、包丁で二つに割って、芯を取り出しました。 25g分で左くらいかな。ちなみに蓮の実には滋養強壮、疲労回復、精神安定、健胃、下痢止め、血圧低下、血中脂肪減少などといった薬効があって、薬膳料理にはよく使われます。

 ついで250にヤマノイモですが、母に「ヤマノイモある?」と尋ねたら、「ほい」とこんな感じで出されました。25gよりはだいぶ多そうだったので、ためしに重さを測ってもらいましたら、なんと250gありました。私は疲れていて面倒だったので、そのまま皮を剥いて、全部短冊にしてしまいました。もともと大雑把な性格をしておるのでございます。 

 ちなみにこのヤマノイモは昔から強壮剤などと言われてPhoto_2きましたが、ジアスターゼという消化酵素をダイコンの3倍も含んでいるのだそうです。このヤマノイモのデータなのか何なのかはわかりませんが、とりあえずダイコンよりもデンプン消化能力は高いということでしょう。

 くわえてヤマノイモはぬるぬるしております。これはムチンというものらしいのでございますが、こいつがタンパク質を消化し、傷ついた粘膜を補修する能力が強いらしいんですな、ものの本によると。つまりタンパク質の消化・吸収にもいいわけです。

 ついでに食後の血糖値が急激に上昇するのを防ぎ、食物繊維が豊富で、ビタミンB1やらビタミンCやらが多い(加熱するから、ジアスターゼやビタミンCは破壊されるかも知れないけれど)という恐るべき薬効を持っておるわけですな。だから物凄く健康的なお粥と考えることができます。

 ただ調理する上で考えなければならない点は、私が使っている蓮の実は、大変よく乾燥しているので、テキストに書いているように、「お米と一緒に煮る」だけではうまくいきません。これだけが固いままで残るのです。そこで芯を取った後、さっさと鍋に入れて炊き始めます。

 適当に(昨夜はこれと平行して肉を焼いていたので…私の仕事…いいくらい時間が経過したのではないかと思いますが、たぶん5分以上、10分以内だと思います)経過したら、ご飯を入れて、お塩を小匙1杯程度入れ、隠し味としてほんの少しだけお醤油をたらします。

 あとは肉を焼くのに専念して、肉がやけたら缶ビールをプシュっといわせて、肉で美味しく「かんぱ~い」とやっているうちに、我が家独特の「酒がすべてを解決してくれる」状態に入っていきます。呑んでいるうちにお粥が適当になるんですな。最近は適当に飲んでいるので、時間など気にしなくなっちゃいました。

 適当な時Photo_3間(きっと20~30分)が経過したら、短冊に切ったヤマノイモを鍋に入れ、お粥とよく混ぜ合わせ、弱火で10分間加熱でございます。ここでも「酒が解決してくれる」などとやっていると、ヤマノイモが煮えすぎて美味しくなくなったり(ちなみに私の好みは、多少しゃきしゃき感があったほうが好きです)、お粥が底についてこげたりするので、ここだけは少し時間を見てやります。

 上のようになったら出来上がり。結構あっさりして、私的には、一番日本の普通の味に近いのではなPhoto_4いかと感じましたな。でも夕飯としたらこれくらいがヘルシーなんだよ、きっと。 だから「後は食うべし、食うべし、食うべし」と、脇が開かないように気をつけて、左ジャブを出すように食べてしまいました。

 これを食べて一番感じたこと。自然な便通にいいわ~。やや(時としてひどい)便秘症の母をして、「昨日のはよかった」と絶賛させました。老廃物は老廃物なんだから、できるだけ早く排出しないとね。それも自然な形で。Photo_5

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2009年7月11日 (土)

武道的観点からみた平和の意義

 ウィグルでの騒ぎはだいぶ収まってきたと、テレビのニュースで言っていた。もちろんテレビ局も実際に行ってみたわけではないだろうから、中国当局の発表なのだろう。動乱のときはたいてい乱戦模様になるから、大抵の人はその時を生き延びることに必死になる。

 そうなると、その場その場を生きるためには何をやってもよいわけで、精神性などを高める間はない。生きていりゃこそ… といった状況なわけで、これは拙著『読むだけであなたは身を守れる』で書いた、護身と基本的に同じ状況になる。この中で「護身は実戦である」と何度か書いたのは、ルールも何もない、ただの生き残りをかけた戦いだという意味である。

 現在のわが国は、不幸にして悲惨な犯罪の被害者になることはあるが、国家の治安部隊を投入しての動乱鎮圧などという事態にはない。平和はいいものだ。私もそう考えている一人である。

 動乱の時代には否応なく他人と争うことを憶えなければならない。そうでなければなかなか生き残れないからである。具体的な方法ももちろん覚えなければならないだろうが、一番重要なのはいかにして生き延びるかという心構えである。そして具体的な生き残りの技術も、実戦の中で試されることにより、生き残った技術が有効なものとして残され、研究され、練習される。

 でもこの時期には、常に実戦を想定したものでなければならない。実戦に使えないものなど、何の意味もない。それはいくら憶えて、いくら身につけても、生き延びることにつながらないからである。

 でもこれが平和な時代になると、少し状況が変わってくる。動乱の時代に有効とされたものを練習していくのだが、それらの技術を繰り返し練習しているうちに、次第にそれが一つの形になっていくからである。型はそれを高度に完成したものなのではないだろうか。

 型稽古をしっかりやるということは、その型の完成に尽力した人たちの思いを受け継ぐということではないかと思う。そして型を完成していく上で重要なのは、いろいろと考える間が必要だということである。毎日戦い続ける中でも人は物事を考えていくことができるが、そこに哲学性や思想までを含めていくことはなかなか手が回らないのではないだろうか。

 ということは毎日命を懸けた戦いをしている状況では、型を完成するのに適してはいないのではないかということだ。平和な時代には、毎日が実戦で頭が一杯な状態ではないから、考える間がある。研究する時間もある。実戦の中で有効だったことを整理し、まとめることもできる。

 だから案外平和な時代に、こういった理論的なことが発達するのではないかと思っている。でも動乱の時代には、毎日毎日が、目の前に起こる事件を捌くだけで手一杯ではないだろうか。

 もちろん出来上がった理論は、実戦を通してその有効性を証明しなければならないんだけど。つまり平和ってのは、人と争うものを大成させるためにも必要な状況なんだよね、きっと。平和はいいなあというのは、毎日毎日のことに追われないで、何かを長期的な展望にたっPhotoてまとめていく上でも、大切な状態ではないのだろうか。

←安而不忘危! 平和に生きていくためにも、護身は一番大切ですね。

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2009年7月10日 (金)

 朝からムシムシすると思ったら、突然風が強くなって気温が下がった。絵に描いたようなパターンだなと思っていたら、ゴロゴロ、ピカーってなぐあいで稲妻と雷鳴がやってきた。雨もドバっと降ったが、これまた絵を描いたようなパターンで天気が回復した。これって梅雨なんかなあ? なんとなく夏みたいなパターンだけど、太陽の光は真夏を感じさせるほどきつくはなかった。

 先日、たった一日だけセミが鳴いたけど、あれ以来、セミの方で自粛しているのか、鳴き声が聞こえない。地上へ出たら1週間の生命なのに、1匹だけ出てきて、「ありゃ、しまった」と思っても、雌がいなかったら生殖もできないだろうから、とても不憫なヤツである。

 午前中から夕立(?)が来たお陰で、今日はいつもよりは過ごしやすい岡山であった。東京などではテレビで「大変ムシムシする」と言っている。それって今朝までの岡山だから、もう少ししたら、ピカっ!! ゴロゴロ…だよ。少しは過ごしやすくなるといいよね。

 昨年は「ダウンバースト」ってのが流行った。今年は何が流行るのだろうか。毎年流行る気象用語を記録しておいてもいいが、確か昨年はダウンバーストのせいだかなんだか知らないけど、局地的な大雨の危険があるからって、なかなか「梅雨明け宣言」をしなかったよね。ま、早く出しすぎて天災が起こるよりはいいんだろうけどね。

 これから暑くなると、また汗をかく季節になる。私は汗が出るときには、自分から積極的に汗を大量に流すことにしている。だからだいたい梅雨の間に汗腺が開きやすい身体になっておくんだよね。ちょっとくらい天気が悪くても、厚着をして動き回る。

 とにかく毎日大量の汗を流していると、汗がさらっとしてくるから面白い。この状態で夏に突入していくんだよね。でも昨年の夏は参ったよね。いたるところで夕立に祟られた。お陰で私は、いつでも運動できる準備をしておいて、僅かな夕立の合間を縫って練習していたりしたよ。

 というのは最近ニュースなんかでも雷の危険性はよくとりあげられているけれど、昔からあまり得意じゃなかったんだよね。だって避けられないじゃない。するとどこかに隠れて小さくなっていなければならない。面白いことに、野生動物も同じように隠れているんだよ。今まで2度ほどあったけど、雀が突然の雷雨に驚いてトイレに逃げ込んできて、なぜかしら頭をぶつけて死んでいたことがあった。

 驚いたことにこの雀を食べた人がいて、片方は半年くらい後で急性虫垂炎で入院し、もう一方もなんだったかで入院された。雷に驚いて建物の中に非難した小鳥は、やっぱり食べないほうがいいようでございますな。自然の災害から逃げて身を隠しているもの同士。なんとなく連帯感が湧きません? 

 ちなみに我が家で飼っていた犬は、雷を大変恐れていた。今のチャーちゃんも雷は嫌いらしい。魚は知らん顔している。昔飼っていたハムスターは知らん顔をしていたなあ。カメも無視していた。どうやら雷を恐れる、恐れないは、猫と鼠の間くらいに境界線が引けそうである(ものPhoto凄い大雑把な考え方だが)。

←安而不忘危!  落雷から身を守ることも、立派な護身ですぞ。

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2009年7月 9日 (木)

なんだか、ちょっと眠い…

 なんだかちょっと眠い…なんてものではなく、半端でない眠気に襲われている。無理もない、最近家では絶対に仕事をしないと決めていたルールを崩さなければならないような状況だからである。

 疲れ切ってへろへろで家にたどり着いて、あとはビール呑んで、お粥作ってくって、風呂入って、気持ちよく気を失うだけ…というのが当初の予定だったのに、どんどん仕事の方で私の私生活の中に侵略してくる。そうならないために仕事場を自宅から分離したのにね。

 先日など夕方のジョッグをしていたのだが、半分は寝ていたよ。意識がなかったもの。それでも折り返し地点を通過するあたりから目が覚め始め、最後はしり上がりにペースが上がったりするから、やっぱ調子が悪いくらいの方が、最後はいい感じになってくる?

 ずっと以前は、仕事関係の人たちとよく呑みに行っていた。そんなときでも絶好調意識があると最初から飛ばし過ぎ、案外早めに頭打ちになってしまう。今日はちょっとなあ~…なんてときには、やっぱりしり上がりにペースが上がっていって、日付が変わる頃から調子がどんどん上がっていく。「日付変更線の男」の本領発揮である。同時にマイクを持ったら放さなくなったりする。人の迷惑顧みずである。

 しかし毎日こんな生活をしていたら身がもたなくなってしまう。そろそろどこかで休憩を入れてやらないといけないなあとは思っているのだが、なんとなく休むのに適当な踏ん切りがつかない。だいたい睡眠不足だと考えが走らない。べろんべろんの酔っ払いのように、延々と同じことばかり考えたりする。集中力がないから能率があがらない。能率が上がらないから、仕事がはかどらない。だからますます無理をしてしまう。そしてますます悪い状況になる。

 悪循環である。悪循環は、どこかで止めてしまえば、循環しなくなるんだけど。まあ近いうちに「循環」を切ってしまう行動に出るだろう。この夏にはいくつかやってみたいことがあるし。やらなければならないこともいくつもある。それまでに疲労は取っておきたい。

 と言いながら今日もちょっと多い目にトレーニングをしてしまいたいなあ。すでになんだかちょっと眠い状態に入っているのにである。などと打ちながらも、うとうとしていたりする。これは遺憾ですな。睡眠時間が短いと、回復も不完全になってしまうしね。1週間くらい、もういやっというくらい寝てみたい。

 1日1食、お粥だけ食べてあとは風呂入って、寝ているだけだったら、きっと基礎代謝だけで減量できるよね。もちろん筋肉なんかは随分機能低下するだろうけど。今は私の一番嬉しい時間は、やっぱり睡眠時間である。やれやれ…Photo

←安而不忘危!! 交通安全に心がけるのも、立派な護身です。

http://202.255.60.170/Blog/Blog/maruzen06/P/6951.as