『戦国の竜虎』・54 ~第十一章 趁火打劫〔4〕 田忌の帰国~
大切な人を残して、自分ひとりだけ帰らなければならなかったことがある。海外へ行くと、どうしてもチケットの関係で、こういったことが起こるのだが、きっと我々の父母や、それ以上の世代には、こういった体験をされた人も少なくないのではないだろうか。
日本が今のように平和ではなかったころ(私は今でも乱世だと思っているけど)、やむなく大切な人と別れなければならなかった人たちが、たくさんいたのではないかと思う。今の平和な世の中でも後ろ髪を引かれるわけだから、当時の人たちの思いはいかばかりだったであろう。今のように、ジェット機で一ッ飛びという具合にもいかなかっただろうし。
人は出会いと別れを繰り返す。その中には、嬉しい出会いもあれば嫌な出会いもある。嬉しい別れもあるだろうし、哀しい別れもある。それが結果的にひと時の別れでしかなかったとしても、その時に人がどう感じるか。それは人と人の付き合い方によって決まるのではないだろうか。
孫臏(そん・びん)は田忌(でん・き)を帰国させることを条件に、『孫子の兵法』を書くと楚王に約束する。その時の両者の思いはいかばかりであったろうか。というわけで『戦国の竜虎』その第54回目の始まり、はじまり~
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『戦国の竜虎』・54 ~第十一章 趁火打劫〔4〕 田忌の帰国~
【4】田忌の帰国
賓舎に移されたものの、孫臏と田忌は居心地がよさそうではなかった。特に
田忌の顔は冴えなかった。寝台の上に腰をおろそうと、塵を払う孫臏を見て、田忌は小走りで駆け寄って来た。田忌は孫臏の脚を気遣い、寝台の上に両足を上げてめくれた衣のすそを直す。孫臏は田忌の気遣いをさらに気遣った。
「将軍、どうかもうお休みください。明日はいよいよ斉に帰国の旅ですぞ」 田忌には孫臏を気遣う気持ちが強かった。自分は斉に帰れる。だが自分だけが帰ることに対する後ろめたさもあった。
「田将軍、あなたは斉の千軍万馬を統率されるお立場ですぞ。そのためにも、もっとご自分の身体を気をつけられたほうがよいと思います。どうか私に構わず、お休みください」 だが田忌の思いは違った。
「先生は簡単に仰るが、わしは一時でも長く、先生とおりたいのじゃ」 確かに孫臏を田忌の関係は単純な軍師と将軍の間柄ではなかった。田忌は誰よりも孫臏を信頼していたし、尊敬もしていた。単なる門客と主人ではなく、むしろ孫臏が師匠で田忌が弟子といったふうにも見えた。
「困りましたなあ。私はもう寝ますぞ」
孫臏は孫臏で、何とか田忌を休ませようとしていた。だが田忌は寝ていたくなかったのである。楚王や史皇大夫の肚はわかっている。斉と同盟を結んだとは言っても、根本的に楚は敵国であった。自分一人が斉に帰って、脚の不自由な孫臏を一人、楚に残していかなければならないことが情けなかったのである。
「どうぞ。遠慮なく先生は寝てくだされ。わしは先生が寝ているを、ここでこうして守っておる」 そういえば斉から楚に来る道中もそうであった。刺客を用心して、こうして田忌は寝ずの番をしていたのである。孫臏は田忌を見て笑った。笑うことで田忌を安心させようとしていた。
「将軍、もう刺客はおりませぬぞ。見張りの必要はございません。どうかお早くお休みください」 田忌がぼそっと言った。
「今となっては、刺客にいてもらいたいくらいじゃ」
その言葉が終わるか終わらないかという時に、部屋の外に人の気配を感じて、孫臏は叫んだ。
「誰だっ!?」
「あたしだ。鐘離春(しょうり・しゅん)だ」 短い答が返ってくる。
「鐘離春! おお、早く!」 慌てて孫臏は寝台から降りようとする。田忌は入り口へ走った。孫臏は杖を取ると、もどかしそうに戸口へ急いだ。
「鐘離春!」 田忌が彼女を部屋へ通す。彼女は男装はしていなかったが、手には剣を持っていた。
「さあ、これからあたしについておいで」 彼女が低い声で言った。
「どこへ?」 大柄な田忌が覗き込むようにして尋ねる。
「あたしについてくれば、ここから逃げられる」 彼女は飲み屋で龐涓(ほう・けん)の従者と楚国の宮衛が話しているのを耳にし、すぐに彼らが逃げられるように準備をしていたのである。
「本当か?」 鐘離春は頷く。
「腕利きの命知らずを何十人も雇った。彼らが逃亡を手助けしてくれる」
「そんなことができるのか?」 田忌は尋ねたが、彼女は自信満々であった。実は楚は彼女が剣の修行をしてあるいた国であったのだ。その時知り合った男達は、彼女のためにいくらでも力を貸してくれる。侠の精神で彼女とその命知らずたちは結ばれていた。
「大丈夫」
田忌は思わず孫臏の方を向いた。その顔には「先生、一緒に逃げませぬか」と書いてあった。彼は孫臏と一緒の帰国を一番に考えている。鐘離春の話はまさにわたりに船だったのである。
「先生、どうじゃ? 彼女の言うことを聞いてみぬか?」 だが予想に反して孫臏は彼女の申し出を拒絶した。
「それはできませぬ。我らは今動くべきではございませぬ」
鐘離春が呆れるやら、腹が立つやらという顔をした。
「何をバカなことを言ってるの? 龐涓が来ているのよ! 殺されてからでは遅いのよ!!」 この期に及んでも孫臏はまだ自分の計算にこだわっていた。それは彼を愛してやまない鐘離春には理解できなかったし、田忌にもわからないことだった。
「龐涓は私を殺せないだろう。楚王は『孫子の兵法』を欲しがっているからな」 言ってしまえば、孫臏の生命は、楚王の欲望の強さにかかっていたのである。ただ孫臏は楚王を、物欲が強く、我が強い俗物と見ていた。楚王が彼が見たとおりの男であれば、彼の生命は守られるはずだ。
だが鐘離春は孫臏の、そんな落ち着き振りが気に食わなかった。彼女の性は火であり、孫臏の本性は水である。あの殺された易者の言ったことは正しいのだ。
「楚王は信用できない男だよ。あんたが兵法を書き終わったら、龐涓にあんたを渡して、それでおしまいさ。そうしたら兵法は手に入る。龐涓には恩をかけれる。あんたとの約束なんか守るはずがないんだよ! 先生、早く逃げなければ!!」
田忌も彼女に同調した。懇願するように孫臏に言う。
「彼女の言うことは間違っておらぬ。先生が兵法を書き終わったら、解放などするものか。今一緒に逃げるんじゃ」
だが孫臏はあくまで楚王との約束に拘っていた。それは国交を考えた場合の王道である。だが同時に人間臭さを感じさせないほどであった。
「将軍、楚王はすでに将軍の斉帰国を認めております。もしここで我らが逃げたりすれば、楚王はどういう手を打つでしょうか? 我ら両名とも斉には帰れなくなりますぞ」
一国の使者が結んだ約をたがえるとなると、国交がおかしくなる。楚としては斉に難癖をつける格好の材料を手にいてることになるのだ。すると斉に帰れば斉に迷惑がかかる。鄒忌(すう・き)らはますます彼らに策を講じやすくなる。確かに田忌と孫臏にとって、好ましい状況へとはつながらなかった。
「そんなことはない。あたしたちと一緒に、ここを出ればよい」 鐘離春はそこまでは深く考えていなかった。彼女は素晴らしい人物だったが、感情が勝ち、深く物事を考えるのが苦手という弱点があった。
「鐘離姑娘、あなたの行為は大変に有難いと思う。だが楚国はあまりにも広い。楚軍が沿道を固めたら、翼を持った鳥でさえ、この国から脱出するは難しかろう」
孫臏は鐘離春を宥めるように言った。
「ここから逃げないということは、ここで死ぬということだよ。それでもいいんだね?」 鐘離春の言葉も脅迫めいてきた。しかしそれがまた現実であるとも言える。
「私はここで死ぬつもりはない。時機を待っているだけだ」 孫臏は答えたが、脚の不自由な孫臏が一人で時機を待っていると言ってみても、いざという時に動けるかどうかがわからなかった。
好機というものはある。だが好機を活用して突破口を開けるのは、すでに準備ができている者だけである。そして準備が完全であればあるほど、好機は増えてくる。さまざまな能力に優れている者ほど、多くのチャンスをものにできるのは、好機を捉えて自分の思うように動く能力があるからだ。脚が不自由というだけで、楚国からの脱出を考えれば、好機は減ってしまうのである。
「ふん。それならそうしなさい。あんたはここで好機を待つ。あたしはこれから田将軍と逃げる。それでいいわね?」
孫臏は反論した。
「だが、田将軍は逃げなくても、明日正式に帰国できるんだ」 その通りであった。楚王の約束である以上、少なくとも楚国領内での安全は保証されるであろう。鐘離春の護衛は必要ないのだった。
「あんたが言いたいことはつまりこうね。あたしがやったのは余計なことだと」 鐘離春は激高しかけていた。その時である。招かざる客の声がした。
「孫先生、開けてくだされ」
「史皇大夫じゃ!」 三人は顔を見合わせた。忍び込んでいる鐘離春が見つかれば大変な問題になる。なにしろここは楚王の賓舎なのだ。牢獄ほどでなくとも、護衛の兵士もいる。孫臏は鐘離春に奥の寝所を指差した。
「奥へ、早く!」 その間も史皇大夫の声がせっつく。
「孫先生、早く開けてくだされ」
史皇大夫の催促に、孫臏と鐘離春が奥の寝所に姿を消すのを確認してから、田忌が戸口に迎えに出た。閂をあけると史皇大夫のいけ好かない顔がぬっと入ってきた。
「田将軍、今、孫先生はどなたと話しておられたのございますか?」
「わしとじゃ。積もる話もあるからの」
「違いますな、あなたの声ではなかった」 史皇大夫は部屋の隅から隅まで目を配る。そして奥の寝所へ入ろうとした。田忌は慌てて巨体を奥の間と史皇大夫の間に滑り込ませ、入らせないようにする。
「史皇大夫、入ってはならん」 田忌の顔に笑みが浮かぶ。彼も演技しているのだ。何しろ中には孫臏が女と一緒にいるのだから。
「見られとうないものでもございますのか?」 だが田忌はここでも演技を続けた。
「ない。ただ孫先生は寝ておられる」 笑いを浮かべたまま田忌は答える。もちろん史皇大夫がそんなことを信じないのを承知の上で言っているのである。
「ふん。田将軍、嘘はいけませんなあ。彼は今しがた、確かに誰かと話しておった。こんなに短い間に寝てしまうということはありませんな」
田忌の横をすり抜けるようにして置くに入ろうとする。そうはさせじと田忌が動く。そうしているうちに、当の孫臏が奥から出てきた。
「史皇大夫、あなたの仰るとおり、私は寝ておりませんでした」 笑顔で答える孫臏を見て、史皇大夫もいつもの顔に戻る。だが質問は変えない。
「孫先生、奥におられるのは、どなたでございますか?」
「どうしてもお知りになりたいのですか?」 孫臏は平然と史皇大夫の前を通り過ぎながら聞いた。
「私は我が君より、お二方の安全を守るように言いつけられております。お二方に関係するすべての人間は把握しておかなければなりませぬ」 いつの時代でも似たようなものだが、自分が正当な義務を遂行しているように言えば、大抵の無礼は許されるものだ。
「もしも私が、嫌だと言ったら?」
「それならば兵を呼ぶだけでございます」 いつもへらへらとお愛想笑いばかり浮かべている史皇大夫の本性はこんなものだった。歩く笑裏蔵刀といったところだ。
「この嘘つきが!」 田忌がいつもの表情に戻って、吐き捨てるように言った。
「私は自分の職務に忠実に行動しておるだけでございます」 まさに蛙の面に小便である。
「史皇大夫、そうまで仰るなら仕方ありませんな。どうぞお入りください」 孫臏の許しが出たので、史皇大夫は勇んで入ろうとした。それを孫臏は止める。
「あ、ちょっと待ちなさい。私にも条件がございます」 何事を応諾するときにでも、見事なくらい条件や要求を突きつける。孫臏のこういった呼吸は見事であった。
「ふん。どうぞ」
「ははあ、それは大丈夫でございますよ」 何が大丈夫なものかと田忌は思った。この男、事と次第によっては、言いふらすに決まっておる。第一それは史皇大夫の顔に張り付いたへらへら笑いが、「私を信用してはなりませんよ」と雄弁に物語っていた。田忌はさらに身を割り込ませ、彼を寝所にいかせないようにした。
「田将軍、史皇大夫を行かせてあげてくだされ」
孫臏は田忌を促した。仕方なさそうに田忌は道を開けたが、心配そうな表情で孫臏を見た。
派手な動作で史皇大夫が帳を跳ね除ける。そして中をのぞいた彼の目に見えたのは、孫臏の寝台の
上に悩ましく身を横たえた妙齢の女性の姿であった。女は史皇大夫の方をちらりと見て「うふん」という声を立ててみせる。史皇大夫も思わず喉をごくんと鳴らし、ついでつられたように引きつった笑いを浮かべた。
寝所から出てきた史皇大夫は笑っていた。
「はははは… いやあ、孫先生といえども、聖人君子ではないということですな」
成人男子が女性を求めるのは当たり前のことである。だが史皇大夫の言葉には、聖人君子面をしたお前でも女が抱きたいかといった揶揄が含まれていた。
「私は自分のことを聖人君子だなどとは一度たりとも申しておりませんぞ」 孫臏もしゃれっと答える。
「以前、私どもがあれほど大勢、美人をあてがいましたおりには、一人としてお眼鏡にかないませんでしたのに…」
以前歓待したときには、公認で女遊びができたのに、づして今頃、密かに女を抱くのかというのである。だが孫臏はそれにはぴしりと答えた。
「私は他人にあれこれと指図されるのを好みませぬ」 女の世話までしてほしくはない。自分には自分の好みがあるといっているのである。
「先生、あの女人をどこで手に入れられました?」 それこそが史皇大夫にとって最も重要な問題であるはずだったのだが、孫臏は言葉を濁した。
「それを調べることも、あなたの職務のうちに入りますかな?」 女をどこから手に入れたか? どこで知り合ったのかなどは、男としてあまり知られたくないことでもある。案の定史皇大夫も深追いはしてこなかった。
「いやいや、ちょっと聞いてみただけでございます。いや、まことにお楽しみのところ、しつれいいたしました。いやいや… なんとも、はや…」
彼が深追いできない最大の理由は、やはり『孫子の兵法』にあった。機嫌よく書いてもらわなければならない。『孫子の兵法』が手に入るまでは、何でも言うことを聞けと楚王に言われていたこともあるが、彼が『孫子の兵法』を手に入れるという最終的な目的に忠実だからこそ、鐘離春の件はかえって問題にされなかったのだ。たかが女人一人という甘い読みもあった。
「史皇大夫、くれぐれも約束をお忘れなきよう」 孫臏が念を押す。
「わかっております」 言いながら賓舎を出て行く。その後姿を見送りながら、田忌が吐き捨てた。
「ふん。下劣な俗物めが!!」 そして孫臏の方を振り向く。
「孫先生、どうしたものかな?」 だが孫臏は落ち着いていた。
「大謀の前の小事は忍ばねばなりませぬ」 奥の寝所から服装を整えた鐘離春が出てきた。
「行くなら行く。残るなら残る。好きにすればいいけど、あたしを信用してないようだから、あたしは帰るよ」
誇り高い彼女が、男の前で衣服の乱れた姿を見せるなどということは、考えられなかった。おそらく孫臏のためだと我慢したのであろう。でなければ史皇大夫を一刀のもとに切り捨て、そのまま遁走したかも知れなかった。それでも彼女を捕らえることはできなかったろう。
彼女だけならいくらでも自由に動ける。動けないのは孫臏や田忌がいるからであった。だが今度は彼女は完全に自制していた。
「鐘離姑娘、あなたを信用していないなどと、言わないでくれ」 孫臏が慌てて言い訳をする。
「言い訳なんていらない。あんたの気持ちはわかってる。あんたはあんたの好きなようにすればいいのよ」
鐘離春は、孫臏が寝言で彼女の名前ばかりを呼んでいた夜のことを思い出していた。あの夜彼女は決心していた。孫臏には孫臏の好きなように生きてもらおう。そして自分は生命をかけて彼を守るだけだと。
だが孫臏はそんなことは知らない。かれが知っているのは、彼が易者の言葉を伝えたばかりに、彼女を傷つけてしまったことだけである。だから鐘離春の言葉は、孫臏には厳しく聞こえた。孫臏は母親に説教されている子供のように、黙って下を向いたまま立ちすくんでいた。
鐘離春は声の調子を変えた。いつもの優しい声に戻っていた。田忌に向かって抱拳をする。
「田将軍、明日はお見送りできませんが、道中くれぐれもお気をつけてお帰りください」
「おお、かたじけない」 田忌も抱拳で答える。その前を鐘離春は音もなく通り過ぎ、入り口から風のように姿を消した。
田忌は少しだけ安心した。明日鐘離春が彼を見送らないということは、鐘離春はきっと楚に残って孫臏を守り続けるに違いない。彼女は今は表立って動くことはできないが、影が形に添うように、孫臏の傍に必ずいるのだ。
* * * *
翌朝
は田忌の斉への帰国である。途中までは孫臏も馬車に添乗して見送る。後ろの馬車には史皇大夫が護衛の兵士と一緒に乗っている。田忌はほとんど言葉を発しなかった。そうしているうちにも、見送りの場所までやってきた。孫臏も田忌も馬車から降り、別れの挨拶をする。
「先生お一人をここに残していくには忍びぬ」 田忌は心の底から孫臏のことを心配していた。ここでの別れが今生の別れということになることもあるのだ。だが孫臏は田忌を元気付けるように明るく振舞っていた。
「ご安心ください。彼らは私をどうすることもできせんから」 後ろの馬車の史皇大夫たちの方をちらっと見る。
「それでも心配じゃ。鐘離春も言っておったが、『孫子の兵法』を書き上げても、楚王はやすやすと先生を解放してはくれぬじゃろうし…」 だがそれにも孫臏は自身がありそうに振舞っていた。
「手はあります」 田忌は女々しいほどであった。
「我らが二人おれば、何事であろうと相談することができた。じゃがこれからは先生お一人じゃ。膝のこともあるし。わしが何もしてあげられぬ…」
田忌は漢(おとこ)として孫臏に惚れ抜いていた。いざとなれば自分ひとりでも孫臏を守り抜くといった気概を持っていた。だが今から孫臏は一人になってしまう。それを思うと、田忌のいかつい顔がゆがみ、涙がこぼれそうになるのだ。
「田将軍、ご心配召されるな。この私が孫先生のお世話をよく看させていただきます。何不自由なくお世話いたしますゆえ」
いつの間にかやってきた史皇大夫が割って入った。もういい加減にして、さっさと帰れという督促であろう。田忌はこのへらへら笑いが顔に張り付いた男を嫌いぬいていた。お前が面倒を看るから、よけい心配なのじゃと、怒鳴りつけたくなるくらいだった。
「では将軍、そろそろお発ちください。家では皆さまが将軍のお帰りを、首を長くして待ち焦がれておられることでございましょう」 孫臏は田忌の肩を叩いて促す。
「孫先生、くれぐれも御身大切に…」 抱拳をして別れの挨拶をする田忌の声は震えていた。孫臏
はそれに頷いて答える。名残を振り切るようにして馬車に乗り込んだ田忌は、もう後ろを振り返らなかった。彼は涙を孫臏に見せたくなかったのである。
「出せ」 短く御者に命じる。御者は車を出した。
遠ざかっていく田忌の、今まで見たことがないような小さな姿を見送りながら、孫臏は自分の表情も
厳しくなっているのに気がついていなかった。たった一人の盟友が去っていく。これから彼は楚で一人で生き延びていかねばならないのだ。
帰国する田忌は、帰国後もきっと鄒忌たちに対抗しなければならない。二人の男はそれぞれ別の地で、それぞれの闘いをしなければならなくなったのである。
(つづく)
* * * *
さて、とうとう孫臏は一人っきりになってしまいました。彼の周りには『孫子の兵法』を狙う楚王、史皇大夫、龐涓がおります。いかに鐘離春がいるとは言っても、表には姿を見せることができません。さてさて、次回はどうなりますことやら。次回、第十一章の最終回、〔5〕趁火打劫の計にご期待くださいね。




















































































































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