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2017年3月13日 (月)

趙王っ‼

 黄砂がだいぶ来ておりましたな。山が黄色でしたよ。これさえなきゃ、そんな悪い日ではなかったんだけどね。黄砂が来ると、痒みではなくて痛みが出てくるからなあ。きっと鉱物の小さい奴は、角が尖っているんじゃないかと(そうそう、それを検査するにも、まだ顕微鏡をスタンバってなかったっけ…… どこかでふんぎりをつけないと、宝の持ち腐れになっちゃいますね。今年こそ、どこかで踏ん切りをつけよう!)。

 さてさて、今日はなんとなく、たんと仕事があるようなので(昔は「夜なべ」といいました。今じゃあ、夜も働くのは当たり前みたいなところがあって、死語になってるんじゃないかな?)、話せば長くなるお話を、ダイジェスト版にしていこうかと思います。

 昔々、某大陸に趙という国がございました。これは晋と言う国が分裂して(というか、六人の家臣にぶんどられて、この六人でバトルロイヤルをやった結果、韓、魏、趙という三つの氏族が生き残り、それぞれ国を建てたんですね。そのうちの一つが趙。で、この三つの国が、諸侯として認められた年が、古代のかの国の戦国時代の始まりでございます)できたわけですが、最終的に秦によって滅亡させられます。滅亡させたのは秦の名将王翦(おう・せん)さんですな。(ちなみにかの国では「戦国の四大名将として、白起、王翦…いずれも秦将、廉頗、李牧…この両名は趙将…と言われておりますが、私はこの中でも一番の名将は王翦だと考えております)

 さて秦が六国を亡ぼして、かの国を統一したのですが、その後始皇帝は(たぶん)働きすぎが原因で、49歳で亡くなってしまいます。当時は勤務時間に配慮したりすることはなかったんでしょう、きっと。

 その後を継いだ胡亥も、名君と言われるには実務経験がなく(一般的に、大変愚かだったと言われておりますが、私は気のやさしい、世間知らずのぼんぼんだったと考えています。少なくとも『史記』にある、胡亥さんのセリフを読むと、そんなにぼんくらだったとは思いません。二世皇帝なんてとんでもない立場に立ちさえしなければ、もうすこしはマシな人生が生きられたはずです)、秦末の大動乱を経て、趙高さんの娘婿閻楽(えん・らく)に自殺を強いられ、死んでしまいます。(気の毒なことに、胡亥さんには御陵がございません。つまりまともに葬られなかったんですね)

 その後は劉邦と項羽が大喧嘩をやらかして、秦の始皇帝による統一戦争では、ほどんどかの国の人口は減少していないのですが、なんとこの楚漢戦争が終わった時には、人口が三分の一に減っていたというのですな。どんだけ無茶やったんだよ、庶民のことは考えてねえのかよっ! ま、今も昔も、そう変わりはありません、ってか?

 で劉邦さんが勝ち残って、漢って国を建てますね。始皇帝さんは郡県制で国を統治したんだけど、これではやっぱり反乱などが起こった時、各地域に派遣された役人は一族ではないので、国を守ろうとしないと考えた劉邦さんは、一族を王として各地に封じます。ところが楚漢戦争中、頑張ったのは劉邦さんの一族だけではありません。いろんな人が助けてくれたから、生き残ることができたんですね。

 頑張った人には褒美をあげないと、グレます。褒美をあげても、少ないってゴネる人だっているくらいですから。劉邦さんってのは気前がいいってことになっていて、戦をしている最中にはばんばん気前よく褒美を約束します。けれども戦が終わったら、約束した褒美を全部賜るわけにばまいりません。

 いくらかの国が広いったって、限度があります。そこで約束を反故にしまくるんですな。別にこれ、最近だけの話ではなくて、太古の昔からやってたことなんですよ。言ってしまえば数千年の歴史に裏付けられた「伝統」かな?

 でいろんな人をいろんな国に諸侯(王)として封じるのですが、趙という国には最初、張耳(ちょう・じ)という人を王様にして封じました。この張耳さん、実は劉邦が若い頃、勉強しに(何の勉強かはわかりません。一種の修業とでも言った方がいいかも)行ったような、エライ人だったのです。なにしろ張耳さんは若い頃、魏の信陵君のところに食客として身を寄せておりましたから。

 この信陵君魏無忌というお方は一代の英傑でございまして、日の出の勢いの秦軍を、二度にわたって大破した人だったんですな(その頃、劉邦は10歳くらいの、多感な?少年だった計算になります。劉邦は生涯、信陵君を敬愛し続けますから、劉邦さんにとっては一生のアイドル?だったんでしょう)。

 ですからまあ、張耳さんは劉邦さんにとっては恩師?恩人?にあたる人で、韓信の趙攻略にも貢献していますから、趙王とするのはきわめて妥当な人です。で劉邦が皇帝になった頃には、きっと寿命だったんでしょうな、亡くなり、息子の張敖が後を継ぎます。

 この張敖さん、よほどいい男だったんでしょうな、劉邦の奥さん(正妻)の呂稚が惚れこんじゃいまして、娘の魯元公主を嫁がせます。この二人の間に生まれた娘さんの話を書けば、今で言うと優生保護法に触れてしまいますし、今回のお話とは直接的関係はございませんから、またの機会に譲るとして、張敖さんは岳父の劉邦をとても敬愛いたします。

 で匈奴征伐(反乱だったっけ? この頃の漢北方で起こる反乱のほとんどは、匈奴に関係があります)の帰りに、「ちょっと、娘婿の所へでも寄ってみるべえ」と立ち寄った劉邦に、滅茶苦茶慇懃に接する、デキた娘婿だったのですが、ならず者を率いて天下を取った劉邦には、それが「男らしくない。男はもっと、で~んっっ!と構えているものだ」と、逆に叱られてしまうんですな。

 張敖さんはそれこそデキた人だったらしく、それでも腹を立てたりしなかったらしいのですが、おさまらないのはかれの臣下です。父親の代から仕えていたような連中は、「何が皇帝じゃ! いてもうたれ」とばかりに髪の毛を逆立てて怒り狂うわけです。

 それでその次にここに立ち寄った時、暗殺する準備をして待ち構えていたのですが、さすがに天下を取るような男は違います。突然気が変わって、罠が仕込んであるところには立ち寄らず、さっさと帰ってしまうのです。

 あとでこの謀略を知った劉邦は、タダで済ますわけにはまいりません。(仮に張敖が恩人の息子で、正妻のお気に入りだったとしても、です。ケジメをつけないと、舐められるのは世の常。そんなことでは天下を統治することはできません)一族郎党をひっとらえて獄に繋ぎます。

 えらいのはこの謀略を立案した老臣連中ですね。「王は一切あずかり知らぬこと。すべては我らが仕組んだこと」と言い張り、また呂稚や魯元公主の助命嘆願もあったのでしょう、張敖だけは釈放され、侯に降格されたものの生きながらえます。

 こうして趙には国王がいなくなったのですが、そこは一族で天下のすべてを支配した劉邦ですから、「ほい、いい具合に趙が空いた」とばかりに、寵姫戚姫の息子、劉如意を趙王に封じたのです。

 この戚姫、あろうことか正妻呂稚と張り合って、自らの子、劉如意を、すでに決まっていた太子劉盈を廃嫡させて太子にしようと画策したような女性で、呂稚は腹に据えかねておりました。と同時に、我が子劉盈にとっては、劉如意は潜在的な政敵でありつづけます。

 そこで劉邦が亡くなった後、劉邦も手を尽くして劉如意を守る手立ては打ってあったのですが、死人には変化に対応する力はありません。とうとう劉如意は都に誘い出され、呂稚(この時代は呂太后ですね)に毒殺されてしまいます。

 その次に趙王になったのは劉邦の第六子の劉友で、無理やり呂氏の娘を娶らされますが、彼女を愛さず、側室にうつつをぬかします。すると嫉妬に狂った呂氏の娘はこれを(たぶんグッピーのオスよりも長い尾ひれをつけて)呂太后に言いつけ、気の毒なことに呂太后の怒りにふれ(ていうか、この時期の呂太后は、呂氏一族を王に封じるために、一所懸命だった。その一所懸命さは、時に劉氏一族の殺害という形になって現れた)、長安に呼び出されて監禁され、餓死させられてしまいます。

 その次に趙王にされたのは、劉友のすぐ上の兄で、劉恢(りゅう・かい)さんで、この人は気の毒にも、呂太后の兄。呂産の娘を娶らされ、この娘に監視させられたのですが、こんな境遇を喜ぶ男は一人もいませんから、煙てえなあと敬遠いたします。するとこれを怒った呂産の娘は、あることないことを呂太后に言いつけ、更には劉恢が寵愛した側室を毒殺するに及んで、人生、いいことはちっともないなあと儚んだ劉恢も自殺いたします。

 ここに及んで呂太后は代王に封じられていた劉恒(後の文帝)を趙王にといいますが、賢い劉恒はこれを遠慮いたします。当たり前ですね、自分の前の趙王で、ろくな死に方をした者がいないんですから。一度あることは二度ある、二度あることは三度ある。三度あることは、何べんでも繰り返します。ま、この賢さが後に呂氏がいなくなったあとの皇帝へとつながるのでしょうが。

 で劉恒が断ったあとの趙王には、呂太后が可愛がり、後事を託した一人でもある呂禄が座ります。しかしながらご存じのようにこの男、呂太后が没した後の対応を見事に誤り、殺されてしまうんですね。

 わずか数代でも、これだけ末路が惨めだと、劉恒さんのように賢い選択ができる人も現れるのに、どこかの国では、末路が哀れなことがもう十代以上も続いている地位につきたい人が絶えないようです。なかなかに元気ですね。頑張れ!

 でも歴史は、ちょっとは勉強したほうがいいかも……

※ なんてえことにまで言及するかもしれない今月の『○○を語る会』は、18日、25日の分散開催でございます。よろぺこ!

 ああ、ひさしぶりに焦った。なんとか今日中に間にあった!

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