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2017年4月30日 (日)

油断

 くそ暑かった。岡山市では最高気温が27.1℃に達したんだそうな。見事な夏日である。

 ところが本日の私は、岡山市にはいなかった。Sくんと遊びに行っていたのである。暑かったのだが、県北の山間部、陰になる場所では、まだまだ雪が残っておりまして、幸い私は長靴を持っていたので、雪の上を歩きましたが、まだ「ズボっ!」と足がめり込むところがありまして、そんなところでは膝までめり込みました。今年の雪は若干異常だったからね。

 それでも雪解け水は冷たいはずなのに、水たまりではイモリが泳いでおりました。(ちなみに我が家のイモちゃんは、大変な食欲を見せておりますが)今日みた限りでは、雄雌がほぼ同数(私が数えたときは)で、そろそろ子孫繁栄に励むのではないかと思います(婚姻色が出ておりましたから。我が家の子は飼い主に似たのか、食欲ばかりなのですが)。

 ちょっと違う山では、ヒキガエルのオタマジャクシが泳いでおりました。それでも例年よりは2週間近く遅れている感じかな(私はすべて写真に撮影して記録しているので、日付をみれば一目瞭然です)。今年の冬は変な寒さだったし、時ならぬときに雪が降ったし。自然界もちょっとは異変の影響を受けているのでしょう。

 そうそう、今日は山中でムジナを見ました。(ムジナったって、小泉八雲ののっぺらぼうではありませんよ。一見狸に似てはいるのだけれど、タヌキではない獣です。タヌタヌはその山中で何度も見かけているし、交通事故で死んでしまったタヌタヌなど、見飽きるほど見ているので、それがタヌキでないことは、一目でわかった。アナグマというのかどうかは別として、あれはムジナでございます)。昼間そのあたりで狸を見ると、翌日は雨と言われており、今までは大方その予報が当たっていた。しかしながらそれがムジナだったら、翌日が雨かどうかはわからない。天気予報では、晴れ時々曇りくらいじゃなかったかと思う。

 ムジナのやつ、こちらをじっくりと見てから、悠々と引き上げていきやがりましたよ。このあたりは、大自然と人間社会が接触しているあたりだから、人間を見てもさほど驚いてくれたりはしない(今年はまだ熊を見かけたという情報は聞かないが。熊も出るときは出ます。昔は人が殺されたこともあったようです)。ま、たぶん天気は大丈夫なんじゃないかな。虫の動きも、雨の前の動きではなかったし。ただ昨日のように、「一天にわかにかき曇り」ってことがあるかどうかまではわからないけど。

 油断しないのが一番です。〇実験をせず、花火が連続で失敗したからといって、隙を見せてはならないのと同じです。我々の人生は、どの一瞬であろうが、大切なことではポカをやってはなりません。「油断大敵火がぼうぼう」なんてことを言いますが、この言葉の通り、「油断」こそが最も警戒しなければならない、自分の中に巣くった、最大の敵なんだからね。

 本来油断ってのは涅槃経では、気を許して注意を怠ることt解釈しているらしい。気を許すという観点から見れば、人にはいったいどれくらい「気を許せる人間」がいるのだろうか。気を許してはならない人に、気を許したりしていたのでは、「油断」というよりは、単なるアンポンタンというべきではなかろうか。

 慎重、人生、慎重が不可欠である。そうして慎重に調べ、綿密に計画を練ったら、いざ行動に移すときは「大胆に」が鉄則です。まあ綿密に寝られた計画であれば、大胆にもなれるのでしょうが。

 緩めてはならないときに緩めるのは、ただのお馬鹿さん。これはもう油断という次元まで到達してはおりません。そして緩めるべき時か、緩めてはならない時かは、物事や人物を綿密に観察していなければ難しいと思うよ。

 

2017年4月29日 (土)

Aggressive Negotiation?

 いやはや、天気がいいのか悪いのか。朝はいい天気だったのに、風が出てきたと思ったら、昼頃から突然雷が鳴り響き、しかも第二波までのオマケつきだった。これぞ青天の霹靂?と思ったくらいだ。

 しかもまた日本海の西側で、朝も早くから花火を打ち上げたのがいるらしい。チビッていたのかと思ったら、そうでもないらしい。ちょっと外交的に問題を解決しようという方向に物事が動き始めたら、またしても挑発?

 しかも50㎞ほど飛んで爆発したんだそうな。しかも打ち上げた国の国内でだそうだ。同じ爆発する(させる?)なら、打ち上げた瞬間に爆発すればよかったのに(そうすれば、打ち上げる基地や道具も、失敗のたびに一つずつ減るから)。

 で、いきなり思い出した。『STAR WARS』のepisodeⅡだ。闘技場で処刑されそうになったアナキン・スカイウォーカーとパドメの会話である。

゛You call this a diplomatic solution?"と尋ねたアナキンに対し、パドメは゛No, I call it aggressive negotiation"と答える。「これが外交的決着?」と尋ねたのに対し、「これはaggressive negotiationだ」と答えたのだ。

 negotiationは交渉だが、aggressiveは活動的とか、積極的とかの意味と同時に、攻撃的なとか侵略的、喧嘩好きなどの意味がある。『STAR WARS』はSF映画だから、「見せ場」は不可欠なわけで、戦闘シーンとか格闘シーンは不可欠なのだろうが、現実の世界でしょっちゅうこれをやられちゃ、とばっちりを食う人間はたまったものではない。

 しかしながら「平和」を壊すことをなんとも思わない輩がいることも、また事実だ。こういった手合いは、話し合いをする場合でも、力を背景にして、「気に食わなければ、ちゃぶ台をひっくり返して、ぶん殴るぞ!」といった態度を隠さない。要するに「対等な立場での話し合い」はできないんですな。

 他者を脅さなければ何もできないということは、交渉の技術をもっていないと公言しているのと同じなのだが、それでいて自分の要求だけを他者に飲ませようという欲深さだけは、人並み外れて持っているわけである。持ち込んだしょうもないものを、脅して法外な高値で売りつける「押し売り」と、まったく同じ心理しか持ち合わせていないのだ。

 そういえばまだ私が小さかったころ(小学校に入っていただろうか?)、まだこんな手合いがいた。さすがに「昨日○○から出てきたばかりだ」とは言っていなかったように記憶しているが(母が応対していた。父はいなかった)、母は気丈な人だったので、まったく相手にもせず退散させていたように思う。

 現代では、こんな低レベルの「押し売り」をする輩は見かけなくなったが(わけのわからない請求をしてくるのはいる。ここで明言しておくと、私のところにわけのわからない請求をしたものについては、すべて警察に連絡がいっている。ひとつ残らずである。こちらが何一つやましいことをしていないので、警察の敷居は私にとって低い。平地と同じだ。すると警察ではすぐに相手を調べ、対処法を教えてくれるので、こちらも安心して対応できる。時々横暴なと感じることがなくはないが、基本警察官は、市民の安全を守るためにおり、しか我々の税金で活動しているので、無茶を言わない限り、比較的丁寧に対応してくれる。みなさんも「警察?」と思う前に、相談をされてはいかがでしょうか)、国によっては無法であることがいいことのようになっているところもあるので、こちらの常識で判断してはいけない。

 昔どこかで書いたが、Aさんの常識はBさんの常識と同じとは限らない。日本の常識が、某外国の常識とは限らない。常識どころか正義もそうである。日本の正義がどこの国でも同じように正義とされるとは限らない。国内の立法機関である国会ですら、あきらかにトンチキなことを主張する集団がいるわけだし、これだけ国家的な緊張状態であるにもかかわらず、時も場所もかまわずに、まだM学園の話を持ち出して粘着しているような人もいるらしい。

 日本がおかしくなったらM学園問題どころの話じゃないよ。戦争になるかもしれないって時に、やれ弾劾がどうの選挙がどうのとやっているところと同じに見えてしまう。今の社会が崩れても、同じような活動ができるって思ってるの? これを「究極の平和ボケ」というんじゃあありませんかね。

 サメがいる海に落っこちて、後ろからサメの背びれが迫っているときに、「その泳ぎ方はおかしい。ちゃんと泳げ」とアドバイスしているようなもんじゃないかね。泳ぎ方のコーチはまた暇なときにでもやってればいいんで、まずはサメから逃れることが先決じゃないの?

 こういった物事の重要性すら正しく判断できなければ、普通は生き延びることすら難しいんだけどねえ(自然界ではあたりまえのこと)。

 誰かがふらふらと車道に出て、横から車が猛スピードで突っ込んできているとき、この人を助けるために突き飛ばしても許される。Aggressive Negotiationってのは、そんなときのためのものではないかね。

2017年4月28日 (金)

慣れ

 天気はよかったけど、風が強かったねえ! 幸い、黄砂はあまりなさそうだったけど。夕方畑のトマト用に、つっかいぼうを立てていつも通りのんびりしていたら、えらい時間が遅くなっていた。つっかいぼうを立てるのに要した時間を忘れてたんだよね。

 のんびりしてるときに、先日F先生からいただいたネパール土産の紅茶をいただいていた。素朴かつ優しい味わいでございました。ごちそうさまです。香りは高く、嗅覚がめちゃ落ちている私にも、室内に漂う芳香がわかります。花粉症の季節が終わるまでもたせておいて、ゆっくりと賞味したいと思います。

 昔々、ティークリッパーが茶葉を運んでいたときに、船倉で発行したのが紅茶になったのだ、などとしょうもない説がございますが、あれはまったくの間違いでございます。緑茶と紅茶は、製法がまったく異なりますので、こんなつまらない説は信じないでくださいね。

 そうそう、そいえば先日広州のお茶屋さんからChatに連絡が入っておりました(この店は高級品しか置いてません)。そろそろ茶葉の補充に行かないといけない時期が来ておりますな(もう少しすると、いい茶葉が出回る季節かな)。

 昔、我が家の庭にお茶の木が一本だけあったのだが、知らない間に消えていた。まあ一本じゃあどうしようもないんだけどね。はるか昔に(たぶん私が小学生くらいの時かな)、母が遊びでこの茶の木からお茶を作って飲んでいたような記憶があるが、私も飲まされたような記憶だけで、味はさっぱり覚えていない。記憶に残らないレベルの味だったんでしょうな。

 ただし、緑茶に関する限りは、私の味覚では、間違いなく日本茶(の高級品)が世界一おいしいと思いますけどね。日本人は何事によらず、一つのことをつきつめて、高レベルのものに仕上げていきますからね。これはかつて師叔から非常に高級な緑茶をいただき、あまりのおいしさに感動して、「それでは同種の日本の緑茶はどうか?」って試して気づいたんだけどね(すんません、その時は日本の緑茶を、蓋椀を使った中国風の飲み方で試しました。「対照実験」という奴で、条件を同じにして比較しないと、評価はできないから)。

 飲みすぎない限り熱いお茶は、健康に悪いとは思わないので(中国茶の場合、茶葉についた農薬の問題はあるけれど、正しく飲むことで、可能な限りこういった問題は減らしていきましょうね)、私は長い付き合いになりそうだと思っております。(飲みすぎると、お茶もお酒のように「酔う」ことがございますそうな。中国では茶店で働き始めの若い女の子なんかが時々、「茶に酔った」などと言っているのを聞いたことがある。私はどうかというと、お酒で酔っぱらうことは頻繁にあるが、まだお茶に酔ったことはない…酔っても気が付いていないのかも。もちろん長期間続けていれば、お茶酔いはなくなるんだそうな。まあ「慣れ」の問題かな)

 さてさて酔っぱらうのは酒だけでなく、お茶だけでなく、平和とか緊迫した状態とかでもあるようだ。そしてそのうちそれに慣れちゃうんだよね。実は私は子供のころ、神経性胃腸炎だった(もともと神経質だった?)。ところが大学時代、毎日が超緊張しなければならない状態に身を置くことで、なんと今では「へ? 神経性胃腸炎? なに、それ?」というくらい、忘れてしまった。

 これが「平和ボケ」なんかになったのでは、かえって危険になることもあるんだろうけど、「ボケ」のレベルにまで落ちなければ、生活していく上での苦労が減る。緊張するからパフォーマンスが上がるってのもあるけれど、緊張のあまり体調を崩してたら、なにかと面倒いからね。

 慣れってのは恐ろしいこともあるけれど、便利なこともあるんだね。年齢を重ねてからだと、心身ともにもたないかもしれないけれど、若いころには、こういった逆療法で、慣れちゃうって方法もあるのかもしれないね。もちろん私がうまくいったからといって、万人に有効かどうかは責任もてませんけど。

 おお、なんとか今日中におさまった!

2017年4月27日 (木)

放言

 まったくこの国際情勢が大変なときに、危機感のない大臣がいたもんだ。言っていいことと悪いことがわからんのかね? 危機ということは、一致団結して事に当たらないといけない時だってことがわからんのかね、まったく。つまらん放言など、御法度中の御法度だろうに。

 無責任〇党の放言なら、今に始まったことではないし、どうみても、日本よりも他国に利益があるような発言しかしていない(国内を混乱させることなども含めて)ように思えないときもあるが、自分たちが柱になってこの国を運営していかなければならない立場での放言には、あきれ返る。

 しかももう何度も当選しているわけでしょ? 今までにそんな放言がなかったのかと不思議なくらいだ(あったとしても、責任ある立場でなかったとしたら、たいして問題にされなかっただけなのかも)。国民の代表として議員さんを務め、さらには大臣にまでなったのであれば、自覚しなければならないのは当然だ。まったく、いい年をして…… 今までどんな人生を送ってきたのかといいたい。

 もちろん〇党には、もっともっとひどい人もいないわけではないので、片っ方ばかりを責めるつもりはないが。国をリードしている人たちは、(たぶん)寝る目も寝ないで頑張っているのだろうに、なんちゅうことだと、常識のある人なら怒る。第一、他人を慮る心はないのか? 日本人の最大の美徳は、一般的に他者の心を慮って行動することだと私は考えているが、いい歳をこいてそんなことも身に着けなかった人が国政の中枢にいること自体、頭にくる。

 これでも今まで国会で答弁をしてきたんだろうにね。やり玉にあげられたら、きっと突っ込みどころ満載だったんじゃないか? 若い女性の防衛大臣(若いというところに、資質的に優れているんじゃないかと感じたりもするのだが。でなかったら若くて大臣にはならないでしょ?)なんかをやり玉に挙げるよりは、はるかにヤバかったんじゃないかと思うよ。

 とはいうものの、国際的にも放言の嵐である。やれ「火の海」だとか、「沈没させる」だとか、「核の雹」だとか。放言とは無責任と対になって存在していると認識しているが、責任ある地位(立場)の人間には、あってはならない。責任ある地位とは、たとえ軽口のつもりであっても、時としてその責任を徹底的に追及されることがあるからだ。(軽口を叩きたかったら、責任ある立場につかないことですな!)

 徹底的に責任を追及すべきだと思うこともあるよ、時には。なぜならそれがたったひところの軽口であったとしても、「口者心之門戸也(『鬼谷子』)」だからだ。心にもないことは、人は絶対に口に出ない。口から出るということは、ほんのわずかであっても、そういう考えを持っている証拠だからだ。

 例外を除き、ほとんどの〇党に責任ある言動は期待していないが、大臣はしっかりしてもらわなければ困る。ましてやどんな国でも、トップが他国を挑発したり、貶めたりするような言動は控えるべきだ。それは容易に自分が守らなければならない人々を危険な状況に追い込むからだ。もしもこの大原則を破るのであれば、その報いは必ずどこかで出てくるだろう。

 たとえば、他国に行ってまで我が国をぼろくそにけなしていた某国の元大統領を見ても、今は自身が大統領を罷免されたばかりでなく、国全体が混乱し、他国からの信用を失いつつある(現在進行形ではなく、現在完了形?)ではないか?

 安易になんでも、思ったことを口にすればいいというものではない。もしもそうしたかったら、責任ある地位についてはいけない。もしも責任ある地位の人が、放言のし放題だったら、その責任はその人だけで取ることができなくなる場合だってあるんだから。

 ああ、鼻が詰まり気味である。大変に気分も機嫌も悪い。本ブログは最初っから、「言いたい放題」と銘打っておりますからな。私は責任をとるつもりは、まったくございません(そんな立場でもないし)。あしからず!

2017年4月26日 (水)

振り上げた拳固の落としどころ

 やれやれ、今日も何もなかったか…… 私はひどい鼻づまりで、せっかくの春のごちそうなのに、芳香をかぐことができなかった(そのわりには食いすぎた)。噛んだ時に、いくらか風味は感じたけどね。

 今日は水やりから解放された。雨が降っていたからである。私が少々気合を入れて水やりをするよりは、ちょっと雨が降ってくれたほうが、はるかに効率のいい水やりになるらしい。自然界には勝てないよ。

 これじゃあ、毎日の水やりのあと、翌日の準備をするようにしているのだが、なんとなく「無駄」っぽい感じがする。もちろん無駄になるわけじゃなく、翌日に回せばいいだけなんだけどね。だから振り上げた拳固を下せないということはない。

 振り上げた拳固を下ろさないと、腕や肩がだるくなる。だるくなるだけならまだしも、拳固を振り上げたところを目撃した人間には、「なんだ、しょうもな!」なんて感想を持たれてしまう。拳固をしょっちゅう振り上げていたら、感情を抑制できない未熟者という印象を与えるが、振り上げた拳固を下せなければ、「なんだ、根性なし」なんて、他人から舐められることになる。

 下ろせない拳固なら、最初から振り上げなきゃいい。水やりをしないのなら、水を汲まないでいいのと同じだ。汲んだ以上は、何かに水をやらなくてはならない。一つの目標を立てたなら、基本的にそれは達成されなければならない。これがきちんとできる人は、「あの人は言ったことはきちんとやる人だ」ということで、みんなから信頼されるようになる。

 言うだけで、実践が伴わなければ、「口だけ○○」なんてことを言われてもしかたがない。人間、言動一致がもっとも信頼されやすいことらしい。言ってやらなければ、口だけ。言わないでやってしまえば、あいつはなにを企んでいるかわからない、なんて思われることもなくはない。

 だから『韓非子』では、言ったことがきちんと過不足なくできることが一番いいとし、言わないでやることを越権行為、言ってやらないことを騙しと考えたようである。あまり四角四面な考え方なので、すべてに賛成はできないけどね。

 いずれにせよ、振り上げた拳固は、いつか必ず振り下ろさなければならない。あげたものは落ちるのが自然だからだ。

 昔々、ギリシャローマ神話を読んだとき、天空を支えるアトラスという巨人は、どんな腕や肩をしているのかと思った。支えるのをやめれば、ずいぶんと楽になるはずなのに、支え続けている。アトラスが支えているからこそ、神々は天上に暮らせるわけで、アトラスが「や~んぴっ」と投げ出してしまえば、天上界も地上界もごっちゃまぜになるかもしれないけれど、そのうち新しい秩序が生まれるだろうにと、子供心に考えたことがある。

 律儀なアトラスがいつまでも天上界を支えているから、天上界でやりたい放題をしているギリシャローマ神話の神々は、のんきに暮らしていけるのだ。わたしならば、「知るか! 勝手にしろ。わしゃ、もう疲れた」と言って投げ出すに違いないのだ。

 だれかが投げ出してやらないと、一所懸命支えてくれている存在の有難みに気が付かない。ありがたみは、誰でも知らなければならない。知れば感謝の念が湧くこともあるだろうし、それなりのお返しをするものもあるだろう。感謝も礼もないものには、ちゃんとそれなりの請求書を出すべきなのだ。

 甘やかすばかりでは、どんどん正常からずれていくだけだよ。そのためには、支えているものを投げ出す、拳固は落とす、請求書はきちんと突きつけるってことをしなければならない。

 そうすれば変なことをやる存在は減少していく。それこそが正常というものではないのかな? 

 今日は疲れた。ものを支えたりする元気はない。できるだけ早く寝る。寝ることは大好きなのだ。寝るまでにこのひどい鼻づまりだけは、解決しておこう。

2017年4月25日 (火)

山のあな、あな……

 三遊亭圓歌さんがお亡くなりになった。私がほんのまだ小さな子供のころ、「山のあな、あな」というフレーズで有名だったことは、しっかりと記憶に残っている。当時は三遊亭歌奴というお名前だったと記憶しているが。

 これがきっかけで、のちにカール・ブッセの『山のあなた』を読んだが、上田敏さんの大変に有名な名訳にお目にかかることができたのも、おかげ様である。当時はSFにくるっていたせいもあって、「山の向こうの遠く空の下に さいわいという名前の怪物がいて、それを友人と一緒に見に行ったのだが、途中でグミの枝で目をさしてしまい、泣きながら帰ってきた」という途方もない解釈に、大笑いしたものである。

 当時の歌奴さんがいなかったら、おそらくカール・ブッセなどという人の作品には、生涯出会わなかったであろうと思う。大変に面白い落語をされていたことばかりが記憶に残り、それ以外のことが記憶から抜け落ちている不思議なお人でもあった。おそらくはこれから、あれこれと噺を探しまわり、大昔を懐かしむのではないかと思う(記憶が蘇ればの話だが)。

 さて山のあな、あなといえば、昨今は、「おっ、バンカーバスターか?」などと連想してしまう、大変に物騒なご時世になっているが、どうして「火の海」だとか「沈没」だとか「核の雹」だとか、怖い形容ばかりを行うのであろうか?

 日本が沈没しないのは、故竹内均大先生がすでに、小松左京さんの『日本沈没』の時に仰っておられることだし(大陸性の岩盤は、海洋性の岩盤に比べて軽く、海洋底に堆積した地層が、大陸プレートに衝突したとき、大陸プレートの上に乗り上げて…これを付加体といいますな…陸地になる。これが日本列島の土台なわけで、沈むんだったら、最初から日本列島など存在しないわけで、おかげで地震は頻発するけれど、沈みはしないということなんだけど、日本沈没なんて言い出す人は、きっとこんなことはご存じない?)、「核の雹」っていったい何? あまりに漢詩的なオーバーな表現で、こちとらいまいちピンと来ませんな。

 漢詩ってのはだいたいがオーバーな形容が多いので、話は百万分の一ないし一億分の一で聞いていればよいと私は考えているが(白髪三千尺なんて、白髪が900mもあるっての? 髪の毛が一か月に1㎝伸びると仮定しても、90000カ月かかります。これは7500年に相当しますから…一般にいう、中国5000年の歴史(?)よりも長いよ!「恨」で有名な人たちも、「恨」を忘れてくれそうな時間ではないですか。だいたいどうやってそんなに長生きするの? そんなに生きたら、すでに不老不死に近いじゃん!…、そんなに人が長生きするはずねえっての! だいたい900mもの髪の毛、どうやって洗髪するんだ? 道歩いてたって、誰かに端っこを踏んずけられる度にずっこけなきゃならない)、いい大人がまじめな顔して凄む言葉ではないのではないかなあ。

 ま、相手よりもすごい言葉で言い負かすことができたら、それで口喧嘩の勝利って感覚ですな! ガキの喧嘩? いいかげんこんな陳腐な形容には飽きてきたころだから、そろそろ現実に目覚めて、理性的な言葉で語られてはいかがなものかと思ったりするのだが、どんなものでしょうか。

 この世界は現実であり、現実を客観的に見なければ、そのうち飽きられちゃうよ(以前、ソウルのホテルでみた韓国ドラマにも、同じような感想を持ちました。おかげさまで、私はまったく韓流には染まりませんでした。最初から馬鹿にするというよりも、見る気にもなりませんでしたねえ。客観的に言って、ソウルで食べた韓国松茸と、浴びるほど飲んだマッコリは、日本で売られている韓国松茸や、マッコリよりも、旨いと思いましたけどね…松茸には旅をさせてはいけません。香りが失われます)。こういうのを客観的な評価と申します。

 では国産松茸と韓国松茸を比べたら、どちらがおいしいかというと、本来比べてはならないものです。日本で食べれば、間違いなく日本松茸がおいしいですし、韓国で食べるのなら韓国松茸でも十分でしょう(輸送中に劣化しちゃうからね)。ではマッコリと日本酒ではどうかという問題になると、比べるお酒にもよりましょうが、私は日本酒のほうが断然旨いと思いますけどね。ただ味覚領域の話になると、個人個人の価値基準がかなり異なるので、強弁はいたしません。ただ自分がおいしいと思うものを食べ、飲むだけのことです。

 ウイスキーとブランデーの旨さ、ご飯とパンの美味さを比べるようなもので、どちらが旨いかというよりは、どちらを好むかというようなものではないでしょうか。こんなものを無理やり比べて、勝った負けたなどといってもしょうがないことですからね。

誇大な形容で、己の偉大さを演出しようとしてみても、それは所詮虚構。戦で人が死ぬのは現実です。かの兵聖孫武も言っていますが、「死んだ兵士は生き返りません。滅びた国は復興しません」。もしかしたらその死んだ兵士の中には、人類社会全体に貢献する資質を持った人がいたかもしれないのですよ。

 とはいうものの、口喧嘩であろうと、ある一定のラインを超えてしまったら、抜き差しならなくなることもございます。途中で後悔しても、やり直しがきかなくなってしまうことって、けっこうあるんだよね。だからやりすぎ、言い過ぎはダメなわけで、世の中、何を言っても許されるなんて甘いもんじゃありません。

 これはたとえ親しい間柄であってもそうで、昔から「親しき中にも礼儀あり」なんて言葉で戒められてきたもんです。では親しくなかったら? 親しくなければ、もっと慎重に言動を考えなければなりません。ここまでやったら相手は怒るか? ここまでは大丈夫か? わりと日常生活でもこんな人がいるのを見かけますが、親しくもない奴から試されているとわかったら、私だったら一発でアウトですな。その「人を試そうとする心根が卑しい」ってことで。

 だってこんな人と付き合えば、疲れることがいっぱいあると思うよ。疲れる人と付き合ってストレスを溜める必要はございません(仕事上、どうしても付き合わなければならないこともありますが)。どうせ最後には、そのストレスが大きな問題となっていくんだから。

 ま、ストレスは溜めないに越したことはございません。たとえその時には一時的に苦痛が伴うとしても。『韓非子』だったかにあったと思いますが、化膿したところに針を突き刺せば痛いが、針を突き刺して膿を出さなければ治らないものですからね。(本当のことを言えば、化膿するまで放置していたのが悪いんですけど)

 山のあなたの空遠くには、ほんとうにさいわいなんてあったのかなあ…… 針で突いて膿を出したほうが、もしかしたら早く幸せになれたかも。

2017年4月24日 (月)

花のいのちはみじかくて……

 四月も下旬となりまして、寒冷地か標高が高いところを除いては、桜も散ってしまったようでございます。ソメイヨシノという種類は一斉に咲いて、一斉に散っていくわけで、この品種が作られたのは江戸時代の日本と聞いておりますが、その咲き方、散り際の見事さから、敷島の大和心と人とわば 朝日に匂う山桜花(山桜は、わりと長持ちいたしますが)という歌と、妙に通じるところがございます。

 ただ人ってのは、花が散った後は、けっこう冷たいよね。ちょうど風の『ささやかなこの人生』という歌の歌詞にあるように。どんなに見事に散っていったとしても、その時には人々はその散り際を愛でても、すぐに忘れ去ってしまうようです。(こうなると、石にかじりついても、散らなかった方がいい?)

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 どうでございましょうか。この春、一本(一か所?)の桜の木を、追跡したものです。この木の満開は、2枚目(4月8日)のものではないでしょうか。今年の春も風が強かったので、どんどん散っていき、途中で花散らしの雨も降りましたから(本ブログには記録してあると思うので、興味がある方は4月アタマから読み直してみてください)、あっという間に散ってしまった感じがございます。

 作家の林芙美子さんは、色紙に好んで「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と書かれたんだそうですが、「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり 雲も光るなり」と続くのだそうです。

 吹く風に舞う花びらもあるのでしょうが、吹く風に、今生きている自分を感じることがあります。そして見上げた空に雲が光っていたりすると、確かにこの人生、生きていく値打ちがあるように感じたりすることがありますね。

 もちろん同時に自然界の大きさを感じるわけですが、この大きな自然に比べて、今の自分のちっぽけなこと。自分が日ごろ、寂しい、苦しいと思っていることなど、本当はちっぽけなことなんではないかと感じる瞬間があります(その無力さに、ますます孤独感が深まったりもいたしますが)。

 花が散った後の桜など、ほとんどの人は見向きもしません。それでも桜は翌年の春、また花をつけようといたします。そうすることで自然の何かが変わることなど期待しているようには思えません。ただただ咲いて、散って、人知れず実をつけて…を繰り返しているだけです。

 自然はやっぱりすげえなあと思います。どこかの覇権だの、なんだのと、しょうもないことばかりわめくことしかしらないやつに、見せてやりたいものです。どうせこんなことを感じる感性など、持ち合わせていないのでしょうが。

 桜は散る。人は年を取る。岩石は風化する。核兵器ですら劣化する。桜が散るのが嫌だと、花びらを接着剤でくっつけても大した意味はないし、人だって外見上年を取らなくても、不老不死というわけにはいかない。岩石が風化するからこそ、平地もできれば田畑も作れるようになる。何もかも思い通りにしようったって、神様でない人間には限界がある。

 自らをコントロールすることすらできないものが、自然界の規律に逆らうことなど不可能も不可能。おそらく、自分の天寿を全うすることすら難しいのではないか。

2017年4月23日 (日)

親苦、子楽、孫亡

 さすがに昨日の今日で、鼻詰まりがひどい。昨日たっぷりと吸い込んだからなあ… その分、いいものを見ることもできたわけだが。

 さてさて、世の中には「親苦、子楽、孫乞食」という諺?があるようで、一般的には親が苦労して財を貯め、そのおかげで子供は楽をし、孫の代には乞食に落ちぶれてしまうということらしい。昨今の言論の自主規制に、「乞食」という語が入れられていないのは、驚きだが(だって「めくら蛇におじず」なんて、まず、「めくら」をPCが変換してくれないんだよ。「目の不自由な人、蛇におじず」じゃあ、なんとなく語呂がよくないんじゃないかなあ。でも伝統や語呂よりは、言葉による差別の方が重大な問題らしく、我々が学生時代、普通に習ったはずの言葉も、満足に使えなくなっているようだ)、今では「乞食」と言われても、ピンとこないかもしれない(ということは、この言葉が死語にされたり、消えていく運命にあるのではないかと思う。まあ社会保障制度が完備すれば、なくなっちゃう言葉かもしれないよね。もちろんそこにはいろいろな問題が発生しているようで、断固として改善されなければならないようだが)。

 私は、どちらかというと、「親苦、子楽、孫亡」の方が、歴史的にはぴったりするような気がしている。親は苦労して財を成し、おかげで子供は楽をして、孫の代にはすでに財もろくすっぽなくて亡んでしまうって感じで。

 これは、親が苦労して財をなしても、子供はそれに甘えることなく、それなりに頑張っていかなければならない。そうすれば孫の代になって息切れしてしまうことはないというような意味合いではないかと思うのだが、ご心配なく。現行法では、我が日本の相続税は結構高い(まだ詳しいことは調べていないのだが)。親の蓄えた財で、末代まで食っていけるようなラッキーな人は、それほど大勢いるわけではなさそうだ。我が日本では、みんな一所懸命働いて食べていかなくてはならないはずである(いろいろな抜け道もあるように聞いてはいるが)。

 またこの解釈として、だいたい三代順調に続くことはまれで、だいたい三代目には潰れることが多い、なんてのもあるようだ。(これは歴史を見ても多い。ただししっかりとした家は、三代どころか、何十代も立派に続いている場合もある。こういう家は、家の核となる教えみたいなものがきちんとあるみたいである。ということは、長続きさせるには、何百年にもわたって通用し続ける、立派な教えがなくてはならないのではないか?ということになるのではないか)

 昨今賑々しい、近くの某国家も、考えてみれば三代目かな。三代目というのは要となる代なので、よほどきちんと自己管理ができ、他者も管理できる人間でなくてはならないと思うのだが、いかがなものだろうか。

 ここ2~3日、突然表の大手マスコミも、やれミサイルがどうの、Jアラートがどうのと、いまさらながらに口走っているようだが、普通に毎日の出来事を追っかけていれば、だいたいは予想できたことではないかな? だいたい三代目ということだけでも、最初から目を離してはいけない状態なんじゃない?

「親苦、子楽、孫亡」で、孫亡とはいっても、人や組織、文化、文明が亡びるときには、必ず何らかの影響があるもんだからね。遠くはるかに離れていれば影響がなかったとしても、近くならば、まったく影響がないということはないだろう。

「死ぬのはいやじゃ~っ!」誰でもそうである。でも自分が死ぬときにはた迷惑にも、他者をも道連れにしようという理不尽な願望を持つ者も、いないわけじゃない(動機はいろいろあるだろうが)。

 太古の昔には「殉死」といったものがあった国もあるらしい。偉い人は、死後も多くの人に仕えられないといけないなんて考え方があったのかなあ。(時に、本当に深く愛した人が亡くなった場合、一緒に死んでしまいたくなることもあるけど) で「殉死」したりさせられたりした人も大勢いたようだ。

 しかしながら生きている人には、まだこの世で果たさなければならない任務があるから生きているわけで、「殉死」などさせると、有能な人材の減少につながったりすることも少なくないので、次第に埴輪なんぞという「作り物」に変えられていったのではないかと言われている(ちなみに孔子は、殉死はもちろん、埴輪にも反対している。なかなか興味深いことだ)。

 死んでいく人間になんの関係もない人ならば、殉死させられるなど、まっぴら御免であるのが普通だろう。当たり前のことだ。ところが亡びていくものの中には、自らと無関係のものまで巻き添えにすることがあるから難儀なのだ。

 消えていかねばならない時には、静かに消えていきなさいというのが、こういう時の理性的な助言だ。ゾウはゾウの墓場で死ぬという(嘘かほんとか定かではないが)。猫は可愛がってくれた者に、己の死を見せたがらない(時に例外もあるが)。消えていくときには、多くの人が気が付かないくらい静かに消えていくべきというのが、この自然界のルールであるように思ったりもするのだが、甘やかされて育った三代目(甘やかされていない場合は、この例に含まれません。また自分でしっかりと自立した意識をもっている人は、三代目であろうが何代目であろうが、この例には含まれません)は、このルールを知らず、己の滅亡に際して他者に縋り付いて迷惑をかけたりする。

 世の中は厳しいものだから、「親苦、子苦、孫苦」くらいのつもりでいたほうが、かえって安泰なのではないかと思うのだが、自我が肥大して、肥満体形になったりすると、ついつい心にも脂肪がついて、みっともなくも第三者に迷惑をかけたりすることもあるようだ。もちろん親の苦労と子の苦労は、本質的に異なってもかまわないし、孫の苦労も本来は異なった苦労になるはずだが。

 為政者にとって最も大切なことは、自分に可能な限り、民衆に福を与えることだ。これを為政者の徳というんですな。ま、徳が高い為政者は、あまり窮地に陥ったりしないらしいけどね、歴史を見ると。だから最初から「親苦、子楽、孫亡」なんてことにならないようでございます。

2017年4月22日 (土)

Jアラート

 ああ、よく遊んだ。余は満足じゃ。遊んだ帰りに、親友K氏の店により、長話をした。遊んだ結果のものと引き換えに、K氏からまたいいものをもらったので、なんとなく気分はもっとリッチになった。「持つべきはよい友達だなあ」とは、映画『カサブランカ』のラストシーンで、リック(ハンフリー・ボガート)の言うセリフだが、まあそんな感じ。(これは私の、周囲の人に対する感謝の言葉。今日もありがとね!生きててよかったって、感じられたから…詳しく知りたければ、一緒に飲もう!私がへべれけに酔えば、もしかしたら本音が出るかも)

 悲しいことに私は一人で生きているが、嬉しいことに私の周囲には、こんな友人がいるってことかな? 人生悲喜こもごもである。いい事があれば悪いこともある。押しなべて人生のトータルがプラスマイナスゼロならば、まあ及第点をあげてもいいのかも。(ちなみに、今はマイナスである。どこかでプラスを稼がなければ)

 さきほどTVで初めて(あくまで私の初めてであり、すでに何度もTVで流していたのかもしれないが)Jアラートを聞いた。私はずっと前から、別方面からこれを知っていたので、何をいまさらという思いだったが、たいていの人は知らなかったのではないかと思うので、徹底する意味で、もっと広く知られるべきだと思っている。人は生きていてナンボだ。重要な情報は、より広く、より正確に伝えられていなければならない。

 もちろん情報ってのは、必要な人にこそ知られるべきで、不必要な人に知られても混乱を招くだけだってことは事実だと思う。しかしながらその情報が、必要であるかないかを判断するのは、情報を受け取った本人の問題だ。Jアラートなる信号を、より多くの人が知ることは、私は重要であると思うが、それを必要・不必要と仕分けるのは、知った人の判断だ。(不必要なわけはないんだけどね)

 こういうことを行うのは、国会でM学園問題を追及したりすることよりは、数百万倍も大切なことだと思うのだが、M学園問題を提起した集団が、こんな大切なことを言っているのは(少なくとも私は)聞いたことがない。なんのために政治などという厄介なものに取り組んでいるのか? 今、我々にとって一番大切な問題は、いったい何なのだろうか。そこを抑えなくては政治ではないよね。

 まさか我々の税金で暮らすことだけを目的にしているんじゃないだろうね。(それを平たくは「税金泥棒」という)我々有権者は、「この人ならば、よりよい将来を築いてくれるはずだ」と期待して投票しているわけだからね(少なくとも、私はそうである)。期待を裏切れば、その報いは受けなきゃならないよ。

 期待もなにもしていない人がいい加減なことをやった場合では、それがバレても「やっぱりな」で済むけれど、思いっきり期待させておいて、それを裏切ったら、厳しい反応が返ってくるのは、当然の人情だ。例えてみれば、まったく期待させない人は、平地に立ったような状態であり、大きな期待をさせる人は、高い台上に立ったような状態だ。

 期待を裏切るってことは、そこから倒れこむようなものであって、平地に立った人ならば、大したケガもしないだろうけれど、高い台に立った人ならば、大けがをしたり、運が悪ければ死んだりすることがあるようなものだ。

 人々に「期待を抱かせる」ってことは、同時に大きな責任を背負い込むことでもある。でも多くの政治家は、有権者に多くの期待を抱かせて、それを信じさせることができたら、選挙で当選しているわけだからね。信じさせたことは、可能な限り実現させなきゃならない。実現できなきゃ、その理由を、多くの人々が納得できる形で説明しなきゃならない。

 たとえば清廉潔白な人が、清廉潔白でない人を批判すれば「なるほど、もっともだ」と人々を納得させることができるだろう。清廉潔白でない人は、清廉潔白ではない人を批判すれば、「何を目くそが鼻くそを嗤っているのだ?」ってことになる(くそとか下品な表現でごめんなさい。不思議なことにわが日本は、差別用語だとかなんだとかで、様々なことばに対してな自主規制が働いているようだけど、この「くそ」という言葉には、大した規制がかかっていないようなので…笑)。目くそ鼻くそを笑うといえば、どっちもどっちという意味にとられやすいが、私は鼻くそを笑った目くそのほうが、より下等という判断をする。なぜかといえば、自己を目くそと認識し、鼻くそを批判しているなと感じれば、目くそである自己を恥じるから、批判などしないことが多いからだ。

 つまりは鼻くそを嗤う目くそは、実は鼻くそよりもレベルが低いということだ。そして現代社会では、こういう行為に対しては「ブーメラン」なるものが帰ってきて「突き刺さる」らしい(ブーメランの名手たちは、相当にタフならしく、かなりのブーメランが刺さっていても、いまだに元気でいるようだ。もしかしたら、自ら傷ついていることにすら気づいていない?…ってことは、最大の武器は、恥もなにもわからない鈍感さということになる。鈍感は強いよ。私もかつて痛みを感じにくい人と試合で対戦したことがあるけれど、いやあやりにくかった。…痛みを感じないとはいっても、ダメージは被っています。考えてみれば気の毒なのだけれど、試合という局面だけを取り出せば、大変な強敵でした)ま、鈍感なだけが「売り」の人は、最終的には鈍感なために致命傷を被っても気づかないことが多いんですけどね。

 昔「鈍感力」だとかいう言葉を吐いた御仁がおられましたが、鈍感力は、敏感な人間が身につけてこそ役立つものであって、元から鈍感な人にとっては、「致命傷にすら気づかない」って最悪の状態に導くものでしかないんだけどね。言葉遊びにばかり夢中になっていると、こんなことには気づかないよねえ。

 ま、各人にとっての正確なJアラートが出され、それぞれがその場その場で最も適切な行動がとれるようになることが一番大事だと思うので、ある程度は感覚は鋭敏にしておく必要があると思いますけどね、はい。

2017年4月21日 (金)

春は忙しい……

 いやまったく、遅くなってしまった。夕方から、雑草が生い茂ろうとしている裏庭に、進入路を作ろうとしたんだね。でもここはニラとか、フキとか、ミツバとかが野草化し、カラスノエンドウだのなんだのといった、人間にとってあまり有益だとは思えない野草とごっちゃまぜに生えてしまっているんだね。

 先日ここにゴーヤを植えてしまったもんで、なんとか進入路を確保しておきたいと思い、先日は本物の雑草が多いところを重点的に刈り取ったのだが、今日はフキと雑草は入り混じっているところに取り掛かった。

 作る進入路は二本。ひいこらいいながら刈り取って、フキだけは分ける。実は私はフキが好きなのだ(もちろん食べるのが)。これだけで十分な重労働で、フキを茎だけにした頃には、八時半になっていた。(細い進入路2本で、茎だけの重量は1.5キログラムに達した)

 それから明日も楽しく遊ばなければならないので、準備をしておかねばならない。車のガソリンを満タンにし、ようやく晩御飯にありついた(腹減ってた。放っておいたら、自分の腹部についた皮下脂肪を食べたかもしれない。自分の皮下脂肪をちぎりとって食べたら、果たして消化率は100%になるのだろうか? そしてすべてが皮下脂肪となって、元のさやに納まるのだろうか。このあたりを研究すれば、新しいダイエットへの道が開けるかもしれない……んな馬鹿な!)。

 で、菊の露(私、これ案外好きなんですよ。以前H君が、合宿先の沖縄から送ってくれて、それ以来ファンになっちゃいました)をちびりちびりやりながら、「金曜日というのにろくな番組がねえな」などとぼやきながら(金曜日は日本経済の活性化のために、飲みに町へ繰り出すべき?なのです!本来は)晩御飯を終えたら、もう結構な時刻になってしまっておりました。

 なんでこんなに遅くなったかを反省してみると、フキである。フキさえなければ、ここまでは遅くならなかったはずだ。ではなんでフキなどにかまってしまったのか? フキが食えるからである。あまつさえ私にとっては、ビールのつまみに大変好ましい食材だからだ。つまりは「食い気」である。

 人は食べないと生きていけないから、「食い気」を馬鹿にする人間は、心貧しいやつではないかと、私は勝手に思い込んでいるが(あくまで私個人の考え方だ)、春先といえばそこここで芽生えの季節だ。中には食べると中毒症状を起こして死んでしまうようなモノもあるが、正しい知識さえあれば、めったなことにそんな目に遭うこともない(俄か仕立ての知識だと、とんでもない勘違いをすることがある。昨年だけで私は4~5人、見知らぬ人から質問されたが…山で…、そのどなたもが、食べないほうがいいものを、「これ食べられますか?」と尋ねてきた。私は親切にも、「口を開けて頬ばり、かみ砕いて飲み込めば、食べられないことはないでしょうが、その後のことは保証しかねます」と答えてあげた。全員、食べられないものを、見た目がちょっと似て(いるかなあ? 私的には、まったく異なって見えるのだが)いるらしい山菜と間違えておられた…幸い有毒なものではなさそうだったが。

 そうなんですね。この季節、食べられる(しかも美味な)山野草が、ぼこぼこ出てくるんですな。しかも芽生えの季節ということで、競争のように出てくる。できたら何日ずつかは時期をずらしてもらいたいのだが、あちらにはあちらの都合があるらしく、一度にあれもこれもどっと出る。

 こちらとしては、あれも食べたい、これも食べたい、いやいやそれもなかなか捨てがたい味だ、などと欲を出しているうちに、大変に多忙になってしまうのである。

 栄養学的には、あれもこれもまんべんに、バランスよく食べなさいということになっているが、本当なのだろうか。野生に生きていたころの人類は、きっとその季節に手に入るものばかりを食べていたはずだ。つまり自然界の規律に従って、その季節に手に入るものしか食べられなかったはずなのだ。

 これって言ってしまえば「偏食」だよね。こちらとしては選択の余地なく、自然界によって偏食させられていたはずなのだが、果たしてそれで健康状態がよくなかったのだろうか。食事以外の環境をすべて現代と同じようにして、自然が支配する、季節による偏食したグループと、季節を無視したように偏りなく食事を摂ったグループに分けて検証しなくては、どちらが正しいかは言い切れない。

 そうでなくても現代の、一般的な医学的な常識は、かなりあやふやなもので、多くの場合、お医者さんと利益を追求する人たちが結託して、病気でもないのに病気だと名前を付けているケースも少なくないからね。

 あるお医者さんがライオンさんに言いました。「そんなに肉ばかりを食べていたのでは、生活習慣病に罹ってしまいますよ」 またあるお医者さんがウサギさんに言いました。「植物しか食べないでいたんでは、免疫力が低下しますよ。たまにはお肉でも食べて、立派な筋肉をつけなけりゃ、キツネに追いかけられたとき、逃げ切れませんよ」

 残念なことに、生活習慣病で死んだライオンを私は知らないし、お肉を食べなかったからといって、狐につかまってしまったウサギを知らない。それどころか、ウサギは狐に追いかけられても、肉離れ一つ起こさない。筋肉痛で動きづらくしている野生動物なんか、お目にかかったことがない(動けば疲労しているのは確かです。そういった場面には何度となく出遭っています)。

 人間はライオンやウサギではないと思うけれど、個人差はけっこう大きいと思うので、その人に似あった食生活があるのではないかな。

 で、私は山野草が好きなので(鑑賞するのも食べるのも)、春は大変に忙しい。ほかのほとをしている暇がないくらいである。そういえば野生動物も、活動しているときの大半は、餌探しと食事ですわな。餌さえ十分に食べることができれば、あとは何もせずにぐて~っとしている。それでも大して肥満しない体質がうらやましいけど……

2017年4月20日 (木)

ストレス

 曇天である。なんとなく気分も、曇天だ(天丼なら食べてしまうのだが)。こういうすっきりしない日は、サンドバッグでも苛めて、気分を晴らそう! 私はかねてより、家庭に一個、サンドバッグを!などと訳の分からないことを提唱している。

 気分の悪いときや、腹が立った時には、思いっきり八つ当たりすると、結構疲れるので、ストレス解消と運動不足解消に役立つ。人によってはいざという時の護身にも使えるかもしれない(もっとも実戦はトレーニングとは全く違うので、少しくらいサンドバッグを叩いたりけったりしたくらいでは、やらない方が無難である。「生兵法は大けがのもと」という言葉もあるくらいだから)。

 ストレスのない人生など、ありえないのではないかと思うが、ストレスを減らす方向で工夫することは悪いことだとは思わない。カラオケ結構、ランニング結構、食べ歩き結構、散歩だって結構、いろんなストレス解消法がある。サンドバッグ最大の弱点は、吊るすところがなかったり、専用のスタンドを購入しても、場所をとってしまうことだ。それと案外周囲の人々がストレスを覚えるものがある。

 それは「音」だ。叩いたり蹴ったりしている人は、いい音がすると実に気分がいいものだが、隣近所で「さあ寝よう」なんて考えている人や、難問を解こうとしている人、習字でもやってみようか等々の人には、結構耐え難いものらしい。

 幸いなことに我が家はそこそこ広いので、比較的奥まったところで、現役中の私は、毎朝毎晩、砂袋を蹴っていた。するとこれが餅つきの音によく似た音になるんだよね。だいぶ前に亡くなったが、前のおばあさんが「何を毎日、餅をついているんだ?」と言った。もしかしたらおばあさんにはうるさかったのかなあ。でも音がしないようには蹴れないもんね。ごめん…… もっともこれは、ストレス解消のためにやっていたわけではないが。

 むかしむかし、まだ私がパチンコなどということをやる暇があった頃、憂さ晴らしにパチンコを打ったことがある。ぼろくそに負けて、よけい憂さが溜まってしまった。勝負事で憂さ晴らしってのは、失敗したときが怖い。その点サンドバッグは反撃してこないからねえ。気分よく殴らせてくれる。これがダブルのパンチングボールなんかだと、慣れないうちはクリーンヒットしないだけでなく、ボールから反撃を食らったりする。人によってはストレスが溜まるかもしれない。

 以前、ある女性から、「腹が立ったから、食器を割ってやった」という話を聞いて驚いたことがある。私は不注意で食器を買ったことはあるが、腹が立ったからといって食器を割ったりしたことはない。現役時代はもっぱら、瓦とかコンクリートブロック、杉板、レンガ、バットなんかを破壊していた。氷も何度かやったが、あまり好きではなかった。食器はその中に入ってない。

「腹が立って割るのなら、もうちょっと割っても許されるものにしたら?」というと、彼女は「腹が立った時に、とりあえず手近になければならない。あまり高価なものでもいけない。などなど考えたら、お皿なんかが一番手っ取り早い」と答えた。なるほど。私はこういった観点から食器を考えたことはなかった。

 で食器を割ったときの音、あの「ガチャン」という音がいいのだそうである。ストレス解消には、様々な要素があるようで、盛大な音がするのもいいのだそうな。でも結局、割った食器の跡片付けを自分でやっていたから、その時にはストレスは溜まらないのだろうか? 私はわりとこういった、本来しなくてもいいはずの後片付けにはストレスを感じる(それどころか、食器が割れる音も苦手だ)方なので、やらない(おっと、一度腹を立てて、コップを握りつぶしたことがあった。これも手が切れて、不要なストレスをためることになった。あ、思いだした。拳めり込み事件が。これは都合三度あるが、旧悪が露見するので、詳しくは語らない。語ればまたしてもストレスがたまるからだ。思い出してみれば、この手のストレス解消の失敗はいくつもやってるね。思い出すとそれがストレスになるから、思い出さないようにしよう)。

 ではストレスが全くなければ、それで素晴らしい人生かというと、そういうわけでもないようで、きれいさっぱりとストレスがたまらないような生活をしていると、物事を考え込んだりはしなくなる。何をくよくよ思い悩むのだ? ストレスもないのに。こうなったらデスクワークは、機械的なことしかできなくなる。

 考え込まなければならない時には、やはり適当にストレスがたまった状態でなければならないようだ。でも考えが煮え詰まって、二進も三進もいかない時には、やっぱりサンドバッグはいい(この他に私がよくつかうのは、熱いシャワーを浴びる。ジョギングに行ってくるなど。シャワーは効果がありますね、私の場合。ジョギングはやっているうちについつい気分がよくなって…ランナーズハイか?…やりすぎて、バタンキューで、仕事を忘れてしまうことがよくある)

 どうやらストレスも、ある程度は必要なものらしい。多くなりすぎたら解消を。少なくなりすぎたら、少しは悩み事を探してみるべきなのかもしれない。

2017年4月19日 (水)

モグラたたかず

 少しだけ黄砂が減ったように見えた今日である。山の白さが、今までよりもひどくなかった。でもお鼻の調子はよくない。今までさんざん花粉や黄砂の波状攻撃を受けてきたから、一日や二日では回復しないのだろう。

 に、しても今日は、天気はまことによかったのだが、風が強かった。外を歩いていると、「追い風」の時と「向かい風」の時、まったく前進スピードが違うんだね。おそらくこんな体験をした古代の人が、帆船なんかを考え付いたんじゃないだろうか。

 おかげで大気が入れ替わったのか、夕方くらいから冷え始めた。明日は今日よりもだいぶ気温が下がるらしい(地方局の天気予報による)。明日は1枚多めに着ることにしよう(だいたいが薄着なんだけどね)。

 さてと、目の前に圧倒的な危機が迫ると、人はかえって冷静になる。私も何度か体験したことがあるが、その都度、冷静になったことで、一瞬のチャンスをとらえて生還できた。だから今PCに向かってキーを叩けている。

「こりゃあ、本当に死ねるかも」と思った経験があることで、余計に落ち着くことはたぶんないとは思うが(その都度、新鮮な?体験だったし)、生きていることはいいことだ。生きてるんだなあと実感すると、その後の生き方が、少しだけ変わることが多かった。

 やっぱ、生かしてもらっていることへの感謝の念が、私のようなぼんくらにでも湧くのかなあと思うが、「無駄に生きちゃあいかん」なんて殊勝なことを考えるようになるから不思議だ(その割に、すぐにだらける?のだが。それがぼんくらのぼんくらたる所以なのかもしれないけど)。

 さて、危機に臨んで一番まずいのは、冷静さを欠くことではないかと思う。誰かが「キャーっ」と挙げた悲鳴で、そこにいた集団が一斉に浮足立つなんて現象は、わりとよく見られることかもしれない(まあ、「悲鳴を挙げるな」って言ったって、本能的に出ちゃう声は仕方がないんだけどね)。

 昔々、1933年制作の『キングコング』を初めて見たとき、キングコングに生贄とされたヒロインのアン(フェイ・レイが演じた)が、のべつ幕なしに悲鳴を挙げ続けるのを見て、子供心に「いい加減にこの女の人、気を失わないのかな?」などと感じたことがある。当時は白人女性はすぐに気を失う(映画でそんなシーンが多かった)と思っていたので、こんな空前絶後の怪獣に捕まったら、あっという間に気を失うだろう、いや気を失うはずだ、気を失うべきだ、気を失わなければならない、などと勝手に思いこんでいたからだ。

 実際はこのヒロイン役を決めるオーディションでは、悲鳴までがテストされたそうで、見事な悲鳴を挙げ続けるのも、監督さんの指示だったのかも知れない。(ちなみに私はこの映画が1933年に制作されたことに、今でも大変驚き感動しております。この感動は、レイ・ハリーハウゼンの『アルゴ号探検隊』を初めてみた時よりも勝っています。

 結局はこの作品中のコングは、騎士道精神(?)あふれる巨大なおさるさんということで、最後の方は、もう見ていてこちらが悲しくなってしまったのですが(あくまで私個人の感想ですよ)、同時にコングを見世物にして金儲けをしようと考える人間側の汚さばかりが目立っちゃいましたけどね。

 それはさておき、相変わらず緊迫したままの世界情勢ですが、意外なことに一番身近に感じなければならないところは落ち着いているようで、おかげで案外静かな(当事者さんたちにとっては、とんでもなく大変な状態だと想像しますが)毎日が送れています。

 私としてはこの静けさが、中学生時代に読んだネビル・シュートの名作『渚にて』の最後のシーンにならないことを願うばかりです。核に侵された地球で、静かに最期を迎えようとする人々を描写したシーンですが、いやもう、読後の感想なんて、ボーゼンしかありませんでしたからね(当時はまだ私も中学校二年か三年だった…と思う)。

 のちに小松左京さんの『復活の日』を読んだ時には、そこまではショックを受けなかったから、多少免疫ができていたのかもしれない(小松左京さんは、何度も日本や世界を滅ぼしているからなあ……)。

 情報は誰もが得る権利があるとは思うのだけれど、情報はまずそれを必要としている人に伝えられるべきだと思う。必要としていない人に、必要でもない情報を与えても、ただの話題提供にしなかならない。たとえば私がタレントさんのゴシップネタを知っていたとしても、それはまったく私の生活にも、周囲の人の生活にも、まったく役に立っていない。だから私は多くの場合、ゴシップネタはスルーする。

 その代わり自分に必要なネタだと思ったら、少々些細なことでも嗅ぎまわる。なかなか諦めるってことをしない。情報は、それを必要としている人には、絶対に必要だと思っているからだ。ことによったら、その人の人生までもが変わってしまうことがあるからね。

 でも「この人にこれを知らせたら、騒ぎまくって、大変な混乱が起こる」と思ったら、敢えてことが鎮まるまで何も教えないことって、確かにあるよね。たとえばある人に心配をかけない時なんかは、友人たちなんかにも「これ、絶対に黙っててくれよな」なんてお願いしたりして。

 知らないことが幸せで、知ってしまえば不幸にしかならないことって、確かにあるもん。なんでもかんでも全部教えてればいいってもんじゃない。それはある意味、無責任かもしれないから。不幸になるような話なら、黙っててくれればよかったのに、なんてことも、ままあるよ。ましてや知りさえしなければ、なんとなく解決できるかもしれないことでも、知ってしまったら大騒ぎになるかもしれないような場合には特にそうだ。

 ちょいと前、「臭いにおいは元から絶たなきゃ」云々と書いたけど、元から絶つにしてもいろんな方法があるよね。考えてみれば、臭いものを頑丈な容れ物で囲って、絶対に表に出てこないように密封するって方法もなくはないね。

 例えば悪さをして困るモグラがいたとして、ピンポイントでモグラのいる位置を特定して、モグラだけを捕まえようとすれば大変だけど、「ええい、面倒!」ってんで、モグラのいる区画を、側面も地表も、すべてコンクリか何かで覆ってしまえば、これはモグラとしても困るんじゃないだろうか(モグラなら、もっと深く潜って脱出するかもしれないね)。

 でもこうすればモグラを封じ込めることは可能だから、とりあえずモグラの害は避けられます。こういう作戦を考えれば、「もぐらたたきゲーム」なんて存在せず、「モグラたたかず」ってことで終わってしまいますね。ゲームでなくなるけど。

 おっと、冷えてきましたよ。今晩から明日にかけては、風邪ひきに要注意かな。今晩は無理をしないで、とっとと寝てしまうことにしよう(あ、練習を忘れてた。これからすぐにやって、今日は寝る…つもりです)。

2017年4月18日 (火)

無慈悲な……

 ちょっといい天気だと、すぐに蚊が室内に侵入する。常々言っているように、私は「専守防衛」なので、私の領土内に侵入した敵性の存在には、無警告で攻撃(反撃?)を加える場合がある。しかもかなり無慈悲な攻撃(反撃?)である。

 どんな無慈悲さかというと、蚊の場合は、嘴の長さを半分にちょん切られるというほどの無慈悲さだ。私の仕事用の机の上には、そのためだけに準備されたピンセットもあれば拡大鏡も鋏もある。私の蚊に対する憎しみは、決して小さくない。

 では慈悲に満ちた攻撃(反撃?)というとどのようなものかというと、「武士の情け(母方がお武家さんの出なもんで……)」が加わる。「武士の情けじゃ。一思いに」ということで、一瞬で抹殺する。苦しむ時間が短ければ、それが慈悲である。

 いつもいうように、蚊という存在は、人類の繁栄に何か貢献しているのかというと、不勉強な私には思いつかない。とにかく伝染病を媒介したり、刺されたあとの痒みなどという不快感を与えるものでしかない。今ではいくらか減少したが、かつては蚊が媒介する伝染病で、多くの人々が亡くなったことすらある(現在でも、決して少なくないのでは?)。

 グッピーという魚はボウフラをめちゃくちゃ食べるが、グッピーを育てるにはボウフラ以外でも、いくらでも餌になる生き物はいる。だから蚊は、この自然界に存在しなければならない必要性がないというのが、不勉強ながら私の決断だ。

 雨が上がると、雑草が無慈悲なくらい伸びていた。明日以降、暇があったら、今度は私が無慈悲なくらい、雑草を取ることになるだろう(たいていは途中で根負けして、「もうええわ。冬が来たら枯れる」などと言い出すのだが)。昨年から特に無慈悲な草枯らしを使用し始めたので(しかも効果的な使い方を覚えた)、それこそ無慈悲な状態になるのではないか(作物に悪影響が出ないように気を付けないと。私は、作物に対しては慈悲の塊である。ただその理由をよく考えてみると、作物に対する食欲がおおもとにあり、自分の食欲でしかない。これで本当に慈悲深いのか?と、自分でも疑わざるを得ない)。

 今年は近いうちにハンミョウの幼虫を探してこなければならない。ハンミョウは大変美しい昆虫なのだが、幼虫の時には、地面を這うものを食べる。私が子供のころには、我が家にもたくさんいたのだが、父が庭に土を入れて絶滅した。

 実は私は、土を入れる前の我が家の庭が大好きだった。ハンミョウの幼虫がそこここから顔を見せ、適当にアリなどを間引いてくれていたので、アリが増えすぎるということがなかった。ハンミョウが全滅してからは、入れた土について侵入してきたヤマアリが増え、本来我が家にいたアリは駆逐され、今や裏庭の一角で、ほそぼそと生き延びているのが確認されているだけだ。

 そこで昨年の夏、ついに私のヤマアリに対する怒りが爆発し(だって家の中まで侵入しようとしたんだよ!)、無慈悲な攻撃(反撃?)がさく裂した。わずか1日の攻撃で、一時は壊滅的なダメージを与えたかのように見えたが、2~3か月後、激減はしたものの、またもとの巣穴に出入りするヤマアリを確認した。(渡石の下を巣穴にしてしまっているらしい)

 今年もヤマアリに対する無慈悲な攻撃(反撃?)の準備はあるのだが、このくそ忙しいのに、アリンコの相手までしていられるか!という気分と、子供のころへの郷愁から、もう一度ハンミョウを、我が家の庭で繁殖させてみようと思い立ったのである。

 ハンミョウは乾いた地面を好むので、庭木を切り、雑草を駆逐し(私が練習をすれば、練習に使っている場所は、雑草は生えることができない。何しろ歩法や歩法の伴った練習が多い人だからだ。しかも摺り足…擦り足ではない…だから、生えても生えても、たちまち消えていく。雑草にとっては無慈悲な練習なのである。だからと言って、練習や私の生活に用いない場所に生えている雑草を攻撃することはない)、だいぶ地面が乾燥した場所も確保できた。

 あとはハンミョウの幼虫を探してくるだけである(成虫は羽があるので、気に食わなければ飛んで逃げる。私としては、気に食わなくても居ついていただきたい心境だ)。ハンミョウさえ居ついてくれれば、私がいちいちヤマアリなんかに無慈悲な攻撃(反撃?)を行う必要などなくなる。

 適当なところでバランスが取れれば、私としては無慈悲な行為から解放されるので、本来平和主義者の私は、我が家の庭に生息する生物の多様性を目指して、今年も活動する予定だ(蚊だけはどうしても許す気にはならないが)。

 私の無慈悲さは、無慈悲な行為をしなくてもよくするための無慈悲さであり、まさに「専守防衛」のためで、むしろ慈悲深い生活を目指すものだ。しかも人間を相手にしているわけでもないし、隣近所に迷惑もかけていない(はずだ)。つまり自分の意志を他者に押し付けるための無慈悲さではない。隣近所に迷惑をかける無慈悲さだったら、隣近所が私に対して無慈悲な報復をするだろうし、そんな生活をしてたら、自分のやりたいことなんか、やっている間はないもんね。

 自分のやりたいことをやり、生きたいように生きようと思えば、やはりある一定のバランスを作ることが大切ではないかと思う。そしてバランスのためには、ある程度は自分の欲を抑制しなくてはならない部分もございますな。でもそれって、すでに無慈悲ではなくなっているような気が……

※ しまった! さっきからうろちょろしていた蚊に、慈悲に満ちた攻撃(反撃?)をしてしまった。反射的に叩いたら、つぶれてしまったよ……

2017年4月17日 (月)

マイペース……

 昼前から降り出した雨が、なかなか大変な降り方をしております。水やりをしなくてもいいけれど(この雨天の中、水やりをしていたら、正常かどうかを疑われそうな気が……)、活動はしにくいですね。

 もっとも雨が激しくなる前に、外の用事はだいたい済ませたけど。(あくまで「だいたい」であって、完璧にこなしたわけではない。最低限度我慢できる範囲だ)最近気が付いたんだけど、悪天候のわりに「古傷」が痛まなくなった。それもこれも、ほとんど毎晩の站桩によるものが大きいと感じている。正しくさえやれば、こいつはいい。(あくまで「正しく」でないと、責任は持ちませんよ。站桩は「動いていない動き」なんで、いろんな効果が期待できます)

 下手に整形外科を頼って、痛み止めの薬漬けにされるよりはずっといい。もちろん、とは言っても、整形外科も必要な時はあるので、そういうときは迷わず利用するのがいい。ただ私の場合、3年ほど前に、近所の某整形外科で怒り狂って、診察券も受け取らずに帰ったことがあるからなあ。

 だって2時間待たされて、診察は2分で終了、あとは薬局で薬出しておしまいで、担当の医師のやる気は感じられず(だって診察時に、ノートPCの画面しか見てないんだよ!患者を見ろってえの!)、まったく症状は改善されなかったからだ。これを劇的に改善したのは、信頼しきっているY先生と、(Y先生の言葉を借りれば)「あんた(つまり私)の執念」ということになるだろう。ちなみにY先生は、医者が必要だというと、すぐに「医者に行け。こんな症状は○○の病院がいい」とまで教えてくれます。ほんとに患者さんを治すことが大好きなお人なんだね。

 こういうお方を存じ上げていると、たいていの傷は治せそうな気がしてくる。もちろんどんな治療であっても、百点満点の治療などは存在しないから、そこはそれ、患者本人の「どうしても治してやる」という気持ちが大切なんだけどね。(きつい減量と一緒で、最後は気合と根性の勝負です)

 それはともかく、明日の天気は「晴れ時々雨」なんだそうで、今晩はエダマメの第二次種まき(豆まき?)の準備をしておこう。初回まいたのは、緑のはほぼ出そろったのだが、黒が成績が奮わない。黒は旨いと評判なので、二回目は、黒を多めに蒔こうかと思ったりしている(第一次は、気温の変化が激しく、思ったよりも成長が遅かった。ちなみに大根など、2週間以上差をつけて蒔いたのに、今や後から蒔いたほうの成長が勝っていたりする。地面の温度の関係なのかどうかは知らないが、こんなことなら焦って植えないで、ゆっくりしてればよかった)。

 ま、「痩せ馬の先走り」って言葉もあるので、いい時期に、いいスタートを切るのが一番だろう。

 このいい時期ってのは個人個人で違うと思うのだが、実際の我々の社会は、日本だと4月になったら「せえの」でスタートを切らなきゃならない。花粉症なんかで死にそうなくらい苦しい人も、花粉も黄砂もどこ吹く風といった人も、同じである。

 私的には「花粉症はれっきとした病気である」と思うのだが、花粉症でない人にはなかなかこのきつさは理解できず、花粉症と一口に言っても、症状の軽重によってダメージが異なる。だから職場や学校などでも、これといった決められた対応はなされていないのではないだろうか。

 もしも花粉症や黄砂のせいで、「出遅れたかも」と思う人は、あと3週間の辛抱です。そこから捲土重来、逆転目指して頑張るのも、一つの手です。なにしろ出遅れてしまった人間は、他人が自分より先を行きますから、格好の追い抜くための目標がいてくれます。

 先行逃げ切りはなかなかしんどいですが、適当な間隔のままでぴったりと張り付いていき、相手の息が上がったときに、一気に抜き離してしまうのも、一つのやりかたです。そのためには、追走しながら自分の状態を整えておくことが大切です。

 人生は長丁場ですから、やり方はいろいろとあります。また必ずしも他人と同じ道を歩く必要もございません。最終的には自分のペースで走り切った者が、一番大きな実りを得ることができるのかもしれません。人を気にして、自分のペースを崩してしまう方が、はるかに怖いです。

 それは自分の人生ではなくて、自分が気にした人の人生を、強制的に生かされていることになります。いいライバルを見つけて競争することはいいことですが、勝敗にこだわりすぎれば、かならず自分を見失ってしまいます。そのために一番大切なのは、自分のペースを知ることですね。

 世間の人は自分のペースを英語のマイペースと訳しますよね。で、マイペースというと、なんとなく「ゆっくり」というイメージがありますが、マイペースとはゆっくりと行うことではありません。短気な人に「ゆっくり」といえば、かえって自分のペースが掴めず、自滅することだってあります。

 他人から見て「全力疾走じゃないか」と思えても、本人にとってのマイペースがそれなら、わざわざゆっくりとする必要はありません。ゆっくりとした人が速く動けないのと同様に、速い人はゆっくりと動けないことがあるのです。

 時々「そんなに慌てないで、ゆっくりと、マイペースで」なんてアドバイスしている人を見かけたりしますが、私は(口には出さないものの)、内心、この人は実は自分がのろいのか、実際に仕事をしたことがないのだと判断します。

「Slow and Steady wins the race」(ゆっくりと着実なのが勝つ)なんてえことを言いますが、そうかなあ。本来スピードのある人にゆっくりさせたら、かえってミスが増えたりするんだけどねえ。

 人はその人本来に最も近い形で物事を行うのが、最も成功に近いんじゃないかと思いますけど(勝ち負けには関係なく。たとえば速さを競えば、遅い人は速い人には勝てません。世の中すぐに「ウサギと亀」なんて話を引っ張り出してきますが、世の中のウサギが全部、途中で昼寝したりはしませんからね)。ここでいう成功とは、人生としての充実という意味合いが強いです。

『老子』に「跂者不立、跨者不行(跂つ者は立たず、跨ぐ者は行かず:つま先立ちになっているものは、長くたち続けることができず、大股で行こうとする者は遠くまで行けない)」とありますが、自分が本来発揮できる能力以上のものを発揮しようとすれば、必ずや目的に到達するどころか、案外早くつぶれてしまうのです。(ちょうどアメリカが軍備競争をソ連に仕掛け、アメリカと競争するために経済に負担をかけすぎたソ連は、経済的にもたず、分裂してしまったのと似てますね。今現在も、同じ道を歩こうとしているところもあるみたいですが…ただし国民の平和を安全を守ることは大切だと思いますよ、絶対に)

 だからマイペースって、人によってみんな違うんです。ちょうど私が蒔いた大根の種みたいに、いい時期にいいタイミングで植えれば、最初の遅れなんてみるみる追いついてしまいますもん(たぶんこのところの雨の影響もあって、来週には逆転しているかも)。 

2017年4月16日 (日)

出る杭は打たれる、出た腹は邪魔になる

 昨日とは打って変わって、良い天気でございましたなあ。特に日中は暑いくらいでした。(私はもう完全に、夏モードでした)しかしながら、良すぎる天気の翌日は、ほぼ必ず崩れるの法則通り、明日はよろしくないという天気予報でございます。(お出かけの際には、雨具を忘れないように…って私は雨具をもっていったことがない人なんですが。本来「晴れ男」ですし、仮に雨が降っても、ダッシュ!で済ませてしまいます)

 昨夜はF先生が突然参加してくださったりして、予想外の大盛り上がりの『○○を語る会』になってしまいましたが(大変楽しゅうございました)、帰宅後、きっちり最低限度の練習はやりました。で、寝ないでいようかな?と思ったんだけど、とうとう午前4時過ぎに、お酒の酔いも手伝って、力尽きました。くたばってから目が覚めたらすでに、どこかの国が花火を打ち上げたということでした。自称大国の某国の抑えは効いているのかな?

 ただ、打ち上げ失敗ってのも同時に言われていて、「あれ? ここんところ続けて失敗してね?」と思ったのも事実でございます。私は決して某花火大好き国家のこの方面の技術力は低いとは思っていないので、むしろ続けて(前回のは、失敗とは断定できてないみたいですが)成功しなかったことのほうに、ひっかかりを感じましたな。

 歴史を見ればわかりますが、どちらかに有利なことが、正当な理由もなしに連続するなんてことはありません。運命の(女?)神様は移り気な(浮気性?)のです。たしかに「運」の存在は否定しませんが、いつまでも運がついたままってことはございません。たいてい人為的な働きかけがあったりするものなのです。つまりは現実的な力が働いた結果ではないかと思うんですよね。

 次の花火も失敗したり、不調に終わるようでしたら、まず人為的な力が働いていると考えた方がよさそうです。ま、いろんな人がベストを尽くして、人々が不幸にならないように頑張ってくれていると思うので、私としてはこういった人々の「幸運」を祈りたい気分なんですけどね。

 さてさて今年の桜は、咲き始めが遅かった分、一気に咲いて満開になり、一気に散ってしまいましたな(雨風を影響もあったけど)。まだいくぶん花が残った木もあるけれど、人々もすでに花見気分が終わったみたいに見えます。

 風の『ささやかなこの人生』に、花びらが散った後の 桜がとてもつめたくされるように…とありますが、こうなると人々はもう桜なんかに見向きもしません(夏には毛虫がたくさんいたりするから、見たくないのもわからないわけではないけど)。桜が注目を集めるには、もう一年待たなければならないのです。

 人々から注目される時期ってのは、このように短いもので、一度時期を逃してしまえば、また長い間待たなくてはなりません。(鳥はサクランボ…ソメイヨシノでも、小さなサクランボができます。食べるととても渋くて不味いです。私は鳥と競争して食べたことがありますから、知っています。いわゆる「口が曲がる」ような苦さで、小鳥はよくもまあこんな苦いものを食べるもんだと感心いたしました…や、桜の木に湧いた毛虫を食べたりするようですが)いつまでも花が咲いたままだと、桜の木もしんどいのかもしれませんけどね。

 さて(私にとっての)花粉の季節も、例年通りならば、あと3週間というところでしょうか。数年前までだったら、GWには国外逃亡をして花粉がないところに行き、帰国したら花粉症は治っていたというパターンだったのですが、ここ数年は私の生活パターンが変わったので、GWのどのあたりまで花粉症で苦しむかがわかってきました。

 昨年の私は、特に花粉症がひどかったので、GWが終わっても、しばらくはグスグスやってました(もっとも最後のほうは、ほとんど花粉というよりは黄砂でしたが…ちなみに現在の症状も、花粉:黄砂=4:6くらいの割合ではないかと思います)。ま、今年はてきぱきと所用を片付けて暇を作り、釣り糸を垂れてみようかと考えていますので、ミサイルなんか飛ばしちゃいかんぞ!と思ってます。

 個人的な欲望のために、何億人という人間の生活に、悪影響を与えてはなりません。どんなに高尚な理屈を唱えても、個人個人の幸せという観点からみれば、ただの「屁理屈」でしかありません。いろんな哲学書を読んで、すごく深い思索に感心することがありますが、それでも人間個人個人の幸福という観点から見れば、「取るに足りないモノ」に過ぎませんからね。

 そういった意味でも楊朱の思想は面白いです。楊朱自身の著書は残されておらず、ほかの思想書から彼の考えを垣間見ることしかできませんが、戦国時代前期~中期?という動乱の時代で、個人の権利、個人の幸福を唱えた、まれにみる思想なのではないかと、私は感心しております。(もちろん当時の社会情勢には適合せず、楊朱の思想は消えていき、さらにはあの国が得意とする「尾ひれ」を盛大につけた改ざんによって、「超利己主義」の汚名を着せられていますが)

 人間、ほどほどに生きるのが、もしかしたら本当の幸せかもしれませんよね。人よりも美食をしたところで、どうせ胃袋以上には食べられないし(フードファイターは別ですが、あの人たちだって、「食べることを楽しんでいる」とは思えませんし)、食べて食べてどんどん太れば、健康上で様々な問題が起こるばかりです。何事でも「出る杭は打たれる。出た腹は邪魔になる。食べすぎには胃薬が必要になる」ってことです。

 分不相応に出すぎようとすれば、花火を打ち上げたりしなくちゃなりませんからね。ただの花火なら、人を楽しませてくれるんですが、厄介な花火は、迷惑にしかなりませんから。

 そして人に迷惑をかければ、かならず恨まれます。恨まれてちゃ、幸せになんか、絶対になれっこないですよ。

 

2017年4月15日 (土)

やさしさは時として……

 いやあ、朝から何なんだ、この天気は。朝立ち(別の意味にとらないように…笑)、昼立ち、夕立と、雷雨の波状攻撃だ。冗談ではない。春の天気ではないだろうが! 朝起きた時に、積乱雲になりそこないの雲が、えらい勢いで東に移動していたから、まったく予想できなかったわけではないけどね。

 昨夜、ちょっと吹き出したことがある。産〇だかどこだかのカメラマンさんが、某野党第▽党の代表さんを撮影したのを見てしまったからだ。教えて。誰にガン飛ばしてるの? 表に出る人が、あまり人に見せる顔じゃないよね。「外面如菩薩 内心如夜叉」って言葉があるけれど、これじゃあ「外面如夜叉 内心如腐豚」って言われかねないよ。

 怒った顔はしてもいい。誰だって感情はあるし、場合によっては、本当はたいして怒っていなくても、怒りを演技しなければならない時だってあるだろう。でも「ガン飛ばし」は恥ずかしいよ。もっとも私も昔、本来はこんな表情なんかしてはいけない立場の人から、ガンを飛ばされたことがある。しかも晴れやかなはずのセレモニーの席で。

 ちなみにその人はその後、順調に出世するかと思われていたのだが、見事にそこでストップしてしまって、出世しなかったなあ。今でも生きているのかしら?(別に私が報復したわけじゃない。私は今も昔も、そんなバカを相手にするほど暇人ではない) やっぱ、この本性が人にバレてたんだね~、きっと。

 誰かを憎々しげに見るという行為は、感情を素直に表しているわけで(素直すぎる?)、当然相手にも悪感情を持たれる。だから、あまり人の上に立つ人や、団体を代表する人は、やらないほうがいい。(その人が敵に回した人が、団体の、その人以外の人にも向けられることがあるからだ。周囲にいる人にとっては「いい迷惑」なんだよね)

 ま、こういう顔をしないと、自分が相手に侮られるのではないか、自分は恐ろしい存在なんだよと、どうしても誇示しなくては気が済まない人もいるらしい。確かに、ある一定水準に達していない人には、「優しさ=弱さ」だと受け取る人がいないわけではない。

 でもねえ、かのフィリップ・マーロウも言っているように、「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(男はタフでなければ生きてゆけない。優しくなければ、生きている値打ちがない という素晴らしい名訳が有名ですね。カッコいい!)」なので、タフさと優しさの両方を兼ね備えていなければならないんですな(あくまで理想かもしれませんが)。

 本当に優しくなろうと思えば、タフでなければ、自分の限界が来たところで、やさしさもへったくれもなくなっちゃうもんね。タフさの裏付けがない優しさなんて、砂上の楼閣のようなもので、いつ崩れるかわかったもんじゃない。

 さらに言えば、やさしさってのは、それを受け取る側にも、一定の資格が必要なのではないだろうか。自分がいつも優しくされたり、親切にされたり、援助されたりするのが当たり前と考えているものに、果たしてやさしさや親切は理解できるのだろうか。やさしさや親切を表現するために、その人が犠牲にしているものに考えを及ぼすことはできるのだろうか。

 残念なことに、誰かから優しくされるのが当たり前と思っている人は、そのやさしさの裏付けがどれほどのものかを知ることが少ない。昔「親にならないと親の心はわからない」と言われたことがある(まだなってませんけど)。これは親の愛情がどれほどの自己犠牲の上に成り立っているかを言いたかった言葉ではないかと思う。

 これがわからなければ、他者のやさしさにどこまでも甘え、それが当たり前になる。こうなると完全に「タカリ」なのだが、そんなことには気が付かない。タカリは行き過ぎると犯罪なんだけどねえ。

 昔、儒学という哲学だかなんだかわからないものができて、この人たちの中にはあまり労働を重視しないものがあった。そのため秦では無視され(焚書坑儒と言われていますが、焚書はあったものの、坑儒は実際には行われておらず、司馬遷のねつ造ではないかという説があります。私もこの説に賛成しています。理由は坑儒の後も、あまりにも多くの儒家が活動しているから。殺されてちゃ、活動はできません)、前漢の劉邦には「腐儒者」と呼ばれていました。

 なぜかというと、自ら「生産」することができなかったんですね(もともと儒学を始めた孔子にしても、遊んで暮らせる貴族階級に対して話をしているだけで、庶民の生き方は非難することはあっても、ああすべき、こうすべきは述べていません。つまりものを生産する庶民なんか、最初っから相手にしていない教えが儒学なのです)、建設的なものを。

 儒学というものは不思議なもので、乱れた世を治める上では無力です(孔子をはじめ、ほとんどのケースで失敗しているはずです)。また世の中が乱れそうなときに、これを抑制することもできません(前漢末期の儒家の誰一人として、行動を起こしていません。王莽に簒奪されそうになっても、儒家がやったことといえば保身だけです。前漢末期って、皇帝がどうにもならないほど無能だったわけではないんですよ。要するに皇帝の周囲にたむろする連中が無能だっただけで)。

 では彼らはどのようにして生計を立てていたのでしょうか。額に汗することもなく、美辞麗句を並べ立て、わけのわからない礼儀や作法ばかりを主張し、本質から見ればどうでもよさそうなことを、「ああでもない」「こうでもない」と論じるだけで、他人が汗と泥にまみれながら生産したものを、当たり前のように取り上げ、食べていたのです。

 こういうのが当たり前になると、すでにそれは「やさしさ」からはるかに遠ざかり、誰かから貢いでもらうのが当たり前になってしまっているのですね。世の中に(あるいは世界に)大した貢献もしていないのに、他人の献身を当たり前と思い始めたら、もうこんな存在には献身を受ける資格はありません。

 儒学に優れた教えがあるのは認めますが、大変な欠点(時に致命的)があることも、同時に知っておかなければなりません。盲信が一番よくないのではないかと思います。

「やさしさ」だって似たようなものなんですね。受け取る側にも、それなりの資格が必要です。そして誰かがやさしいからと言って、その人が弱いから、人にやさしく振舞っているとしか考えられないような人には、人からも優しくされる資格はありません。

 こういう人は往々にして、「自分は強いんだ」と見せかけるために、いろいろなことをやるんですね。その中でも「怖い顔をする」なんてのは、お金がかかりませんから、一番手軽です。怖い道具や武器を手に入れるのは、お金がかかりますが、武器は一つ間違えると自分を滅ぼすもととなりますから、大変に危ないものです。

 子供のころにはなかなかこういったことがわからない場合もあるでしょうが、大人になったら「常識」としてわきまえていないと、大変なことになりかねません。ま、私はできるだけ、「君子危うきに近寄らず」でいたいですけどね。

 さて、これから呑みに行くぞ~っ!

2017年4月14日 (金)

無害化

 やれやれ、なんとなく気ぜわしい一日だった。今のところ、自分としてやらなければならない仕事以外は、すべてやったので、ほっとPCの前に座り込んだ瞬間、モスキート音がする。最近の蚊は一年のうち何か月活動するのだろうか。

 実は先日、すでに今年の最初の撃墜を記録している(とはいえ、半殺しの状態で捕まえた)。私の蚊に対する憎しみは、そりゃあもう強い。で、せっかく生きたまま捕らえたので、嘴を半分の長さにしてあげました(これはこれで、なかなか細心の注意と、道具が必要になる)。たぶんもう人の血は吸えないと思うので、無害化に成功した(生命は奪っていない)。

 我が家には鼠がおりまして、これが何を思ったか、私が寝る時刻になると暴れてくれていた。昨年の秋のことだ。実は私は「寝る」ことが大好きであって、安眠を妨害するものは、私の安全を脅かすものと認識する。で早速HCに走って、鼠を捕まえるトラップ(かご状のやつ)を購入、これをしかけて待った。

 すると見事に、ドブネズミかと思うほどの巨大イエネズミが捕まった。私はたいていの生き物は殺すのが嫌なので、遠島を命じようと思ったのだが、運悪くこの日は他県にお呼ばれしていた。帰宅後遠島を命じようと思っていたが、残念なことに帰宅が遅くなって、見たら死んでいた。殺す気はなかったんだけどね。

 それから1か月ほど後かな、またしてもトラップにかかったバカ鼠がいた。この日は夕方には遠島にできたので、この鼠は、人家が見えないところで、(運が良ければ。なにしろ自然界は生存競争が激しい)生き延びているかもしれない。基本私は殺戮を好まない。ただし無害化することには熱心だ。

 だから我が家では、私の生活に害さえなければ、そのまま放置される。その生き物が生存できるかできないかは(我が家の庭にも、当然のことながら生存競争はあるので)、その生き物の能力と運次第ということになる。

(※ ほい、さきほどモスキート音を聞かせてくれた蚊を捉えました。さっそく嘴を半分の長さに切って、放免してあげよう。まだ立派に生きてるし。この季節に人間様の血を吸おうなんて、身の程知らずにもほどがある。…反射神経を鍛えるのに、恰好の相手です… でも殺さないよ、私は。…犬猫や鳥にしてはいけませんよ。社会問題になります。ちなみに私は、基本、犬猫には好かれるたちだし、四十数匹も育てている。鳥とは我が家では、現時点では共生している…夏になると、作物に害があると思うので、防鳥ネットをセットするつもりである。可能な限り相手を傷つけないのが、現在の私の基本方針だ)

 それでもこちらの温情に甘えるように、どうしても危害を加えなきゃ気が済まない存在に対しては、これはもう徹底的に戦う。そこはそれ「臭いにおいは元から絶たなきゃダメ」という、何だったかのキャッチコピーそのままである。

 臭いものにいくら消臭剤をかけても、結局は臭いにおいよりももっと強烈な何かを空気中に散布しているだけだったりするし、本来臭いものが臭くなくなるってことは、不自然なことが起こっている証拠だ。不自然は、積もり積もると、必ず悪影響が出る。まして匂いもしなければ、何が起こっているかさえこちらにはわからない。

 なので臭いものは、臭いから意味があると考え、その臭さが嫌ならば、においだけではなく、においのもとを消去するしかないと考える。それも可能な限り早いほうがいい。臭さだって、結局は臭いと感じる微粒子が空気中に存在するから臭いと感じるわけで、長時間おけば置くほど、空気中の臭み粒子が増えちゃうからである。

 臭いにおいを発生する物が、自発的に消えていくのなら、その自主性にまかせるが、いつまでたっても臭さをまき散らしたり、その臭さがひどくなっていくようだったら、取り返しがつかないほど臭くなる前に、可能な限り早く「元から絶つ」。これが絶対的な原則です。

 自分さえ臭さを我慢していれば、などと甘いことを考えていると、結局は自分以外の人にもその臭いにおいを嗅がせることになって、不快にしてしまう。そうなっては、その人に対して申し訳ない。人を不快にしないように気配りをすることは「礼」の基本であり、思いやりにつながる。

 ただ面白いことに、臭いにおいを出そう、出し続けようと思っているもののそばにも、もしかすると周囲の状況を「忖度」して、臭いにおいを出し続けさせまいとする力が働くことも、まったくないわけじゃないけど。だって臭い匂いを出しているもののそばにいたら、自分の臭いにおいを出していると思われてしまう。それを嫌だと感じている存在が、いないとも限らないからね。

 今日の新聞だかなんだかで読んだ気がするが、幼いころ、悪いことをしたり、規則を破ったり、人が嫌がることをすることを英雄視したりする場合(時期?)がある人もいる。成長するにつれて次第に常識が身に付き、やっちゃいけないことは、やっちゃいけないということが分かるようになれば、子供のころの悪ガキが、実はいい大人になったりする(こういう人、私は好きですね~。正義しか知らない人って、わりと面白みがなかったりするけど、悪さもやったことがある人って、結構魅力的な人がいるんだよ。そのために幼い頃、悪さをする人がいるのかな?なんて思うくらいだ)。

 これは大変に結構なことなのだが、いつまでたってもやっちゃいけないことがわかんないままの人もいる。これはもうしょうがないね。大人になって、何らかの責任を負わなければならない立場になったら、きちんとしてもらうしかないんだから。きちんとできなければ、それなりの苦境に立たされるのも、仕方がない。自分で選んだ人生なんだもの。ましてや他の人が迷惑を被るようなケースだったら、他の人にはその迷惑を避ける権利があるはずだからね。(その権利をどのように行使するかは、迷惑を被る側が決めること)

 

 臭いにおいは元から絶たなきゃダメ。残念なことに今日の私は、ほとんど嗅覚が死んでいて、ほとんど匂わないんですが。明日には少しはよくなるかなあ。

 だって明日は15日。特別な日でございます(別の意味で、特別な日とみるむきもあるようだが)。楽しく飲み、かつ語るには、ひどい鼻づまりはよくありません。鼻が詰まると、脳みそが回転していない気がします。

 鼻は詰まってましたが、花吹雪が見事な一日でした。

※ 今月の『○○を語る会』は、明日の15日でございます。よろしくお願いいたします。ずうっと寝ないでいようかな?なにしろ特別な日らしいので。

2017年4月13日 (木)

金〇脱皮の計(金蝉脱殻の計??)

 風は強く、桜の花びらはどんどん散っていくが、相変わらずの花粉でございます。これさえなきゃ、いい風情なんだけどねえ。ま、杉にしても子孫を繁栄させなきゃならないので、花粉を飛ばさないわけにはいかないだろうし、いったい誰が悪いんだろうねえ。

 ちなみに私は、悪ガキの頃には、どんなに杉の花粉が多そうなところでも、何の症状も現れなかった。やっぱり「何か」が変わっている。それはもしかしたら、私の身体かもしれないのだが。

 子供のころはサルだった。とにかく木を見れば登りたがった。親父はそんな私を見て、「お前はサルか?」と、しょっちゅう小言を言った。時には拳骨ももらった。今では私もすっかり体重が増えてしまって、子供のころに登れたはずの木が、まったく登れそうにない。

 登れた頃には、登る道筋が見えた。あの枝に右手をかけて、ここに左手を置いて、足をこうひきつけて…なんて具合に。もちろんその頃はそんなことなど考えず、ただ自然に登っていた。今はその道が見えなくなっているということは、身体が動かなくなっているのだろう。

 肉体は賢いからね。自分の持っている能力によって、自分が通れる道を教えてくれる。だから登れなくなると、見えていたはずの道が、見えなくなる。それはもうすでに、それができなくなっているということだ。

 だから能力的に優れた人には、たくさんの道が見える。一つの道がなんらかの理由で通れなくなったとしても、別の道がいくらでもあったりする。こういう人には「余裕」がある。どうにでもできるからだ。

 逆に能力が劣った人には、道はなかったり、あったとしても限られている。限られているということは、それを封じ込められてしまえば、既に選択肢はないということだ。選択肢がなくなれば、ギブするしかない。

 問題はギブするときに、どういったギブの仕方があるかということだ。「わかった! 私が悪かった。謝る」と素直に諦めれば、相手が人間だったら、もしかしたら寛大な処置があるかもしれない。相手が大自然だったら、人間の謝罪なんか認めてくれないから、もう何がなんでも頑張りぬくしかない。結果がどうであろうと、自分の持った能力を全部発揮してもがくか、快川和尚のように「心頭滅却すれば火もまた涼し(この時は、相手は織田軍だったんだけどね。でも勝頼さんをかばっていたら、こういう選択肢しか残されていなかったのだろう、きっと)」と、従容として死を受け入れるかしかない。大自然は怖い(経験者?は語る…)。

 相手が人間であった場合には、大自然とは異なり、いろんな駆け引きが可能だ。例えばメンツを重んじる場合だと、諦めたふりをして一瞬の隙を見つけ、一気に逃げるとか、全滅覚悟の徹底抗戦を命じておいて、自分だけはひそかに逃げるとか、漢の劉邦が項羽に対してやったように、替え玉(影武者)に降伏させておいて、自分は逃げる(トカゲの尻尾と原理的には同じですね)など、いろんな対処法がある。

 そこに自分がいるように見せかけておいて、実はちゃっかりと脱出しているのを、『兵法三十六計』では第21計「金蝉脱殻」の計と呼ぶ。セミの幼虫は、地中で数年過ごした後、だいたいは夜間に出てきて、木に登り(我が家には玄関の上に、昨年夏のがありますが)、明け方数時間かけて脱皮し、羽がしっかりと伸びきったら、どこかへ飛んでいく。

 おそらくは昔の人は、このセミの抜け殻を見て、「おっと、見いつけた!」と捕まえたら、仲がすっからかんだった経験から、この計の名前を思いついたのではないだろうか。(我が家なんか木が多いので、いくらでもありますけどね、セミの抜け殻なんか。私が子供のころは圧倒的にニイニイゼミが多かったのに、最近では全部クマゼミだ。クマゼミは亜熱帯性のセミなので、やっぱり温暖化なのかなあ、などと思ってしまう。最近じゃ、もう少ししたら氷河期が来るなんていう説もあるけれど)

 でこの金蝉脱殻の計を成功させるには、絶対に守らなければならない大原則がある。それは「気配を見せないこと」なんですな。それまでやっていたことを変更したりすると、「何故変更したのか?」なんて相手に疑わせてしまいますからね。疑われると、この計に対処されることがありますから、たいていは脱殻の段階で失敗する。

 だから平静を装うことは重要ですね。もう一つ方法があります。圧倒的に小勢で劣勢なのに、やたらと攻勢に出たとき。これは退くための最大の好機ですね。小勢の攻勢は長期にわたって継続することは困難です(万一継続したら、そのための仕掛けがあるはずです)。それでも敢えて攻勢に出るということは、有利な条件での講和を狙っているか、金蝉脱殻のチャンスを作ろうとしていることが多いと考えられます。

 一般的にはどんな人でも、死ぬよりは生きているほうがいいですから、なんとかして生き延びる方策を考えるものです。杉だって子孫繁栄のためには、大量の花粉をまき散らすのですから(風媒花は、必ず自分の花粉が、目的としためしべにたどり着けるという保証がないので、やたらとたくさんまき散らすんですね)、人間がお頭を使うのは当たり前です。

 で、金蝉脱殻を相手にさせようと思えば、それは強烈な圧力をかけ続けながらも、退路を断たないことですね。『孫氏の兵法・九変』でいう「囲師必闕、窮寇勿迫(囲師には必ず闕き、窮寇には迫るなかれ)」という奴です。相手をぎゅうぎゅうの目に遭わせてしまえば、相手は無茶をすることがありますからね。

 逃げ場とか、好条件での講和のチャンスをちらつかせれば、人はそちらに食いつきます。ただし現代では『孫氏の兵法』なんて誰でも知っていますから、簡単にはいきません。そこはそれ、意地と意地がぶつかり合う、チキンレースもあるわけで。

 ましてや争いあっている者同士での単純な戦いでなく、その裏で糸を引いている存在があったりしたら、問題はさらに厄介です。なぜかというろ、裏に黒幕がいたら、その黒幕が窮地に陥らない限り、平気で自分が操っているものを切り捨てることだってありうるからです。(逆に言えば、黒幕をとっちめれば、それで大きな部分が片付くことも。問題はそう簡単ではないでしょうけどね)

 ま、それでも相手に金蝉脱殻させようとしたら、やっぱり鞭だけでは難しいですね。飴がないと。だって昆虫の蝉とは異なり、人間の場合には脱殻するってことは、今の環境のすべてが変わりかねないってことでもあるんですからね。(私なら、それまでのしがらみを捨てて、自由に飛べる生活を選びますが、それでも蝉は一週間しか生きられないしねえ…)

※ 今月の『○○を語る会』は明後日、15日の第三土曜日でございます。よろしくお願いいたします。

2017年4月12日 (水)

患いあれば備えなし?

 昨日までの雨は「花散らし」だったみたいですね。満開を2~3日楽しめるかなと思っていたんだけど、雨が上がって(今日の午後は、花粉さえなければ、いい天気だった)みると、あらあら、そろそろ葉っぱが目立つ。

 葉っぱが出始めたら、花はわずかのことでも散っていくから、これからの楽しみは「花吹雪」かな。この花吹雪というやつ、実際にこの目で見ていると、なんとも風情があるのだが(毎年言っているように、ユーミンの『花紀行』という曲がよく似合う。ほんとにこの人の楽曲は、風景が目に浮かぶ気がしますね)、これを撮影しようとすると、なかなか満足できる写真が撮れない。

 花びらはあまりに小さいんだね、客観的に見ると。人間の目は、注目しているものを実際よりも大きく見てしまうので、こういう現象が起こるんだろう。人間の感覚は感情と直結しているので、こんな芸当ができるんだろうね。

Img336

Img337だいぶ頑張った(2015年の話ですが)んですが、私には、この程度の写真しか撮影できませんでした(泪)。

 さてさて、人が関心を持つことと言ったら様々だが、極限状態になったら、やはり自分が生存することだろう。自分が生きていなけりゃ、この世界なんて(自分にとっては)ないのと同じだもんね(自分にとって、「自分よりも大切な存在」がある人は、その存在を守るために、生命を捨てるかも知れないけどね)。

 生きていくうえで最も大切なのは、自分に危害を加える存在がないことだろう。自分が何モノからも、何事からも危害を加えられないと確信できるとき、人は安心いたします。自分を絶対に守ってくれる存在に抱かれているときは、ちょうどお母さんに抱かれた嬰児のように、安心しきることができるんですね。

 ところが現実の社会はなかなかこういう状態ではありません。人間、生きていれば必ず、何らかの危険に遭遇する可能性があります。外を歩けば、車と衝突するかも知れないし、ややこしい事件に巻き込まれることだってあるかも知れません。 

 ではそんな危険から逃れようと建物から出ないようにしても、こんどは建物の中で何かが起こるかも知れませんし、建物自体が崩壊するかもしれない。なにしろ人間が作ったものですから、どんな小さなミスが大事故を引き起こすかわかりません。

 ではもっと頑丈な地下に入れば安全だろうと思っても、今度は地下道が崩れて埋まってしまうかも知れませんし、それを完璧にしたと思っても、今度は小惑星が地球に衝突するかも知れません。

 六千数百万年前、この地上を跋扈していた恐竜だって、敵に食われる心配はしたかも知れませんが、まさか小惑星が地球にぶつかるなどとは思っていなかったでしょう。まったく、いつ、どこで、何が起こるかわからないのがこの世界であり、我々の一生でございます。

 考えてみると、地球上に安全なところなんてないなあ、などと思ってしまいますが、もうこうなると知識があればあるほど、いろんな危険の可能性を考えてしまって、どんどん不幸になっていくような気がしませんか。

 お母さんの胸に抱かれた嬰児のように、大したことを知らなければ、お母さんの胸が世界で一番安全なところと信じていられるんですがねえ。(そのかわり、お母さんが、危険に遭遇しないように気を使わなければならないんですけどね)

 ところが知識がついて危険を想像できるはずの能力が養成できても、今ある幸せが壊されたくないとしがみつくタイプの人は、「危険などに遭遇するはずがない」と思い込むことを始めます。こうなると一種の自己催眠状態ですが、ある意味幸せではあります。危険を危険と認識しなければ、幸運にも目の前にあった危険に触れずにすめば、やっぱり危険なことなんてあるはずがないと思い続けることができますからね。

 運悪く危険にぶつかってしまったら、「そんなバカな。俺がこんな目に遭うはずがない。これは何かの間違いだ」と、その危険が自分以外のもののせいで起こったことにできますから、自分のせいではなく他者のせいと、すべてを他人の責任に転嫁することができます。不幸は不幸だけど、自分が危険を回避しようとしなかったという後悔には苦しめられずにすみますね。

 幸運に恵まれて成功したことは、すべて自分の実力、幸運に恵まれないで、見事に失敗してしまえば、すべては他者あるいは運が悪かったと運のせい。これは非常にハッピーでいることができる、物事の考え方です。もちろんこんな人には、リスクマネジメントなんかは任せられませんけどね。だってリスクを想定できないんだから、被害を最小限度にとどめるなんて芸当ができるはずがございませんもん。

 でも自分は幸せでいられるから、いいかも。リスクマネジメントのためには「備えあれば患いなし」という考え方が最も基本になると思うんだけれど、自分が幸せでいさえすればそれでいいなんて考えると、備えることよりはその時を楽しく生きることがすべてになりますね。だからその時を楽しくするために、あらゆる手段を講じます。もちろん自分さえ楽しければいいと思えば、他人の迷惑なんて考える必要はありません。

 でも現実に楽しい目に遭おうと思ったら、やっぱりこつこつと努力を積み重ねていなかければなりませんし、「真珠を得んと欲するものは、より深く潜らなければなりません」から、しんどい目にも遭わなければなりません。これって、けっこう楽しくはないんだよね。

 苦労して自分を高めないで、人よりも幸せになったり楽しくなろうとすれば、一番簡単なのは、他者を貶めることです。何故簡単かと言えば、人間を相手にすれば、誰でも絶対に一つや二つ、欠点もあれば弱点もあるからです。

 で、こつこつ努力をする存在を貶めてしまえば、頑張ったりしなくても、自分の方が相手よりも高い(貴い?)と勘違い?することはできます。これが一番手っ取り早く「幸せ」を感じられる方法ですね。

 こういう存在は幸せですから、危険なんて察知しません。いつだって「自分が好きなように、我が道を行く(カッコイイっ!)」だけでいいことになります。家の外で暴風雨が荒れていて、今にも家が壊れてしまいそうでも、気にしなければけっこう幸せでいられます。本来の患いも、気にしなければ、それに対する備えに苦労することはありませんからね。

 ですから患いあっても(気にせず、あるいはあえて知らず、知ろうともせず、あるいは認めようともせず)備えをしなければ、幸せなままでいられるのです。……ただ暴風雨で家が壊れてしまうまでは。

 家が壊れて、突然現実と直面しなければならなくなっても、それはそれで、家を作った人が壊れないように作らなかったのが悪いだけだし、暴風雨が発生したのが悪いのですから、気にしても仕方がないんですよね。

 でも家を作ったのは人間で、人間のやることですから、絶対に100%はありません。暴風雨だって、これは人間が発生させようたって、そんなに簡単に発生させられるものではありませんし、一度発生してしまったら、人間の力ではなかなか消滅させることはできません。

 家は補強したり、修繕したりすれば、もしかしたら暴風雨に耐えられたかも知れないんですが(知らせても、補強も修繕もしないと思うよ。それなりにしんどいことで、楽はできないから)、誰もそれを教えてくれなかったと考えれば、やっぱり自分はハッピー?でいられますよね。

 ずっとハッピッピーで居続ける秘訣は、患いがあっても備えをしないことなのです。

 なんて恐ろしいことは、私にはとてもできませんが、自分の実生活を振り返ると、ずいぶん備えがいい加減になっていることに気づきます。世の中「人の振り見て我が振り直せ」という言葉がありますが、本当にその通りだと思いますね。

※ 今月の『○○を語る会』は、15日、今週の土曜日でございます。よろしく!

2017年4月11日 (火)

雑草の趁火打劫(ちんかだきょう)

 なにはともあれ、まず最初に、浅田真央選手、お疲れさまでした。どんな名選手にも、必ず引退の時はきます。大変に残念な思いがありますが、これからの人生も頑張ってください。私は、間違いなく世界一のスケーターだったと思いますよ。(疑惑の判定の犠牲?)

 ということで、今日も天気がぐずついた。夕方になって、少し止んだので、その間に、ささっと屋外の用事をすませた。ほっと一息ついていると、またしても雨が落ちだした。今は止んでいるみたいだけど、菜種梅雨とはよく言ったものだ。

 もう少ししたら筍のシーズンです。私は筍が大好物なんだけど、なにせ一人暮らしなので、ひいてきても(筍を取ることを、私のいる地方では「ひく」と申します。取る時引いたりはしないんだけどね)、1本や2本だったら、アク抜きするだけ面倒くさい。一人暮らしは、自分が我慢できればいいので、「面倒くさい」病が次第に重症になっていきます。最終的には、呼吸するのが面倒になると、晴れてこの世からオサラバです。

「雨後の筍」という言葉がございますが、今のところ我が家では「雨後の雑草」状態で、雨だからと少し気を緩めると、あっという間に雑草まみれになってしまいます。近所を見ても、みなさんよく庭の手入れをされているなあと感心いたします。

 こまめに手入れをする人がいなかったら、雑草という奴はかなり厚かましいので、気が付いた時にはすでに手遅れになっていることも少なくありません。こうなると私の得意技、「冬を待て」になってしまうのですが、冬になっても単子葉類の中には、巨大な株になっているのもあって、これを除去するのは一苦労だし、さらに面倒いのは、種子がくっつくことがあるんですね。

 他者にくっついて己の種子を広い範囲に運ばせるのは、ある種の植物の生き残るすべです。植物は動物のように移動できませんから、根が生えていない種子の頃に、移動を完了しておくケースが多いのです。ですが、私が雑草の種子をばらまく「パシリ」にされるのは、真っ平ごめんでございます。

 草丈が高くならないうちに、早め早めに除去していくのが、雑草との一番賢い付き合い方ではないかと思いますが、それにはやはり「こまめな庭の手入れ」が大切です。でもなあ、なかなか「こまめ」にはできないんだよなあ。

 何故か? 理由は簡単なのです。庭に対する愛情が足りないから。いや、愛情はあります。ですが、庭よりも強い愛情を抱いているものがたくさんあるので、どうしても後回しにされてしまうんですよね。雑用がもう少し減ったら、庭の世話に取り掛かれるかもしれませんが、なにしろ一人暮らしは手足が二本ずつ、胴体なんか一つしかありませんからねえ……

 よくよく考えてみると、日本は災害が多い国ですよね。でもきわめて短期間のうちに、復興させてしまうことが多いように思います。きっとその土地に対する愛着(愛情)が強いんだろうなあ。大変な大災害に遭って非難していても、「いつか必ず、あそこ(故郷?)に戻る」と仰る方が多いように思いますね。

 愛着が強ければ、荒れ果てたままでは放っておけなくなります。だから私は、災害の多い日本でも、その都度不死鳥のように蘇ることができるのは、人が郷土や国土を愛しているからではないかと思いますね。(しばらくは帰れないような大災害に遭遇してすら、それでも「いつかはあそこへ帰るんだ」と仰る方が少なくないようですし)

 だいたい、国民が自国を愛さなければ、自国は大切にされません。大切にされなければ国家も国土も荒れてしまいます。これは家でも同じですよね。人がいなくなった家って、あっという間にボロボロになって朽ち果てていきますもん。大して手入れしていなくても、人が住んでさえいれば、家は結構もつものです。

 だから自分の家を大切に考えていれば、自分の家を放置したままでいることはないでしょうし、庭だって…(キーを打っていながら、我が心が痛むけど)。ただなあ、庭には雑草という、常に人の領域を侵略してやろうと狙う強敵がおりますからな。

 気を緩めたら、あっと言う間に領土を取られちゃいますね。雑草の「趁火打劫(ちんかだきょう:『兵法三十六計の第五計』」:火事につけこんで劫を働く。要するに火事場泥棒ですな)でございます。今、何やら東アジアはきな臭いので、こういうことをたくらむ存在がいないとは言えません。守りはいつも以上に堅くして、こまめに手入れしておかないと)

 故郷とか故国とか、我が家の一大事ならば、たいていの人は気が気ではないし、できる限り早く帰って、支える力になりたいものですよね。私なんか一人暮らしでも、我が家(純粋に家屋敷と庭しかないですが)に飛んで帰りますよ(翼はないけど)。それに、自分の家や郷土、国に愛着のない人が、素晴らしい家や郷土、国にできるわけないじゃないですか。

 でもねえ、私の場合は、家に帰ると、物事の大切さに整理券を配って、まずは自分が一番やりたいことに取っかかってしまうんで、庭の手入れとか掃除とかは後回しにされてしまうんですよ。こんなことではいかん、と思うのですが、やりたいことがたくさんあってね。でも家や郷土や国を捨てるわけじゃない。どうしても、ってときは動きますよ、断固として(その結果、昨年は庭に練習場ができた…完成には程遠いですけど。BBQもできるようにした…完成には程遠いですけど)。

 ま、それにしても大手マスコミは、とんでもないことにはできるだけ触らないようにいたしますね。でも実は、ニュースなんかで知らせないことが、本当は大切なことが多いって、もう知る年になってしまったからね。そしてだいたい「手遅れ?」なんじゃないかと思える頃に知らされても、あまりニュースとして有意義だとは思えないんだけどね。

 予言ってのがあるじゃない。的中率が大変高い予言者がほんとうに世の中に必要なのかというと、必ずしもそうではないんだよね。将来起こり得る危険を正確に予言し、それを信じた人々が、その危険を回避するように行動すれば、結果としてその予言は外れるよね。だから的中率は高くならない。でも人間の社会に対する貢献は、大変に大きいでしょ。

 だから今の東アジアの情勢だって、大局も気にはしていないといけないんじゃないかと思いますね。人は生き延びなければ、将来が消えてしまいますから。ただ浮き足立てば、なかった危険さえ発生するだけなので、冷静に情報を入れ、判断し、行動できるようにしていれば。…まずは「生きろ!」ですよ。

 歴史は教えてくれます。「内政に不安を抱えた為政者は、民衆の目を外に向けたがる」と。今も昔も、そんなに変わらない事実ですね。

※ 今月の『○○を語る会』は、15日の第三土曜日でございます。よろしく!

2017年4月10日 (月)

面子……・2

 なんとか昼じゅうは天気がもちましたな。お蔭で、屋外で今日しなければならないことは、だいたい片付きました。ありがとう…… (いろんなものに感謝している)今はかなり風が出ている岡山の県南でございます。

 で、食事中はゆっくりと番茶を楽しんで(私は食事中は日本茶です。幸いなことに岡山には、そこそこ美味しい番茶の産地があるので…一番美味しかった番茶は、製作しているお爺さんが止めちゃったので、もう手に入りませんが、美作番茶です。生産量がさほど多くなさそうなので、全国的にはあまり有名ではないかも。巨瀬町というところで作ってました…あ、今普通に売っているのは緑茶かも…)、食後はコーヒー、仕事中、練習中は中国茶というのが、だいたいのお茶パターンです。味を変えると、その都度、雰囲気も感覚も変わるし……

 もちろんこのパターンを守るのに、自分の面子をかけたりはいたしません。要するに水分補給とか、食べ物が喉につっかえないとかの目的にさえ適えばいいのです。つまらないことに面子をかけるほど、暇ではありません。ただやっていることが変わるときには、一種のケジメとしての、「儀式」的な側面もあるので、だいだいこんなパターンでやるんですね。朝起きたら歯磨きするような感覚ですか(私は寝る前の歯磨きを最も重視しておりますが。睡眠に入る前に、口内細菌を減らしておきたいので)。

 それでもつまらない面子に拘る人もいるようで、例えば遥か昔、私がある競技会のまとめ役(ついでに申し込み受け付け係)をやっていた時の話です。競技会ですからプログラムを作りますよね。

 プログラムに乗った役員さんの名前なんかだと、名前とか役職とかが間違っていなけりゃいいじゃないですか。でも世の中には、「なんでワシの名前があいつの名前より後ろにあるんだ?」系のクレームがつくことがあって、ずいぶん気を使ったことがございました。こんなクレームは、だいたいお年寄りの人が多かったですけどねえ(お年寄りの方のすべてがそうだったわけではありません。たいていの人はニコニコとされてましたけどね。注意に来られても「いいよ、いいよ。次から気をつければいいんだから」なんてね)

 そのつど、心の中では「あ~、めんどくさ!」とか思いながらも、「それは失礼いたしました。次からこのようなことがないように気をつけます」なんて、下げたくもない頭を下げておりましたっけねえ。こんな時にこちらが、自分の面子を気にして(「俺のやったことにケチをつけるのか」ってな感じで)文句でも言おうものなら、あちらは逆上してしまいますから、面子など気にもしないで、ただただ「このクソ面倒な爺い、さっさと引っ込め!」とだけを考えていましたな。(ほとんど喉から拳が突出しそうな時もありましたよ。っと、これやっちゃうと形意拳か…笑)

 ある時、自分の身内のミスを、こちらのミスだと思い込んでクレームをつけてきた爺さんがいました。自分のところを通さなければならないことが、自分が知らないうちに済んでいたとかでしたなあ。

 私は一応平身低頭で、「いや、若い人のやっていることなんで、ミスがあったんでしょう。次から気を付けてもらうように言っておきますから(競技会が順調に進めば、私の役割は果たしたことになりますから)」と、確か3度くらい謝ったかな。それでもしつこく言って来るので、とうとう喉から(想像上の)拳が出ちゃいました(この言い方は、故平井和正先生がウルフガイシリーズで使ってたものです)。

「じゃかましいわいっ! いつまでくどくどぬかしとるんじゃっ! 気に食わんのなら、とっとと帰れ。お前がいなくたって、競技会はできる。お前がいない方が、うまくいく、さっさと去にさらせっ!」 いわゆる君子豹変(私の場合は君美豹変か?)で、爺さんさすがに度肝を抜かれたのか、すごすごと退散しました。(あっちの方で、何やら優しそうな人を捕まえて、さらにくどくど言ってたようですが)

 ところがほどなく(10分も経たない間に)追い打ちをかけるように、爺さんの身内のミスだったということに、爺さん自身が持ち場を離れて、勝手にトイレに行っていたというのが明かになり、こっちは大笑いでしたけどね。それ以後私はその爺さんと顔を合わせることはございませんでしたな。(遠くから見かけたことは、2,3度あったけど)

 聞いたところによるとこの爺さん、あちこちでクレームをつけている嫌われ者だったとか。他の人たちはみんな大人なので(私はどうせガキですけど)、謝ったり宥めてあげるばかりしていたんでしょうな。だから増長するんだけどね。単純に年寄りがエライんだったら、三葉虫の化石の前で、全員最敬礼しなきゃならなくなるよ(私は結構たくさん持ってますが…笑い。もっと古い時代の化石も持ってるよ。では私がこの化石に最敬礼しているかというと、大切に保管はしているけど、敬礼などはしないなあ)

 何かのために自分が頭をさげておけば、万事うまくいくのだからと、自分の面子を捨てて、我慢して頭を下げる人間もいれば、相手が面子を捨ててくれていることにまかせて、手前勝手な面子ばかりを主張し、それが当たり前だと思い込んでいるバカもいる。

 だいたい人が面子を捨てるのは、自分が何か大切なものに取り組んでいて、それを成し遂げることが重要だと感じている場合だ。この重要さが大きければ大きいほど、面子を捨てて我慢する程度が大きくなる。たとえば我が子を守るためなら、たいていの親なら面子など捨て去るでしょ(私にはいないからわかんないけど、いたら面子どころか、生命でも捨てると思うよ)。

 先述の私のケースだと、その爺さんがいなくても(むしろいない方が)、物事が順調にいくので、私としては十分、ブチ切れても構わなかったわけだ。最初に三度も謝ったのは、一応私も「大人として」行動してみたかったから。三度を数えた時、私は心の中で言ってたもん。「仏の面も三度まで」だって。それで、決壊寸前まで溜まっていた言葉を、ちょっと放出してあげただけ。相手は「仏頂面」になったけどね。(面白い言葉ですなあ。仏の頂上の面なんだねえ)

 行動で現さないとわかんないやつって、いるよね。普通は、ある程度、人生経験を積んでいたら、自分が言った言葉で相手がどう感じているかぐらいは、想像できそうなものだけどなあ。(ちなみにその爺さん、退職するまではエライ人だったんだそうです。私はその地位を、ちっともエライとは思っていないけれど、世間一般ではエライと考えられているらしいです。地位が自分のくだらない人格を守っていてくれていたことに、その人は気づいていなかったんだね。気の毒に。…これを私の言葉では「地位による過保護」と言います。今流行の言葉でいうと、地位によって相手の忖度が得られることによる、自我の肥大とでも申しましょうか)

 過保護がいい結果を出さないことは、何も子供だけではありません。お年寄りだって似たようなものだし、国だってそうですよね。社会集団でも同じようなことがあります。みんな面子を持っていていいんだけど、面子ってのはそう簡単にかけるものではないよね。逆に言えば、なんでもかんでもすぐに「面子」に拘る人って、本当は大した面子ではないことかも知れないんだよ。面子に拘っているらしい自分を他人に見せたいだけで。

 そうそう、そういえば大昔、「天に誓って」なんて表現がありました。これもまあ大げさな表現だとは思うけれど、今じゃあ「天に誓って」なんて言っている傍から、「あ、雨が……」なんてね。現代人にとっては「天」は「天気が変化する大気圏」かその外側の「宇宙空間」を含めたものでしかなく、別に「……にかけて誓う」ようなものじゃないとわかってしまったから。

 これも面子と同じで、なんでもすぐに誓う人の誓いなんて、全然誓ってなんかいなくて、その場その場でコロコロ変わってしまうことが多いわけで。絶対に破らない誓いなんて、そうそうあちこちでできるものではないし(もしもやってたら、自分の「誓い」にがちがちに縛られて、身動きが取れなくなってしまうかも)。

 面子はそうそうかけるものではありません。本当に大事な時のために、大切にとっておく方がいいのではないかと、最近は思いますね。でないと気軽に生きていけないもん。

※ 今月の『○○を語る会』は、15日の第三土曜日に行います。よろしくお願いいたします。

2017年4月 9日 (日)

面子……

 朝は黄砂が消えたいい空だったんだけどね~。午後になるとやっぱり山が黄色っぽくなってきちゃった。明日は午後くらいから、また天気が悪くなるらしいので、また黄砂を洗い流してくれるのだろうが、その後でまたやってくるんだろうなあ。

 黄砂って一言で言っても、昔からやってきている黄砂と、今の黄砂では、付着しているものが違うんではないだろうか。核実験なんかやった時の放射性物質がついていたりしたら、最悪だよね。いくらこちらが健康管理に気を付けても、健康管理なんて言葉を知らないところから、変なものが飛んできているとしたら、「迷惑」なんてものではない。

 自分が作ったもので自分がどうにかなってしまうのなら、それは自己責任でやていただいて結構だが、他に被害が出るとしたら、これは断固として抗議すべきではなかろうか。ましてや相手が「世界の二大国(の片方)」を自称しているのなら、大国に相応しい「徳」を具備していなければならないと思うよ。

「徳」ってのは、自らの損得を度外視て、他者に「得」を与えるものだ。(『老子』や、『老子』を史上最初に解説した『韓非子』を読めば、このあたりのことはアホでもわかる。アホでないのにわからないとしたら、読んでいないのか、そんなこと考えたこともないという証明だ)それを、自分が「得」するためには、他者にどれほど迷惑をかけようと知らん顔っていうのであれば、これは見事に「徳」がないことになる。

「徳」がなくては覇者にはなれませんぞ。これは古代中華の歴史で、耳にタコができるほど、繰り返し説かれていることではないかな。まあ、きっと「温故知新」なんて言葉なんか、忘れ去っているのでしょう(古代中華のすべてがいいとは言わないが、何千年もいろんな国で語り継がれるような内容には、時にいいものもある)。

 時間が流れ、様々な民族が闘争を繰り返し、価値観も変わってしまえば、昔の価値あるものも忘れ去られてしまうものかもしれませんね。ま、それで四千年、五千年の歴史って言われてもねえ……(実際には七十年もない? 途中でやり方が何度も変えられているし… ま、歴史の長さを比べて悦にいる必要は、まったくないんだけど。もしも歴史が長いのなら、いかに長い歴史を積み上げ得たかという、その理由こその誇りを覚えるのであれば、私はOKだと思うよ)。

 さて「面子」という言葉があって、これは顔に泥を塗られるとか、名前を汚されるとかと言ったときに、「面子がつぶされた」というらしい。ちょっと前なら日本でも、「家名を汚さない」なんてのがございましたが、これも一種の面子かも知れない。まあ一部は「プライド」と言っていい部分もあります。

 ただこの場合には、その面子が泥を塗られたら汚れるほどのものでなければならない。つまり最初から汚れていたら、泥を塗られてもわかんないわけなんだね。こんな存在が「面子」だなんて言っても、まったく仕方がない。なぜならば「面子」は自分で立てなければならないからだ。立ってなくて、すでに泥にまみれていたら、底にはすでに「つぶされる面子」なんてものはないんだよね。

 時代劇なんかを見ていると、時に、家名を傷つけるわけにはいかない、なんてセリフが出てくることがある。我が家はこのお役目を戴いて以来、一度も不始末をしでかしたことなく、立派に役目をはたしている。それをしくじって家名を傷つけた、なんて意味でつかわれるんですね。これはすでに立派に役目をやり遂げ、立派に立った家名があって、それが面子になっているわけで、だからこそ家名を傷つけないように頑張らなければいけないんですね。

 しかしながらもしも、何をしてもうまく成し遂げたことがなく、誰からも信用されていない人が「面子」を主張したら、これはちょっと、ねえ。汚すべき名声もなければ、成し遂げた実績もなければ、それは「失うものは何もない」状態で、気楽でこそあれ、「面子」なんて重たいものを背負う必要なんてさらさらないんじゃないですかね。

 これはこれで「失うものは何もない」と開き直って、大きな勝負をすることができる有利な状態なんですが、大した実績もない人が、根拠不明な「面子」なんかを気にし始めると、ろくすっぽ動くことすらできないじゃないですか。失うものは何もないってのが、人目を気にせずに、必死で動け回れるって意味でもあるけれど、面子があったら恥ずかしいことはできないからねえ。そしてろくすっぽ動けなければ、大した業績を残すことも難しいですよね。

 ましてや大した実績がないということは、実務能力に不安があるわけですから、あまり大きな成功も期待できないでしょう。そうして何事かに失敗すると、「面子」を大事にするあまり、失敗を自分の責任にしたくないから、誰かに転嫁しなければならなくなったりしますよね。誰彼かまわず「失敗したのは俺のせいじゃなくて、こいつのせいだ!」なんて喚くわけですよ。

 すると責任転嫁された方としては大変な迷惑ですから、この人を憎むようになることがあります(職場なんかでも、ちょくちょくありますよね)。すると人間関係すらアヤシクなっていっちゃうんですよね。私なんかだったら、こんなタイプの人とは二度と一緒に仕事はしませんけどね、あれこれ理由をつけて。

 こういったタイプの人はたいてい、そばにいる人を不幸にします。そして自分は幸せになろうとするのですが、そばにいてそのしあわせの「しわよせ」を食らった人間は、たまったもんじゃありません。

 まあ「面子」ばかりに拘る人は、必ず自分の面子を立てるために、どこかで嘘をついたりします。たとえば失敗したことを、いかにも自分は成功させたかのように言うわけですよ。するとこの人の「株」は上がりますから、次にはもっと大きな仕事が舞い込みます。ここでうまくいけばいいのですが、実力がありませんから、たいていは失敗いたします。ここでも面子を守るために嘘をつくと、嘘が嘘を呼んで、嘘の塊が巨大化してしまうんですな。で、その嘘がバレた時には、修復不能な大失敗につながったりしているんですよね。

「面子」は大切ですが、自分の実力に相応しい程度の面子にしておかないと、いろいろな問題が起こってくることが多いようです。

※ 今月の『○○を語る会』は、15日の第三土曜日です。よろしくお願いいたします。

2017年4月 8日 (土)

現代の打草驚蛇?

 この時期の長雨を「菜種梅雨」と呼ぶのだそうな(んなことは、子供の頃から聞かされていたわけだが)。ところがお鼻の具合はあまりよくない。杉の立場に立てば、少々の雨ぐらい、どってことないくらい花粉を飛ばしているんだろうな。花粉の「飽和攻撃」だ。いやあ、まいった、まいった。

 それでも桜を浮かべた熱燗をいただきました。ほとんど失われた嗅覚ですが、熱燗にすれば香りは立つので、微かながら春の気分に浸れました。このような(非常に私的な)行事をいくつも経ながら、私の一年は進んでいきます。

 3月29日に思い立ったように蒔いた枝豆は、ようやく双葉が顔を出し始めました(緑色のが12個蒔いたうち半分、土の上に子葉をのぞけました)。まだ双葉には分かれてないけど、明日の朝目が覚めたら、きっと開いているんではないでしょうか。

 なにしろ急に思い立って蒔いたもんだから、一晩水に浸けておく、なんて準備はしてなかったんですね。でもこれから後は速いよ、きっと。だいぶ地面の温度も上がっているっぽい感じがするからね(桜だって、開花は遅かったけど、一気に満開まで漕ぎつけましたからね。こんな時は、一斉に散ってしまうんだろうけど)。

 枝豆は夏の私の晩御飯(の前のビール)には欠かせない食材(肴)なので、今芽生えたやつが本葉を出したら、第二次攻撃隊(いや違った、第二波の種まき)を出撃させます。こうして時間差をつけて波状攻撃を行い、収穫時期をずらし、夏中ずうっと食べ続けてやろうという計画でございます。(今蒔いたら、なんとなく急速に成長して、実がなるころには追い付いてしまっているように思うんだよね。すると収穫時期が重なって、その時は飽和状態になるけれど、すぐに不足するようになる)

 ということで、なかなか世界情勢も難しくなってまいりましたな。(今のところは予想通りだけど)人と人、国と国も交渉があって時代が流れていくわけだけど、米軍の突然のシリア攻撃は、なんとなく一石二鳥どころか三鳥も四鳥もを狙っていた感じがいたしますね。(もっと多くの効果を狙ったのかも)

 あとはこの危険極まりない「手紙」を、どのように読み、どのように解釈するかで、いろんな国が置かれた立場とか、その国のトップの判断力が試されるってもんではないでしょうか。攻撃されたシリアには大変気の毒には思うのだけれど(化学兵器は許されませんぞ!)、これが現代でいう「打草驚蛇の計(『兵法三十六計』の第十三計。攻戦の計の第一)かも知れませんね。

 相手の出方がわからないときには、こちらから仕掛けて相手の反応を見るっていうのが一般的な解釈かも知れないけれど、現代ではこんな古典的な解釈だけでは不十分だと思います。いくつもの要素が絡み合って一つの作戦計画・実行とされるのが現代なので(そこはそれ、時代は進歩していますから)、立場によっていろんな解釈が可能なのではないかと思います。

 ま、これも交渉のやり方の一つ(本当は人を傷つけちゃいけないんですけどね。ましてや我々の日常生活では特に)なので、私としては「興味津々」の体で見守るしかございません。(他に何ができるというのだ?) ま、新聞やTVのニュースで真実の情報が報道されるなどとは期待していないけどね。いやあ、ネットの時代でよかった。

 ネット情報にはガセもあるけれど、その中から「これ」と思うものを選び出すのは、ユーザー自身だもんね。それこそ「自己責任」ってやつで。そこからできるだけ正確な状況を見つけ出していけば、変にコントロールされたり、色眼鏡をかけた情報とは異なった姿が見えてくるもん。

 さて「打草驚蛇」の直接的な標的にされた人(あるいは集団)には、いろんな影響があったんではないだろうか。今後どのように動くかで、この人(あるいはこの集団)の置かれた状況や、性格が判明する。これは『鬼谷子』では「揣摩の術」という奴で、相手の状況や性格を丸裸状態にするものだ(揣摩の中でもどちらかと言えば「摩」の方だ。「揣」はどちらかと言えばインテリジェンスの要素が大きい)。

 本当の駆け引きはここからが勝負なのだが、自分の置かれた状況と相手との関係、相手の力量や性格と、自分の力量を正確に把握していない場合は、物事の決定で大きな誤りが発生する場合がある。もちろん圧倒的に仕掛けた側の力量が大きければ、相手がどう動こうが、やりたいようにやってしまうって状況も生じ得る。逆に圧倒的に力量が小さい側が夜郎自大に陥っている場合には、決定的なミスを犯してしまうこともないわけではない。

 正しく歴史を学び、正しく認識できていれば、それぞれが置かれた情勢で、最善の決断をすることができる(勝敗などには無関係に。誤った勝利もあれば、正しい敗北すら存在する。まあ一般的には、勝った方が正義をされることが多いのだが)。こういう局面では夜郎自大は、時として滅亡を意味したりするから、知彼知己は生死の分岐点ともなるのだが。

 ちなみに「背水の陣」は、現実には全く通用しません。背水の陣を敷いた将領は、韓信以外、全員失敗しています(私は韓信の「背水の陣」は、もっと別の戦の勝敗を決める要素を隠すための、ただのパフォーマンスと見ています)。どちらかというと「狡兎三窟」ぐらいの方が、失敗がありません。

 攻めるよりは守る方が、はるかに難しいけど、それなりに価値があるもんなんだよね。さて今後どうなりますことか。しばらくは目が離せそうにない。

※ 今月の『○○を語る会』は、15日(第三土曜日)に決定しました。よろしくお願いいたします。

2017年4月 7日 (金)

占い……

 はっくしょんっっ‼である。今日はやたらとくしゃみが出る。昨夜来の雨のお蔭で、花粉も黄砂も、かなりの割合で撃墜されているはずだから、少しは症状が軽くなるかと思ったけれど、そうは問屋が卸さなかったようだ。まあ、昔から、雨の日でも、けっこうきつかったけどね。

 予想通り、今日が岡山での桜の「満開宣言」になったようである。平年より6日遅れとかだそうだが、私の記録(写真による記録。毎年同じ桜の木で記録している)では、昨年の4月3日の花のつき方と、今日(4月7日)の花のつき方が、だいたい同じだ。ということは4日遅れということになる。やはり自然界は、遅れを取り戻しつつある。

 基本的に私は、人からの情報は参考程度にしかみていないから(一番信用できるのは、自分の感覚!)、自分の感覚にしたがって行動予定を立てる。もちろん見るのは一か所だけ、ということはない。何か所も見るし、観察する事象も一つや二つではない。いろんなものを見て、総合的に判断する。

 昔、占いで物事を決めていた頃(大昔だなあ)、最初は結構こういった客観的な占いをしていたんじゃないだろうか。古代中国の殷(商)は、亀の甲羅やなんかで占いをしたという(犠牲にされた亀が可哀想だ。どうせ生きている奴を捕まえて、殺して、その甲羅だけを使ったんだよ。亀の甲羅は肋骨が変化したものだから、肋骨を取られちゃあ、生きてけないよね)。

 で、なんでも焼いた時に甲羅に「ト」の字形にひびが入れば吉兆で、占ったことを実施してよいとかいうことで、為政者はあらかじめ甲羅に「ト」の字形にひびがはいるように細工していたらしい(卜…うらないってのは、どうもこのあたりから来ているようだ)。だから最初から為政者の希望通り、ひびが入るのはわかっていたんだね。

 でもどうしてこんなまわりくどいことをしていたのかというと、「神のお告げ」的なことを民衆にアピールするためだったらしい。強大な権力を持った王様とはいえ、やっぱり民衆の支持なしには、何もできなかったんだね、きっと。で、超自然的な存在(意識)がそうしろと言っているんだということにしたかったんじゃないかと思う。ある意味、近代や現代の一部の独裁者よりは、民衆に気を使っているような気がいたしますね。

 では占いが外れることはなかったのか? 当然、無茶をすれば外れることはあったでしょう。でも外れても、それはそういった「卦」を出した超自然的な存在(神様? 鬼神?)が間違ってしまったわけで、取りあえずは、自分は責任回避ができますわな(どなたかの「祈ります」とも通じるところがあります)。

 現代でも、何事かが上手くいくと「俺の実力だ」と言い、失敗すると「運が悪かった」なんてえことを言ったりしますが、運命の(女)神様の責任にしてしまえば、少しは気持ちが軽くなるというものです。それとあまり違わなかったんですな。人間という生き物は、何千年たっても、大して進歩はしていないんじゃあないかと思います。

『韓非子』には、戦国時代の話で、戦争した二つの国が、お互いに戦う前に占いを行い、両国とも「戦勝」と出たのに、片方はぼろ負けになった話が出てきますが(もちろん韓非は、戦争などの結果を占いに頼る愚かさを嘲笑している)、しょせんインチキ占いはこの程度のものでしかありません。

 韓非は『孫子の兵法』などに、戦う前に徹底的に彼我の戦力分析をしなさいと書いてあることは誰でも知っているのだから、占うよりは分析をしなさいと言っているのですね…孫武は韓非よりも二百数十年前の人で、韓非の時代には『孫子の兵法』はすでに秘密でもなんでもなく、世間一般で広く知られていたようです。こうなると敵も味方もお互いの手の内を知っていますから、知っているだけでは勝てず、いかに応用したり、変形できるかという、臨機応変さが大事だったと思います。

 事を起こす前に十分な情報を入手し、それを周囲の状況や、彼我の状況に合わせて、いかに巧みに運用するかが、占いなんかよりは数千億倍も大切なんですけど、最初の形式化される前の占いは、きっといろんなことの観察から始まったんではないかと、私は考えております。だから原始時代には占いは、科学的な要素も持っていたと思うんだよね。

 観察と経験に裏付けられた予想は、情報さえ狂わなかったら、外れませんからね。(狂った情報とか、不確実性の高い情報を握ってしまうと、外れます。これは人間のやることですから、仕方がございません)そこで権力のある人は、他人の予想を覆すために、いろんな偽の情報を流すんだよね。これは自分の「手の内」を読ませないため。

 偽の情報をつかまされた側は、まごまご、右往左往しているうちに、相手の思った通りにされているわけで。ま、下々の者は、自身で処理しきることもできないような情報を入れても、却って混乱するばかりかも知れないので、「知らないうちが花なのよ」かもしれないんだけど。

 ということで話が変わります。昔からよく読んでいた筒井康隆大先生が、何か言ったらしい。私はジュブナイル『時をかける少女』初版本の頃からのファンなので(たぶんご著書はほとんど持っていると思う)、「ふっ」と笑っただけでしたが、世の中には大騒ぎする人もいるようですね。私に言わせれば、「これがこの人の作風なんです」、でお終いなんだけど。

 ま、この程度のことでいちいち目くじら立てていたりしたら、『日本以外全部沈没』なんて読めたもんじゃありませんよ(私はなんと念がいったことに、DVDも持ってるぞ~。あ、映画として作られたDVD版では、さすがに原作を若干改変している部分がありますけどね。きっと制作の段階で、自主規制したんだろうね)。すべてを洒落と、笑い飛ばせなけりゃあ、ね。だいたいタブーを作りすぎると、物事を客観的にみられなくなります。すると予想も外れるようになりますからね。

 でももう相当のご高齢ではないかと思うけれど(SF御三家と呼ばれた、星新一、小松左京、筒井康隆の三先生の中で、ご存命なのは、筒井先生だけになってしまった……)、相変わらずお元気なようで、「スラップスティックパラドクス(今じゃあこんな言葉を憶えている人がどれだけいるのかなあ)」の本領を発揮されておられるのは、凄いパワーだなと感心した。(そうそう『日本以外全部沈没』には、筒井先生ご自身も特別出演しておられましたなあ。外人の酷い演技に、たしか「五円」じゃなかったっけ…詳しく知りたい人は、どこかで見てくださいね)

 オールドファンは、何よりも筒井先生のお元気なことを喜んでいるかも知れませんぞ(笑)。

※今月の『○○を語る会』は、一応15日の土曜日を計画しておりますが、歓送迎会などの予定で都合が悪い方は、早めにお知らせください。よろぺこ!

2017年4月 6日 (木)

危機管理!

 めっちゃ眠た! でもこれから暫くは、TVつけっぱなし状態にするね。もちろん、私が在宅でない時は消すけど。だって、いつ臨時ニュースが入るかもしれないもん。ネットもいいんだけど、さすがにこの第一報の速さはTVのもの? もっとも報道しない気になれば、いくらでも止められるんだろうけどね。同時に報道の仕方についても、電波を流す側の都合で、いくらでも変えられるんだろうけど(ちなみに昨年の鳥取の地震の時は、スマホ情報と同時に、揺れが来ましたけどね。こいつはどんなTVニュースよりも正確に情報を伝えてくれた)。

 ま、のんびりしていても、歴史は動くときは一気に動くから。昔々、こんな話を聞いたことがある。ある家に電話がかかってきたんだそうな。「どうも、うちの二階が火事らしいんだけど、ちょっと見てくださらない?」 自分の家なら自分で見にいけばいいんだろうに、思考停止しちゃったんだろうか、それとも腰が抜けたんだろうか、自分では動けなかったんだね。

 もちろん、「まさかうちが?」って気持ちもなくはないんだろうけど、人間、圧倒的な危機になると、自分が置かれた状況をのみ込むことができなくて、他人事みたいに感じることがあるらしい。もちろんそのお蔭で客観的に状況が判断でき、かえって最善の行動をとることができたってケースも、なくはない(これは私の経験でも何度かある。何度かあるってことは、それだけヤバい経験をしたってことかも、ね?)。

 でもおつむの中でお祭り騒ぎをしていたら、これはもう客観的もなにも、事態を認識することすらできない。注意力が削がれてしまっているからだ。だから何かよからぬことを仕掛ける方としては、注意力がそちらに向かないように、別の騒ぎを起こして、そちらに注意を向けることなんかをやる。所謂「陽動作戦」ですな。

 陽動作戦が行われる時には、いくつか兆候が見られる。また陽動作戦をする側には、陽動作戦をしなければならない理由があるから、「ナニカ企んでるな」と感じることができる。しかしながら所詮は人間のやること、なかなか気配は消しきれないんですな。で、気配を消しきれないことを知っている人は、いろんなダミーをばらまく。そしてある時不意に、ダミーに中から大問題が姿を現してくるのだが、その時はすでに完全に後手に回ってしまっていて、後の祭り(祭りだらけですな!)になっていることが少なくない。

 だから冷静に物事の推移を観察している目が、いつだって必要なのだが、そのためには世の中の流れに沿って、時には浮かれているように見せていても、常に常態を見失わない自分が必要だ。実はこれが「自分が立つ」ことの最大条件なのだが、自分が立てば、自分を基準に物事の変化を測ることができるから、意外に相手の動きが見えたりするんだね。

 だから『鬼谷子』では、自分を磨け、修養をしろと説く。どうやって磨くのかというと、毎晩お風呂でお肌を磨いても、自分を磨くことにはつながらない。いろんなものを見たり聞いたり経験したり、歴史の勉強をしたり、いろんな人と付き合ってみたりする。これが何よりであって、ここでは必ずしも学業成績がそのまま反映するとは限らない。

 教育ってのは、本来こういった観点から行わなければならないのだが、現代の社会ではどうしても学歴重視になるから、どこの学校に行ったか(日本の場合、入ってしまえばたいてい、なんとか卒業できますから)でその人を判定することが多いけれど、少なくとも私の経験では、学歴ノットイコール人としての叡智だった。(ちなみに私の信頼する友人の学歴は、必ずしも高くない。高くないけど、実生活でははるかに使える。これが本当の賢さだと、私は思っている)ま、資格を取るのに必要な学歴は、どうしてもいるけどね。

 今の世界情勢は、実は激動している(なんたって、TVをつけっぱなしにしてようか、と思うくらいなんだから)。そして当事者が案外のんびりしていて、情報すらろくに集めようとしていないんじゃないかとさえ思えたりする。こんな時は、実際に物事が起こると、被害が大きくなる。

 昔、寺田寅彦という物理学者は、「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったといわれている。現在の日本は、その天災すら、必死に予報しようと頑張っている。なら人災は? ちゃんと情報を入れ、冷静に判断していれば、いくらかは予測可能なんじゃないかな。それをせずに被害に遭ったとしても、それは自己責任というべきかもしれないよね。

 いずれにせよ、激動の時代に突入していることは、間違いない。何もなければ、準備していようといまいと、結果は同じだが、何かが起こった時には、準備している者と、まったく無警戒の者とでは、大きな差が出る。

 人生、いつも準備できている状態でいることが理想だが、なかなかそうもいかない。それでも、ヤバそうと感じることができれば、準備することは不可能ではない。現代社会における「君子危うきに近寄らず」とは、まさに準備することに他ならない。そしてそのためには、まずは情報を入れないと(今頃TVでは関連のニュースをやってらあ。つい先日までは、国の将来にはどうでもいいレベルの、M学園問題ばっかりだったのに。だから信用できないんだよ)。

2017年4月 5日 (水)

不戦而降

 暖かくなりましたな~。私なんか今はもう夏の格好ですよ。昼、ちょっと動いただけで汗だくだもん。これで黄砂がなけりゃあね! 桜もだいぶ咲いてきたし、このまま気温が低下しなかったら、もう2~3日で満開宣言かなあ(もうちょっとかかる?)。すると季節の遅れが、だいたい1週間くらいだったのが、もう3~4日は縮まってきたことになる。こうやって自然界は、うまくペースを調節しているんだよね。

 ということで世の中はこれから桜の季節になろうかというのに、どこかの国へ帰任した大使がおられるそうな。唐突な帰任ってのは、たいていそれ相応の理由があるので、重責を担って、最大限任務を果たしていただきたいものだ。期待しておりますよ。

 むかしむかし、斉という国がございました。私の大好きな春秋戦国の頃のお話です。この斉は、太公望呂尚(りょしょう姜尚きょうしょう)という人物が、周の武王に封じられて建てた国で、そりゃあもう由緒正しい国だったんですね。

 ところが亡び方は惨めでした。なんと一時は強国、大国の名をほしいままにしたほどの国が、無為無策、まったく何の抵抗もできないで滅んでしまったのです。どうしてでしょうか? ちょっと天下の情勢に疎かったんですね。

 斉という国は紀元前386年に、太公望姜尚の血筋が、陳国からやってきた田氏(もとは陳氏でしたが、斉に来てから田姓に変わります。なおこの一族からは、司馬穰苴(しばじょうしょ)、孫武(そんぶ)、孫膑(そんぴん)、田単(でんたん)ら、有名な兵家が輩出されます)に乗っ取られ、田氏斉になっています。

 その中でも田氏斉第四代の威王(いおう)は、天才軍師孫膑らを率い、斉の名を天下に轟かした名君として名高いのですが(「三年鳴かず飛ばず」と言われたのは、楚の荘王とこの威王ですが、楚の荘王(しょうおう)は春秋時代に覇者になっていますし、威王も斉の国力を伸ばしました。「鳴かず飛ばず」とは何もしないことではなく、大きなことを成し遂げるために、力を蓄えながら、じっと身をひそめている状態なんですね)、その子、斉の宣王(せんおう)も奥方に鐘離春(しょうりしゅん。歴史に残っている鐘離春は、容姿は劣ったようですが、非常に聡明な女性だったとのことで、斉のために力を尽くしたのだそうです)などを迎え、斉の国力は非常に強大になります。

 ところが昔から、「親が苦労し、子供が楽をして、孫は家を亡ぼす」なんて意味の言葉があるように、宣王の後を継いだ湣王がよくなかったんですね。いや、別にアンポンタンだったわけではありません。史書を見ると、まあ人間が陥りやすい人生の罠にすっぽり嵌ってしまったみたいなもので。

 斉宣王の時代に、斉の北には燕(えん)という国がありました。この国も歴史は非常に古い国なのですが、なにしろ当時の文化の中心(あの国の当時の人々は、中原が中心だと思っていたようです)から離れた辺鄙なところにあったので、それほど目立ちません。この国に燕王噲(えんおうかい)という王様がおりました。この人が何をトチ狂ったのか、自分の権限をすべて有能な家臣に譲渡することが徳がある行為だと信じ込んでいて、なんと子之(しし)という家臣に全権を譲ってしまいます。

 おかげでこの国は大混乱、子之と本来の燕太子平(へい)との間で争いが起こり、太子平は将軍市(いち)を謀を巡らせて、子之を討とうと準備いたします。これを見ていた斉の人たちは、「今ですよ、王様。今だったら簡単に燕なんてフルボッコできますよ」なんてえことを吹き込むんですな。

 すると吹き込まれた宣王もその気になり、太子平に手紙を出したのです。「私ゃあんたが正義の人じゃと聞いておる。うちの国もそんなに強いわけではないけれど、微力ながら応援させてもらいましょう」

「溺れる者藁をもつかむ」と申しますが、この言葉に太子平も奮起し、民衆を集めて、将軍市に宮殿を包囲させ、子之をぶっ潰そうとしたのですが、なんということか勝てません。それどころか、何をどう間違えたのか、将軍市によって太子平が殺されるという謎の顛末。どうせ欲で釣られたんだろうねえ。

 それからというものは、ますます燕は混乱を極め、数か月間で数万人の死者が出るというありさま。ここでエライ人が登場するのです。その人は孟子。かの孔子と並び称せられるお方でございます。「今です。やっちゃいなさいよ。攻め取っちゃえばいいんです。そうすれば王様の名前は、殷の紂王(ちゅうおう)を倒した周の文王、武王みたいに讃えられますよ」

 孟子のような立派な方が助言すれば、それを信じない方がおかしいかもしれないのですが、宣王は「では」ということで、章子をいう人を将軍に任命し、燕に軍を派遣して、混乱した燕軍を大いに破り、子之を殺して二年後に、太子平の弟、公子職を燕王として立てるんですな。これが紀元前312年のお話です。

 もちろん他国の軍勢を背景に即位すれば、たとえ王様になったとしても、その国の言いなりになるしかありません。この公子職さん(燕の昭王)もそうでした。子之を打倒するためとはいえ、斉の力を借りた俺が悪かったと後悔したかどうかは知りませんが(実際問題として、子之の勢力を潰すには、他に方法があったかどうか…)、斉という国を大変に怨んでしまうのです。

 斉の宣王はそのまま紀元前301年に亡くなったのですが、その後を継いだのが湣王(びんおう)です。この人は王様になった時は、すでに斉は大変な強国で、自分が強国にしたわけではございません。でも力はありますから、他の者から軽視されるってことがありません。そこであちこちに戦を仕掛けたり、いやがらせをして、ますます立場を強くしていくのです。

 その頃、もう一つ嫌われていた国がございました。ご存じ秦です。当時の秦は昭襄王(しょうじょうおう)という人の御代で、まだ実権は昭襄王の母親の宣太后(せんたいこう)と、宣太后の弟(つまり昭襄王から見れば叔父さん)の魏冉(ぎぜん)さんという人が握っておりました。こういう時のやり方は、実に中国的で面白いなあと思うのですが、昭襄王は斉の湣王に対して、「今の天下は二強の時代ですな。私は西帝を名乗りますから、あんたさんは東帝を名乗られるとよいのでは?」と持ち掛けます。

 これは考えてみると妙手で、相手のプライドをくすぐりながら、周囲にいる諸侯に警戒心を抱かせるものでございます。帝を名乗るってことは、明らかに天下を自分のものにしようという意志を持っていると表明したようなものですから。(最近でも、太平洋を東と西に分け、云々しているお国があるようですが、今から2300年前からちっとも進歩していないような気がいたします、はい)

 湣王は「ちょっと待て。考えるから」と態度を保留いたしますが、西の雄、秦の昭襄王からこういうお誘いを受けて、悪い気がするはずがありません。ところがこの時、斉で宰相をつとめていたのが、鬼谷子門下の英才、蘇秦(そしん)の弟(兄という説もあり)の蘇代(そだい)という人で、「ちょっとお待ちなさいよ。そんなことをしたら、うまうまと秦の謀略に乗せられてしまいますよ」と諫言したんですな。

 これで目が覚めたのか、斉の湣王は東帝を名乗ることをやめます。それどころか今度は「秦の奴が思い上がったことを言いよる。天下を狙っているに相違ない」とばかりに三晋(韓、魏、趙という、旧晋を分割した三つの国のこと)と連合して、秦攻撃に出撃いたします(斉が出陣すれば、燕は属国状態ですから、結局は斉、燕、韓、魏、趙の五か国連合軍)。そして秦の昭襄王にも西帝とは生意気じゃねえか!とプレッシャーをかけ、西帝の名称をやめさせるんですな。紀元前287年のことです。

 ところがこの頃、斉は実は宋という国を狙っておりました。で、韓、魏、趙、燕が秦とにらみ合っている間に、自分はちゃっかりと宋を併呑いたします(実際は三度にわけて攻めていますが、話が十分に長いので、端折ります)。おさまらないのは連合国です。「ちょっと待てや。わしらに秦の番をさせといて、自分はちゃっかりと他の国を滅ぼして、自分だけ良い目を見ようってのか!」と、今度は斉に向ける目が氷点下にまで冷たくなってしまったのです。(こういった、どさくさに紛れて火事場泥棒をするようなことをしたら、誰でも怨みますよね!)

 斉の湣王最大の弱点は、自分が国を強くしたわけではありません。父親までの代で蓄積した力の上に胡坐をかいていただけなのです。そのためか宋を併呑したのはいいのですが、この戦いでかなり疲弊してしまったのですね。しかも燕は父親の代からの恨みを募らせていたのです。

 その証拠に燕の昭王は、自国を復興するために、天下から人材を集めました。「先従隗始(まず隗より始めよ)」という言葉はこの時のものですが、昭王が家臣の郭隗(かくかい)に、「どうすれば優れた人材を集めることができようか?」と尋ねた時、郭隗は「ならまず、目の前にいる私から優遇してくだされ。私程度の者ですら優遇されていると聞けば、天下の有能な士は続々と集まってくるでしょう」と答えたというんですな。

 おかげで燕の昭王のもとには、斉から鄒衍(すうえん:陰陽五行説を唱えた人。なお陰陽五行説は当時の最新の科学)、趙から劇辛(げきしん、げきからではありません)、魏から楽毅(がくき、がっき)らが駆け付けました。やっぱ、能力がある人を集めようと思えば、報酬をケチってはいけません。

 この宋併呑の事件前後から、斉を巡る流れは悪い方に変わっていきます。結局五か国連合軍は、秦とは大々的な武力衝突をせず(斉の下心がわかってたのかなあ。韓、魏、趙、燕は日和見をして動かなかったようです)、今度は逆に、紀元前285年に、秦は蒙驁(もうごう、蒙武の父、蒙恬の祖父)に命じて斉を攻め、よたっている斉を木っ端クソにやっつけちゃうんですな。

 これを見ていたのが、怨み骨髄に徹していた燕です。今こそ積年の恨みを晴らす時とばかりに、名将楽毅に命じ、秦、韓、魏、趙、楚と連合して、六石連合で斉を攻めさせたのですね。普通、合縦連横と言っても、合縦する相手は秦というのが通り相場ですが、なんとこの時は斉が合縦して当たるべき敵とされたのです。

 この事態に慌てた湣王は、蘇代を将にして迎え撃たせますが、二度にわたる敗戦(概して縦横家は、実戦はあまり強くない印象があります。やっぱ、舌先三寸の武芸者なのでしょうか?)をし、最後には触子が済水の西で連合軍に敗れ、斉の国都臨淄(りんし)は陥落、湣王は衛に逃れようといたしました。

 臨淄落城で、連合軍は斉の領土や財宝を適当に奪い、引き上げるのですが、恨み晴らさでおくべきかの燕は攻撃をやめません。どんどん斉の七十余城と言われた都市を落としていったのです。 

 さて湣王ですが、羽振りがよかった頃に、人に対して驕慢だった報いがここで現れ、衛は湣王一行を追い払います。鄒(すう)に行っても受け入れてもらえず、魯(ろ)でも門前払いを食ってしまいます。羽振りがいい時に、人に丁寧に接していないと、落ち目になった時が最悪になるのですが、苦労知らずの湣王には無理だったのでしょうか。

 最終的に莒(りょ)に逃げ込んだのはいいのですが、ここで楚が救援に遣わした淖歯(とうし)が、湣王にそって相に任命されたにも関わらず、湣王を殺害いたします。この殺害方法が、「足の筋を抜き、建物の梁から一晩ぶら下げた」というのですから、いったい何を考えたら、こんな殺し方を思いつくのでしょうか。

 淖歯の目的は、斉を燕と楚で二分することで、湣王の期待とはまったく異なったんですね。もちろんどんな目的であれ、こんな残酷な殺し方をするような人間が、真っ当な死に方ができるわけもなく、怒った市民によって淖歯も殺されてしまいます。

 ところで湣王にも子供がおりました。田法章と申します。父親に従って莒まで逃れてきたのですが、父親が惨殺されるのを見て、民間に隠れました。史書には名を変えたとありますが、身なりも何もかも変えたのでしょう。

 この莒には太史敫という大夫がいたのですが、田法章は名を変えこの家に仕えたのですが、この太史敫には娘がおり、この娘が「人を見る目」があったのでしょう、田法章を見て、「この人は只者ではない」と思い、密かに通じてしまうのですな。

 いくら名前を変えても、人の目はいつまでもはごまかせません。いつしかこの田法章を立てて斉王としようという動きが市民に出るのですが、それでもなかなか田法章は自分の出自を明かしませんでした。本当のことを明かすと、殺される心配があったのです。身分が高いのも大変ですな。

 さて楽毅ですが、斉の七十余の城はあっという間に落としたのですが、最後の莒と即墨(そくぼく)の二城だけは五年かかっても落とせませんでした。その間に彼を抜擢してくれた燕の昭王がなくなります。すると後を継いだのが燕の恵王です。こういった統治者の代替わりに策を施すのは常道なのですが、即墨にいた田単(でんたん)はさっそく燕恵王と楽毅に離間の策を施し、「楽毅は本当はすぐにでも斉全土を征服できるのに、王になろうと考えているから最後の2城を落とさないでいるのだ」などと吹き込みます。

 こうなると楽毅の功績が大きいほど、燕恵王も引っ込みがつきません。仮にこの話が嘘だと燕恵王が感じたとしても、楽毅の功績が大きすぎれば、相応しい賞がないのです。与えるべき賞がなければどうすればいいですか? 罪を着せて処刑すれば、何も与えないですむのです(こういう発想は、古代中国の歴史を見ればごまんとあります)。

 結局楽毅は燕に帰国しても謀殺されるだけと、さっさと趙に亡命します。もともと楽毅の祖先の楽羊(がくよう)は、魏の将軍で、魏の中山征伐を行い、そのまま中山に居座っていて、趙の武霊王が中山を滅ぼした時に、趙に移り住んでいたようなので、まさに「落葉帰根」ですね。

 さて楽毅が去ったあとの燕軍の指揮は騎劫将軍という人がとるのですが、名将田単の「火牛の計(これは実際には不可能だということが、二十世紀の国民党と人民解放軍の戦いで実証されたそうです。尻尾に火のついおた芝をくくりつけられた牛は、敵陣に突っ込んだりしないで、自分がすんでいた牛小屋に戻ってきて、牛小屋が大火事になったそうです。まあ『史記』なんていっても、半分は小説みたいなものですから…笑)」などをはじめとした奇策で、あっという間に全城を取り返したんですな。

 こうして臨淄を回復してから、莒にいた田法章は斉王(斉の襄王)として臨淄に帰ります紀元前279年)。もちろん奥さんは彼の正体を見抜いた太史敫の娘さんで、実はこの娘さん「君」というのですが、この前年にめでたく男児を授かっております。これが田氏斉最後の王となる田建なのですが、凄いのはこの太史敫さんです。

「娘は正式に媒酌人を介さないで、勝手に嫁いでしまった。こんな先祖の名を汚すような娘を、我が子に持った覚えはない」と、生涯、王后として認めなかったというんですな。そんな気難しいことを言わなくても、うまくいったのだから祝福してあげればいいのに……

 ところが問題はこの君王后でございました。この方は徹底的な親秦派だったのです。だから秦が何をしても知らん顔。たとえば紀元前260年には、有名な長平の戦いがあり、趙は40万の軍を生き埋めにされるという事件がありました。この時趙は、当然のように斉に救援要請をしたのですが、まったくの無視! こうして天下がどんどん秦のものとなっていくのを、ただ眺めていたのです。(旦那さんの斉襄王も、若い頃助けてもらっているから、奥さんに強いことが言えなかったのかなあ……)

 もっと酷いのは彼女の弟、后勝(こうしょう)です。この人の親秦ぶりは徹底していて、秦がどこかの国を征服するたびに、祝いの使者を秦に贈るようなレベル。秦も敵となる国の重臣には金銭を与えて手なずけておくのが常套手段ですから、秦とはとてもいい関係だったんですな。

 それで王賁(おうふん)が燕を征服して斉を攻めてきたときも、「秦は西の国ですから、西の守りを厚くしておけばよろしいでしょう」などと斉王建を騙し、斉には数十万の軍がいたのに、一戦もせずに降伏しちゃったんですな。

 斉王建もまた大したもので、王賁からの「降伏するのなら侯として封ずる」という手紙を信じたんですな。国も国民のことも、まったく考えず、我が身の安泰だけを考えたのでしょう。そして家族ともども共に連れて行かれ、松林しかないところで、周囲を脱出できないように軍に囲ませ、餓死したといいますから、大したものです。紀元前221年のことですな。

 では后勝はどうなったのかと言いますと、史書には記述がございません。ただ蔡元放の『東周列国志』によれば、最後には自身も斬られて死んだということになっております。ま、これこそ歴史小説そのものですから、まったく信用はできませんが。

 昔々の話ですが、妙に昨今の国際情勢を思わせる部分がありますので、久しぶりに思いだして取り上げてみました。まあ、緊急事態に、意地だの、面子だの、無礼だのなんだのとほざいている輩は、必ず生き残れないというのが、歴史の教えだと、私は思いますけどね(平和な時には、必要だし有用だと思いますが。大切なのは、今が緊急時なのか、それとものんびりしてていい時なのかを、敏感に察知する能力なんですけどね!)

 あ~、久々の長文で、疲れました~……

2017年4月 4日 (火)

夜明け

 先日の雨で、少しは持ち直していた黄砂が、今日はまたしてもぶり返しておりましたな。山が真っ白! 雪が積もって真っ白なのならまだわかるが、見えない真っ白はどうにも救いがたい。

 おかげでくしゃみと鼻づまりに苦しめられた一日でございました。せっかくのいい天気で、暑いほど暖かだったのにね(昼は、ずうっと半袖Tシャツという、夏の装いでございました)。

 昨日は昼じゅう風が強かったのであきらめていたけど、今日は「どうせ仕事の能率も上がらないのだから」と、ワカメ採りに行きました。もうそろそろ今シーズンのワカメ採りも終わりになるのではないと思うのですが、今年のワカメの出来は悪かった!

 それでもまあ、短時間でバケツ1杯なんてのはそんなに難しい芸当ではないので、このほかにボウアオノリというのを採取いたしました。私個人の好みで悪いのですが、お味噌汁ならこのボウアオノリの方が好きなんですね。

 で、採るだけ採ると、一人暮らしの私ではとても食べきれない量なので、あちこちに配っていたら、Sくんが我が家に来る時刻ギリギリになってしまっておりました(滑り込みセーフ!)。でこういう日には、しょうもないメールは来るは、間違い電話は来るは、武友Nさんから連絡はあるはで、なかなか忙しい。ま、世の中こんなもんです。

 忙しい時には、よけいに忙しいもので、これって本当は歓迎すべきことなんですよ。で、忙しい合間を縫って晩御飯を作り、なんと私が生まれる前の映画を見ながら晩御飯が終わったら、すでに午後十一時を回っているというありさまでした。(意地でも映画を見るところが私らしいですけど)

 ま、こんな日があるのも、たまにはいいかななんて思います。昨夜は練習が終わったら、すでに午前3時前になっていたし。今晩もこれからですから、いったいいつ頃終わるのやら(その時の体調とか気分で変わります。たまに、このまま朝までやっていたいと思う時もありますが…。

 昔やった「プチ山籠もり」では一晩中やってましたから、あの時に比べれば呑気なもんです。なにしろあの時には、クマ出没の危険があったし、深山の深夜は、怖いなんてえものではございません。周囲に押しつぶされそうな感じがします。小屋もなにも、身を隠す場所なんてなかったんですからね。

 翌朝になって、自分が立っていた足元に、ミョウガの新芽がたくさん出ていたのには、感動しましたよ(ちなみに私は、ミョウガの新芽を生で、辛子酢味噌で食べるのが好きである。あまり好きすぎて、自宅にも移植したが、悲しいことに「自宅で生えたものは、農作物以外食べなくなる」の法則に則り、食べなくなってしまった。おかげで我が家の裏庭の奥に入る手前は、もう少ししたら、ミョウガに占拠されてしまう)。

 人はたまに日常から離れて、非日常を経験することが必要だと思いますよ。それは旅でもいいし、普段自分がしないことならなんでもいいのではないでしょうか。するといつもとは異なった自分が見えてきます。良くも悪くも、自分の知らなかった自分が見えてきて、少しは人生に役立つような気がします。

 ま、プチ山籠もりで一番感動したのは、うっそうと茂っている木々の間から、朝の陽ざしが射しこみ始め、小鳥のさえずりが聞こえ始めた時でしょうか。「おお! 今日も生きていけるんだ!」って思いましたね。学生時代、徹夜のバイトで、アサヒが高層ビルの間に差し込んできた時よりも感動した。

 今はちょっとばかり太陽の活動が元気がないそうだけど、朝を迎えることって、本当は大変に感動的なことなんだなと思いましたね。それでやっとわかった気がしたのは、『ネバー・クライ・ウルフ』という映画のラストで、イヌイットの朝を迎える詩の感動だ。

 だって一年が春夏秋冬ではなくて、ずーっと夜の時期と、ずーっと昼の時期にわけられていたとしたら、太陽を拝むことの感動は、そりゃあ大変なもんだろう。暗い(たとえ白夜であっても)夜を何とか生き延び、光に満ちた太陽を半年ぶりに見ることができたら、その喜びは、きっと毎朝あたりまえのように太陽が昇ってくると思っている我々よりは、はるかに大きいだろう。

 人生もそれと似ているのかもしれない。若い頃から何をやってもうまくいって、順風満帆に生きている人と、苦労に苦労を重ねてもなかなか芽が出ない人が、ようやく日の目を見たとすると、どちらの感動が大きいだろうかは、考えなくてもわかる。

 ずっと下積みばかりをしていると思っている人も、もしも太陽を拝むことができる日が来たら、自分の人生をどう感じるだろうか。おそらくは「うまくいくのが当たり前」の人よりか、とても素敵な言葉が語れる人になっているのではないだろうか。

 とかなんとかいいながら、今日の私は、ワカメを採って遊んでいました。ちょっと心がけを直して、また頑張ります!

2017年4月 3日 (月)

自分が立つ…

 いやあ今日は暖かかった(というより、暑かった。汗びっしょりでしたよ。惜しいことに風が強すぎましたけど)。こういう時は得てして風邪をひいたりするので、こまめに着替えたり、細かいことに気を使うのが、健康管理のポイントでございますな。

 自分の健康管理もできない奴に、何かまともなことができるのか!てな意見も、この世の中にはあるようで、人との信頼関係を築くうえでも、健康管理は大切です。健康不良で約束をキャンセルなんかしたひには、そりゃあもう「信頼してくれ」という方が厚かましいってもんで、約束を破ってはいけません。

 だからと言って、約束を守るために死んでしまっては元も子もないので、やはり健康管理とか、身の安全を守ることは、最優先事項でございます。そしてそれこそが、「社会の一員」として、生きていくうえでの大切な条件ではないでしょうか。

 平成29年度も、実質今日から始まるので、柄にもなく真面目な(?)話から始めました。社会で自分の位置取りを確定させるのは、自分がどのような部分で、どういった機能を安定的に発揮できるかが勝負ですからね。そういう意味では「駅伝」に似てますけど。(ちなみに、駅伝ばかりに熱中していては、「世界の長距離界」からは置いてけぼりを食らうと、私は感じてますけどね。今の高速化した、しかもスピードの変化に富んだトラックやマラソンでは、安定感だけでは太刀打ちできないと思いますが、これは陸上競技のお話。社会生活では、まずは安定感でしょ)

 その上で、自分のやりたいこととか、自分の信念に沿って生きるのが、私は「カッコいい生き方」だと思いますね。だからとりあえず、自分が専門的にやらなければならないことに関しては、エキスパート的(必ずしもエキスパートでなくてもいいです。「的」の一文字がついているということは、そのものを意味していません)であらねばらないと思いますね。

 他人に「自分がやっていることがわかってたまるか!」というプライドは、ある意味大切かもしれませんが、生活態度までそうだと、不要な苦労ばかりが増えます。ある程度までは他人にでも「わかったつもりになって」いただく必要がありますね。そうしないと支持されないから。

 支持されなくてもいいと思えばそれでもいいんですけど、こうなると苦労が増えるんですね。(自分がそうだったから、よくわかります…涙) 他人に理解されないと、だいたいが孤独な道を一人歩くって感じになりますから、かなり強い意志が必要になります。嫌になった時にでも、話し相手はいません。ひたすらヤケ酒を呑むってことにもなります(よくやったなあ……)。幸いにして、両親が強い肝臓をくれたらしく、それで人生を誤まってしまうことは、(今のところ)ありませんでしたが。

 でも、人がなんと言おうと、自分のやりたいことはやりたいようにやればいいのです、罪にならない限り。だから駐韓大使の帰任にしても、私は「その道のエキスパートが熟慮して決定したことだし、いろんな情勢を考え合わせてみれば、そういう決定もあるのかも」なんて難しいことを考えたりもします(なんのこっちゃ?)。

 人は皆それぞれが自分の価値観を持っているだろうし、自分の観点を持っていますからね。だからいろんな批評は当然あるだろうし、よく言う人もいれば悪く言う人もいます。どちらにもそれなりの言い分はありますから、自分の意志がない人は、耳元で何かをささやかれるたびに、考えがコロコロ変わってしまったりするのでしょうが、大きな目的意識があって、それに沿って生きている人は、簡単に変わっちゃあいけません。

 ま、信念がある人は、少々のことでは生き方を変えませんからね。それでいいんじゃないかと思いますが、それが人々の支持を得られればOK。得られなければnot OKって話なだけで。

 他人様なんか知ったことか!と、我が道を歩く人でも、その人の生き方が多くの人から見て支持されれば、それはヒーロー(あるいはヒロイン)になることだってできます。ま、そのためには他人に迎合せず、自分の生き方を貫かなければならないんですけどね。(迎合型の生き方では、短期間で人から飽きられます)

 もちろんいくら自分の生き方を貫いたとしても、それが多くの人々から、BAD と言われれば、それはそれでお終い。こうなれば「人生、諦めが肝心」と思うしかないでしょう。

 いずれにしても「自分」というものをしっかりと把握して、「自分の意志」を確立していくほかございません。『鬼谷子』は言ってます。どんなことに取り組むにしても、まずは自分の意志を確立せよと。そしてまずは自分を磨き、鍛え上げよと。そうして自分が正しいと信じる道を、何があっても歩けと(この教えをいい加減に行った縦横家は、最終的には悲惨な最期を迎えるケースが多かったみたいです)。

 やっていることが今の自分が生きている時代に適合すれば、その人は大変な大活躍をして、人からも高評価を得ることができるでしょう。もしもそれがその時代に適していなかったら、それはそれで、市井の片隅でひっそりと、けれども誰に何を羞じることなく、胸を張って生きていくことができるのです。

 そうして「勇気」を持って生きなければなりません。私が「師匠」として認めている人は、二人と半分(誰が半分かはナイショです)ですが、その中のお一人が常々おっしゃっていました。「勇気は健康でなければ得られない」と。心身に不安があったのでは、人間は勇気をもって大胆に行動することはできませんからね。

 だから「健康」は大切です。健康であってはじめて「自分が立ち」、自分が立って初めて、自分の思う生き方ができると思います。

 ちなみに站桩は、ただ立つだけの練習ですが、いろんな意味で「自分が立つ」とは何かを考えさせてくれる練習です。さて今晩も、これからちょっくらやってみますか…… どうせ毎晩やってることだし。

2017年4月 2日 (日)

春ですねえ

 いい天気だなあとおもっていたら、夕方から雨が降った。「洗車したばかりなのに~」と言う声も私の身近で起こっていたが、春は洗車が難しい季節です。特に黒系の色だと、もろ黄砂の影響を受けます。雨も雨で、きっちり降ってくれれば、それなりに洗い流してはくれるんでしょうが、小降りだったらあら大変! 知らない間に車の模様が変わります。

 誰の車? どこかで見たような車で、どこかで見たようなナンバープレートをつけ、確かこのあたりに駐車したような記憶はあるんだけど、こんな柄の車に乗っているつもりはなかった、なんてことになりかねません。

 私なんかはけっこう、気の向くまま足の向くまま(ていうけど、車運転してたら、足の向くままって表現は当たりませんよねえ。子供の頃からこの「足の向くまま」って表現は、「じゃあ、蟹股の人はどうするの?」と思っていたくらいだし。右足と左足で、到達する場所が違っていたら、哀れ胴体は真っ二つ? 悪夢じゃ……)タイプの人間なんだけど、それでもいろいろと用事があって、たいていは車に乗るときには目的地がしっかり決まっている。

 で、黄砂の季節にもよく出歩くんだけど、汚れは凄い。じゃあ洗車は?というと、もう「諦めの境地、無為自然(…ここでいう無為は無為無策の無為)」でございます。運転してるうちに雨にでも出会えば、それなりのキレイさ(あくまで「それなり」で、それ以上を期待してはいけない。雨は雨の都合で勝手に降っているわけで、それに対してあれこれ自分勝手な希望を述べても、どうせ叶うはずがございません)になる(こともある)。

 今日の場合は、夕方の作物の水やりの手間が省けた。天然の雨というやつは、植物には最高の恵みになるらしく、人間がひいこらいいながらやっている水やりよりも、はるかに能率が良い。だいたい人間は、自分が植えた植物のところにしか水やりをしないけれど、その点雨は、万物の上に平等に降り注ぐ。

 もちろんその雨を慈雨ととらえるか、迷惑に感じるかは、雨に濡れるものが決めることだ。私も普段は雨は嫌いだが、ここのところの雨は(少なくとも私には)ありがたい。これで植えた作物の根が張り、種子が芽吹き、順調に育ち始めたら、また雨が嫌いになるのは間違いない。実に勝手な生き物なのだ、私という人間は(笑)。

 さて、とうとう岡山でもソメイヨシノが開花したとTVの天気予報で言っていた。私もいくつか見かけた。春ですね~。でも例年より6日遅れだという。だいたい私の記憶が合っていたわけだ。ということは今年の春は1週間遅れ?の訪れということになったのだが、一年は365日で変わらないので、自然界はどこかで調節することが(今までの経験上)ほとんどだ。

 つまり生物の方も、どこかでペースアップして、遅れを取り戻そうとする(これは、いつもなら時期がずれるはずの現象が、同時期に起こるというような形で現れる)。春が遅かった年は、どこかで「忙しい時期」がやってくる。今年はどのあたりでペースを調整するのだろうか。(昨年はドクダミに対する草枯らし散布に1週間ほどの時間的余裕が与えられたのだが、今年はこのあたりが短縮されるのではあるまいな。我が家の庭ではドクダミとスズラン…観賞用で、可愛い花をつけるのですが毒草です…とイカリソウが、非常に近い範囲に生えるので、ドクダミだけを駆除するのに気を使っております)

 昨年の秋に、私の練習場の確保のため、庭の中央部にあった水仙を大々的に移植したところ、今年は凄い勢いで花を咲かせました。昨年までは花なんか2~3輪しかつけなかったのにね。やっぱり時々は「お国替え」してやった方が活性化するのでしょうか。(植えっぱなしだと、一種の「連作」になるのかな?)

 四月はどこかで上手に時間を作って、裏庭にゴーヤを植えてやろうと画策しておるのですが(K氏の推薦。ちなみに私はゴーヤはあまり好きではない。食べ物の嫌いがほとんどない私にしては珍しいほど嫌っている。それでも自分で作ったら、もしかしたら好きになるかも… なれなかったら、推薦したK氏のところへすべて持っていって進呈するつもり…笑)

 練習場は確保したものの、2月の中旬頃から、花粉のために屋外での練習は止めている(夜、寝られなくなる。呼吸困難や咳で)ので、私の練習場のための空間は、今は雑草が元気いっぱいで伸びている。これも花粉が消えるまでで、その後は過激な練習で、全部が擦り切れてしまう(抜くのは面倒いのですが、私の練習は本来「歩法」をはじめとした、動きが多いので)。

 今は日付が変わるあたりを中心に、室内練習に明け暮れているが(毎晩やります。お酒を呑んで帰ってきてもやります。ちなみに酔拳はやりません)、今はみっちりと動き出す前の段階を作り上げておけばいい、くらいにしか考えておりません。どうせ死ぬまで続ける練習だし、試合に出る年でもないので、気長に取り組むのですが、それでもいろんなことがわかってくるので面白いです。

 楽をしていると健康でいられるかというと、不思議なもので、かえって人間の身体は調子が悪くなったりします。こういう時は、自分が一番長く、熱心に取り組んだものをやってみると、案外回復したりいたします。身体がそのように作り変えられているからではないかと思いますが、今でも私がよく使う方法ですね。

 植物だって、曲がって生えちゃったものを、無理やりまっすぐにしようとすれば折れちゃいますが、そのまま一番適した形にしておいてやれば、それなりに天寿は全うできます。幼い頃から何もしないでも健康に生きてこられた人は、きっと何もしなくても健康に生きていけるのではないでしょうか(ジョギングだとかウォーキングとかをやらないと、健康でいられないわけではないと思いますね。もちろんジョギングやウォーキングは楽しいので、無理をしない範囲で行うのは、まったく問題ないと思いますけど…ちなみに私は大好きです。花粉と黄砂がなくなったら再開です)。

 ということで、なんとなく活動範囲が室内主体(ってわけでもないんだけど)になってしまっていたら、またしてもチョンボをしていた。なんと白菜を食べ忘れていた(だいぶ食べた残りがあった)。するとまあなんということか、その白菜が花を咲かせていたんですね。黄色の、アブラナかなんかのような花でございます。

 あまり可愛らしかったので、取りあえずは枯れるまでそのままにしておいてやるつもりです。それとも自家受粉させたら、種子までできるでしょうか。暇つぶしにやってみてもいいね。なんせ春なんだから。

2017年4月 1日 (土)

バランサー

 久々に山の稜線が見える日でしたな(もしかりに、日本が今の黄砂生産大国の位置にあって、今の黄砂生産大国が日本の位置にあったとしたら、彼らは何も文句を言わないだろうか? 絶対にボロクソに言うと思う。「笑ってごまかす自分の落ち度、飽くまでほじくる他人の落ち度」ってのは、昔々、『中島みゆきのオールナイトニッポン』でよく耳にしたフレーズだけど、きっと「知らん顔してごまかす自分の落ち度、何度でも賠償請求する他人の落ち度」にされてんじゃないかと思う)。

 気温も昼になるにつれて上がり、暑い(冬の服装をしていたら)くらいになったので、私は楽しく遊んだ(何をしていたかは、ひ・み・つ。証人喚問されるようなことがあったら…そんな無駄なことに税金を使うな!…全部正直にゲロっちゃいますけどね。別に悪いことをしてるわけじゃないから)。

 おかげで快く疲れ、眠い。花粉や黄砂のアレルギー反応で全身が疲労困憊しているのに加え、遊び疲れが加わった。ついでに今日は花粉も黄砂も、やや少な目だったのか、晩酌が旨かった。ほどよく酔っ払ったので、ますます眠い。「酒は百薬の長」でございますからな。妙な薬を服用するよりも、はるかに健康によい場合が少なくない。(体質的にアルコールを受け付けない人が気の毒ですが……)

 私の健康維持は、食事、睡眠、トレーニング、入浴の四要素が大きい。食事はバランスよくというのは当然だが、中でもアルコールの占める位置は重要だ。(飲みすぎるということがあまりない人なので…昔は「呑めば底なし」だったけど。これはこれで、経済状態の悪化を招く恐れがあるので、適量にとどめておくのが、いろんな意味でよい)

 睡眠は、長さはもちろんだけど、質が大切。質のいい睡眠を取るには、充実感のある仕事と練習が大切だ。これさえあれば、睡眠は楽しい(花粉症の時期は、呼吸困難で起きることもあるが、今シーズンはいまのところ、うまく凌いでいる)。睡眠が楽しいと、目覚めがすっきりする。目覚めがすっきるすると、物事のスタートがうまくいく。スタートがうまくいくと、物事は順調に進むことが多い。結果、充実感のある一日となって、酒は旨いわ、気持ちよく寝られるわで、見事に好循環に入る。

 入浴は大好きなので、これも私には大切な行事だ。だいたい入浴の直前は練習することになっているので、身体内部と外部の両方から加熱され、否応なく免疫が高揚する(と私は思っている)。あまりに上がりすぎて、時に眠れなくなることがあるので、入浴後にはわざわざ体温を下げたりするのだが、昔からアイデアが出ない時には熱いシャワーを浴びる習慣があったため(きっと、熱い方が、「いい出汁」が出るのではないだろうか)、体温冷却期に仕事の延長をすることもある(順調に行き過ぎて、寝るのを忘れることあり…これは好循環を崩すもとになることがある)。

 まあ後ろ暗いことも、やましく思うようなこともやっていないので、後は呑気なものだ。(やりたいことがたくさんありすぎて、まだあれもできていない、これもできていないという不満はあるけれど)

 今日など帰宅して水槽を見た瞬間に、出がけに魚と約束したのを思い出した。実はちょっと水替えをサボっていたんですね。昨日くらいから魚が不機嫌な顔をし始めていて、今朝なんかは「もう2~3日水替えをサボってみろ。死んでやるから」てな顔をしていたので、疲れてはいたけど、大々的に水替えを敢行したんですね。

 効果はてきめんで、一気に魚の顔がゴキゲンに変わっちゃいました。どいつもこいつも、野生での平均的寿命の5~6倍以上も生き、本来の体型よりもはるかにぶくよか(ふくよかは通り過ぎている)で、大きさは長さだけで倍は超えているんじゃないだろうか。体調がいいのか、体色も普通の状態よりはかなり上がっていて美しい(我が家では色揚げはいたしませんが、勝手に色が上がってしまいます。普通に飼っているだけなんだけどね~)。

 人は「自然」「自然」と、自然が一番いいように言うけれど、野生のものを人間が作った環境で飼えば、自然界で放っ散らかしている時には発揮できない素質が現れてまいります。野生では生き延びるのに一所懸命で、発揮できなかった資質を出すことができるようになるんだね。

 同じことは、所謂「英才教育」というものでも言えるわけで、普通に育ったら、普通でしかないのに、ある種の資質を最大限に発揮できる環境下で育てていけば、驚くようなものを発揮することができることもあるんですね。(かの楽聖ベートーベンでも、もしも原始時代に生まれていたなら…って話ですよね。耳の不自由な気難しいだけの男…ピアノなどの楽器がないんだもの。彼の素質が花開くチャンスがなかったわけですから…で、名前を残すことも、芸術の分野で人類に貢献することも、なかったに違いありません)

 ただ、よくよく考えておかないといけないのは、資質を悪用してはならないことですね。どんなに環境的に恵まれても。高い地位について、権力を握ったとしても、それを人様に正直に語ることができないような(正直に語れないということが、すべてを物語っておりますが)ことに用いるのは、いいことではありません。

 それはちょうど、古代ギリシャのアテナイの黄金期を演出したペリクレスが、ペルシャの脅威に備えるために多くのポリス間で同盟を結び(デロス同盟と申します)、ペルシャを撃退した後は、デロス同盟の運用資金(公金)をアテナイのために無断で流用し、アテナイ全盛期を作ったのと同じようなものでございます(パルテノン神殿は、この時に流用した金で建設したんだって! 今でも観光資源になっているから、それはそれで意味があったのかも知れませんが、これがバレて、スパルタなどとペロポネソス戦争に陥っていき…このほかにも疫病などの流行があったそうです…、アテナイも衰退していくのですが。いくら神殿を作っても、やったことが正義か正義でないかは、神様はちゃんとご覧になっている???)。

 ある意味、バランスが崩れたところから、新たな才能が生まれたりするのですが、とめどもなく崩し続ければ、せっかく生まれた才能も、短期間で潰れたりします。何事でもバランスが大切なんですね。

 だから食事も大切、睡眠も大切、練習や仕事も大切なんですが、どれかが突出し過ぎた状態が長期間続くのは、よくないんですよね。だって百薬の長のお酒ですら、飲み過ぎはよくないですからね。

 バランサーってのは、状況によって、何が何に対しての、どういうバランサーとして機能しているのかというのが、常に変化し続けますから、これを感知する能力がなければ使いこなせません。何かバランサーとな何かを自称していたところが、今では自らのバランスさえ危ういのではないかと心配な状況みたいですが、「人のふり見て我がふり治せ」。私自身の生活も、時には見直さないといけません。

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