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2017年5月25日 (木)

罪を憎んで人も憎む?

 湿度は若干高めだが、よい具合の気温と風の具合である。にも拘わらず胸が苦しい。言っておくが恋煩いではない(そんないいもん、やってみたいよ! 若い頃は恋煩いは切なく苦しいものだったが、今は切望しておりますな! ちなみに私は一人なので、まったく問題はない)

 昨日は一日中雨が降り続いたせいか、今日の蚊の煩いこと! やつらも一日、血が据えなくて飢えていたのかも知れないが、血を恵んでやる謂れは全くないので、近寄ってきたら撃墜である。私は蚊は嫌いだ。たぶん好きな人は、多くはいないだろうが。

 昔から「罪を憎んで人を憎まず」なんてカッコいいことをいう人がいるが、蚊が血を吸うという行為を憎むだけで、蚊という存在を憎まなかったら、永遠に蚊に血を吸い続けられる。世の中はキレイゴトだけで動いているわけではない。蚊を殺さない限り、いくらでも血を吸われるし、痒みはおさまらない。

 しかしながらこんなことを言うと、「蚊は人ではないでしょ」などと、したり顔で言う人が出てくる。蚊は人ではない。では蚊と人とを分ける違いは何だ? 蚊は昆虫で、人は哺乳類で、などと生物学的分類をしてみてもはじまらない。

 蚊と、他者に害しかなさない人間の共通点は、「他者に害しかなさない」という点だ。外見がまったく異なっても、この一点については見事に一致している。こうなると、その「害」というものにたいして、どのように対処するかが問題になる。蚊は人類ではないから殺す。人は人類だから殺さない、なんてことを言い始めると、大変に面倒な捕鯨問題に似てくる。

 鯨を殺しちゃいけません。鯨は頭のいい動物なんです! 確かにその通りだ。牛肉は食べません、牛肉を1㎏作るのに、草は何キロ必要だと思っているのですか! だから人間は草を動物を食べちゃいけないんです。私だったら、「じゃ、あなただけ、草食ってなさい(私は「道草」はよく食うが、草は食わない…山菜は食べるけど)」でお終いだな。

 ま、かつての学校給食での鯨の味を知っている者としては、クジラが頭がいいかどうかなんて、考えたこともなかったし、学校給食で食べた鯨は、調理師さんたちの腕がよかったのか、大変に美味でした。あまり食べない子から分けてもらって、てんこ盛りにして食べてましたよ。(今の代用鯨の美味しくないことったらない!)

 鯨や牛に関して述べると話が長くなるので、ここは蚊に話を戻すが、蚊は殺してもいいけど、ねえっ! じゃあハエは? 

 ハエは不潔な生き物だ。何故かというと、どろどろになったものしか食べられないような口をしているから(ウジの頃は形状は違うが、内臓のつくりが発達していないらしい)、腐ったものとか排泄物とか、いわゆるばっちいものしか食べられない。そこでばっちいものに寄って行き、そこにとまって食べるからである。当然、足はばっちいものに触れるから、とてもばっちいことになる。

 だから私としては、仲良くはしないし、保護もしない。でも存在は認めている。なんせ彼らは、ばっちい物体を食べることで、自然界に分散させていき、とりあえず我々に直接的な害が少ない形にしてくれるからである。言ってしまえばばっちいところで、ばっちいものを浄化する働きを担っているんだね(腐海に棲む王蟲みたいなもんかな)。

 蚊はそうではないね。人の血を吸い、不快にしたり、伝染病を媒介する。いつもいうように、蚊には情状酌量の余地がない。何故かというと、他者に対して、よいことをちっともしないからだ。こういう存在に対しては、「罪を憎んで、人を憎まず」の精神では過ちを犯す。罪も人も憎めばいいのである。ついでに罪にも、罪しか犯さない存在にも、きっちりと相応の処罰を下せばいいのだ。

 これからちょうど盛んになる季節だが、この季節は、モノが腐りやすい。腐敗というのは微生物が働いて、人間に無益なものが作り出される現象であり、発酵とは人間に何かしら有益なものができる現象だ。判断基準は「人間にとって利があるかないか」である。

 こうなると微生物にとっては悲惨だ。自分の活動が、人が喜んでくれれば「発酵」、人が嫌えば「腐敗」となり、「発酵」のための微生物は大切にされたり可愛がられたりするが、そうでなければ「消毒」の名のもとに、除去されたり、殺害されたりしてしまう。人間とは、本来自分勝手な生き物なのである。

 こう考えると「罪を憎んで人を憎まず」なんて、結局、人間は多くの場合でやっていないことがわかるね。そして「罪も人も憎んだ」結果、清潔で、安全で、快適な生活が保障されたりしているのである。

 人間とはいっての自然に一部。自然の中で生き延びるためには、こういった容赦のない戦いを繰り広げて、今に至っているんだね。ちょっと消毒が不十分だったり、甘かったりすると、ますます強烈な奴が出てきたりするから、「やる時ゃ、やる!」って姿勢が大切なんだよね。

 もっとも実験室なんかじゃ、入る前に、消毒、更衣(手袋、マスク、帽子などなども含めて)とか、(もちろん手足も含めて)などという行為が、微生物に対する個人個人の徹底的な掃討作戦だし、滅菌室なんてのは、様々な処置で微生物がいない状態を作っているんだけど、これまた微生物にとっては、「徹底的な抹殺」以外の何物でもございませんな。

 罪を憎んで人を憎まず。これで救われる人も確かにいるだろう。でも時には、罪も人も憎まないといけない場合があると、人類の自然界での戦いが、教えてくれているんじゃないだろうか。

2017年5月24日 (水)

自然とのお付き合い

 まとまった雨でしたね(と言っても、直径10㎝の雨粒が落ちてきたのではない)。おかげで水やりの労働からは解放されましたが、人間が水やりをするのと、雨とでは、だいぶ大きな差があるようです。「一日で、えらい大きくなったなあ」と感じますもん。この調子だと、来月の中旬くらいからは、そろそろ収穫が期待できるかも。

 人間がひいこらいって行う水やりなんか、ちょっとした雨降りにもかなわない。単位面積あたりに与える水の量は、人間が水やりした方が多いような気がするんだけどね。本来水やりは、その植物が生えているところだけでなくて、もっと広範囲にわたってやらなければならないんだろうか。局所的に水をやっても、どこかへ逃げてっちゃうばかりなのかも知れないね。

 考えてみれば、もう五月の下旬。知らない間に、月日は過ぎていきます。今年の岡山県は、県北では雪が酷かったらしく、例年なら4月中旬には消える雪が、五月下旬になっても残っておりました。そして雪が残る中、雪解け水が溜まったところでは、イモリが婚活をしておりました(婚姻色を出していた……実はそんな中で、「おやじ」の足跡を見つけたんだけどね。湿地だから、足跡が残りやすいんだよね)。

 それにしても、ここ数年、春になったと山に行ってみると、シカの死骸が多いですな。私がここを訪れ始めた頃には、シカの死骸はほとんどなかったような気が(それでも、1年に1~2頭見かけたかな)するのだが、シカが増えたってことは、低い木の芽は食べられちゃうことになるので、決して嬉しくはない(植林している人の話だと、「植えても、植えても、食べられる」とか)。

 さらには鹿が持ち込む、招かれざる客がいる。ダニである。最近の私は、夏にはここで活動したりしなくなったからいいようなものの、ダニはよろしくないよ。血を吸って10倍くらいに膨れ上がったのを見ると、背筋が寒くなる。病気をまき散らしたりするし。昔ながらの「つつがなきや?」って挨拶が復活するかも知れない(この言葉は「ツツガムシ」から来ているんだとか)。

 本来人間の縄張りではないところに出向くのが悪いんだ、と言われれば、なんとなく納得してしまいそうになるけど、病気に罹ったら、納得どころではないからねえ。「自然と上手に付き合う」なんてことを言いますが、なかなか簡単なことではありません。こちらは上手に付き合っているつもりでも、小さな害虫にまでは、目が届かないから。

 たいていの場合は「上手に付き合っている」んではなくて、「上手に付き合っている気になっている」わけで、禍に出くわさないのは、ただ「運」がいいからだけなのかも知れませんからね。

 物事がうまくいくと、それは「実力」で、失敗すると「運が悪かった」ってことになる場合が多いんだけど、「運も実力のうち」って言葉もあるように、禍を避けるのもできる限り「運」に頼る割合を減らしていきたいものです。(科学の役割かも)

 まだ雨は降り続いているみたいです(夕方、ちょっと小降りだったので、外回りの用事はできましたが)。この調子だと、明日の朝も、水やりからは解放されそうです。(山から移植した、3本のサンショウの苗には、かなり気を使っていますが。なにしろ親木に「大事に育てるからね」と約束したもんで。1本はもう完全に急速成長モードに入ってしまいました。アゲハチョウ避けの網を、大きくしとかないといけません。残り2本も、新芽をふいてはいるのですが、こちらはまだ急速成長モードには入っていないので、目が離せません)

 そうこうしているうちに先日、Mさんが小鳥の餌場を作る材料を持ってきてくれたので、これも作らなきゃなりません。できたら害虫と、害虫の幼虫を食べる小鳥を集めることができれば、私の仕事はいくらか減ります(ただでエサだけやるわけではない。自然界はもちつもたれつです。我が家でもこの基本ルールは同じです)。

 一つ気に食わないのは、野良猫に、私が鳥の餌場を作ろうとしている近所を休憩所と勘違いしている奴が一匹いることです。餌場は地上1m20㎝くらいのところに設置する予定ですし、ネコに対するシールドもつける予定なのですが、小鳥が安心してエサを食べることができないとね。(ネコの餌場にする予定はありません。それはすでにだいぶ前、母が失敗していますから。鳥にエサをやっていたら、結局ネコが集まり始めて…… ただ野良猫がいるお蔭か、カラスなんかはやってきません。近くの電柱にはとまるんだけど)

 ネコは顔は可愛いですが(中には性格も可愛いのがいる)、やることは「殺し屋」ですからね。食物連鎖を壊さない程度に存在するのは問題ないのですが、食物連鎖の頂点の生き物が増えすぎると、あっという間に生態系は崩れ去りますから(ちなみに我が家では生態系の頂点が、時折無断でやってくる野良猫かな。あとはアオダイショウなんかもいるみたいですが、おとなしいもんです。昔はイタチもいましたっけ。今もいるかも知れない。では私の立場は? そりゃあ「神」ですよ!)

 暇を作って、猫の休憩場を、本来私の構想にあった練習場に変えれば、たぶんネコも来なくなるんでしょうけど、なかなか手が回りません。ああ、金と時間がほしい(助力も欲しいですが、いくら忙しくても「猫の手」は借りません。ネコが乱入すると、滅茶苦茶にされてしまいますから…猫には悪気はなくても… 昔、植物を植えるのに、庭を掘っていたら、猫が庭木に登って、いかにも興味津々といった体で見ておりました。で、植物を植えて翌日見たら、ひっくり返しやがってんの! ネコは顔は可愛いですが、やることは悪魔です)。

2017年5月23日 (火)

一枚上の交渉術

 今日も今日で、暑かった。とおもったのに、岡山市の最高気温は28.8℃。うっそ~。もっと高かったよね~。と思ったが、これは肉体労働をしていたせいか(儒教では、肉体労働なんて下賤の者がやることだ! だから私は儒教が大嫌いなのだ)。

 夕方ミジンコを採りに行った。思ったほどは取れなかったけれど(水なしでお茶碗一杯くらいかな?)、我が家の連中の一日分には十分すぎるほどだった。残りは明日以降に回しますね。一番喜んだのはグッピーかな? なにしろグッピーという魚は、なりは小さくても貪欲ですからね(飼い主の顔は覚えません。エサをくれたら誰にでも寄って行きます。あまい誘惑に弱いタイプだね。だから多くのマニアの家庭に、拉致監禁されているのかも。まあペットとしては、それでいいのかも)。私の感じでは、同じサイズのメダカの3倍は食べますね。

 ヒキガエルのオタマジャクシは、ミジンコと初対面なのか、思ったほど食が進んでいませんでした。こんな奴、いるんだよ。エサに慣れるまではちっとも食べないのに、食べ始めたら、恐ろしいくらい食べる奴が。まあ生きたミジンコ(ダルマミジンコ)だけに、水質を悪化させる心配がほとんどないので、こちらとしては気楽。

 タナゴ水槽では、私がミジンコを与えた瞬間は、「なに、これ? ちっぽけな!」なんて顔をしていても、10分も目を離していたら、一匹残らず食っていた、なんちゅう性格の悪さ!「いただきます」と「ごちそうさまでした」は、日本の食卓の基本だろ! 

 可愛かったのはチョウセンブナ(チョウセンブナと言っても、朝鮮原産ではない)。こいつは「お兄さん、ありがとう!」とは言わなかったけど(魚が言ったら、こりゃもう怪奇大作戦!)、全身で喜びを表現していたよ。また採ってくるからね。

 誰かにプレゼントあげても同じだけど、素直に喜んでいただけると、こちらとしても嬉しい。ケチをつけられたりすると、二度と付き合いたくない(かつてこんなことをした、某有名人がいたっけ! やっぱり今では全く没交渉になっちゃいましたけどね)。もらい上手ってのがいて、こんな人にプレゼントするのは、する側の喜びでもあるので、両方ともに幸福感が生まれて、とてもよい(そんな人もいますよね、私の身近にもいたりします)。こうなるとプレゼントは、お互いの幸せのためのアイテムになりますよね。

 ところがどっこい、プレゼントしてもらうのが当たり前になっちゃうと、これは悲惨。プレゼントが気に食わないと、明らかに不平不満が顔に出ちゃったりして。こうなると、プレゼントではなくて「賄賂を要求している」のと同じだ(ほれ、法律の問題になっちゃった)。

 プレゼントは好意や善意の現れだけど、賄賂の要求となると、欲望の公開だからね。人から何かしらのものをいただくのが当たり前になっちゃうと、ただのプレゼントでは満足できなくなって、「自分の希望を叶えるもの」をもらわなきゃ、満足できなくなる。しかも過不足なく。

 まあこんな手前勝手な奴とは、誰も付き合わなくなっていくので、最終的には、(たぶん)孤独な人生を終わることになると思うが、それでも人は死んでみないと人生の全体が見えてこないので、なかなか実感が湧かない。

 ただ、「最近、あいつは、以前のように貢ぐ君ではなくなったなあ」って感じることもあるようで、こうなると人は若干慌てる。慌てた結果、たいていの場合はダブルスタンダードになってしまう。つまり、自分が好き勝手やりたい分野では、好き勝手やるけど、自分が本当に困る分野では、援助は拒みません、なんて偉そうな態度になっていくのだ。

 援助は拒みません、なんてことをいう奴は、本来相手にする値打ちがない奴なんだけれど、「いい人」になりたい人は、それでもすすんで援助をしたがるから、ますますこういった手合いは頭のぼせる。のぼせを治すのは簡単で、相手にしてやんなきゃそれでいいんで、こちらとしても疲れないからいいんだけど、世の中にはお目出度い人がいて、どうしても人助けをして、「いい人」として見られたい人もいるらしい。

 ではなんでそんな面倒なことをしたがるのかと言えば、他者から「あの人はいい人だ」と言われたいからである。これって、立派な欲望なんだけどね。つまりは欲深い存在なわけだ。(こんな人は、自分に余裕がなくなったら、速攻で180℃態度が変わる。ま、人間らしくていいっちゃあいいんだけど)

 自分という存在が、どんな欲にまみれているかを知ることは、自分を知る第一歩だ。それを知らないで生きていたら、たとえ200歳まで生きたとしても、脳みその中はお花畑のままである。こんな人は、年長者だからといって、敬う必要はない。敬われるには「敬われるに足りる条件」がある。

 なんだか、どこかの、なりたての大統領とやらが、好き勝手なことを言っているらしい。こんな時は、「ああ、ご自分でやられたら?」と返すだけで十分である。キレイゴトを語るなら、キレイゴトを、自らの力量だけでやり遂げていただきたい。そうすれば説得力が発生するから、他者も聞く耳を持つかもしれない。やり遂げられなければ、「ああ、そうですか。どうぞご自由に」 このひとことで、自立するしかないことがわかんなきゃ、もう成熟した大人ではない。ご苦労さん!の一言でお終いだ。

 言葉で相手を攻撃する必要なんかない。言葉ってのは便利なものだ。岡山弁では、相手が言った言葉に対して、「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」と返す常套句がある(今はもう廃れたかな。私の親の世代までは、頻繁に使われていたような気がするんだが)。相手が何を言ってもいい。「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」

「そうかな」というフレーズは、相手が言った言葉を聞きましたよという意味である。つまりはなんとなく肯定されているような気分になる(絶対に応諾ではない)。非常に巧い「受け」言葉である。続く「そりゃあ、そりゃあ」とは標準語では「それは、それは」となる。「それはそれは」って何?

 なんとなく相手に感心したり、同調しているように聞こえる言葉である。だが「それでいい」とか「そいつは素敵だ」などとはどこにも表現していない。つまりは、相手を否定はしていないけれど、まったく肯定もしていなければ、受け入れてもいない言葉なのである。

 この常套句は実によくできていて、私の親の世代までは、とても上手にこの常套句を用いていた。実はこのフレーズが必要なのは、もしかしたら今なのかも知れないんだけどね。はっきりYes, Noを言うだけが能ではない。Yes, Noを言わないで物事を進めていくのも、立派なテクニックであると、私は思う(二元論の人々には、嫌われるかも知れないが)。

 うまくいったり、目的を達成できれば、立派な交渉術だ。

2017年5月22日 (月)

不公平!

 村田選手のタイトルマッチの判定を巡り、異論が続出しているらしい。私はちょうど呑み会で、見てなかったのでよかった。見てたらグラスを割ってしまうところだったようだ(我が家では、私が怒ったぐらいでは割れないように、丈夫なグラスを使っていますが……自分の性格を熟知しているので)。

 ホームタウン・デシジョンってえのは大昔からあるよね。でも逆ホームタウンデシジョンなんてのが存在するのは、私が知る限りは日本くらいのものじゃないかね。そんなにしてまで外国に遠慮しなくてもよさそうに思うのだが。

 スポーツ界は明らかに欧米主導である。欧米で作られたルールで、欧米人にあった企画で行われる。顕著な例としては、スキーのジャンプなんかは、もろこのパターンだ。スキー板に加わっている制限なんて、明らかに日本人に不利に(とはいわなくても、少なくとも有利にはならないように)どんどん改定されている。水泳の泳法に関するルール改正なんかも、同じようなことがあったと聞く。

 体力差と、ルール面での不利、そこを新たな技術開発と、選手の研鑽で越えていく、わが国のスポーツ界に最大限の賛辞を送りたい気分だが、本来スポーツ界は「公平な条件」で競技力を競うはずの世界だ。肉体的に恵まれているとは、必ずしもいえない日本選手が、工夫とたゆまざる努力で、様々なハンディを乗り越えているのを、どうしてルール改正などで制限したがるのかわからない。

 ではライオンやゾウに立ち向かうのに、徒手空拳でやれっていうのですか? 身体能力が違う相手に、工夫や研鑽で立ち向かうってのは、圧倒的な能力さを工夫でなんとかカバーしようとしている努力なんですよ。それこそが人類が、自然界で生き延びてきた原動力なんですが、それを否定するんですか(ドーピングは私も反対ですけどね。不健康になってまでやってどうするの? って問題ですよね)。

 ルールを最大限活用して勝つことは、人類が頭脳を使うからできることで、反則をして負けて「本当は俺の方が強かった」なんてうそぶいている人は、競技スポーツなんかやる資格はないわけで、反則しないでルール内で工夫して、相手を凌駕しようってのは、もしかしたら人間の本質なんじゃないですか?

 勝つためにルールをいじくるなんてえのは、それまでのルールに沿って競技力を高めてきた選手に対して、あまりにも無慈悲なんじゃないですか? ましてやわけのわからない判定なんかについては、もう言語道断ですね!

 もちろん人間のやることですから、完璧はありません。しかしながら大方の人間が納得できないような判定ならば、そういう判定を下した理由説明があってしかるべきです。理由を明快に説明できなければ、普通に考えて「審判資格はく奪」ってことになるのではないですか?

 私も長いこと、自分を含めてこういう世界にいましたから、納得できなかった裁定や審判は、一つや二つどころではなく、たくさん経験しています。おかげで人生が変わってしまった選手もいます。審判ってえのは、アマチュアスポーツでも人の人生を変えることがあるのですから、性根を入れてやってもらわなければなりません。

 性根を入れてできずに、「疑惑の判定」を行うような人に対しては、それなりの制裁が加えらなくては、やっている選手や、その選手をサポートしている人たち、ファンなどはおさまりませんよ。そして「疑惑の判定」を行えば、一番の被害を蒙るのは、その競技自体です。ファンが白けるからね。白けたら見なくなっちゃうもんね。

 かつてプロボクシングでKとかいう兄弟が話題になっていたことがあるけれど、あまりにひどいので、私は全然みなくなっていた(私の周囲には、こういう人がけっこう多かった)。幸いにK兄弟の後に、才能豊かな素晴らしいホンモノの選手が続出してきたので、再び見始めたんだけど、もしK兄弟の後、しばらくホンモノが現れなかったら、そのまま離れていったファンもいるんじゃないか。

「疑惑の判定」(ひどい時には「疑惑の解説」なんてえのもある。凄い技にコメントせず、どうでもいい技を、さも素晴らしくコメントする、などである)が招くのは、ファンの「シラケ」だけだ。そうでなくても近年は、競技団体などの努力が報われているのか、ファンの目が肥えてきているからね。少々の嘘は、テレビの前のファンにさえ見破られてしまうことが少なくない。

 一度下った裁定は、普通は覆らないものだが、明らかな誤審については、覆すと同時に、その判断を下した審判にも、相応のペナルティが下されるべきである。選手は一つ間違うと、生命の危険があるかも知れない場合だってある。そんな選手を、いい加減な審判(あるいは袖の下をつかまされて、最初から不正を働く気満々の審判)が裁くのは、絶対に許されるべきではない。少なくとも選手と同等の危険を背負わせるべきである。

 とまあ、私なんかは、こう考えてしまいますね。私自身も「生涯、絶対に納得できない判定」ってのを経験したことがあるので、特にそう感じますよ(その時の審判とは、私は、以後一切口をきいてない。おそらく死ぬまで口をきくことはないと思う。今、生きてるのか死んでるのかも知らないが)。

 審判が公平でなきゃ、選手はあほらしくてやってらんないよ。だから真央ちゃんは凄かったねえと、今更ながら感じます。審判面であれだけのハンディを背負っても、正々堂々と演技してたし、ちっとも悪びれてなかったし。(もちろんシドニーの篠原選手や、そのほかの大勢の、不可解な判定に泣いた選手のみなさんにも)

 私個人は、疑惑の判定を行った審判員は、選手がドーピング違反を犯したのと同程度の処分を下すべきだと考えています。誰か公の場で提案してくださいね。

2017年5月21日 (日)

自然を真似る?

 昨日よりちょっと涼しいな、と思ったら、なんと本日の岡山の最高気温は29.9℃だったんだそうな。おしいっ! なぜかしらこう感じてしまうのが不思議なところだ。30.0℃も29.9℃も、感じる側としてはそう違わないのだが、最高気温が30.0℃を超えれば「真夏日」で、25.0℃~29.9℃は「夏日」なんですね。「真」の字がつくかつかないかで、なんとなく残念な気がするのが不思議だ。

 まあ晴れてるのか曇っているのか、黄砂が覆っているのか、黄砂が覆っているのかわかんないような日だったので(黄砂が覆っているのだけは確かだった)、多少気温の上がり方が鈍かったのかな? それでも「蒸し暑い」と感じたから、何かほかに原因があったのだろうか。おかげさまでとうとう、食事後のコーヒーは、本日からアイスコーヒーに変わりました。アイスコーヒーには学生時代からちょっとうるさかったので、相も変わらず丁寧に(けれども短時間で)淹れます。ああ、おいしっ!

 先日採取してきた、ヒキガエルのオタマジャクシが、非常に元気になったので、そろそろ餌を考えなければなりません。「生餌」が一番なので、餌を採取してこなくては。たぶん彼らが生まれたところにはいなかったような生餌を探してくると思うので、成長が加速するかもしれません(栄養価が高いと思われるので)。

 なぜにヒキガエル?と思われるかもしれませんが、大学時代にいた東京では、ヒキガエルは古いお屋敷みたいなところ(の縁の下など)に住んでいたのに、岡山へ帰ってびっくり。お屋敷ではなくて、森林なんかにいるんですね(このオタマジャクシも森林の、かなり人里離れたところから連れ帰りました…実はオタマジャクシのいる水たまりの水が干上がりそうなくらい心細くなっていた。酸欠らしく、けっこう苦しそうなのもいたので、「全員は連れ帰れないけれど、ちょっとだけなら分担するよ」とばかりに、いつも車に載せているプラケースに入れて連れ帰ったのだ)。

 ヒキガエルは、カエルとしては原始的なタイプで、ジャンプが苦手だ(跳ぶと、頭からつんのめって、ひっくり返ります)。しかも手足が出てしっぽが消えたばかりの「なりたてのカエル」は、成長しきった成体に比べて「同種?」と疑うくらいのおチビさんです。ただ頑張って虫を食べてくれるということなので、我が家(我が家だって相当には年季ものだし)に導入してみようかと思いついたのですが、陸に上がったら、野良猫に襲われないよう、気をつけてやんないと。ネズミを捕るのがネコで、トリを取るのをトコ、ヘビを取るのをヘコとかいうらしいけど、カエルを捕まえるカコなんて聞いたことがないし。

 夕方、水槽の水替えを同時に2か所でやりながら、作物に水やりをするという離れ業(三か所で同時に物事が進行する)をやっていたら、もうちょいで事故が起こるところでした。巨大水槽の水を抜きすぎそうになったんですね(魚が全部ヒラメになっちゃう?)。危ないところで気が付いて、セーフだったけど。昔はよくやったもんです。水を入れすぎて「ノアの大洪水」とか、ね。

 ぎりぎりのタイミングで調整して物事が進行するのが、最も時間をロスしないんですが、何かで手間取ると、こういう事故が起こるんですね。でもなんとか無事に終了して、ほっと一息です(水替えの水は、この時期には作物の水やりに使ったりします。亜硝酸塩やら硝酸塩やらが豊富な水は、水槽の中では水質の悪化なんでしょうが、陸上植物にとっては宝になったりすることがありますからね)。

 うまく利用すれば、捨てるものなどない、なんて使い方も不可能ではないのでしょうが、この循環システムを作るのがなかなか難しい。ペットルームを作ったころは凝りまくって、水槽のろ過システムだけでも3種を併用してたし、上部ろ過槽には抽水性の植物が植わっていて、それようの照明なんかもつけていました(すごい勢いで成長します)。しかも上部濾過槽はたいてい三つ取り付けていて(水槽がでかいので、こんな遊びができた)、常に稼働しているのが2つで、一つは意識的に乾かしていたりしました。なぜかというと、「水際域」と作っていたんですね。水際域の浄化作用の強さは、かなりのものがありますから。

 で、水替えで捨てるはずの水は、きっちり水草水槽に入れて浄化&水草の生育に利用して、あとははるか以前に西ドイツ(東ドイツを合併する前の)で作られていたエーハイム(昔のエーハイムは壊れませんでしたよね~。さすがドイツものと感心していましたよ)、さらには巨大な水作も使っていたから、考えてみると、ろ過しシステムは4種混合だったわけだ(三種じゃなかった)。

 これも完全に稼働させるには、かなりの労力が必要で、やっぱり長続きはしなかった(3年近くは頑張ったと思うけど)。人間が「大自然」の真似をしようとすると、寿命が縮むなあと、あの頃はつくずく感じていましたなあ(それだけ、まだ暇と体力があったってことでもあるけど)。

 アマゾン原産の熱帯魚にはまっていたころ、友人と話をしたことがある。「どうして原産地の美しさが出せないんだろうか?」「せめて幅が50㎞、長さが500㎞、深さが20mくらいの水槽があったら、出せるんじゃない?」「だれがそんな水槽を管理できるっていうの」「やっぱり無理か」 間違いなく、一日で見回れるサイズではない。

 はい。自然を再現するなんて途方もない望みを抱くより、自然の片隅でひっそりと、ほかのものたちに紛れて、自然からの分け前をありがたくいただいて生きるほうが、はるかに楽です。あとは少しだけ自然界に働きかけて、その分、自分たちに好ましいものを分けていただければ、それで十分なのかも。

 スイレンが咲いた水たまりで、チョウセンブナが元気に泳いでいます。ずいぶん前にこの水たまりに入れたもので、冬の寒さにも、夏の暑さにも負けず、頑張っていたんだねえ。もうそろそろ交尾に時期がやってくるので、ちょっとだけ栄養をつけてやることにしました(もとよりこの水たまりでは、ミジンコが発生するようにはしてあった)。

 ずうっと放置していたので、エサをもらっているのに、逃げ隠れします。「そんな悪い性格の子に育てた覚えはないぞ」といっても、もう1年以上も放置しているから、忘れてるよね、養育の恩なんて。それにサイズの小さいのが何匹も一緒に泳いでいたから、人知れず昨年殖えていたのかも(これじゃあ、恩なんて感じるはずがない?)。

 大自然の真似はできないけれど、ほんの小さな環境ならば、マネができないこともないみたいです。

 …悟已往之不諫 知来者之可追 実迷途其未遠…   陶潜『帰去来辞』より

2017年5月20日 (土)

暑くなりました(ふうふう……)

 やっぱり! ということで、今日の最高気温は30.9℃(岡山市)なんだそうな。クソ暑いと思ったんだよ。ちょっと動いただけで、汗みどろだもん。でも今はシャワーを浴びて、気持ちのいい風に吹かれて、なかなかいい気分でございます。

 最近の天気の変化は、なかなか人間の身体には対応しにくいんじゃないかと思うくらい激しいように感じるんだけど、まだ岡山の県北には、ちゃっかり雪が残っていたりするんだ(例年なら4月中旬には消える)けど、まあ、変な年である。(そりゃあ、熊だって出てくるわな。きっと驚いて対応できないんじゃないかな、熊も。で、人間様はどんな過ごし方をしているのかが、気になって、覗き込みに来ているのかもしれない)

 ということで、これから呑みに出かけるからね! 作物の水やりは、帰宅してから(べろんべろん?)。日が照っている最中の水やりは感心しないからね。

 お山からお持ち帰りの山椒の苗も、3本中2本は、ほぼ確実に根付いた。最後の一本が乾燥しがちなところに植えたので(毎日、神経質に水やりをしてます。だって乾燥しがちとは言っても、水道から1m離れていないからね)、若干気になるが、ほかのはもう枝が伸び始めているから、もう少しだけメンテに気を付けようって感じですね(アゲハチョウ対策が大変だけど)。

 ということで、ここのところ急に気温が上がってきましたんで、熱中症にはご用心! 予想以上に汗をかいているよ(私もビールが手放せなくなりました。アルコール飲料は脱水を起こすからいかん、という説がありますが、そうかなあ。私はビールに限ってはいいような気がするんだけどね。水は2リットル飲むことは大変だけど、ビール大瓶3本なら、たいていの人は飲める…未成年の人はダメですよ…ような気がするんだけど。

 まあ、アルコールの分解も、ある種の「慣れ」ですから(体質的にアルコールが分解できない人に、無理強いはイケマセン。それと今まであまり飲んだことがない人に、大量に飲ませるのも、よくありません。それからビギナー、ベテランを問わず、一気飲みも感心いたしません)、飲んでるうちに強くなるので、20歳の誕生日から、特定の例外を除き、ほぼ皆勤賞で飲み続けている私なんかは、「飲まない」ことに「慣れていません!」もう生活のパターンになっちゃってるからねえ。今更「ビールは水分補給にならない」なんて言われても、説得力がまったくありません。

 そうそう、先日思いついて、1週間だけ試験的に禁酒したことがあります。その結果わかったこと。①経済的に楽 ②めちゃくちゃご飯を食べてしまう ③おかずを食べる量が減り、栄養のバランス維持に疑問を感じた ④夕ご飯にかかる時間が、飛躍的に短くなった  ⑤禁酒を禁止して飲み始めたら、めちゃくちゃ呑めた(ビールなどに対する飢餓状態だったのね、きっと) などなどの変化がありました。

 ただ私的には、夕ご飯時にDVDなどをよく見るので、精神衛生上は必ずしもよくないような気がいたしました。人はパンのみにて生きるものにあらず。心にもしっかりとした食べ物を与えないとね! だから夕ご飯時の飲酒は、栄養のバランスをとるためと、精神的な栄養補給に、非常に大きな意味を持ってるんですね。

 アルコール万歳! 今日もこれから、飲むぞ~っ! 岡山のお酒と、日本ではほとんど手に入らないお酒でも持参しようかなっと。それともう一つ、めったに食べることができないものも(何でしょね? お楽しみに。またマスターに面倒をかけちゃうことになるんだけど…サルでもできる程度の反省をします!)。

2017年5月19日 (金)

夏は来ぬ

 いい天気で、暑かったですねえ。今日の岡山市の最高気温は30.0℃だとかで、これはもう立派な夏ですよ。あまりの暑さに、帰宅後一番にシャワーを浴びなければ、やりきれなかった。

 ホトトギスの声は今月どこかで聞いた気がするので、あとは明日にでも蛍を見に行って、いればもう夏だよね。(クイナも早乙女も無視である。だいたい早乙女なんて、最近はとんと、わが岡山では見かけない。クイナなんて、まだ生息してんの? って感じである。あ、明日は『○○を語る会』でした。蛍を見に行くわけにはいかないなあ…… でもたぶん、もう姿を現しているころだよ)

 今年は花粉症(黄砂症?)が治る前に夏がきちゃった。おかげで肉体的な準備が不十分である。これから1~2週間で大急ぎでやんなくちゃ。ますはその第一として、汗腺の活動を活発化しなくちゃらない。こいつは若干の忍耐を必要とする作業なので(毎年やってますけど)、面倒なことは間違いない。

 体内の水分の循環が加速されるので、気持ちはいいんだけどね。水分補給には、若干気を付けないといけない(放っておくと、身体がカサカサになった感覚があります)。あとは睡眠時間に気を付けて、栄養補給に気を付けて、それで夏を迎える準備は完了するはずです。

 我々人類は恒温動物なので、周囲の環境にはあまり影響されないはずなのですが、気温が上がれば、否応なく活性化されます。これは本人の好む好まないには関係ありません(クーラーをガンガンに聞かせた部屋から、ずうっと出なければ、年中冬でいられますが)。強制的に夏仕様にされてしまうんですね。

 これではなんとなく情けないので、自分から進んで夏仕様の肉体に変えてしまおうというのが、私のやり方です。起こる変化で顕著なものといえば、身体が軽くなる。ビールがうまくなる。やたらとアイスコーヒーがほしくなる(あくまで個人的な好みの問題ですが。ちなみに私は自分で淹れるアイスコーヒーの美味さに、かなり自信があります)などなどがあります。

 で、夏を迎えるのですが、今年の天候は、変化があまりに急激なので、対応にちょっとだけ時間がかかりそうです。ま、そんなこんなで、忙しい日々になりそうです。

 今日は一ついいことをしました。道路を横断中のアオダイショウを、上手に回避いたしました。蛇という生き物はやたらと長いので、交通事故に遭うことが少なくないんだよね。でも多くは害獣を駆除してくれるので、益獣(獣でなく爬虫類なので、何と呼べばいいのか)なんだよね。とっさの急ハンドルで躱したけど、ひかなくてよかった!

 帰宅して、ミニバラの背後の草を取ったら、なんとなく間が抜けてしまいました。ユリが咲くにはまだ少し時間がかかるので、何を植えようかと悩んでいます。中くらいの背丈の、赤い花がいいんだけどね……

※ 明日は今月の『○○を語る会』でございます。よろしくお願いいたします。あまり暑くなきゃいいんだけどね……

2017年5月18日 (木)

何か変……

 一気に、「日陰が恋しい」日になりました。車を転がしていると、建物の影に入ってスマホをいじくる作業着姿のお兄さんがおりましたが、その気分、わかる、わかる。眉間のしわもわかる。なんたってまぶしいからね!

 それでも遠くの山は、まだまだ白い。この状況は、某「自称大国」が、わが国の西に存在する限り変わらないのか、あるいは地球の自転が逆転して(こりゃ大変だ。天変地異なんて生易しい表現では言い表せない、とんでもない現象が起こって、生物に壊滅的な打撃がある)、ジェット気流が逆方向に吹いてくれないと直りそうもない。どっちにしても、かなり難しい問題だ。だから喉の調子が悪くて、声が出ないのを我慢するしかない。

 昨日は、実にうまい具合に通り雨があったが、今日は朝の水やりを忘れなかったので、雨の「あ」の字の気配も感じられない(夕方…もしかすると深夜?…の水やりの準備は完了した。そうでなくても私は夜には強いので、夕方ないしは夜の水やりを忘れることは、家にいさすれば、まずない。へべれけに酔っぱらっていても、である)。今日は雨は必要ないからね、それでいいんだ。

 とまあ、岡山県南は順調に夏に向かっているのだが、なんと昨日和気町(けっこう南だ)にツキノワグマが出現したんだと! こりゃあクマったことだなあ。 っていうか、すでに私は先週、クマの足跡を見てたからね。「ほう、これは2日くらい前のもんだね、きっと」と思ったんだけど、あまり社会を騒がせたくないから、騒がなかった(山では騒ぐけど。クマ寄ってこないよ)

 クマって生き物は、外見はかわいいんだそうだが、身体能力はたいていの分野で人間を凌駕している。私は全盛期のウィリー・ウィリアムスではないので、素手でクマと殴り合いをする気はまったくない(ちなみにクマとやった後のウィリーとは、世界大会の会場で会ったので、握手してもらった。でっかい手だった。クマの爪の跡がちゃんと残ってたよ、前腕に。ま、脚の付け根が私のみぞおちまである人は、すでに同じ人類なのかな?と疑ってしまいましたけどね)。

 動物園とか、安全が確保された場所で会うのは、別にどうってことはないけれど、大自然の中で、野生の猛獣と出会うのは、あまりうれしいことではない。足場は悪いし、何がどこにあって、いつ、どういうことが起こるか予想できないからだ。

 試合場なら、平坦な場所で、可能な限り互いの条件を平等にしてやりあうわけで、公平性が確保されるから「競技会」として成り立つわけだけど(公平性が成り立たない国や地域もあるんだそうな。ホームタウンデシジョンってのは、どこでもあるもんだけど、それ以外の条件を変えられたら、こりゃあもう「試合」ではございません)、大自然は「競技会」なんてものを考えてはくれませんから、有利な状況に立ち、その場の条件を自分に有利に利用できるモノが強い。

 だから人が少々強い弱いなんか言っても、大自然の中でその実力が発揮できるかどうかは、まったくの疑問だ(たぶん実力の半分も出せないのではないか)。つまりは大自然で野生動物をやりあうのは、あちらの土俵で、あちらのルールに従って戦わなければならないので、相手にもよるけど、勝てる可能性は極めて低くなる。

 ま、先日クマの足跡を見かけたのは、かつて私がミニ山籠もりをした場所からそんなに遠くはなかったんだけどね(クマの速さなら30分はかからないだろう)。だからあの時のミニ山籠もりは、本当に怖かったんだよ。身を隠す場所もまったくない状態で、徹夜したんだけど(武器は持ってました。各種)、一晩中、極限の緊張というのを経験したんですね。だからあのミニ山籠もりは、私の人生で大きな影響を与えていると思っている。(やろうと思い立った時に、なんでもやっておくべきですね~。今じゃあ、絶対にやる気にならないよ)人生に感謝である。

 とまあ、今年は変な年なので、変な時期に、変な生き物が動いております(この20年間余りで、こんな年はなかった)。こういう時には予測がつかないことが起こるので、皆さんも十分注意して活動してくださいね!

※ ということで、今月の『○○を語る会』は今週の土曜日、5月20日でございます。よろしくお願いいたします。

2017年5月17日 (水)

甘さ

 なかなか不可解な天気であった。朝、水やりする間がなかったので、昼頃のにわか雨はありがたかったんだけどね、夕方はもうちょっとは降るかなあと思っていたら、空振りだった。おかげで私は「明るい農村」のこまごまとしたことをやっているつもりで、真っ暗になってしまい、何も見えなくなってやめた(先日はこの状態で草ぬきをして、草ではなく作物を抜いていた…涙)。

 支柱を建てようかなと思っていたら、Kさんが来てくれて、やはりトマトの出来が尋常ではないというお墨付きをいただいた。私はトマト大好き人間なので、ありがたいことだ。今は「キイチゴ」の実がなっているので、草ぬきのついでにいただいているけどね(とても美味しい。控えめな甘さが、うれしい)。とはいっても今日は、邪魔になったキイチゴは切り倒したんだけどね。人間は勝手な生き物なので、許してくださいませ。

 で今は、お師匠様から送っていただいた夏みかんを食べながら(これがまた美味しい。例年のものよりも甘みが強いようで、さらに美味しい。今年は出来がいいのかな?)、これを打っている。もしも希望があれば、今週の土曜日に持参してもいい。過大評価でなく、本当においしいから。

 だいたいお師匠様と勝負していた時なんか、お互いに過大評価なんかとは無縁だった。どちらも「超」がつく現実主義者だったからね(お師匠様は、決して私を甘やかしてくださいませんでした。私が一番感謝している点でもありますけどね。いつだって勝負の場では、真正面から叩き潰しに来てくださいましたもん。だから今の自分がいると思ってます)。今じゃあ好々爺?になられて、果物作りも、さすがに名指導者に恥じないものをお作りになって、かっこいい人生だと思いますよ。(好々爺のように見えて、やっぱり自然か何かと戦っておられるんじゃないかと思っていますけどね。人の本質は、変わるもんじゃないからね。

 戦う場所や状況や、戦いの目的が変われば、当然戦い方は変わります。それぞれの目的や状況によって、もっとも適した戦い方をするのが、私は「かっこいい」と思っちゃうんですよね! 近いうちにお邪魔したいなあ(「山荘?」に招待はされているんだけど……わかる人にはわかる、山荘への招待でございます…笑)。昔はお師匠様の家から通勤したこともあったしなあ……(ちなみに私の最大通勤距離は850㎞です。当然午前中には間に合わなくて、真っ暗な頃起きて、昼頃ようやく職場に到達いたしましたが。あの頃はまだ元気がよかった?) ま、何か私の勉強とかためになるとか思うと、フットワークは軽かったからねえ。(今は超重たい…涙)「矢も盾もたまらない」といった心境になってたんだよね。

 おかげで晩御飯の支度が遅くなっちゃって、面倒くさいので「イカ、鹿、豚の黄金炒飯」なんてけったいなものを作っちゃいました。(イカの代わりに蝶々が入れば、「イノ、シカ、チョウ」になって、花札だったんだけどね。大金持ちトランプ大統領にでも勝てそうだ。ただ悲しいことに、いろんなものを食べてきた私だが、蝶々を食べたことはない…食べたいとも思わないけど)

 簡単に言えば、冷蔵庫の中のものをなんでもぶち込んで作っちゃったって感じだけど、こいつが意外にうまかったんだねえ。「ええっ? こんな甘みが出るのっ?」って感じで。ちなみに私は、甘味料はあまり使わない人で(砂糖の分量なんか、料理レシピの五分の一くらいかな、せいぜい)、甘くはないはずなんだけど、素材が持っている旨さが出た結果として、意外な甘さになったのではないかと思っている。

 意外なところで、意外な「甘さ」に気づいてしまうのは、お師匠様との真剣勝負の日々を思い出させてくださるような気がして、なんとも言えない気分だ。厳しい勝負だったからこそ、今思い出してみると、素晴らしい味わいがある。無我夢中で、睡眠時間すら削りまくって(今でもあまり変わらないか? 習慣になっちゃったのかねえ)何もかも捨てて挑戦していたあの頃がなかったら、今の私は絶対にいなかったと思う。それが「ちょっと遅れて感じる甘さ、旨さ」なんだよね。

 自分の人生を振り返ってみて、「なんちゅうくだらない人生だ」とは思っているけれど、お師匠様に挑戦していた時代は、やっぱ自分の中で別格だよね。あの時代の自分には、「合格点」をあげてもいい。もう一度できるかと?問われたら、「う~~ん……(ということは、できない可能性が大きいということだ)」。

 実は今年も、あれこれとやんなきゃならないことが多いんだけれど、お師匠様のところへは行かないといけない(昨年もそんなこと思っていたんだけどね。行こうと思っていた時期に、ちょっとした妨害が入ったもんで、行けなかった)。今でもなかなか褒めてはいただけないんだけど、それが後になると、なんとも言えない「甘さ」に変わっていくんだよね。

 私は「師匠運」に恵まれた人だと思っているけれど、この幸運は最大限味わっておかないとね!

※ 今月の『○○を語る会』は、今週の土曜日(20日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年5月16日 (火)

時代おくれ

 花粉はもう終わっているはずなのに、まだ鼻が詰まる。山が白いから、黄砂のせいだろうとは思うけれどね。

 なんでもM学園のK理事長が、「新たな資料」を公開したんだそうな。しょーもな!何が今更、「新たな資料」なもんか! 北C鮮は新型ミサイルをぶっ放すわ、K国は新しい大統領が決まって、想像通り頓珍漢なことを言ってるわ、世界は動いているんだ。今更M学園問題の、どこが「新たな」んだ? あほみたい。

 まったく私個人の見解だが、そもそもあのM学園問題は、北C鮮の一連の動きに対する陽動か、あるいはまあどこかの蝋燭デモだとか、どこかの反大統領デモに関連した、一連の動きの一つとしてしか見てなかったけどね。

 いつも本ブログで言っているように、「偶然の一致」なんてことは、歴史をみてもほとんどないわけで、「偶然」に見えても、実は「必然」であって、どこかの誰かの意思が反映されていると思っているからね。歴史が好きで(親父の影響)、あれこれ漁ってきた結果が、「偶然」と思われていることのほとんどは、実は「必然」なのだということを確信することにつながった。親父は偉大だ。

 だから、すべてが一連の流れの中で起こっている動きだと思っているよ(もちろん、具体的な行動を起こされている方は、すごいなあと思ってはいるんだけどね。もしもこういった自発的に動く人がいなかったらどうなるのだろうか? 簡単である。そういう人を「作り上げていく」だけなのだ。歴史上、こういった「他者によって作られた人物」も、決して少なくはない。

 俗に、「時勢が英雄を生む」なんてえことを申しますが、もしもその「時勢」とやらが、誰かの意思によって作り上げていると考えたら、実は「英雄」すら、誰かによって作り上げられているだけなんじゃないかと思ったりする。(考えてもごらんよ。昭和初年のころ、人々を熱狂させた人が、もし平成の今いたとしたら、果たして熱狂は生まれただろうか? ビートルズが現代にいて、普通に活動していたら、果たしてあの『ビートルズに』なれただろうか…私はビートルズが好きで、ほとんどの曲は持っているんじゃないかと思うけど、客観的に見てそう思う。もちろん、ビートルズという存在と、彼らの活動があったからこそ、今の音楽界があるということには確信を持っているけれど。歴史の面白さはここにある。斎藤道三は織田信長よりも有名ではないけれど、では斎藤道三がいなかったら、果たして歴史上革命的な織田信長という人物は誕生しただろうか?というのと、よく似ている。時間軸の中では、なかなか先に生まれて、それなりの活動をした人には敵わないというのは、そういうことだ。その人の影響があったから、○○できたのだと言われれば、それを全否定することは困難だ)

 でもそんな中で、上っぱしりしてしまって、本質を忘れてしまっているとき、ふと本質を見直させてくれる存在は、大変ありがたい。たいていの場合は、何気ない瞬間の、一見何気ない一言だったりするんだけどね。

 こういう人は、特に目立ったり、大口をたたいたりはしない。ましてや自分「らしくない」こともやらない。ただただいつも通りに、気取らないしぐさで、気取らない言葉を吐くだけだ。それでもちゃんと、人が生きるってことを外していないんだよね。

「時代おくれ」という歌は、河島英五さんの歌だが、阿久悠さんの作詞だ。さすが、阿久悠さんだなあ。どこかの、無理ばかりをして、目立とう目立とうとばかりあくせくして、似合っているのかどうかわからないことに狂奔して、人の心もちっともわからず、時代の最先端を走っているつもりになりたい人の言動を見ていると、こっ恥ずかしくなっちゃうよ!

 いまさら「新たな資料」でもないでしょうが。もう誰も、あんたのことなんか見てねえよ! 見ているとしたら、何か特別な意図か、使命か、考えを持った人くらいだけなj¥んじゃねえの。

 自分の役を演じ終わったら、速やかに退場しなければならないのが、この世の習わしである。いつまでもいじいじしていると、そのうち、大変な税金が(あるいは出演料が)課せられることになるよ!なんたって、あんたの時代や演技は、もう終わっちゃっているんだからね!

 そうでなくとも歴史上の「必然」を感じさせなかった存在なんだから、こうなってしまってはすでに「ゴミ」か「雑音」以外の、ナニモノでもないんじゃないかと、私は思うね! そいつにとって舞台は魅力的に見えるんだろうけど、自分の役割が終わったら、速やかに退場しなくては、劇は進行していかないよ! 全体の流れが滞っちゃうんだ! さよなら、だね!

 ※今月の『○○を語る会』は、五月20日の第三土曜日でございます。よろしくお願いいたします。なお格闘の技は教えません。十年ほど前にこの店の対岸と思しき場所で、推手をやっていたら、警官を呼ばれた経験があるからね(苦笑)。誰がニコニコと、和気藹々の雰囲気で、喧嘩なんかするか(ただし、いろんな武道の高段者がいたことは、否定はしませんが…笑)。みんな酔っぱらっていい気分で、ニコニコと推手をやっていたんだ。言ってしまえば、一緒に踊っていた感じだったんだけどね。

 ちなみに警官に注意された後は、白けちゃった気分直しに、四次会でまたしても飲んだような記憶がある(笑)。これは警官の時代おくれというよりは、むしろKYという感じだったですけどね。 

 私にとって、突然推手が始まることは、全然珍しくない。いきなりハワイのホノルル空港ので、120㎏はあろうかという巨漢と始めて(当然日本人ではない)、空港の係官にあきれられたこともあるし。(すべては親愛の情の表現。ハグの前の遊びみたいなものだけど)

 でも説明して相手に理解させるのが面倒いから、もうやらなくなっちゃったんだよね。とても残念なことだけど(本心では、駆け付けた警官相手に、相手がこちらを取り押さえようとするのを推手で煙に巻いてしまいたいという欲求があるんだけど、日本の警官はくそまじめだから。おとなしく取り押さえられないと「公務執行妨害」とやらを取られそうなので、冗談がわかんない奴には、冗談は言わないことにしている)。でもスキンシップは、本当は大切なんだよ!

2017年5月15日 (月)

大笑いは健康によい?

 本日版の産〇新聞を見て笑った(嘲笑ではない。若干の「そうそう、そうでなくちゃ」という気持ちが含まれている笑いだ)。いつも愉快な(人によっては、愉快などとは言えないのかも?)国会審議を見せてくれる、N.I.の会のA議員が取り上げられていたからだ。(私はしょっちゅう、この人の発言で、大笑いさせていただいている。いやあ、大笑いは健康にいい、だけではなく、社会を考える上でも、重要な意味がある。眉間に皺よせて、こめかみに青筋浮かべているよりは、はるかに有意義だよ!)

 別に漫談でもお笑いでもないけれど、妙に(ぜんぜん妙ではありませんが)人を納得させる。我が国の将来を考えるなら、何でもかんでも反対するのではなく、「我が国の将来を、よりよくしていけるような方向で」意見を出す人が望ましい。それが本来の野党の姿であろうと、私は思う(反対するだけなら、ただの天邪鬼でしかない)。目的はただ一つ、「この国に、豊かで、平穏で、輝かしい、繁栄の未来を!」である。

 そのための意見なら、多少耳に痛くても、拝聴しなければならない。これは社会人だったら、「あったりまえのこんこんちき」の態度だよね。反対のための反対、審議拒否のための時間稼ぎしかできないのなら、こんな人を我々の(少なからぬ)税金で養う必要はない、と私は思うんだがね。ましては我が国(ひいては我々の生活)のマイナスにしかならないようなことしか発言しないのであれば、あとはたいていの人が同じ結論に達すると思うよ。

 私はほんの小さな子供のころから、束縛されるのが大嫌いだった。子供のころには過激にも、「規則は破るためにある。もしも誰も破らないのなら、規則なんか作る必要すらないだろう」などと危険なことを口走る少年だった。

 ところがえらいもので、人は子供から大人になっていく。これは何も肉体的な変化だけをさすのではない。その過程で多くのことで頭を打ち、いろんなことを考えた。疑問はいっぱいあった。その中で気づいたことがある。「人間は社会的な生物である」ということだ。

 人間は社会を作って生きていく。中には「一匹狼」を気取る人もいないではないが(私なんかは、その傾向が強いかもしれない)、完全なる一匹狼は、人間である限り存在できない。人は一人では、大したことは何もできない。それどころか生きていくことすら不可能なのではないだろうか。

 例えば、たった一人でサバイバル的な環境に置かれたとする。サバイバルではいろんな道具を自分で作らなくてはならないが、作る道具ってのは、すでに誰かがどこかで、いつの時代かに発明したもので、その道具の知識があるから作り出すことができるのではないかね?

 まったく何の知識もない状態で、「ゼロ」から作り出せと言われれば(それこそ、「発明」なのだが)、様々な障害が待ち受けていて、すぐには作り出せないのが現実ではあるまいか。しかもサバイバルの専門家の意見では、「たった一つだけ持ち込んでもいいと言われたら、ナイフを持ち込む」のだそうである。

 確かにナイフ一本あれば(手先さえ器用なら)、様々な道具を作り出すことが可能かもしれない。でもよく考えてみるとわかる。人類がナイフを手に入れるのに、どのくらいの時間がかかったのだろうかということだ。

 最初は打製石器で偶然にナイフ状のものができ、それを利用したのかもしれない。次は磨製石器で、意図的にナイフの機能を備えるような形状に作り上げた。金属の利用が始まると、人類はまず最初に剣を作り(剣ほど長くはありません。短剣から長剣に至るまでには、多くの人々の試行錯誤が必要でした)、それから剣よりも戦で威力を発揮しやすい刀を作り出しました。この間、どれくらいの時間が必要とされたと思いますか? 十年や二十年ではありませんよ。

 ましてや現代のナイフのような機能を持つには、もっと長い時間が必要でした。どうしてでしょうか? 多くの人々の技術革新と努力、研鑽が不可欠だったからです。だから「ナイフ一本あれば、たいていの環境では生きていける」という人でも、一人で生きているわけではありません。多くの先人の工夫と努力の果てに、その人は「ナイフ一本あれば」などと発言しているのです。

 人は絶対に一人では生きていけません。もしも一人でも生きていけると考えるのであれば、「究極の傲慢」、もうちょっとひどい言い方をすれば「究極の無知」と言ってもいいのではないでしょうか。

 だから少しでも他者を認めたり、感謝の心を持つ人であれば、少々は耳に痛い文句でも、聞く値打ちがあると思えば、拝聴するものです。もしも聞いてくれないとすれば、その話が全然理解できないか、あるいは、まったく価値がないと考えているのでしょう。だから、少しくらいの束縛で、「これは縛りだ。絶対に従わない!」などと言うのは、若干(どころか、だいぶ)青臭すぎるんではないかと思い始めました。(これに甘えて、すぐに人を縛ろうとする奴は許せないけどね! こんな無謀な試みをして、私の反撃を食らって沈没した人もたくさんいるんではないですか? もしかしたらこれを読んでいる人の中にもいる? 人を束縛するには、束縛するに十分な理由が必要なのですよ!)

 耳に痛くても、聞くべきは聞く。気に食わないからといって、眉間にしわを寄せてにらみつけ、ガンを飛ばしたりしない。他者の意見を聞き、それを採用したとしても、それは敗北ではありません。むしろ度量の大きさの証明だし、本物の頭脳明晰だと思いますね。

「懲罰動議」なるものが何か、庶民の私にはとんとわからないけれど、まあ「無礼」に対する抗議ならいざ知らず、他者の口封じならば、度量のなさの証明であり、こんなものに民意が反映できるとは思えない。(マスコミに忖度を要求するのと、まったく根本が同じだということだね)

 人は一人で生きていけません。だからこそ、他者の意見を拝聴すべき時も場合もあります。もしもそれを否定する人がいたとすれば、先が長くないような気がするのだけれど、どんなものでしょうかね?

※ 今月の『○○を語る会』は、五月20日の第三土曜日です、脅迫もなければ忖度もない(ただし「交渉の技術」として、「こんなやり方があるよ」と示すことはあります。でなければ、会の意味がない。実戦の場で生きない知識を披露するほど、私は暇ではございません)、まあ美味しいものを食べながら、いろんなことを考えたり、実践方法を考えていく会なので、気楽(けっこう真剣?)なものです。実戦は、一見気楽に始まりますが、その実、どの瞬間も真剣勝負だったりするので。

 何かサプライズを準備しなくては、ね! 堅苦しい話は嫌だし、堅苦しい話では、身につかないことが多いから。大笑いしながら身についたものは、一生忘れませんよ。なんたって、面白いんだから。

2017年5月14日 (日)

民無信不立(民は信なくば立たず)

 はあ、よっこいしょ、っと。人がようやく、「春眠不覚暁」って寝てたら、花火をあげやがったやつがいるらしい。ま、単純な問題を複雑にして、もたもたしてたら、ますます複雑になっちゃうのが見え見えなんだけど、私はそんな難しい問題についてつべこべ言える立場じゃないし、かりにつべこべ言ったとしても、誰も聞いてくれないだろうから、私見は控えとこう。

 ただ一つ言えることは、問題の本質は、かなり単純なんじゃないか、とは思うんだけどね。最近『孫子の兵法』を軽んじる傾向が、一部にあるように感じているんだけど、(孫武は決して百戦百勝の将軍でもないし。そんなことは呉越抗争、呉楚戦争の歴史を、ちょっと詳しく調べればわかることだ)「兵聞拙速、未睹巧之久也(兵は拙速を聞く。いまだ巧の久しきをみず:少々下手な手でも、早ければ成功することが多い。技巧に凝っていて成功した例は聞いたことがない)」は、ビジネスマンなら知っていて当たり前ではないかと思いますね。

 だいたい学生時代優秀だった奴なんてのは、「巧之久」になる傾向が強いように感じているが、まあ好きなようにやってんか! どうせ私にミサイルの発射ボタンがない以上、打たれたら何もできず、おとなしく死ぬしかないんですから!(私だけではなく、ほかにも大勢死ぬんだろうけど。まあ私は一人暮らしだから、かえってせいせいするかもね!)

 ってことで、口だけ番長なのか、口だけ大統領なのか、口だけ○○なのかは知らないけれど、もう好き勝手やってろって! こちとら、毎日の正常な日々を送るだけのことですから。(それ以外、何ができるっての。行って「この野郎」って、どつくわけにもいかんでしょうが?)そういえば前の小浜さんとかいうやつも、ノーベル平和賞とやらをもらった割には、全然核軍縮なんかには成功していなかったよね。こういうのも一種の詐欺みたいなものじゃないのか?(私としては、ノーベル平和賞の返納を要求されて当然だと思う。だってほかの受賞者は、それなりの功績があっていただいているのに、かの小浜君は、何もしてないのにもらったんだからね。しかも何も達成できなかったし。言うだけでノーベル賞がもらえるのなら、本ブログでもキレイごとの嵐にしてもいいよっ! 私にとっては、賞金だけでもかなり魅力的だからね)

 ま、春眠不覚暁と、寝ているままで消滅できれば、幸せっちゃあ幸せのうちかもね。糞くらえっ!だ。(今日はだいぶ頭にきているみたいだ)やる時ゃやれよ!やらないなら言うなよっ!うぜえったらありゃしねえ。あほくさっ!(誰に腹を立てているかは、だいだいご想像のとおりである)

 ということで、花火か何か知らないが、こちとら数年後に収穫できるものを作る計画を立て始めた。いちいちしょうもねえ連中のやっていることに付き合っている暇はない! 勝手にプラモかなんかで遊んでろ! いい年こいたガキ大将が!

 くそ真面目な顔をして、さも大事件そうな話ばかりする評論家の話など聞いていられるか。聞いて何かが変わったのか? そんなことより、こちとら、今晩の晩飯の出来具合のほうがはるかに重大問題だ(幸いなことに、今晩の出来はよかった。大変おいしゅうございました!)。あほらしくてやってられんわ!今の自分が楽しけりゃ、何をやってもいいじゃないか。どうせ自分の寿命も運命も自分で決められんのだから。(こうして世界の行く末を心配している人間が、少しずつ減っていくんだ)

 わかりましたか? 私の大っ嫌いな孔子でも言っている、「民無信不立(『論語・顔淵』)」と。信ってのはね、口にしたことを実行することなんだよ、最低限。おわかりか? わかってねえんだろうなあ、たぶん。信がないからみんな白けるんだ。白けるから無関心になって、皆「自分さえよければ」って考え方になる。

 口にしたことはやれ、できないのなら口にするな、それだけのこと。だから軽はずみな発言は、責任ある立場の人はやっちゃいけないんだっての。「遺憾砲」には立派に「遺憾砲」の存在する意味があるんだよ。(確かにイライラするけどね)

※ということで、今月の『○○を語る会』は5月20日第三土曜日でございます。核ミサイルが降ってきていないで、生きていたら、必ずやります。よろしく!

2017年5月13日 (土)

春暁

  「春暁」

        孟恐然

 春眠得覚暁

 処処見啼鳥

 夜来風雨声

 花落知多少

【書き下し】

 春暁

        もう こわいねん(もうきょうねん、ではない)

 春眠暁を覚える

 処処に啼鳥を見る

 夜来風雨の声

 花落ちることを知る多少を

〔怪説〕

 春眠は夜空が明けてくるのを知っている。もう周囲は明るくなっているから、早起きの鳥たちが鳴いているのが見える。そういえば昨夜から雨風がひどかったねえ。たくさん花が落ちたのを知っているよ。

 これは夜更かしが過ぎて、夜が明けてから寝た作者の作品です。春は次第に夜明けが早くなっていくので、「まだいいや」と夜更かしをしていると、知らない間に空が白んでいくんですな。「おっ、こりゃヤバい」ってんで、慌てて風呂に入って寝るんですが、寝るころにはもう小鳥が飛び回っております。当然すでに明るくなっていますから、雨風で地面におちてしまった花も、たくさんあるのが見えてしまうんですな。(今朝の私の状態でした…)。

 はい。初めて出会ったのは、高校一年の漢文の教科書で、であったと思います(記憶がすでに朧)。『唐詩選』の「春暁」は、孟浩然(もうこうねん)というお方がお書きになったようで、春は眠たくて(きっと当時から花粉アレルギーか黄砂の害があったに違いない。今ほど空気が汚れていなかったから、症状がひどくなかっただけで。アレルギー反応は全身で起こるから、普段よりも疲労してしまって、眠かったり、だるかったりするんだよね。だから「春は眠い」と大昔から言われていたのは、大昔にも花粉アレルギーや黄砂に対してのアレルギー反応があったからに違いないと、きわめて勝手に、私は思い込んでいる。文句あるか!)なかなか目が覚めず、目が覚めても寝床から起きだしていきにくい(ほら、間違いなくこの倦怠感は、きわめて軽度のアレルギー症状だ)。だから春眠では夜明けに気が付かない(爆睡中か?)。あちこちで小鳥の鳴き声が聞こえてくる(はっきり言います。鳥は結構早起きです!)。鳥たちはみんな起きて飛び回っているんだろうな(けど、気怠いから、もうちょっと寝ておこう、なんて気分が見え見えですな!)。そういえば昨夜は雨風がひどかったようだ。きっとたくさん花も落ちてしまっているんだろうなあ。

 まあ原作をたった二文字変えただけなんだけどねえ。(作者の名前も一文字いじくりました…笑) 原作は朝寝坊の詩、私のは夜更かしの詩でございます。どっちにしても、基本的生活習慣が崩れまくっております(笑)。

 こんな生活をしていると、「早寝、早起き。規則正しい生活をしなさい!」という、世間一般で「善い」とされている常識から、かけ離れていきますねえ。でも自然界では、多くの猛獣は、夜行性なんだけどねえ。猛獣に「早寝早起き」を説いても、取って食われるのがオチではないかいね。

 夕方起きて、夜活動して、朝寝るんだって、それが毎日続けられるんなら、それなりに「規則正しい」わけだし(ただし、世間一般の人とは、生活のリズムが異なるので、「出会い」が激減するだろうけど)、別にどうってこともないのではないかと思うが、どこかの誰かが、朝起きて、昼働いて、夜寝る生活を「真っ当」だとしてしまったから、こんな偏見が生まれたのかもしれないね。

 こんなことを常識にするから「夜討ち朝駆け」なんて戦法が有効になってしまったわけで。でも釣りに行くのなら「朝まずめ、夕まずめ」っていうじゃない。ちゃんと魚の生活リズムに合わせなきゃ、釣れる魚も釣れないで終わってしまうからね。

 どこかの誰かが勝手に決めてしまった「常識的な生活リズム」のおかげで、時には苦労することもあるんではないだろうかね。

 ただし、今日はさすがに眠いので、たぶん明日の朝は「春眠不覚暁」になると思います。

※ 今月の『○○を語る会』は、5月20日、第三土曜日です。よろしくお願いします。

2017年5月12日 (金)

目を離していいこと、悪いこと

 よく当たる天気予報ですな! 私の行いがいいのか、晴れ男のせいなのか、私が帰宅して、作物に水やりを始めたら、ぽつり、ぽつりと来た。「お前も疲れてるだろうから、水やりは俺がしといてやる。ちゃんと休め」と天が言ってくれているような気がした。(あぶない、あぶない。二千二百年以上も昔に、荀子が「天の起こす現象は、人には無関係」と言ってのけているのにね。こんな非科学的なことを言ってはいけません。何かに守られているのでは?と思うことはあるけれど、それはこちらが一所懸命努力しているときにおこる現象であって、ぐーたらしている時には、けっこうヤバいことがありますよ。このあたりになんとなくヒントがあるような気がするんだけどね)

 で、金曜の夜ということで、採ってくるだけ採ってきて、冷蔵庫で保管していた山菜をてんぷらにした。「おっ」と声があがるほどの量になってしまい、とても食べきれませんでした(おいしかったけど)。春は山菜とか野菜重視の偏食になってしまいます。ちょっと目を離すと「これでもか!」というくらい発芽してたりしますからね。

 せっかくの食べものなので、粗末にするのはもったいないと、すべて胃袋に収納しようとしているのですが、なかなか。釣りに行った挙句は、たいてい下痢(尾籠な話ですいません!)になるのと同じですね(私は有毒でない限り、釣った魚は食べることにしてますから、単純な食べ過ぎなんですけどね)。

 以前二代目チャーちゃんや、二代目チビ(いずれも猫)がいたころなら、こんなことはなかったんだけどね。なにせ彼ら(二代目チャーちゃんは、世にも珍しい三毛猫の雄。二代目チビは雌でした)は、私が釣りから帰ると、「どうしてこんなに愛想がいいんだ?」と思うくらい、私のそば(正確には私が持っているクーラーボックスのそば)を離れませんでしたから。猫には「活きのいい魚」の存在は、わかっちゃうんだろうね、きっと。

 で、料理された魚の最初に一匹は、必ず彼ら(彼女を含む)が手に入れてました。やらないと、すぐそばで大暴れするから、仕方なしに(あまり立派でないやつを)先に料理して与えるんですね。するとプライドが満足したのか、比較的おとなしくなるのです。

 その隙に、人間様がいいのを食べるってことをやってました(すぐにバレて、一匹圧力団体に変わるけど)。きっと猫の目を恐れて、急いで食ってたのも、おなかの具合がおかしくなる原因の一つだったんではないだろうか(もっと重要な原因は、食べ過ぎに並行して起こる、飲みすぎもあったかも?)。

 今年は釣りも再開するので、大変なことになりそうだ(今、我が家には、面倒見切れないとの理由で、飼い猫はいない)。縄文時代から弥生時代への変遷期みたいな生活だけど、(そのわりにはお酒をたくさん飲みますが…)そこそこ忙しいので、相変わらず1日が24時間では足りない。

 そうそう、今年は我が家の庭に巣食ってしまったヤブガラシと、徹底的に戦う予定である。おかげですでに二十数年ものになっていた長芋の新芽が出ているのに気付いた。今年の秋には、試しに一本は掘ってみようと思う。二十年を超えた長芋は、いったいどのようなサイズになっているのだろうか、楽しみである(むかごを持ち帰り、母と植えたものですが、掘るのが面倒なので、結果的に20年以上放置していました)。目を離している間に、どんな風に成長しているんだろうか。

 かつて行った行為の成果が、なんとなく期待できそうな気がするところが大きい。(小石や木の根っこが絡まっていて、掘り出せない可能性もあるけど、今はそれは考えない。いやなことを先に考えてしまったのでは、前進していく元気が失せてしまうからである。始めてしまえば、様々な難関があっても、それなりに対応できるけれど、始める前に嫌気がさしてしまうと、すぐに逃げ出したくなるのは、たぶん私の本性ではあるまいか)

 ということで、どこかの新大統領も動き始めたようである。動き始めたとたん、想像以上の難関が立ちはだかっていたのに気づいたかもしれない。でも理由ははっきりしているんですよ、きっと。だって国外の情勢なんか見ずに、国内の勢力争いばかり繰り広げていたんだもの。

 目を離すと事態はとんでもない方向に動くものなのです。自然界なんかで何かを観察しているときなど、目を離した瞬間に、目の前にあったものすら見えなくなってしまうことが、よくありますからね(嘘だと思ったら、大自然に出て、何かを観察してみてください。うっそお~てな具合に、ものを見失うことがわかります。大自然というものはそういうものなのです)。だから、絶対に「目を離しちゃいかん!」って鉄則があるんです。

 でも目を離していたんだから、しょうがありませんね。さあ、遅れを取り戻すのにどれくらいかかるんでしょうか、それとも永遠に取り戻せないんでしょうか。私の知ったことではありませんけどね。

 天気予報がわりと外れなくなったのは、継続的で精密な観測が可能になったからです。何事も同じではないですかね。

※ 今月の『○○を語る会』は、五月20日、第三土曜日の予定です。よろしくお願いいたします。

2017年5月11日 (木)

おつきあい?

 暑いですなあ…… 外に出れば、風がないこともないのだが、山が真っ白。毒の風にはあまり当たりたくない(今年はまだ鼻が詰まる。目が痒い)。先日の雨で洗い流されたと思ったのだが、また新しい黄砂がやってきたんだね、きっと。(それと、地面に一時的に墜落した黄砂も、天気が回復して乾けば、また空中に舞い上がる。同じ舞い上がるのなら、生まれ故郷に飛んで帰ってくれればいいのだけど、そういうわけにもいかないらしい)

 隣国の大統領選も終わり、次は新たなる秩序を模索しなければならない段階に入っていると思うのだが、世界が激変している間、そんなことはどこ吹く風と、のんびり大統領弾劾に始まり、新大統領の選挙活動に明け暮れていて、どんどん世界の流れから取り残されていたんではないかと思う国は、ちゃんと自力で追いついてきてくださることを希望する。自分の遅れを他者にかぶせて、迷惑をかけるんじゃないよ。

 実は高校時代、似た経験をしたことがある。勝手に欠席した奴が、休んでいた時のノートを貸してくれというので貸してやったら、返してくれないでやんの。貸りたものはきちんと貸した相手に迷惑をかけないように返すのが、ものを借りるときの礼儀ってもんだろうが(経済的な問題でも、まったく同様である)。

 私の性格はわりとはっきりしているので、それ以降そいつとは、今日に至るまで、一言も口をきいていない(なにしろ「ありがとう」とか「悪かったね」の一言もなかったのだ。こんなやつ、時々いるよね!)。こういうのは、お付き合いをする値打ちのない人間だ。誰とお付き合いをし、誰とどつきあいをするか決めるのは、私の勝手である。お付き合いを断つってことは、戦略的静観だが、言ってしまえば、私がそいつを見る目は、石ころを見るのと同じレベルになったということだ。

 当然石ころには心があるとも思わないし、死ぬこともないはずだ。だからそいつが何をしようが、何を考えようが、私の迷惑にならない限り、知らぬ顔の半兵衛である。迷惑になることをしでかしたら、そりゃあもう半沢直樹の百倍返しなんてものではない。

 人間誰にでもミスや過ち、誤解といったものはある。相手がほんの一言でも謝罪をしていたら、私の対応は180度転換したんだろうけどね。ということで、戦略的静観ってのは、いわゆる積極的静観でもあって、相手が困っていて、つい助けてやろうかなどと(優しい心ゆえに)思っても、「いやいや、ここで手を差し伸べてはならない」と自分を抑えることだ。

 実はこれも「付き合い」を拒絶した交際法の一つであって、わりと有効なことが多い。相手が救援要請をしても、動かない。相手が死にそうでも助けない。助けることがあるとすれば、こちらに利益がある場合だけだが、それまでのお付き合いを通じて、つねにこちらの利益には終わらない関係だったら、「おれ、知らねっと」すら言わない。ただただ、死んだ魚のような目つきで、眺めているだけである。

 ということで、いろいろと内外が動いている中、いまだにM学園問題をほじくっている人たちがいる。大所高所から物事を見る目や態度はないのかと思う。ま、すでに完全に飽きられ、かつ大した問題でもないと判明したわけで、いつまでも飽きた問題にかかわっていれば、かかわっている人間も飽きられるってことをご存じないらしい。

 国際的な危機に瀕しても、M学園の問題をほじくり続けていたでしょ? これ、平和ボケ以外の何物でもないよね。そんなのは暇なときにでもやってくれ。まるで船が沈んでいる最中に、「危険だから外に出ないようにしてください。中のほうが安全です」ってやっているみたいだ。ほかに重要な問題が山盛りあるだろうに、見つけられないのかね。

 重要なポイントを見つけられなければ、今ある問題も、将来ある問題も、解決することは難しいだろう。科学技術の世界では、「センスゼロ」とか「才能なし」とか「向いていない」とか言われる状態だ。適性と必要な能力を有しない人が問題に当たれば、結果が悲惨なことになるのは、火を見るよりも明らかだ。

 ま、外を見なければならないときに、内ばかりを見、内を見なければならないときに、外ばかりを見ていれば、学生なら「どこを見ているんだ?」と叱責されるだけでおしまいかもしれないが、責任ある地位になれば、叱責だけで終わりそうにはないと思うんだが、どんなもんだろうか。

 少し話が変わるが、最近、表情を作る人が気になってしょうがない。表情を作るってことは「素の顔」に自信がないことの現れ? それとも「素の表情」を出して、感情を読まれることを恐れているの? 表情は雄弁なものだけど、必要以上に表情を作っているんじゃないかと思える場合には、「こいつ実は、腹に一物も二物もありそうだ」と判断することにしている。

 俳優さんや女優さんなら、それが商売なので、当たり前の技術なのだろうけれど、そういった職業でもないのに表情を作りすぎる人は、少なくとも私は、その表情で表現しようとしていることを信用しないことにしている。「作る」ってことは「本当はそうじゃない」ってことの証明みたいなもんだからね。

 特に不自然に笑顔を作る人は、かなり問題を抱えてそうなので、私ならば近寄らない。君子危うきに近寄らず、である。笑顔がチョウチンアンコウのチョウチンで、笑顔を信じて近寄った瞬間に、ぱっくりこと食べられるのは、嫌だからねえ。

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、五月20日の第三土曜日でございます。よろしく!

2017年5月10日 (水)

ひ・と・ご・ろ・し

 いやあ隣国では新大統領が決まったとかで、今朝の新聞はみな見出しである。NETにいたっては「最悪の関係、五年間」だなんぞと、大変な騒ぎだ。なにをくよくよ川端柳(少なくとも、私の世代のフレーズではなく、だいぶ前の世代のフレーズだと思う。おやじの世代なんじゃないかな)。

 昨日の言ったように、他国の国民がどういう選択をしようが、それは他国の国民の意志なので、尊重すべきだ。では我々はどうすればいい?というと、我々に最善のことをするだけのことで、だから「何をくよくよ、川端柳」ってことになる。何も憂うことなどないし、今まで通り、きちんとそれぞれがやるべきことをやっていればそれでいいだけの話。大切なのは、まず第一に、我々の幸せなのだ。

 ところが「最悪の関係」だなどという言葉が見えたり聞こえたりする。ちょっと~、最悪って何? 選ばれたばかりの新大統領に失礼じゃない? なんてことはどうでもよくて、最悪って誰にとっての最悪なわけ?

 まだ物事が始まってもいないのに、最悪って結果がどうしてわかるの? もしも最悪になると思うのなら、そうならないように努力すればいいだけの話じゃん! どちらもが最悪になるのなら、せめてこちらだけでも最悪を回避すればいいだけの話じゃん! やってもいない前から結果を出すなっての。それって、「結果ありき」の考え方じゃん! 人生、何がどうなるか、わかったもんじゃないんだよ。

 もしかして農耕民族の悪い面が出てるの、こんなことをいう人は? 確かに種まいても、芽生えが悪ければ、収穫にいい夢を見てはいけない。でもそれは農耕民族の発想であって、狩猟民族であったら、「今日は獲物がいないねえ」とため息をつきながらついた帰路で、とんでもない獲物の大群に出会うかもしれないから、先に結果を出したりしないんじゃないかな。

 次の瞬間には、どういう展開があるかわからないのがこの世であって、こんなことが起こったから、結果はよくないに違いないなんて、悲観的になる必要はないのではないかな? もちろんこれは物事を楽観的に見ろとだけ言っているんじゃないよ。そんなおめでたいことを言うには、私自身の今までは、楽観論からは遠すぎる。

 ただ、「結果は先に出してはいけない」ってのは事実だ。0.1%でも可能性があれば、それに向かって努力すべきであって、展開次第では可能性は0.1%から1%になり、10%になり、80%に育っていくものだからだ(100%になることは、めったにございませんが)。

 最悪になるってのが予想できるのなら、最悪にならないように、自分の進路を考えればいいだけのことだ。だからわたしは100%的中の予言者を信じていないわけで。悪い事態が予想できたら、そうならないように頑張る。そうすると、偉大な予言や予測が外れてしまうわけで、的中率100%なんてことにはならない。

 予言や予想が100%当たることが大事なんじゃない。一番大切なのは、人間が幸せになれるかってこと! そのためには「偉大な予言者」の不吉な予言なんて、外れる方がいい。では予言は無意味か? そんなわけないでしょ。だってその不吉な予言があったから、それを回避するために、人々が努力したんだから。外れてもいいんだよ、所詮予言なんだから。

 だから私は、説得力のある予言を聞いたり読んだりすることは、嫌いではありません。ただし「説得力のある予言」をしていただくには、それなりの勉強が必要ですからね。それときちんとした裏付けのためのデータと。

 実は今日は帰宅して、一昨日刈り取った裏庭の蕗を、「きゃらぶき」にするために煮込んでいた。待ち時間が退屈だったので、站桩をやっていた(いつものパターン)。それから夕ご飯の支度をして、ついでに松田優作さんの『ひとごろし』を見ていた(何十回目?)。晩御飯が終わったら、もう十分遅くなっていた……

 臆病侍の双子六兵衛は、何のために上意討ちの追手に志願したんでしょね。臆病侍の双子六兵衛には、武芸では絶対にかなわない仁藤昂軒に、どんな戦略で挑んだんでしょうね。そのためにどんな戦術を選んだんでしょうね。そしてそれぞれの場面では、どんな戦法を用いたのでしょうか? 目的を達成するためには、いろんな方法があります。でも、みんなが幸せになれるのなら、たいていのことは許されるんじゃないかな。

 すくなくとも「公」という概念が発達した日本では、多くの人に理解されると思いますよ(「公」という概念がない国では、もしかしたら永遠に理解されないかも。そんな奴は放っておけばいいと思うけどね。こういうのを「価値観を共有していない」という)。

 物事には必ず「目的(=戦略)」と、そこにいたるまでに達成すべき「目標(=戦術)」と、いかにそれを遂行していくかという「手段(戦法)」があります。愚鈍な指導者は往々にして「手段」ばかりに目がいき、「目的」を見失ってしまいます。「手段」が「目的」と入れ替わってしなければ、そこには見苦しい結果しか待っていません。

 たとえば悪い例を挙げると、国際大会では、国威発揚のためには「勝利」が望ましいわけですが(簡単に言えば、自分たちの優越性を示したいだけなのですが)、勝利を得るために手段を選ばなければ(たとえば反則を正当化するための、審判員の買収など)、競技会史上に永遠に残る汚点となります。

 すると「勝利」が与えてくれるはずの栄誉も、「国威発揚」も、あっという間に泥にまみれてしまうんですね。だから利己主義とか、その場、その瞬間でだけの利益にとらわれてはならないのですが、『ひ・と・ご・ろ・し』は、松田優作さんの演じる双子六兵衛は、武士としての体面も誇りも何もかもすてて、(最初は)いもうとの「かね」のために動きます。それが最終的には人々(特に旅籠やの女主人、およう)の助けを得ることにつながり、仁藤昂軒の生命をも救うことにもなっていくんですね。

 はい、限定的ではありますが、「目的は手段を正当化します」。逆に言えば「手段が正当化できるような目的であれば、その目的は、人々を幸せにする」ということになりますかね。だから目的はよくよく考えなきゃ。

 その場その場での適当なやりくりさえできていれば、という意識では、知らない間に目的からずれちゃっていることもなくはないからね(というより、たいていはずれていく)。

 さすが山本周五郎大先生だけのことはあって『ひとごろし』、こんな大切なポイントは、一つも外していないですわ!

※ ということで、お待たせいたしました。今月の『○○を語る会』は5月20日の第三土曜日でございます(たった今、予約を入れておきました。私が突然死しない限り、確定です)。よろしくお願いいたします!

2017年5月 9日 (火)

目的意識

 午後から本格的になった雨が、夜になってますます激しい。私としては夕方の水やりの手間が省けたと、ちょっとだけ楽をした気分。でもこの雨が上がったら、また雑草が元気に芽を出してそうで、怖い。

 よくなるのではないかと期待していることがもう一つあった。なんと今朝の地方紙にも出されていたが、この3日ほど、黄砂が多かったんだよね。これが雨で洗い流されるんじゃないかということ。少しはすっきりとした風景を見たいよ。

 最近気づいたんだけど、野鳥はどうも我が家の庭が好きみたいだ。今日も変わった鳴き方をする鳥がきていたのでひょいと見上げたら、なんだ、先日我が家で水浴びしてた子じゃない。私が見ていても、まったく逃げない(ただしこちらを見つめたままだったが)。

 私も実は風呂が大好きで、よそに行くと、途中の温泉なんかにひょいと立ち寄ることがある。風呂上りのジュース(車で帰らなきゃならないので、アルコールは厳禁!)の旨いこと。小鳥はどうなんだろうね~、と思ったけど、我が家には木が多いので、もしかしたらエサも豊富なのかな?

 それでも餌場を作ってみようかという気持ちは強くなったね。もちろん、絶対に「餌をやる」ことを義務化する気はない。私の食べ残しがあれば、与える程度で。こっちだって、思っているほど暇じゃあないんだから。

 で、「猫蛇返し」のついた構造を思案中である。猫返しはもう頭の中にあるのだが、蛇返しは難しい。蛇の身体能力をよくよく考えてみなくちゃならないから。あとは鳥の糞害への対策ですな。鳥はミルクのみ人形よろしく、食べたらすぐに排泄しちゃうからね。おなかの中に食べ物を蓄えたままじゃ、重くて飛びにくいんだろうから。

 まあそれはいいとして、考えてみたら、今日は五月九日ではありませんか! 某隣国で大統領選挙が行われたはずで、だいたい結果は見えているんだろうけど、我が国としては、私は「我が国の利益優先(今や世界中が、自国ファーストになりつつありますね。でもそれって当たり前のことじゃないかな)」の生き方をしてくれれば、それで十分だよ。

 よその国の大統領なんで、よその国の人々が選ぶわけだから、その国の人々の民意が反映されるべきだ。それを他国が外側からとやかく言うべきではないと思う。でも一度選んだら、選んだ側にも当然ながら責任があるわけで、責任を自覚して物事に取り組んでいただければ、それでOKだ。

 初の女性大統領で、どんなことになるのかな?と思っていたら(ちなみに私は、女性だから男性より劣っているなどとは考えていない。男性よりも優秀な女性は、世の中いくらでもいるんじゃないかな)、いきなり「反日」で、「おいおい、そりゃねえだろ」。しかも任期を全うすることもできず、逮捕されるなんてショーゲキ(衝撃? 笑劇?)が展開されたばかりだからね。

 もちろんそれもそのお国の都合なんで、それについて他国がとやかく言う筋合いのものでもない。いいと思うことをやった結果なんだろうから、そのケツをよそに持っていきさえしなければ、「別にどってことない」で済まされる。

 悪口(あるいは悪いこと、人が嫌うこと)から話を始めれば、物事の経過は悪い経過をたどり、悪い結果に行き着く。『鬼谷子』にはそうありますんで、私も実に興味深く観察させていただいたのですが、『鬼谷子』は正しかった!と結論が出ました。

 今回も「反日」がどうの、という言葉ばかりが聞こえてきて、実際に深刻な情勢にあるらしい経済の立て直しの話は、ほとんど聞こえてこなかったような気がするんだけど、大丈夫かな?

 昔から「金持ち喧嘩せず」って言葉があるように、豊かに暮らしている人は、精神的に余裕があるから、あまり喧嘩なんてやらないんだよね。でも貧しかったり、明日が見えてこないような状況に置かれると、人間は闘争的になるものなんだよ(環境が悪ければ、闘争してでも生き延びなければならなくなるから、当たり前の本能なのかも)。

 だから「豊かな社会」を作ることは、すべての基本になるんだよね。でも経済政策なんか、ほとんど聞こえてこなかったなあ(マスコミお得意の、情報の制限で聞こえてこなかっただけなら、それなりに救いはあるんだけど)。

 どんなに票を稼いで当選しても、あとがうまくやっていけなければ、期待が大きかった(得票が多いってことは、期待の大きさが反映されてるんでしょ、きっと)分だけ、失望も大きくなるはずだから、落胆した有権者の不満は小さくはないと思うんだよね。

 また蝋燭屋さんが儲かるのかね? それとも今度は松明? 昔ながらの松明は、材料が有限だから難しいかも。選挙は選挙で、やればいいんだけど、大切なのは選挙で勝つことよりも、勝った時点からが本当のスタートって思うことなんだよね。

 誰が当選してもいいけれど、ちゃんと立派な国にしてあげてよね! 他国の私にとっては、たいして気にもならないことなんだけどさ。気が付いたら5月9日になっていたから、ちょっとびっくりしてしまった(今日もけっこう忙しかったので)。

 国のトップの仕事は、「反〇」を叫ぶことではなくて、自国を繁栄に導くことだと、私は思っている。私にはとても、よその国のことを心配してあげる余裕はなくて、自分が一日一日を生き延びるので一所懸命なんだけど。

2017年5月 8日 (月)

大局観?

 GW明けで、ちょっと動き始めたら、またしても私の予想以上で周囲が動き出した。(残念なことは、私にとってはお金が出ていくことばかりだった。近い将来、お金が入ってくる方向で、忙しくなってもらいたいものだ)

 忙しいったらありゃしない。なんて不平は言わない、私の今までの人生は、「忙しいのが当たり前」だったのだ。忙しくないことの方が異常だった(のんびりするのは大好きなんだけどね~。好きな状態と、自分が置かれやすい状態とが一致する人なんているのかしら?)だから、当たり前の状態に戻っただけなのかも……

 いそがしいと、今日の一日でやったことを忘れてしまう。最終的には、「今日は何もせんかった!?」なんて状態になる。きわめて痴呆症に近い状態だ。ヤバい、ヤバい。私の最低限度の人生の定義は、「自分が自分であることを認識しながら、自分として生きること」だから、今日やったことなどを忘れていたのでは困る。(その分、昔のことをよく覚えていたとしたら、なおさらヤバい? 幸いなことに、私は昔やったことも覚えていない…笑)

 昔ある人に言われたことがある。ちょうど私の車であちこちにお連れしていた時のことだ。「私は、全然道が覚えられないんですよね」というと、「それって、今の運転に集中してて、安全ってことじゃないですか」と言われた。

 飛び切りの安全運転でもないのだけれど、言われてみれば、目の前に展開する事象に最大限精神を集中しているから、そのほかの事については、まったく記憶に残らない。だから道順なんか、絶対に覚えていない(当時はまだ、ナビなんて便利なものがございませんでした。あったかも知れないけれど、少なくとも私は持っていなかった)。

 その瞬間、その瞬間に集中すれば、大きな流れは見えない。大きな流れしか見ないと、瞬間瞬間がおろそかになってしまう。そういえば昔(私が小学生低学年のころ)親父に言われたことがある。「お前は大局を見ていない」と。

 幼いころの親の言葉は、子供の一生に影響を与えるので、軽はずみな言動は厳に慎むべきだと私は考えているが、この言葉も(ほかにもたくさんあった)そうである。おかげで私は大局の見えない子という自覚をもって生きることにつながった。

 そのために、古典を読み漁り、「これは!」という人のお話は、よく聞いた。おかげさんで今は「大局しか見ない奴には、実際の現場で通用する感性は育たない」とまで言うようになった。

 大局たって、所詮は一瞬一瞬の積み重ねに過ぎない。一瞬一瞬の対応が間違えば、大局観とやらとは全く異なった状況に展開してしまう。これがわかったときに私は、なんじゃ、大局観なんてものは、しょせん、瞬間の積み重ねじゃないか。ではそれぞれの瞬間にきちんと対応できなければ、大局観なんかがあっても無意味じゃね? と悟ってしまいましたね。そして大局観なく生まれた自分を、「なんと幸運な星のもとに生まれた」と感謝いたしましたよ。

 今では「大局観」なんて凄い言葉は使わないで、「一般方向」って言葉をよく使います。「だいたいあっちへ行けばいいんでしょ?」てな感じで。すると使える方法も制限が少なくなって、いろんな方法が使えるようになるし、「こうでなきゃいかん!」って規制からも逃れられて、精神的に楽なんだよね。

 不思議なことに、精神的に楽なほうがスピードが上がったりするんで、(いくら楽といってもだらけるのはよくないけど)、最終的には早かったりするんだよね。

 しかしながら自分の毎日にはノルマを課しています。これは私の本性がずぼらだと、自分で認めているから。だからノルマが達成できなくても、「翌日頑張ればいいじゃん!」と割り切ってしまっています。ノルマは、「ここまで行けたらいいなあ」程度のものですね。ですから予想外に楽にノルマを達成したりすると、翌日の予定にも手を出したりしますもん(翌日が楽になるし)。

 だいたいこのくらいの時期までに、この辺りまで進んでいればオーケー。すべてはこのルーズさが認めてくれているんですね。

 でも今日はちょっと忙しかった。自分が動き始めれば、周囲も動き始めるとは知っていたけれど、気合が入って、疲れて、「晩酌が美味しい状態」になっていくんだね。「動いている船はきれいだ」よね。きっと。

2017年5月 7日 (日)

DNAの保存

 さすがにこのところ暑くて、マスクをしてられない。それで昨日、今日とマスクを外してみたが、やはり鼻水とか鼻づまりとかがひどくなった。まだ花粉症(?)の症状は終わっていない。だいたい今日なんか、けっこう黄砂がありましたもんね!

 で今日は昨日お山から分けていただいた、山椒の実生の苗を、我が家の庭におろしました。なんと3本も、人が通ったら踏みつぶされるであろう場所に生えていたので、保護するつもりで(親木に、「うちで大切に育てるからね」と言って)連れて帰ったものです。なんと3本も。

 そのうち2本は今日植えたのですが、残り一本を、我が家の庭のどこに植えたらいいのか、悩んでいるうちに真っ暗になったので止めました。候補地はあるんだけど、ほかの植物との兼ね合いもあるので、熟慮しなくてはなりません。

 ましてや我が家には立派なゆずの木があるので、アゲハチョウは当たり前のようにやってきます(もしかしたら我が家で越冬しているのかも?)なので、とりあえずアゲハの産卵管が届かないくらいのところまで網をかけなきゃなりません。

 なにしろ放置しておけば、真っ黒なアゲハの幼虫(一齢の頃は、ただの小さな毛虫でしかありません)がまぶれつきますからね。ゆずは私が全然届かない高さにまで育っているので、毎年アゲハがやってきても平然としていますが、芽生えたばかりのサンショウには厳しいかもしれないので、ある程度の大きさになるまでは、きっちりと保護いたします。(人間だって。子供のころは親が保護するでしょ? それと同じ感覚です)

 なんでサンショウなのかというと、私は実はサンショウ大好き人間なんですね。何か食べていて、「あっ、これ、サンショウが合うかも」と思ったとき、すぐにほしいんですよ。庭に生えていれば、せいぜい数十メートルの移動で手に入りますから、さすがの横着者の私でも、採ってくる気になるし(横着と、美味いを秤にかけりゃ、美味いが重たい私の世界~…なんですよ!)。

 もちろん山で採取したばかりのサンショウには勝てないけれど、町中の園芸店なんかで売っているサンショウと比べれば、その差は一目瞭然! 昔我が家には、山サンショウと園芸店で売っているサンショウが、それぞれ1本ずつございました。

 毎年夏になると、なぜかしら山サンショウのほうは丸裸。市販のサンショウは、なんら変化がない(山サンショウが丸裸になったあと、普通のサンショウも食べられますが)。どちらが美味しいかは、アゲハチョウの幼虫が教えてくれてたんですね!

 この悲惨な状態は、やはり私が移植したセリが庭中にはびこるまで続きました。庭中にはびこったセリをアゲハの幼虫が食べ始め、ようやくサンショウが復活したことがあります。つまりアゲハチョウの幼虫的にみると、山サンショウ>セリ>市販のサンショウってことなんですね。

 セリは岡山市内の北西部および北東部から採取してきたものだし(北東部の採取した場所には、今や一本のセリも生えていない。我が家の庭で、DNAを存続させている。まあ半分は、DNAの存続という意味もあって、我が家の庭に移植するんだけどね。今のままじゃ、私が消えたら、彼らも消えてくんだろうな…(非常にブルーな気分です)。

 かつて私は自分が山菜を取りに行くところの、山菜を供給してくれる植物を、我が家に移植しようと、何度か試みた。成功したものも失敗したものもあるけど、今年はもう一度チャレンジしてみてもよい。

 もちろん自分ちのものは食べない(食べてもおいしくはない)。でも今は山が開発されてどんどん変わっていってるんだよね。開発だけじゃない。鹿の害は大変にひどい(私はたいてい、雪が残って…今年はまだ残ってます!大変な年だ…いる時期から山に入り始めますから、冬を生き延び損ねた鹿の死骸にはよく出くわします。白骨化していることもあるけれど、肉がこびりついていて、それをカラスがつついている光景なんかも、よく見かけます。それこそが自然なんですけど)。人間がいくら植林しようと思っていても、植えた端から食っちゃうんだからね。

 鹿の顔はかわいいかもしれないけれど、所業はほとんど悪魔ですからね(食べるとおいしいですが…最悪の悪魔は、もしかして私?)。ま、DNAは残してあげてないと、復活するチャンスを奪うことになりますからね。おかげで我が家の庭は、雑草にまみれた植物だらけだけど。

 さてと、鼻づまりはあると言っても、そろそろ花粉も黄砂も終わりの季節だろう。そうなると次は、私にとっては釣りの季節になるのかも。最初は川釣りから始めましょうね。慣れると川魚の生臭さも、意外に日本酒に合うなんてことに気づいたりしますからね。

 ただ大切なのは「知足(足るを知る)」でございます。釣れるからといってばんばん釣っていたのでは、料理が大変です。自分の胃袋を考えて、ほどほどに釣るのが一番なんだろうなと思います(ちなみに川魚のDNAは、我が家の水槽の中で保存しています。あまりに贅沢をしているせいか、野生のよりも軽く倍以上は大きくなり、金魚ではないかと思えるほど、腹が出てますが…笑)。

 そうそう、数日前から、キュウリが咲き始めました。(トマトはずいぶん前から咲いているけど、茎を支えるのに、私が苦労している。ちなみに私は、苦労は嫌いだけど、美味しいものを食べるのは好きという、しょうもない性格をしているんだけどね)でもキュウリはゴーヤに比べると馬鹿です。ゴーヤは苦いけど、大変に賢いと、最近評価が決まりました。

 食べる上では、私はキュウリのほうが好きなんだけど。

2017年5月 6日 (土)

新たなドーピング

 まず一つ、今晩もジンライム(ギムレット?)を飲むきっかけになったいいこと。それはASEANとのスワップ締結である。信義に厚い、やる気のある新興国とこういった関係を結ぶことは、なんだか明るい将来を感じさせるね!(ということは、今の政府は、いい仕事をしてるってこと? たぶん、そうだ)

 将来の世界がどんな姿になっていくか、想像はできない。でも一所懸命頑張っている人たちへの投資が、悪い方向に向く気がしない。長期的なWIN-WINの関係に育っていくことを期待する。

 もう一つある。これはだいぶ前から感じていたことだが、本ブログでもちょっとだけ取り上げた、フィギュアスケートの浅田選手の引退を機に、何やら当時私(たち)が、「どうにも腑に落ちない」と感じていたこと(なにしろフィギュアスケートに関しては、ずぶの素人だから。私としては、かつて某選手だった人の前で三回転に挑戦して、一回転半に終わり、しかも尻餅をついてしまったのが、唯一の接点かな? 見るとやるとでは大違いってのが嫌というほどわかりましたけどね。その後、明らかに私が彼女…女性でした…らを見る目が、「尊敬の眼」になりました)の数々が、明るみに出ようとしていることだ。

 どうもこれを見ていると、ドーピングチェックは採尿だけでは不完全ということになりそうだ。例えば審判を交えた採点競技の場合には、ドーピングは選手本人に対して行うだけではなく、審査する審判であるとか、周辺の人たちに対しても行わなくてはならないのではないだろうかと思った。しかも肉体面だけではなく、経済面とか、交際面なんかのすべてに関してである。

 私個人に関して言えば、昔から採点競技はまったく信用していなかった。体操ニッポンなんてのは伝統があったと思うけれど、どう見ても日本選手に対する採点は、結構辛いような気がしてたんだよね。だから私は、客観的な数字で勝負がつくものを好んだ。(自分がやった競技では、実力の不足もあって、「判定」なんてこともあったけどね。これもすべてが納得いく判定ではなかった…もちろん自分が参加させていただいた競技会では、審判に対する不満…実は不満どころではなく、不審だったこともある…は、とりあえず口にはしなかったけれどね。正直言って、今でも山盛りありますよ! でも言っちゃいけないと我慢している。…死ぬ前には全部バラそうか。たぶん時効が来ていることだろうし)

 採点方式だなんぞというが、採点ほど胡散臭いものはない。採点者の主観によって、どんな正解でも、平気で不正解にされてしまうからである(オリンピック代表の決定なんかでも、いろんな問題がありましたねえ…)。私が知っている有名なところでは、かのアルバート・アインシュタインが高校受験に失敗したケースだってそうである。

 彼の受けた受験では、試験官の前で黒板に、提出された問題を解いて見せなければならなかったのだそうだ。(この試験のやり方は、私は素晴らしいと思う)ところが、アインシュタインは、試験官が理解できない方法で解いてしまったんだね。当然アインシュタインの解説は試験官には理解できない。それで不合格にされてしまったという。

 そして失意のアインシュタイン(15歳)は、ボーゼン自失のままミラノの街を徘徊し、その途中で見つけたのが、物理学に革命を起こした「特殊相対性理論」だったというのだ。15歳だよ、たったの! ところが一方、15歳の高校受験生に過ぎないという、試験官側の思い込みが、人類史上に残る才能に「不合格」の烙印を押させたのだ。

 今から考えてみたら、アインシュタインが不合格だったのか、試験官が不合格だったのか、誰の目にも明らかだよね! こんなことがよく起こるんです。とくに欲得が絡んでしまうと。

 たとえば浅田選手のバンクーバー五輪の件については、世界中のトップクラスの中にも、世界一だったと認めている人がたくさんいる。ならば何が間違っていたのか?簡単だね。審判が間違っていたのだ。シドニー五輪柔道無差別級決勝でも、篠原選手の一本勝ちだってのは明白だ。間違っていたのは審判だ。

 審判は一応、正しい判断をするものだとみなされている。また可能な限り正しく審判するために、さまざまな機器が導入されたりしている(にしてもバンクーバーのは酷い。目ではごまかせても、機器を用いれば明らかに、天と地ほどの差がついている)。競技する側としては、それを信じて全力を尽くすほかないんだけどね。

 政治力や経済力(いわゆる賄賂?)なんかが審査に影響するのなら、最初からスポーツなんかやらず、政治や経済の場で勝負すればよい。競技する選手だけではなく、様々な段階で、様々な審査をする人間がフェアでなくて、何がスポーツかといいたい。

 アインシュタインなら年を重ねて、科学者として円熟し、大成することができたけれど、スポーツ選手は競技寿命に限りがあるからね。それでも思うよ。これだけ技術が進歩し、映像が残されているわけだから、「疑惑の判定」については、審査のやり直しをやってみればいいのではないだろうか。

 そこで明らかに判定が覆るような事態が起これば、メダルはく奪、そうして正規の勝利者に授与ってことも、やればいいじゃん! そうでなくても最近、数年前の競技会でのドーピング疑惑で、メダルはく奪なんてことが起こっているんだからさ。

 審判まで巻き込んだ新手の、そして一風変わったドーピングに対しても、きっちり対応していく必要がありますね。そうでないと、インチキしてでも、その場で勝った者が得をする、なんて構図が出来上がってしまいますからね!

 正しいものが正しく評価される。それこそが一番大切なことだと、私は思いますね!

2017年5月 5日 (金)

油断大敵!

 やれやれ、GWご苦労様である。GWなんかに計画を立てると(どこも予約がいっぱいだったりして)面倒くさいわ、(地域によっては)料金は値上がりしているわ(国外の場合、顕著である。また航空機運賃も同様だ)で、いいことも少しはあるけど、コスパはどう? と考えてみるとGWは家でおとなしく、あるいは休んでいる人の分も頑張っておいて、GW明けの人がしんどそうな顔をして仕事に向かっている時期に、ちょっと遅れた(自分だけの)GWにするって方法もある(私は断然こちらの方だ)。

 GWって黄金週間って意味でしょ? なら白銀週間(SW)とか、白金週間(PW)ってのがあってもよさそうだよね。もしかしたら銅週間(CW)ってのも必要かも? 今頃、高速なのに渋滞して、低速道路で苦労している人もいるんじゃないかなあ。本当にご苦労様です。くれぐれも事故等のないように、お気を付けくださいね。せっかくのGWが災厄週間(MW:Misfortune Week)になってしまわないように。そうでなくてもお金を使うことは多いと思うし(ニッポン経済の活性化という方向から見れば吉、個人個人の財布という観点から見れば必ずしも吉とばかりは……)。

 では私はというと、今日は庭の草取りをしてました(笑)。幸いなことにお金はかからず、普段投げやり(やり投げのやり状態。やりから見れば投げられるので、投げやりだ)に見えるはずなので、「おっ、今日はどうしたんだ?」と言われかねない状態でした(もちろん私のやること。これは抜いてはいけない、これは抜かないといけない。ええい、わからん! 抜くのや~めたっ!」という状態に陥るのに、さほど時間はかからなかったのですが(笑)。

 幸いなことに昨年枯らしてしまったと思っていたオダマキが、全然別の場所に生えてくれて、満開でした。母がよく「しずやしず しずのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな:静御前」と教えてくれていたものなので、「もう、絶対に枯らすまい」と決心しながら、周囲には一切手を触れませんでした。(一番頂上の花はすでに咲き終わって、種子を作る準備をしていたので、今年はきちんと種子をとって、来年以降に増やす計画を立てなければなりません。我が家では保護された植物は、めちゃ殖えるのです。そして増えすぎると「殿乱心!」が起こって刈り取られたりするのですが、一番のわがまま者は私です、はい。わかってはいるんだけどね……)

 アイリスのそばの草を刈っていると、カラスアゲハが飛んでまいりました。毎年のことなんだけど(カラスアゲハは毎年世代交代していると思うので、私の顔は知らないと思うけど)、なんとなくほっといたします。今は思い出せないけど、それぞれの季節で、「いつもの顔」がみられて、その都度思い出すんだろうなあ。そうして知らない間にいくつも年月を重ねていって…… 気がついたら八百歳(八百比丘尼か? 私は女ではないけれど…。いろんなものを食ってはみたけれど、人魚の肉は食ったことないもん!)。八百まで生きたら、神通力が持てる? いやいや、ミイラになっているだけですよ。

 明日は? たぶん動きます。どこをどう動くかわかりませんが。車が向いた方向に走ると思います。今夜は少しはまじめに寝とかないとね。ガソリンはすでに満タン!

 さてさて、一時の国際関係の緊張は、知らない間にゆるんでいるんではないかと思うけれど、私は決して緩んではいけないと思うんですよ。「事を起こしたい人」は、人々の警戒が緩むのを待っているからね。

 たとえば野ネズミの穴の出口で待ち伏せしている猫なんかを観察していると、あくびをしたり、居眠りをしたりしているように見えるけれど(そりゃ、何時間も待つんだもん、無理はない)、一たびネズミが動いたら、一瞬で戦闘状態に入りますからね。これはほとんどの現代人が失った能力(状態?)ではないかと思いますね。

 いつなんどき、何が起こっても、最善が尽くせる状態でいなければ、と思います。これこそが長年、〇の世界に身を置いて得た、最も価値があるものではないかと思っております。隙がない生き方ってのは、窮地に陥らない生き方のことで、そのために必要なのは、どの瞬間でも「準備が完了した状態」でいるってことだと思いますね(気ばっかり使ってたんじゃ、長生きできそうにないけれど……)。

 ま、野生の世界では、たいていの動物は長生きできません。普通2年くらいで死んでしまうものでも、人間が飼うと20年くらい生きるものもいますから、人間が与える状態ってのは、生きるには大変にメリットがあるものなんだろうね、きっと(我が家にも、野生の寿命の十数倍生きている生き物は、ざらにいます。下手すると私のほうが彼らよりももたないかも……)。

 そして長生きすると、一般に野生で見かけるのとはまったく違う姿形に変身するものもいますから、不思議ですよね。何が本来の姿か、わからなくなっちゃいますよ!

 ちなみに今日は暖かで、新聞を見ると「花粉は少ない」ということだったので、マスクを取りました。やっぱり鼻水が出ちゃったよ(とはいうものの、一時に比べれば、はるかに軽症です!)。傷んだ粘膜は、すぐには回復しないんでしょうね、きっと。

 油断大敵、火がぼうぼう!

2017年5月 4日 (木)

自分の理

 暑いではないですか! お墓参りに行っていたら、数匹蚊が出現して、私の血を狙ってきたので、とりあえず手の届く範囲のものは、全部殺しておいた。これで私以外の誰かも、吸血されずにすむ。つまりは「善行」である。善行表彰を受けたいくらいだ(まさか! …笑)。

 ほかにももっと具体的な人助けを何度もやっているのだが、不思議なことに善行表彰をしてやるという声は聴いたことがない。まあ表彰されたくてやったわけではないから、ちっとも構わないけどね。

 人が倒れていた。関係機関に連絡した。人が倒れていた。専門家が来るまで応急処置をしながら待った(ちなみに応急処置の正しさを、専門家から絶賛された)。でも善行表彰の対象にされたことはないどころか、倒れていた当人にもお礼を言われたことは少ない(本当にこの国の人なのか?社会常識が一致しないということから、社会的価値観を共有していないのではないかと疑った。けっこういい歳をとった人が、だよ。こんな人が別の場所で、「最近の若い者は」などと言ってたら、たぶん私は「切れる」ね。

 先日も我が家のごく近所で、狭い道に車を突っ込んで、進むも退くもできなくなっていた。運転手を見ると、高齢者とまではいかなくても、十二分に分別があるはずの人と見受けた(私よりはだいぶ年上だろう)。結局、こちらがあり得ない操作をして、さらに誘導してあげたので、ようやく通り過ぎていったが、もちろん「ありがとう」の一言もなかった。

 自分でなんとか状況を切り開けないことなら、自分からやってはいけない。立ち往生するくらいなら、その時そこには入ってはいけない。こんなことは常識中の常識だと思うが、もしも周囲にいたのが私(だけではなかったけど)ではなく、怖いお兄さんだったら、あのおっさんどうしたんだろうかと思う。

 ま、こんな人は、車を運転することで他人に迷惑をかけているって自覚はないんでしょうな。自分の力量にふさわしいドライブが、誰にも迷惑をかけず、楽しいドライブになると思うんだが。

 あまり他人を助けてばかりいると、みんな甘えてくるようになるので、ほどほどにしとかないとね。昨今の日本外交などを見ると、特にそう思ったりするよ。他者を助けることは美徳だけれど、それに感謝の念を持たない相手にしても、ちっとも美徳認定されないからね。

 もちろん美徳認定されたくてやってるわけではないんだろうけど、どんどん甘えがひどくなって、最終的には「してもらうのが当たり前」、「なんでしてくれないんだ?」なんて方向にいったら、すでに美徳云々の次元ではなくなっているからね。

 常識や分別など当然持っているはずの年代の人(常識や分別がなければ、その年まで無事に年齢を重ねることができなかっただろう年代)でも、こんなお馬鹿さんがいたりするんだから、文化も社会常識も異なった人々に何かをしてあげる際には、十二分に考え抜いた末でなくてはならない。そうでないと善行すら善行でなくされてしまう。

 私が、倒れていた爺さんを助けたのは数回あるなあ。けっこう多いよ。わざわざ私の前で倒れているんじゃないかと思うくらい。このケースでは一度も礼を言われたことがない。人通りがほとんどない山で車を脱輪させて、引っ張り上げてあげたときは、同乗していたおばあさんに拝まれた(「地獄に仏」と言われてしまった。こっぱずかしかったので、「ばあちゃん、俺まだ生きてるから拝まないで」と軽口をたたいたくらいだ…ちなみにうちは仏さまではなく神様だが…笑)。

 後日そのすぐ近くで自殺した人が何人か出て、今では閑散としたまま荒れ放題になっている。してみると本当に「地獄で仏」だったのかもしれない。本当は、天体観測なんかを行うのにいい場所だったんだけどね。さすがに今では私も行かなくなったけど。(頂上の駐車場が格好の観測スポットだった)

 ま、拝みまではしなくてもいいけど(はっきり言って「うわあっっ!」と思いましたもん)、「ありがとう」の一言は、あってもいいよね。もしも「ありがとう」と言いたくないのなら、他人の助けが必要な状況に陥らないことだ(たぶん、長い一生を考えると、無理だと思うけど)。そのためには、自分の力量をよくわきまえて、無理をしないことだ。

 無理とは理がないこと。理がなければ、失敗するのが当たり前なんだから。ある程度年齢を重ねたら、自分の理にも気づくべきだと、私は思うよ。もちろん自分の理と他人の理が同じだとは限らない。それぞれの持っている能力とか性格とか、置かれた状態で異なるからね。

 これは学校では教えてくれない。自らが自らの体験を通して、自ら悟るしかないものだと思いますね。もしも他人の理が自分にも通用すると思って、力量のないものが力量のあるものの理を行おうとすれば、それは自分では脱出できない隘路に車を突っ込んだおっさんと同じことになる。

 親切にリードしてくれる人がいなければ、立ち往生のまま。車ならなんとかする方法はあるけれど、集団の行動とかだったら、大失敗がそのまま致命傷になることも、ないとは言えないからね。

 自分の理は自分で悟る以外ありません。未熟な時には他者の援助を受けてもいいと思いますが(その時には「感謝の念」を忘れないように!)、自分でできるかぎり頑張って、自分の理を大きく強く育てあげ、その理を超えないように生きていただきたいものですね。

 でないと無理やり横車を押さなければならなくなり、そこでは反則とか不正行為、借金の踏み倒し、逆切れ、などなどの現象が起こりますから。あまり麗しい状況ではないよね。

2017年5月 3日 (水)

自然愛好と増殖と

 な~んにも仙人だもんね~っっ!の一日でした。おかげで最後まで残っていた枝豆を植えることができましたけど。あとはせっかくリードしてるのに、全然別の方向に伸びているキュウリの苗を修正いたしました。「そっち行っちゃいかん! こっちにこそ君の伸びしろはある」な~んて嘘ついてね。全部こちら(人間)の都合なんだけど。

 そんな感じで、ちょっと増えすぎて、私の通路を妨げようとしたミョウガの茎芽を刈り取った。すくなくとも明晩の晩御飯の「酒の肴」にはなるはずである。自宅の庭に生える植物を食べるだけでも、なかなかしんどい。家族がいてくれたら、と思うが、いないものはしょうがないので、しょうがないと諦めるほかない。(諦めているわけではないんだけれど)

 ミョウガの新芽は食べると鮮烈で、まるで血液が新鮮なものに変わったのではないかと思えるくらいだ。嘘だと思う人は、これから五月の終わりにかけて、「道の駅」なんかでは売っているところもあるのではないかと思うので、ぜひお試しいただきたい。辛子酢味噌で、生のまま食べるのが一番おいしいと私は思うが、美味しい美味しくないは個人的な問題なので、あとはそれぞれで決めておくれ!

 さてそういうことで、夕方外出から帰ってから、またしても草取りをした。草はなぜ生えるのか? 理由は簡単である。抜かないからだ。ではなぜ抜かないのか。自分がその場所に、なんらかの意図をもって植えたものがないからだ。ただ草を抜くだけならば、「冬になれば枯れる」という、数年前までの私の信念がそのまま蘇るだけだ。

 ではどうすれば草を抜くか?これまた簡単である。自分にとって有益なものを植えれば、雑草が邪魔になるので、自然、草ぬきをすることになる。で、何を植えるかなあ?というので、今日もHCに行ってみたけれど、「これ!」というものに出会えない。だいたいが「これ!」というものは、すでに植えている。何でも同じだけれど、「どーでもいい」ものが、最後まで残ってしまうのだ。

 しかしながら本年度は、昨年度よりも少しだけスケベ根性が出ていて、鳥の餌場でも常設してやろうかなどと思っているので、蛇や猫に襲われないで、小鳥が安心して餌を食べれる場所(もちろん、私に迷惑がかからないような場所で)を作ってやろうかなどと考えているので(よほど「巣箱」をかけようかと思うくらいだ。我が家には庭木…しかもけっこうな大木。私は小学生時代、よく登っていた…がたくさんあって、名前の通り、小さな森になっているからね…一昨年からだいぶ、庭師さんに切ってもらったけど…小鳥なんかが蛇や猫に狙われやすいので、今一考え中である)、少しは環境が変わるかもしれない。

 親友K氏のお店に行くと、玄関先まで鳥が来る。K氏が餌を撒くからだが、当然猫も来るようになる。我が家はその段階はすでに母の代に終わらせているはずなので、私の代には少し改良を加えたい(改良を加えるまでに、庭先に遊びに…餌を食べに…来るスズメや野鳥は増えていると思うけど)。

 私は不便な生活は大嫌いだけど(幸いなことに、警察と病院以外は、ほとんどが近辺で間に合う)、自然と共生するのは大好きなんだよね。時に鳥や猫やイタチに悪さをされて怒るくらいは、考えようによっては幸せだし。だから毎年、少しずつ、そちらの方向に近づけている。

 もちろんご近所様あっての我が家なので、ご近所様の迷惑になってはいけない(今のところ、我が家の上空に赤とんぼの群れが舞う程度だ…これってけっこう異常?)から、ほどほどのところで止めないといけないけどね。

 そうそう、昨日から腹立つことに、私の目の前で、番のアゲハチョウがいちゃいちゃしやがるんだよ。我が家にはユズの木が(梯子に登っても、私では頂上に届きません)二本あるから、無理もないんだけど。ま、嫌いではないから(幼虫は、好きではありません)そのまま放置しているけど。

 できるだけ殺さないような方向で、上手にバランスをとっていきたいんだよね。だからいろんな生物を導入しようとしたりする(今年は、ヒキガエルの導入を考えた。もちろん卵かオタマジャクシのころに導入するんだけど…まだ間に合うんだけど、ヒキガエルのオタマジャクシ…先日、岡山県北部の山中で、無事に孵化したのを確認いたしました…を連れ帰ることは、困難ではございません。カエルになったころのヒキガエルは、体長がわずか1㎝~2㎝だけど、これが数十年かけて大きなガマに育っていくんだよね。ま、私はまだ数十年は生きるつもりなので、第一世代の面倒は見切れると思うけど)。生物同士で上手にバランスをとってもらい、私はその上にちょこんと乗っかっていればいい、なんて考え方ですよね、この数年。

 草取りをしていて、久々にでっかく育ったツチガエルを見たので、妙な妄想にとらわれてしまいました。我が家で産卵してくれれば(そして私に以後の管理を任せてもらえれば、一度の産卵で、途方もない数のカエルが誕生するんだけどね。何しろ、受精卵でさえあれば、80%近い確率で、カエルにまでは育てあげる人だから。一度の産卵で2000個ほど産めば、秋には1500匹以上のカエルがいる勘定になる。小学生時代、古い我が家をカエルだらけにした経験あり。その前にはバッタだらけにした経験も…取ってきたものを、そのまま増やす人なんだね、私は。殖えないのは自分の一族だけで…涙)、放置しておいて害虫駆除も夢ではないと思うんだけどな。

 一度ヒキガエルに挑戦してみてもいいかな?などと思うGWである。ヒキガエルって、そんなにたくさんいるカエルじゃないし。このあたりで増やしておくバカがいてもいいかも?

2017年5月 2日 (火)

人生は「一」だなあ……

 夜になると少しは寒いですね。来日されている師父、師母ご夫妻と食事してるときには、寒さなんか感じなかったけど、帰宅して、帰路立ち寄ってくれたSちゃんと立ち話してたら、結構寒くなった(こういう時には站桩に限るんだけど)。とりあえず紅茶を淹れて飲む。

 先日ネパールからのお土産の紅茶をいただいたが、昨夜は岡山産の紅茶をいただいた。香りはネパール産のと近かったけど、味の丸みがね。今晩は中国紅茶である。飲み慣れているので、なんとなく安心する。

 人間、時には革命も必要だけど、だいたいは慣れ親しんだことをしていることのほうがよかったりする。(『○○革命』なんて本を書いた割には、日常の、代り映えのしない、何気ないものを大事にしている私である。だからこそ『革命』という発想につながったのかもしれないが。毎日革命なんてことをやっていたら、一つのものを大切に育てあげることは、難しいかもしれない)

 だから「毎日規則正しく…」といいたいところだが、そうはいかないのが私の生活であって、そこには「革命」などという高尚なものは存在しない(たまに宿るけど)。ようするに動けるようにしか動いていないんだね。動けなくても動こうとしていた若い頃とは、かなり変わってまいりましたね。

 昔なら、「寝ているのは、何もしていないのだから、死んでるのと同じ」なって考えかたをしていたけれど、今はまったく違いますもん。寝ることだって、生きるうえで行う大切な行為なのだ。などとずいぶん穏健な人になってしまった。

 実は今日師父と話していて、やっぱり!と確信することがあった。(これは私の個人的な確信であって、必ずしも師父が仰った言葉そのものではないが)人生はたった一つであり、同時にあらゆる瞬間が、まったく新しい新鮮なものだということだ。寝ることは「明日になれば目覚める、一時的な死」の状態ではなく、寝ることすらもまた毎度毎度新しい、新鮮な睡眠だということだ。

 というのは、死んだように眠っているとは言っても、全身が死んでいるわけではない。内臓だって、脳だって、循環器だって活動している。それは休息をとって、また新たな日の生活に備える準備で、押しなべて見れば、一つの生の様々な局面でしかない。しかも二度と同じことは繰り返されない。

 っていうことは、寝ることで前日やっていたことが途切れるわけではなく、ずうっと、少なくとも死ぬまでは続いた一本の道のようなものだ。(過去のことで忘れたいことがある場合もあるが、仮に忘れたとしても、それがなくなってしまったわけではない。時々「人生はリセットできる」などという人がいるけれど、私はそうは思っていない。ただ新しい方向に歩き出すことは、決して不可能ではない。人生は途切れたりせず、少なくとも人は、生まれ落ちた瞬間から、死ぬ時までつながっているのだ)だから昨夜(すんません、正しくは今朝ですが)私が「続きは明日(正しくは今日ですが)またやればいいや」と思ったことは、決してズルでもなければ、途切れたわけでもなく、ましてや間違ったことをしたわけでもないんだ。

 人生は「一」であって、「二」でもなければ「零」でもなく、ましてや「0.25」なんかでもない。だから自分の思うことを(人様に迷惑をかけない範囲で)堂々とやればいい。気にすることではないんだね。

「天才は振り返らない」などという意味の言葉があるんだそうな。迷いがないんだね。でも迷いがないから、天才なのかもしれないよ。するとどこかの「砲〇の天才」なんてのは、迷いの塊だね。迷っているのが見え見えじゃない。

 あれを言ったら人がどう反応するか、これをしたら人はどう反応するか、そんなことばかり見ている(つまり気にしている)ってことは、迷わず自分の道を歩いているってわけでもなさそうだね。するとホンモノの「天才」と言えるのかな。

 迷い始めると、相手の反応を見て、自分の行動を決める。っていうことは、相手の反応に誘導されて、自分の反応を決めているわけで、こうなると操られてしまうことだってなくはない。凡人が天才を真似しようとすると、大変にしんどいだけでなく、どこかでボロが出ちゃうものなんだよね。

 そして高いところにいた人ほど、ボロが出た時のダメージは大きい。10㎝の台から落ちても、人はなかなかケガなどしないものだが、10mの台から落ちると、被害は甚大だ。100mの台から落ちれば、まあ普通は死ぬ。きっとホンモノの天才ならば、落ちそうになっても、そこからより高みを目指して跳べるんだろうけどね。

 凡人にはそんな真似はできないから、落下してしまうか、落下したくなければ、そんな高みに上ろうとしなかったり、登ろうと思っても、一つずつ箱を積み上げていくようにする。人間、誰にでも、似合った生き方があるのだから。

2017年5月 1日 (月)

バランス感覚

 今日も、昼は暑かったねえ~。なんと昨日と同じ、27.1℃なんだと! 昨日は車転がしていたけど(窓を開ければ、風は気持ちよかった。もっとも鼻づまりに悩まされることになったが)、今日は室内にいたので、脳みそが煮えた。(ついでに昨日からの鼻づまりで、もう、大変だった)

 夕方、帰宅してからは、里親のところにもらわれていくムラサキゴテンの準備やら、ついでにと動き始めた裏庭の通り道の拡張とかで(またしてもフキを収穫いたしました。明日の夜には処理いたします。すでに1㎏近く食べてるんだけどね~)、少しは楽になっていた鼻が、またしても詰まりました。

 今年の花粉は、もしかすると例年よりも長期化する?んではないかと(植物が軒なみ遅れてますから)おののいています。早いとこ、「おんも」で思う存分動きたいよ。私が動かないから、庭の雑草が繁殖して、これを抜かないといけないのが面倒で(動いていれば、生えません。私の「おんも」での練習は、とにかく動き回りますから。動けない奴は、「実戦…一生しなければ、それが一番いいんだけどね」では通用しないことは、経験上わかっているから)。

 生えないで抜かれないのが、雑草にとっても不幸ではないと思うんだね。生えて、邪魔者扱いされて、さあ、花でも咲かせようかというときに抜かれるのは、雑草にしても、たぶん嫌じゃないだろうかと想像するんだよね。お互い生き物で、生きていますから。

 ただ雑草に甘い顔を見せると、とんでもないことになるのは、この数年、私が一人でやりくりしなくてはならなくなってから、骨身に染みるほどわかっていますから。あまりに繁殖すると、私の中の「殿、乱心」のスイッチが入って、何もかも成敗してしまうことになるんですな。乱心しないためには、ほどほどのところでバランスをとっておかないといけません。(昆虫でいうと、蜂をアリについては同じようなことが言えます。それに近いのが、クモかな)

 何事によらずバランスが大切で、自分でバランスを崩してひっくり返るのは、場合によっては他者の笑い(時に嘲笑)をとるだけでいいこともありますが、全体的なバランスを崩すものについては、「鉄槌(時に神の雷)」が下されることもありますからなあ。ま、それがわからない人たちも、いないわけではなさそうですが。

 人間ってえのは、大小の違いはあれ、社会を構成しながら生活していく生き物のようなので(たとえ「一匹狼」を気取っていても)、全体のバランスを崩すようなものは、自滅したり、あるいはバランスを取ろうとしているものから「消され」たりします。我が家の庭の雑草みたいなものだね(この雑草ですら、私の場合は、ある程度までは許容しているんだよ。雑草が一本もない庭なんて、なんとなく殺風景だし。観光用の庭ではないから。我が家の庭は、私好みかもしれないけど、それなりに生物の多様性を楽しむところだから)。

 ということで、今日は某所で『いま、会いにゆきます』のテーマを耳にして、「おう、そうだ。もう長いこと見直してなかったなあ」と、晩御飯を食べながら、前半の部分だけ(どこまでが前半か、よくわからないけど)を見た。みんな控えめで、素晴らしくバランスのいい生き方をしている映画だと感じてはいたんだけどね。美的だなあ。素敵だなあ…(映画っていう「作り物」の世界ではあるんだけど)

 でそのあと、youtubeで『ウサマ・ビンラディン殺害』の映像を見てしまった。ますますバランスについて、頭を抱えながら考え込んでしまった。せめて私程度にでも、某国と某国と某国と某国(たくさんありすぎるなあ…溜息)の指導者たちが、人類社会の共存共栄について、バランスを考えてくれると、もう少しは世界が平和になりそうな気がするんだけどなあ。

 なんて偉そうなことは言えないんだけどね。私は専守防衛ですが、わりと戦闘的なところがありますから(だいぶ丸くなってきたけど。お腹同様に)。みんなそれなりに幸せに生きていける世の中だといいんだけどね。

 ということで、ようやく今日中に間に合いました。「ほっ……」

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