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2017年5月15日 (月)

大笑いは健康によい?

 本日版の産〇新聞を見て笑った(嘲笑ではない。若干の「そうそう、そうでなくちゃ」という気持ちが含まれている笑いだ)。いつも愉快な(人によっては、愉快などとは言えないのかも?)国会審議を見せてくれる、N.I.の会のA議員が取り上げられていたからだ。(私はしょっちゅう、この人の発言で、大笑いさせていただいている。いやあ、大笑いは健康にいい、だけではなく、社会を考える上でも、重要な意味がある。眉間に皺よせて、こめかみに青筋浮かべているよりは、はるかに有意義だよ!)

 別に漫談でもお笑いでもないけれど、妙に(ぜんぜん妙ではありませんが)人を納得させる。我が国の将来を考えるなら、何でもかんでも反対するのではなく、「我が国の将来を、よりよくしていけるような方向で」意見を出す人が望ましい。それが本来の野党の姿であろうと、私は思う(反対するだけなら、ただの天邪鬼でしかない)。目的はただ一つ、「この国に、豊かで、平穏で、輝かしい、繁栄の未来を!」である。

 そのための意見なら、多少耳に痛くても、拝聴しなければならない。これは社会人だったら、「あったりまえのこんこんちき」の態度だよね。反対のための反対、審議拒否のための時間稼ぎしかできないのなら、こんな人を我々の(少なからぬ)税金で養う必要はない、と私は思うんだがね。ましては我が国(ひいては我々の生活)のマイナスにしかならないようなことしか発言しないのであれば、あとはたいていの人が同じ結論に達すると思うよ。

 私はほんの小さな子供のころから、束縛されるのが大嫌いだった。子供のころには過激にも、「規則は破るためにある。もしも誰も破らないのなら、規則なんか作る必要すらないだろう」などと危険なことを口走る少年だった。

 ところがえらいもので、人は子供から大人になっていく。これは何も肉体的な変化だけをさすのではない。その過程で多くのことで頭を打ち、いろんなことを考えた。疑問はいっぱいあった。その中で気づいたことがある。「人間は社会的な生物である」ということだ。

 人間は社会を作って生きていく。中には「一匹狼」を気取る人もいないではないが(私なんかは、その傾向が強いかもしれない)、完全なる一匹狼は、人間である限り存在できない。人は一人では、大したことは何もできない。それどころか生きていくことすら不可能なのではないだろうか。

 例えば、たった一人でサバイバル的な環境に置かれたとする。サバイバルではいろんな道具を自分で作らなくてはならないが、作る道具ってのは、すでに誰かがどこかで、いつの時代かに発明したもので、その道具の知識があるから作り出すことができるのではないかね?

 まったく何の知識もない状態で、「ゼロ」から作り出せと言われれば(それこそ、「発明」なのだが)、様々な障害が待ち受けていて、すぐには作り出せないのが現実ではあるまいか。しかもサバイバルの専門家の意見では、「たった一つだけ持ち込んでもいいと言われたら、ナイフを持ち込む」のだそうである。

 確かにナイフ一本あれば(手先さえ器用なら)、様々な道具を作り出すことが可能かもしれない。でもよく考えてみるとわかる。人類がナイフを手に入れるのに、どのくらいの時間がかかったのだろうかということだ。

 最初は打製石器で偶然にナイフ状のものができ、それを利用したのかもしれない。次は磨製石器で、意図的にナイフの機能を備えるような形状に作り上げた。金属の利用が始まると、人類はまず最初に剣を作り(剣ほど長くはありません。短剣から長剣に至るまでには、多くの人々の試行錯誤が必要でした)、それから剣よりも戦で威力を発揮しやすい刀を作り出しました。この間、どれくらいの時間が必要とされたと思いますか? 十年や二十年ではありませんよ。

 ましてや現代のナイフのような機能を持つには、もっと長い時間が必要でした。どうしてでしょうか? 多くの人々の技術革新と努力、研鑽が不可欠だったからです。だから「ナイフ一本あれば、たいていの環境では生きていける」という人でも、一人で生きているわけではありません。多くの先人の工夫と努力の果てに、その人は「ナイフ一本あれば」などと発言しているのです。

 人は絶対に一人では生きていけません。もしも一人でも生きていけると考えるのであれば、「究極の傲慢」、もうちょっとひどい言い方をすれば「究極の無知」と言ってもいいのではないでしょうか。

 だから少しでも他者を認めたり、感謝の心を持つ人であれば、少々は耳に痛い文句でも、聞く値打ちがあると思えば、拝聴するものです。もしも聞いてくれないとすれば、その話が全然理解できないか、あるいは、まったく価値がないと考えているのでしょう。だから、少しくらいの束縛で、「これは縛りだ。絶対に従わない!」などと言うのは、若干(どころか、だいぶ)青臭すぎるんではないかと思い始めました。(これに甘えて、すぐに人を縛ろうとする奴は許せないけどね! こんな無謀な試みをして、私の反撃を食らって沈没した人もたくさんいるんではないですか? もしかしたらこれを読んでいる人の中にもいる? 人を束縛するには、束縛するに十分な理由が必要なのですよ!)

 耳に痛くても、聞くべきは聞く。気に食わないからといって、眉間にしわを寄せてにらみつけ、ガンを飛ばしたりしない。他者の意見を聞き、それを採用したとしても、それは敗北ではありません。むしろ度量の大きさの証明だし、本物の頭脳明晰だと思いますね。

「懲罰動議」なるものが何か、庶民の私にはとんとわからないけれど、まあ「無礼」に対する抗議ならいざ知らず、他者の口封じならば、度量のなさの証明であり、こんなものに民意が反映できるとは思えない。(マスコミに忖度を要求するのと、まったく根本が同じだということだね)

 人は一人で生きていけません。だからこそ、他者の意見を拝聴すべき時も場合もあります。もしもそれを否定する人がいたとすれば、先が長くないような気がするのだけれど、どんなものでしょうかね?

※ 今月の『○○を語る会』は、五月20日の第三土曜日です、脅迫もなければ忖度もない(ただし「交渉の技術」として、「こんなやり方があるよ」と示すことはあります。でなければ、会の意味がない。実戦の場で生きない知識を披露するほど、私は暇ではございません)、まあ美味しいものを食べながら、いろんなことを考えたり、実践方法を考えていく会なので、気楽(けっこう真剣?)なものです。実戦は、一見気楽に始まりますが、その実、どの瞬間も真剣勝負だったりするので。

 何かサプライズを準備しなくては、ね! 堅苦しい話は嫌だし、堅苦しい話では、身につかないことが多いから。大笑いしながら身についたものは、一生忘れませんよ。なんたって、面白いんだから。

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