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2017年10月31日 (火)

とりっく・おあ・とりーと!

 夕方、岡山駅の方に回ったら、バニー・ガールがいたり、メイドさんがいたりした。急な冷え込みなのに、風邪ひかないかしらんと心配ながら、某有名和菓子屋さんに入って、謎が氷解した。今日は「はろうぃん」じゃん!

 お祭り好きというか、どこの国のお祭りにでもすぐに対応できる国民性と申しますか、ハロウィンも、クリスマス同様、日本に定着いたしますかね?(ちなみに私は、厚かましくもこの和菓子屋さんで、「とりっく・おあ・とりーと!」と子供の声を真似して言って、美味しい和菓子を一個、せしめてしまいました。こんな楽しい祭りなら、年に12回くらいやってもらうといい…笑)

 原点はケルトにあるとかなんとかしか知らないけれど、私は実はケルト音楽(妙に郷愁を感じます)は大好きなので、ついでにケルトの(日本人にも都合のいい)お祭りの導入には、反対するはずがない。どんどんやろう!(交通妨害とか、社会の規範を外れちゃだめだけどね!)

 とはいうものの、明日から11月でございます。寒いね~。10月とは思えないくらい。今朝なんか冬ですよ、冬! ことしの冬は(ダイエットに成功して、皮下脂肪が少ないので)例年の冬よりも堪えるかも? 一般的に野生動物は、冬に備えて皮下脂肪を蓄えるものだからね(人間だって、この大原則から外れてはいけない)。温まるものしか、口にしないようにしよう、っと。

 話はまったく変わってしまいますが、一部に10月に惑星二〇ルとかが地球にぶつかり、地球は崩壊すると言われておりましたな。さももっともらしく、「大きくなりました!」なんて写真が公開されていたりして(あんなに大きく見えたら、もっと地球の環境に影響が出ますが)、おいおいこの人たち大丈夫かな? なんて密かに心配してあげていたんだけどね。

 10月は、この日本では、あと1時間ほど残っているので、最後の瞬間まで気を抜いてはいけませんが(それでもぶつかるのなら、そろそろ前兆があって当然なのだが。隕石ならばともかく、惑星サイズなんでしょ?)。

 たしかに一部の人には、この世は退屈なのかも知れない。で、憂さ晴らし的に、危機的な何かが迫ってきているって煽りたくなるのかも知れない。でもねえ、大部分の人は、そんな危機なんかを望んじゃいないんだよ。

 しっかりと科学的根拠を示して、様々な方向から検証して、どうしても避けられない危機ならば、公言してもいいかもしれないけれど(それでも地球ごと破滅するのなら、言っても言わなくても、大差はないような気が…)、ご自分が地球脱出用の宇宙船に乗れるわけでもないだろうに(たとえば一人はもちろん、極く少人数だけで生き延びても、これはもしかしたら、死ぬことよりも苦しい孤独地獄が待っているような気がする)、あんまり怖い話をしないでくれますか。そうでなくても我々の身の回りには、想定外の危険だって、けっこうあるわけですから。

 一部のSFじゃあるまいし、どうしてこうも自分たちが依って立つべき地球を壊したがるのだろうか。(これはたとえば範囲を狭めれば、日本という国家になったり、地方になったり、自分の家になったり、自分自身になったりするような気がするんだけど、自分を大切にしない人は、他者をも大切にはしないよ、たぶん。仮に他者のために、われとわが身を投げ出すにしても、それは日ごろ大切にしている我が身を投げ出すから、大変な価値ある行為になるわけで)

 万一天空の彼方から、巨大な刺客が飛来した日には、我々人類でも、6500万年前の恐竜と大差ない。防ぐすべはないと思うよ(早期探知に成功すれば、何らかの方法を考え出すかも知れないけれど。これが人類の叡智であって、科学の使命の一つでもあると、私は思うけれど)。

 そのために今夜だって、星空とにらめっこしていたり、様々な手段で空を監視している人たちがいるわけだから。私のような凡人には想像もつかないような仕事を、ほとんどの人に知られることもなく、やってくださっている方々が、世界中にいるのだ。それこそ大感謝である。

 10月ももう過ぎ去ろうとしている今、惑星▽ビルネタの多くは見られなくなっちゃいましたが、こんな時に天空の彼方から異常が迫ってきてたら、どうするんですか? 人々は「ま~た、大ぼらを!」と思い込んでしまうじゃないですか。オオカミ少年ならぬ惑星二ビ◇少年ですか?

 世の中、気の弱い人もいるんだから、滅多なことで危機的感情を掻き立てないでね。「トリック・オア・トリート!」だって、ハロウィンの期間だけなんですから。わけのわからない物騒なことを言って騒いでも、お菓子はあげられないね!

2017年10月30日 (月)

落葉

「明日の朝は寒い」とか、TVの天気予報で言ってたけど、実はもう十分寒いんですけど…

 台風があんなところを、あんなふうに通っていったから、ある程度は予測していたんだけどね。「今年は冬が来るのが早い?」なんて気分にさせられる寒さではございませんか。

 先日、中国山地を越えて、日本海側に出たんだけど、その時は「まだ紅葉にはだいぶ早いねえ」と思った。でもこの調子だと、油断は禁物。あれよあれよという間に紅葉して、こちらが時間を見つけて、ようやく行ったころには、葉っぱなんて残ってなかったりして(どこかの人のように「この〇ゲーっっっ!」なんて下品なことは、私はいいませんけど)。

 まあ、「口から吐いた唾は呑めない。口から出た言葉も呑めない」なんてことを言いますが、これに限らず、本人の努力に関係ない身体的特徴で、人を批判してはなりません。

 特に植物の場合には、生理的に不活性化する冬に、葉っぱを落とすことで、、活きてく上で、大変なメリットを獲得したわけだから、季節によって落葉できるようになったのは、明らかな環境に合わせた「進化」だったんだからね。もしかしたら「ハ▽る」ことだって、長期的な目でみたら、進化なのかも知れないし(まだ、それがわかるほど、人類が進化していないだけなのかも…。もしこれが証明されたら、エライことになるんではないでしょうか)。

 落葉最大の値打ちといえば、次の世代の肥料になったり、所謂自然界の分解者たちにとっては、何よりの栄養源になったりすること(もちろん私も大好きな、牡蠣をはじめとする、特に沿岸の海産物の)ではないだろうか。

 もしもあれが、春先の私にとっては死活問題である杉やヒノキのように、葉っぱを落としてくれなかったら、美味しい牡蠣は食べることができません。沿岸の海水中の栄養分が減れば、沿岸の魚だって痩せたり、少なくなったりするでしょう。

 だから(少なくとも植物に関する限りは)、冬に枯れていくことには、大きな意味があるのでございます。枯れて次の年の生命のために、自らの身を生命をささげているわけだからね。とても崇高な現象だと思いますよ。

 昔、生まれた川に遡上したサケが、産卵後力尽きて、ボロボロになって死んでいるのを、カラスやなんか(カラスだけではなかった)つついているのを見て、とても痛ましい気分になったことがある。でも少し成長したころ、だからこそ、ボロボロになった身体を、いつまでも自然界で晒さずにすむし、鳥は食べたものを栄養にして、自分たちの生活を営んでいるんではないかと気づいた時、これから目を背けちゃあいけないんだと気が付いた。

 たぶんあの時、私は少しだけ成長したんではないかと思う。自分が死んだ後のことなんか、知っちゃいねえよ。なんて思っていても、それでも自分がいなくなった後にも、自分の生きた痕跡が残っていたり、自分の考えが残っているってのは、凄いことではないだろうか。

 そうしてそれよりもなによりも、この地球上の限られた物質を譲り合って、様々な生き物が、生死を繰り返している。その生命を宿す肉体を、物質を譲り合いながら作ったり、消したりしながら活動しているってことに、大変な意味があるんじゃないかと思ったりする。

 物理学者は、昔から、今の宇宙の最期について、様々な説を唱えている。私の子供の頃からだって、いろんな説が唱えられては、新しい説にとって代わられ続けてきた。だから本当のことは、さっぱりわからない。もしかしたら、本当に宇宙の最期は「無」に帰すのかもしれない。

 ではもしも「無」に帰すのだったら、何もしないでいいのだろうか? もしも何もしないのが正解なら、最初から生物など生まれてこなかった方がいいのではないか。それでも生まれてきたってことは、生まれてきたこと自体が意味があるのではないだろうか。

 答えをわからなくてもいい。学校の試験じゃないんだから。答えを見つけようとする行為そのものに、一番大きな意味があるのかもしれないからね。

 いずれ人類だって滅びていく。生まれたものは必ず死ぬのが定めだ。だからといって何もしないのではなく、だからこそ、精一杯ジタバタしながら生きてやることに、意味があるんじゃあないかな。

 寒いとこんな考えがぽっと浮かんできてしまう。涼しいのは好きだけど、寒いのはちょっと、ね。

2017年10月29日 (日)

雨の恵み?

 実際のところ、この毎週(?)のような台風や雨には、辟易としていた。雨は生きていくうえで必要不可欠だが、生活していくうえでは不便だ。たまに降る雨ならば、まあ「骨休みにいいか」って程度に軽く考えられるのだが、毎日連続で降られると、動ける、動けないよりも頭に来てしまう。

 私の住んでいるところでは、今日は夕方近くになって、いきなり晴れた。台風特有の天気の変化だ(今回は、あまり風が強くならなかったので、台風という実感は、私が住んでいる地方では、まったく感じなかった)。

 私は雨が降っている最中に選択する人なので(準備でございます。雨があがったら、すぐにでも干せるもんね!)、すぐに干して、デスクワークのケリをつけて(実は頭が煮詰まっただけで、ケリはついていなかった。気分転換かな?)庭に出た。出たついでに雑草を取っていると、ノラがいた。

 ノラちゃんに声をかけてエサをやっていると、招からざるノラがやってきたが、その頃にはノラは自分の分を食べ終わっていた。裏庭に回ると、この雨の中、ジャガイモはすくすく成長していた。明日はなんとか時間を見つけて、寄せ土をしますからね。この冬中、ジャガイモを購入する必要がないくらいはできてほしいなあ。

 そういえばゴーヤも雨の中、どんどん実っているようだ(行くのがたいぎなので、遠くから眺めるだけ。私に好かれていないこの作物は、見回るのがめんどうなので、防犯カメラの一つを向けている。おかげで、PCの前に座ったまま、部屋に居ながらにして出来具合がチェックできる…親友K氏に笑われてしまったけど。ちなみにK氏はゴーヤが好きなんだそうな)。雨のおかげでいろんなものがどんどん変化してるんだろうね。

 で草を抜いている最中、ふと思いついた。なんで俺は今草を抜いているんだ? 連日の雨のお蔭で、土が柔らかくなっていて、抜きやすいからだ。それならば…

 実は庭のど真ん中に木の切り株がある。型を打っている時など、こいつが時々邪魔をする。さすがに捻挫まではしたことがないが、アブナイことには違いない。ようし、今日は土も柔らかくなっているんで、こいつを掘ってみようではないか。

 掘りましたよ。そろそろ暗くなりかかっていたけれど。すると、見事に掘り起こせたんですね。後に大穴があいてたけど。この切株のお蔭で、周囲の雑草が取りにくかったんだよね。明日からはキレイになりますよ(ちなみに、真面目に稽古を始めると、雑草は生えなくなります。我が家の庭に雑草がないということは、私が稽古していることの証拠のようなものです。生えてたらサボってるんだね…外回りのコースを使っていることがございますが。何しろガキの頃から、屋外を走り回ることが好きだったので)。

 これで後は、取り除かなければならない切株は2つになりました。もう一つはこの冬中に取っておかないと、来年のトマトはここで作る予定ですから(連作障害を避けるためと、玄関を出てすぐのところで熟していれば、いくらでも収穫に便利だから。ちなみに今年のトマトは、今秋熟れのものが鈴なりになっております。秋熟れは完熟にはならないので、適当に熟れたら収穫して、収穫後熟成させます。トマト好きの私には、充実したトマト作りだなあ。だって走りに行く前の水分補給なんて、いつでもぶら下がっているトマトを頬ばって済ませるもんね。面倒でなくていいよ)

 適度な雨は、大いなる恵みにつながる。多すぎたり少なすぎたりする雨は、災害を引き起こす。恵みとして人間から感謝される雨は、人々が必要そしている時期に、必要としているだけ、許容範囲内の降り方であることが必要だ。これは雨に限らず、何にでも言えることなんだろうけどね。

 過ぎたるはなお及ばざるがごとしとか言いますが、過ぎない方がいいです。どんなものでも。そういえば昔、中国で体調を崩した時、あちらの知り合いが薬膳料理に連れていってくれた。

 ところがどっこい、薬膳を山盛りくれる。一杯食べ終わる頃には、三杯くらい山盛りになったのが、私の目の前に置かれていた。二杯目くらいまでは泣き泣き食べたが、最後にはさすがに切れた。いかに「好意」の証明だからとはいっても、これでは薬膳で殺される。

 身体に良いと思われるものを、大量に摂取すれば、身体は元気になるというのは、幼稚な発想でしかない。トレーニング同様、身体を強化するには、トレーニングと栄養補給、休息の3つが欠かせないのと同様、身体によいと思われるものを摂取するよりも、休息の方が必要なことは、けっこう多いのだ。

 物事には適時、適物、適量、適用、適様という原則がある。それを外したら、身体に良いと思われているものでも、必ず悪さをする。雨であろうが何であろうが、同じである。そして適時、適物、適量、適用、摘様を知るには、自分の状態を細かく見ることができる「目」が必要である。

 この「目」は、道家思想なんかでいうところの「静」の状態でなければ養えない。「静」は大切なんですよ。でもこれにしても、適時、適物、適量、適用、摘様の原則からは外れられないんだけどね。

 雨のお蔭で、「静」は十分だったので、そろそろ天気にも回復していただいて、少しは動かないと、お尻から根が生える?

2017年10月28日 (土)

自分勝手

 どうせ雨降りだとタカを括って、のんびりしていたら、降ったり降らなかったり、降らなかったり、また降ったりと、妙な天気でございました。こちらもいい加減嫌になったので、時期尚早ですが、お酒の買いだめに走りました(なんでお酒の買いだめなのか、自分でもよく理由がわからない。たいていなら正月前にすることなんだけど)

 最近、安い日本酒は、(たぶん)半分くらいは呑まないで、料理に使っちゃうので、減り方が凄いんだよね(けっこう大胆に入れるので)。例年よりも寒くなるのが早かったのも、原因の一つかも。ついでに帰宅後、「どうせ濡れるんだから」とお魚の水替えをしておりましたら、我が家に何の功績もないノラが「にゃあお~」。

 知らん、知らん。我が家のルールでは「働かざる者、食うべからず(ダイエットにはいいかも…笑)」なので、無視して水替えを続行していたら、功績のあるノラちゃん(どうも、こいつは功績がない奴にいじめられているらしい。それで私の中の判官びいきスィッチが入っちゃっている部分はある)がやって来たので、功績がない奴に見えないようにして、こいつにだけはそっと食べ物をやる。

 こちらはいろんな価値観で待遇を変えているんだけど、ネコにはさっぱりわからないのかもしれない。よく「わからない相手に対しては、何をしても無駄」なんてご立派なことを仰る方がおられるが、私はそうは思っていない。

「相手に対して何かをする」ってことは、してもらう相手だけの問題ではない。相手に何かする側のこちら(つまりは主体)にとっても大きな問題なのだ。要するにこちら側から考えたら、相手が「ありがと~。ごっそさん」なんてお礼を言ってくれなくても、「俺のやったことは間違ってない」と確信できることが重要だ。

 相手が感謝してくれるから、どうたらこうたら… 相手が理解しないのだから、どうたらこうたら… なんてのは、結局は「他者にどう思われるか」ばかりを気にして行動しているに過ぎない。それって結構な打算だよね。しかも周囲に縛られまくっている。

 俺にいいことしてくれたから、こいつは優遇するってのは、優遇される相手が理由を理解してようがいまいが、こちらの精神衛生上には大きな問題なんだよ。相手に感謝されるからとか、社会一般の評価がどうか、なんてのを気にしてれば、偽善者とまでは言わないけれど、偽善的である可能性は否定できないね。

 こういう人の中には、感謝されるべき相手から感謝されていないと、けっこうブチ切れる人もいる。相手の反応や、社会の評価が、自分の行為の値打ちを確認するすべてだからだ。ところが、自分の心の中に自分自身の価値観を持って、主体的な行動を重視して行動いれば、人がどう思おうが、相手がどう思おうが、大して関係ない。「俺の気が済むんだから、それでいいじゃないか」でお終いである。

 相手を見ずに援助をしてばかりいると、援助される側が、援助されることが当たり前になってしまい、援助されながらも「助けてくれるのが遅い」、「援助が少ない」、「援助の仕方が悪い」などと批判したりするからね。本来、批判される道理など、どこにもないのに。

 これだって、援助する側が、自分の行動を、自分自身の価値観だけで決定していれば、「うるせえ!」の一言で終わる問題だ。どうせ何を言っても、あれこれ、身に覚えのないいちゃもんをつけてくるんだから、相手にしないのが一番の上策。それでもどうしても「かまってちゃん」になったら、「うるせえ!」。理由の説明はなし! 知りたきゃ、自分で考えろ!

 ま、相手が人間ならば、そういうことでございます。人間でなければ、考えなくてもかまいません。(ネコに考えろっても、難しいか? なにせ、「獣へんに自分勝手」と書いてネコと読むってえのが私の解釈だから。では「人べんにてめえ勝手」と書いたら、なんと読むのでしょうか? みんなで考えてみよう!…考えることは、思考力を鍛えてくれるし、考えるためのデータを集めれば、知識や情報は豊富になります。もしかしたら、大脳を発達させた人類の特権かも)

 何よりも自分勝手な雨のお蔭で、今日は私は自分勝手に、普段できていないことを、きわめて自分勝手にさせていただきました。(散髪に行ったら、気持ちよくなりました。爆睡してたけど…笑)相手の自分勝手には、こちらも自分勝手で対抗する。うまい具合にかみ合うと、思いのほか良い結果につながったりすることもあるわけで、この二、三年のように、やたらと台風が来たがる時期には、「俺は俺の勝手に生きる」って、その時にできることをやるってえのが、最もふさわしい生き方のように思えてきました。

 こうなったら自分勝手ついでに、夜中に、昼出来なかった練習をやってみようか、などと妄想が湧き上がってきますが、屋外だと、足滑らせたり、カタツムリを踏み潰したりするので(我が家の庭には、カタツムリがいっぱいいる。雨が降ると、何故かしら人間の通り道に姿を現す。人に踏み潰されるのもやつらの勝手なので、知ったことではないけど。踏まれたくなければ、木の葉にでもとまってればいいのに!)、やっぱり室内でできることをするのが正解ですかね(そんなこと、すでにやってますが)。

2017年10月27日 (金)

酒極則乱、楽極則悲(酒きわまればすなわち乱れ、楽きわまればすなわち悲し)

 今日も良い天気でしたね~。でもなあ、これが台風前の好天だとすると、あまり嬉しくないよな~(私は、台風が雲を集めているので、台風以外のところには雲はないと思っている。ちょうど「神無月、神有月」の関係みたいだね)。

 どうしても降りたいのなら、短時間で済ませていただきたいものだ(あまりの豪雨はお断りっ!)。やなことは、素早くすませてしまうのが一番だ。楽しいことはゆっくりと時間をかけて味わうのがいい。できたら大人数で。

 なんたって本当に中のいい人間なら、多ければ悲しみを減らしてくれるし、楽しみは増やしてくれるからね。(幸いなことに、そういった友人には恵まれているのかな? 今日も小さいながらいいことあったけど、早々に親友のK氏に電話したくらいだから。K氏も大喜びしてくれた)旨い者なら仲良しと一緒に食べる。不味いものは、誰にもわからないように処分してしまう。これは大切ですな!

 親友K氏から学んだ最大のこと。「100円儲けたら、自分は50円だけとって、仲間内で残りの50円を回すこと…分配の意味も含めて…(ちなみに「仲間」の意味が、どの次元かは、価値観で異なているのではないかと、私は想像している)」 はい。私はこの言葉に忠実でございますよ。おかげで自分は貧乏だけどね。でも「仲間」という財産があって、何とか今日も生きてられたし。親友とは言っても、ある意味先生みたいなものかな。

 実は私の母もK氏がお気に入りで、私にさえ話していない本音を、K氏には話していたらしく、母と話せなくなってから、私はK氏から聞いた大切な話がいくつもあったりする。それで「救われた」こともあるわけで、かけがえのない友ってのは、こういう人なのかも知れない。

 親友とかでなくても(立場上、ひと様に「指導」の真似事をすることもあるので)、大切な人はたくさんいる。「指導」と一言に言うけれど、実は真剣な「指導」ってのは、自分が教えられていることもたくさんあるわけであって、こうなるとどちらが師匠で、どちらが弟子なのかはよくわからなくなるし、どうでもよくなってしまうことも少なくない)、いろんな人が私の周囲にいりけれど、どの人も私にとってはかけがえのない人であることには変わりはない。

 けっこう忙しくしているので、「かけがえのある人」に、多くの時間を費やす余裕がなくて、「かけがえのある人」の顔ぶれは、どんどん入れ替わっているからね。(だからと言って、手抜きはいたしません。「一期一会」は大切です。むしろ人生に一度しか会えない人の方が、却って大切かも。やり直しは利きませんから)一見さんを大事にしない店は、馴染みの客とも、実はいい加減だったりするようなもんですし。要するに、人を大切に思うか、思わないかの問題に帰結するような気がいたします。

 人を大切に思わない人が、人から大切に思われようと願うのは、これは大変な勘違いだし、思い上がりでございます。人を大切に思って、丁寧に扱った結果、「あいつはカモだ」などと思われたら、本心を知られたとたん、人は鬼にでも悪魔にでもなれますからね。「目には目を、歯には歯を」 私なんかの性格だと、これにアンプがつくので、10倍返しならまだいい方、100倍返し、1000倍返しにいたしますので。

 時に「人間ができた」人がいて、「それでも人は許すものだ」などと仰ることがございますが、悲しいことに私は「聖人君子(ほとんどの日本人は、この言葉の正しい意味を知らない。人格高潔で、寛容な心を持って、誰にでも親切で優しいという意味は、本来この言葉にはチリほどもございません。論語読みの論語知らずの類の人間が、美辞麗句を並べ立てるような感じで、美化した意味を、多くの日本人が抱いております)」ではないので、「クソくらえ(…失礼!下品な言葉でございました。丁寧に申し上げましょう。「ウ〇コをおあがりください」…どうだ、よけいに汚くなったでしょ…笑…美辞麗句で飾り立てれば、こういうことに陥ってしまうという好例だ!)と思ってますね。

 こうなると、自分にとって親しいものに対する愛情は、自分とは疎遠なものに対する愛情よりも濃く、強いという感情は理解できますね。実はこれが儒教でいう「仁」の、本来の姿なのですが、悪いことに儒教ではこれを形式化してしまった。(思想の最大の欠点は、人それぞれ、いろんな状況で、いろんな考え方をするのが当たり前なのに、それに一つの基準を作ってしまうことにあったように思います。そういう意味では「ころころ変わるからこころというのだ」なんて言った人の方が、はるかに現実的ですよね)

 誰だって顔を見たこともなければ、声を聞いたこともない、話なんかしたこともない人よりは、知り合いの方が大切なものです。だから孔子さまが一番大切にした「仁」とは、「等級」、「差別」のある愛情のことだと言われても、反論の余地がなくなってしまうわけですが(「医は仁術なり」などという言葉の意味も、こういうことを知っていると、よくわかる場合もあります。もちろん、本当に愛情をもって患者を接しているお医者さんもおられるので、すべてが同じだとは思っていませんし、私自身は患者さんや、ご家族…私にはいませんが…のことを思ってくださるお医者さんを探し求めていますけれど…だって死亡診断書書けるのは、医者だけなんだからね。いくら嫌いでも、死ぬまでに、必ず一度はお世話になるわけで)。

 ま、百家争鳴するためには、こういった典型化が必要だったんでしょうね。そうしてそれが同時に、最大の欠点になってしまったわけで。(孟子などは淳于髡に、かなり厳しく弄繰り回されてますね…笑…そのうち、気が向いたら取り上げるかも。ちなみにこの淳于髡先生は、《史記・滑稽列伝》に登場していますが、滑稽なんてとんでもない、その後の思想・哲学・社会に、大変な影響を与えております。日本の歴史に例えれば、織田信長は誰でも知っているけれど、斎藤道三はあまり知られていない。でも道三がいなければ、果たして我々が知っているような織田信長はいただろうか?って存在です)

 じゃあ、生き方に議論する必要はあるのか? と問われますと、別に俺の人生だからひと様にどう思われようが、知ったことか!と開き直られれば、ひと様に大きな迷惑をかけない限り、つべこべいう権利はないわけで(それでも言いたがるアンポンタンはいる。時々こういうやつと出くわすので、その時は、生涯二度と味わえないくらいの屈辱を味あわせてやるために、私は敢然と議論に応じ、木っ端みじんにするために「理論武装」をしている。本当の私は、もっと自然かつ自由な生き方をする人間なんだけどね…ここでも「専守防衛」の大原則が生きてくる。ただし相手は尊重するので、私に迷惑がかからない限り、その人が何をどう考えようが、それにはまったく干渉するつもりはない…これは「個人主義」と申しまして、戦国前期…中国の…に登場し、儒家の理論を木っ端みじんに粉砕し、墨家と対抗する勢力を誇り、そのために後世、「利己主義」にすりかえられ、抹殺された「楊朱思想…人によっては原老荘思想ととらえているむきもあるようですが」に、若干、似たところがございます。

 でも史書を見ると、墨家と楊朱は、儒家を圧倒し、張り合ったとは書かれていますが、墨家の二代目(初代は墨翟…所謂、墨子)の禽滑離などは、楊朱との議論では、歯が立っていない(どころか、部分的には容認している)ですからね。残念なことは、楊朱自身の著書が残されておらず、他の思想家の書物に、その思想が垣間見える程度だということで。

 ま、「典型化」は「形式化」につながり、「形式化」とは「形骸化」に直結するもので、こうなれば、本来がもっていた活力は失われてしまいます。「最強」とか「最善」とかを名乗った瞬間から、すでに没落が始まっているのと、よく似ております(私は「最強」とか「最善」とかは、それを目指している過程だと考えておりますから。「陰陽思想」は私の好むところではないけれど…モノクロの世界でしょ? 世界はもっともっと変化に富んでいるんだよ! 絶対にモノクロなんかじゃない…、陽が極まれば陰が始まり、陰が極まれば陽が始まるってえのも、正しい部分はあるわけで(全面的に正しいなんて、思っておりません。なぜならば、陰陰陰陰の人生だって、なくはないわけですから…実感!たぶん、似たことを感じておられる方も、いらっしゃるのでは?)ないかと思っております。

 だから「典型的な、ある状態」ってのは、他の状態に移行する瞬間であるはずで。そうなれば、その状態を維持することの方が無茶ですわな(だからその「状態」を維持したければ、常に「足るを知ってはならない」ということになるわけで…だから私はいつだって、《老子》の言う「知足」を笑い飛ばしているのです)。

 はい。ほろ酔い加減で、夜になって、勤め帰りのS君が立ち寄ってくれて、バカ話をしたおかげで、まるで酩酊状態のようなお話になってしまいました(S君が立ち寄ってくれた時には、実はすでに、かなり出来上がっていた…笑)。

 いずれにしても、昨日の天気が百点満点ならば、今日の天気は98点というところ。すでに低下が始まっているので、明日がマイナス100点とかにならないことを祈ります。なんじゃかんじゃと、けっこう忙しいんで、やることが山盛りあるんだよね~ まだまだ極まってなんかいられないんだから。

2017年10月26日 (木)

一匹のタヌキに率いられた百匹のネズミ?

 いやあ、今日の天気は、きわめてよかった。あれこれ失敗した一日ではございましたが、天気が良かったので、許してつかわす(これを能天気という?)。

 実はまだやり忘れていたことがあって、できるだけ日付が変わるまでに済ませたいのだが、どうしても無理というのは、しょうがないから明日に回すことにいたしましょう。時間は元に戻せないもんね。

 ナポレオンという人(ボナパルトさんです)が英雄であることは、あまり異論を唱える人は多くないと思うのだが、多くの名言を残した人でもある。

「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る」なんてえのは、私的には若干言葉を変えたい部分があって「愚人」は「凡人」でいいのではないかと思ったりするけど、なかなか含蓄のある言葉でございます。

 何かを成し遂げる人は、まずは「現在」をしっかりと見据え、現在に完璧に対応しようとするはずだ。(もちろん、そこには明確なビジョンがあってこその現在だと思うが)「現在」は次の瞬間には「過去」になっているわけで、こうしてきちんと「現在」に対応していれば、なかなか意義深い「過去」は嫌でも積み重なっていく。

 だいたいにおいて、「あの時、ああしていたら、こうしていたら」などと後悔する人は、その「過去」が「現在」だった時に、最善を尽くしていなかったのではあるまいか。私は才能には恵まれなかったが、わりと執念深く努力する方だと思う。ところが物事を捨て去るときは、おどろくほどあっさりと捨て去る(これは長年お付き合いしている人なら、きっとご存じ)。

 なぜなら、十分やりきって「これはここまでが限界」という見極めがつくからだ。だから捨て去った後に、後悔はないし、無駄になっているわけでもない。ちゃんと「現在」の自分の「肥やし」にはなっている。

 では「未来」は見ないのか? 見ます。夢想もします。だからナポレオン風に言えば、私は「狂人」なのかなあ? ただし「現在」を積み重ねていく方向を「未来(ではなくて、私的な解釈では「将来」)」として考えます。進んでいく方向性がないと、突然ゲシュタルトが崩壊した時に、「あれ? ここはどこ? 私は誰?」ってなっちゃいますからね。だから「つながり」で物事を捉えるためにも、「積み重ね」を重視しますし、物事を積み上げていく方向性は失わないように気を付けています(それでも時々、夢想いたしますが…人は弱い生き物だからね…溜息)。

 さてナポレオンの有名な言葉に、「一頭の狼に率いられた百頭の羊も群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼に勝る」というのがございます。現実には『ジャングル大帝』ではありませんから、狼が羊を率いることもなければ、羊が狼を率いることもございませんから、狼は勇者、あるいは有能な人材という意味でしょうし、羊は臆病者とか、凡庸な者と解釈すべきではないかと思いますが、こう考えると社会集団にも当てはまることが、とてもたくさん出てきます。

 羊は生まれてから死ぬまで羊に過ぎませんし、狼だって一生狼です。現実には多少リーダーの優劣があったとしても、永遠の勇者と、永遠の臆病者が戦えば、最終的には勇者が勝つでしょうが、人間は変わる生き物です。

 ですから優秀なリーダーは凡庸な部下でも、人材に育て上げていくことができるんですね。逆に無能なリーダー(本来はリーダーになっちゃいけない人)だと、優秀な部下でも、見事なほどにその能力を殺してしまえるんですね(私もいろんな上司を見てきましたが、けっこうこんなのがいるんだよね。だいたいは凡庸な上司が、自分が凡庸なことを知られたくなくて、部下の進言などと「自分に対する反抗」だと捉えたり、自分のプライドを傷つけるものだと捉えることから起こることが多いように感じましたが)。

 これが戦国時代なら「下剋上」って手もなくはないのですが(いつかも本ブログで書きましたが、戦国時代にはいつも「下剋上」があったわけではありません。殿様が無能で、これに仕えていたら、家臣団や国がアブナイと思った時、自分が上に立った方がうまくいくと思った時にだけ発生した現象です)、現代社会ではそうそう「下剋上」もできませんから、この上司が消えるまで、我慢するしかなくなります(あ~、宮仕えはこれだから疲れる。もちろん宮仕えでない人は、もっと他の理由で疲れますけど)。

 要するに優秀なリーダーは、上手に部下を育て、適性に応じて使い分け、最大能力を発揮させることができるんですよね。そうして励ますことが上手い。逆に無能なリーダーは、部下は育てられないし(まあ、自分自身すら育っていないんだから、他者を育てるなんてえのは、どだい無理な話なんですが)、適性なんかもさっぱりわかっていない。適材適所という言葉を文字面で知ってはいても、何が適材で、どこが適所かわからないから使いようがない。当然結果は出にくいから、いつも不機嫌になる。人間関係も不味くなる。(中には、部下の手柄を、自分の手柄とする人もいます。まるで『半沢直樹』ですな!)

 こうして有能なリーダーの下には、どんどん人材が育っていき、さらに業績が上りながら、人間関係も親密かつ円滑になっていく。これじゃあ失敗のしようがないよ。逆に無能なリーダーは、「伸びる才能」を持っている人材でも、育成できないし、活用できませんから、成功のしようがございません。

 ナポレオンはきっと、そんなことが言いたかったのであろうと、私は推測しておりますが、実際に羊の群れと狼の群れが衝突したら、なんて考えてはいけません。それはすでに妄想の世界に入っており、ナポレオンの分類では「狂人」になっています。

 そこで私は「はた」と考えちゃったんだよね。もしも一匹のタヌキに率いられた百匹のネズミがいたら、どうなるんだろうかと。どうなるんでしょうね~…。楽しみだなあ。現実社会を観察しながら、結果を待ちましょう(笑)。

 ナポレオンは、「リーダーとは『希望』を配る人のことだ」とも言っております。ふうん。じゃあ『希望』が、シャボンか何かのように、ぱちんとはじけたら、これはもうリーダーではなくて、マジシャンの次元かな。でもマジシャンて、たいていの場合、つまらないものを価値あるものに変えて見せてくれるような場合が多いと思うんだけど。

 ま、これも現実社会を見て、楽しみに待ちましょう。

 現実社会は、十分に面白いですね!(笑)

2017年10月25日 (水)

話してわかんないのなら……!

 なかなか多忙でございます(寝る間がないよ……)。気候はよくなったね~…なんて思ってたら、ちょっと寒い? 風邪ひきにはご用心!の季節になってきましたな。

 昔々、本ブログに「獣へんに自分勝手、あるいは我儘と書いて、ネコと読む」と書いたことがあったと思いますが、我が家に来るノラちゃんが、知らない間に顔が変わっておりました。なんだかごっつい顔したのが横柄な態度で、(なんと!)玄関に座っているではありませんか!

 冗談じゃないよ、まったく! でもまあ、いいか… なんて仏心を起こしたのが運の尽き。なんと今日も、私の食べ残し(基本私は、魚の骨までは食べないから。食べたとしても、金属カルシウムは人間の身体には吸収されないし)をあげようかなと思って、夕食後にでてみたら、なんと私に対して威嚇しやがんの!(先日このノラは、私が直物を植え替えたところに、すかさず排泄…でっかい方…をしていきやがった! もちろんすぐに防御策を講じましたが)

 もちろんネコには、人間の価値感が理解できないのは知っている。ネコに道徳を説いても仕方がないことは知っている。ノラの顔ぶれが変わったのも、先日、私が寝ていた時に、そとでやっていたらしい喧嘩が原因なんじゃないかとも内心知ってはいたけれど、話してわかんない奴には「実力行使」しかない。

 とは言え、虐待はイケマセン! そんなことをしたのでは、他人に悪く言われるよりも、自分の中に罪悪感が芽生えてしまって、気持ち悪い。(ノラとの付き合いは、基本「つかず離れず」ですが、相手がこちらの領域にずかずかと土足で…猫は靴は履かないけれど…入ってくるようであれば、こちらの望まない接近戦には、強烈なカウンターで応戦するのは当たり前ですね!)

 いつも言うように、我が家では「あたしゃ、神様だよ!」と主張しているのは、この私である。そこで食べ残しをあげるのは中止して、突然棒術の稽古を始めてしまった(食後すぐの運動は、身体によくないのですが…笑)。なにしろ神様は気まぐれなので、いつ、何が、どのように始まるかはわからない。

 ノラネコだって、子猫じゃなくて、もう立派な成獣なんだから、今までもちゃんと自分でエサを探して食べていたはずなんで、今更、さきに我が家にやってきて(私の睡眠不足の原因になっていたネズミを退治してくれて、その褒美に食べ物を与えていた最初のノラを追い出して、既得権を奪って)、当然のような顔をして私からエサを手に入れることができると考えている、その根性が許せない。しかも私に対して「威嚇」を行うとは、いい度胸である(なんだか、国際情勢でも似たようなことが…?)。

 威嚇するからには、当然のことだが、報復は覚悟しなけりゃならない。「捨てる骨があっても、おまえににはやらない!」 私の決定は、いつも簡単明瞭である。そして断固として実行される(最初のノラが来たら、あげるけどね)。

 最初のノラが、どうして食べ物にありつけているかなんかは、二番目のノラには理解できていないんだろうけど、そんなことは私の知ったこっちゃあない。私は、私が思ったように行動する。なんせ我が家では「あたしゃ、神様だよ!」である。

 ま、クソノラに威嚇されたおかげで、久々に棒術の稽古ができたと思えば、こちらは損はしていない(寝るのが少し遅くなったけど)。

 話してわかんないやつ、恩を恩と感じることができない奴には、実力行使しかございません。ただし、攻撃しちゃいけません。ただ黙って、こちらのやりたいことだけどやり、相手に利を与えなきゃいいんですから。(それで攻撃されれば、徹底的に「専守防衛」に徹するだけのことです。ただし私の防衛は、消極的防衛ではなくて、積極的防衛に分類されるとは思うけれど)

 ノラが理解できるかどうか、そんなことはわからないけれど、我が家は「私の価値観」で運営されているのですから。こちらの領界(支配空間?)に入ってくる以上は、こちらの価値観に適応してもらわなければ困ります。そして相手に理解できる形で、対応いたします(話してわかんなきゃ、行動で示すしかないでしょ?)。

2017年10月24日 (火)

殿軍(しんがり)

 台風の進路から予測してはいましたが、案の定、冷えましたね。もろ北西の寒気が入ってくるパターン。しかしながら、各地で被害が出ているようすです。皆様も自分の安全を最優先してくださいね。人間、とにかく生きなくては!

 台風前に庭の雑草の目立つところは取っていた。台風の雨が土の凸凹を平らにしてくれて、見ると、少しは草取りをした「らしく」見える。ここから先は、草が伸びるよりは、草取りのスピードが勝っていく時期なので(横着にさえならなければ)、また来年の庭の構想を練りながら、草取りをしていかねばならない。

 秋雨に続く台風で、しばらくジャガイモを見ていなかったのだが、ちょっと植えるのが早かったのか、表は全滅(腐ってしまいました。きっと地面の温度が高かったんだろうね)したけれど、裏庭のがが3つほど発芽、そのうち一つは台風の風で倒れたのか、横倒しになっておりましたが、「植えたらあとの面倒は見ない」と心に決めていたので、何もしてやりませんでした。

 ところがどっこい、「親はなくても子は育つ」なんてえことを言いますが、今日見たら、もうすっかりまっすぐに立ち上がっておりましたな。こちらが心配するよりも彼らははるかにタフなので(そんな作物を狙って植えているんだけど。時々タフすぎて雑草化してしまって、後悔することも)、もう後は、地上部が枯れるまで見てやんない(地上部が枯れたら、収穫だけは熱心にいたします…笑)。

 そうそうゴーヤもぼこぼこぶら下がっておりますね。とうとうこの夏、ゴーヤを好きになることはできませんでした。しかたがないから、これは誰か仲良しに進呈しよう。間違いなく、NO農薬、NO化学肥料でございます。ついでにNO労働力かな(笑)。まあ柵を作ったり、紐を引っ張ったりはいたしましたが。

 それよりもゴーヤは蔓を伸ばした柚子、昨年にも増して豊作なんじゃないか?(一昨年はお手上げになるほどの豊作だった。なにしろ収穫する意欲がなくなるほどたくさんの量だった。「見ただけで酔っぱらう」ってやつですね)と思いますね。これも収穫の頃は大変だ(なにせ、棘があるので、痛い)。今年は有力な引き取り手が見つかったので(昔、よくお世話になった方。なんと料理の達人! 以前、この方の所にお邪魔していたら、晩御飯だけで一日三回いただいたことがある。美味しかったけど、しんどかった…笑)、大量に進呈しよう。

 なにしろ昨年の収穫した時に作った食材は、今でも使っているくらいだから(S氏に半分以上進呈したけど、それでも私一人が一年で消費するには、十分すぎるほど残っている)。収穫期って、加工に大変な労力と時間がかかるんだよね。(今年は、加工は各人の家でやっていただくことにしよう。疲れるから。働かざる者、食うべからずってか?)

 ということで、何事も、事を始めるのは楽しいんだけれど、これを上手に収めていくのは、思っているよりもはるかに難しい。今回の選挙でも似たようなことが言えるのかも知れませんが、順調にいけばなんとかなる部分も少なくないのだろうけれど、不調に終わったら、上手に収束させるのは(所謂、ソフトランディング?)、なかなか困難ですわな。

 だから昔から戦では、殿軍(しんがり)はその軍で最も優秀な武将が担当しなければならなかったんだよね。嘘ばかりの『三国演義』でも、劉備の軍団は負け戦が多いのだけれど、殿軍は誰が最もよくつとめているのかというと、趙雲子龍なんですな(だから私は趙雲が好きなのかも)。身を挺して主君を逃がし、軍団の被害を最小限度にとどめなければならないんだから、大局観はある、戦って強い、主君に対する忠義心は厚い、さらには主君からも信頼されている。

 もしも人生でこんな人と巡り合うことがあったら、何があっても絶対に別れてはならないと思いますね!そしてお互いに助け合うことができたら、きっと最高の人生に近づけると思いますね。

2017年10月23日 (月)

沈没船のネズミ?

 人間、何事も順調に進んでいる時は、自分本来の力量以上のものが出たり、本来ではない大きな展開が開けたりするものだが、これを「自分の実力」だと勘違いすると、後で大変難儀な目に遭遇することがある。

 多くの人の人生では、一度や二度は、チャンスが来ることがある(たくさん来る人もあって、人生平等ではないと思うことはしばしばどころではない。私なんかは、不平等だと確信しているので、いつだって「怒りを抱いたまま、それでも翼を伸ばして飛ぼうとする…汪峰『存在』の、私の訳より」。

 不平等なら不平等でいいじゃん! 公平に見てくんないのなら、こっちにはこっちのやり方がある、と開き直るのが、私の生き方だ。人生の不公平を嘆きながら死んでいくよりも、不公平で、不利な状況に置かれるのなら、それなりに大暴れしてやればいいじゃん! 人には持って生まれた資質も違えば、成育歴の中で身につけていく能力も違うんだから…人だけでなく、生物の進化の歴史をじっくりと考えてみると、みんなそうなんですね! 魚の生存競争の理論でいけば…そんなものがあれば、のはなしだけど…陸上に逃げるなんてには、反則中の反則のはずだから)

 ただメソメソしても、恨み言を誰かに言っても、何の問題の解決にもならないのだったら、自分にできる最善を尽くすかないじゃん。そこで自分の最善を尽くさなかったら、「天命」に背いているんじゃないかと思いますね。

 だいぶ昔だったと思うけれど、「天命」とは、天からの命ということで、これは天から与えられた能力を発揮しなさいということ。使う必要のない能力は、我々は授かっていないはずだ。でその中に「生命」というのがあって、これは「生きろ」という命なんだね。

 天が、「お前に与えられた寿命だけは、最善を尽くして生き延びなさい」という命令のことだ。私はだから「いのち」のことは「生命」と書くことにしている。(ちなみに私が命と書くときは、ナニモノかからの命令という意味で使うことが多い)

 我々一般人は、この「生命」を全うすることが、自分を大切にしながら生きていることの証だと、私は考えている。誰だって生きていたいってのは、生存欲だとかなんだとか言うけれど、もしかしたら「天…こいつの正体は、私にはいまだ、不明でございます。生涯、宗教家になるつもりはないので、安易にその正体を定義しようなどとは考えておりません。だいたい霊的な体験なんかしたいとも思わないし…多少はしたことがあっても…それはそれで、私に対するナニモノかの「命」だと思っているので、他人さまに申し上げるべきことだとも思っていない」の命を遂行していかなきゃという義務感なのかも知れないし。(ちなみに、ホンモノのリーダーをなるべき人には、「使命」があります。使命ってのは、その人個人の命令ではなくて、実は「天」からの命令で、リーダーにしかその命令は聞こえないんだそうです。ただ、その「天からの命令」だと偽って、私利私欲は入ってくると、これはやがて「使命違反」で、天から罰を受けるんだそうです…こうなると「屁理屈?」と思わないでもないけれど、それで人の世がうまくやってけるんなら、いいじゃないか!…笑)

 その証拠に、私みたいなしょうもない人間でも、何度かは「生きるの、死ぬの、どちらを選ぶ?」と選択を迫られたことは、何度かございます。時に、生きるのが嫌になっている時もあって、「もういいや。今までそこそこ頑張ってきたんだし、そろそろ楽になってもいいかな」って思ったことも、何度かある。

 その都度、外部から何か(あるいは誰か)が、別の角度から、使命を啓示してくれて、「もうちょっと頑張らにゃいかんのかな」と思って、今日に至っているのが、本当のところだろう。(たいていはそんな体験のあと暫くして、「あの時、あちらへ行く選択をしなくてよかった」という体験をしましたけれど。不思議だねえ)

 ま、昨日選挙があったわけで、想像以上に健闘したところもあれば、まったくの期待外れだったところもあるわけで、こういう時に一番見苦しいのは、責任を他者にかぶせる存在。もちろん物事には因果があるわけで、原因があるから結果が起こる。その原因のうち最大のものを負うべき人間が、成功した時は最高の功労者になり、失敗した時は最悪の戦犯?になるわけだけど、まあ、もうみんな大人のやっていることだから、自分の行動は自己責任で、ということになるんでないかい?と私などは思ってしまいますね。

 人に責任転嫁して、万が一にでも「私は被害者でございます」なんて顔をしてたら、こうこんな人間は信用しない方がいいわけで(もちろん、信用する、しないも、自己責任ですが…笑)。

 沈没船からはネズミは逃げ出すと申します。でも私は逃げるネズミを「醜い」と思ったことはございません。だってたいていの場合、ネズミの生存競争って「逃げる」ことなんだからね(このほかに、他者が食べないものでも食べる。多くの子供を産む、などという戦い方を、ネズミの場合には行いますが)。彼らが「天」から与えられた能力は、実はそんなものなんだから、仕方がないんだよね。

 でも人間には、実に種々様々な能力が与えられており(一人の人間が、すべて持ち合わせているわけではないけど)、それを使って生き延びるってのは、とても崇高な生存競争だと思うんだな。もちろん現代は「法治」の世の中だから、「法」に触れてはいけないけどね(本当はここで「道徳」って言いたいんだけど、道徳ってのは日本と諸外国では、根本的に異なる部分があるし、書くと大変な量になるので、今回のこの場では取り上げませんけどね)。

 ま、我々は人間なんだから(本当はヒトとか人類と書いた方がいい?)、ネズミさんの真似でなく、ヒトに相応しい行動を期待いたしますね。

 あ~、ようやく、日付変更に間に合った! いそがしっ!

2017年10月22日 (日)

素晴らしいチャンピオンの誕生!

 このところずうっと雨だったので(しかも夕方になれば、風が強くなるという予報もあったので)、午前中にさっさと、国民の義務と権利を果たしてきて、日ごろ滞りがちなデスクワークに取り組んでいた(今日はよく居眠りをしたけど。気がついたら寝てんだねよね~……気がつかなかったら、死んでいる?)。

 素晴らしい試合でしたねえ、村田選手。劇的なKOではなかったけど(途中で私は、判定でもいいと思ったくらいだから)、見事な横綱ボクシング(相撲ではない)でしたね。効いてたと思いますよ、あのボデイィ―ブロー。でチャンスと思ったら畳みかけるボクシングじゃないでしょ。

 なるで地鳴りが伴うんではないかと思うような、どっしり構えた「何があっても自分の形を崩さないというようなスタイル」。これじゃあエンダムの心も折れちゃうよね(実はエンダムも素晴らしい選手だと思っている。解説者がエンダム憎しみたいなコメントをするのは嫌だったなあ。だって前の試合は、エンダムが悪いんじゃなくて、ジャッジのお頭にウジが湧いていただけなんだから。悪いのはジャッジ! 憎むのもジャッジ! スポーツはルールがあるんだから、ジャッジはルールに従って、公平に判定してもらわなきゃこまる。これができないのなら、ジャッジをする資格はない。永久追放で構わないと思いますね!)。8ラウンドKOという私の予想は、見事に7ラウンド終了、8ラウンドTKOという形で、見事に大当たり(?)。おめでとうございます!

 シビレたのは、勝利者インタビュー。すげえクレバーな受け答え(今までのインタビューを聞いてて手も、頭いい人だなあとは思っていたけれど、試合が終わった直後の興奮した状態でのインタビューでこうなんだからね! 泣いていた泣いてなかったってには、私は泣いていたと思いますけどね!笑)。やっぱ、賢くないとチャンピオンにはなれないよね。防衛回数については、年齢や体力的な問題、環境とか対戦相手とかの問題もあるから、私は大して問題ではないと思うけれど、素晴らしいチャンピオンが誕生したと思います。今後も頑張ってくださいね!

 これでようやく選挙速報にチャンネルを回せる。なんたって投票後、出口調査にも協力いたしましたからね(ここ何回か、ずうっと協力し続け。たぶん出口調査しやすい人なんじゃないかな…笑)。これで一晩楽しめる(不謹慎な!の声もなくはないが、私としては睡眠不足になるので、適当に切り上げるつもり。今晩寝ないのは、候補者と後援者だけでいいんじゃないかな。みんな仕事があるんだから。みんな仕事しなかったら、選挙どころではないから)。

 とはいうものの、自分の義務と責任を果たし、自分のやりたいことをやりながら(居眠りもしていますが)、最高の試合を見せていただきました。余は満足じゃ! ありがとうございますね。もうちょっと、台風の風の音を聞きながら、機嫌よく頑張ってみます。(あっと、「緑のタヌキ」は「黒いタヌキ」になったみたいですね…笑。どんな味がするのかなあ? 前にも言ったけれど、私は「赤いキツネ」…これは名作だと思いますけどね…の方が好きだから、知ったことではないけれどね…でも味の方は、岡山からほど近い、香川県に行けば、カップうどんなんかでは及びもつかない名店が、山盛りあるんだけどね。台風のお蔭で瀬戸大橋を渡る気にはなれなかった。そうでなくても、私は橋は嫌いなんだから…風のない穏やかな日に渡ろう) 

 先日、ネーミングだけから「希望」とは「望み希し(すくなし)」と読むと書いたんだけど(本ブログ9月28日)、なんだか大当たりだったみたいですね。ネーミングって大切ですね。未来ってのもあったし(笑)。漢字って、一文字一文字に、深い意味があるからなあ……

 

2017年10月21日 (土)

雨でも、動くときは動くぞ

 まっタコ、よく降りますなあ。昼間に外のイモちゃん水槽の水を(ほとんど空になるんじゃないかと思うほど)減らしといてよかった。これで今晩、降り続けるでしょ? 明日も降るでしょ? 明日の晩からは(きっと風を伴った)大雨でしょ?(これには確証はない)ほぼ間違いなく起こるのは、(イモちゃん水槽の)「ノアの大洪水」! 空になるんじゃないかと思うくらい抜いていて、ちょうどいい加減だったりして……

 今晩も実に美味しいお酒でございました。おかげで明日、どんな暴風雨になっても、投票に行く元気が出ました(でも午前中が勝負かな? 夕方からはたぶん、ほぼ間違いなく暴風雨?)。国民の義務と権利を遂行してまいりますっ! 私としては、こんなうまい酒が飲める社会を維持していただきたいからね(今日もお世話になった方々、ありがとね~っ!❤)。

 どんなキレイごとを並べられても、酒が不味くなったり、酒も満足に飲めないような世の中は嫌だからね。私みたいなボンクラには、毎日の生活が大した制約も受けないで、そこそこに暮らせていることが、どれほど大切なことか。少しくらいは私にもわかるからね。なにしろ国家存亡の時だから。

 どんなキレイな理想を並べられても、毎日の生活が「○○のためだ、我慢しろ!」なんて言われたら、「やなこった!」と一番に言いだしそうな人だし。(そういう意味では、私は老子の原点に影響を与えているのではないかと思える、楊朱に近い思想の持主かも知れない…楊貴朱は利己主義だとされているようですが、これは後世の捏造であり、私は「個人主義」の芽生えではないかと考えております。個人主義と利己主義は、個人主義は自らの利を重視するけれど、他人も個人として認めることであって、利己主義というのは、自分の利のために、他者を犠牲にしてもよいという考え方ですよね。そういう意味では『老子』成立以前に存在していた、楊朱さんの主張は、とても値打ちがあります)

 ということで、取りあえず「国民の声」の、何千万分の一にすぎませんが、必ず私の声は伝えます。ご心配なく。(たとえ火が降ろうが槍が降ろうが…笑)その後の行動は、それこそ天候次第だね(すでに予定は組んでいるけど、変更可能)。

 今日の反省といえば、雨天時の練習場を拡大しなければ、くらいかな。これは私の中で最も劣っているのではないかと思える、「後片付け」の能力が問題ですね。ただ、練習の邪魔になりだしたということは、片付く日は近いですよ、きっと。

 動き出すと「雷霆の如く」でございますからね(その分、普段は何もしない?)。あ、この雷霆ってのは、武田信玄の旗印、「風林火山」の後に続くものですね。其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆(その疾きこと風のごとく、その徐かなること林のごとく、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し《孫子兵法・軍争篇》))というやつでございます。

 ま、雨が激しければ、予定は変わることもあり得るんだけど、一応はこの「つもり」でやりますか。雨と喧嘩しても、始まらないし(原始の地球…46憶年ほど前…では、雨が1000年降る続いたって話だし)。

 おつかれさま~……

2017年10月20日 (金)

雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ

 なんでも超大型の台風21号が近づいているんだそうで、鬱陶しい限りである。どんなことがあっても、私は選挙」には行きますからね。こんな国難の時期に、たかが台風くらいで、この国の進路選択を(たかだか1票とはいえ)放棄するわけにはいくのもですか! ご心配なく。国民の(中の一人の)声をお聞かせします!(なかなかいいCMでございますね!)

 ということで、台風の前の天気は、読みづらい。まださほど台風の移動速度は速くなっていないようだが、なにしろ台風は一般的に二本の巨大な(雨雲の)腕を持っているからね。北東に伸びる、大きな腕と、それに比べれば何分の一かしかない、南西に伸びる腕と。

 しかもその腕を外れると、風は強いものの、案外天気が悪くなかったりするので、厄介だ(この隙間を縫って、ちゃんと洗濯物を乾かしてしまうような、私みたいな奴もいるわけで…乾かし残したものも、若干あるけど)。まあ明日は朝から、外のイモちゃん水槽の水を抜いておかないといけない(連日の雨で、水が満杯。これで100㎜は降るって言うんでしょ? 抜いとかないと、「ノアの大洪水」だよまったく)。ま、抜くのはかなりオートマチックに近いオートマニュアルなんだけどね(時々忘れて、干上がることがある。それでイモちゃんを殺したことはないけど…笑)。

 まあいいや。台風が来た時の食料(ノラのも含む)はこれから作るから。作っておけば、もう怖いもんなしですもんね。昨夜なんか練習から帰ったら、ノラちゃんが、我が家の飼い猫みたいな顔をして、玄関でポツンと座り込んでいるんだもの。

「おう帰ったぞ。ちょっと待てよ、エサやるから」 …もうノラではないんじゃないかい? みたいな会話だよね。ネコって怖いですね。こうやって心の隙間に入り込んでくる。喪黒福蔵みたいな存在? 喪黒よりは、多少は性格がいいかも。喪黒は間違いなく「地獄の使者」ですもんね。

 誰にでも「心のスキマ」はあるものですが、それに乗じて人の幸福を壊す権利は、(たぶん)誰にもございません。もちろん話が恋愛絡みなら、禁じ手はないかも知れませんが(というのも、野生の世界でも、殺し合いなんかはしない群れの中で、こと交尾に関する限りでは、いくらでも例外…つまり殺し合い…は発生しますからね。人間の社会では、「理性」という奴がかろうじてそれを食い止めているようですが、「理性」ったって、所詮は人間が定義したものでしかないわけだし)。まあ、たいていは自然界に「答え」があるわけで。(それとて、正解なのかどうなのか、定かではない。第一、何を正解とするかは、それを判断しなければならない人が、勝手に決めているわけだから…そこに太古の昔からの、思想・哲学を学ぶ必要性があったりするのではないでしょうか。人の思考の変遷を知ることで、じゃあ俺はどう考え、どう行動すればいいんだろうって、ね。私はわりと大真面目にこんな作業をやっていますけど)

 ということで、西日本は23日午前0時頃が、台風が最も接近するんだそうですよ(天気予報によると。私は経験上、最接近時よりも、接近前の方が厳しいんではないかと思っておりますけどね)。つまり「選挙には早めに行こうっ!」ってことですね。

 であとは家で寝転がって、午後八時を過ぎたら、選挙速報を、ビールでも片手に眺めていようって(しょうもないドラマより面白かったりして…笑)。でも翌日は、もしかしたら台風が荒れ狂っている中の出勤、通学かも知れませんから、十分にご注意を!(東日本はその危険性がたぶんにございます)

 ま、一日か二日の台風なんかで、この国の未来を左右されたくはございませんからね。(国によっては、千年に一度も台風なんて来ない国もあるくらいで、天候によって国の将来が左右されるのは、とても残念なことだから)

 雨にも負けず、風にも負けず。真面目にこの国の将来を考えましょうや。

※今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日。つまり明日)ですが、いつのも会場のマスターの都合により(たぶん台風の影響で、帰国できない。今日の昼、国際電話が入りました…笑)、会場を変えます。モンゴル料理店と言えば、私に親い人ならわかると思いますが、そこにいたします。午後六時を過ぎれば、だいたい私はいると思いますので、よろしくお願いいたします。(とんでもない台風だ! 台風のバカヤローっ!)

2017年10月19日 (木)

妄想・酒作り

 今にも降りそうな空の具合ですが、なんとか泣きださないで、もっているようでございます。おかげでおんもの御用は、だいたい終わりましたけどね。でももうちょっとは、空が明るくてもよかったなあ。

 人が用事をしていると、カラスの奴が、カアカアと煩いんですよね。昔、志村けんさんが、「カラス、なぜなくの? からすの勝手でしょ」と歌って、大流行させたことがございましたが、実はもっと前の、ほんの小さな頃に私は、「コガネムシ~はコガネムシ(^^♪」)とやって、以下を省略していた人なので、あんまり私的にはウケなかったけど。

 ま、カラスは頭がいいんだそうで、よく悪戯をいたします。我が家の庭の、小鳥用の餌場は、一瞬で破壊されましたからね(飲み水を入れた容器なんか、なかったもの。後日、我が家の塀の上にちょこんと載っておりました。近所の人が届けてくれたんだろうけど、じゃあどうしてご近所様が介入したかというと、カラスの馬鹿野郎が運んだからに違いありません。それ以降、餌場は閉鎖いたしました。実はもう対策は練っているので、冬場の、野山にエサが少なくなる時期には、カラス対策をした上で、餌場を再開いたします…本当は、カラス対策の最初の餌食になるのは、私自身だという、かなりの自信がございます…笑)

 ということで、ここのところ故あって、やたらと大量の野菜や果物を食べなければならなくなりました。季節がらそういう時期でもあるんだけど、これが「果物好き」の私でなかったら、大変だと思いますね。(昨夜は白菜を一つ、食っちゃいました。ついでにニンジンも、ナマのまま、一本いただきました。途中で私は、兎か馬か?と思いましたけどね…生ニンジンはスティックにして、マヨネーズで食べると、甘くておいしい。特に私的には、ウィスキーによく合います。今晩もやってみるかな)実りの季節なんで、こういうことがあってもよいのではないかと思ったりします。(先日、やっと私が探していたアイリッシュを探し当てまして、合わせてみようかな~…なんてね)

 とにかく、天気がよくないと、どうしても運動量が減ります。運動量が減ると、お酒の量が減ります。お酒の量が減ると、なんだか楽しくありません。楽しく暮らさせてください。天気をよくしてください(どうしても降りたいのなら、私が室内で活動している時は、いくらかは降っても構いません)。と神様に祈るために、モンゴルだかウィグルだかの儀式をやってみましょうかね(意味がまったく異なるんだけど)。

 呑み始める前に、天、地、人に酒をささげるんでございますね。純粋に遊牧民の儀式かなあ?と疑問には思っているんですが。ま、大した問題じゃないんだけどね。酒は神の水だから(神様は酔っぱらわないのだろうか? 神様が酔っぱらって作った生き物が、人間だったりして)。

 しかしお酒というものは、個人個人でも好みが異なりますが、地域や材料、製法などなど、僅かな違いが大きな違いを生みます。私は世界各地の時代劇を見ますが、お酒を呑んでいるシーンなんかを見ますと、どんな味だったのだろう?と、大変に興味があります。ただし、現代のお酒に比べれば、ずいぶんと洗練されてないんじゃないかと思ったり致しますが、それにしても(少なくとも)映画やドラマに登場してくる人がお酒を呑んでいる様子を見ると、みんな旨そうに飲みますよね。本当に美味かったのかなあ。(昔ながらの製法と材料で、自作して見たくなっている私が、すでにいる。美味しくなかったら、一度でや~~~んぴっ!になるのは明白だけど。そんな苦労しなくたって、現代では凄い腕のいい杜氏さんが、素敵に酔わせてくれるお酒を、いくらでも作ってますもん。今更、素人が介入する余地は、ないんじゃないかなあ…… 平安時代の日本での酒を再現する気はございませんが。北欧のバイキングが飲んでいたというエール…ビールの前身?…なんかは、一度は呑んでみたいですね)

 基本、糖分があれば、アルコール発酵させるだけで、きわめて原始的な醸造酒はできるわけで(サル酒とか、モンゴルの大草原あたりに行くと、ハムスターが食べ物を隠したところにも「ハム酒(こんな名称はない)」ができたりするそうで…ハムスターは食料を頬いっぱいにため込んで、自分で隠して、隠した場所を忘れるという習性がある…我が家でもハムを飼っていた時、食糧庫をたくさん作られた)、ド素人でもこのあたりまでの「サル酒」「ハム酒」くらいまでは簡単に作れそうに思うんだけどね(ただしアルコール度数は低い。これを蒸留してアルコール度数をあげた蒸留酒を作るまで、果たして情熱が続くか、というと、続きそうな気がしない。

 でもニンジンとかを原料に、酒を作ったら、面白いかも。要するに糖分があればいいんだから。

 あ、ちなみに鳥も酒には酔うらしいです。我が家の庭では、まだ実験はしてませんが(お酒が勿体ない!)。

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日9でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月18日 (水)

助けてください!

 いやあまあ、天気予報の通りで、きっちりと降り始めましたね。けっこう寒い雨だ。「冷たい雨に打たれて~♪」なんてやっちゃいそうだけど、先日本ブログでも告白したように、ハスキーボイスなので、あまり歌いたくない(?)。

 しかしながら、衆院選も終盤でございますな。皆さん、この鬱陶しい空模様の中、しっかりと選挙カーで頑張っておられるようでございます。まあ、ここで頑張っておかないことには、落選すれば「失業」ということになる人もいるでしょうから、一所懸命になるのは理解できます。

 ただねえ、選挙カーで拡声器つかって喚いて回るのは、しょうがないとしても、とどのつまり、投票所で自分に「清き一票」というやつを、投票箱に入れてもらいたいんですよね。名前を連呼するまではわかりますが…古い古い時代のCMにも、似た手法のがございました…、今までも気に食わなかった言葉が、今日またしても耳に入ってしまったので、もう勘弁ならん(というほどでもないのですが)と、書いてしまいます。

「助けてください!」 …こんな言葉を、拡声器を使って、車の中からわめくんじゃない! 確かに状況が不利なことはわかる(某党の現職の議員さんです)けど、助けてもらいたいのは国民の方であって、国民の税金で生活してたり、活動してたりする人が、どうしてここでも有権者に「助けてください」なんてことが言えるんだ? クソ厚かましい! 自分の活動実績を公開すればいいだけじゃないか、実際に活動しているのなら。

 その人のお蔭で、こちらが何か助かっているのなら、それはまあ「恩返し」という奴があるかも知れないけれど、何の恩恵もあずかった覚えがないとしたら、「なんで助けにゃならんの? 税金で養っているだけで、もう十分でしょ。それだけでも国民に礼の一つも言わにゃならんのに、礼の一言も言えないで、また「助けてください」だと!となるのが、普通の心理だと思いますがね。

 まるで、助ければ助けるほど、逆に怨まれたり、タカられたりするどこかの国みたいな精神構造なのか、行動パターンなのか。こいつは今日、私が一番激怒したことだ。「清き一票」がほしい気持ちは、わからんでもないけれど、ならば日ごろの自分の言動を、よく考えてみなさいと言いたくなるのは、当然のことではないかな。

 有権者の一票一票が積もり積もった結果、議員さんという地位(?役職?)につけたわけなんだから、そのことについてよくよく考えるべきだ。果たして自分の言動は、自分に投票してくれた有権者の期待に応え得るものだったかってね。

 困った時だけ「助けてください」では、あまりにもムシが良すぎるんじゃないかな。第一、「助けてください」なんて言葉、そう簡単に大の大人が口に出せるようなもんではないでしょ(しかも車の中から、拡声器でだよ! その時私は、外で雨が落ちてくるのかなあと心配しながら、肉体労働していた)。

 人間、一生のうち一度や二度は、「助けてくれ」と言いたくなる時はある。私にもあった。自分のことなら、どうせ人間は一度は死ぬもんだと思っているから、あまり「助けてくれ」とは思わなかったが、自分にとって大切な存在のためには、そして自分ではどうしてあげることもできない時に、「誰か助けて」と思ったことはある。

 でも口にはしなかった。所詮は自分にできるベストしかできないと思ったからだ。もちろん物事をよりよくしていくために、他人に依頼したことはある(所謂「人脈」という奴ですか。人脈は大切ですぞ。金脈よりもはるかに大切です…あ、今は亡き師匠と同じことを言ってらあ、知らない間に。そんな歳になっちゃったのかねえ)。動いてくれた政治家もいる。でもその方たちとは、まったく銭金の付き合いはしていない。お互い好きなことを言っているだけだ。本当に困った時には、現実の力を持った人でないと、物事が動かせないからね(今の社会の仕組みがそうだから)。それでも、結果がよくなるとは限らない。ただ「自分にできる最善」の一手段でしかない。

 なぜ「助け」が必要なのだろうか。いろんな状況があるだろうが、少なくとも選挙に関する限りは、要するに「清き一票」がほしいんでしょ? 自分の主張が多くの人に受け入れられれば、別に「助けてもらう」必要なんてないじゃん! 多くの人の利益につながっていると納得させることができれば、「助け」なんて求めなくても、多くの人が自発的に盛り立ててくれるはずじゃない。

 立派な学歴や経歴をお持ちの方が、そんなこともわからないはずがないでしょ。でも「助けてください」なんだよね。どうして? 自分の主義主張、言動に自信がないんだね、きっと。それで現職? 今までの任期中、何をやってきたの? 有権者に胸を張ってそれが言えないの? じゃあ選ばれる資格があると思う?ってことになっちゃうじゃないか。これってものの道理だよ!

 生命の奪い合いをしているんじゃないんだ。だから「助けてください」なんて言葉を出してはイケナイ。堂々と、どこまでも自分の主義主張を論じればいいじゃないですか。それを支持する人が多ければ、嫌でも人は投票してくれますよ。

「天は自ら助くる者を助く」とか言いますが、人に「助けて!」と言っている者よりも、自らが助かろうと、必死に努力をしている者を見れば、第三者だって、仮に利害関係がなかったとしても、その人を応援したくなります。

「助けてください」というからには、「助けて」もらった後には、何かいいことがあるの?ってことですし、何もなかったら「何で助けにゃいかんのん?」でお終いですよ。ましてや新人ではなくて、現職なんですからね。国や地域や社会に、ちゃんと貢献していただかなければ。ただただ票が欲しいだけっていうのでは、あんたの稼ぎをどうしてうちらが保証してあげにゃならんの?ってことにしかなりませんわな。

 もう一つ、「若さ」だとか「若いナントカ」だとかをアピールする候補がいますが、あれも私は好きではありません。30歳でデビューしても、10年経過すれば40歳だし、20年たてば50歳になります。昔、加山雄三さんというタレントの方が、「若大将シリーズ」で有名でしたが、かなりの年齢になっても、まだ若大将と呼ばれたりしてたんで、思わず噴き出したことがございます(加山雄三さんには、何の罪もございません。周囲がそうしたのに責任があると思います)。

 若いというのは時間経過とともに、次第に歳をとっていき、当然それとともに、相応しい経験を積み、叡智を身につけていただき、最後には老成しなければならないものなんです。「若さ」のアピールだけで世の中を渡っていくのは、甘いんじゃないですか!(昔、「何もわかりませんが、若さで頑張ります!」なんて挨拶をする職場の後輩がいたりしましたが、あほらしくてモノを言う気にもなりませんでしたけどね。「何もわからないのなら、まずはわかる人に聞け!一刻も早く、何もわからないからの脱却を目指せ!戦力以外は要らない」と、内心怒鳴っておりました。もう五、六年若かったら、その場で吠えただろうと思いますよ)

 ま、こんな選挙運動中の言葉一つでも、かなり候補者の人となりがわかるものです。候補者本人が口にしなくても、こんな選挙カーを走り回らせていたら、候補者本人の見識が疑われるんじゃないですかね! ま、これからラスト三日間ですから、ますますこういった発言はエスカレートするんでしょうけれど、運動するにしても、よく考えてした方がいいんじゃないですか。ただ騒音をまき散らすだけじゃなく。

※ 今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月17日 (火)

男子三日会わざれば……

『男子三日会わざれば、刮目して見よ』なんてえことを言いますが、本日はまあ、私的にはわりとぴしっとした服装をしておりました(久々にネクタイなんかしちゃったよ!)。でもねえ、三日会わないで一番驚いたのは、実は私自身だった(笑)。

 久しぶりに「礼服」なんかを着たんだよね。するとブカブカ…… たしかこの服、この前来た時には、まあまあぴったり合ってたよねえ。なんで今日はブカブカなの? 誰か服を入れ替えた? …残念ながら我が家では、私が知らない間に、私の着る服が入れ替わるなんて超常現象は起こらない。

 俺、本当にこの服、着てたんかねえ? 一番に驚いたのは、私自身だった。ベルトなんて、まったく穴が足りなかったもの(急遽作りましたが)。どうりで道着の帯を長く感じるはずだ(昨年は「短くなったなあ」と嘆いていたはずなんだが)。

 人様は私に会うたびに「痩せた、痩せた」と仰るんだが、本人的には、毎日どころか、毎時、毎分、毎秒、毎瞬付き合っているので、あまり変化には気づいていなかったんだよね~。あ~驚いた。これは、だいぶ前の服でも着れそうだ。

 なんてことを思う前に、すでにトレーニング着は、昔使っていたものを使い始めているんですけどね。なにしろ昔は、半端なくトレーニング量が多かったから、たくさん持っていたんだよね(トレーニングばかりしているくせに、「汗の匂いが嫌い」なんて変な奴だったので、一日に数回着替えておりました。そのため、たくさんトレーニング着だけは持っていたのです)。

 これはとても嬉しかったので、「ようし、こんど一丁、洋服でも新調しちゃおうか(実は、ずいぶん前から、お誘いの言葉は承っている)」なんて気が起こりましたな。ダイエットはいろんなところに影響を与えるようでございます。

 数日間、雨が降り続きやがりましたので、本格的なトレーニングはできませんでしたが、今日の最重要事が終了した後(さすがに「晴れ男」で、一滴の雨も降らせませんでしたよ!)、さっそく汗をかいてまいりました。

 どうやら体重は「安定期」に入ったみたいですね。こんな理想的なダイエット方法、どこかで公開したら、けっこう受けるだろうけどねえ。(リバウンドはない、はずです。現に、今の私に、リバウンドの兆候は、まったく見られませんし。栄養学的にも、生理学的にも、理に適っているはずですから、理想的なダイエットと言えるでしょうね…どこかから執筆依頼でもあれば、書きますよ! 別に秘密にすることでもなし。もっとも経済的に負担がなく、最も健康的で…つまり故障なども起こらず…、無理のないやり方だと思いますからね)どこかが希望するって、手を挙げてくれたらのお話ですが…でなければ、私は自分のやりたいことで忙しくしているので、たぶん「痩せたねえ」と言われたら、「そうでしょ? ダイエットしてますからね」程度の受け答えで、お終いでしょうね)。

 私自身は、自分が最も動きやすかった頃の体重に戻しただけで(これからの人生、動きにくいのに我慢しながら生きていくのは辛いから。なにしろ人生は長丁場だし)、人さまが驚いてくれるほどには、驚いていなかったんだよね、今日、ズボンを履くまでは。ズボン履いたとたん、本当に「これが俺が昨年まで履いていたズボン?」って思いましたけどね(爆笑!)。

 いつもは「服装の乱れは、心の乱れ」と言って、一番動きやすい恰好しかしていないから、気がつかなかったんだよね~。(私の中では、動きやすい服装=自分を最も発揮しやすい服装=本当の自分に最も忠実な服装、と思っているので。これは自宅にいる時でばかりでなく、日本にいない時だって同じです。ただし式典とか、相応しいものを着用しなければならない時は、人間の常識として…ただしこの「常識」は儒教の影響を大きく受けているんだけど…式典の値打ちを損なわないために、常識的な服装をします。これは「人として当たり前」のこと) おかげで若い頃の服が、まだまだ使えそうだ。ダイエットって、とてもリーズナブルな生活につながりますね(笑)!…って、虫食ってねえかな?それだけが心配だ。

 本来、スーツにネクタイなんて恰好は、高温多湿の日本の夏には似つかわしくない服装だと思うのだけれど、これからの季節には、合わないこともないよね(完全に合うとは思っておりません。たとえば肩、首あたりに感じる違和感は、明らかに「生活習慣病」につながるかも知れない、ある種の違和感を感じさせます。「生活習慣病」なんて名前を付けるくらいなら、着用する衣服と、健康障害との関連性くらいは調べろよな、健康関係の仕事についた人たちは…私はこれは絶対に関係があると思っているから)。たまには着てみようか(そうでなくても体型が変わっているんだから、別人と間違われて、石ぶつけられたりして…笑)。

 ということで、本日は、いつもとは違う服装に変わった瞬間、あまりの自分の変化に、誰よりも自分自身が一番慌て、ひっくり返りました。

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月16日 (月)

現実感

 天気が腐っておりますな! 腐った天気は捨てる以外ございません!(どうすれば捨てられるのだろう????) 世の中、腐っている奴は多いけれど(いちいち書いていると、こちらの気分が悪くなるので、情報は仕入れても、あまり口にしたくない)、何か重要な行事の時には、せめて天気くらいは腐っていてほしくないものです。まあ、私は「晴れ男」なので、わりと楽天的ではありますが。

 しかしながら、屋外のイモちゃん水槽が、もう満杯なんだよね。イモちゃんは(残念なことに?)とてもアホなので、何も考えずに脱走してしまうかもしれません。水槽にさえいれば外敵から身を守れるようにしているのですが、いったん脱出してしまえば、こちらとしては守ってあげることはできません。

 外敵に食われてしまうか、あるいは干からびてミイラになってしまうか。いずれにしてもあまり明るい未来は待っておりません。私としてみれば、いなくなって寂しいと思えば(まだまだ他にもイモちゃんはたくさんいるので、決して寂しくはありませんが)、、原産地に行って採集してくるか、あるいは来年「子作り」をしてもらえばいいだけの話です(ただし、「子作り」の場合は、殖えすぎるという問題が発生いたしますが。少なくても数十匹は生まれるからね。育てるのはそれなりに「楽しさ」があるのですが、そのあとが大変。イモちゃんの寿命は、とても長いのです。下手すると、ずううううっっっと、面倒を見なければならなくなってしまいます)。

 だからブリーディングに自信があるからと、やたら殖やせばいいって問題ではありません。適当なところで自制しておかないと(まあ、かりに殖えすぎても、それなりの食物連鎖が出来上がっていって、また新しいバランスができていくだけなのでしょうが…今、私がこれを狙っているのは、ヒキガエルなんだけどね。これはまた来年のお話)。

 先日まで(雨が降りだす前まで)、我が家の庭で孵化したに違いないカナヘビのおチビさんたちが、猛然とダッシュする姿を見かけておりました。この姿も、稲刈りが終わる頃には、ぱったりと見かけなくなります。ほんの1週間ほどで、全く見なくなるんだから面白いもんです。

 同時にこ前後には、田んぼの用水路から、一斉にメダカ以外の魚が消えます(逆に、メダカを採取するには、チャンスですが。なにしろ他の魚がいないんだから、採取した後で選別する苦労がいりません)。田舎ならではの季節の移り変わりは、こんなものです。

 職業柄、季節の移り変わりを知らなければならないはずの人が、案外こんなことすら知らなかったりしますが、(だいぶ前に、12月に生きたアカムシ…ユスリカの幼虫…を探している、某高等学校…岡山県では有名な公立高等学校。進学校を自称しています…の生物の先生がいて、私がK氏のお店で談笑している時に入り込んできて、呆れたことがございます。生物の先生なら、せめてユスリカの幼虫が、どんな季節に、どんなところにいるかくらいは知っていてほしいもの。こんなずっこけた季節感の先生が、正しい生物学を生徒に指導できるとは、思えないもんね。どんな専門的な知識を持っていたとしても、季節すらわかんなきゃ、意味がないじゃん! 私みたいな、ただただペットに旨いエサをやりたくて、そこいらをほっつき歩いている人間にも勝てないよ)、頭でっかちになった人間には、見えなくなることも少なくないようです。山に行って、生きた鯨を探そうというのと、大差ないもんね。

 どんな専門的な知識であっても、その土台にあるべき常識を失ってしまっては、何の意味もございません。どんな理想も、現実を見ないで語ったのでは、まったく意味がないのと同じです(これを夢想と申します)。ま、現実を見ていたのでは、資格取得の試験に合格できないのかも知れないんだけれどね(そんな試験なら、廃止してまえ!)。

 釣りに行っても、一番役立つ情報は、釣り場で釣りをして遊んでいる、現地の子供に尋ねるのが一番役立つというのは、私の経験上言えることなんだけど、その場での「現実」は、学者先生ではなく、そこで毎日暮らしている人間が、一番よく知っていることだから。

 似たことはよくあるよ。ある地区の問題について研修するとか言って、偉そうな人々がどやどやとやってくることがあったとしても、実は何も理解なんかできやしない。本当に研修したかったら、そこに住み着いて、何十年も暮らしてみなければ、ね。山には山の、海には海の、平地には平地の問題はあるし、その土地特有の問題は、そこに住んでいる人間にしかわからなかったりする(スタジオ・ジブリの『おもひでぽろぽろ』も「いいですね~、自然が一杯で」という奴ですね。自然が一杯であることには、良い面もあるけれど、それはそれで同時に、「ならでは」の問題も抱えているだろうし…あのシーンには、直接関係がない見解だけど)。

 世の中、頭だけで理解できるほど、甘くはないから。(もちろん、まったく頭がないと、イモちゃんみたいに、ヤバいこともありますよ。何しろ奴らには「想像力」ってものが、まるでないから…これはやはり人間の有利な点でしょうかね?想像力の欠如した人も少なくないみたいですけど。「高速道路の追い越し車線で停車させる」みたいな。人間の最大の特徴であり、武器なのは、大脳の発達なんだけどねえ。だから危険を未然に防ぐこともできるわけで。これができなきゃ、イモちゃんと大差ない?…だいぶ前の産経新聞だったかに、ある種の魚は、初歩的な論理的思考ができるのではないか? と載っていたような記憶があるけれど、少なくともこのお魚さんよりはレベルが高くないですね)

 現実社会では、「経験」がそのまま、自らの「滅亡」につながることもなくはないから、それで想像力が発達したのかも知れないんですけどね。

 ま、人類は人類としての武器を、上手に使うに越したことはありません。力が強いの、牙が大きいの、爪が鋭いの、走るのが速いのは、もちろん生き延びる上で強力な武器にはなるでしょうが、人類だけに許された方法を磨くことも大切だと思いますね。

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月15日 (日)

不自然

 まあよう降りまんな! この調子で、明日もぐずつくんでしょ? ええ加減にせえよといいたいけど、何かいいことはないのかね? マツタケの出来にでも好影響があれば、まだ我慢できるというもんだけど、ちょっと時期的に遅くはないかい?(今年は高いと聞いている)

 他国産のものも、その国に行って食べれば、美味しくはないこともないんだけど(この二重否定、三重否定、嫌になるね。某国の文章なんか見てると、わりとよく見かけるけど、最後にはちゃぶ台をひっくり返したくなる…二重否定、三重否定を使う人間の心理が、嫌らしいのがわかるから。「いいならいい、ダメならダメと言え!」ってえのが短気な私の本音だ。ちなみにこういう複雑な否定文を出されると、私は否定の回数しか数えない。奇数回なら否定、遇数回なら肯定だ。しかしながら、どちらも素直にそう認めたくない心理が働いているのがわかるので、あまり好感は持たない。ということは、今回の私の発言も、相手に好感をもたれないことがわかっているので、それを承知で書いている。つまりは「美味しいけれど、嫌だ」という心理が働いていることを表現しているのである。何故だろうね~。まあオリンピックの地図から、日本列島を消して…普通は、わざわざ消さないと消えないでしょ?…、援助だけ欲しがる国なんかに、好感を持つわけないよね。私は基本的に競技者の立場でものを考える人だけど、果たして参加していいことがあるのかな?と心配になってしまう。だって「ない国」から来た選手なんでしょ? 粗末にされるのは明白だ)

 とまあ、悪天のせいか、今日はのっけから機嫌が悪い。打っているうちに好転すればいいんだけど。(TBSというTV局のニュース系統の番組は、わざと見ないようにするくらいだけど、『陸王』第一回は、よかったですね。池井戸潤節全開なんだけど、上手いなあ。さすがだわ。また演じている役者さんがいいよね。善玉も悪玉も、いい演技をされるので、見ていて熱がはいる。実はこれで少しは機嫌が持ち直している。『陸王』万歳!…ちなみに私もシューズに関しては一家言持っているので、けっこう煩いよ…笑。なにしろ私が走れなくなったのも、身体と靴の不適合が原因だから)

 あまりに熱を入れて見てたものだから、(そして初回ということもあって、放映時間が長かったので)せっかく淹れたコーヒーが冷めちゃったじゃないか(これは番組を作った方への、最大の賛辞かも)。でも二杯目は淹れない。

 今日は一日中雨だったので、朝から晩までデスクワーク(してると思ったら大間違い。途中で站樁なんかをやらかしたりして…ちなみにこれを始めると、私は時間経過を忘れて、浦島太郎になっちゃうので、要注意でございますが、もしかしたら站樁中の私は、光速で旅行をしているのかもわからない…例の光速に近づくと、時間経過はゆっくりして、外部とか切り離されるっていう、例の『ウラシマ効果』か?…結構安上がりな稽古でございます。一円もかからないもの)で、仕事がはかどったかなあと思ったんだけど、今振り返ってみると大して進んでいない(そりゃそうだ。起きるのが遅かったから。なにしろ空が暗いでしょ? 「朝が来た」認識がないんだよね。そうでなくても朝に近くならないと寝ないわけだし。久しぶりに爆睡していた。これから頑張らにゃ)。

 こんな日があるんですな、一年に数回は。それでも明日はけっこう多忙なので、飛び回らにゃなりません。できたら私が外で動き回る間だけでも、雨には遠慮していただきたく思います。動きにくいから。

 そうそう、そういえば先日(ほんの2、3日前)、チョウセンブナの水溜りに、またしても泡巣ができておりまして、この時期に産卵するのかなあと思っていましたが、やはりこの雨、後は見ておりません。放っておいても、孵化するものならばオスの親が面倒看ますから、私が手を出す必要はございません。孵化しないのなら、面倒みる必要なんかさらさらないし(笑)。いつも我が家はこんな調子でございます。なにせたくさん殖やして、売って儲けようなんて気が、さらさらない人だから。我が家で支えられるだけの数量が、健康に生きていれば、それで十分でございます。

 無理をしないのが、一番長続きさせるコツでございますからね。自然にしていて殖えるってのは、必ずあるところで安定状態に入りますから。それ以上は「無理(理がない)」なので、放置いたします。すると適当に増減しながら、安定状態に向かっていきます。これってまさに「自然界」と同じやりかた?じゃあないですか。

 で昨日は雨と雨の間に、私が動くべきところに、遠慮もなく雑草が生えていたので、保護すべきは鉢植えに植え替えて、それ以外はざっと草抜きをし、後は歩法を伴う練習をいたしました。これが見事に雑草には一番効果的らしく、私が稽古するところだけは、見事に草が生えません。

 これは「生存競争」ですね。私と雑草とが、どちらの生活権が優先されるべきかを競っているわけですから。自然界では、人間が立ち入らないようなところにでも、「獣道」というのがありますが、これも獣と野草の、生活圏をかけた生存競争の結果、形成されるものでございます。

 こうして、歩くだけでも生存競争は行われているわけで、(我が家では、カタツムリをよく踏み潰しますが、これも人間の通路に出てくるカタツムリが悪いわけで、こちらに悪意があるなしに関係なく、潰される奴は潰されます。木なんかにとまっているやつは、決してそんな目に遭いませんし)これもまた「自然」でございます。

 地図から特定の地域や国を消す、なんて不自然なことをやらかす人たちには、こんな感覚はわからないんだろうねえ…… しかもいい大人で、きっと公的な地位がある人たちだろうに。でもそれが不自然な行為であることは、見事に間違いありませんね!

 ついでに不自然に人の仕事場に入ってきて、不自然に邪魔をしていた蚊には、とても不自然な殺虫剤をお見舞いしてあげました。結果はとても不自然なことになったと思います。殺虫剤である以上、誰にも毒性はあるのだろうけれど、同じ毒性なら、耐性が強い方が生き残りますもん!

※ 今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月14日 (土)

敬意

 ノラちゃんの顔が優しい。もうどこにも、私を警戒する色がなくなってきた。あるのは「今日は何? 美味しい?」てな顔色だけである。昨日は「安売り」に釣られて、大量に購入したのを急遽捌いて料理したので、そこそこ量はあったと思うが(最近、ノラちゃん、太ったもの。ネコは身体や顔つきが丸くなると、可愛くなるね。)、今日もいろいろと混合であったはずなので、たぶん満足?

 これ以上、親くなろうとしないのが、私の「ノラに対する尊厳を尊重する態度」だと思ってかまわない。お互い、束縛しあうのは嫌だもの。そりゃ、家族の一員としていてもらってもいいんだけど、こうなると気を使わなきゃならないことが、ごまんと出るからね、お互い。(私の場合には、突然、ふといなくなることがある。変温動物のペットならば、それでもなんとかなるのだが…基礎代謝が低いので、恒温動物にくらべて御しやすい…恒温動物は、ちょっと、ねえ!)。

 二代目チャーちゃんなんか、母の帰宅が遅くなっただけで、明らかに不貞腐れていましたからね(なんと、無視するんだよ! 一番酷い時には、母に寄れば「飛び蹴り」がきたのだそうな)。まあ、それも今となっては、遠い昔のことになりましたが。

 でもネコ的にな、私の料理の腕は、「そこそこ」レベルだったのではあるまいか(食べっぷりが!)。一度酔っぱらって砂糖の量を間違えた時は、二代目チャーちゃんに「猫マタギ」をされてしまいましたが。あの時は「こんなもん、食えるか!」て、冷たい目で見られましたな。今でも覚えているよ(でも、その通りのことをレシピとして公表している方がおられたりいたします。そのレシピは、ネコ的には「不合格」です!)。大変な屈辱だった……から。

 ということで、植えたはずのジャガイモ(秋植えのジャガイモの狙いが、冬の「おでん」と「シチュー」にあるのは、賢明な方には、ほぼ推測できるのでは? なにしろ私は横着者なのに、美味しいものには目がないから)が腐っていたというのは、先日ここに書いたと思うけど、実は大事をとって二か所にわけて植えておりました(こちらは日陰。土の質も異なる)。私は意外に慎重派だから。

 今夕、久しぶりに裏庭に回ってみたら、ちゃんと芽が出ておりました。私一人が食べるなら、これで十分になるでしょうね(本当はスケベ根性を出して、慌ててHCに行ったんだけど、さすがにもう種イモは売っていなかった。あったら植えるつもりだったんだけどね。時間差をつけて植えれば、長期的に楽しめるし)。あとは放置しておくだけ。食べるのは好きだけど、面倒を見るのは、決して好きな方ではない。

 トマトも秋になって復活してきましたしね(ゴーヤもなっていましたが、熟したら誰かにあげよう。やはりこの夏、私はゴーヤを食べるのは好きになれませんでした。ゴーヤという植物の賢さには、何度か感心いたしましたが)。今日はKさんが我が家に訪問されて、これからの熟しにくい季節の、トマトの処理の仕方を教えてくださいました。今でも夕方、走る前には、適当に熟したかなという奴を頬ばるんだけど。また一日数十個も食べなきゃならない時期が来るんですかね(決して嫌いではないが、「偏食」に陥ります)。

 ということで、珍しく夕食時にTVをつけていたら、有名スーパー同士が、ライバル店のいいところを褒めあうシーンがあって、これは感動した。こうだから日本の企業は伸びるんだよね。貶しあいだけからは、憎しみくらいしか生まれてこないけれど、相手の良いところをきちんと褒められるってのは、見ていて気持ちがいい。

 もちろんそこには「生存競争」だから、相手の長所を超える長所の開発に勤しんだり、相手の長所に学んで、自社も同じような能力を身につけていくのだろうけれど。相手の長所までケチをつけて貶す人間は、長勝負では勝てないことがほとんどです。

 何故かというと、こちらが貶すだけで、対策を考えてこなかったとすれば、相手がその長所を発揮した時には、ほとんど対抗策がないからです。相手の長所は、正しく評価し、できることならそれへの対抗策を作っておくべきですね。

 自分と相対するライバルに向かう姿勢としては、最も大切な心構えだと思います。これに対して、ライバルを憎むだけで、その長所にケチをつけ、その短所をみてあざ笑うだけだったら、まずは何をやっても勝ち目はございませんから。負ける時はたいてい、相手が自分の長所を発揮してきた時で、こちらが短所ばかり出してしまうことが多いのです。

 だから相手は徹底的に研究しなければなりません。そして客観的に、優れているところは優れている、劣っているところは劣っていると認識し、どこがどのように優れているか、または劣っているかを、しっかりと把握しなければなりません。

 なんだかそんな集団や国もなくはないようですが。まあ、自分や、自分に親い人には、こんなお話をしておかないといけませんね。

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願い致します。

2017年10月13日 (金)

お買い得!?

 本日夕方である。いつも行く店(私にとっては、冷蔵庫代わり?)の店ではないスーパーに入ったところ、「お買い得」との表示が目に入った。悲しいことに、こういった表示には、ついつい惹かれて、招き押せられてしまう。

 見ると地元産の鯵ではございませんか! これは嬉しい。あとはもう正常な判断力は喪失しておりますな。後先考えないで購入いたしました(十数年前も、たしかイカでトロ箱ごと買った記憶がある。結局私が食べることができたのは、通常のお値段分くらいで、私の周囲にいた人が得をした。それはそれで、いつもお世話になっているんだから、いいんだけど)。

 で帰宅してからが大変だった。お買い得とは、値段のわりに、わりといい品質が、大量にあるということだったのだ。私的には、同じ程度の品質のものが、同じ程度の数量、低額で入手できる「お買い得」が望ましかった(だって、一人暮らしだもん! そんなにたくさん食えないよ!)。

 第一に料理が面倒い。(おかげで、やっているうちに、昔の感覚が戻ってきて、かなりスピードアップしたけど)結局、収納しきれないほどの量を料理してしまったので、頑張って食べた(骨とかは、ノラが喜ぶだろうなあ… 結果的には、ノラのための「お買い得」だったのかも)。それでも残ったので、これは明日用にする。(同じくお買い得のものがあったので、明日は明日の料理をしなければならないんだけど。しばらくはノラがいい目に遭いそうな気配? まあいいや。最近けっこうふくよかになってきて、少しは可愛く見えはじめたから…栄養が良いと、猫は可愛くなる?)

 とうことで、なんか変だなと思ったら、今日は13日の金曜日ではないか。どうりで! でも我が家にはジェーソンは現れない。かりに現れたとしても、なかなか我が家は、難攻不落かも(ただし私が起きている時に限る。ま、あんまり寝ない人だけどね)。どこから何が出てくるかわからないような家ですからね(別に、秦始皇帝陵のように、自動発射型の弩は仕掛けてないけど、今のところ。かりに仕掛けたら、最初に射殺されるのは、間違いなく仕掛けたことを忘れる私だ…笑)。

 ということで夕方も、そろそろ日が暮れるんではないかと思う頃になって、天気が回復してきましたなあ。できたら朝、回復してもらいたいんだけど(洗濯物が部屋干しのままになっていて、邪魔でしょうがない)。

 ま、どうせ明日もぐずつくんでしょ。でも洗濯しとかないと、晴れた瞬間を狙って干せないもんね。昔誰かの名言にございましたな。「偶然は、準備ができていない者を助けない」というのが。いつも準備ができている状態でいることは、けっこう大切なんですよね。そうすれば「お買い得」に釣られて、無謀な買い物をすることもなかった?(料理の感覚が戻ってきたから、それはそれでよかったけど…意味のないことは、人生には何一つとしてない…これもまた、どこかの誰かさんが言った名言なんですが。もう誰が言ったのか、忘れちゃったなあ…たまに誰かが言ったと思い込んでいる中に、私自身のオリジナルもあったりするんだけど、もうど~でもええわ!って感じですな!…笑)

※ ということで、今月の『○○を語る会』は、21日(第三土曜日)でございます。初参加の人も歓迎ですよ!(場所がわからないって? 知ってそうな人に聞いてくださいな。お買い得?なんだから、場所は探してよね!)

2017年10月12日 (木)

グッピー隊長の帰還

 どうやらしばらくは天気がぐずつくみたいですね。せっかく快適な秋を楽しんでいたのに、非常に残念でございます。ということで、ひと夏屋外で、ボウフラ退治に活躍してくれていたグッピー隊長たち(すでに何倍もの数に増えてしまいましたが…笑)を、室内に収納する準備を開始しました。

 基本この魚は、汚れた水にでも対応しますから、水質はあまり気にしなくてもよいのですが(室内のは「ギャっ」というくらい水草が繁茂したところに入れていますから、水質は非常にキレイです。ちなみにこの水草が、小売で買うと、けっこうなお値段だったりして。我が家のは、すべて我が家で殖やしたものでございますので、原価は「0円」でございます。今の我が家にある水草は、熱帯産のもの以外は、すべてが「0円」かな…採集に行くのに、ガソリン代とか、食事代とかがかかっているかも。水槽に入れる前には、ある程度の期間をかけて、きちんと消毒いたします。こうして魚でいうと何世代も経過していますから、まあ病気が入る心配はございません)、水温だけは気にしないといけません。いきなり5℃も違う水に入れるべきではありません。

 なのでしばらくはプラケース住まいで、室内の温度に合わせます(水槽にヒーターを入れている場合には、プラケースごと、その水槽に浮かべときます。するとしばらくすれば水温がほぼ同じになるので、そこから先は、慎重な人なら徐々に水合わせをしたりするのでしょうが、私の場合にはたいてい忘れていますから、翌日の給餌の時なんかに、「あ、忘れとった!」とばかりに、合流させてしまいます)。こうして冬は暖かい室内で暮らし、来年またボウフラの鬱陶しい時期になると、グッピー隊長に出撃命令が下るわけです。

 ちなみに私の経験では、我が家のグッピーでは、水温が17℃を下ると、ぽつりぽつり身罷るのが出始め、13℃を切ってしまうと、大半のグッピーが身罷ります。私はあまり高水温で魚を飼うのは好きではないので(高水温だと、餌食いがよかったり、体色が鮮やかになったりしますが、その分、短命になったり、病気が入った時に打つ手が減ったりします…我が家ではNO 病気だけど)、けっこう低めに設定しております(だいたい電気代が安い!)。

 たとえばディスカスなんて魚は、一般には30℃近い水温で飼育するように言われていた頃がございましたが、モノの本によりますと、水温が25℃以上のところで捕獲されたディスカスはいないんだそうで、ということは25℃以上のところには住んでいないと考えるべきですね。

 私も初めてディスカスのブリーディングに成功した時(コバルトターコイズでした)は、30℃以上でやってましたが、この水温では急激に成長し、巨大化する代わりに、短命になります。ワイルドではメスが生後2年くらいで発情するとされているのに、我が家で産まれたメスは、生後わずか10か月で産卵してしまいましたからね。で、10年くらいは生きるのではないかと言われているのに、3年足らずで身罷りました。

 後に「ディスカスはワイルドしか飼わない」と心に決めてからは(ワイルドは綺麗ですよ~。体色がどんどん変化していくのも見事でございます)、25℃は超えないように注意したくらいです(夏が大変でした)。でもちゃんとペアができ、お子さんも生まれましたからね(ブリーディング用のスペシャルテクニックはありますが、この時にはそれも使わなかった。好適な環境にしてあげたら、後はエサを与えるくらいで、忘れてしまうことでございます。産卵だって、気がついたら生んでた…さすがに生めば、きちんとオスメスで卵を守る魚ですから、気が付きます…実はペアが出来た頃から、わかってはいたんだけどね。人間でもあるじゃない? お付き合いし始めると、なんとなくわかるってのが…笑。ディスカスの場合は、もっとあからさまに求愛行動をしますから、もっとよくわかります)

 とまあ、毎日のエサやりと、たまの水替え以外は、今はまったくしらんっぷりの我が家の水槽でございます。その方がお互いの精神衛生上も、よろしいみたいでございますよ。

 人間は勝手な生き物ですからね。中には凄い優しい方もおられるようで、ペットのために生きているんではないかと思うこともありますが、私の場合は、常に自分中心。見たい時に見たいものがいてくれればそれでいい。もちろんペットとして飼っているのは私で、彼らが望んで我が家に来たわけではないので、連れてきた責任があります。その責任を果たすのが「好適な環境づくり」と「給餌」でございますね。

 だからグッピー隊長にも「ねぎらいの言葉」なんかあまりかけません。だいたいこの水溜りは、今年ヒキガエルのオタマジャクシが育ったもので、ヒキガエルのオタマジャクシって、ボウフラを食べないんだよね(どうやら草食?それとももっと小さな微生物しか食べない?)。で体長1㎝くらいのカエルになって上陸し、流木に隠れていても、ボウフラが元気に泳いでたんだ。で「蚊をものすごく嫌う」私は、グッピー隊長に出動をお願いした。

 翌日にはボウフラは1匹もいなくなっておりました(笑)。夏の中頃には、すでに私がエサをやらないといけない羽目になっていましたっけねえ。(来年はヒキガエルをもっとたくさん増やしてあげよう…我が家の近所にも、昔はいたんだけど、最近はカエルそのものが激減してるし。ちなみに今年のオタマジャクシからカエルになって上陸に成功した確率は、例によって100%でした。生きて連れ帰ったオタマは、全部カエルになりましたからね…自然界ではありえない確率だ!…2~300くらいは連れ帰っても大丈夫かな…エサの安定的供給は問題なし。水溜りの面積が最大の課題だけど、これも1000匹くらいまでなら、面倒は見れそうだ。だいたい何時くらいに上陸するかもつかめたし…イモリやサンショウウオとほぼ同じタイミングでした。これがきっと、古生代の両生類が誕生した頃の環境に近い時期なんじゃないかと、私は勝手に想像しておりますが。私はあと50年くらいは生きそうなので、1㎝くらいのカエルが20㎝近いヒキガエルの成体になるのまでは、完全に見られそうな気がしております。でもわりと賢くない生き物だから、餌付けなんてのは、難しいかもしれませんね…ツチガエルなんかは、わりと簡単に餌付け可能です。でも名前も覚えないし、こちらに愛想もしないから、「ペット」的な感覚は持てませんけどね。我が家では害虫駆除係として、生存を許可しているだけで)

 ペットとは微妙な違いがあるけれど、我が家では益虫、益獣として機能いたしております。

2017年10月11日 (水)

ひとの不幸は蜜の味?

 中島みゆきさんの『怜子』って名曲があったなあ。大学時代、ゼミの呑み会で、いの一番に指名された私が、大声で歌い始めたら(当時は声量が豊かだった。毎日道場で気合を入れてたから…笑)、周囲の部屋が「し~ん…」となってしまった(もちろん私のゼミの部屋も。当時は気合が入ってたんだねえ、歌うたう時も)。別に怒ってたわけじゃあないんだよ、当時の私の感情をそのままに表現しただけだから(今だって、大して変わっていないっていうか、もっと悪くなっている? ただ人を驚かすような大音声は、もう出ないなあ… 先日の耳鼻科で言われたように)。

「…ひとの不幸を祈るようにだけは、なりたくないと願ってきたが…」 はい。今でもその通りでございます。きっと死ぬまでそうだと思います。時にあまりにも幸せそうな人たちをみると、少しだけ嫌な気分が起こることがありますが、できるだけ見ないようにして我慢します。でもねえ!こちらが困っている時に、大口を開けて嘲笑し、指さしてバカにした連中が困っていたら、話は別でございますよ!(こちとら、聖人じゃないんだ。聖人なんてクソ面白くもない存在になんか、死んだってなりたくない…『鬼谷子』の聖人の定義を読むと、少し意見が変わりましたが)

 ひとが不幸になったからといって、こちらが何か得をするわけではないんだけれど、こういうケースは、所謂「溜飲が下がる」って現象が起こりますからね! 物質的な得をしなくても、心が得をしているわけだ。こいつは銭金には換えられないからね。

 銭金に換えられないってことは、ただかも知れないし、もっと高価かもしれないってことで、銭金でしか物事を考えられない人には、もしかしたらわかりにくい価値観かも知れない。っていうか、銭金という、経済の流通の便宜を図るために、人間が作り出した道具しかわかんなくなっている人には、ある意味「恐怖」を感じますけどね。

 それでも今の世の中が(悲しむべきことなのか?)、経済なしには語れなくなっているのは事実だ。時に「政経分離」だなんぞと面白いことを言う輩がいるようだが、現実が見えているのか、それとも見えていても見えないことにしているのか、あるいはさっぱり見えていないのか知らないが、まあ、その方向でやれるもんならやってみんさい!って感じだね。

 まったくの経済音痴の私ですら、「こんな夢物語、誰がのたもうたの?」と思うような面白いことが、今、現実に、わが国の近くで起こっているらしい。まあいいじゃん! パンドラの箱だって、最後に出てきたのは「希望」なんでしょ?

 先日の本ブログでは、「希望」とは「望み希(すくな)し」と読むと紹介したと思うけれど、この少ない望みに賭けて、発想の転換ができなかったり、新たな道の開発に遅れてしまったケースだって、決して少なくないわけだから(だからパンドラの箱に入っていたわけで)。つまり「希望」には、裏表で大変な違いが生じる危険性が、常に伴っているということは、きちんと神話なんかまでを読み込んだ人なら、知っていなくてはならないわけで。

 諦める時には、スパッと諦めて、新たな道を探す。これができないで滅んで行った人や生き物は、今までの地球の歴史の中で、たくさんいたんじゃないかなあ。私は、若い人から「新しいことをやってみたいけれど、途中でケツわりするのではないかと心配している」と相談を受けるたびに言ってきた言葉がある。「ケツわりを恐れてたんじゃ、新しいことには挑戦できないよ」

 もちろんいい加減な気持ちや、おっかなびっくりと言った体で物事に取り組んで、ケツをわるのはよくない。何事も、一所懸命取り組まなければならないのは、絶対条件だが、「こりゃあかん!」と思ったら、景気よく放り投げるのもまた、凄い大切なことだと思うんだよね。

 放り投げたらそれで終わりかというと、そうでもない。放り投げたものに対する責任があるわけで、自分が放棄したもので誰かが成功したりなんかすると、「しまった、俺もあれを続けてればよかった!」なんてことを思い始める。実はこれは「放り投げてしまった自分に対する無責任」なんだよね。

 人は、自分が行った決断の責任は、つねに自分にある。放り投げても、それは放り投げることが最善と思ったから、放り投げたはずなんだよね。その決断は、けっこう重いんだよ。時に生命賭けになるほどね。

 だから、なんとなく調子がいい時に、いい加減なことばかりやって(たとえば、調子が悪いのに、コツコツ頑張っていた人間なんかをあざ笑ったりして)いた奴が、いざ自分が不調に落ちて、しかも慌てふためいていたりしたら、これは結構笑っていいんじゃね?と思ったりしますね。

 私は「人の不幸を笑う」ような育てられ方をしてはいません。しかしながら、こちらが不幸な時に嘲笑した奴が不幸になった時、これを笑ってはいけないとも思ってはいません(もし笑わなかったら、よほど自制しているんだと思う)。

 俗に、因果応報なんてことを言ったりしますけどね!(笑)

 調子がいい時は、何をやってもうまくいったり、周囲から許されたりするけれど、そういう時に調子に乗りすぎると、今度は不調になった時が大変だ。

 BC338年といえば中国の戦国時代の中期になるんでしょうか、韓国では旱魃が起こりましたが、韓の昭侯は「そんなの関係ねえ!」とばかりに、非常に立派な城門を作りました。この韓昭王という人は、名宰相申不害を任用し、弱小韓国に最盛期を迎えた人だったのですが、楚の大夫屈宜臼はこれを見て、「せっかくこんな立派な城門を作っても、韓昭侯はこの門を通って、外出することはできまい」と言ったそうでございます。

 名宰相申不害はBC337年に没しますが、楚の屈宜臼は、韓昭侯がこの門から出ることはできぬと言った理由として、「物事には時候というものがある。時候とは、何も日にちがどうとか、時刻がどうとかというものではない。人生には順調な時もあれば、何をやってもうまくいかない時もある。以前、韓昭侯は、何をやっても順調だったが、こんな立派な門などは作らなかった。ところが昨年(BC338年)、秦は宜陽を占領し、韓は大旱魃だった。本来韓昭侯は節約に努めなければならない時期だったはずだが、こんな建築物を作り始めてしまった。旱魃ゆえ民の困窮に同情こそしたが、それまで通りの贅沢をあらためることはなかった。これは亡国の行いであるため、時候ではないと言ったのだ」、なかなか理屈が通っておりますな。

 BC336年、この城門は完成したが、韓昭侯は没し、ついにこの城門をくぐって外出することはできなかった。

 ま、その場、その時、その状況で、やるべきことをきちんとやらず、他人を嘲笑したりしていると、とんでもないしっぺ返ししか戻ってこないということでしょうかね。

 ちなみに私は、今晩は走った後、自宅の庭で、けっこう気合の入った稽古をし、何故かした「祝い酒」を呑んでしまいました(何故だろね?…笑)。できるときにできることを、できるだけ、できるようにやる。祝うべき時に、祝うべく祝う。これがベストかも?

※ 今月の『○○を語る会』は21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願い致します。

2017年10月10日 (火)

ヌスビトハギ

 今日も、季節にそぐわない暑さだったですね! 最近どうも、走って帰った後、パンツ(もちろんランニングパンツ)にヌスビトハギの果実(もちろん、中に種子が入っておりますが)がくっついている。今日は幸いなことに明るいうちからランニングコースに出られたので、いったいどこでこんな厄介なものがくっついているのかを調べることにした(何でも無意識のうちに調べる性質があるのです、私には)。

 なにしろこのヌスビトハギという植物、考えようによってはオナモミはいうに及ばず、イノコズチよりもやっかいだ。(なかなか取れない)昔我が家に犬や猫がいた頃、屋外で遊んで帰ると、この季節には、こういった野草の果実をとってやるのが一苦労だった(犬は我慢するけど、猫は痛かったりすると、いきなり爪を出してひっかくからね。ネコは我儘な生き物だよ、実際…あの悪魔的な可愛さがなかったら、とうの昔にペットではなくなっている気がするけどね…笑)。

 今は自分の世話で手一杯だけど、こんなに野草の種子を取らなければならないということは、所詮私も、犬、猫並みの存在でしかないということか。(まあ、犬や猫みたく、走り回っていれば、犬や猫並みなのかも知れないけれど)

 きゃつらは動物にくっついて、動物が移動する(そしてたぶんどかで種子を振り払う)ことに依存して、自分の子孫を広範囲にばらまくように進化したのだろう。自分ではほとんど移動能力を持たない植物の、たいした工夫なのだと思うけれど(これについてはBBCのDavid Attenboroughさんの『THE PRIVATE LIFE OF PLANTS;Episode1 Travelling』という名作があるので、興味のある方は、ごらんになるとよい。とても美しい映像でございます。まあBBCのこのテのDVDには、ハズレはないんだけど…笑)、こちとらとしては厄介極まりないシロモノだ。

 基本、果実という奴は、種子を運ぶために発達したんではないかと思うけれど(一般論で、例外はけっこうありますが)、中には受粉が終わると消えてなくなるはずのガクがそのまま残って、綿帽子となって飛んで行くようなものもございますな(紹介しようと思って、顕微鏡を導入したんだけど、未だにこのPCから2m50㎝後方にうっちゃったままでございます。なにしろ一人暮らしは、しょうもないことで忙しい!)。綿帽子も植物の種類によっては、けっこう個性があるからね。

 これからが季節だけど、果実のように見えて、そうではないものもあるし(イチョウのギンナン。外にある部分…あのクッサイやつ…は種皮でございまして、果実ではございません。でも中生代の草食恐竜は、あのクッサイのを食べていたらしいんだけどね。で硬くて消化できないギンナンは、そのままウ〇コと一緒に排泄されて、そこで芽生えたというんだね。この不思議な植物は、中生代末期の巨大隕石の激突による大津波と、気候の激変を耐えて、中国で数株生き延びたんだけど、それを日本から渡った禅宗の坊さんが持ち帰って、全国に広め、江戸時代に長崎の出島からヨーロッパに渡って、再び世界中に生えるようになったというのだが、植物の生き延びる術は、なかなかにすさまじいものがございます…銀杏の世界的な名称がginkgoとなっているのは…ちなみに「ギンコ」と発音します…、ginkyoの「y」を「g」と間違えたためではないかと言われておりますな。ちなみに私はイチョウの日本名は、yajiaoという中国名が変化したものだと考えておりますです。(一般的に現代中国では、イチョウは公孫樹と呼ばれますが、もともとは公孫樹、鴨脚樹(yajiaoshu)、銀杏の3つの呼び方があったようです)

 果実は食べられるものについては、食いしん坊の人類が様々な品種改良を施しまして、今や八百屋さんの店頭を飾るようなものになったものもございますが、これも本来は、動物に自分を食べていただいて、消化できない種子を、▽ンコと一緒に排泄してもらい、そこに子孫を残そうという、なかなかに優れたアイデアだったんですね。でも「食われることで、子孫を増やす」ってえのは、なかなかできない発想ですな。まるで、自分が死ぬことで、自分が残したかったものを、永遠に伝えていくという感じで。

 高橋留美子さんの名作『めぞん一刻』で、当初たびたび出ていた(私の記憶では。記憶違いでしたらごめんなさい。なにしろ、この名作は、今打っているこのPCをどかさないと開くことがない、「開かずの押入れ」の中にございますので、すぐに確認がとれません)、「死人は無敵だ」という名言に通じるものがございますな。

「命長ければ恥多し」と言いますが、生きていれば人間ですから、いろんな失敗もすれば恥もかくわけですが、一番いいところで死なれてしまっては、これはもう「いい記憶しか残りません」からねえ。美味しい果実をつける植物は、実はこういった不埒な輩なんですな(だから私は、その不埒な輩を征伐する意味でも、たくさん果物を食べます…自己正当化です…笑)。

 しかしながらヌスビトハギという奴は、食えるわけではないし、また腹の足しになるほどの大きさもない。くっついてきたものを取って、そのあたりに放置していたら、翌年は立派に生えていたりするので、質が悪い。

 で、たまたま今日は、明るいうちにランニングコースに行けたので、まさに怒虎捜山でございましたね(眼法が疲れるので、途中から猛虎出林に変わりましたが)。もちろんこの時点で、走ってはおりません。今日は歩法でございます。走ることは優れた練習ですが、走ることで見落としてしまうものも、けっこうたくさんあります。走らないから楽ってわけでもないんだよね。で、腰を抜かすくらい驚いたんだけど、そこいらじゅうヌスビトハギの群落だったんですね(毎晩、よくもあの程度しかくっつかいないで済んでいたもんだ!)。

 で避けられそうなものは、だいたい場所を覚えて避けることにし、どうしても避けられそうにないものだけは、へし折ってきましたよ。これも生存競争を思って、諦めてくれい! これで明日から、少しは安心して走れる?

 ま、世の中にはヌスビトハギでなくても、ヌスビトハギみたいな人(国? 集団?)もいるので、注意深く生きなければなりませんけどね!

※ 今月の『○○を語る会』は21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月 9日 (月)

屁こくじょ~みたいな下剋上を望んではならない(

 夜のドライブは、気持ちよかったですよ。もともと、夜のドライブは、好きなんだけどね(一人のドライブなのが、ちょっと残念!)。昼は暑くて(夏かと思ったよ)、舌を出しながら、へえへえと歩くようなペースで走ったような、歩法の練習をしたような(おかげで、新しい歩法の練習を一つ、思いつきました。たぶんこれから暫くかけて、完成形になっていくと思います)。なにしろ性格的にしつこい人だから…(昔、陸上競技場の外側で歩法の練習をしていて、「一周が長いなあ」と思っていましたが、今はそんな距離は「屁」ですね。なにしろ延々と続けるもんで…時々、犬に吠えられるけど…笑)

 望んだ感じ(感覚?)が来ればよし、来なければどこか間違ってるわけで。もちろんこの感覚は、「成功体験」なしでは、正しい感覚かどうかはわからないわけで、常に検証を必要とするんですけどね(検証なしの思い込みは、とんだドツボに嵌る危険性大!)。どんなに巧みに屁理屈を並べ、人の耳に快く響く言葉ばかりを言ったとしても、現実に使えなければ、「紙上談兵」の趙括さんと同じですな。

 ということで、夜のドライブを楽しんでいると、不意に何かが飛び出してくることがございます。「おっ!」、何かを轢いたと思って、慌てて車を路肩に寄せて見てみると、なんと「緑のタヌキ」でしたな。なにしろタヌキが交通事故に遭遇するケースは、意外に多い。いざとなると、タヌキは気を失って、動きを止めちゃいますからね。(しゃがむだけでも、わりとタヌ公は事故を回避できるのに)カップうどんの容器でよかった!

 ちなみに十数年前に私がとったデータでは、岡山市内の某地区で交通事故に遭遇している獣は、タヌキが全体の50%、ネコとイタチが20%ずつ、残りがその他でございました。たまに翼を持っているカラスなんかも、轢かれていることもあったし(ただし、昆虫やカエルのような両生類までは、データが取り切れません)。

 タヌ公は、見てくれはまあ愛嬌があると感じる人もいるだろうし、賢そうに見える人もいるかも知れないけれど(感じ方は個人の自由です!)、実際には使い物にならないからねえ(私は天気予報に使いますが。タヌキ汁は非常に臭くて、食べられたもんじゃないんだそうです。美味しいのはタヌキに似たアライグマの汁なんだそうで)。

 ということで、またしても衆院議員選挙が始まりますねえ。なんでも「緑のタヌキ」も参戦するとかしないとか(個人的には、「赤いキツネ」の方が、美味しいと思いますが…)。まあ選挙ですから、どなたもこなたも、ライバルを蹴落として自分が勝ち残ろうと、時に過激な選挙運動を展開したりいたしますね。

 ただねえ、いつも思うことだけど、実行力のない言葉だけの人は、先述の趙括を同じで、「紙上談兵」、理論上はいかにもすごくよさそうなことを言っていても、実戦ではまったく通用しないってことが、非常に多いんですな。だから私はいつだって「実績重視!」でしか物事を判断いたしません。(従って、これから始まる選挙戦以前に、投票する対象は決まってしまっております)

「試しにやらせてみよう」なんて甘いことを言っていたら、つい数年前のような事態が起こりかねませんからね。今はそんな「遊び」が許される国際情勢ではないし。ましてや地域政党から、大した実績もあげないで、いきなり国政に乗り出してきたりしたんでは、ちょっと困りものですねえ。いつかも書いたように、まずは自分たちが最初に名乗りを挙げたところで、実績を挙げてからのお話でしょう?

 有能な人に税金を使っていただくのは納得できるけれど、無能とか有害な人に税金を使っていただいてへらへら笑ってられるほど、こちとら余裕がないし。とまあ、私は「大人」のものの見方をしております。

 昔「下剋上」という現象があったことは、多くの人が知っていることだけど、これも無暗やたらと、部下が主人を殺しまくっていたわけではない。自分の主人が無能で、自分が主になった方がよほどうまくやっていけると思った場合にしか、やっていないんだよね。そして周囲がそれを認め、納得したら、下剋上は成立する。

 ところが主人を殺しても、殺した人間よりも俺の方が上だ、という人が現れた場合には、そこで内乱が発生したわけで。内乱が発生したりすると、その国や集団は、勢力が落ちるので、横で隔岸観察火を決め込んでいた人が、あっさり内乱に乗じて侵攻し、簡単に征服してしまったりするし。

 で自分は親分になりたいけれど、ちょっと力が足りないなと思った時には、外側の勢力を呼び込んで、それを背景に、権勢を持ったりする人もいたわけで(何を考えているのか知らないけれど、自国の内乱にいつだって他国を呼び込んで、うまくいってもいかなくても、すべては他国が悪いと、後から喧伝するとぼけた集団も、いないわけではございまいませんが)。

 だからかの「下剋上」ですら、出鱈目にチャンスがあれば、いつでもやったわけではないんですよね。何しろ乱世を生き残るには、「確かな能力」が必要とされますからね。「確かな能力」とは、まあ納得できる成果を収めたという実績が証明してくれるわけで、これは口先だけでは無理でございます。

 だからこれから暫くの間の、うるさい(実際、仕事の邪魔だ!)演説などは、大した判断基準ではございません。私にとっては、すべて今までのありようが判断基準でございます。昨日の姿を見れば、今日の姿はよくわかる。今日の姿を見れば、明日の姿も、だいたいは予想がつきますからね。

※ 今月の『○○を語る会』は、10月21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月 8日 (日)

秋の気配・1(気配じゃなくて、ど真ん中なんですけど)

 いやもう、秋の空気が気持ちよくて。こうなったら、何にもない河原で、ススキを肴に一杯でもいいかなと思ってしまうくらい、いい感じですね~(昼は、今日は若干蒸し暑かったけど。おかげでいい汗かけました)。

 以前の私のランニングコース(以前の私の仕事場からほど近かった。基本的に、仕事場からいきなり走り出すので、こういう傾向が強くなる)では、近くの公園で、一人ぽっちでお酒を呑む人影があったんだけど(ランニング中でなかったら、思わず乱入したくなる景色だ!…邪魔だ!と、蹴倒されるのがオチかも…笑)、今のランニングコースには、スポーツを楽しむ若者とは、犬の散歩をする人はいても(たまにBBQ集団は見かけるけど)、一人「酒は静かに飲むべかりけり」って人のは出くわさない(なら、私がやってもよさそうに思うのだが、だいたいランニング中ってのは、練習の中頃なので、帰宅後やらなければならないことがごまんとあって、途中で一杯ってわけにもいかない…練習が終わったら、シャワーを浴びて、というのが現役時代からの習慣で、しみついているので、そこから先は「呑み会」でもないかぎり、外出するのが億劫だ)。

 なかなか(私の個人的な想像なのだが)、「人生を感じさせてくれる風景」で、味があるのだが、そこから先には、一歩たりとも前進したことがない。(演劇とか、楽器の練習をしている人も、たまにはいないわけではないが、お邪魔するのもよくないし。これは私が練習の邪魔をされるのを嫌うから、わりとよくわかる…気がする)まあ個人の意思を尊重するのが、私の基本的な考え方だからね。こちらの邪魔をしない限り。

 ということで、植えた後1か月経過しても発芽していないジャガイモに、とうとうしびれを切らして掘り起こしてみましたら、腐っていたよ。なんじゃいなこれは。ついでにウジのようなクリーチャーがいたりして、「この野郎!…雄雌の区別はわかりませんが」とばかりに、お天道様のもとに、さらし者にしておきました。…本当は釣りの餌にしてやろうかと思ったりしましたが、捕っておくのが面倒で…(あとは、昆虫か、爬虫類か、鳥類が片付けてくれることでしょう…このいずれも、我が家庭では不自由しない。なにしろ「自然が一杯?」な庭だから) 我が家にはジャガイモは相性が悪いのかなあ。

 でも私が小学生時代(どれほど昔なのか!? …たしか、ナウマンゾウやデスモスチルスはもう亡びていたような気がするのだが…)には、とても美味しいのができたんだけどね。まだギリで間に合いそうだから、別のところに植えてみましょうか。幸い明日も祭日だし(午後からは大切な用事がございますが)。冬の「おでん」と「シチュー」の誘惑に、まだ私の目は眩んでおります。

 昔、大学生時代に、新宿のジャガイモ料理専門店で食ったジャガイモの味も忘れ難いしなあ(今ならまだ再現できそうな気がする。人の記憶は奇跡なので、記憶が残っているうちに再現に成功すれば、それはどんどん広がり…広げる気があればの話ですが…伝えられて…伝える気があればの話ですが…いくんだよね。「いいと思ったもの」は断然、残すべきだ!)。

 ということで、今日も、現実と妄想の間で、行ったり来たりしながら、身体からも脳みそからも、たっぷりと汗をかきました。日曜日とはいっても、人生、こうでなくっちゃあね!(本当は、寝転がっていたい私も三分の一くらいはいた…笑) おかげで明日も楽しみだ。今日やりのこしたことや、やりたいと思ったことがあるからね。

 にもかかわらず、かだ蚊が人にとまる(そういえば、今日の昼前は、蚊どもが合コンやってましたっけ。思わず殺虫剤を探そうかと思いましたけど、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえ」という俗語があるようなので(長いこと聞いていませんし、我が家の近くで、馬を飼っている人はいそうにないので、そんなに気にしなくてもいいのかも知れませんが)、とりあえず見逃してしまいました(この「甘さ」が私の最大の欠点かも)。一秒もたたかいうちに、叩き潰されてしまいましたけどね。私に身体は、蚊の止まり木ではないのだ!

 ま、蚊の合コンについては、明日もありそうなので、もうちょっとは様子を見てもいいかな。様子を見ていていけないのは、自分のやりたいことですからね!

※ 忘れておりました。今月の『○○を語る会』は21日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年10月 7日 (土)

青年は荒野を目指す?

 昼頃までは、またいつ降りだすのか?と不安になる空模様でしたが、午後からは、敢えて洗濯物を干した私の期待にたがわず、見事に気持ちよく晴れてくれました。秋はこうでなくっちゃあね!

 で昼頃から、私にとっては懐かしい雰囲気のところにお邪魔をしたんだけれど(本当にお邪魔だったかも…)、まあ周囲がどう思うかは知らないが、私自身には、妙に落ち着く感じであった。

 問題は、ここに落ち着いてしまっていいのか? ということ。もちろん私は、そこに落ち着く気がなかったから、次の戦場を探して旅立ったわけで、たまに懐かしさに浸るのは良いけれど、ずうっと居心地の良さを求めてしまうと、絶対に誰かの迷惑になってしまうし、第一、自分が選んだ道に進めなくなってしまう(進んだとしても、スピードが鈍る!)。

 今日やったことを明日のプラスに作用させるためには、必ず自分の進む方向を、再確認しなくてはならない。特に私のような、何をやっても「目移り」してしまいがちな人間には、大切な作業である(私の酷い物忘れの原因も、大半はこの性格のため。すぐに他のものに興味を持っちゃうんだよね。それはそれで立派な武器として作用するんだけれど、この「目移りする」性格に負けてしまうと、自分がどこに行けばいいのか、何をすればいいのかがわからなくなってしまう欠点に変わる。幸いにして若い頃からの経験で、自分の欠点が自分のパフォーマンスを制限する最大の要素になることを覚えているので、苦手なことほど一所懸命、時間と労力を費やすことにしたから、少しずつでも前に行ける)。

 その癖、何かに集中すると、他のことには目もくれなくなる性質も持っているわけで(おかげで、ペットがエサをもらい損ねることも、ままある…笑。ペットにとっては、笑い事ではないけれど)、なかなかいまだに自分でも、自分がわかりかねるところがある(雰囲気的にはわかるけどね。あ、このパターンは、他のことを忘れてしまうパターンだな、とか)。

 ただまあ、自分が慣れ親しんだところに埋没すれば、絶対に劇的変化はできないということだけは確かだ。私は歴史が好きだが、生物の進化史も嫌いではない(どころか、大好きである)。

 今ではダーウィンの唱えた「進化論」は、ほぼ否定されているのではないかと思うが(進化論自体は、紀元前から唱えられていたわけで、ダーウィンが初めて唱えたわけではない。ただしダーウィンの進化論には、当時としては科学的な手法が用いられていたというだけである。

 もちろん、こういったことの積み重ねで、科学は進歩していくわけで、ダーウィンが悪いわけではない。現代の最先端の科学でさえ、ほんの数十年も経過すれば、あの時代には、あんな戯言を言っていたんだよ、と嘲笑されるかも知れない。それが科学の凄さだと、私は思っている…それを「科学は信用できない」などと言って嘲笑する人がいるが、進歩するためには、敢えて過去を否定しなければならない場合だってある。それを愚直に実行し続けているのが科学である…例えば「個体の発生は系統発生を繰り返す」という、我々があたりまえのように学んだ内容だって、たんなるねつ造だったと証明されたのは、20世紀も最後の最後のどん詰まりのことだった。こういう「主観」が先行した説は、たぶん人間の欲とか弱さが唱えさせるものだとは思うけれど、遅かれ早かれ、真相は暴露される。それが科学の恐ろしさであるとともに、信用できる部分である。こんな流れがあったから、始祖鳥は爬虫類から鳥類に進化する過程で、鳥類に分類されていたのではないかと思ったりするんだよね。現代にもし始祖鳥の化石が初めて発見されたとしたら、ほぼ間違いなく「羽毛恐竜」に分類されておしまいだもの…ちなみに現代では、小型恐竜に羽毛があったなんて説は、誰も大して疑わない。私が子供の頃には、想像もできなかった事態だが、こういう現象も、「科学」ならではの現象だと思う)、進化ってのは、ある状況に適応できなかったものが、それでも必死に生き残ろうと、「価値観」の劇的変換に成功したから起こった事態だと、私は考えているからね。

 たとえば魚が進化したものが両生類になったと仮定すると、妙な矛盾にぶつかる。「進化」が、どんな分野においても進歩を意味していると考えると、蛙以外の両生類を飼育して見ればすぐにわかる(イモちゃんでも、サンショウウオでもかまいません)。魚よりは両生類の方が賢いはずだと思うじゃないですか。

 ところがイモちゃんのバカさ加減ときた日には、メダカ以下の大馬鹿野郎ですからね。学習機能はついていないんかい、お前のアタマには、と怒鳴りたくなるほどのウスらバカちんですよ(現在進行形で飼育しているので、よくわかります)。

 でも「進化」という考え方では、なんとなく魚類よりは陸上で暮らせる分、なんとなく発達したような感じがいたしますね? 魚として進化したのなら、より速く泳げたり、より闘争力が強かったり、より繁殖力が強かったりする方向に進むはずなんですけどね(現生種のいくつかを見れば、そうですよね?)。でもそれでは魚としての機能は向上しても、別種の生き物にはなれない。

 頭がいくらウスらバカでもいいから、魚とは根本的に違うなにかを持たなきゃ、「進化」とは言えなかったんでしょうね。で、泳ぐのも大したことはない、産卵数もどうってことない、闘争力も大したことはない(大型両生類とサメの闘争力を考えていただければ、一目瞭然!)けど、ちょっとくらいは水がなくてもなんとか生きていけるという特殊能力を持っていた奴だけが、お頭はウスラトンカチでも、生き延びることができたわけでしょ?で、遥か何億年もあとから生まれてきた人類は、それをみて「進化」だなんて、素敵な名前をつけたわけでしょ?

 みんな自分の持っていた特殊能力を活かしただけなんだけどね。活かすことができなければ、座して死を待つしかなかったわけだし、かりに特殊能力とやらを活かそうとしても、環境とか運とかに恵まれなければ、生存はできなかったわけで。(つまり「進化」などという言葉すら生まれなかった可能性がある)

 それでも座して死を待つものには、進化の可能性すらなかったわけで(宝くじを買わなきゃ、間違っても当たんない!というのと、似ていなくもないですね…笑)。だから自分にあるかも知れない特殊能力に賭けて、冒険をしたものにしか、「進化」は起こらなかったんですね。

 どうやらそれは、我々の遺伝子(?)の中にも組み込まれているようで(?)、若い頃には、けっこうな冒険ができるじゃないですか。もちろん年とともに、次第に角が取れてきて(この言い方は、私はあまり好きじゃないなあ)、丸みを帯びてくると、人格すら丸くなっていって、体型が丸くなるのと似ている? …私はダイエットに成功したので、すでに一年前の丸みとは無縁である。ははは…これは退化なのだろうか…?)、冒険をしなくなるっていうんだけど、本当なのだろうか。

「昔は良かった」なんて思いでに浸る習慣があまりない私には、懐かしい雰囲気にしばらく浸っていただけで、「遺憾、いかん、イカン! こんなことをしてる場合じゃない。今日やるべきことが、ほとんど終わっていない」と罪悪感ばかりがこみあげてくる。

 昔、五木寛之先生の作品に、『青年は荒野をめざす』(ザ・フォーク・クルセイダーズというグループの歌もございましたな)というのがあったと思うが、荒野を目指していないと安心できない私なんかは、究極の青年なのかも知れない(それとも「貧乏性」? それとも単なる両生類?????)。

 荒野では、歩みを止めることは、すなわち「死」を意味することだからね。いつまでたっても、過去とか、現在に満足できない人間は、荒野を歩くしかないのではないかと思いますね。まあ歩いてみるとわかるけど、それなりの面白さはあるんだけどね。

2017年10月 6日 (金)

水可載舟、亦可覆舟

 けっこうじっくり降りましたね。でもおかげで、耳鼻咽喉科のかかりつけ医さんに行くことができました。声が出にくかったんだよね~(カラオケに行けねえじゃん!)。で、かかりつけ医さん(親切でいい人なんですけど)、もそもそとファイバー状のものを取り出してきて、おもむろに私の鼻の穴から挿入。

 実は私は、鼻孔とか口とかは、本来の目的以外には使わないと決めているので、(胃カメラなんて、もってのほか!長生きする人は、そんなもの飲まなくても百歳以上まで生きますって。喉は飲料水と食べ物しか通さないし、気管は空気しか通さないと、自分勝手に決めているので)、おいおいと思った時にはもう挿入されていた。なんたる手練れ!

 でいわく、「声帯がちょっとでこぼこしてるね。ポリープじゃないし、まったく悪性のものではないから。どうしても取りたければ、全身麻酔して削ればいいんだけど」。全身麻酔など、これまたもってのほかである。で取らなかったら?と聞くと、「まあ、ハスキーボイスで頑張れば」。もう、このお医者さんには勝てないねえ。

 ついでに聞いてみた。「カラオケで歌う時は?」、答えて曰く、「そりゃ、歌いにくいだろうねえ」。あ~あ、まあしょうがないわ。私は歌を歌わなければ生きてけないわけでもないので、歌は車の運転をしている時だけで我慢するっきゃねえかな。

 で、潮垂れて帰宅して、あ~あ、雨かと恨めしく思いながら、ついでなので常備菜を大量に作っていた(食事の準備って、けっこう手間取るし、疲れてたら嫌になるし。でも〝You are what you eat”なので、手抜きはしたくないし)。

 数日分は作ったよ。しばらくは横着してもOKかな。さらにしばらくしてS君と電話で話していると、宅急便屋さん。こいつで再び復活しました! 雨の中、ありがとうございました!お蔭で元気出ました!(Hさん、本当にありがとうございました!)

 で機嫌よくお酒を呑んで(今日は、純日本風…アテも)、珍しくご機嫌だったのでTVも見て(これが気に食わない番組だったら、一瞬で不機嫌になるところだけど、今日はなぜかしらよかったなあ)、お魚の残りを持って出ると、ノラが期待に満ちた目で、じっと私を見つめていて(最近、逃げなくなったなあ)、ようやくPCの前にたどり着きました。雨でも降ってくれないと、なかなかこうはいかない。たまには雨も、いいことをしてくれることがあるんだね~。

 ということで、先日岡山市の選挙(市長さんと市議の補欠選挙)が終わったばかりだというのに、早くも衆議院選挙。なんでも衆議院選挙もこのタイミングでするのがベストだというようなことを仰る評論家の人もいるようで、私はちゃんと行きますよ、投票に。

 衆議院の解散も、つい先日だった気がするけど、そのあといろいろと、すったもんだがあるみたいで、なかなか面白うございますな(私には、直接的には、利害がないので。間接的に葉、国民の誰にも関係があると思うけど)。「篩にかける」ってことがあるけれど、篩は揺さぶらないと、うまく濃しとれないもんね。すったもんだがあった方がいいのかも。

 物事が安定していると、なかなか芽が出ない人でも、一たび乱世になると、本当に有能な人間だけが頭角を現すことができ、いかにもできそうな外見をしていても、実際には大したことのない人は、自然に潰れていく(潰されていく?)というのは、歴史のお勉強をすれば、当たり前に起こることだからね。

 本当に有能かどうかを見極めるには、安定しきって、安泰に胡坐をかいていられる時よりも、少しは変動がある時の方が、もしかしたら適しているのかも知れませんわな。どんな集団であれ、その代表は、多くの人々によって担がれているわけだけど、「水可載舟、亦可覆舟」という言葉もあるように、ホンモノのリーダーシップを発揮できる人間でなけれな、覆舟させられることがあると、たまには国民の税金の少なからぬ金額を収入としていただいている方には、きっちり認識していただき、それなりの仕事をやっていただかなければなりませんわいな。

 水は荒れると強いんだからね! だいたい水がなければ、舟は浮かぶこともできないし。ましてや進むなんてことは、絶対にできないんだから。

2017年10月 5日 (木)

トリプルブッキングを超えた!

 だいぶ秋らしくなり、熱いお茶が美味しい季節になりました(年取ったのか、俺も……はああぁぁぁぁぁぁぁぁ…… 息を吐きすぎると、気が遠くなるので、このくらいでやめときましょう)。「熱いお茶」と一口に言っても、お茶によって適した熱さがあるわけで、ただ熱けりゃあいいってもんでもございません。お茶の種類によって、「熱さの使い分け」が不可欠になるんですな。

 まあ、これには「個人の好み」の問題も関係してくるので(だいたい、お茶が好きかどうかだって、個人差はあるもの。どのお茶をどうやって飲むか否かは、まったく個人的な問題なので、ここでは取り上げない)置いとくとして(でも、冷めかけのある瞬間に、めちゃ美味しくなるお茶があるのは、事実だ。これは忙しい時には、よくその瞬間を逃してしまうので、忙しい時に飲むお茶ではない…昨夜もそれで失敗した…涙)、気温が下がり気味になると、自然界にもいろんな動きが出てまいりますね。

 中でも蚊の奴は、ここをぜんどとばかりに襲ってくる。これはおそらく、子孫を残そうとして、メスが栄養ドリンクを欲しがっているんだろうね(蚊の雌は、産卵するには、高栄養のものが必要らしい。それで血液を欲しがるんだって。しかしながらこちらは、あんな害虫を繁殖させるのに協力しなくてはならない謂れがないので、遠慮なく殺害する。これも生存競争である)。ちなみに私はこの夏以来、江戸時代の栄養ドリンク、甘酒に嵌ってしまい、ずうっと作り続けておりますが。安価、かつ安全性(自分で作っているのだから、かりに危険があったとしても、自己責任!)で信頼できる。日本人は、日本人の原点を忘れてはならない?

 本当は今頃には、漬物もすべて自分で作っているはずだったんだけどね。何しろ忙しくて(もちろん「ぬか床」からきっちり)。だんだん日本人への回帰が強くなっておるようです(そのわりには旅先では、どっぷり行った先の食文化に、頭の先から足の先まで浸ってくるんだけど。これも「日本人の原点」があったればこそ!昨夜の中秋でも、月見団子、月餅、ピザ…これは中秋には無関係。ただ円いものつながり…を食べながら、ビール、熱燗、白酒をちゃんぽんで飲むような、わけのわからんちんだから…笑)。もともと「日本愛」の強い人だからね、私は(母国なんだから、当ったり前だと思うんだけれど、世の中にはそうでもない人もいたりして…)。

 ま、個人の自由ってものがあるので、他人に迷惑をかけなければ、たいていのことは、この日本では許されるようなので、私もとやかくは言いませんけどね。

 ということで、新年早々の話になるんだけど、(来年のことを言うと、鬼が笑うと言いますが。鬼が笑うくらいなら、幸せで結構なことではないかと思ってしまいます)、すでに特定の日は、ダブルブッキング、トリプルブッキングを超えておりまして(場所が近ければ、掛け持ちという手もあるんですが)、どこに顔を出そうかと悩んでおります。「あちらを立てればこちらが立たず」ってほどでもないんでしょうが、この後も増えるんではないかと予想されますので、頭を抱えています。(政治家さんなら、上手にやりくりして、あちこちにお顔をのぞけられるんでしょうが、悲しいことに私には有能な秘書がおりませんし、特にお酒が入ると、座が長くなる傾向にある人なので、時間通りに動ける自信は、まったくございません。私のような者に、お声をかけていただくなど、光栄の至りなのですが、どういたしましょう…)

 とまあ、悩んでも身体は一つしかないので、どうにかいたしましょう。(最悪のケースでは、国外逃亡をするかも…笑。だって一人ぼっちの正月なんて、つまらないもの。どこかの知らない国でわいわいやっている方が、はるかに気楽。日本の正月って、一人暮らしには、けっこうつまらないもんだからね。TVを見ても面白くもないし…駅伝中継で長時間楽しむくらいしか、逃げ場がなかったりして。でも元旦から稽古するのは、もう何十年も続いている私の習慣だし、駅伝を見ているばかりじゃないんだよね…稽古なら、どこでもできるし)どうにもならない時は、携帯がつながらない所で、山籠もりでもいたしますか。(頭に浮かぶのは、「逃避行型の正月」しかないんだね~。困ったもんだ)

 本来は「人間嫌い」じゃないんだけど(どちらかというと「人間大好き」な方かも)、どうもこういう時は、人を避けてしまうような気がする。ま、しょうがないね、こういった家族団らんを楽しむ時期は、私の居場所はない。今までのパターンのように、食料、酒をため込んで、冬眠でもするかなあ(クマか!?)。

 そしてそっとつぶやく、「酒は静かに飲むべかりけり」って。本当は賑やかなお酒も大好きなんだけどね。まあ、その時その時で、相応しい飲み方もあるから……

2017年10月 4日 (水)

月妄

 ほいほい~、中秋の名月(今年は、キレイだな~っ!)に見とれていたら、11時を回ってしまっておりました。この中秋ってのは、どうやら中国起源のようなのですが、もはや日本に根付いてからの歴史が長く、今日は主に、日本風(一部分イタリア風)に祝いました。

 もちろん原典には敬意を表して、しっかりと茅臺酒も頂きましたけどね(久しぶりなので、キックウ~…ッ!)。でお月見ダンゴもいただきましたし、月餅も頂きました。丸ければなんでもいいんではないかと、ピザまで焼いて食べましたよ(一部分イタリア風というのは、実はこのピザのこと。本当はイタリアのワインでもあればよかったんだけど、あいにく切らしていた…実は私はキャンティは好きなのだ。そんなに飲んでばかりいたのでは、仕事が滞っちゃってしまうんだけどね。でも気候が、熱燗によかった…最近、日本酒は、呑まないで、料理にばかり使っているので、今日飲もうと思って驚いた。全然なくなっているのである…本当の名酒は、料理なんかには使わないで、冷酒でいただきますけどね)。

 古代中国の風習に従えば、中秋節というのは一家全員がそろって、円満に祝うというところから、満月の円さともかけて、丸いものが好まれるのだそうなのだが、まあ私の場合は、いつだって一人なので、全員集合をかけても一人である。数か月前までは、お腹だけでも丸かったのだが、今では見事にダイエットに成功して、丸みはない。どこにも丸さはないので、せめて食べるものだけでも丸いものをと、半分やけくそ気味で、丸いものに拘った(それでもフグを食う気にはなれないし…釣った時怒って真ん丸になっていても、そのうちしぼんでしまうし。だいたい私はフグの調理法を知らないし)。

 ま、なんやかや、とても多忙な一日だったので、本格的に凝る時間的余裕がなかったんだけどね(ついでにこれを打つ時間的余裕…今日中に打つのが、一応自分に課した規則なので…もなくなってしまった。こんな日に限って、普段は絶対ないような用事が発生したりするんだけど、今日もきっちり発生しました。しかも3つも! 「木静かならんと欲すれども風止まず」ってところですな)。

 それでも今日のノルマを明日に残してしまったのでは、明日がまたしんどくなるので、出来る限り今日の予定は(今日中に納まらなくても)、寝るまでにはやっておきたいと思います(だから睡眠時間が短くなるのだが。ちなみに、私にとっての「今日」は、一応イメージの上では、就寝するまでを「今日」と考えています。たとえ明日の朝5時前になってようやく寝ることができたとしても、それは今日であって、明日ではございません。日付を変えるのは、どこかのエライ人が決めたルールであった…いかに天文学的な規律があるとしても、そんなものは、私の知ったことではない。天文学的な規律が、私の仕事を手伝ってくれたことなどないからだ)。ヤケクソだね、もう。

 とは言え、ビッグインパクト説によれば、ほんの45億5000万年ほど前に地球から飛び出した天体は、いろんな妄想を生んでくれたようでございます。時には、その妄想の世界に浸るのも、悪くはないかも。(私は星野之宣さんの『月夢』という作品が、大好きでございます。『夢としりせば』と並んで)

2017年10月 3日 (火)

願望

 朝は蒸し暑かったんですけどね。北よりの風なのに蒸し暑くて、びっくりしたくらいだ。でも今は、立派に秋の空気。余りな軽装だと、はだ寒い。人間、気温が摂氏0℃より低くならなくても、凍死はできるからね。(凍死ったって、凍って死ぬわけでなし。凍る前に、たいていは死んでいるから。これからに季節、お酒を呑んで、屋外で寝るのは、そろそろヤバいですよ。つららがカーテンのようになっている、厳冬の滝つぼで修行するよりは、酔っぱらって冷える屋外で寝る方がはるかに危険です…滝つぼは何回も経験したから、わりとよく知ってるけどね)

 ということで、今日は忙しゅうございました。あちこちと駆けずり回って、(予定より1時間ほど多くかかりました。どんな仕事でも、思ったよりは時間も労力もかかるてえのは、昔の有名な方が仰っている通りでございます)、いつもより1時間ほど遅く練習に入ったので、(当然のことながら)夕方の練習が終わるのも1時間遅れになってしまいました。おかげでノラは待ちぼうけを食わされた体で、ぽつんと玄関横で待っておりました。

 なんちゅうか、秋ってのは、こういった風情がございますね。柿は食べれば美味しいけれど、私の心に焼き付くのは、食べられることなく「木守」なんかなあ、ぽつんと枝に残された、真っ赤な柿でございます。食べないから味はわからないけど、こちらの心に染み入る気がいたしますね。

 そういえばさだまさしさんの名曲『案山子』にも、そんな風な案山子が描かれておりますが(ちなみに私は、「家族愛」を歌わせたら、さだまさしさん以上の歌手はいないと思っておりますけどね。ちゃんとCDも買っているし…自分が感動したDVD、CDは、必ず買うというのが、私の生活信条なもので)、こういった「季節はずれの寂寞」ってえのは、たまりませんな。祭りの後の寂しさもかなりのもんだけど、それ以上のものを感じさせてくれます(今日は、完全に感性だけでものを言ってるな、私は)。

 いろんな素晴らしい方の、素晴らしい感性が感じられるものを(今はなんという、良い時代なのでしょうか。お金を出せば手に入る時代でございます…発表されていない人のは、偶然に出会ったりしないと、発見が困難ですが…。そんなものに出会えば、1日、2日、絶食してでも、私は手に入れますよ。肉体は食事を必要としますが、心だって栄養が必要ですからね。私にとって、いつだって肉体と精神は統合で結ばれる重要さがあるのです)、それぞれの時と場合と状況に応じて自分に働きかけさせなければ、私という存在は、(きっと)もたないんじゃないんでしょうかね。

 だからあちらは何をどう思っているのか知らないけれど、私が食べ残すのを待って(骨はあまり食べようとは思わないので。いくらカルシウムを摂取しようと思っても、骨を齧っても人間の身体は吸収できません。人の身体は「金属カルシウム」を消化吸収はせす、カルシウムイオンの形で摂取したします。ということは金属カルシウムを酸に溶かして、その液体を呑めばいいのかということになりますが、この場合にhが、カルシウムを溶かした酸と場合によってはその時生じた塩…エン…に問題がある場合も少なくないので、やらない方が無難です。ちなみに私はそんな荒業は使いません)いる姿に、寂寞を感じてしまうんだね。本当は「今日も、あのアホは出しやがった。今日の味付けはいいのかな? 不味かったらやり直せちゃる」なんて思っているだけなのかも知らないのですが。

 ま、日本人というやつは昔から、古池に飛び込む蛙に静寂を感じたり、秋の夕暮に寂寞を感じたりする民族なので、その血を引いている私が、晩御飯を待つノラの姿に、何かを感じても、まったく不思議ではないんですけどね。

 私の最大の幸せは、こういった感傷に浸りながらも、いざ椅子を立つと、いきなり「さあ、やるか」って、いきなり稽古に移れるところだと思いますね。(習慣は恐ろしい。しかもこれが何時でも起こるのが、もっと恐ろしい。気分次第では、明け方であろうが、真昼間であろうが、ソッコーでその状態に入れる。よほど我がままに生まれついたのかね?)

 そのために私は、何十年も前から、いつでも稽古に移れるような出で立ちで生活してきた。ごくまれに、ネクタイ、スーツになる時もないではないけれど。たいていは最短時間で脱ぎ捨てた。理由は簡単。「動きにくいから」である。

 いつでも自分が、思うがままに解放できる状態でいたい。これは切なる願いでございますね。

2017年10月 2日 (月)

秋雨?

 なかなか、よく降りますね。ちょっと予想外の降り方だった(先週の天気予報では、明日降るはずだったし)。今朝の日付が変わる頃から降り始め、まあしつっこいこと。今もまだ降り続けているけど、私が就寝する頃には、たぶん止んでいると思う。

 天気図を見ると、完全に秋雨の感じだしね。これが上がると、気温は下がっているのかなあ。この時期は数日で、がらりと季節が変わるからね。要注意だ。それにしても、よくもまあ、昨日ジョッグに出かける前に、草刈り(裏庭だけ)をやっていたもんだ(取りあえず、私の通り道だけは確保しときました)。表の庭もやろうかと、一瞬思ったけど、時刻的に遅かったので、とっとと走りに行ってしまった。(帰宅する頃には真っ暗というのは、いつものことなんで)

 で、おかげというかなんというか、今日は釣具屋さんに顔を出しました(本当いうと、きっちり忘れていた。偶然通りかかったので、思いだし、慌てて駐車場に車を停めて入った。今日は見るだけだったんだけどね)。竿は私には、「安い竿ほどよく釣れる」という妙なジンクスがあるので、安いもので十分(けっこう手頃なのがありました)。あとはどんな釣りをするかでございますね。

 私の場合には、「釣りを楽しむ」のは3割くらいで、「釣ったものを食べる」のが7割くらいなので、特に大物や珍しいものを狙ったりはいたしません。エサにかける費用と、釣った獲物の(小売)単価に比率は、案外気にします(バカにならないんですよね~。たった一匹の獲物のために、小売単価の何倍…時には何十倍、あるいは∞倍もかけることが…もかけるつもりは、さらさらございません。願わくば、私が調理できるものが、私一人で…一人暮らしですから…食べきれる程度釣れるのが、理想です。まあ、余っちゃえば、普段お世話になっている方に、進呈いたしますけど)。暇があれば、エサから自分で準備しておきたいくらいでございます(エサの中には、あまり麗しくないものもあるわけで、こういうのはどうしても、釣る寸前に購入するという形にいたしますが。一度「サシ」を釣りの後処分しておくのを忘れていたことがございまして、次の釣りの時に、餌箱を開けて、卒倒しそうになったことがございます。後片付けも忘れずに…よく忘れますが…笑。スイカの種が全部、スイカの皮の中で発芽しているのを見た時よりは、ショックは小さかったです、正直。あれは心臓に悪い)。

 人類が釣りを覚えた頃には、こんなに便利な釣りはできなかっただろうし。釣り針一本創るのだって、大変な労力と技術が必要だったんではないかと思います(『海幸山幸』を思い出しますね)。だから釣り針一本なくすと、大変だったのではないでしょうか(私はわりと無頓着なので、かなりの数を持っていきますけど。ようするに、不器用なんだ!)。

 で、明日は明日で、これまたきりきり舞いをするのではないかと思うくらい多忙でございます。でも次に釣具屋さんに顔を出す時までには、ポイントを絞っていきますからね(つまり釣るターゲットを絞り込んでいく)。なんたって自分で釣ったばかりの魚は、美味しい! 生きがよいということを本当に感じるには、自分で釣るしかございません。

 ということで、明日を順調に過ごすためには、「準備」が大切です。完璧な「準備」は、困難なことでも容易にしてくれますからね。今晩は、明日の準備が忙しいですよ。まずは雨が止むまでは、屋内でできることに集中しよう。その後で(たぶん午前様)、雨の様子を見て(いざとなったら、降っていても)屋外でのことをやっておこう!

 明るい明日(大昔、ティラノサウルスが滅んで少しばかり経過した頃、「明日という日は、明るい日と書くのね」という歌詞の歌がヒットしたことがあったけど)のためには、今日は少しくらい無理をしても頑張っていなけりゃならないよ。

※ ちなみに今月の『○○を語る会』は、一応21日の第三土曜日を計画しているのですが、都合の悪い人は、ご連絡くださいね。よろしく!

2017年10月 1日 (日)

私の温故知新

 ほうら見てみろ、やっぱり釣具屋さんに行くのを忘れてしまった。あれこれ済ませて、市民の権利と義務である投票(今日は、岡山市長と市議会議員さんの補欠選挙がございました)を済ませて、投票所の外で出口調査に応じたら、あとのことはきれいさっぱり忘れていた。自慢じゃないけど、鶏以下なんだからね。三歩も歩かなくても、すぐに忘れる。明日はどんなことがあっても、寄ろう。(明日も、けっこう忙しいけど)

 紀元前11世紀頃、太公望(姜子牙)は曲がっていない針で、天下を釣ったそうだけど、私は天下なんて重たそうなものを釣る気はない(地球を釣った時の情けなさったらない。私にとっては、天下を釣るのも、地球を釣るのも、似たようなものだ。食えるものを釣りたいね)。

 できたら明日は、切れ味鋭い包丁も見てみたいね。サバくには不可欠だから。切れ味鋭いといえば、身近なところではカッターナイフというのがお手軽だけど、魚の場合は骨を切らなきゃならないこともあるので、ある程度以上の強靭さも要求される。よってカッターナイフは不可(新品、油ついてるし…)。ものによっては、カッターナイフが一番よかったりすることも、なくはないんだけどね。

 なんだか今月は、選挙月間になりそうだなあ。この選挙の結果が、よりよい明日につながればいいんだけど、選挙運動でうるさいだけだったら、嫌だなあ。まあ、いままでにあまりなかった状況なので、どんな結末につながっているのか、半分以上は楽しみにしてるんだけどね。(こういう時には、物事はあまり悪い方に転がらない。不思議だが。ただまだまだ不確定要素が多すぎて、何の予想もつかないんだけど)ということで、次の衆議院選挙も、間違いなくサボらずに、伺います。

 だいぶ涼しくなんてきたので、夕方走っていても、発汗量が目に見えて減っている。もちろん夏の間に十分、ダイエットしたので(CMなんかでやっている、どのダイエットとも異なります。多少、スポーツ生理学や栄養学の知識があれば、誰にでもできることなので…大して苦しくもないし)私は問題はございません(減りすぎそうになって、あわてて食事量を増やし、運動量を制限しなければならないほどだった…笑。今現在でも、今年のダイエット目標を3㎏くらいは下回っている。落とし過ぎだけど、許容範囲内なので、好きなものを食べてます)。

 だいたいダイエットなんてものは、いつも言うように、摂取カロリーを消費カロリーを考えれば、あとはただの引き算でしかないから(カロリー計算をするときに、掛け算と割り算は、場合によっては必要になります)、小学校の中学年でもできる。問題は、「食べたい」という欲望に勝てるかどうかだけなんだけど、何かに熱中してれば、わりと忘れられるし(熱中している内容が、カロリーを消費するものだと、一挙両得でございます。私はよくやるけど)。

 ま、自分で一番、自分に適したやり方をするのが一番でございますな。

 ただ体重が落ち始めると、これがなかなか楽しくて、ついつい落とし過ぎて体調を崩しちゃうんですね。私の知人にも、急激に減量をした結果、戸籍があちら側に移っちゃった人もいるので、あまり簡単に考えてもいけない(だから今の私は、ブレーキをかける方向で調整中だ)。

 体脂肪を分解するので、肝臓はかなりのオーバーワークになっちゃうからね(仕事の要領を覚えてしまうと、肝臓さんも軽々と仕事をしちゃうので、そんなに苦しくはありませんが。人間でもそうだけど、普段やりつけない仕事をすると、慣れるまで疲れちゃうでしょ。あれと同じことが起こるみたいに、私は感じておりますけどね…だから毎晩お酒を呑んでいる人の肝臓は、アルコール分解機能が突出しているので、普段滅多に飲まない人よりも、お酒に強いんじゃないだろうか…。でも仕事を覚え始めは、けっこうキツイみたいで、私でさえ今回のダイエットの初期段階では、お酒を美味しいと感じなかった…悪い病気にでもなったのか、と心配したくらい…今ではもう、美味しくておいしくて!)。

 オーバーワークも、その人の許容範囲内ならば、そのうち身体のほうで適応していく。なんたって人間は適応能の強い生き物なのだ。(スポーツのトレーニング効果なども、これに依存している)ただやり過ぎてしまうと、これは甘党の人が甘いものを摂取し過ぎて糖尿病になるようなことも、なくはないので、私風に言えば「嗜好に偏ってはならない」ということになる。

 このあたりに、なんとなく私が「江戸時代以前の食事」の再現&摂取に踏み切った理由がありそうだ(思い立った時は、そんな難しいことは考えていませんが、思い付きというものは往々にして、自分の身体が、自分の脳味噌に指示しているのではないかと思います)。

 そりゃ司馬相如のように、紀元前の人でも糖尿病で亡くなったらしい(あくまで「らしい」という判断ですが)人もいるから、昔のものを食ってりゃ、それで大丈夫ってものでもないけれど(第一、今の方が昔よりは、はるかに平均寿命は長いわけだし)、今よりも「生活習慣病」的なものは少なかったはずだから、昔を知ることは大切だと思いますね。「温故知新」は大切でございます。

 そういえば何年か前に私のことを、「温故知新」と評した人がいたなあ。その通りでございます。歴史は好きだしね。古代人は現代人よりも賢くなかった、なんてことは、爪の垢ほども思っていませんし(科学的知識などは仕方がない点もありますが)。

 だって私は、医者は嫌いだけど、必要と判断すれば、すぐにでも医者に行くし、薬も嫌いだけど、必要となれば、すぐにでも使う人だから。大切なのは、あれはいい、これはダメという考えに拘るよりは、自分がやりたいことを存分にできる状態を作ってくれるものは、すべてOKを考えることなんではないでしょうか。

 そうそう。そういえばカットバンがなかった。明日買って来よう。でもそのために、釣具屋さんに寄るのを忘れたら、嫌だな。

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