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2018年2月28日 (水)

横綱

 天気予報通り、きっちり降りますね。特に夜になってからは。天気図を見て納得した。この天気図じゃ、降らないわけないよ。低気圧の位置がもうちょっと北に欲しいところだけど、それでも「春一番」となるかな? 結構生ぬるい風が吹きつけているし。

 昨日珍しく、暗くなる前に裏庭に行ったら、フキノトウが30ばかり出ていた。思わず「蕗味噌でもつくるか!」と思ったけど、しんどかったので止めた。近いうちに作ろう。(何故、明日とか言わないのかというと、ちょっと疲れがたまってたのかなあ。その気にならないんですよね)すでに作業は次の段階に入ったんだけど、どうにも体調が戻らなくて。

 こういう時は、お酒でも飲んで(毎晩飲んでますが…笑)、ゆっくりと風呂にでも入って(風呂好きの私は、やっぱり毎晩ゆっくりとお風呂に浸かってますが…笑)、早めに寝るのが一番でございます。

 なにしろ、身体の疲れを取るには、どうしても精神的疲労を取らなきゃいけませんからね。精神的疲労を取るには、精神的なリラックスと、肉体におけるアクティブ・レスト的な「他の面白い、肩の凝らないことをやる」というのがベストです。(のんびりと好きな音楽を聴くのも良いですが、こうすると「うたた寝」をしてしまうのがオチなので、風邪をひいてしまう恐れがありますから、私は溜まりに溜まったDVDを見ることにしています…これも毎夕食時にやってます…笑。今ちょっとシリアスなのを見ているので、もしかしたらこちらのリラックスがうまくいっていないのかも)

 ということで、何かを成し遂げよう(それが可能なのかどうかはわかりませんが。人生、一寸先はわかりませんから)と思ったら、「疲労対策」が一番大切ではないかと思いますね。いつだって新鮮な気持ちで、積極的に取り組みたいですから。

 ところがどっこい、某隣国の指導者さんは、国のトップであり続ける任期を、無制限に伸ばそうとされたそうだ。国の指導者というのは、もしかしたらあの社会体制では、所謂最高権力者なのかもしれないけれど、「権力」ってのはなにかをしないといけない、つまり「義務」と表裏の関係だからね。大変な決断をされたものだ。

 日本の国技(とはいうものの、最近は「?」がついているが)大相撲なんかでも、横綱が最高の地位だけれど、横綱が横綱として相応しくない成績しか残せなくなったら、「降格」がないかわりに、「引退」しかないわけだし。

 最高位にある人には、「任期」という救いがなきゃやってられないと、私なんかは思っているのだが、普通人とは発想が違うのだろうかね。

 世代交代ってのは必ずやってくる。いつまでも老兵がのさばっている集団は、進歩の速度が鈍るし、新たな局面への変化や適応ができにくくなるというのが、私の一般的な考えであり、そこそこ年を取ったら、後はまだ自分がサポートできる間に、後進に道を譲るべきだと思っているのだが、そうは考えない人もいるんだね。

 もちろん、様々な条件がそうさせてくれない場合だってあるだろう。でも、可能な限り、後進を育てていく努力をしなくちゃ、次の世代が可哀想なことになる。それともいっそのこと「不老不死」にでもなって、永遠に巨大な責任を負い続けますか?(不老不死が好きなお国柄でもあるし…笑)

 それは地獄だと思いますよ。まだ体力と気力が残っている時なら、頑張りもきくだろうけど、人間、年を取れば体力は落ちるし、気力も衰えてくるものです。そうなった時には、信頼できる後進に、「ほい、後は頼んだ」とバトンを渡せるようにしておくのが、私は理想的だと思いますね。

 封建時代みたく、すべてが世襲(封建制度=世襲がすべてではございませんが)で、自分がくたばったあとも、自分の嫡子に権勢を受け継がせるつもりなら、いつまでも自分が権力を持ち続けるという発想もあるかとは思うけれど、世襲制の弱点なんて、長い歴史の中で完璧に証明されつくされていることだし。

 嫡子がかりに出来がよかったとしても、その子(つまり孫)までできがいいかどうかわからないし、曾孫になったらわけわかんない。かりに一族からずうっと優秀な人物が現れ続けたとしても、よその家にだって優秀な人が生まれる可能性はあるわけだし、第一人生の成敗なんて「運」によるところが小さくないし。

 ここで強引に「世襲制」を維持しようとすれば、当然のことながら「下剋上」は起こるだろう。むしろ社会の急変なんかがあった場合には、「下剋上」が必要になるかもしれないくらいだ。

 この「下剋上」が必然的に起こる社会制度が「封建性」なわけで、上をひっくり返す時に「力」を使って「美しくない」から、「下剋上」の必然を説くために、しょうもない屁理屈が必要になったのが、どこかの国の歴史だしね。

「横綱」ならば「気力・体力の衰え」を理由に、「引退する」ことが可能だし、日本でもだいたいの民主的な集団では、その人の指導力に衰えが出始めると、次の候補が現れたりしますね。そうなると、たとえその人がトップでい続けようとしても、今度は「任期」というものが壁となって立ちふさがり、後進が特別な「革命」などという物騒なことをやらかさなくても、権力の移譲が合法的に行えるようになっております。

 トップから退くときは寂しいかもしれないけれど、でもある意味「救い」だと、私は思いますね。もちろん誰かの「恨み」を買っていたりすると、権力を失ったとたんに、復讐されるかも知れないけど、すくなくとも自分が「みんなのため」を思って行動していた人なら、そのような心配も、比較的少ない(「ない」とはいわない)と思われます。

「長い間、ご苦労様でした。お世話になりました」と人に思わせることができたら、引退後の人生も、それほど気にする必要もないと思うんだよね(権力を持っているうちに、やりたい放題をやっていた場合には、この限りではありませんが…笑)。

 私みたいな二流の選手だった人間でも、引退の時は悩みました。でも「任期」は、この悩みを軽減してくれるシステムなんだよね。そしてシステムは、それが必要だと考えられたから生まれたものだ。それを改変するには、それ相応の理由がないと、不合理ってことになりますね。

 韓非子は「理は道の中にあり」と言っております(私もそう思っています)。不合理とは非道につながる危険性があります。私には直接的には無関係なことだから、興味深く見守ってまいりますが、どうなっていくんでしょうね?

2018年2月27日 (火)

孟母三遷

 はい、よっこいしょっと。心配していたように、やはり疲れが出てしまって、今日は身体も脳みそも、重い、重い。なあんにもする気になれない一日でございました。したがって本ブログも、軽くやっちゃいましょう!

 昔々、孟子というエライ人がいたのだそうです(私が子供の頃には、周囲の人が「エライ」というから、「ふうん、エライのか……」程度の認識でございました。ちなみに私の両親は、孔子、孟子の名前を教えてくれたり、きわめて断片的な言葉を口にすることはございましたが、詳しくは語ってくれませんでしたし、「エライ」とも言ってませんでした。では今現在の私がどう思っているかというと、「別にどこがエライん? 実際に会って話をすることになったら、早々に「あ~わかった、わかった。わかったから、どっかへ行ってくれ」と喚くと思います)。何がどうエライのか、さっぱりわかりませんので、ここでは(疲れてることもあるので)、孟軻(孟子の本名。子とは先生の意味らしい)さんについては、めんどくさいことは言いません。

 ただ彼にはいくつか面白い逸話があって(斉の国での、淳于髡さんなんかとの討論では、木っ端クソにやり込められてますけどね。私としてはそっちの方が面白かったけど)、『孟母三遷』という、わりと有名なお話について、軽く流しましょう(…頭が重いもんで…笑)。

 孟子のお父さんは、孟子がほんの小さな頃に亡くなったようで、小さい頃から孟子の母(孟母と、一般的に略して言います)は、けなげなシングルマザーとして孟子を育てます。こんも孟母についても、いくつも逸話が残されており、なかなか大したお母さんであったように思います。

 さてさて、そういうことで孟子は幼い頃から、経済的には楽な暮らしをしていたわけではございません(たぶん)。けれども、こと息子の教育に関しては、非常に厳しくも、気を使ったようでございます。

 最初、孟子と孟母は、墓地の近くで暮らしておりました。孟子も近所の子供たちを一緒に遊んでおりましたが、なにせ子供は大人のやることを見て、ものを学びます。よく「学ぶ」は「真似ぶ」だと言われますが、孟子だって生まれつき亜聖だったわけではないようでございます。

 墓地といえば、一番よく目に入るのは「葬儀」でございます。孟子やその友人たちは、無邪気に葬儀の真似事をして遊んだんですね(映画『禁じられた遊び』よりは良い?)。すると孟母は眉を吊り上げて怒ったんだそうです。そうして「ここは、私の息子を育てるのにふさわしい場所ではない!」と転居してしまったんですね。

 次に孟子母子が住んだのは、市場だったんだそうです。市場といえば、モノを売り買いする場所ですから、ここでも孟子は、素直に商人がものを売買するのを見て、真似をして遊んだようでございます。

 士農工商という身分制度は、孟子の時代よりもはるかに昔からございましたので、孟母は激怒したんですね。現代人ならば「職業に貴賤なし!」と言い返せるところですが、悲しいことにそういう時代ではございませんでした。こうして孟母は孟子を連れて、またしても転居してしまったのです。

 今度住み着いたのは、何ということか屠殺場の近くだったんですね(そんなに環境が気になるのなら、あらかじめ下調べをして、気に入ったところに転居すればよさそうなものを、と私などは思ってしまいますが…笑)。すると素直に大人の真似をする、純な孟軻少年は、今度は豚を殺したり、羊を捌いたりする真似を始めてしまったのです(現代でも、鳥や猫を相手に始めたら、かなり問題があると見られる?)。

 これを見た孟母はびっくり仰天。「ここも私の息子を育てるに良い環境ではない」と、さっそく転居してしまいます。そうして住んだのが学校の傍。ここはなんと、学問に志す人間や、官員がうろうろするところで、当然のことながら礼儀正しい生活を送っておりました(現代の学校周辺は、どうなんだろうか?…笑)。それで、孟母はここに住むことに決めたというんですね。

 孟母と肉の話には『殺豚不欺子』という逸話もございまして、これもなかなか泣かせる話なのですが、豚や羊を殺したり捌いたりは真似させなくても、肉だけはちゃんと食ってたという、わりと面白いお話です。後日、似たような話を、孟子自身も斉宣王にしてますけどね(君子は厨房には近寄らないって、あれですね。私なんかは、毎日厨房に立ち続けてますけど…笑)。

 後に孟子は、有名な『四端説』というものを唱えて、人間には本来、惻隠の情、羞悪の情、辞譲の情、是非の情というものが備わっており、これらは善を目指すものだから、人の性は善であると言ったらしいのです。

 もちろんこれは後世の人の作り話でしょうが。だって人間、放っておいても善になるのなら、孟母は三度も転居してないはずですからね。自分の望む人間に育てるには、この環境では相応しくないと感じたから、孟母は転居したわけだし(もろ職業差別のお話ですけど、まあ何事でも、「取り組むのに最適な環境がある」ということは、否定いたしません)。

 まあ、亜聖孟子も奥さんに辛くあたって、孟母に叱られたり、いろいろなことがあったようでございます(淳于髡との話は面白すぎるので、もうちょっと頭が軽くなった日にいたしましょう。今日は集中力が……)。

2018年2月26日 (月)

甲羅!

 さむっ! 眠っ! 気がついたらPCの前で、お行儀よく座ったまま寝ていた。得意技である。ちょっと一区切りついたから、心が緩んだのかも知れない。こういう時にはなにかと体調が狂うものだから、油断禁物である。

 さてさて何やらかんやらあったようですが、五輪も終わり、次は来月の9日からパラリンピックでございますな。またまた熱戦が繰り広げられると思いますが、五輪同様、きっちりと盛り上がるとよろしゅうございますな。

 選手は一所懸命競技するでしょうが、盛り上げるも盛り上げないも、スタッフやらマスコミのみなさんやらの腕一つでございますからな。これまたきっちりと気合いを入れて、取り組んでいただきたいものです。

 でもパラ五輪でも出るのかな? 統一チーム。昨日の五輪の閉会式では、すでに南北は別々に行進してたみたいだし、もう「や~~~~んぴっ!」かな。本当に人々を平等に大切にする社会なら、五輪もパラ五輪も、同じように重視すべきだと思いますので、そこんところをよろしく取り組んでいただきたいと思います、南も北も。

 ということで3月まで、まだ1週間近くもあるじゃん!などと勘違いをしておりました。今月は2月なんだよね。2月って、28日までしかないじゃん! ひええええっ! 2~3日も計算がずれちゃった! いやまったく、光陰矢の如し。気がついたら、時間だけはしっかりと経過している。

 このほんの僅かも待ってくれない時間の中で、いったいどうすれば時間に遅れないで済むのかと思ってしまったが、まあ焦ってもしょうがないという結論にたどり着きました。マイ・ペースで、自分なりにやってくしかないのだということですね。

 人は、自分が背負える以上のものは背負えないし、自分が歩ける以上の速さでも歩けません。無理してたくさん欲張ってみても、荷物の重さに潰されてしまいますし、無理して急いでみても、息切れして長続きしないだけです。

 自分が持てるだけの荷物を持って、自分が長続きできるようなペースで歩き続けるのが、結局は一番荷物を遠くまで運べるのだと、最近思うようになりました(俺も大人になったもんだ……はああ…溜息)。

 イベントでも似たようなものですね。自分が主催できるレベルのイベントなら、なんとか開催できますが、自分の器以上のイベントを持ち込むと、これはもういたるところに無理が来るし、いろんな方々に迷惑をかけてしまいます。自分だけが潰れるのなら、それはそれで「自己責任」の一言で勘弁してもらうことも可能かとは思いますが、ひとさまにご迷惑をおかけした日には、「自己責任」の範囲にも収まりません。(もちろんこれは、「迷惑」という概念が理解できる人間にしか通用しない概念なんだろうけど)

 カニは自分の甲羅の大きさに合わせた穴を掘るそうなんで、自分の甲羅よりもはるかにでかい穴を掘ろうとするのは、カニさんよりも、ちょっとだけレベルが低いのかと思ったりしますが、実際にカニを見ても、何も教えてくれませんから、カニを見てそれに気づいた人は、ずいぶん賢かったんだろうな、と。

 ここまで打って、鉢植えを出しっぱなしにしていたのを思い出しました。文章にすれば僅か一度の改行ですが、この一行の間には、肉体労働が挟まっています(笑)。ま、そんなこんなで、一人暮らしではすべてが「自己責任」となってしまいますので、せいぜい自分の甲羅の大きさを見誤らないようにしなくてはなりません。

 「夜郎自大」にならないよう気をつけるのが、最も安全、かつ速く、たくさんのことができるのだということで、今日は早めに休みましょう(とはいっても、今日も残り十数分?)。休める時には休んでおくことも、長続きの秘訣でございます。休みっぱなしでは、一歩も前に行けませんが(笑)。

2018年2月25日 (日)

お疲れ様!

 スポーツは好きなので、五輪などはわくわくとして観戦するのが常なのだが、今回の冬季五輪だけは、はっきり言って「胸糞が悪かった」シーンが、少なからずあった。もちろん、日本選手の活躍には感動もしたし、時折紹介される、アスリートらしい友情の交歓シーンには、胸が熱くなるものがあったが、勝者に対する(特に日本の)嫉妬ばかりが、ここまで目立つ五輪も珍しかったような気がする。

 いやいやそれどころではなく、スポーツの大会なのか、政治の大会なのかがわからなかったのも、非常によろしくなかった。なにしに五輪を開催しようと考えたのかと、不思議だった。きっとスポーツなんかに親しんだこともないし、競技者の気持ちなど、考えたこともない人たちが運営しているんじゃないかと、勘繰ってしまったが、実際はどうだったのだろうか。

 勝者には敬意を、敗者には慰労をというのが、当たり前の感情ではないかと思うが(実際には両者ともに、敬意を払うべきなんだろうけど。その舞台に立っているだけで、十分尊敬に値すると思うし)、やれ「得点がおかしい」だとか「不正があった」だとか、雑音が多すぎた。

 だいたい「得点がおかしい」のは、かつての自国の選手について、誰もが知っている現象だったはずだし、審判やスタッフぐるみでの「不正」ではないかと思える場面があったのは、いったいどこの国なんでしょうかね。

 胸糞悪かったのは、選手のパフォーマンスではなく、こういった「やり方」である。かつて某宗教の指導者が、「霊的に生まれ変わることを祈る」と言ったのだそうだが、まあ同じような感想を持った。

 中には素晴らしい人もいたのだから、そういった人を汚さないためにも、ただ「勝てば何をしてもよかろう」という態度は、改めていただきたいものだ。第一まだパラリンピックがあるんだし(オリンピックがこのようであれば、パラリンピックはますます不安で一杯である、いろんな意味で)。

 とはいうものの、こういった世界中が注目するイベントで、何かをやるってことは、見事な宣伝である。世界中が注目する中でフェアプレイを展開すれば、それは開催国の素晴らしさを世界中に発信することになるだろうし、アンフェアなことをやっていれば、まあどのような国かを宣伝する上では、大きな影響を持つだろう。

 一度こういった評価が下ってしまえば、あとはその評価を覆すのは容易ではない。まあそれを知らないでやっていたわけではないだろうから、覚悟の上だったに違いないので、「ええ根性しとるな!」としか言いようがない。

 ま、IOCもこの事実をよくよく参考にして、今後の決定に活かしていただきたいものだ。

 どうにか競技も終わったようなので、かくなる上は(ノロも鳥インフルもあることだし)、何も起こらないうちに、選手や役員の皆さん、ボランティアなので参加された皆さんは、帰国された方がよいのではないかと思う(個人の自由だけどね)。きっと寒かったのではないかと思うので、帰路日本にお立ち寄りになって、温泉などで疲れを癒されるのも、アリではないかと思う(笑)。

 とりあえずは、何とか閉会まで持ち込めたことで、一安心。さらには日本選手団の大活躍については、非常に感動いたしました。あとはどうかご無事に帰国なさってください!

2018年2月24日 (土)

 そろそろ、花の季節が近づいておりますが、国際的なスポーツなどのイベントが開かれていると、各国の様々な花が、様々に咲いているのを見ます。ふと年齢を見ると、「自分と同い年だ」とか、「俺よりも年下じゃん!」とか、「俺の子供くらいの年ではないか」とか、感心したり、呆れたり、自分のふがいなさを感じたり、いろいろな感情を持つ人がいることでしょう。

 確かに、大舞台に立つことができる人は、素晴らしく見事な花を咲かせているわけですが、でもね、植物がそうであるように、人の人生も、いつ花が咲くのかは、その人によって違うのです。

 同世代とか、自分よりも幼い世代が、見事な花をつけているからといって、溜息をつく必要など、まったくございません。自分には自分の花が、きっとあるはずです。咲く時期がまだ来ていないだけで。もちろん花を咲かせる準備をしていなきゃ、咲くはずの花も咲かないで終わるかもしれませんけどね。準備だけはきちんとしていなければ。

 人間という生き物の花は、いつ頃、どんな咲き方をするかわかりません。スポーツなんかだと、ある程度咲かなければならない時期が限られていますけれど、他のことだったら、いつ咲くべきなのかもわかりません。

 俗に「大器晩成」などという言葉もありますが(正しくは「大器免成」。つまり、大器は成らない。常に大きくなろうとしているから、後から「おお、あれが本物の大器だったんだ!」と気が付くという意味です…漢の馬王堆から出土した『帛書・徳道経』には「大器免成」とあり、これだと文章の前後の意味が、無理なくつながります)、「俺は大器だから、ゆっくりとでいい」なんて余裕かまさないで、毎日を一所懸命努力して生きていれば、間違いなく大きくはなります。

 だいたい「花」にしても、咲けばいいってものではありません。花は結実して、種子を後世に残してこその花なのです。いくら見事な花をつけても、種子が残せなきゃ、「花としての務め」は完了していません。

 私なんぞは、未だに花も咲いていないわ、当然、結実もしていないわ、種子なんかまったく見えてこないわの人生ですけど、それでもまだ諦めてなんかはいませんよ。人生、いつ、どんな形で、どんな花をつけるかわかりません。そうしてどんな果実をつけ、どんな種子を残すかわからないのですから。

 中には、花が咲いているなんて気がつかないのに、見上げるような大木になる場合だってあります。

 人にはそれぞれ、自分だけの花が(きっと)あります。そう信じて、今日を生きるのが、正解のような気がしています。そうすると、今、華麗な花を咲かせている人たちを見て、素直に感動できたり、そこから大きなエネルギーをもらえたりいたします。

 花を咲かせようと頑張っている人こそが、今咲いている花を、素直に愛でることができるのかも知れませんね!

2018年2月23日 (金)

季節外れの、ホ・タ・ル?

 昼はよい陽気でございました。今日は身体を緩めてもらったので、大変に力みのない生活だったのですが、昨夜(旧暦の)七草粥(当然、材料は自分で摘みにいきます。スズナ、スズシロ以外は…笑)を食べておりましたが、今日は陽気につられて、海に行きまして、ワカメを採っちゃいました。

 身体を緩めてもらっていたので、この陽気とも相まって、つい、うつらうつらしそうになるので、早々に退散しましたけどね。気がついたら海にはまってたというには、季節が早すぎます。

 放っておくと寝てしまいそうなので、凝った料理はやめにして、ワカメのしゃぶしゃぶと、お味噌汁にしただけでしたが、美味かったなあ…… やはり食材は、旬のものに限ります。特にワカメなんかは、お店に並んだのしか見たことがない人は、もとが茶色だってのを知らなかったりするので、お湯に入れた瞬間に緑色に変色するのを知らなかったりする。

 こいつをすぐポン酢か何かでいただくのが、間違いなく新鮮だ。(すんません、生の茶色いのも食べましたけど。海水温が低いので、大して問題はないと思いますが、あまりお勧めいたしません)これで熱燗を、ぐぐぐいっと…… プッファア~… 堪りませんな。これで今晩やらにゃならんことは、果たしてできるのだろうか… まあ食べている最中には、こんなしょうもない心配をするのは、無粋というものです。消化が悪くなる。

 しかしまあ、今晩頑張っておかないと、明日が大変なので、今日も早々にこれを切り上げて、そっちのほうに取り掛からなければなりません。貧乏暇なし、金もなし!(笑)

 とはいうものの、夜になると冷え込みますね。昼間の陽気が嘘みたいです。こんな時には、ちょっとした油断が風邪ひきのもとになるので、気合を入れて頑張らないと(気合で、風邪、インフルエンザの半分は消える!)。

 ということで、五輪の中継などは見ません。見てもたぶん機嫌が悪くなるだけだから。(こくもこんな五輪にするつもりで、観客誘致に来たもんだ、と呆れかえっておりますがね。どこまで面の皮が厚いんだ? 面の皮を剥いだら、頭部がなくなったりして… それはそれで、立派なホラーですけどね。今はしょうもないホラーに付き合っている暇などございません!キッパリ!)

 とりあえず、昼の時間を、食材調達に当ててしまったので、今晩はこのくらいで。ドトーの勢いで、仕事に取り掛かります(シリに火がついちゃった!)

2018年2月22日 (木)

遵守

 だいぶ春めいてまいりました(私の住んでいるところでは)。もちろん春めいてきたとは言っても、まだ野や山に草花が咲き乱れているわけではないので、我が家の庭を訪れる小鳥たちは、種類も豊富なら、数も多いようです。

 今朝など、ミカンを出しに行ったら、すぐにヒヨの鋭い鳴き声。「エサ、来たぞ!エサ!」という知らせなんでしょうな。帰宅後見たら、なんと果肉だけ食べてるのでhなく、皮ごと豪快に食ってる!

 私もミカンは、すじもとらず袋などそのまま、ぱっくりこと食べるクチだが、さすがに皮は剥くんですけどね。鳥は(ヒヨかなあ?)食べやすいように半分に切ってあげているのに、豪快に

皮ごと食う(メジロなんかだと、果肉しか食べませんけどね。まああの可愛らしい嘴では、皮ごと齧るなんてことは難しいのでしょうが…でもけっこうイジメがあるんだよ。強い奴は弱い奴に、嘴をビシッと鳴らして威嚇するもん。仲良く食べれるように、何か所にわけて置…細い木の枝に突き刺してます。ネコに狙われないように…いてるんだけどね。

 自然界は弱肉強食だから、強い奴がどうしてもエサの優先権を取っちゃうんだよね。では弱い奴はどうかというと、強い奴よりも「早朝出勤」してたりするので(すぐに強いのもやってきますけど)、それなりに工夫はしているみたいです。

 こうして自分の持っている能力を、上手に活用して生き延びたのが、子孫を残すんだろうね。まあ、野生の世界の大きな目的は、「何とかして生き残り、子孫を残す」ことみたいだから、その「きわめて大雑把だけど、生命がけのルール」に従って生きているんでしょうな。

 人間だって原始の狩猟採集時代には、似たようなものだったと思いますね。ただ、神様の悪戯なのか何なのかは知りませんが、智慧の発達とともに、何とか安定して生きていけるようになると、楽しみのために(話によると、狩猟本能が、ゲームの生みの親とか言っているみたいだけど)、自分たちでルールを定め、そのルールに従ったうえでの優劣を競うようになる。

 今、冬季五輪の最中だけれど、こういったゲームも、結局のところ、「人間が定めたルール」に従って、優劣を競っているわけで、だからこそ、「ルールに従う」ことが、大前提とされ、「ルールを破る」ことは、選手に限らず、スタッフであろうと、審判であろうと、発覚した時には、大変な騒ぎになるのだ。

 何故か? ルールを破るのなら、その競技を認めてないということだからだ。競技を認めないのであれば、出場しなきゃ問題はないのだが、なぜかしら「勝つためには手段を選ばない」というような、ゲーム以前の問題を抱えたまま、試合をする人もいないわけではないらしいので、とても困る。

 何故か? 競技ってのは、競技をしている人にとって大切なのは、当たり前のこんこんちきなのだが、実はそれを見ている多くの人たちにとっても、非常に大きな意味を持つからだ。

 人が頑張っているのを見ると、「よし、俺も一発頑張ろうか!」って気分になれる。不正をしているのがわかったら、ぶん殴ってやろうかなどと思って、仕事が手につかなくなる(笑)。公平な条件で、公正に行われたゲームで、感動的なシーンを見たりすると、見ているこちらまで幸せな気分になれる。(もっとも、あまり解説の人が多くを語りすぎると、白けることも。解説は、適度がよいみたいですね…笑)

 昨日も、非常に感動的なシーンがあった。しばらく仕事が手につかなかったけど、我に返った後、猛然とスパートできたよ(寝たのは午前4時半。大丈夫かね?)。感動は活力を与えてくれる。

 ところがどっこい、同じ種目で、チーム内にイジメがあったところがあるんだそうな。競技の世界は嫉妬の世界でもありますから、自分の心をコントロールできない、未熟な精神しか持ち合わせていない人が、人並外れた体力を持つというアンバランスな状態になれば、起こることかも知れませんね。

「健全な肉体に健全な精神を」という言葉もございますが、健康には恵まれないのに、素晴らしい精神をお持ちの方がおられる反面、その真逆のような人も、いないわけじゃあないようです。肉体的には素晴らしいのに、精神がてんでなっていないって人が。

 肉体を鍛えるには方法がありますが、実は精神も鍛えたり、育てたりしていかなければ、うまく育たないことがあるんですよね。「生まれながらにして立派な人格者」なんて人はいませんから。周囲の人やら、様々な経験を通して、自分でそういう精神を作り上げていかなきゃ、「放っておいてもできる」なんて、容易なもんじゃないんですよ。

 勉強すれば、優秀な学歴がついて、立派な(と思われている。本来職業に貴賤はないはずだ!)仕事に就ける可能性は高くなりますが、精神までが高められていなければ、いろいろな問題が、毎年数えきれないほど起こっているじゃないですか。

 勉強もスポーツと同じで、トレーニング法はあるけれど、精神のトレーニング法は、定められていないし(だいたいこうやればいいかなあ~ってのは、日本の場合には、かなり古くからあるみたいですけど)、義務化もされていないし、凄い人格だからというので、お金を払ってくれるところもないし。(お金の動かないところには、社会も人も、動きにくいという傾向があるのでしょう、きっと)

 でもそれをちゃんと身につけている人も、少なからずいるのだから、要はその人が、「身につけよう」と思ったか、思わなかったかの問題(あるいは周囲の人が、身につけさせようと思ったか、思わなかったか)になりますね。

 強ければなんでもいいのなら、エルボースマッシュでもなんでも、反則かな、ギリギリ」わかんねえな、あたりでやってればいいのかも知れないけど、それじゃあ人は感動しませんわな。

 人が感動しなければ、観客は離れていくだろうし、支持者もいなくなる。するとその人は、俺が最強!と「お山の大将、俺一人。後から来るのは…」状態になるんですけど、それでもようございますのかね?

 ルールに則って、クリーンかつ感動的な競技が見られれば、ファンも増えれば、愛好家だって増えるだろう。勝てばなんでもいいとか、もろ精神の未熟さを見せつけられるばかりでは、それは衰退していくだろう。

 人は気分悪くなりたくて、競技を見たり、やったりするのではないから。

2018年2月21日 (水)

煮え詰まるっ!

 久々に、脳みそが煮え詰まるまで頑張りました! もう熱っぽくなるわ、何のアイデアも浮かばなくなるわ、完全にオーバーヒートしておりましたな。それでも「一区切りつく」までは、頑張ったのだが、やはり表で遊ぶのが良いみたいです(笑)。

 表で遊んで(遊び過ぎたけど)、帰宅して庖丁を持って(危ないね)、料理をして、晩酌をやって飯食ったあたりから、人間に戻ってきました。庖丁でものを切り刻む(なんのことはない、料理してるだけだけど)と、攻撃欲が満足させられるのか、妙に気が楽になります。

 もちろんこれは、私だから言えることで、先日、料理するのが仕事の友人に話したら「料理では全然、欲求不満解消にはならない」と断言されてしまいました(笑)。人間、仕事やなんかで「やらなければならない状態」になっているものから離れて、そこそこ好きなこと(しかも、他人から悪評されないこと)を適度にやるのは、欲求不満解消にはよろしいみたいでございます。

 もちろんどんな好きなことでも、そればっかやっていれば、煮え詰まることはあります。こうなると目先を変えて、異なった刺激をもらわなくてはなりません。昔から私は、あれこれといろんなことに目が向いてしまう子供だったので、その頃覚えたことが、今頃になって役に立っているような身がいたします。

 あれこれ興味を持って、自分でそこそこまできたかな?というあたりまでやったことが多いと、気分転換をするときに、すぐ取り掛かれて大変都合がよろしい。何事でも、まっさらな状態から始めると、最初のとっかかりがわからなくて苦労し、そっちのほうでも疲れちゃいますからね。

「思い立ったが吉日」とばかりに、さっさと別のことをやって、ストレスが消えたら「さあ、また復活じゃ~っ‼」とできるのは、ガキの頃からあれこれ気が向いたことができたからかも知れません(「器用貧乏」になるなと、親は心配していたみたいですが。まあそれでも、比較的好きにさせてもらったことに、大感謝ですね)

 貧乏はどうせ貧乏なんだから、同じ貧乏なら「不器用」よりは「器用」の方がいいに決まっております。私としては、「一芸に秀でる」ってのも、今でも目指しているわけですが、なかなか世の中、思うように行くものではありません。

 世の中、才能があってすら、日の目を見られるかどうかわからないのに、私程度の能力で「一芸に秀でよう」などと、すべてを一つのことに打ち込んで(基本は、そういうタイプなんですけどね)、それがこけたらアウトだ、なんぞと考えていたら、これはもうアウトしかないわけで、自分が打ち込みたいことは自分で後悔しなくてよいくらいには打ち込みながらも、ちゃんと余所見をする余裕がほしいものです。

 子供の頃は、あちこちに気が散る子でしたが、結局はそれは今の自分を支えてくれる原点になってますからね。全然別のところからヒントをもらったことは、山ほどあるし。

 だいたい「全身全霊をかけて一つのことに取り組む」ってことが、ある一つのことしかやっちゃいけないと考えるのも、不思議な考えだと思いますよ。いろんな経験をして、その経験のすべてを、自分が本当にやりたいことに集中させて、集大成するやりかただって、「全身全霊をかけて打ち込んでいる」姿だと思いますしね。

 興味がないことなら、無理してやらなくてもいいと思うけど(生活で必要ならば、やらなきゃ仕方がないけど)、興味があることなら、暇をみて、どんどん余所見したり、寄り道する生き方が、私は好きですね。いろんな人に会えるし、いろんなものを見聞できるし。

 忙しいのは我慢できるけど、退屈なのは、とても我慢できません!

2018年2月20日 (火)

理由づけ

 一日中、穏やかな良いお天気だったので(山は白くかすんでいたけど…とうとうシーズン到来でございます😢)、22日用(旧暦1月7日、七草粥…正式には、「七草粥」ってのはこの日にしていただきたい。でないと、野山に出かけて、七草を集めることができない)の七草を集めました。

 ことしはやっぱ、寒かったんだろうね。地面にベタっと張り付くタイプの植物が、なかなか成育しておりませんでしたよ。(見つけたけどね。小さかったし、数も少なかった)さて、これで明日はきっちり準備して、(正式な)「七草粥」を楽しもう! これで一年が始まる。

 あとは元宵節と桃の節句(こちらは何故か新暦)が、今年は連チャンのはずなので、『日本全国酒飲み音頭(なつかし!)』的に言えば、連日連夜の大酒のみでございますな。まあ元宵団子を肴に、呑み過ぎれば、なんとなく次の日のトイレが… 的な心配はございますが。

 昔私は『日本全国酒飲み温度』的発想をしていた頃があって(この歌が世に現れる前のことです)、私のスケジュール帳(なんとそのころの私は、手帳を持っていた! 毎年、手帳をなくすのと、手帳を探すのに浪費する時間を考えた結果、今ではスケジュール書き込み式のカレンダーを愛用している。私には手帳は合わなかった。では、携帯やスマホを利用すれば?と思われるかもしれないが、実は「見ない」習性があるので、いかんともしがたい…スマホの場合には、まったく関係のない、うざいだけのCMが頻繁に入るので、どちらかというと、心の中では、嫌っているのではないかと思う、無意識のうちに)に、私が好きな人の誕生日とか、亡くなった日とか、代表的なことが起こった時とかを書き込んでいたら、1年のうち200日以上も、お酒が飲める日ができて、とても満足したことがある。今もそのころの習慣で、「呑む」という行為だけは生き残っていて、すでに記念日とかはどうでもよくなっている。

 まあ「呑む理由」なんて、どうにでもできるからね。今日、自分が右足から靴を履いたからめでたい、なんてことを理由にすれば(私の場合には、たいてい右足から履くので)、靴を履いた日には必ずお酒が飲める。つまりは毎日だ(笑)。

 どんなことでも理由にはできるわけで、例えば日本選手がメダルを取ると、必ずといっていいほどいちゃもんをつけてくる連中がいるらしいが、どんなことでも理由はつけられるんだよね。

 もちろんいちゃもんをつけられた側は、嬉しい筈はないわけで、つまり人に嫌われることを維持でもやってやろうという連中は、自ら人に嫌われることをしていて、その結果嫌われているのに、自分が嫌われている理由がわからないという、まあ普通の思考ができる人には理解不能な思考回路を持っていることになる。

 酒を呑むのに、いろいろな理由を作るのは、取りあえず健康上の問題とか、経済上の問題として考えるならば、私のような一人暮らしの人間では、完璧に「自己責任」であって、ひとさまに絡んだり、難癖をつけたりしなかったり、路上で人さまにご迷惑をかけたりしないのであれば、大した問題ではない。

 しかしながら誰かの業績に対して、これを脅迫したり、価値を貶めるような行為は、これはもう「自己責任」でなんとかなるものではございませんな。特に国際大会なんかでそんなことをやれば、国の恥を、自ら進んで晒しているようなもので、外国人から見てれば、侮蔑の対象にしかならない。

 個人的に、どんな賤しい人間でもかまわないが、それが自分以外の人間にもマイナスの影響を与えるとなれば、これはもう「自己責任」では済まされないからね。

 正々堂々と、公正な競技の結果生まれた勝者を称賛するのは、勝者に対する礼儀であり、敬意だ。正々堂々、公正な競技で、力の限り協議して生まれた敗者を慰めるのは、敗者に対する礼儀であり、思いやりの心である。

 こういう心を持つことは、「よりよい社会、人間関係」を作っていくうえで、大きなことだと思うし、本来儒教だって、社会の秩序を維持し、人々をよりよく生かしていくために誕生したものなんだけどね。(私は儒教が嫌いだが、その誕生のもとになった原点までもを否定しているわけではない。方法論としての儒教には、腐るほど厭らしさがあるし、糞みたいな副産物を、山盛り生み出してきたとは思っているけど…儒教を自分が統治する「便利な手段」として用いた奴らが、こんな愚かなことをやっったんだろうと思っている。そしてそんな愚かの産物の影響を受けていたり、さらに増幅しているのを見ていると、ますます嫌いになっていく)

 まあなんでもいいや。日本選手の健闘と、ご無事を祈るばかりである。なんだかんだと言っても、私も「仁」という儒教の影響を受けているのだろう。日本選手の活躍を見ると、嬉しくてね。まるで我がことのように思うよ。(「仁」の正体について、詳しく語るには、今日の残り時間が短すぎる。また、呑んだ時にでも…笑)

 でもだからといって、他国の選手の不幸なんて、願ったりはしませんけどね! みんなベストを尽くし、満足できるような競技の結果が公平、公正に評価され、その後での勝敗であってほしいと願うばかりだ。

 勝つためには、どんなキタナイ手でも使う、なんてことやってたら、本当の意味で強くなったりはしませんからね! それは競技や選手を辱めているだけのことで。勝つための理由付けには、正しく競技に向かい合うしかございません。

 勝つためになにをやってもいいのなら、反則攻撃が(ある程度は)認められている、某プロスポーツ(? ただの興行?)みたいになるしかないじゃないですか。でもこの競技は五厘には入れませんよね。それは「興行利益」を目的にしてるからじゃないんですか。

 アマチュアスポーツには、そうあってほしくはないですね!

2018年2月19日 (月)

無責任コメント!

 ねむいっ! 睡眠不足の上に、景気づけに「今日はいっちょう、新メニューに挑戦してやろう!」などと思い立ったものだから、いつもよりもたくさん作りすぎて、結果食べ過ぎ、消化器官への血流量が多くなりすぎて、おつむのほうは血液不足(?)となり、いや、眠いのなんの。さっきもPCの前で寝ていた(よくやるけど)。

 試作品は、なかなかよろしいできあがりで、これはケース・バイ・ケースで、結構なものになりそうな感じでございました(時短のわりには、とても「優しい味」に仕上がりました。ふわっと、ほわっとする感じ。またレシピが増えた!)。

 なにしろ試作品を作るとき、失敗しても誰に叱られるわけでもないからね。自分でマズイのを我慢して(こういう時は、絶対に外部に漏らさない?)、食っちゃえばいいんだから。自己責任で済ませることができる、特権だよね!

 なぜか? 誰にも迷惑をかけないから。自分の金で買った食材(あるいは自分で栽培なり、収穫したものを、他の誰でもない、自分で調理してんだから。しかも他人に無理やり食わせたわけでもないし)を好きにいじくって、責任もって消費してんだから(たまに、ノラとか野鳥とかに、少しだけ手伝ってもらうことも。しかしながら、実をいうと奴らの方が私よりも贅沢なのかな。気に食わないと口もつけない。怒!)。

 こうやって、すべてが自分の守備範囲内で済ませることができるなら(自分で作って、お腹を壊して、お医者さんにかかったこともないし。何処とはいいませんが、海外で食べさせられたもので、大変な目に遭ったことは、何度かございます。これも医者にはいかなかったけどね。わが国の医者ですら信用しない私が、海外の医者を信用するはずがないではありませんか!)、何の問題もないんですね。

 ところが世の中には、「気の毒な?」お仕事の方々がおられるようで、所謂コメンテーターってのかな、人がやったこととか、世の中で起こった出来事とかをあれこれ批評する仕事の人。昔は評論家なんて立派な名前で、それなりに(あくまで、それなりに、ですよ!)見識の高い人がやっていたように思うのだが、最近は「ご意見番」なんて、江戸時代じゃあるまいに、なんて名前で呼ばれている人が、何を考えているのか、自分の専門分野でもないことまで、あれこれ言ったりしておられますな(専門分野であったとしても、すでに現役を退いて長年が経過してたら、自分の技術では通用しなくなっていることが多い。いつも、たとえ後輩に対してであっても、「今、現役でやっている選手に対する敬意」ってのが、私は不可欠だと思うよ! すると葛西選手なんか、結果の良しあしに関係なく、凄い人だと思いますね。技術革新に乗り遅れないで、トップレベルを維持しているんだから。間違いなく体力的には、伸びてはいかないお年…失礼!…なのに)。

 まあ「仕事」なんだから、しょうがないっちゃあしょうがないんだけど、「このとうしろうが、何も知らずに、上から目線で」なんて思えるコメントが出ると、たまには腹が立つこともあるよ(TVをはPCの前で怒鳴っても、誰も反応してくれませんけどね…笑)。

 そういうキャラで売っているのかも知れないけれど、「日本はいいなあ」と思うよ。言論の自由が保障されているらしいので、言いたい放題だもん。どんなに的が外れていたり、無知をさらけ出したり、選手当人を傷つけているかもしれないといたとしてもね。

 コメントで無知をさらけ出せば、普通の業界だと、仕事がなくなるのが当然だろうと思うのだけれど、そういうキャラで売っているせいかなあ、出なくなるなんてことはない。いいよね、全くずぶの素人以下の分野でも、その時思ったことを、口から出まかせでも言ってりゃいいんだから、気が楽だ。

 国によっては、口に出してはいけないことを口に出した瞬間、人生が終わるところだってあるんだけどね。ましてやそれを「公共の電波」とやらに乗せて拡散しても、まだその業界で食っていけるんだもん。天国みたいなもんだ。

 もちろん、こんな甘やかされた環境で、言いたい放題やってれば、いつまでたっても(たとえ化石になるくらいまで生きたとしても)、まともなコメントは出せるようにはならないだろうけどね。少しは、人が気がつかないような、核心を衝いたコメントを出して、人をうならせてみろよ。「公共の電波」に乗せて自分の意見を発表できるなんて、超特権なんだから、そのくらいはやってみろって思うけど、どうせこんなことなんか考えてもいないだろうなあ。

 ただね!見てる側にも「選ぶ権利」ってのがあるんで、気に食わなきゃ、いくらかは手段があるんだよね。一番簡単なのは、見なきゃいいんだけど(笑)。でも選手が気の毒だ!せめてろくでもないコメンテーターには、「自己責任」ってのを、自覚していただきたいもんだ。

 私は、世界の最高のひのき舞台で、自分にできる最高のパフォーマンスを目指して頑張っている選手を貶されるのは、いい気持ちではないよ。特にそれが日本選手であれば、同じ日本人として、いたたたまれない気分になる。(まだ私も、血が熱いのかね? 笑)

 冬季五輪も後半戦、日本選手の活躍に期待しているし、それに対するくだらないコメントを出すア〇ポ〇タ〇(〇の中には、同じ文字が入ります)には、「あっち行けー、この野郎!」と思うんでしょうけどね!

 頑張れ、日本っ!

2018年2月18日 (日)

スポーツは偉大だ!

 ちーーーーっす。ということで、昨夜はゴキゲンで、途中から白酒(baijiu)を飲みまくりました。あ~、美味しかった!(白酒を飲むこと自体、ゴキゲンな証拠なんだけどね! 笑)

 でも、行きがけのバス停では、ちょっとだけ不機嫌になりかけた。なんと、バスの時刻表が変わっていた!(どどーーーーんっっっ‼) おかげで57分間、寒風の中を待ったよ(こんな時間待つのなら、走っていけばよかった。走れば30~40分ほどの距離だしなあ…… 走ってれば、バスが来る頃には、店に着いてたと思うよ)。

 ところが私の性格は、「今日はバス」と決めたら、どうしてもバスに乗りたい人なので(頑固? アホ? 両方?)、待った、待った。家に帰って、自分の車で行って、代行で帰ろうか、なんてことも一瞬頭をよぎったが、まあこんなチャンスは滅多にないと、その場でできる(たぶん、知らない人が見たのではわからない)稽古を、どっちゃりとやりました。(なかなか、こんなまとまった時間は取れませんからねえ、日常生活の中では)

 普段できないことが山盛りできたので、「時間の無駄」にはならなかった。でいつもよりも1時間ほど遅く到着いたしましたら、Mちゃんが先に行ってた。(ごめん、待たせて。で私の大好きな七味を持ってきてくれてたので、二重のサンキュー!でございました。先月のシューマイも、大変美味しゅうございましたんですけどね。一人暮らしには分不相応にでかい「蒸し器」を持っているもんで、喜んで蒸して、食っちゃいました! 美味、美味!)

 で、取りあえずはお約束通り、「羽生選手、宇野選手に乾杯っ!」で飲んでいたら、馴染みの顔の人も来た。途中で、今春節で、毎日酒浸りのZさんにも、国際電話で話したりして、(電波だけだけど)国境をまたぐ呑み会になっちゃいました(笑)。でもマスターによると、2日ほど前に、卓球のI選手(誰でも知ってる、超有名女子選手)がお店に現れたんだそうな。スマホで写真見せてもらった。世間は狭いですな!

 人間、何か嬉しいことがあると、お酒の味が変わっちゃいますね。「勝利の美酒」って言葉があるけど、あれって、呑んでいるお酒が、いつもと同じでも、勝手に「美酒」に変わってしまうんだろうね。

 ということで、金メダル一号が出たと思ったら、今度は女子500mで小平選手の金! 今シーズンの調子を見ていたら、当然っちゃ当然かもしれないけれど、勝負は何が起こるかわかんないからね。でも実力通りに、しっかりと勝っていただきまして、おかげで晩酌が美味かった!(なんでだろうね~? 日本選手が勝つと、こっちまで嬉しくなっちゃうね~。スポーツの力って、偉大だなあ‼)

 もちろん選手だけではなく、サポートしてきた人たちも、口では言い表せない苦労があったんではないかと思うけれど、「すべてを忘れらる一瞬」って感じですね。私もちょっとだけ元気を分けてもらって、もうちょっと頑張ってみますか。

 正々堂々と競技した選手すべてに、尊敬の念を持っているよ。ましてや「勝者」に対する敬意ってのは、スポーツの世界では「あったりまえのこんこんちき」というくらい、当たり前に必要だ(でなければ、競技なんかする必要ないんだから)。

 時に、正々堂々と、不正をすることなく勝利を勝ち得た人に対して、見当違いな評価をするトーヘンボクがいたりするけど、こういう人は、本来スポーツに対して、あれこれいうべきではない。こういう人が妙にスポーツに関わると、不正行為をすることがあるんじゃないかね。「勝てば、何をしてもいい」なんて、ね。

 勝てば何をしてもいいのであれば、ルールは要りませんな。ルールで許される範囲内の工夫は、その競技を発展させたり、進歩させたりする原動力になると思うけれど、ルールを破っちゃいけない。もう一つは、そのルールをきちんと守って勝った人を、あれこれ批判してはいけない。

 もっとも、アヤシイ審判もいたりするから(これはずいぶんと前から、言われていることですね)、本来こういう人は、審判なんてさせてはいけない。選手やその選手に関わっている人は、妙なジャッジをされたら、泣くに泣けませんからね。それに、見ている大勢が不愉快になる(これで愉快になる人は、公平性、公正性を理解していないと思うよ)。

 冬季五輪も後半戦に入りましたが、もっともっと感動的なシーンが見られて(どこの選手でも、いい選手はいいし、感動させられるのには国籍は関係ない)、美味しい晩酌にありつけますようにと、願ってやまない。

2018年2月17日 (土)

素晴らしい!

 いやあ、凄いですね! 上位には来ると思っていたけど、まさかのワン・ツーフィニッシュだもんなあ。田中選手には、また次回(北京で)頑張ってもらうとして、羽生選手、宇野選手。、おめでとうございました‼(TVを見ない私も、さすがに…… 見てました…笑)

 昨日までに進んでなきゃならないことが、できていなかったんですね。で、こそこそをやりながら、チラ見をして、ひとケリついて、どうも頭痛気味なので(私の花粉症には、頭痛、発熱が、時として伴う)、自分で治療しながら見てたんですわ。

 面白いことに、頭痛のツボと鼻づまりのツボと、ついでに目の疲れに関係あるツボって、場所が近いんですね。羽生選手の優勝が決まった瞬間、実に偶然というかなんというか、見事にこのツボが大当たり、頭痛は治るは鼻づまりは楽になるわ、もういいことずくめでしたわ。ちょっと忘れそうにない瞬間になっちまいましたね!(笑)

 で人心地ついて、ふとこれを打とうとPC起こしてみると、ええっ!? 将棋の方は、羽生善治さんが藤井五段に負けちゃったの? 読み方は違うけれど、文字は同じ。混乱するわ~(笑)。

 う~ん、人生いろいろ。勝負のいろいろ… 時にわけわかんなくなっちゃうこともあるけれど、それだからこそ人生は面白い?(どうせ他人事だと思って…… 違いますよ。国際大会で日本人選手がいい成績をおさめたら、それだけでうれしくなるもん。関係ないことなんか、ちっともないよ)

 とはいうものの、これから「呑み」でございます。「乾杯」のあいさつは、「羽生選手の金メダルと、宇野選手の銀メダルに乾杯!」だろうと、思いますね、きっと。

 なんかもやもやしていたのが、少しは晴れました。ちょうど鼻づまりと頭痛が消えたみたいな感じでございます。

 めったやたらと強風が吹きまくっておりますが、これから元気に、飲みにいくぞ~っ‼

2018年2月16日 (金)

祭りの後……

 今日の昼は暖かかったですね。このまま春になってくれるといいのですが、なかなかそうは問屋が卸してくれないようで、また南岸低気圧が近づくんだそうです。やれやれ……

 南岸低気圧が来ると、どうしても気温が下がってしまいますからね。降るものも雪になる可能性があるし。この季節、低気圧が太平洋側を通るか、日本海側を通るかは、けっこうな問題ですよ。(台風の進路なみに、気になったりして)

 雨や雪が降るのは仕方ないことだけど、事故や災害に結びつかない程度で、お願いしたいですね。(とはいえ、人類は有史以前から、大自然との闘いを続けてきたわけだけど…人類に限った話ではない?)

 冬季五輪というのは、基本的にこの大自然の厳しさと戦ってきた人間の営みが生んだような気がするけど(だいたい、そのままそこにいては、生命がヤバい環境で競技しているわけだし)、驚くほど様々な種目があって、人類はずいぶんと自然界に対して、強くなったものだと思う。

 競技は当然、自分と競ってくれる相手がいるから成立するものなはずだけど、特に冬季五輪の場合には、まず「その環境に勝つ」ことが要求される。環境に負けてしまったのでは、相手選手と技量を比べるところまでは届かないからだ。

 私などは寒い日には、「炬燵の守り」をしているのが好きなので(ちなみに「炬燵」は出していませんが。好きなんですけどねえ。炬燵出すと、横着になってしまって、動こうとしない自分がいるのを知っているので)、凄いねえと思いながらネットで見ている。

 残念ながらTVは見ません。TVで語られている言葉を聞いていると、「そこなで大げさに言わなくても」と思うようなケースもあるわけで、もう一つは、「もっと真実があるでしょ?」と思うこともあるわけで、目の前で見ている映像が真実なはずなのに、そこに妙な解説をつけられることで、本当の姿がゆがめてられるような気がするんだよね。

 まあ、選手にたいする嫌がらせだとか、脅迫だとかといった、本当は選手が一番嫌がることなんて(競技には大きな影響があるはずなんだけど)、まず語られることがないからね。本来、こういうことが競技会であってはならないはずなんだけど。

 現地に飛んで、選手同様、自然の猛威(その他)と戦いながら中継している人たちには悪いとは思うんだけど、純粋に競技そのものを見たいのいであれば、ネットで十分だね。好きな時に、好きなように見られるし。

 いつからこんなにTV嫌いになっちゃったのかねえ。いい番組だって、作られているんだろうにねえ。次第に魅力を感じなくなってきたよ。

 まあそれはさておき、五輪に限らず、こういった大きなイベントを開催した後は、きっと大変だろうね。昔から「祭りの後」というものは、物悲しいかったり、うら寂しかったりするものだけど、特に大金をつぎ込んだイベントでは、経済的な問題を、どのように解決するかって問題がございますよね。

 一般人が、同じ施設を使って、どんどん楽しめるのならば、後々でゆっくりと回収もできるのだろうけれど、ちょっと一般人では使いこなせないような施設では、後からの回収は不可能だし。使われなくなったら、施設は急速に劣化していくし。(動いている舟は美しいけど、動くのをやめた船は、急速に「幽霊船」化していきますからね)

 ちなみに明日の岡山では、西大寺というところで会陽の「裸祭り」がございます。雄雌二本の宝木を争奪するのがメインなんだけど、私はその前の、「新作花火の競演会」が好きだし、翌日の「後祭り」の方が、むしろ好きなんですね。(ちなみに裸の男たちがワッショイ、ワッショイやっている頃は、呑んでいる予定です。ごめんね…笑)

 こんな催しにすれば、「祭りの後の寂しさ」も、けっこう気が紛れると思うんだけど、あまりに厳しい寒さの中では、それも難しいかな? 冬季五輪は、だいたいが厳しい自然環境の中でやるからね。本来その競技をする人以外は、行かないような場所で行われるものだから。これで経済的な穴埋めを、後からやるってのは、そもそも難しいよね。

 これからもどんどん競技が進められていくんだろうけれど、日本選手の活躍を祈っております。海外の選手も、帰国途中に、ちょっくら日本にでも立ち寄って、ゆっくりと温泉で疲れをいやしていただけると、日本の経済には少しでもよい方に役立ちますかね(笑)。

 疲れた後には、ゆっくりと骨休みをするのが正解ですよ!

※ ということで、明日は『〇〇を語る会』でございます。よろしくお願いいたします。

2018年2月15日 (木)

エラそう? しんどそう?

 天気がよくないと、時間経過がわかりにくい。特に気合を入れてデスクワークに取り組んでいると、時計を見た瞬間、「えっ‼ もうこんな時刻?」となる」(実は今がそういう状態)

 昔、親父が「夜道に日は暮れぬ」と教えてくれたけれど、今の私には「確かに、夜道に日は暮れないけれど、夜が明ける」という、恐ろしい状態が待っている。昨年の夏なんか、完全に寝る頃には、空が白んできて、小鳥も囀り始めようとしていたからね。

 こうなったら目の前に時計でもぶら下げておこうかと思ったりするが(ちなみに私は、「腕時計しない派」である。旅行の時は不便だけど、スマホがあるじゃないか!てな具合)、それはそれで、邪魔になるし、きっと目立つだろうなあ(笑)。

 時間を守らなければならない時でも、「だいたい合ってればいいじゃないか」という感じで、その分、早めに準備することが多い。早めに準備するってのは、特に人を待たせちゃいけないと思ってのことなので、自分に関しては、けっこう緩い。遅くなれば、睡眠時間を減らせばいいんだからね(笑…これは若い頃から変わらないねえ)。

 さて世の中、隣国の五輪で、北の「特使」さんの態度が高慢だったとかなんとか、喧しい。私は「国内でそういう立場にいるんでしょ? 仕方ねえじゃん!」、「海外へも、そんなに頻繁に出歩いた経験もないだろうから、まあ仕方ねえじゃん‼」てなもんで、あまり気になんかしておりません。

 まあ儒教(かなり変わった儒教だとは思うけど…笑)の影響が強い国では、「エライ人」は「偉そうにしていなきゃならない」ってのが不文律(成文律?)なので、儒教を頭ごなしに信じて、立派な教えだと信じて疑わない人は、相手がえらそうにしていたら、遜ってればいいんじゃないかな(笑)。

 もちろん人の肚の中は見えません。これはたとえ切り裂いても、見えないものは見えないわけで、腹の中で何を考えるかは、完全に「個人の自由」ですけどね。(笑)

 翻って我が国も、皇室の婚姻問題があれこれ言われているようだけど、私は知らん顔である。エライ人のこういった問題は、下々の者があれこれクチを差し挟むことではございません(って、モロ儒教の影響を受けてるじゃないか…爆笑!)。まあ、「知らん顔」をしていること自体、興味を持って見てることなのかも知れないけどね(笑)。

 ここは日本なので、大陸とは違うと思うけれど、古代中国の歴史をひもとくと、興味深い事実が浮かび上がってきます。というのは、主君の家の跡継ぎ問題に口をはさんだ臣下は、みんな終わりを全うしていないということです。

 多くは「臣下の分際で」、主家の跡継ぎに口を挟むってことは、「外戚になろうという野心=権力を握りたいって欲望」を持っているからなんだろうけれど。これは主家から見れば、あまり気持ちのいい話ではありませんよね。ましてやそれが有力な家臣であればあるほど、「乗っ取ら」れる危険性があるわけですから。

 でまあ、韓非やらなんやらは、こういうケースには気をつけなさいよ!なんて『韓非子』の中で触れておりますな。

 何事でも「慎重」になることは、多くの場合で大切なのではないかと思います。確かに「勢い」でやってしまうこともあるけれど、それはよほどいい流れが来ている時、あるいは切羽詰まった時でもなければ、ねえ!

 ま、熟慮断行でございましょうな。「断而敢行、鬼神避之」なんてことを趙高さんも言っておりますが、「断而敢行」だけじゃあ、終りを全うできませんからなあ。その証拠に、趙高さんも、子嬰とその息子に暗殺されておりますからな(このあたりを裏読みしていくと、非常に面白い物語が進行していた可能性が見えてきますが、またそれは日と、場所を改めて。なにしろ話すと長くなります。酒に酔えばぺらぺらと喋るけど…笑)。

 まあ気温は高かったけど、天気が悪かったので、あまり暖かいとは思えない一日でした。花粉の方は、私の身体は、きっちり反応しはじめましたよ。

 くしゃみ1回≒風邪ひいたかな。おかしいな、アホは風邪ひかないはずなんだけどな。

 くしゃみ2回≒誰か、俺の悪口を言ってるな!

 くしゃみ3回≒〇ル3錠!

 はい、そういうことで、今月の『〇〇を語る会』は、2月17日(第三土曜日)です。よく考えてみたら、明後日だったりして。よろしくお願いいたします!

2018年2月14日 (水)

愛想いい猫

 昼は暖かだったですね! このまま暖かくなってほしいものですが、やっぱりくしゃみが出始めました。鼻もちょっと弛んだみたいです。これからティッシュペーパーの消費量が増えるシーズンで、かなり憂鬱ではありますね。

 一年の過ごしていくうえでの通過儀礼が多すぎて、すでにかなり面倒になってきております。暑さ寒さだけでも、すでに十分手一杯なのに。ま、花粉の量が多くないことを祈りますか(溜息)。

 道を歩いてて猫がいたので、「にゃあ」と言ってあげたら、「にゃあ」と返してくれた。こういう返事を返してくれる猫と、「あほか、おまえは」なんて無視する猫だいるが、あれはいったいどういうわけだろうか。

 人間でも、愛想のいい人と、無愛想な人がいるけど、同じようなものだろうか。愛想がよくて損することは少ないと思うけれど、これは性格の問題なんだろうかねえ。ということで、今朝、例によって野鳥が来ていたので、ちょっと鳥の鳴き声をしたんだよね。

 鳥ったって、種類によって声は異なるわけで、だいたいこの子はこんな鳴き声ではなかったかなと想像して出すんだけど、今日はやらかしてしまいました。昨日来てたのと似ていたので、昨日の鳥の声を真似したら(昨日の野鳥は、鳴き声を真似してやると、必死できょろきょろして、さえずり返してくれましたけどね)、今日のはどうも違ったみたい。

 で全然違う声でさえずった。「あたしゃ、そんな鳥じゃありませんよ」って。いやあ、逆光なので、模様がよく見えなかった。でもしっかりと、庭木の枝に突き刺したミカンは食べていたようだ。声には関係なく、食べるものは食べますね。生きるためだから、仕方がないけど。

 私が不在の時にも、かなり来ているようで、昨日多めに出しておいたエサは、もうほとんどなかった。これで何羽かの鳥が、無事に冬を越せるのなら、望外の幸せだ。ミカンは私の食べることができるけど、他のものは、私には利用価値のないものばかりだから。

 最近、ノラの姿が見えないから、それで小鳥がのんびりとやってきてるんだろうな、と思ったら、どこかで猫の声。どうやら猫の季節になっていたようで、それどころじゃなかったんだろうね。きっと出張してるんだ。出張手当は出ないだろうけど。

 こうして春が近づいているんだなあと思うんだけれど、猫の季節の猫は、普通「それどころじゃない」って雰囲気で、こちらが「にゃあ」と言っても、無視されることが多いんだけどね。最初の猫は、どうして返事をしてくれたんだろうか。

 もしかして私みたいな、自分の季節もよくわからないような、のんびりさんだったのかなあ。

 のんびりしてても季節は勝手に過ぎてゆく。気がついたら、自分だけが置いてけぼりを食らっているような気がするんだけど。

 とはいうものの、明日は旧暦の大晦日。明後日は旧正月でございますよ。旧正月がくれば、ホンモノの新春って感じだね。こうして今年もまた、一年が過ぎていくんだろうねえ……

※ 今月の『〇〇を語る会』は、2月17日(第三土曜日)です。よろしくお願いいたします。

2018年2月13日 (火)

不老長寿の研究???

 ようやく、久々の魚の水替えが終わった。ヒーターが入っている水槽しかしなかったけどね(笑)。

 こう寒い(というか、水を使っていると、冷たい→痛い→わけわからん、となる)と、水替えだけで体調を崩しかねないので(私の経験では、風邪気味の時は、水替えしない方がよいみたいです)、見ていて水槽の汚れに我慢できなくて、精神衛生上よくない場合か、魚の具合が悪くなりそうな気配でも見えない限り、「明日ね、明日はやるから」と、魚が文句を言わないのをいいことに、一日伸ばしにしてしまう。

 まあそれでも、水替えが終わって落ち着くと、やっぱりきれいだねえ(あくまで人間の側の感想ですが、魚の具合も悪くなさそうなので、一安心…ちなみに魚の調子がわからない人だったら、一番わかりやすいのはエラブタの動きでございます。ここがいつもよりもせわしなく動いていたら、人間でいうと「ハアハア」いっている状態。これが長続きすると、次の日にはエラブタが全く動かなくなっている…つまり死んでいる…ことがあります。慣れたら動き一つで、だいたいの体調がわかるようになりますけどね)。

 どの子も野生で暮らしている子の寿命の、数倍から10倍くらいは生きているかなあ。魚は成長抑制中枢がないとか、何かで読んだ気がするんだけど、野生の同種と比べると、3倍くらいはあるかな(人によっては、「可愛くない」との感想を言う人もいるが、私にとっては、楽しい時も、辛い時も、いつもそばにいてくれた連中なので、全部可愛い)。

 庭を見れば、特にこの時期は、いろんな鳥が訪問してくれる。今日もKさんが来てくれた時、ちょうどいつもの連中が来ていたらしい。こちらも生活していれば、食べ残し(残したわけではなく、人間は普通食べない部分)が出たりするので、ほんのおすそ分けである。

 これから渡り鳥の渡りのシーズンになると、いろんなのが来る(どんな子が来ているのか、私もすべては知らない。カメラでも設置してチェックしてみたい気もするけど、金と暇ができてからのことにしよう)。ただ飼育しているわけではないので、同じ種類の鳥がいても、昨年と同じ子かどうかはわからない。

 昨年作った、鳥の餌台も、今は大活躍である(カラスにめちゃされていて、しばらく遺棄も同然になっていたのだが、最近また復活いたしました)。置いたエサは必ずなくなっているからね。そして糞が残されている(他所でやれ!)。

 馴染みさんの中には、こちらがエサを出すのが遅いと、煩い奴がいたりする。ただ飼育しているわけではないので…… 知ったことかい。俺には俺の都合があるんじゃいっ!と知らん顔を決め込むのだが、やはり気になって、しばらくするとエサを置きに行ったりする。

 おかげさんで、最近、あまり逃げなくなったなあ。もちろん捕まえる気もなければ、頭をなでてやろうとも思わない。野生とのお付き合いは、「付かず離れず」、適度な距離感を保つのが一番だ。

 ただこちらの不要なものを使って、彼らが生き延びる助けになるのなら、それで十分ではなかろうか。しょうもない人間?の一種のように、援助してもらうのが当たり前、なんて子はいないし(催促してるみたいなやつはいるけど、もらえなかったからと言って、こちらに嫌がらせなんかしてこないし)。ただフンさえなければ、もっといいのだが…… 何度も言うけど。

 とはいうものの、先日のまとまった雨以来、夜から朝にかけては氷が張るけれど、昼になると融けるを繰り返すようになりました。まだまだ寒いけれど、少しは春が近いのかな。年中春なのは、ヒーターが効いた水槽の中の生き物(魚だけではありません)だけかもしれない(今日、水替えしていて、つくずくそう思った)。

 野生ではほんの2年ほどで死んでしまう生き物が、ここでは10年以上生きているのが当たり前という状態で、人間が管理して、好適な環境にすれば、生き物はどれほど寿命が延びるかという例を見ているような気がいたします。

 確かに「温室育ち」で、もう絶対に野生には戻れないと思うけれど、純粋に長寿に挑戦するという観点からみれば、こういうのもアリかなと思うね。ペット版、不老長寿の研究、なんちゃって!(昔、巨大グッピー製作に挑戦したことがあって、出来上がったものをショップのK店長に見せたら、「大きすぎて、可愛くない!」の一言で却下されたことがある私だけに、自分のやっていることに、若干自信がございませんが…笑)

※ 今月の『〇〇を語る会』は、2月17日(第三土曜日)です。よろしくお願いいたします。

2018年2月12日 (月)

無効?五輪

 気分が悪くなると、自分自身の仕事のはかどり方に悪影響が出るので、今回の五輪(TV)観戦は、しないように努めているのだが(本ブログでも、「公平、公正に」行われることを望むと言ってたわけだが、わざわざこんなことを言うこと自体、「公平性、公正性」が期待できないと思っていたからだ)、予想に違わず、かなりな惨劇が繰り広げられているようである。

 どんな形であれ、観戦を一切しないというのは、日本代表選手の方々には、まことにすまない気持ちでいっぱいだが、何しろ自分のやらなければならないことにマイナスの影響が出るのはわかっていたから、勘弁していただきたい。

 冬季には採点種目が多いので、日本の不利にするのが好きな場所では(必ずしも当地のファンがというのではありませんよ。当地にだって純粋に競技を愛している人は、いるかもしれないし)、日本選手にはかなり厳しい戦いになるであろうとは、十二分に予測できたことだ。だからごめんなさいね、見ないことに決めてた。見たら腹立つから。

 肚が立つのもまあ悪いことではないのだが(感情が動くので。感情が動かなくなったら、精神的に死んでいる…笑)、その後、自分がしなきゃならないことができなくなるのは、困る。私のしなきゃならないことは、他の人にやってもらうわけにはいかないからだ。人はそれぞれが背負わなければならない荷物があり、これから逃げていたのでは、自分の人生を放棄しなければならなくなる。

 ということで、意味不明な現象が日本選手団の上に起こるのは、ある程度は覚悟していた(後で知っても、腹はたつけど)。しかしながら、競技によっては、どこの選手もみんな苦戦している競技もあるようである。

 いうまでもなく五輪は、4年に一度の、世界最高峰の競技会のはずである。そこで目にするものは、世界最高峰のパフォーマンスであってもらいたいし、出場する選手にしても、目指すところはそうだろう。

 ところが試合場の環境や条件で、最高のものを表現できなかったとしたら、これは「なにしに4年間頑張ってきたんだろう?」って思うんじゃないだろうか。もちろん勝負事には「運」はつきものだ。しかしながら最高のものを目指して失敗して敗れたのと、難易度を落として敗れたのとでは、まったく意味が異なってくる。

 一部の選手からは「競技中止でしょ」と言われるほどの悪条件の中で、競技を強行したりしているようである。競技日程さえこなせば、それでいいのか? それで五輪を招致した意味はあるのか?(「やっつけ五輪」だ!) 選手のことを考えたことはあるのか? それを見た人間が、どう感じるかを考えたことはあるのか?

 政治的な妄想は追及できても、競技スポーツの何たるかは、さっぱりご理解されていないようである。上の方は、競技のことなど、知ったことかいって感じなんだろうね。顔にそう書いてあるよ。

 ということで、こんな五輪は無効試合と見做し、日を改めて、ちゃんとした環境で競技できる場所でやり直されてはいかがかと思う。ノロウィルスもうじゃうじゃいるようだし、いろいろとインフラ面での問題もあるようだし、かねてより鳥インフルエンザ流行など、悪評は高い。私個人の意見では、今回の五輪は即刻中止、再試合とした方がよくはないか、と思う。

 IOCのおっさんも、したり顔で、わけのわからない気の利いたことを言おうとする暇があったら、こういう方向で真剣に考えていただきたい。

 ただし一つ大きな問題がある。それはすでに大けがをしてしまった選手である。一流アスリートにとって大けがというのは、現役復帰に要する時間はなかりかかる場合もある(再起不能の危険だってある)。こういう人に、どういった保証ができるかだ。アスリートの中には、人生のすべてをかけて競技してる人だっているんだからね。

 とにかく私的には、今回の五輪での政治ショーは、もう終わったはずなので(望んでいた人がいたでしょう!)、すでに目的は達成したはずだ。この上は、これ以上不正とか事故、けが人を出す前に、即刻中止とし、やり直すことを提案したい気分ですな!

 まあ、過去をみれば、サッカーしかり、F1しかり、アジア大会しかり、いくらでも見えてくるはずだ。あえてこういうところを開催地に選んでしまった人々にも問題はあろうが、最も急を要するのは、選手の安全である。明日にでも「無効五輪」宣言を出し、中止とした方がいいんじゃないのかね?そうすれば観客動員やら何やらで、苦労する人も減るし、劣悪な環境で業務に従事させられているボランティアの人たちも、幾分かは救われるように思うのだが。

 と、残りもまだたくさんあるのに、(TV)観戦すらしない私が、すでに激怒ってます!

※今月の『〇〇を語る会』は、2月17日(第三土曜日)です。よろしくお願いいたします。

2018年2月11日 (日)

春よ、来い

 天気は回復しましたが、風が冷たい! このままだと、春はやってくるのか? などと若干不安にかられてしまいます。しかしながら、雑草も今は元気がないので、知らない間にどえらく蔓延ってしまった植物を除去しておいてやろうと引っ張っていたら、手が切れちゃいました。

 冷たくて感覚がなくて、気づかなかったんだよね。「あ、赤い。血だ」ってわけで、見たらけっこう切れていた。子供の頃にはよくあったことですね。夢中で遊んでいて気がつかず、夜お風呂に入っていて痛いので、見てみたら切れていた、なんてことが。

 人間、何かに夢中になっていると、気がつかないで通り過ぎてしまうことが少なくないようです。案外、病気なんかもそうかも知れません。生命にかかわるような重病だと、そんなに呑気なことは言ってられませんけどね。

「ちょっとだるいなあ」くらいで、早めに休むとかしていたら、知らないうちに治ってたってケース、わりとありますよね。逆にお医者さんに言って、病名を告げられた瞬間から、立派な病人になって、急に苦しくなったりして。

 特に今の季節、どうしてもお医者さんにかからなくてはならないような症状以外だったら、私は病院には行きません。だって病院って、病気の人が行くところでしょ? 今だったら怖いのはインフルエンザ。逆にもらって帰ることだってなくはないんだよね。

 なので私は、たっぷりと休息をとって、適度に栄養補給をして、適度な運動をするのに重点を置いております。もちろん運動量は、夏に比べたら格段に少ないです。疲れすぎが怖いから。ちょっと汗ばむ程度を目安にしていますね(汗かきすぎると、ソッコーで着替えております)。人ごみは極力避ける(中でも一番避けているのが、病院の待合室…笑。例外で、全然避けていないのが呑み屋さん。アルコール消毒ってか)。

 基本、身体を暖かくしていますが、最低でも1日に1度以上(今日は4回やりました)は、自発的に体温が上がるようにします。あとは服を着こむ、お風呂にゆっくりと入る(シャワーではちょっと不足かな)、熱燗を飲む、寝るときは暖かくする(熟睡できますもん。これって体力回復に一番重要なんじゃないかな)などなど。

 まあ生活の習慣になっているので、本人的には大して意識はしてないんだけどね。ま、特に変わっているところと言えば、病院を忌み嫌っていることくらいかな(笑)。

 ということで、昨日の雨の威力はさすがで、庭の水溜りの分厚い氷が、ほとんど融けておりました(夕方からやたらと寒くなったので、明日の朝にはまた凍っているかと思いますが)。こうなるとお山では、そろそろサンショウウオなんかが産卵を始めるんだよね。

 感心するのは、まだたっぷり雪が残っているこの時期に、エサもろくにないだろうに、大変に体力を消耗するはずの産卵行動をやらかしてしまうんですよね。両生類がこの地球上に出現した頃は、今よりは暖かくなかったのかなあ(そんなことはないと思いますが)。

 で孵化して、丸くないオタマジャクシになって、鰓が首の周りで一番はっきりした頃、気温が急激に上昇しはじめると、2~3日で鰓が消えて上陸するんだよね(この時上陸させないと、溺死します。不思議だね~)。おそらく水中の溶存酸素量が減るからではないかと、私は推測しておりますが(私の家で飼育した感じでは6月末から7月上旬くらい)。

 でそのまま陸上生活が主体になれば、サンショウウオの仲間。再び水中生活主体に戻っていけばイモリという感じなんだけど、頭が悪い生き物らしく、いくら一所懸命飼育しても、ちっとも馴れませんけどね(笑)。ただただ本能だけで生きているみたい。

 しかしながら2月の寒い時期に産卵するとは、かなり面白い生態だと思います。孵化にはある程度の温度が必要なはず(ちなみに我が家での飼育では、3月末の暖かい日に、どんどんあの寒天のようなものから出てきました。ただ私の感想では、暖かいところで急いで孵化させるよりは、じっくりと気温が上がるのを待って、それから孵化させた方がよいのではないかと思います。孵化が早かった個体が、上陸するのが早いかというと、そんなことはありません。餌食いがよく、大きく立派になったやつが、先に孵化した個体を追い抜き、先に上陸するのを、いくつも見ました…私は生きたミジンコを与えます)だと思うのですが、彼らには彼らなりの理由があるのでしょう。

 ついつい卵の孵化というと、孵卵器のイメージがあって、温めないといけないような先入観を持つのですが、「自然に」気温があがるに任せた方がいいのかも。

 とはいうものの、今年はヒキガエルの大量導入(100~200程度?)を計画しておりました(今思いだした)。毎年だいたい同じ場所で、だいたい同じ時期に孵化するので(卵塊ごと持って帰ってもいいんだけど、何千匹もは不要だし)、今年も参ります。

 昨年は山から(岡山ではヒキガエルは軒下ではなく、山にいます。不思議だね)連れ帰ったオタマジャクシ(孵化直後)で、輸送中に亡くなった2匹以外は、すべてカエルになりました(私が中国に遊びに?行っている間に、すべて上陸を完了しておりました)。しばらくはいてくれたのですが、(たぶん)台風かなにかの日に、「さよなら」も言わないで出て行っちゃいましたので、今は消息不明です。

 ヒキガエルの子供はとても小さいので、我が家の庭で生き残るには、かなりの障害があるのではないかと思います(小鳥はいるし、ヘビはいるし、猫も遊びに来るし…)。そこで今年から数年計画で、かなりの大きさに成長するまで、面倒をみてやろうではないかと思い立ったのです。

 カエルはまあまあ、両生類としては賢いのですが、ヒキガエルは非常に原始的なカエルなので(きっと)アンポンタンなんではないかと思います。けれどもきっちり飼育してみないと、どのくらいのアンポンタンかわかりません。(ちなみに賢さで言えば、きわめて大雑把ですがディスカス>ダトニオ>コイ>フナ>アロワナ≧タナゴ>メダカ>イモリみたいな順番かと思いますが…もちろんこれら以外にもたくさんの飼育いたしました。ナマズ系統は賢いものが多いのですが、中にはアンポンタンもいます。特に小型のものは。だからどこに入れていいかわかりません。今のところカエルはタナゴあたりかなあという感じなのですが、ヒキガエルはもっと下位になるのではないかと予想しています…笑 脊椎動物としての進化と、知能面での進化が、必ずしも一致しないのが面白いところです)

 はやく暖かくならないものか。今年もあれこれと忙しいんだが…… なんて戯けたことを考えております。

※今月の『〇〇を語る会』は2月17日(第三土曜日)です。よろしくお願いいたします。

2018年2月10日 (土)

小細工

 久々に「まとまった雨(雪でなくて)」だった。お蔭で今日はぐっすりと眠れました(暗かったので)。人面鳥は夢には出てこなかった(なかなか面白い夢をみたような気がするのだが、忘れてしまいました。夢は瞼を開いた瞬間、忘れてしまうような気がいたします…笑)。

 まあその国、その地方、その民族で、いろんなものがあるわけで、私の場合にはそういったものに関しては、比較的寛容だ(と自分では思っている)。こちらの迷惑にならない限り、否定的な見解は持っていないし、気に食わなければ、できるだけこちらで避けて通る(典型的な日本人の反応ですね?)。

 まあ人それぞれ、言いたいことは違っているのは、人の容姿が千差万別であるのと同じようなものではないかと思っているので、こちらの迷惑とか不利益にならない限り、「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」という、岡山県のかなり年輩の常套句をそのまま受け継いでいる。

「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」とは、標準語では「そうですか、そうですか。それは、それは」という言葉になるわけで、別に肯定もしていなければ、否定もしていない。もちろん賛同もしていなければ、反対もしていない、非常に便利な言い回しである。昔の人は、言葉がたくみだった?(笑)

「YES」と「NO」をはっきりとしか答えられないのは、私に言わせれば二元論でしかなく、白と黒、陰と陽、光と闇、善と悪しかない、考えようによっては「貧しい価値観」の証だと思っていたりするので、取りあえずは「ぼかした返事」でつないでおくといった、日本古来の表現の巧みさに感心させられることが多い。

 世の中、白と黒だけなら、なんと色彩的に貧しい風景しか広がらないだろうか。善と悪だけだったら、全体としてみればあの人は悪人だけど、優しいところもあった、なんて人間の評価は正しくできない。たとえばジャンヌ・ダルクとともに戦ったジル・ド・レェなんて人は、まったく評価できなくなってしまう。吸血鬼ドラキュラのモデルになったと言われる、ヴラド・ツェぺシュなんてのも、残忍な面ばかりが強調されているけど、領民には優しかったそうだし。織田信長だってそうだし、武田信玄だってにたようなところは山盛りあるし。(要するに、人間っていろんな面の持った生き物で、置かれた立場や能力によって、その人のいろんな面が出てくるってわけじゃないかな)

 ということで、色は様々にあるから美しいのであって、その美しさを画一的な基準で評価するなんてことは、超難しいというよりも、不可能なんではないかと思ったりしているんですね。ある時は善人、ある時は悪人。ある地方では英雄、別のある地方では悪魔のように言われる人間がいてもいいし、実際にそうなのが現実ではないかと思うんだよね。

 もちろん私も人間だから、自分の利益を守るためには戦うわけで、そうなると「何かにとっては善で、別の何かにとっては悪」だなんぞと悠長なことは言いません。戦う時は全力で相手を打倒しにかかります(キッパリ)。

 ただここで、やってはいけないと思っていることがいくつかあって、中でも重要なのは「小細工」ですね。先日から、例によって「小細工をするのではなかろうか」と思っていたら、やっぱりやってくれた御仁がおられたみたいです。

 昨日の我が国の総理の、記者会見を見て、一度として笑みが漏れなかったので、「やっぱり!」としか思いませんでしたね。きっと腹を割って話せば、それなりに聞いてくれる人だとは思うんだけどなあ(個人的にお付き合いがないので、存じ上げませんが)。

 対するは、某大国の大統領にでも「小細工」をしかけるような人だから、絶対にやると思ってたんだよね(TVなんかでは、まともに報道しないから、私はTVを見ませんが)。「小細工」する側は、「してやったり」のつもりかも知れないけれど、やられた側にも感情があるってことはご存じないのかな?

「小細工」が、最終的にすべて自分にブーメランするのは、きっとご存じないんだろうね。とはいうものの、「小細工」のすべてを私は否定するわけではないよ。多くの人や、周囲を幸せにするための小細工なら、むしろ歓迎する方だ。

 『鬼谷子』にも小細工の方法は山盛り書かれているけれど、「良い話で交渉を始めると、物事は良い方向に進んでいく。悪い話で交渉を始めると、物事は悪い方向に進んでいく」なんて意味のことが書いてあって(詳しく知りたければ、『〇〇を語る会』にでもどーぞ。すべてのことがらには、裏と表があって、必要によって使い分ける智慧が必要だと、私は解釈している)、要するにどんな方法でも、その方法を使う人の「人間性」が大切だ、なんて言いかねない勢いで書いてある。方法そのものには「善」も「悪」もないからね。すべてはそれを用いる人が決めることだ。

 ということはその「小細工」の使いようで、それをやった人の性格や人間性、知能レベルなどが読めるということだ(私なんかはこういう分析が好きだ。もちろん「好き」と「上手」は必ずしも一致しないけど)。だからあまり「小細工」に凝りすぎるよりは、できるだけ正面から相手に接触した方がよいのではないかと思っている(必要に応じて、「備え」もありかな?)。

 ただし「小細工」を用いる時には留意しておかなければならないポイントがある。それは「戦術的失敗は戦略で補うことができるが、戦略上の失敗は、戦術では補えない」ということだ。

 ざっくりと、戦略とは究極の「目的」のことで、戦術とはそれを達成していくための通過点となる「目標」を達成するための方法とでも解釈しておけばいいだろうか。だから目的が狂わなければ、局所的な失敗があっても、やり方を変えるとかなんとかでやりくりすることはできるけれど、目的が出鱈目だったら、どれほど局所的な達成(あるいは勝利)を得ても、最終的には失敗に終わるということだ。

 ましてや「小細工」すなわち「策」を多用し過ぎると、「あいつは策士だ」と思われる。相手が策士だとわかれば、その策に乗りたくなければ「相手にしない」だけでいい(私はよくこの手を使いますが…笑)。さらに策をかける時には、実は策を仕掛けた側も、策に嵌められやすくなっているんだよね。

 さらにはよほど緻密に計算しておかないと、策士は自らがしかけた策に自分がハマるという、策のブーメランが発生することだってあるんだよね。世に言う「策士、策にはまる」の一つのパターンだけど。

 私的には、「小細工」に凝りまくって、あれこれ策を練る暇があったら、もっと大筋をきちんと整理して、本来の目的が何かをちゃんと理解し、それを達成するように努力すべきだと思うんだがね。まあ「脳みそが固まっちゃう」と、何もかも見えなくなったり、見たものの姿が視覚中枢から、物事の判断をする領域に伝えられるまでに、自分の都合で変形されるのかも知れないんだけど(笑)。

※ ということで、今月の『〇〇を語る会』は、一応2月17日(第三土曜日)の予定にしております。よろしくお願いいたします。

2018年2月 9日 (金)

グレる?

 どうやら、鳩の丸焼きはなかったようで……

 出場する人にとっては感動的な開会式も、関係ない人間にはただの退屈な行事でしかないというのが、案外本音なんじゃないだろうか。もちろん多くの人が、(もしかしたら)長い時間をかけて考え、大変なお金と労力を使って準備したことなのかも知れないが、まあ関係のない人間にとっては「そんなの関係ねえっ!」と、だいぶ前に流行したアレでお終いである。

 どんなものでも、どんな人が、どんな立場で、どんな角度で見るかによって、様々な評価ができるわけだから、わたしの個人的な感想は、ほんのちょこっとだけにしときますね。

 これから寒い寒い寒い寒い…… 会場で、熱い競技が繰り広げられるといいね!公平、公正の大原則に則って。競技よりも政治色の方が強調されているような印象しかないので、いっそのこと大統領やらなんやらが競技すればいいのに、なんて思ってしまいましたが、これは「競技」に対する失礼にあたるかと思うので、やめておきませう(笑)。

 どうしても最初は、「国の起源」みたいなことを盛り込みたいんだね。根本的にそれは、間違ってはいないと思うけれど、青龍、白虎、朱雀、玄武って、確か中国原産であったように思うんだけどね。もう一つ、下でくるくる回っていた太極のマーク。あれも中国のものだったような気がいたしますな。無極・太極・四象・八卦ってえのは、中国ではもう民間の骨の髄まで染み込んでんじゃないかと思うくらい常識だもんねえ。

 ま、それも大した問題ではございません。洞窟でクマが、ってえのは、学生時代に神話を読んでたんで知っていたけど、クマのはずが、いつの間にかと虎に変わっている、ってえのは、もしかしてクマさんが知ったら、グレるんじゃないかと思ったりするけど、ヘンゼルとグレーテルじゃないから(意味不明)気にしないことにしよう。

 肝心なことは、選手の皆さんが、それぞれベストの体調で、ベストのパフォーマンスをし、それてを公正、公平にジャッジしてあげることだからだ。それでこそスポーツの祭典という、もんもだろう。先ほども言ったように、「政治の祭典」ならば、政治家が競技会やってればいいんだから。

ということで、自分に関係ないことはこのくらい」にしておいて、今年はもう花粉が飛んでいるんだそうな。そういえば何だか鼻水が…と思ってたんだよね。こんなに寒いのだから、今年は杉の花粉は遅いんだろうな~、なんて油断してた私が悪かった。今日、念のために耳鼻科へ行ってきたら(昨年よりも1週間遅い)、先生に「この冬は、年末から飛んでるよ」と言われてたまげた。

 あまりに寒すぎて、杉もグレちゃったのかなあ。「なんで寒いんじゃ!? こんちくしょう。ならどんなに寒くても、花粉飛ばしちゃる! 受粉の何の、わしの知ったことじゃないわいっ!」てな具合に。

 人間、ある程度までの逆境とか不運には耐えますが、限度を超えると、ブチ切れます。生物界でも同じようなことが起こるんですね、きっと。そうそう、そういえば、いかにも気弱そうなペットでも、ある程度以上イジメられたら、牙を剥くんだって聞いたことがありますが(我が家ではないぞ!)、そんな感じかもしれません。

 もちろんこの「ブチ切れる臨界点」は、人間ならば個人個人で大きな違いがありますし、動物でもそうですね。でもある程度を超えたら、ブチ切れることは間違いありません。自分はすぐに臨界点に達してしまう人に限って、他人には無限の寛大さを求めてしまうような傾向もなくはないですが、そんな虫のいい話は、この世にはございません。世の中、それ相応の準備と覚悟をもって生きていないとね。

 とはいうものの、今日はまだ少しは過ごしやすかったような気がいたします。で、明日には天気が崩れて、その後はまた冷えるんだって? 冬来たりなば、春永遠に来ずってか?寒さに耐えて草木は新芽をふく、なんてことを言いますが、寒さに負けて枯れていく草木もないわけではないので、これまた口先で無責任な元気づけばかりを言う大人は、私は嫌いです。

 元気づけるなら、「具体的な元気が出るようになる方法を指し示せ」と言いたいですね。『パンドラの箱』の最後には「希望」が入っていた」というけれど、「希望(本ブログでは何度も言いますが『望み希し』と読むと言っている通り)」、妙に希望があったばかりに、もっとよい状況になれる決断を誤まったヒトなんて、ごまんといるんだから。

 なんたって人は、窮地に陥れば陥るほど、しょうもない希望が、素晴らしく見えてくる生き物なんだから。

 ではお前には「希望ないのか?」と問われたら、私は希望もあるけど、自分の一日を衝き動かしているのは希望ではなくて、熱望、切望だ、と答えますね。私の場合には、きわめて漠然とはしていません。やりたいこともわかっているし、こうなりたいという目標もあります。それに向けて何をすべきかは、すべてではないけれどわかっています。それが計画通りできた日はゴキゲンで、できなかった日は大変にブルーになってしまいます。

 計画を立てていてすら、御機嫌な日もあれば、その何倍もブルーな日があったりするんだから、計画がなかったら、きっと滅茶滅茶な生活になっていくんでしょうね(恐ろしい)。おかげさんで、それなりに忙しく生きてけますけど(笑)。

2018年2月 8日 (木)

心配

 だいぶ日が長くなって参りました。昨日までの気が狂ったような寒さも、今日は少し弛んだみたいで、ちょっとだけ気分が楽になりましたが(気候は心身ともに、大きく影響する!)、心配なのは台湾の地震でございます。

 日本人は、東日本大震災の時の台湾の心を忘れてはいませんからね。(と同時に「祝」と書いた者どもをも忘れませんけど)困った時はお互い様です。助けるっても、できることしかできないけど、でも僅かでも力になれたら、と思います。

 歴史を見ても、どこかの自然災害に乗じて、そこを攻めるなんてクソヤローもいますが、だいたいそんなことをした国は長持ちしていません。天下を取ったと喜んでいても、妙に短期間で滅んでいます。おそらくは「精神が貧しい」から、民衆がギスギスしていて、自分さえよければ式になるんでしょうね。

 その点、上杉謙信ではありませんが、「敵に塩を送る」式の寛容の心を持っていると、その家は妙に長続きします(謙信には子はいませんでしたが)。敵は敵で、戦場では雄々しく戦うけれども、民衆の生活に関しては、ちゃんと苦境を理解し、救いの手を差し伸べるような美談が生まれる人格の持ち主(謙信が実際に塩を送ったのか、どういう意図を持って送ったのかは別にして、そういう「美談」が生まれるような人柄だったのでしょう)は、やはり好影響を周囲に与え、後世にも良い影響を残すのではないでしょうか。

 台湾の人々が、東日本大震災の時に、どのような援助の手を差し伸べてくれたかは、心ある日本人ならば、永遠に忘れないことだと思います。と同時に、助けなければならない状況になれば、日本は動くと思います(すくなくとも現政権は!)。

 東日本大震災の時の政権は今とは違いましたが、現政権の人たちは大勢、救援に動いていましたからね(私が知っている人も、知らない間に動いていました。状況がおちついてから、世間話をしていたら、教えてくれました…それを手柄顔しないで言うところが、またよかったんだけど)。動くのが驚くほど早くて、私なんかは感心しましたけどね!やっぱ、行動力あるなあって。

 ということで、自然災害に対しては、人々は力を合わせて助け合わないといけません。では「人災」は?というと、やはり力を合わせて立ち向かわなければならないと、私は思います。

 さらには状況がひと段落ついたら、責任をきっちりと追及すべきでしょうね。でないと、何度でも繰り返しますからね。自然災害は誰にも罪はないけれど、人災はそういうわけにはいきませんからね。

 自然災害だって、どうして被害が出たか、被害が大きくなったかって、原因究明するじゃないですか。だから次からは同じようなことが起こっても、被害を最小限度にとどめることが可能だったりするわけで、そこに「人間」としての値打ちがあると思います。

「人災」の場合には、原因はわりとはっきりしますよね。昔CMで「臭いニオイは元から断たなきゃダメっ!」てのがありましたが、「人災」の場合は自然災害と異なり、原因を取り除くことは、わりと容易です。人災を起こした人間、あるいは集団を取り除けばよいわけですから。

 もしもそれをやらなかったら、何度でも同じような「人災」が発生します。同じような「人災」が発生するところというのは、この「原因究明」と、「臭いニオイは元から断つ」努力をしなかったところですね。

 一度あることは二度ある、二度あることは三度ある、なんてえことを言いますが、こと「人災」に関しては、はっきりと言えます。「改善に対する努力がない」、「改善する意思がない」ってこと。

 こういうものと付き合うと、何度でも同じような迷惑をかけられます。今までのいきさつやらなんやらを言っていれば、キリがありません。すっぱりと縁を切る処置(適切でないといけませんが)を施した上、私ならば永遠にバイバイです(笑)。

 いつも本ブログでは言っていますが、「悪循環を断ち切るには、循環させなければよい。それには関係を切って、一切何もしないのが一番」ってことですね。

 とはいうものの、気になるのは台湾です。知り合いもいないではないので、やはり心配です。今すぐに動くわけにはいかないけれど、何かできることはないかと…… 良好な関係は、できることなら永遠に続けたいですからね!

2018年2月 7日 (水)

せめてご無事で……!

 夕方、永久結氷化した外の水溜りの氷を割って驚いた、10㎝はないが5㎝よりも薄くはない、絶対に。たぶんこの水溜りの中には、私が放り込んでいた魚たちがいるはずで(自然界と同じ条件で、というのが基本的な姿勢だったが、自然界なら魚は深場に潜れるけど、残念なことに我が家には、深場はない)どうなっていることやらと、遅まきながらの行動であった。

 いかんなあ… いかに魚が変温動物であると言っても、この状態ではいかん。氷が張ったのでは、酸素が供給されなくなるし。ここ二十年以上、こんなことはなかったので、つい油断していた。

 一応の学説では、地球が全球凍結した時には、地球自らの火山活動で、氷が融けたんだとか聞いたことがあるが、残念なことに我が家の庭では、そのような活動はない(あったら大ごとだ!)。今はただ、せめてご無事でと祈るばかりだ。

 ということで、朝、やってくる野鳥たちのために、ミカンを輪切りにして、庭木の枝に突き刺しておいてやったら、夕方見たら、皮まで食べられていた。こりゃあ、野山でもかなりの食料不足になってるっぽいよ。明日からミカンの量を倍増させておくことにする。

 野鳥たちは食べるだけ食べたら、「ありがとう」も言わないで飛び去っていく(ちなみにフンは残していきます…困ったもんじゃとは思いますが、鳥は空を飛ぶために、すべてのつくりを軽量化していますから、当然、お腹の中に食べたものをため込んで飛んだりはいたしません。「空飛ぶミルク呑み人形」みたいなものです)。それでも「困っているものを見かけたら、ついついできる範囲で手助けをしたくなってしまいます)。今日も私の財布のような鳥を見かけました。シジュウカラ(♀)、(私は財布を持ち歩く習慣がありませんが…笑…道理で空っぽのはずだ)なんて、ね。

 どんな野鳥が訪れているのか、私も一日中張り付いて見張っているわけにもいかないので、わかりません。そこで何種類かのエサを置いてはいるのですが、意外に「お菓子」系の人気は高くありませんね。一番人気は、やはり果物です。

 鳥は食べなかったお菓子は、次から買わないからね(鳥も食わないようなものを、ヒトが食べるわけにはいかないでしょう…笑)。鳥が危険を察知したり、美味しくないと判断したものは、感覚の鈍い人間の判断よりは正確ではないかと思っていますから。

 もっとも、いくら可愛くみえても、所詮は鳥は恐竜の近縁種。私はレプティリアンではないので(たぶんヒトだと、自分では思っております。しかもかなり不器用な…笑)、完全には鳥と食性が同じではございません。だいたいあんな落ち着かない食べ方はできないよ。

 鳥って、エサ食ってる時、ものすごく周囲をきょろきょろ見回すじゃない? 外敵から身を守るためなんだろうけど、あんなに落ち着かない食べ方なら、味も何も、わかんないんじゃないかと思うんだよね。エサはそこいらじゅうにはね散らかすし。

 さらにあの急激な首の運動を真似したら、首の筋を違えるのは間違いないところだ。フクロウなんて、エクソシスト(懐かしい! 現代っ子はもう知らないんだろうね)みたいに平気で首が回るもん(フクロウやミミズクがやれば可愛いけど、人間がやったら、エクソシストになります!)。

 やっぱり鳥にはなれませんね!(いくら中島みゆきさんの『この空を飛べたら』が名曲であったとしても…私は大好きですけどね… きっと人間は鳥から進化…退化?…したのではないと思います…笑)。

 とはいうものの、冬季五輪開幕まで、残すは数十時間となりました。日本選手の活躍をお祈りする前に、ご無事をお祈りしております。すでに想像した以上の問題が起こっているようなので(総理も、よい外交をされることを切望しております。もちろんご無事で)。まあそれにしても、これほど政治の話題が先走りする五輪は、初めてじゃないのかな。

 スポーツはスポーツで、楽しく真剣にやりたいものですね。政治なんか抜きで。それが理解出来なきゃ、スポーツなんかやってもしょうがないじゃん! ま、ここまで来たら、後は見てるしかないけどさ(ちなみに私はTVは見ませんよ…笑)。

2018年2月 6日 (火)

遊ぶと防衛体力は上がる?

 時間を稼いでいたので、多少余裕ができた時間で、今日は遊びました(笑)。でも、なんですね、遊ぶと「寒さに対する耐性」が上がりますね! 室内の温度計を見てびっくり! いつもならこの温度なら、とうに暖房を入れているはずなのに、今日は気が付きませんでしたよ。「遊ぶ」ことの効用は、意外なほどたくさんありそうです。(と言いつつ、今暖房のスウィッチを入れましたけど…笑)

 でこれからどうするかというと、次の「遊ぶ時間」が欲しくなりましたので、次の段階に進んで、もうちょっと頑張っておこうかと。こうして楽しく「遊ぶ」ために頑張り始めると、物事は好循環し始めるのかも…… 好循環なら、どんどん循環させた方がいいですからね!

 しかしながら本格的に遊ぶとなると、もう少し気温が上がって、風が穏やかになってくれないといけません(そうなればなったで、今度は「花粉」の問題がありますが。基本私は子供の頃から、外で遊ぶのが好きな子でしたから…中でも遊ぶけど… 花粉は強敵です。今週中には耳鼻科の先生のところへお邪魔しておこうと考えています…私が信頼する、数少ないお医者さんの一人です。先手必勝、後手必敗!)。

 先手、先手で動いていると、少々のミスがあっても「挽回する余裕」ができますからね。ギリギリに追いつめられると、ミスがあった時に、やり直す間がありません。ヒトはミスをする生き物ですから(特に私の場合にはこの傾向が強い…涙)、少しくらいのミスしてもよいだけの余裕は持っておきたいものです。

 だいたい先手をとれば「主導権を握れる」という、最大の利点があります。勝負事ならばもちろんですが、生活してても同じようなことが言えますね。先に先に動いていれば、自分で立てた計画通りに動いて、物事が進展していきます。人の後ろについていれば、真似をしていればそれでいいという気楽さはありますが、自分が真似をしている人がコケたら、自分もコケなきゃなりません。これって、けっこう惨めじゃないですかね?

 他人よりも先に動くには、自分でまず物事をよく観察し、起こり得る事態を想定し、いろいろと対策を考えていなければなりません(それでも、想定外のことは起こりますが)。この「対策を考えておく」という行為は、間違いなく思考力を向上させてくれます。想定したような事態が、実際に発生するしないに関係なく、ちゃんとしたイメージトレーニングになっているんですね。

 そしてこういう習慣は、どんな状況でも「先を見る」努力につながります。「聡明」という言葉がありますが、「明」とは本来、このように先を見通し、起こり得ることに対策を立てることができる眼力を呼ぶ言葉です(これに対して「聡」は、人の意見がよく聞けて、理解出来たり、その意見を言った人の本心を読み取ることができる能力のことです)。

 より多くの情報を客観的に判断し、将来(将に来る!)が予測できれば、これはもう「余裕」が生まれて当たり前ですね。なにしろ、間違いなく主導権を握れるのですから。

 近年、天気予報が正確になってきました。おかげで天気に関することでは、あらかじめ対策を立てておくことができるようになりました(もちろん、ある程度ですよ。100%ではありません)。これも我々の生活に、ある種の「余裕」を生んでくれているはずです。

 先を読む。いろんな情報を得る。こいつは大切です。それをどう使うかは、その人次第、自己責任という奴でしょうが。

 まあ、いくら先を読んでも、「寒い時は寒い」し、「暑い時は暑い」わけですが、それでも何の準備もしないのと、準備万端整えているのとでは、大きな違いが出ます。さあ9日には冬季オリンピックの開幕だ。どんなことになりますのやら(病は困りますよ!病は。選手は一所懸命準備してきたんだから、ここで体調でも崩したら、泣くに泣けませんからね! 頑張れ、ニッポン!)。

2018年2月 5日 (月)

遊ぶ

 立春も過ぎたというのに、この寒さである。完全に冬眠モードに入ってしまうような寒さだ。とは言っても岡山のこと、最低気温がせいぜい-2~-3℃程度だから、寒い地方にお住まいの方から見れば、「甘い、甘い」と笑われそうである。ただ私の経験上言えることは、寒い地方には、寒さに対する備えがあるものだが、中途半端に暖かい地方では、寒さに対する備えが不十分で、堪えるのは事実だ。

 ということで、今日は師父からいただいた、高山菊茶を飲みながら打っております。色合いが赤くて(紅茶のような、赤っぽい茶色ではなくて、赤でございます)きれいなので、無色透明のガラス製の蓋碗を使用しております(蓋碗から直接いただく飲み方。緑茶なんかでもやります)。さっき、ちょっとばかり火傷したけどね。

 この程度で寒いと言っているので、近々開かれる予定(あくまで予定?)の冬季五輪なんか、大丈夫なのかと心配しております。氷点下も二桁の気温になると、人類の生存に適しているとかどうとかという以前に、人類に悪意のある気温のように、私なんかは思ってしまいます。

 万一あちらに行かれる方がおられましたら、まず一番に「自分の生命」を大切にしてくださいね。眠ったら確実に死にます(?)。だいたいいろんなものが故障すると聞いたことがあるので、暖房器具の性能にも不安を感じていますが、暖房器具ってのはかなり電力を食いますから、電気の供給が大丈夫なのかなと。

 便利な機械なんぞ、機械が壊れたら、ただの邪魔ものでしかありませんからね。(中国に行って感じたことだけど、今はみな財布を持ち歩かない、現ナマを支払ったりしない。スマホですべてが完了、なんて便利だとみんな言ってましたが、私は大変に不安でしたね。だってシステムがストップしたら、その便利さは、一瞬で「究極の不便さ」に変身しますもん。お金だって、貨幣価値が変わればただの紙屑になる心配がないわけではありませんが、それでもまだ「現ナマを持っている」という安心感があるじゃないですか。一番安心できるのは、現物を持っていることなんだろうけど、こうなると経済が「物々交換」の時代に逆戻りしてしまいますから、不便かも知れませんけど)

 電気は導線で運搬できる便利なエネルギーには違いありませんが、逆に、導線が切れたらそれでアウトですし、巨大な電流が流れちゃわないように(発熱して危険だから)、安全弁がセットしてあるはずなんだけど、何万人もが極寒の中で、(きっと)フルパワーで使用すると思うので、電気を供給したり、安全弁が「こりゃあきまへん」と、開いてしまったら、電気は流れません。こいつは堪えるだろうなあと思います(間違いなく、開会式どころではなくなりますね)。

 現地の施設に頼るのはいいけれど、それだけをアテにしていたのでは、何か不測の事態が起こった時には対応できません。絶対に自衛できるような準備が必要だと、私は思いますね!極限状態になれば、人間、他人にかまってる余裕がなくなりますから。まして極寒、指をかじかめば、動きも鈍ります。普段の生活では何でもないようなことが、大変な難事に変わってしまいますからね。いくら気を付けても、気をつけすぎるってことはないでしょう。

 ここ数年で、いくつか事故の報道がありましたが、「安全」が、それほど重視されていないような気がいたします。一番よいのは「君子危うきに近寄らず」ですが、どうしても行かなければならない人もおられるでしょうから、絶対に自衛できるだけの準備が不可欠だと思いますよ。

 ということで、昨日頑張ったおかげで、今日はかなり「余裕のよっちゃん」でいる私でございます(おかげで眠いけど)。もうひと踏ん張りすれば、予定に「貯金」ができたりします。こうして作った時間で何をするのかと言えば、「遊ぶ」に決まってます! ヒトは遊ぶ生き物なのです。逆に言えば、「遊ばなければヒトではない」?(ホイジンガーが笑ってる?)

 遊びたいからあれこれやるのです。遊んでいると、自分の中にいろいろなものがあるのがわかるし。でそれで遊んでいるうちに、またまた新しい自分を発見したりできるし。「遊ぶ」という行為は、大脳が発達していないと、できない行為ですからね。

 ただ遊ぶにしても、現代ではお金が必要な遊びも多いので、私なんかはお金がかからないものがお似合いです(金ないし)。お金をかけないで遊ぶとなると、これはもう脳みそを使うしかありません。(ほら、これだけでも賢くなれそう?)

 脳は使えば使うほど鍛えられ、発達していきますから、遊べば遊ぶほど、発達していく(はずです)。もちろん、それが自分が生存競争に勝ち残るために使われるものかどうかはわかりませんよ。(たいていの人はそれを「無駄」と考えたりするようですが、私は「無駄なものなどない」と考える人ですから、生存競争に活用できる、できないに関係なく、価値があると考えています)

 そうそう、だいぶ以前のお話ですが、Kさんの店で、レッドテール・キャット(南米産のわりと大型になるナマズ。一時期TVCMで有名になった、背中が黒く、腹が白く、尻尾がレッドテールの名の通り赤くなる。1mくらいにはなるかな)が、水槽の中に入れていた植木鉢を、頭?鼻?口?で持ち上げて遊んでいて、とうとう割ってしまったことがありました。賢くない魚はこういった遊びはやりませんが、賢い奴はやるんですね! きっと賢いから「退屈」しちゃったんでしょうね ……賢くないのは「退屈」もしないのではないかと、私は想像しています…… 退屈するから、ものを見た時、それでいろいろやってみたくなるんでしょうね。やっているうちにものを壊すこともありますが、まったく悪気はありません。困るのは持ち主だけで…笑。

 ということで、遊ぶというのはいいことです。でもなあ、あまり寒すぎると「遊ぶ気」にもなれないんだけどね。

2018年2月 4日 (日)

 寒い時期には熱いものがなによりで、熱いお茶がご馳走だったりいたします。もちろん逆に、真夏には冷たいものが、何にも増してご馳走だったりするわけで、大昔なら暑いところに冷たいものを届けるのに、寒いところから冷たいものを、大急ぎで届けたりしてたんじゃないかな(それで走り回って手に入れていたから、「御馳走」なのかも…これが正解かどうか、一切責任は負いません)。

 とはいうものの、天気予報通り(予報よりは若干遅いような気がしたけど)、冷たいよ。身体の末端が凍ってしまうよ(ということで、今日は手袋をしてましたけどね。いやあ、薄い手袋一枚の有難味がよくわかりました…大感謝! 誰が手袋なんてものを考えたんだろうね~。いちいち指を入れないといけないんだけど、最初はただの筒状だったんじゃないかな。それからミトンみたくなって、そんで5本指が全部入るようになって… なんて進化をしたのではないかと思いますが、実際のところどうなのだろう? また暇があったら、手袋進化史でも調べてみますか…笑)

 手袋をすると、指先の微妙な感覚がなくなるので、普段はあまり好きな方ではないのだけれど、寒くてどうしようもない時には、致し方ございません。冷たくても、冷たい→痛い→何も感じないというふうになりますから(そして何も感じなくなった頃には、思うように動かなくなっていますね。昔、横山光輝さんの『闇の土鬼』という作品…マンガです…がございましたが、主人公は寒い雪山の中で、焼いて温めた石を懐に入れ、手を懐にいれて暖かくしていたため、思うように動けて敵を倒す、というシーンがありましたが、昔はそんな工夫をした人がいたのかも知れませんね。

 石をたき火の中に入れて暖かくして(時に熱くて「やけど」することも…笑)、ポケットに入れておくって時代があったように、かすかに記憶しております(この発展形が、今の、揉むと酸化熱で温まるという、使い捨てカイロだと、私は受け取っておりますが。酸化という化学反応による熱の発生を、ある程度の強さに制限して長持ちさせるのは、あれこれと工夫されたことでしょうが。石はいったん冷えると、冷たいわ、重いわで…たいてい投げ捨てられることになる?…あまりいいことはございませんからね)

「石焼き芋」なんてのも、石で焼いているのではなくて、たぶん保温の主な部分を、焼いた石の上で行うのではないでしょうか。焼くのなら、アルミホイルでくるんで、たき火(落ち葉でなく、不要な紙なんかの方が早く焼けます。落ち葉はよほどうまく乾いていないと、イモが焼けるのに時間がかかりますし、面倒くさいです。本来、こういうことが「面倒」ではなくて、格好の暇つぶしになっていた時代のものなんでしょうけどね)の中に放り込んでしまう方が、はるかに速く、均等に焼けますもん。

 それでも「たき火」を囲んで、しょうもない話をしながら、「もう焼けたか」、「もう焼けたか」と待っていた時代(私でも「微かな記憶」でしかございませんから、現代っ子は、知らないだろうなあ。焼き芋の味よりも、わくわくしながら焼けるのを待っていた感情は、きっちりと憶えています)は、きっともう二度と戻っては来ないんでしょうけどね。時代はもっと効率のよい時代になってしまいましたし、たき火なんかしたら煙は出るわ、面倒くさい名前のガスは出るわ、炭化した破片は空高く舞い上がるわ… 近所の人に叱られます。 …なんとなく、物悲しい…

 昔がすべてよかったわけではないし、「昔はよかった」とノスタルジーにばかり浸っている人を見ると、現代社会に不適応なんじゃないかと、若干心配になったりはしますが(ちなみに思想界ではわりとよく見かける現象)、人間はそれぞれの時代には、それぞれの時代に適した「楽しみ方」を見つけ出していく「天才」のような気がいたします。

 もちろんその楽しみ方に満足ができなくて、どんどん進化させてくれる人がいることには、私なんかは大変に感謝しているクチですが、「楽しみ」=「悪徳」みたいな発想をする人も、世の中にはいないこともないわけで、私には好きになれません。

 人は「楽(いろんな楽があり、時には傍目に、それが本当に楽なのか?と目を疑うような楽もありますが)」を求めて進化していくものだと思います。そして自分個人の「楽」のために、他者を犠牲にすることもいとわなくなれば、他者にとっては大変な迷惑になります。

 人間だれしも、自分の「楽」を追い求める権利はあると思いますが、それも「他人や社会に迷惑をかけない範囲で」という条件つきのお話です。世の人々のできるだけ多くの人たちに「楽」が得られるように、粉骨砕身努力してくれる人は、立派な社会のリーダーと言えるでしょうが、私利私欲(いろんな形の私利私欲が存在しますけど)のために、他者に奉仕させている人は、とても優れたリーダーとは言えないでしょうね。

 昔、私の上司にもいました。全然、こちらには必要もない仕事を持ってきて、「今これをやっていたら、将来必ず役に立つから」などとおためごかしで、他者を働かせてやろうというクソ野郎が。

 いったい誰の役にたったのか? そいつの役に立っただけで、こちらには何の役にも立ちませんでしたね。こういう何千年も前には生息していたかもしれないようなあほったれは、言うことなんかきいてやる必要はないのです(超一流大学出身でしたけど、頭はよくなかったねえ)。ちなみに私は、一度も言うことをきいてあげませんでしたけどね。いうことを聞いて「将来に役にたった」という人も、一人もいませんでした…爆笑!

 人間、面白いもので、自分が取り組んでいる仕事が、社会のこの部分で、こんなふうに役立っているということが理解できると、なんとなく頑張れちゃうものなんですが(嫌になった時でも、俺がこれをサボったら、もしかしたら誰かさんに迷惑をかけたり、楽しみを奪ってしまっているんじゃないかと思うだけで、嫌でも頑張れますもん)、誰かが自分の利益のために、おためごかしを言っているのがわかると(ある程度経験を積めば、誰だってわかるようになります)、「誰がするかい! てめえで引っ張ってきた仕事だろ! なら、てめえがやれっ!」と上品な言葉をぶつけて、扉をバタンを閉めて出てっちゃいますよ(私の実体験…笑)。

 目標が自分できちんと把握できていて、それに至る過程が認識できると、人間、わりと頑張れるものです。他人が描いた架空の道は、いかにきれいな言葉で飾ろうと、傍で見ていて、「本当に歩けるのかいな?」と不安になりますし、すぐに嫌気がさしてしまいます。

 何故かって? 簡単なことですよ。それは「自分の人生」ではないから。そやつのために、こちらの人生を食われているだけですから。人間その時に、理屈ではわからなくても、何となく感じちゃうものなんですよ(数年から十数年経過すると、ちゃんと理詰めでわかるようになります。感覚は、インデアン同様、嘘をつきません…と私は思います。おっと最近はインデアンも、あまり使わない方がいい世の中でしたっけ。世の中、便利はよくなっていますが、一面、暮らしにくくもなっているみたいな気がしますね。…ちなみに私の大の仲良しのアメリカ人G氏は、原住民の血が十六分の一ほど入っているんだそうです。私はまったく気にもしないけど)。

2018年2月 3日 (土)

相変わらずの恵方巻!

 はい、よっこいしょっと!(何度も言うが、掛け声をかけないと動けないということは、とても情けないことである…笑) なんだろうね、今日から寒くなるという天気予報とは(良い方にずれ)、まあまあの日だったのに、ペースが上がらず、今日のノルマがこなせていない「のろま」です。(一応の通過予定地点で、すでに3時間半遅れています。今日も寝るのが遅くなるのか?)

 節分ということで、恵方巻なるものをいただきました。かねてより私は、この風習を馬鹿にしているのですが(太巻きを「最も美味しくない食べ方をする行事」と位置付けています)、今夜も南南東を向いて、無言で食べました(一人暮らしなので、べつに珍しいこともない)。DVDは太古の映画を流していましたが。

 バカにしているのに、なぜ食べるのか。理由は簡単。「あの時、あれをしていなかったから、上手くいかなかったのかも」と後悔したくないからですね。万が一何かのチャンスが訪れた時に、うまくいかないこともあるわけじゃないですか。その時に「恵方巻」を食っていなかったからではないか?と疑念を抱きたくないからなんですね。

 もう一つ理由があります。それは「献立を考える必要がないから」。こちらは見事なくらい、横着心が反映されております(笑)。毎日自炊だと、あれこれ考えるのが面倒で。何か食べ物絡みの行事があったら、考える必要ないじゃないですか。「今日は○○の日だから、○○を食べていればいい」 人間、自由を好む生き物のはずですが、なぜかしら「支配されたがる」という変な精神も持ち合わせています。なんとなくそれがわかるような気がいたしますね(笑)。

 では何故、恵方巻などというくだらない風習に乗っかかるのかと言えば、先ほど申し上げましたように、「あの時、恵方巻を食べていなかったから、物事がうまくいかなかったんじゃないか」と思いたくないからです。

 よくよく考えてみれば、本来恵方巻とは、縁起が良いことがあるから、行う行事のはずですよね。ところが知らない間に、凶事が起こった時の言い訳に、それをしなかったことを使いたくないからというように、方向が完全に変わってしまっております(私の中では)。

 似た発想に、「今日も無事に一日過ごせた」ことに感謝しなさい、っていうのがありますね。考え方は、私は嫌いではないし、そうあるべきかな?とも思ったりしますが、「無事に一日過ごせた」ってことは、何もなかったことに感謝せい!と言っているわけですね。

 何もないことに感謝できるくらい恵まれた、幸せな人生を歩いている人なら、こういう考えも通用するのでしょうが、そうでない人にとっては「何をボケたことをぬかしとるんじゃいっ!?」って突っ込みたくなるところでございます。

 原点には「知足(足るを知る)」という、老荘思想がぷんぷんと匂って来るのですが(私も結構こういうことには鼻を突っ込んで、原書で読みあさっていますから、世間一般で、大衆受けがするようなキレイな解釈だけでなくて、嫌らしい、もしかしたらこれを書いた人の「本音」かも知れない部分まで感じているので、素直には受け取れません。本当に足るを知って、それ以上の欲がないのなら、書物さえ書き残さなかったはずですからね。書き残すってのは、自分の存在や考えを他人に伝えたいという欲求が起こさせる行為ですから。だから「足るを知って」いるはずの思想家が、他の思想家と議論して、やり込めて喜んでいたりするわけで…私から見れば、どいつもこいつも「欲の塊」にしか見えませんけどね)、まあ本来の「恵方巻」の起源には、お大人様の遊びだったという説もあるくらいですから、お大人様なら確かに、「足るを知って」いてもいいかもしれません。

 それを庶民にまで広めるとなると、ちょっと条件が違うように思います。人間、立ち位置が異なれば、同じものを見ても、見える姿が変わります。現状維持で十分という人もいるのでしょうが、現状維持したら、待っているのは滅亡だけって場合だったあるわけで。こういう人に「知足」なんてほざいたら、八つ裂きにされかねませんよ(笑)。

 仮にですよ、恵方巻を食べたくっても、恵方巻を買うお金がなかったとしますよね(たかが数百円というなかれ)。で食べられなかった。するとその人には、今年は縁起がいいことがないわけですか? 今が恵方巻を食べられないような状態で、それからもっと縁起のよいことがなかったら、来年も食べられませんよね。すると再来年も、縁起のよいことは起こらないんですか? これが繰り返されたら、永遠にその人には、縁起のよい年は訪れないってことになりませんか?

 もしも「恵方巻」を食えなかった人に、何か良いことが起こって、恵方巻を食べることができるようになったら、「何か良いこと」が起こるのに、「恵方巻」を食べる必要はなかったわけで、「恵方巻」の意味は、なくなりませんか?(爆笑!)

 縁起だなんぞとわけのわからない、人生がらみの事柄を、食べ物に絡めるべきではないと、私は思います。食事とは、我々が身体を維持し、生命活動を行うために必要なものを摂取する行為であって、縁起は関係ありません。もちろん自分にとって大切な存在に、自分にとっても大切な(あるいは相手が好む)ものをささげるのは、大いにアリです。その行為が自分の思いを相手に伝えているからですね!(間近にバレンタインデーなんてのが近づいていますが、本来は言葉の通じ合わないような異民族でも、だいたいが自分の食べ物を分け与えるというのは、友好のしるしとみなされるようで、ましてや自分たちにとっても貴重な食物を分け与えられれば、それを受け取らないというのは、友好の拒絶になるほどです)でも「縁起」とは関係ありませんよね! 関係しているのは、純粋に、相手に対する「気持ち」です!こういうのは、アリなんじゃないですかね(だからと言って、恨み重なる人に「毒」を送らないように!笑)。

 ということで私は、今日の予定の献立は、明日にずれこませました。一日献立を考えるのがサボれたと思えば、「恵方巻」も、それほど腹が立ちません。でもなあ、もうちょっとは「美味しい食べ方」を習慣化させてもらいたいもんだね。

 一定の方向を向いたまま、モノも言わずにもぐもぐと食う、なんてのは、どこがいいのかね? 本来食事は、わいわいと楽しく取るから、よけい美味しくなるものなのに。哼!

2018年2月 2日 (金)

無欲の勝利?

 昨夜は練習帰り、ずいぶんの霧だったのに、今日はなぜ晴れなかったの? って感じでした。山盛り洗濯したのに。天気のバカヤローっっ‼ おかげで期待してたほど、気温が上がらなかったじゃないか。

 最近、自分が変温動物なんじゃないかと思うほど、気温の影響を受けるんだからさ。せめて活動可能なくらいの気温にはなってもらいたいもんだ(きっちり活動はしましたが)。また明日から寒いというので、もういいかげん嫌になっちゃってんだよね。

 雪は必要なところに、必要なだけ降ればいいし、必要としないところには、降らない方が望ましい。最近はよほど寒いのか、ノラの姿も見かけないし(時々、エサが一気になくなっていることがあります。きっと暖かい時にやってきて、食いだめして、あとは冬眠をしてんじゃないかと思います)、生きてんのかどうか、心配になることがありますよ。

 庭にやってくる野鳥も、そろそろ増え始めたし(山にエサがなくなってきた証拠。これから花が咲き始めるまで、たぶん増え続ける)。どこかで安売りの果物でも購入してきてやるかと、そろそろ思い始めました。(ネットに入っている奴、たいていは中ほどか、奥のほうの奴が悪くなるのが早い?)私が食べた残りだけど、必要なものには必要なわけで、余剰は役に立つ使い方をするのが一番です。

 とはいうものの、若干日が長くなってきたようんば今日この頃で、帰宅後ちょっと裏庭の方に回って、「どこに何を植えようか」なんてことを考える余裕がありました(日が短いと、とても裏庭にまわる気力が湧かない)。残念なことにまだフキノトウは出ておりませんで、ちょっと掘り返してみたらニラの短いのが、もう少しで地上に目を出すぞ、という感じでした(我が家では、ニラは雑草化してます。おかげで食べようにも、雑草からより分けないといけません。今年はこの「より分け」をしなくていい方法を考えたいものです)。本来鉢植えの何かが植わっていたはずのところにも、ニラがしっかりと根付いていたりして、ニラを鉢植えで鑑賞してやろうかと思うようなのもございました(全然面白くないけど。ニラはやはり食べるものです)。

 岡山は、キニラの生産日本一なのだそうですが、別にキニラという種類があるわけではございませんで、普通のニラに光が当たらないようにして育てれば、誰でもキニラの栽培ができるわけです。今年からプランターで、キニラ栽培でもやらかしてやろうかと思っておりますが、私は基本的にプランターというものを好みませんので(古くなると劣化してボロボロになる。こうなると後片付けが面倒い)、よほど「その気」にならないとやらないんではないでしょうか(笑)。

 夏、雑草を抜くことで苦労するばかりでは能がないので、とうとう「食べられるモノ」を植え始めてしまいましたが、これって結構ハマりますね。第一、食べられると思うと、世話をし始めます。世話をし始めると、必然的に、最低限度の草抜きも、無意識のうちにやってます。苦痛が苦痛と感じられなくなるんですね。不思議なものです。「欲」があれば、「苦痛」も「苦痛」と感じなくなるんですね。

 基本「やる気」なんてのは、この「欲」を上手に刺激してやれば、半ば自然に生まれてくるものかも知れません。人間、「無欲」な人を高尚だなどと言いがちですが、なかなかどうして、人間は「欲」があればこそ向上もしていくし、自主的な活動もできるようになるものです。「まったくの無欲」なんて、決していい状態ではないと、私は思います。

 時々いますよね、「無欲の勝利」なんてことをありがたそうに言う人が。本当に無欲だったら、最初から競技会に参加したしはいたしません。ちゃんと欲はあるのです。その欲が、何を目的にした欲かという問題はあるでしょうけどね。たとえば、「完走できる」ことが目的の人だっているでしょうし、「参加すること」だけが目的の人だってあるでしょうし、ライバルに勝つことが目的の人もいるでしょう。自己ベストを出すことを目的にする人もいるでしょう。でもそれがすべて、その人の個人的な「欲」なんですよね。

 私は「無欲の勝利」ってのは、「相手を意識しないで、自分にできることを、できるように、忠実にやることだけを心掛けた結果、勝ってしまった」ことだと思っています。つまり「自分を崩さなかった」わけですね。でもちゃんと「欲」は存在しています。「自分を崩さない」という(笑)。

 何があっても自分が崩れなければ、もうそれだけで、精神的には無敵ですから、立派な目標達成なんですけどね(あえて「自分に勝つ」なんて肩が凝る表現はいたしません。「自分が自分でい続ける」ことで十分だと思います。目標に向かってまっしぐらに、自分を貫き通せたら、それで十分なのかも知れません)。それに外部から見た「勝敗」の中の「勝」がついてくれば、これはもう「無欲の勝利」ではないでしょうか。

「自分を崩さない」ことは強いですからね。たとえば大きな岩があったとします。これをぶん殴っても崩れませんよね。だから岩は強いのです(笑)。でも重機を持って来れば、壊せるかもしれませんし、壊れなくても動かせるかも知れません。これは岩は岩であり続けたのですが、重機に負けたことになりますよね。

 人間は岩と違って器用ですから、「重機」に対する対策の立てようはいくらでもあります。そうして「重機」に負けないで、自分を維持し続けたら、きっと勝っているんでしょうね。もしかしたら、これもまた「無欲の勝利」なのかも知れません。

 相手がこちらを攻撃してきた場合、亀が甲羅の中に頭も手足引っ込めて身を守ることも、「自分を維持」できれば「無欲の勝利?」なのかも知れませんが、「これは甲羅では身が守り切れない」と反撃して我が身を守るのも、もしかしたら「無欲の勝利」なのかも知れません(生存欲があるのが当然、という過程でのお話ですが)。もちろん中には、「やられる前にやっちまえ」という人がいるかも知れませんが…… 人や生物には、いろんな「無欲の勝利」が存在するようです。

2018年2月 1日 (木)

氷河期!

 お決まりの、昼中ぐずついた天気も、夕方から晴れ間がのぞくというパターンで、「さあこれから冷えてやるぞ」という気満々の空模様です(笑)。天気のこの腐った性根を、どうしてくれようかと思ったりもしますが、私の住んでいるところがこういう具合なら、どこか別の場所では、昼間中晴れまくって、夜ぐずつくという理想的な天気になっているところも、きっとあるんでしょうね!

 いずれにしてもこの冬は寒い。私の住んでいる「晴れの国岡山」では、雪はおろか、氷すら張ってもすぐに融けるのが例年なのですが、今年は一日中氷が張ったまま、融けないなんて日が、何日も続いております。

 永久結氷化してしまったら、これはもう立派な氷河時代なわけで、一部にはもうすぐ氷河時代に突入する、なんて恐ろしい?ことが囁かれていますね。「地球温暖化」などと騒いでいた学者先生は、どう言動に責任を取るのでしょうか? それとも大昔の天気予報同様、「当たるも八卦当たらぬも八卦」なんてへぼ占い師みたいなことで言い逃れるのでしょうか(笑)。

 では今までが地球の温暖期だったのかというと、そんなわけでもなくて、ちゃんと氷河がございますから、大きく分類すれば、氷河期だったわけで、今更氷河期が来ると言われてもなあ。「寒冷期が来る」程度の表現にしていただければ、我々一般人民も、さほど憂鬱にならないですむと思うのですが。(全球凍結は別ですよ!)

 もちろんこれは言葉の上での問題で、寒冷期になれば食料の問題をはじめ、いくつかの問題が出てくるでしょうから、決して安心ができないわけですが、あれこれ余計な心配事を抱えてしまうよりは、いくらかは気が楽というものです。

 理由もなく「バラ色の未来」を夢見るのは、多少心配になる状況ですが、だからといって眉間にしわを寄せて、いかにも「これから凍える、どうやって生き残る?」なんて顔をして未来に向かうよりは、いくらかマシというものです。(ちなみに「未来」を「未だ来たらず」と読むのは、本ブログでは何度も申し上げている通り)

 健康問題なんかでも同じように感じますが、必要以上に不安を煽る陰には、必ずといっていいほど、「お金儲け」が絡んでいると私は考えていますので、今ほど健康診断のなんのが普及しておらず、医療も発達していなかった時代にでも、健康で長生きの人は大勢いたという「事実」を思い出して、必要以上の不安を煽る人の意見は、いつだって懐疑的な目で見る癖がついてしまいました。

 もちろんすべてがすべてではありませんよ。理屈が通っていると私自身が判断した事柄については、自分なりに準備はいたしますけどね。しんどいめに遭うのは嫌だから(笑)。TVの何チャラバラェティを作るために、番組制作会社の方々が書いたシナリオに振り回される気はございません(だいたいTVのその手の番組は見ないし)。

 寒くなったら、「サル団子」ならぬ「人団子」でも作ってればいいと思うし(満員電車なんかで、異性を選んでやってはいけませんぞ!)、生活パターンが多少変わるかな、程度にしか感じていませんね。人類はそうやって今まで生き延びてきたわけだし。(もちろん、選択を間違えて、亡びてしまった民族も、いるのではないかと思いますが、これは自然界では、もしかすると当たり前のことなのかも……)

 賢い人は、遠い未来(!未だ来たらず…笑)を見通す目をお持ちなのでしょうが、いくら目が良い人でも、自分の鼻梁(鼻の頭を覗く)や額、耳を見ることができる人はいないわけで(劉備玄徳は、自分の耳を見ることができたと『三国演義』にありますが、するとちょっと人間離れした人? もっとも両腕も長くて、立ったままでも手が膝に届いたともいわれていますから、明らかに人間離れしておりますけど…笑)、こういう観点から見れば、賢人と称する人も、凡人も、どこも違わないんですね。

 自分の鼻梁は額を見ようとすれば、賢人であろうと凡人であろうと、鏡を使わなければなりません。大切なことは、鏡が真っ平らな平面鏡でなければならないということです。凹面鏡や凸面鏡、マジックミラーの類だと、物事が「あるがまま」見えてはくれないんですよね。

 生きていくうえで大切なのは、この鏡を「自分で作らなきゃならない」ってことでしょうか。優れた友人を何人か持っていれば、彼らの意見を総合的に考察すれば、比較的平面にちかい鏡ができたりしますけどね。自分一人では、なかなか平面鏡が作れません。

 で、この平面鏡ができたら、少なくとも自分は、多少は見えてくるはずです。ただ外から入ってくる情報は、凸レンズを通ったり、凹レンズを通ったり、もっと不規則なレンズを通ってきたりするので、見極めるのは容易ではありません。

 すると私のような「凡人」にできることと言えば、「自分の目」で見たものを、「自分なりに解釈する」ことしかできないんですね。不安だったら、自分の解釈を、自分が信頼できると感じている人と話してみる。そうやって、可能な限り、自分にとって正しい見解を作り出すしかないんですよね。

 さあもうちょっとしたら氷河期だ(繰り返しますが、今も氷河期なんですよ、厳密には)。冬眠の準備をしておこう(笑)。冬眠たって、いろんな冬眠がございますんですけどね!

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