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2017年4月26日 (水)

振り上げた拳固の落としどころ

 やれやれ、今日も何もなかったか…… 私はひどい鼻づまりで、せっかくの春のごちそうなのに、芳香をかぐことができなかった(そのわりには食いすぎた)。噛んだ時に、いくらか風味は感じたけどね。

 今日は水やりから解放された。雨が降っていたからである。私が少々気合を入れて水やりをするよりは、ちょっと雨が降ってくれたほうが、はるかに効率のいい水やりになるらしい。自然界には勝てないよ。

 これじゃあ、毎日の水やりのあと、翌日の準備をするようにしているのだが、なんとなく「無駄」っぽい感じがする。もちろん無駄になるわけじゃなく、翌日に回せばいいだけなんだけどね。だから振り上げた拳固を下せないということはない。

 振り上げた拳固を下ろさないと、腕や肩がだるくなる。だるくなるだけならまだしも、拳固を振り上げたところを目撃した人間には、「なんだ、しょうもな!」なんて感想を持たれてしまう。拳固をしょっちゅう振り上げていたら、感情を抑制できない未熟者という印象を与えるが、振り上げた拳固を下せなければ、「なんだ、根性なし」なんて、他人から舐められることになる。

 下ろせない拳固なら、最初から振り上げなきゃいい。水やりをしないのなら、水を汲まないでいいのと同じだ。汲んだ以上は、何かに水をやらなくてはならない。一つの目標を立てたなら、基本的にそれは達成されなければならない。これがきちんとできる人は、「あの人は言ったことはきちんとやる人だ」ということで、みんなから信頼されるようになる。

 言うだけで、実践が伴わなければ、「口だけ○○」なんてことを言われてもしかたがない。人間、言動一致がもっとも信頼されやすいことらしい。言ってやらなければ、口だけ。言わないでやってしまえば、あいつはなにを企んでいるかわからない、なんて思われることもなくはない。

 だから『韓非子』では、言ったことがきちんと過不足なくできることが一番いいとし、言わないでやることを越権行為、言ってやらないことを騙しと考えたようである。あまり四角四面な考え方なので、すべてに賛成はできないけどね。

 いずれにせよ、振り上げた拳固は、いつか必ず振り下ろさなければならない。あげたものは落ちるのが自然だからだ。

 昔々、ギリシャローマ神話を読んだとき、天空を支えるアトラスという巨人は、どんな腕や肩をしているのかと思った。支えるのをやめれば、ずいぶんと楽になるはずなのに、支え続けている。アトラスが支えているからこそ、神々は天上に暮らせるわけで、アトラスが「や~んぴっ」と投げ出してしまえば、天上界も地上界もごっちゃまぜになるかもしれないけれど、そのうち新しい秩序が生まれるだろうにと、子供心に考えたことがある。

 律儀なアトラスがいつまでも天上界を支えているから、天上界でやりたい放題をしているギリシャローマ神話の神々は、のんきに暮らしていけるのだ。わたしならば、「知るか! 勝手にしろ。わしゃ、もう疲れた」と言って投げ出すに違いないのだ。

 だれかが投げ出してやらないと、一所懸命支えてくれている存在の有難みに気が付かない。ありがたみは、誰でも知らなければならない。知れば感謝の念が湧くこともあるだろうし、それなりのお返しをするものもあるだろう。感謝も礼もないものには、ちゃんとそれなりの請求書を出すべきなのだ。

 甘やかすばかりでは、どんどん正常からずれていくだけだよ。そのためには、支えているものを投げ出す、拳固は落とす、請求書はきちんと突きつけるってことをしなければならない。

 そうすれば変なことをやる存在は減少していく。それこそが正常というものではないのかな? 

 今日は疲れた。ものを支えたりする元気はない。できるだけ早く寝る。寝ることは大好きなのだ。寝るまでにこのひどい鼻づまりだけは、解決しておこう。

2017年4月25日 (火)

山のあな、あな……

 三遊亭圓歌さんがお亡くなりになった。私がほんのまだ小さな子供のころ、「山のあな、あな」というフレーズで有名だったことは、しっかりと記憶に残っている。当時は三遊亭歌奴というお名前だったと記憶しているが。

 これがきっかけで、のちにカール・ブッセの『山のあなた』を読んだが、上田敏さんの大変に有名な名訳にお目にかかることができたのも、おかげ様である。当時はSFにくるっていたせいもあって、「山の向こうの遠く空の下に さいわいという名前の怪物がいて、それを友人と一緒に見に行ったのだが、途中でグミの枝で目をさしてしまい、泣きながら帰ってきた」という途方もない解釈に、大笑いしたものである。

 当時の歌奴さんがいなかったら、おそらくカール・ブッセなどという人の作品には、生涯出会わなかったであろうと思う。大変に面白い落語をされていたことばかりが記憶に残り、それ以外のことが記憶から抜け落ちている不思議なお人でもあった。おそらくはこれから、あれこれと噺を探しまわり、大昔を懐かしむのではないかと思う(記憶が蘇ればの話だが)。

 さて山のあな、あなといえば、昨今は、「おっ、バンカーバスターか?」などと連想してしまう、大変に物騒なご時世になっているが、どうして「火の海」だとか「沈没」だとか「核の雹」だとか、怖い形容ばかりを行うのであろうか?

 日本が沈没しないのは、故竹内均大先生がすでに、小松左京さんの『日本沈没』の時に仰っておられることだし(大陸性の岩盤は、海洋性の岩盤に比べて軽く、海洋底に堆積した地層が、大陸プレートに衝突したとき、大陸プレートの上に乗り上げて…これを付加体といいますな…陸地になる。これが日本列島の土台なわけで、沈むんだったら、最初から日本列島など存在しないわけで、おかげで地震は頻発するけれど、沈みはしないということなんだけど、日本沈没なんて言い出す人は、きっとこんなことはご存じない?)、「核の雹」っていったい何? あまりに漢詩的なオーバーな表現で、こちとらいまいちピンと来ませんな。

 漢詩ってのはだいたいがオーバーな形容が多いので、話は百万分の一ないし一億分の一で聞いていればよいと私は考えているが(白髪三千尺なんて、白髪が900mもあるっての? 髪の毛が一か月に1㎝伸びると仮定しても、90000カ月かかります。これは7500年に相当しますから…一般にいう、中国5000年の歴史(?)よりも長いよ!「恨」で有名な人たちも、「恨」を忘れてくれそうな時間ではないですか。だいたいどうやってそんなに長生きするの? そんなに生きたら、すでに不老不死に近いじゃん!…、そんなに人が長生きするはずねえっての! だいたい900mもの髪の毛、どうやって洗髪するんだ? 道歩いてたって、誰かに端っこを踏んずけられる度にずっこけなきゃならない)、いい大人がまじめな顔して凄む言葉ではないのではないかなあ。

 ま、相手よりもすごい言葉で言い負かすことができたら、それで口喧嘩の勝利って感覚ですな! ガキの喧嘩? いいかげんこんな陳腐な形容には飽きてきたころだから、そろそろ現実に目覚めて、理性的な言葉で語られてはいかがなものかと思ったりするのだが、どんなものでしょうか。

 この世界は現実であり、現実を客観的に見なければ、そのうち飽きられちゃうよ(以前、ソウルのホテルでみた韓国ドラマにも、同じような感想を持ちました。おかげさまで、私はまったく韓流には染まりませんでした。最初から馬鹿にするというよりも、見る気にもなりませんでしたねえ。客観的に言って、ソウルで食べた韓国松茸と、浴びるほど飲んだマッコリは、日本で売られている韓国松茸や、マッコリよりも、旨いと思いましたけどね…松茸には旅をさせてはいけません。香りが失われます)。こういうのを客観的な評価と申します。

 では国産松茸と韓国松茸を比べたら、どちらがおいしいかというと、本来比べてはならないものです。日本で食べれば、間違いなく日本松茸がおいしいですし、韓国で食べるのなら韓国松茸でも十分でしょう(輸送中に劣化しちゃうからね)。ではマッコリと日本酒ではどうかという問題になると、比べるお酒にもよりましょうが、私は日本酒のほうが断然旨いと思いますけどね。ただ味覚領域の話になると、個人個人の価値基準がかなり異なるので、強弁はいたしません。ただ自分がおいしいと思うものを食べ、飲むだけのことです。

 ウイスキーとブランデーの旨さ、ご飯とパンの美味さを比べるようなもので、どちらが旨いかというよりは、どちらを好むかというようなものではないでしょうか。こんなものを無理やり比べて、勝った負けたなどといってもしょうがないことですからね。

誇大な形容で、己の偉大さを演出しようとしてみても、それは所詮虚構。戦で人が死ぬのは現実です。かの兵聖孫武も言っていますが、「死んだ兵士は生き返りません。滅びた国は復興しません」。もしかしたらその死んだ兵士の中には、人類社会全体に貢献する資質を持った人がいたかもしれないのですよ。

 とはいうものの、口喧嘩であろうと、ある一定のラインを超えてしまったら、抜き差しならなくなることもございます。途中で後悔しても、やり直しがきかなくなってしまうことって、けっこうあるんだよね。だからやりすぎ、言い過ぎはダメなわけで、世の中、何を言っても許されるなんて甘いもんじゃありません。

 これはたとえ親しい間柄であってもそうで、昔から「親しき中にも礼儀あり」なんて言葉で戒められてきたもんです。では親しくなかったら? 親しくなければ、もっと慎重に言動を考えなければなりません。ここまでやったら相手は怒るか? ここまでは大丈夫か? わりと日常生活でもこんな人がいるのを見かけますが、親しくもない奴から試されているとわかったら、私だったら一発でアウトですな。その「人を試そうとする心根が卑しい」ってことで。

 だってこんな人と付き合えば、疲れることがいっぱいあると思うよ。疲れる人と付き合ってストレスを溜める必要はございません(仕事上、どうしても付き合わなければならないこともありますが)。どうせ最後には、そのストレスが大きな問題となっていくんだから。

 ま、ストレスは溜めないに越したことはございません。たとえその時には一時的に苦痛が伴うとしても。『韓非子』だったかにあったと思いますが、化膿したところに針を突き刺せば痛いが、針を突き刺して膿を出さなければ治らないものですからね。(本当のことを言えば、化膿するまで放置していたのが悪いんですけど)

 山のあなたの空遠くには、ほんとうにさいわいなんてあったのかなあ…… 針で突いて膿を出したほうが、もしかしたら早く幸せになれたかも。

2017年4月24日 (月)

花のいのちはみじかくて……

 四月も下旬となりまして、寒冷地か標高が高いところを除いては、桜も散ってしまったようでございます。ソメイヨシノという種類は一斉に咲いて、一斉に散っていくわけで、この品種が作られたのは江戸時代の日本と聞いておりますが、その咲き方、散り際の見事さから、敷島の大和心と人とわば 朝日に匂う山桜花(山桜は、わりと長持ちいたしますが)という歌と、妙に通じるところがございます。

 ただ人ってのは、花が散った後は、けっこう冷たいよね。ちょうど風の『ささやかなこの人生』という歌の歌詞にあるように。どんなに見事に散っていったとしても、その時には人々はその散り際を愛でても、すぐに忘れ去ってしまうようです。(こうなると、石にかじりついても、散らなかった方がいい?)

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 どうでございましょうか。この春、一本(一か所?)の桜の木を、追跡したものです。この木の満開は、2枚目(4月8日)のものではないでしょうか。今年の春も風が強かったので、どんどん散っていき、途中で花散らしの雨も降りましたから(本ブログには記録してあると思うので、興味がある方は4月アタマから読み直してみてください)、あっという間に散ってしまった感じがございます。

 作家の林芙美子さんは、色紙に好んで「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と書かれたんだそうですが、「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり 雲も光るなり」と続くのだそうです。

 吹く風に舞う花びらもあるのでしょうが、吹く風に、今生きている自分を感じることがあります。そして見上げた空に雲が光っていたりすると、確かにこの人生、生きていく値打ちがあるように感じたりすることがありますね。

 もちろん同時に自然界の大きさを感じるわけですが、この大きな自然に比べて、今の自分のちっぽけなこと。自分が日ごろ、寂しい、苦しいと思っていることなど、本当はちっぽけなことなんではないかと感じる瞬間があります(その無力さに、ますます孤独感が深まったりもいたしますが)。

 花が散った後の桜など、ほとんどの人は見向きもしません。それでも桜は翌年の春、また花をつけようといたします。そうすることで自然の何かが変わることなど期待しているようには思えません。ただただ咲いて、散って、人知れず実をつけて…を繰り返しているだけです。

 自然はやっぱりすげえなあと思います。どこかの覇権だの、なんだのと、しょうもないことばかりわめくことしかしらないやつに、見せてやりたいものです。どうせこんなことを感じる感性など、持ち合わせていないのでしょうが。

 桜は散る。人は年を取る。岩石は風化する。核兵器ですら劣化する。桜が散るのが嫌だと、花びらを接着剤でくっつけても大した意味はないし、人だって外見上年を取らなくても、不老不死というわけにはいかない。岩石が風化するからこそ、平地もできれば田畑も作れるようになる。何もかも思い通りにしようったって、神様でない人間には限界がある。

 自らをコントロールすることすらできないものが、自然界の規律に逆らうことなど不可能も不可能。おそらく、自分の天寿を全うすることすら難しいのではないか。

2017年4月23日 (日)

親苦、子楽、孫亡

 さすがに昨日の今日で、鼻詰まりがひどい。昨日たっぷりと吸い込んだからなあ… その分、いいものを見ることもできたわけだが。

 さてさて、世の中には「親苦、子楽、孫乞食」という諺?があるようで、一般的には親が苦労して財を貯め、そのおかげで子供は楽をし、孫の代には乞食に落ちぶれてしまうということらしい。昨今の言論の自主規制に、「乞食」という語が入れられていないのは、驚きだが(だって「めくら蛇におじず」なんて、まず、「めくら」をPCが変換してくれないんだよ。「目の不自由な人、蛇におじず」じゃあ、なんとなく語呂がよくないんじゃないかなあ。でも伝統や語呂よりは、言葉による差別の方が重大な問題らしく、我々が学生時代、普通に習ったはずの言葉も、満足に使えなくなっているようだ)、今では「乞食」と言われても、ピンとこないかもしれない(ということは、この言葉が死語にされたり、消えていく運命にあるのではないかと思う。まあ社会保障制度が完備すれば、なくなっちゃう言葉かもしれないよね。もちろんそこにはいろいろな問題が発生しているようで、断固として改善されなければならないようだが)。

 私は、どちらかというと、「親苦、子楽、孫亡」の方が、歴史的にはぴったりするような気がしている。親は苦労して財を成し、おかげで子供は楽をして、孫の代にはすでに財もろくすっぽなくて亡んでしまうって感じで。

 これは、親が苦労して財をなしても、子供はそれに甘えることなく、それなりに頑張っていかなければならない。そうすれば孫の代になって息切れしてしまうことはないというような意味合いではないかと思うのだが、ご心配なく。現行法では、我が日本の相続税は結構高い(まだ詳しいことは調べていないのだが)。親の蓄えた財で、末代まで食っていけるようなラッキーな人は、それほど大勢いるわけではなさそうだ。我が日本では、みんな一所懸命働いて食べていかなくてはならないはずである(いろいろな抜け道もあるように聞いてはいるが)。

 またこの解釈として、だいたい三代順調に続くことはまれで、だいたい三代目には潰れることが多い、なんてのもあるようだ。(これは歴史を見ても多い。ただししっかりとした家は、三代どころか、何十代も立派に続いている場合もある。こういう家は、家の核となる教えみたいなものがきちんとあるみたいである。ということは、長続きさせるには、何百年にもわたって通用し続ける、立派な教えがなくてはならないのではないか?ということになるのではないか)

 昨今賑々しい、近くの某国家も、考えてみれば三代目かな。三代目というのは要となる代なので、よほどきちんと自己管理ができ、他者も管理できる人間でなくてはならないと思うのだが、いかがなものだろうか。

 ここ2~3日、突然表の大手マスコミも、やれミサイルがどうの、Jアラートがどうのと、いまさらながらに口走っているようだが、普通に毎日の出来事を追っかけていれば、だいたいは予想できたことではないかな? だいたい三代目ということだけでも、最初から目を離してはいけない状態なんじゃない?

「親苦、子楽、孫亡」で、孫亡とはいっても、人や組織、文化、文明が亡びるときには、必ず何らかの影響があるもんだからね。遠くはるかに離れていれば影響がなかったとしても、近くならば、まったく影響がないということはないだろう。

「死ぬのはいやじゃ~っ!」誰でもそうである。でも自分が死ぬときにはた迷惑にも、他者をも道連れにしようという理不尽な願望を持つ者も、いないわけじゃない(動機はいろいろあるだろうが)。

 太古の昔には「殉死」といったものがあった国もあるらしい。偉い人は、死後も多くの人に仕えられないといけないなんて考え方があったのかなあ。(時に、本当に深く愛した人が亡くなった場合、一緒に死んでしまいたくなることもあるけど) で「殉死」したりさせられたりした人も大勢いたようだ。

 しかしながら生きている人には、まだこの世で果たさなければならない任務があるから生きているわけで、「殉死」などさせると、有能な人材の減少につながったりすることも少なくないので、次第に埴輪なんぞという「作り物」に変えられていったのではないかと言われている(ちなみに孔子は、殉死はもちろん、埴輪にも反対している。なかなか興味深いことだ)。

 死んでいく人間になんの関係もない人ならば、殉死させられるなど、まっぴら御免であるのが普通だろう。当たり前のことだ。ところが亡びていくものの中には、自らと無関係のものまで巻き添えにすることがあるから難儀なのだ。

 消えていかねばならない時には、静かに消えていきなさいというのが、こういう時の理性的な助言だ。ゾウはゾウの墓場で死ぬという(嘘かほんとか定かではないが)。猫は可愛がってくれた者に、己の死を見せたがらない(時に例外もあるが)。消えていくときには、多くの人が気が付かないくらい静かに消えていくべきというのが、この自然界のルールであるように思ったりもするのだが、甘やかされて育った三代目(甘やかされていない場合は、この例に含まれません。また自分でしっかりと自立した意識をもっている人は、三代目であろうが何代目であろうが、この例には含まれません)は、このルールを知らず、己の滅亡に際して他者に縋り付いて迷惑をかけたりする。

 世の中は厳しいものだから、「親苦、子苦、孫苦」くらいのつもりでいたほうが、かえって安泰なのではないかと思うのだが、自我が肥大して、肥満体形になったりすると、ついつい心にも脂肪がついて、みっともなくも第三者に迷惑をかけたりすることもあるようだ。もちろん親の苦労と子の苦労は、本質的に異なってもかまわないし、孫の苦労も本来は異なった苦労になるはずだが。

 為政者にとって最も大切なことは、自分に可能な限り、民衆に福を与えることだ。これを為政者の徳というんですな。ま、徳が高い為政者は、あまり窮地に陥ったりしないらしいけどね、歴史を見ると。だから最初から「親苦、子楽、孫亡」なんてことにならないようでございます。

2017年4月22日 (土)

Jアラート

 ああ、よく遊んだ。余は満足じゃ。遊んだ帰りに、親友K氏の店により、長話をした。遊んだ結果のものと引き換えに、K氏からまたいいものをもらったので、なんとなく気分はもっとリッチになった。「持つべきはよい友達だなあ」とは、映画『カサブランカ』のラストシーンで、リック(ハンフリー・ボガート)の言うセリフだが、まあそんな感じ。(これは私の、周囲の人に対する感謝の言葉。今日もありがとね!生きててよかったって、感じられたから…詳しく知りたければ、一緒に飲もう!私がへべれけに酔えば、もしかしたら本音が出るかも)

 悲しいことに私は一人で生きているが、嬉しいことに私の周囲には、こんな友人がいるってことかな? 人生悲喜こもごもである。いい事があれば悪いこともある。押しなべて人生のトータルがプラスマイナスゼロならば、まあ及第点をあげてもいいのかも。(ちなみに、今はマイナスである。どこかでプラスを稼がなければ)

 さきほどTVで初めて(あくまで私の初めてであり、すでに何度もTVで流していたのかもしれないが)Jアラートを聞いた。私はずっと前から、別方面からこれを知っていたので、何をいまさらという思いだったが、たいていの人は知らなかったのではないかと思うので、徹底する意味で、もっと広く知られるべきだと思っている。人は生きていてナンボだ。重要な情報は、より広く、より正確に伝えられていなければならない。

 もちろん情報ってのは、必要な人にこそ知られるべきで、不必要な人に知られても混乱を招くだけだってことは事実だと思う。しかしながらその情報が、必要であるかないかを判断するのは、情報を受け取った本人の問題だ。Jアラートなる信号を、より多くの人が知ることは、私は重要であると思うが、それを必要・不必要と仕分けるのは、知った人の判断だ。(不必要なわけはないんだけどね)

 こういうことを行うのは、国会でM学園問題を追及したりすることよりは、数百万倍も大切なことだと思うのだが、M学園問題を提起した集団が、こんな大切なことを言っているのは(少なくとも私は)聞いたことがない。なんのために政治などという厄介なものに取り組んでいるのか? 今、我々にとって一番大切な問題は、いったい何なのだろうか。そこを抑えなくては政治ではないよね。

 まさか我々の税金で暮らすことだけを目的にしているんじゃないだろうね。(それを平たくは「税金泥棒」という)我々有権者は、「この人ならば、よりよい将来を築いてくれるはずだ」と期待して投票しているわけだからね(少なくとも、私はそうである)。期待を裏切れば、その報いは受けなきゃならないよ。

 期待もなにもしていない人がいい加減なことをやった場合では、それがバレても「やっぱりな」で済むけれど、思いっきり期待させておいて、それを裏切ったら、厳しい反応が返ってくるのは、当然の人情だ。例えてみれば、まったく期待させない人は、平地に立ったような状態であり、大きな期待をさせる人は、高い台上に立ったような状態だ。

 期待を裏切るってことは、そこから倒れこむようなものであって、平地に立った人ならば、大したケガもしないだろうけれど、高い台に立った人ならば、大けがをしたり、運が悪ければ死んだりすることがあるようなものだ。

 人々に「期待を抱かせる」ってことは、同時に大きな責任を背負い込むことでもある。でも多くの政治家は、有権者に多くの期待を抱かせて、それを信じさせることができたら、選挙で当選しているわけだからね。信じさせたことは、可能な限り実現させなきゃならない。実現できなきゃ、その理由を、多くの人々が納得できる形で説明しなきゃならない。

 たとえば清廉潔白な人が、清廉潔白でない人を批判すれば「なるほど、もっともだ」と人々を納得させることができるだろう。清廉潔白でない人は、清廉潔白ではない人を批判すれば、「何を目くそが鼻くそを嗤っているのだ?」ってことになる(くそとか下品な表現でごめんなさい。不思議なことにわが日本は、差別用語だとかなんだとかで、様々なことばに対してな自主規制が働いているようだけど、この「くそ」という言葉には、大した規制がかかっていないようなので…笑)。目くそ鼻くそを笑うといえば、どっちもどっちという意味にとられやすいが、私は鼻くそを笑った目くそのほうが、より下等という判断をする。なぜかといえば、自己を目くそと認識し、鼻くそを批判しているなと感じれば、目くそである自己を恥じるから、批判などしないことが多いからだ。

 つまりは鼻くそを嗤う目くそは、実は鼻くそよりもレベルが低いということだ。そして現代社会では、こういう行為に対しては「ブーメラン」なるものが帰ってきて「突き刺さる」らしい(ブーメランの名手たちは、相当にタフならしく、かなりのブーメランが刺さっていても、いまだに元気でいるようだ。もしかしたら、自ら傷ついていることにすら気づいていない?…ってことは、最大の武器は、恥もなにもわからない鈍感さということになる。鈍感は強いよ。私もかつて痛みを感じにくい人と試合で対戦したことがあるけれど、いやあやりにくかった。…痛みを感じないとはいっても、ダメージは被っています。考えてみれば気の毒なのだけれど、試合という局面だけを取り出せば、大変な強敵でした)ま、鈍感なだけが「売り」の人は、最終的には鈍感なために致命傷を被っても気づかないことが多いんですけどね。

 昔「鈍感力」だとかいう言葉を吐いた御仁がおられましたが、鈍感力は、敏感な人間が身につけてこそ役立つものであって、元から鈍感な人にとっては、「致命傷にすら気づかない」って最悪の状態に導くものでしかないんだけどね。言葉遊びにばかり夢中になっていると、こんなことには気づかないよねえ。

 ま、各人にとっての正確なJアラートが出され、それぞれがその場その場で最も適切な行動がとれるようになることが一番大事だと思うので、ある程度は感覚は鋭敏にしておく必要があると思いますけどね、はい。

2017年4月20日 (木)

ストレス

 曇天である。なんとなく気分も、曇天だ(天丼なら食べてしまうのだが)。こういうすっきりしない日は、サンドバッグでも苛めて、気分を晴らそう! 私はかねてより、家庭に一個、サンドバッグを!などと訳の分からないことを提唱している。

 気分の悪いときや、腹が立った時には、思いっきり八つ当たりすると、結構疲れるので、ストレス解消と運動不足解消に役立つ。人によってはいざという時の護身にも使えるかもしれない(もっとも実戦はトレーニングとは全く違うので、少しくらいサンドバッグを叩いたりけったりしたくらいでは、やらない方が無難である。「生兵法は大けがのもと」という言葉もあるくらいだから)。

 ストレスのない人生など、ありえないのではないかと思うが、ストレスを減らす方向で工夫することは悪いことだとは思わない。カラオケ結構、ランニング結構、食べ歩き結構、散歩だって結構、いろんなストレス解消法がある。サンドバッグ最大の弱点は、吊るすところがなかったり、専用のスタンドを購入しても、場所をとってしまうことだ。それと案外周囲の人々がストレスを覚えるものがある。

 それは「音」だ。叩いたり蹴ったりしている人は、いい音がすると実に気分がいいものだが、隣近所で「さあ寝よう」なんて考えている人や、難問を解こうとしている人、習字でもやってみようか等々の人には、結構耐え難いものらしい。

 幸いなことに我が家はそこそこ広いので、比較的奥まったところで、現役中の私は、毎朝毎晩、砂袋を蹴っていた。するとこれが餅つきの音によく似た音になるんだよね。だいぶ前に亡くなったが、前のおばあさんが「何を毎日、餅をついているんだ?」と言った。もしかしたらおばあさんにはうるさかったのかなあ。でも音がしないようには蹴れないもんね。ごめん…… もっともこれは、ストレス解消のためにやっていたわけではないが。

 むかしむかし、まだ私がパチンコなどということをやる暇があった頃、憂さ晴らしにパチンコを打ったことがある。ぼろくそに負けて、よけい憂さが溜まってしまった。勝負事で憂さ晴らしってのは、失敗したときが怖い。その点サンドバッグは反撃してこないからねえ。気分よく殴らせてくれる。これがダブルのパンチングボールなんかだと、慣れないうちはクリーンヒットしないだけでなく、ボールから反撃を食らったりする。人によってはストレスが溜まるかもしれない。

 以前、ある女性から、「腹が立ったから、食器を割ってやった」という話を聞いて驚いたことがある。私は不注意で食器を買ったことはあるが、腹が立ったからといって食器を割ったりしたことはない。現役時代はもっぱら、瓦とかコンクリートブロック、杉板、レンガ、バットなんかを破壊していた。氷も何度かやったが、あまり好きではなかった。食器はその中に入ってない。

「腹が立って割るのなら、もうちょっと割っても許されるものにしたら?」というと、彼女は「腹が立った時に、とりあえず手近になければならない。あまり高価なものでもいけない。などなど考えたら、お皿なんかが一番手っ取り早い」と答えた。なるほど。私はこういった観点から食器を考えたことはなかった。

 で食器を割ったときの音、あの「ガチャン」という音がいいのだそうである。ストレス解消には、様々な要素があるようで、盛大な音がするのもいいのだそうな。でも結局、割った食器の跡片付けを自分でやっていたから、その時にはストレスは溜まらないのだろうか? 私はわりとこういった、本来しなくてもいいはずの後片付けにはストレスを感じる(それどころか、食器が割れる音も苦手だ)方なので、やらない(おっと、一度腹を立てて、コップを握りつぶしたことがあった。これも手が切れて、不要なストレスをためることになった。あ、思いだした。拳めり込み事件が。これは都合三度あるが、旧悪が露見するので、詳しくは語らない。語ればまたしてもストレスがたまるからだ。思い出してみれば、この手のストレス解消の失敗はいくつもやってるね。思い出すとそれがストレスになるから、思い出さないようにしよう)。

 ではストレスが全くなければ、それで素晴らしい人生かというと、そういうわけでもないようで、きれいさっぱりとストレスがたまらないような生活をしていると、物事を考え込んだりはしなくなる。何をくよくよ思い悩むのだ? ストレスもないのに。こうなったらデスクワークは、機械的なことしかできなくなる。

 考え込まなければならない時には、やはり適当にストレスがたまった状態でなければならないようだ。でも考えが煮え詰まって、二進も三進もいかない時には、やっぱりサンドバッグはいい(この他に私がよくつかうのは、熱いシャワーを浴びる。ジョギングに行ってくるなど。シャワーは効果がありますね、私の場合。ジョギングはやっているうちについつい気分がよくなって…ランナーズハイか?…やりすぎて、バタンキューで、仕事を忘れてしまうことがよくある)

 どうやらストレスも、ある程度は必要なものらしい。多くなりすぎたら解消を。少なくなりすぎたら、少しは悩み事を探してみるべきなのかもしれない。

2017年4月19日 (水)

モグラたたかず

 少しだけ黄砂が減ったように見えた今日である。山の白さが、今までよりもひどくなかった。でもお鼻の調子はよくない。今までさんざん花粉や黄砂の波状攻撃を受けてきたから、一日や二日では回復しないのだろう。

 に、しても今日は、天気はまことによかったのだが、風が強かった。外を歩いていると、「追い風」の時と「向かい風」の時、まったく前進スピードが違うんだね。おそらくこんな体験をした古代の人が、帆船なんかを考え付いたんじゃないだろうか。

 おかげで大気が入れ替わったのか、夕方くらいから冷え始めた。明日は今日よりもだいぶ気温が下がるらしい(地方局の天気予報による)。明日は1枚多めに着ることにしよう(だいたいが薄着なんだけどね)。

 さてと、目の前に圧倒的な危機が迫ると、人はかえって冷静になる。私も何度か体験したことがあるが、その都度、冷静になったことで、一瞬のチャンスをとらえて生還できた。だから今PCに向かってキーを叩けている。

「こりゃあ、本当に死ねるかも」と思った経験があることで、余計に落ち着くことはたぶんないとは思うが(その都度、新鮮な?体験だったし)、生きていることはいいことだ。生きてるんだなあと実感すると、その後の生き方が、少しだけ変わることが多かった。

 やっぱ、生かしてもらっていることへの感謝の念が、私のようなぼんくらにでも湧くのかなあと思うが、「無駄に生きちゃあいかん」なんて殊勝なことを考えるようになるから不思議だ(その割に、すぐにだらける?のだが。それがぼんくらのぼんくらたる所以なのかもしれないけど)。

 さて、危機に臨んで一番まずいのは、冷静さを欠くことではないかと思う。誰かが「キャーっ」と挙げた悲鳴で、そこにいた集団が一斉に浮足立つなんて現象は、わりとよく見られることかもしれない(まあ、「悲鳴を挙げるな」って言ったって、本能的に出ちゃう声は仕方がないんだけどね)。

 昔々、1933年制作の『キングコング』を初めて見たとき、キングコングに生贄とされたヒロインのアン(フェイ・レイが演じた)が、のべつ幕なしに悲鳴を挙げ続けるのを見て、子供心に「いい加減にこの女の人、気を失わないのかな?」などと感じたことがある。当時は白人女性はすぐに気を失う(映画でそんなシーンが多かった)と思っていたので、こんな空前絶後の怪獣に捕まったら、あっという間に気を失うだろう、いや気を失うはずだ、気を失うべきだ、気を失わなければならない、などと勝手に思いこんでいたからだ。

 実際はこのヒロイン役を決めるオーディションでは、悲鳴までがテストされたそうで、見事な悲鳴を挙げ続けるのも、監督さんの指示だったのかも知れない。(ちなみに私はこの映画が1933年に制作されたことに、今でも大変驚き感動しております。この感動は、レイ・ハリーハウゼンの『アルゴ号探検隊』を初めてみた時よりも勝っています。

 結局はこの作品中のコングは、騎士道精神(?)あふれる巨大なおさるさんということで、最後の方は、もう見ていてこちらが悲しくなってしまったのですが(あくまで私個人の感想ですよ)、同時にコングを見世物にして金儲けをしようと考える人間側の汚さばかりが目立っちゃいましたけどね。

 それはさておき、相変わらず緊迫したままの世界情勢ですが、意外なことに一番身近に感じなければならないところは落ち着いているようで、おかげで案外静かな(当事者さんたちにとっては、とんでもなく大変な状態だと想像しますが)毎日が送れています。

 私としてはこの静けさが、中学生時代に読んだネビル・シュートの名作『渚にて』の最後のシーンにならないことを願うばかりです。核に侵された地球で、静かに最期を迎えようとする人々を描写したシーンですが、いやもう、読後の感想なんて、ボーゼンしかありませんでしたからね(当時はまだ私も中学校二年か三年だった…と思う)。

 のちに小松左京さんの『復活の日』を読んだ時には、そこまではショックを受けなかったから、多少免疫ができていたのかもしれない(小松左京さんは、何度も日本や世界を滅ぼしているからなあ……)。

 情報は誰もが得る権利があるとは思うのだけれど、情報はまずそれを必要としている人に伝えられるべきだと思う。必要としていない人に、必要でもない情報を与えても、ただの話題提供にしなかならない。たとえば私がタレントさんのゴシップネタを知っていたとしても、それはまったく私の生活にも、周囲の人の生活にも、まったく役に立っていない。だから私は多くの場合、ゴシップネタはスルーする。

 その代わり自分に必要なネタだと思ったら、少々些細なことでも嗅ぎまわる。なかなか諦めるってことをしない。情報は、それを必要としている人には、絶対に必要だと思っているからだ。ことによったら、その人の人生までもが変わってしまうことがあるからね。

 でも「この人にこれを知らせたら、騒ぎまくって、大変な混乱が起こる」と思ったら、敢えてことが鎮まるまで何も教えないことって、確かにあるよね。たとえばある人に心配をかけない時なんかは、友人たちなんかにも「これ、絶対に黙っててくれよな」なんてお願いしたりして。

 知らないことが幸せで、知ってしまえば不幸にしかならないことって、確かにあるもん。なんでもかんでも全部教えてればいいってもんじゃない。それはある意味、無責任かもしれないから。不幸になるような話なら、黙っててくれればよかったのに、なんてことも、ままあるよ。ましてや知りさえしなければ、なんとなく解決できるかもしれないことでも、知ってしまったら大騒ぎになるかもしれないような場合には特にそうだ。

 ちょいと前、「臭いにおいは元から絶たなきゃ」云々と書いたけど、元から絶つにしてもいろんな方法があるよね。考えてみれば、臭いものを頑丈な容れ物で囲って、絶対に表に出てこないように密封するって方法もなくはないね。

 例えば悪さをして困るモグラがいたとして、ピンポイントでモグラのいる位置を特定して、モグラだけを捕まえようとすれば大変だけど、「ええい、面倒!」ってんで、モグラのいる区画を、側面も地表も、すべてコンクリか何かで覆ってしまえば、これはモグラとしても困るんじゃないだろうか(モグラなら、もっと深く潜って脱出するかもしれないね)。

 でもこうすればモグラを封じ込めることは可能だから、とりあえずモグラの害は避けられます。こういう作戦を考えれば、「もぐらたたきゲーム」なんて存在せず、「モグラたたかず」ってことで終わってしまいますね。ゲームでなくなるけど。

 おっと、冷えてきましたよ。今晩から明日にかけては、風邪ひきに要注意かな。今晩は無理をしないで、とっとと寝てしまうことにしよう(あ、練習を忘れてた。これからすぐにやって、今日は寝る…つもりです)。

2017年4月18日 (火)

無慈悲な……

 ちょっといい天気だと、すぐに蚊が室内に侵入する。常々言っているように、私は「専守防衛」なので、私の領土内に侵入した敵性の存在には、無警告で攻撃(反撃?)を加える場合がある。しかもかなり無慈悲な攻撃(反撃?)である。

 どんな無慈悲さかというと、蚊の場合は、嘴の長さを半分にちょん切られるというほどの無慈悲さだ。私の仕事用の机の上には、そのためだけに準備されたピンセットもあれば拡大鏡も鋏もある。私の蚊に対する憎しみは、決して小さくない。

 では慈悲に満ちた攻撃(反撃?)というとどのようなものかというと、「武士の情け(母方がお武家さんの出なもんで……)」が加わる。「武士の情けじゃ。一思いに」ということで、一瞬で抹殺する。苦しむ時間が短ければ、それが慈悲である。

 いつもいうように、蚊という存在は、人類の繁栄に何か貢献しているのかというと、不勉強な私には思いつかない。とにかく伝染病を媒介したり、刺されたあとの痒みなどという不快感を与えるものでしかない。今ではいくらか減少したが、かつては蚊が媒介する伝染病で、多くの人々が亡くなったことすらある(現在でも、決して少なくないのでは?)。

 グッピーという魚はボウフラをめちゃくちゃ食べるが、グッピーを育てるにはボウフラ以外でも、いくらでも餌になる生き物はいる。だから蚊は、この自然界に存在しなければならない必要性がないというのが、不勉強ながら私の決断だ。

 雨が上がると、雑草が無慈悲なくらい伸びていた。明日以降、暇があったら、今度は私が無慈悲なくらい、雑草を取ることになるだろう(たいていは途中で根負けして、「もうええわ。冬が来たら枯れる」などと言い出すのだが)。昨年から特に無慈悲な草枯らしを使用し始めたので(しかも効果的な使い方を覚えた)、それこそ無慈悲な状態になるのではないか(作物に悪影響が出ないように気を付けないと。私は、作物に対しては慈悲の塊である。ただその理由をよく考えてみると、作物に対する食欲がおおもとにあり、自分の食欲でしかない。これで本当に慈悲深いのか?と、自分でも疑わざるを得ない)。

 今年は近いうちにハンミョウの幼虫を探してこなければならない。ハンミョウは大変美しい昆虫なのだが、幼虫の時には、地面を這うものを食べる。私が子供のころには、我が家にもたくさんいたのだが、父が庭に土を入れて絶滅した。

 実は私は、土を入れる前の我が家の庭が大好きだった。ハンミョウの幼虫がそこここから顔を見せ、適当にアリなどを間引いてくれていたので、アリが増えすぎるということがなかった。ハンミョウが全滅してからは、入れた土について侵入してきたヤマアリが増え、本来我が家にいたアリは駆逐され、今や裏庭の一角で、ほそぼそと生き延びているのが確認されているだけだ。

 そこで昨年の夏、ついに私のヤマアリに対する怒りが爆発し(だって家の中まで侵入しようとしたんだよ!)、無慈悲な攻撃(反撃?)がさく裂した。わずか1日の攻撃で、一時は壊滅的なダメージを与えたかのように見えたが、2~3か月後、激減はしたものの、またもとの巣穴に出入りするヤマアリを確認した。(渡石の下を巣穴にしてしまっているらしい)

 今年もヤマアリに対する無慈悲な攻撃(反撃?)の準備はあるのだが、このくそ忙しいのに、アリンコの相手までしていられるか!という気分と、子供のころへの郷愁から、もう一度ハンミョウを、我が家の庭で繁殖させてみようと思い立ったのである。

 ハンミョウは乾いた地面を好むので、庭木を切り、雑草を駆逐し(私が練習をすれば、練習に使っている場所は、雑草は生えることができない。何しろ歩法や歩法の伴った練習が多い人だからだ。しかも摺り足…擦り足ではない…だから、生えても生えても、たちまち消えていく。雑草にとっては無慈悲な練習なのである。だからと言って、練習や私の生活に用いない場所に生えている雑草を攻撃することはない)、だいぶ地面が乾燥した場所も確保できた。

 あとはハンミョウの幼虫を探してくるだけである(成虫は羽があるので、気に食わなければ飛んで逃げる。私としては、気に食わなくても居ついていただきたい心境だ)。ハンミョウさえ居ついてくれれば、私がいちいちヤマアリなんかに無慈悲な攻撃(反撃?)を行う必要などなくなる。

 適当なところでバランスが取れれば、私としては無慈悲な行為から解放されるので、本来平和主義者の私は、我が家の庭に生息する生物の多様性を目指して、今年も活動する予定だ(蚊だけはどうしても許す気にはならないが)。

 私の無慈悲さは、無慈悲な行為をしなくてもよくするための無慈悲さであり、まさに「専守防衛」のためで、むしろ慈悲深い生活を目指すものだ。しかも人間を相手にしているわけでもないし、隣近所に迷惑もかけていない(はずだ)。つまり自分の意志を他者に押し付けるための無慈悲さではない。隣近所に迷惑をかける無慈悲さだったら、隣近所が私に対して無慈悲な報復をするだろうし、そんな生活をしてたら、自分のやりたいことなんか、やっている間はないもんね。

 自分のやりたいことをやり、生きたいように生きようと思えば、やはりある一定のバランスを作ることが大切ではないかと思う。そしてバランスのためには、ある程度は自分の欲を抑制しなくてはならない部分もございますな。でもそれって、すでに無慈悲ではなくなっているような気が……

※ しまった! さっきからうろちょろしていた蚊に、慈悲に満ちた攻撃(反撃?)をしてしまった。反射的に叩いたら、つぶれてしまったよ……

2017年4月17日 (月)

マイペース……

 昼前から降り出した雨が、なかなか大変な降り方をしております。水やりをしなくてもいいけれど(この雨天の中、水やりをしていたら、正常かどうかを疑われそうな気が……)、活動はしにくいですね。

 もっとも雨が激しくなる前に、外の用事はだいたい済ませたけど。(あくまで「だいたい」であって、完璧にこなしたわけではない。最低限度我慢できる範囲だ)最近気が付いたんだけど、悪天候のわりに「古傷」が痛まなくなった。それもこれも、ほとんど毎晩の站桩によるものが大きいと感じている。正しくさえやれば、こいつはいい。(あくまで「正しく」でないと、責任は持ちませんよ。站桩は「動いていない動き」なんで、いろんな効果が期待できます)

 下手に整形外科を頼って、痛み止めの薬漬けにされるよりはずっといい。もちろん、とは言っても、整形外科も必要な時はあるので、そういうときは迷わず利用するのがいい。ただ私の場合、3年ほど前に、近所の某整形外科で怒り狂って、診察券も受け取らずに帰ったことがあるからなあ。

 だって2時間待たされて、診察は2分で終了、あとは薬局で薬出しておしまいで、担当の医師のやる気は感じられず(だって診察時に、ノートPCの画面しか見てないんだよ!患者を見ろってえの!)、まったく症状は改善されなかったからだ。これを劇的に改善したのは、信頼しきっているY先生と、(Y先生の言葉を借りれば)「あんた(つまり私)の執念」ということになるだろう。ちなみにY先生は、医者が必要だというと、すぐに「医者に行け。こんな症状は○○の病院がいい」とまで教えてくれます。ほんとに患者さんを治すことが大好きなお人なんだね。

 こういうお方を存じ上げていると、たいていの傷は治せそうな気がしてくる。もちろんどんな治療であっても、百点満点の治療などは存在しないから、そこはそれ、患者本人の「どうしても治してやる」という気持ちが大切なんだけどね。(きつい減量と一緒で、最後は気合と根性の勝負です)

 それはともかく、明日の天気は「晴れ時々雨」なんだそうで、今晩はエダマメの第二次種まき(豆まき?)の準備をしておこう。初回まいたのは、緑のはほぼ出そろったのだが、黒が成績が奮わない。黒は旨いと評判なので、二回目は、黒を多めに蒔こうかと思ったりしている(第一次は、気温の変化が激しく、思ったよりも成長が遅かった。ちなみに大根など、2週間以上差をつけて蒔いたのに、今や後から蒔いたほうの成長が勝っていたりする。地面の温度の関係なのかどうかは知らないが、こんなことなら焦って植えないで、ゆっくりしてればよかった)。

 ま、「痩せ馬の先走り」って言葉もあるので、いい時期に、いいスタートを切るのが一番だろう。

 このいい時期ってのは個人個人で違うと思うのだが、実際の我々の社会は、日本だと4月になったら「せえの」でスタートを切らなきゃならない。花粉症なんかで死にそうなくらい苦しい人も、花粉も黄砂もどこ吹く風といった人も、同じである。

 私的には「花粉症はれっきとした病気である」と思うのだが、花粉症でない人にはなかなかこのきつさは理解できず、花粉症と一口に言っても、症状の軽重によってダメージが異なる。だから職場や学校などでも、これといった決められた対応はなされていないのではないだろうか。

 もしも花粉症や黄砂のせいで、「出遅れたかも」と思う人は、あと3週間の辛抱です。そこから捲土重来、逆転目指して頑張るのも、一つの手です。なにしろ出遅れてしまった人間は、他人が自分より先を行きますから、格好の追い抜くための目標がいてくれます。

 先行逃げ切りはなかなかしんどいですが、適当な間隔のままでぴったりと張り付いていき、相手の息が上がったときに、一気に抜き離してしまうのも、一つのやりかたです。そのためには、追走しながら自分の状態を整えておくことが大切です。

 人生は長丁場ですから、やり方はいろいろとあります。また必ずしも他人と同じ道を歩く必要もございません。最終的には自分のペースで走り切った者が、一番大きな実りを得ることができるのかもしれません。人を気にして、自分のペースを崩してしまう方が、はるかに怖いです。

 それは自分の人生ではなくて、自分が気にした人の人生を、強制的に生かされていることになります。いいライバルを見つけて競争することはいいことですが、勝敗にこだわりすぎれば、かならず自分を見失ってしまいます。そのために一番大切なのは、自分のペースを知ることですね。

 世間の人は自分のペースを英語のマイペースと訳しますよね。で、マイペースというと、なんとなく「ゆっくり」というイメージがありますが、マイペースとはゆっくりと行うことではありません。短気な人に「ゆっくり」といえば、かえって自分のペースが掴めず、自滅することだってあります。

 他人から見て「全力疾走じゃないか」と思えても、本人にとってのマイペースがそれなら、わざわざゆっくりとする必要はありません。ゆっくりとした人が速く動けないのと同様に、速い人はゆっくりと動けないことがあるのです。

 時々「そんなに慌てないで、ゆっくりと、マイペースで」なんてアドバイスしている人を見かけたりしますが、私は(口には出さないものの)、内心、この人は実は自分がのろいのか、実際に仕事をしたことがないのだと判断します。

「Slow and Steady wins the race」(ゆっくりと着実なのが勝つ)なんてえことを言いますが、そうかなあ。本来スピードのある人にゆっくりさせたら、かえってミスが増えたりするんだけどねえ。

 人はその人本来に最も近い形で物事を行うのが、最も成功に近いんじゃないかと思いますけど(勝ち負けには関係なく。たとえば速さを競えば、遅い人は速い人には勝てません。世の中すぐに「ウサギと亀」なんて話を引っ張り出してきますが、世の中のウサギが全部、途中で昼寝したりはしませんからね)。ここでいう成功とは、人生としての充実という意味合いが強いです。

『老子』に「跂者不立、跨者不行(跂つ者は立たず、跨ぐ者は行かず:つま先立ちになっているものは、長くたち続けることができず、大股で行こうとする者は遠くまで行けない)」とありますが、自分が本来発揮できる能力以上のものを発揮しようとすれば、必ずや目的に到達するどころか、案外早くつぶれてしまうのです。(ちょうどアメリカが軍備競争をソ連に仕掛け、アメリカと競争するために経済に負担をかけすぎたソ連は、経済的にもたず、分裂してしまったのと似てますね。今現在も、同じ道を歩こうとしているところもあるみたいですが…ただし国民の平和を安全を守ることは大切だと思いますよ、絶対に)

 だからマイペースって、人によってみんな違うんです。ちょうど私が蒔いた大根の種みたいに、いい時期にいいタイミングで植えれば、最初の遅れなんてみるみる追いついてしまいますもん(たぶんこのところの雨の影響もあって、来週には逆転しているかも)。 

2017年4月16日 (日)

出る杭は打たれる、出た腹は邪魔になる

 昨日とは打って変わって、良い天気でございましたなあ。特に日中は暑いくらいでした。(私はもう完全に、夏モードでした)しかしながら、良すぎる天気の翌日は、ほぼ必ず崩れるの法則通り、明日はよろしくないという天気予報でございます。(お出かけの際には、雨具を忘れないように…って私は雨具をもっていったことがない人なんですが。本来「晴れ男」ですし、仮に雨が降っても、ダッシュ!で済ませてしまいます)

 昨夜はF先生が突然参加してくださったりして、予想外の大盛り上がりの『○○を語る会』になってしまいましたが(大変楽しゅうございました)、帰宅後、きっちり最低限度の練習はやりました。で、寝ないでいようかな?と思ったんだけど、とうとう午前4時過ぎに、お酒の酔いも手伝って、力尽きました。くたばってから目が覚めたらすでに、どこかの国が花火を打ち上げたということでした。自称大国の某国の抑えは効いているのかな?

 ただ、打ち上げ失敗ってのも同時に言われていて、「あれ? ここんところ続けて失敗してね?」と思ったのも事実でございます。私は決して某花火大好き国家のこの方面の技術力は低いとは思っていないので、むしろ続けて(前回のは、失敗とは断定できてないみたいですが)成功しなかったことのほうに、ひっかかりを感じましたな。

 歴史を見ればわかりますが、どちらかに有利なことが、正当な理由もなしに連続するなんてことはありません。運命の(女?)神様は移り気な(浮気性?)のです。たしかに「運」の存在は否定しませんが、いつまでも運がついたままってことはございません。たいてい人為的な働きかけがあったりするものなのです。つまりは現実的な力が働いた結果ではないかと思うんですよね。

 次の花火も失敗したり、不調に終わるようでしたら、まず人為的な力が働いていると考えた方がよさそうです。ま、いろんな人がベストを尽くして、人々が不幸にならないように頑張ってくれていると思うので、私としてはこういった人々の「幸運」を祈りたい気分なんですけどね。

 さてさて今年の桜は、咲き始めが遅かった分、一気に咲いて満開になり、一気に散ってしまいましたな(雨風を影響もあったけど)。まだいくぶん花が残った木もあるけれど、人々もすでに花見気分が終わったみたいに見えます。

 風の『ささやかなこの人生』に、花びらが散った後の 桜がとてもつめたくされるように…とありますが、こうなると人々はもう桜なんかに見向きもしません(夏には毛虫がたくさんいたりするから、見たくないのもわからないわけではないけど)。桜が注目を集めるには、もう一年待たなければならないのです。

 人々から注目される時期ってのは、このように短いもので、一度時期を逃してしまえば、また長い間待たなくてはなりません。(鳥はサクランボ…ソメイヨシノでも、小さなサクランボができます。食べるととても渋くて不味いです。私は鳥と競争して食べたことがありますから、知っています。いわゆる「口が曲がる」ような苦さで、小鳥はよくもまあこんな苦いものを食べるもんだと感心いたしました…や、桜の木に湧いた毛虫を食べたりするようですが)いつまでも花が咲いたままだと、桜の木もしんどいのかもしれませんけどね。

 さて(私にとっての)花粉の季節も、例年通りならば、あと3週間というところでしょうか。数年前までだったら、GWには国外逃亡をして花粉がないところに行き、帰国したら花粉症は治っていたというパターンだったのですが、ここ数年は私の生活パターンが変わったので、GWのどのあたりまで花粉症で苦しむかがわかってきました。

 昨年の私は、特に花粉症がひどかったので、GWが終わっても、しばらくはグスグスやってました(もっとも最後のほうは、ほとんど花粉というよりは黄砂でしたが…ちなみに現在の症状も、花粉:黄砂=4:6くらいの割合ではないかと思います)。ま、今年はてきぱきと所用を片付けて暇を作り、釣り糸を垂れてみようかと考えていますので、ミサイルなんか飛ばしちゃいかんぞ!と思ってます。

 個人的な欲望のために、何億人という人間の生活に、悪影響を与えてはなりません。どんなに高尚な理屈を唱えても、個人個人の幸せという観点からみれば、ただの「屁理屈」でしかありません。いろんな哲学書を読んで、すごく深い思索に感心することがありますが、それでも人間個人個人の幸福という観点から見れば、「取るに足りないモノ」に過ぎませんからね。

 そういった意味でも楊朱の思想は面白いです。楊朱自身の著書は残されておらず、ほかの思想書から彼の考えを垣間見ることしかできませんが、戦国時代前期~中期?という動乱の時代で、個人の権利、個人の幸福を唱えた、まれにみる思想なのではないかと、私は感心しております。(もちろん当時の社会情勢には適合せず、楊朱の思想は消えていき、さらにはあの国が得意とする「尾ひれ」を盛大につけた改ざんによって、「超利己主義」の汚名を着せられていますが)

 人間、ほどほどに生きるのが、もしかしたら本当の幸せかもしれませんよね。人よりも美食をしたところで、どうせ胃袋以上には食べられないし(フードファイターは別ですが、あの人たちだって、「食べることを楽しんでいる」とは思えませんし)、食べて食べてどんどん太れば、健康上で様々な問題が起こるばかりです。何事でも「出る杭は打たれる。出た腹は邪魔になる。食べすぎには胃薬が必要になる」ってことです。

 分不相応に出すぎようとすれば、花火を打ち上げたりしなくちゃなりませんからね。ただの花火なら、人を楽しませてくれるんですが、厄介な花火は、迷惑にしかなりませんから。

 そして人に迷惑をかければ、かならず恨まれます。恨まれてちゃ、幸せになんか、絶対になれっこないですよ。

 

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