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2017年6月25日 (日)

らしい…

 今日はまったく梅雨らしい天気でした(昼間はだいぶ降らなかったので、その間にやりたいことはすませたけどね)。でも気温的には大したことないのに、湿度が高いのか、気持ち悪い一日でしたよ。

 昨日移転させたグッピーは、期待に背かず、水たまりのボウフラを一匹残らず食べつくしていて、「こりゃ、明日から餌やらないといかんね」状態でしたし(これがまた屋外なので、気温が下がり始める季節には回収するんだけど、どこまできれいになっていることやら…基本、原種に近い個体を使っているので、そんなにびっくりするほど美しくはならないと思うけど。それでもわからない。生物が生まれつき持っている素質は、時に想像をはるかに超えることがあるから…ディスカスなんかでは、こちらの予想を覆されることの連続だった)、折からの雨降りで水嵩の増した水たまりでは、スイレンの花のすぐ横で、チョウセンブナが暴れてましたし(あれはきっと、すでに産卵が終わった証だろうか)。

 ゴーヤがばんばん花を咲かせているので、これはもう大変なことになりそう(蔓が巻き付くことができるように、今日はちょっとばかり細工をしました)。先日、某台湾料理店にマスターに、ゴーヤを使った簡単な料理を教わったから、ある程度は善戦できそうだけど、もしもあの花がすべて実になってしまったら、もうそこから先は「マスター、助けて」しかないんではないだろうか。

 我が家で作った作物は、農薬はおろか、肥料さえろくろくもらえない環境でできているので、味についてはまさに絶品。濁りがない。ま、実ってからまた考えよう。無害かつ美味しければ、必ずや需要はあるはず。(金とらないし)

 それと今日は、雨降り模様だったので、種まきをしましたね(水やりの面倒がないので)。万一これが芽生え、結実するようなことにでもなったら(何年かかることやら)、とても楽しいことになりそうだ。

 この梅雨は、ほかにも何種類か種まきの予定なので(食べるものもあれば、花を楽しむものもある。花は食えないけれど、心の食べ物にはなる)、適度な降雨は、むしろ歓迎でございます。

 とまあ、種を蒔いていれば、もしかしたら実りに期待できるかもしれないわけで、種を蒔かなきゃ、実りは百パーセント期待できない。蒔いていれば、「もしかしたら」という期待は持てる。そのためには今日みたいな、屋外で活動しにくい一日を、どうやって活用して仕掛けを作るかが大切だ。

 もちろん状況判断は大切だ。私が今「種まき」に選んだのは、降水量と気温。(これはグッピーを屋外に出したのも同じ。ただしこの季節、小型の魚を屋外に出すうえで最も気を付けなければならないのは、水温の急激な低下。一つ間違えると、白点病がきて全滅する危険が想定される。このあたりも読み切らなくてはならない。ある程度の大きさの魚ならば、体力的に耐えられるので、耐えているうちに処置することは簡単なんだけど、小型の魚は体力がないので、処置が間に合わないことが多い。処置について詳しく知りたければ、また…)

 周囲の状況を読まずに、自分の都合や思い込みや妄想だけでことを運ぶと、とんでもない事態が発生することがあるから、要注意。世界中の思惑を考えずに、オリンピックで面白いことを言い出したどこかにも共通する問題だ。

 いや、スポーツを媒介として、仲良くすることは、とても結構なことだと思うんだよ、私は。でも「流れ」ってのは大切だよね。流れを無視して、理想論を振り回せば、これまた適切な状況判断不在のまま動き出すのと同じだからね。

 いくら美しいスローガンを掲げても、それが周囲の状況や流れにそぐわなければ、無効になるどころか、とんでもない悲劇につながりかねないからね。オリンピックだって今まで何度か、戦争のために中止になったりしたことがあるわけで、スポーツが平和に貢献するとは思うけれど、状況判断が適切な場合に、適切な手順を踏んでという、絶対必要条件ってのがあると思うんだね。

 もちろん中止されたオリンピックの時に、ちょうど自分の競技人生のピークだった不幸なアスリートはいるだろう。気の毒ではあるけれど、スポーツは平和に貢献できるけれども、同時に平和でなければ、安心して競技できない場合もあるからね。ましてやスポーツと政治が切り離せない状況で競技しても、果たして公正な競技が行えるのかと心配になったりするし。

 選手は生命がけでトレーニングし、生命がけで競技するのがあたりまえだけど、それにふさわしい審判が行えるのかも不安だったりすると、これはもうどう言えばいいのかわからない。ましてや政治的な思惑がもろ入ってきそうな気配がすれば、「安心して競技に集中しろ」ということすら無責任なんではないかと思えたりする。

 真っ当なアスリートは、政治的なことなんか考えないで、ひたすら己の限界に挑み続けているんだからね。そこに見ているものに「純粋な感動」を与える原動力があるわけだから。周囲は、一切ほかの要素を除いて、純粋に競技のみを評価する状況を作り出さなければならないと、私は思うんだよね。

 競技施設、宿舎、交通網、経済などなどにも問題が未解決だといわれているし、そのほかにもいろいろありそうな雰囲気なのに、この上新しい問題を自ら提案して、本当に開催できるのかという心配は大きい。

 どこの国の選手であれ、目指した競技会で、その人なりの最高のパフォーマンスを行うことができて、それでほかの選手のパフォーマンスと比較して競技成績が決まる。せめてオリンピックや世界選手権は、こういう競技会であってもらいたいものだ。

2017年6月24日 (土)

 今日も滑り込みセーフでした。雨が降るって予報は聞いていたけど、最初から雨降りモードはもったいなさすぎる。ということで立派に洗濯し、これを干して、合間に小鳥の餌場に餌と水をセットし、あれこれやったのち外出。帰宅後、庭の作物の熟したのを収穫(これがまた驚くほど多かった)、それから屋外でしかできない練習にお出かけ。

 ジョッグも最後の1㎞ほどは雨が降り出したが、さほど激しくなく、この季節のジョギング中の雨を好む私のことだから、かえって気持ちがよかった。帰宅後シャワーを浴びていると、ザンザン降り(ザーザー降りとも)になり、なんとなく面倒しいから料理を始めて、終わったら知らない間に副食が8品になっていて驚いた(作るのに夢中になっているうちに、やらかしてしまうんだよね~)。

 そうそう、前回の大雨の日に、とうとうヒキガエルたちが脱走し、後にはボウフラの湧いた水たまりしか残らなかったので、とうとう今日はこの水たまりに、グッピーを2ペア(+稚魚1匹。こいつはどこからか紛れ込んだ)を放した。

 1~2か月のちに再調査してみるつもりだが、いったい何匹になっていることやら(ボウフラが1匹もいなくなるのは、火を見るよりも明らか)。野生に近い形質のグッピーだから、たいして殖えないかもしれないけど。ボウフラは間違いなくこの水たまりでは全滅する。グッピーは「ほどほどのところ」で食べるのをやめたりはしない。徹底的に食べつくす魚である。

 外見の可愛さと本質とはかなり異なり、貪欲である。(私は個人的に、同じ重量の魚の10倍近くは食べるのではないかと思っている)私は蚊という害虫は大嫌いだ。グッピーも最初は好きではなかったが、某ペットショップの店主に嵌められ、当時超高価だった、この世のものとは思えないほど美しいグッピーのペアをいただいてから、見事にはまった(後に、このペアは血が濃くなりすぎでいたので、別のものと掛け合わせ、さらに美しい種を固定した。これは私は表には出していない。自宅で一人で眺めて、うっとりしていた…水槽全体が輝くほどの美しさでしたよ!嘘偽りなく)。

 あとは餌場に小鳥だなあ。今日、正式に開店したばかりなので、最初からお客が来るはずはないのだが、一応雨には濡れないように作ったはずなので、雨宿りにでも立ち寄ってくれれば、「あらまあ、こんなところにおいしいご飯とお水が!」てな具合にならないかと期待しているのだが、そんなに物事は簡単にはいかないかもしれない。

 昨夕、親友K氏のお店に立ち寄ったのだが、K氏は、スズメはおろか、野生の鳩まで餌付けする勢いであった(ハトが立ち寄って、水槽の水を飲んでいくんだね)。我が家の餌場は、鳩には小さすぎるように作っているが(私は鳩の鳴き声や習性は、あまり好きではない)、最初に来るのはなんでしょね? やっぱ雀かなあ。

 今日ジョッグしていてたくさん見かけたのだけど、百間川では雑草の刈り取りをしてくださっている。これは私のようなジョガーから見れば大変ありがたいことだけど、お家をなくしたヒバリが、途方にくれて、刈られた草の集積所にたむろしてた(カップルばかりなんだよ)。

 昔私は、親に捨てられたヒバリのヒナを、とりあえずはなんとか野生で暮らせそうなところまで育てた経験があるが、ヒバリは飼うことはそんなに容易ではない、なにしろ空高く舞い上がる鳥だからね(天井が高い鳥かごで飼う人もいたみたいだったけど、何十メートルもの高さの鳥かごなんて不可能だから、ヒバリにはストレスが溜まったと思う)。

 今では野鳥を飼育するには資格を取らなければならず、ある意味いいような悪いような時代になったけれど(私は飼育する気は、まったくございません。鳥の飼育を始めたら、1~2日の旅行すらできなくなりますからね)、あのヒバリを野生に戻すときの記憶は、おそらく死ぬまで忘れられないと思う。

 一所懸命育て上げた生命と別れる瞬間ってのは、それはもう寂しいものです。ヒバリはしばらくきょろきょろしたあと、思い切って飛んでいきましたけどね。出会いは嬉しいけど、別離は寂しいものなのです。

 だから私は、一時の感情で生き物を飼うことには賛成していないんだけど。飼うのであれば、せめて死ぬまでは面倒を見続ける覚悟が必要だと。だからチャーちゃんのあと、猫もかわいいんだけどね~、と思いながらも手を出しません。私は時々家を空ける人だから。

 よほど切羽詰まった状況ならば、短期間なら飼育もしなくはありませんが(飼い方は知っているので。子供のころから、慈悲深い母の影響か、いろんなものを飼った経験があります)、それも救急的な場合に限ります。

 情が移ると、別離が悲しくてね。基本、生命と生命の出会いであって、別離は死別だと思うたちなので。

 情が濃いと、いろんな苦労がございます。でも人が感じないかもしれない苦悩や苦労は、きっと私自身を磨いてくれているんではないかと思ってますけどね。

2017年6月22日 (木)

共同開催!?

 なんだか一気に梅雨らしくなりましたね。気温的にはさほどでもないものの、このムシムシ感は、梅雨特有の気持ち悪さでございます。ところが世の中には、この気持ち悪さなど物の数ではないらしく、なかなか面白いことを言い出す人がいるようです。

 へ? 今更、共同開催? ……そう、来年の冬季オリンピックのことなんですけどね。もちろん決定ではなく(決定してたまるか!IOCが黙っていないと思うよ、きっと)、検討なんだそうですが。

 あのねえ、本番まであと何か月あると思ってんの? オリンピッククラスの巨大なスポーツイベントに、どのくらいの準備期間、財力、人力、その他もろもろの要素が必要かわかってんの? しかも今から(本来敵対しているはずの)隣国に会場の一部をもっていくって、正気?

 もしもこれを本気で考えているとしたら、実務を一切知らないで、夢ばかりを語る「子供」だ。もしも別の目的をもって言っているとしたら、最初からオリンピックの政治利用しか考えていない(スポーツな側から見たら)、いい人とは言えない人たちだ。それとも「やる気がない」のを、実現不可能なことをぶち上げて、失敗させることで胡麻化そうとする「策士」だ(世の中、いい策士だっているんだけどねえ)。

 建物を建てる場合でも事業を始める場合でも、基礎、土台の部分が大切で、基礎工事とか土台の規模を無視して、夢みたいな構想を途中から加えれば、建物は崩壊するし(なんか、ヤバい建物もあるみたいですね)、船だったらトップヘビーになって転覆する(なんか、そんな事故、ありましたよね?)。どんなに腕力が優れた人でも、足腰が弱ければ、とても重たいものを持つことはできないのと同じだ。

 基礎工事とか土台作りの段階で、「ここまでは大丈夫」という、上に乗るべきモノの絶対量は決まってしまうもので、仕上げの段階で改変できることなんてのは、外見上の僅かなことでしかないと思うんだけどね。

 仕上げの段階で、大幅な変更、あるいは基礎的な変更なんてのは、無理。何度も言っているけど、無理とは理がないこと。理がないことをやらかせば、成功はおぼつかない。こんなことは、何らかのイベント(たとえ小規模でも)でも主催したことがあれば、知ってて当然のこと。知らないということは、やったことがないか、あるいは自分が主催したような顔をして、実際はスタッフさんや、ほかの人々に丸投げしていたかだろう(こんな人、けっこういますね。私が今まで出会った人の中にも、両手の指の数より多いくらいいました)。

 もちろん人間の能力は有限ですし、一日は誰にも等しく24時間しかありませんから、何もかもすべてを一人でやるわけにはいきません。優秀なスタッフさんを、上手に用いる能力が不可欠になるんですけど、今更、会場を隣国に分散するったって、スタッフさんはいるの? 誰が2国間にまたがって指揮を執るの? 解決しなきゃならない問題は山盛りでしょうがね! 最短でも2年以上前から取り掛かるべき問題なんじゃないかな(2年でも短すぎる?)。

 ましてや今の国際情勢を考えてみれば、このほかにも大きな問題が覆っていますよね。こんな問題、気にもならない? いや、あなた(複数かも)が気にしなくても、オリンピックって多くの国が参加して行うもので、中には気にする国だってあるんだよ。そうなると、どう話を取りまとめるのかね? 容易な話ではないような気がするね。

 ではどうして、こうも容易でない話を、安易に公表したりするのだろうか。責任感を持っているのかね?「言うだけならタダ」って言葉があるけど、あれは一般庶民の話。責任ある地位の人が発言すれば、とても「言うだけならタダ」というようにはいかない。何せ何千、何万って人が動くんだから。

 自分の一言で、何千、何万人の人が動き、それによって生じたコトの責任は、自分の口にあるということが自覚できれば、人は軽々しい発言はしなくなる。軽々しく発言する人が他人からあまり信用されないには、そのためだ。自分のひとことで、傷つく人、損害を被る人、しなくてもいい苦労を強いられる人、いろんな人が現れる。それがわかっていれば、責任ある立場の人は、むやみな発言は控える。

 これは「忖度」まではいかないが、「人の心を慮る」ためだ。人の心を慮ることができなければ、空気の読めない言動が平気でできる。自分の都合しか考えていないから、今何をしてはならないか、何を言ってはならないかがわからない。それで自分は「いいことをした」、「優れた発言をした」と思い込んでしまう。完璧、自己中、自己美化の化身だ。

 人間、子供のころは、周囲の大人の中で親切な人が、注意してくれたり、叱ってくれたりするが、相手が大人だと、眉を顰めることはあっても、親切に忠告してくれたりはしない。そうしてその人の傍から、そっと離れていくだけである。近くにいては損害を被ることがあるからだ。

 これは大人同士の付き合いでは、きわめて一般的な反応である。「お互い大人なんだから、自分で気づけよ!」である。そうして相手が何かして、結果が出てから、批評してくれたり、それすら無視する場合もある。(私としては、結果にも口出しする気がしないけど。「君子之交淡如水、小人之交甘如醴《荘子・山木》」というではございませんか!)

 実務に疎く、脳内で物事を片付ける習慣があると、いろんなことが起こります(あるいは起こそうとします)。これに付き合うと、疲れるばかりだったり、いやな思いをすることが多いです。実務に堪能な人は、粛々と実行していくだけなので、表向きは派手だったり、目立ったりはしないんですけどね。付き合ってて楽しいのは、こういう人ですね。

 ま、話題の提供が目的なら、面白いんじゃないですか。もちろんその話題によっても、思考や発想のレベルがわかるんだけどね。でも話題の提供のために、右往左往させられる人たちは、気の毒です。

2017年6月21日 (水)

石の中の刻印

 水やりもなにも、えらい低気圧が南岸沿いに東へ移動して、昨夜は土砂降りでしたな。おまけに風も強かった。庭の作物に被害が出はしないかと、気が気じゃあなかったが、朝起きてみると、ミニトマトが2つ落ちていたほかは、被害はきわめて軽微だった。

 私は「完熟」を目指しているので、すでにミニトマトなんかはちょっと触れただけで落ちる。かなりやられただろうなあと思っていたが、けっこうみんな気合を入れて、枝にしがみついていてくれてたようだ。晴れの日が何日か経過してから収穫いたしますね。雨降り直後は味が水っぽくなっているから。

 さて低気圧が南岸を東進したので、今日は涼しい風が強く、非常に過ごしやすかった。(夕方走っているとき、向かい風が強かったが、涼しかったので許してしまった)このまま、あのくそ蒸し暑い夏なんかこなきゃいいのに、なんてことを思ったりするが、日本の夏はくそ蒸し暑いのが本来の姿で、あの気候でなきゃできない作物もあるわけだから、最低限度の蒸し暑さは我慢いたします。でも最低限度にしてくれると助かります。(ぜったい私が子供のころよりは蒸し暑くなっている)

 セミだって、昔はとてもポピュラーだったニイニイゼミなんか、今はほとんど見かけない。私が子供のころには、クマゼミを捕まえると、結構自慢できたものだが(それほど少なかった)、今では右を見ても左を見てもクマゼミだらけ。クマゼミは本来南方系のセミで、若干亜熱帯に近いところのセミだったのに、今や我が家の近く(我が家の庭にもいます。毎年たくさんのセミのウマが地中から出て、そこいらじゅうで羽化しております)のどこでも見かける。間違いなく、気温が上昇している証拠だ。

 昔は当たり前だった生き物が当たり前でなく、希少種になり、昔は希少種だったはずのものが、今は当たり前になる。生物にも栄枯盛衰はありますから、当たり前のようにも感じられますが、環境が変化している指標とも考えられます。んなこと言ったら、中生代のジュラ紀まで遡ったら、日本だって熱帯だったりしたわけですから(もちろん、この時代には、今の日本の南岸部を形成する付加帯は、今よりは多くなかったと思いますが)ワニがいたり(大阪府から化石が出てますよね!)したみたいです。

 ワニといえば因幡の白兎?と考えたくなりますが、あれはワニザメという不可思議な生物であり(ワニかサメか、どちらか一つにしろ、と言いたい)、海であればサメである可能性が高いんじゃないかと思ったりしておりますが、サメにしたって暖かい海が好きだから、要するに暖かかった? あるいは暖かい地域の伝承が、因幡のあたりにまで伝わっていた?ということですかね。

 地層的に言えば、中国の遼西から日本の福井あたりまで、熱河地層が続いているので(遼西では「羽毛恐竜」の化石がたくさん発見されているので、そのうち福井あたりでも…と期待しているのは、私だけでしょうか?)、様々な恐竜の化石が発見されていることに、なんの不思議も感じません。ま、大陸は昔は今とは違う形をしてたから、何が発見されても、あまり驚きませんけどね。

 私は子供のころから化石が大好きで、小学生時代からあちこちで採集してまいりました。残念なことに高校三年生の時、家を建て替えた際に、どこかにいっちゃったんだけど、今はまた収集を再開しております。昔に比べると、最終しにくくなっちゃった面もあって、ちょっと残念ですけどね。

 ただしこの趣味、やたらと重い。なにしろ敵は「化石」ですからね。石になっているので重いし、化石だけがぽつんと露出しているようなケースは極めて稀。特に古い時代のは、硬い岩石の中にあったりするので(石灰岩なんか、ほとんどが生物の死骸なので、その中からめぼしい化石を取り出さなければなりません)、とりあえず発掘現場では細かい作業はできませんから、でかい石(というよりは岩かな?)のまま持ち帰り、家で細かい作業をすることもございます。

 いやあ、なかなか肉体労働ですよ。持ち帰るだけで。石灰岩なんかはとても固いので、あとあとの作業も難儀いたしますが、なんといっても持ち帰るのは、明らかに筋トレの類、あるいは何かの強化合宿に紛れ込んでしまったんではないかと諦めています。楽しいけどね。

 で、あとでよくよく考えてみると、こんな何千万年、何億年前に死んだ生物の死骸やその痕跡を見て、何が楽しいんだろうかと不思議なんですけど、なんでかな。やっぱ好きだからかな。好き嫌いには、理屈の通った説明は不必要ですからね。

 強いて言えば、昔から生き物がいて、一所懸命生きて、死んで、そのあとを受け継いだ生き物がまたその生命のバトンを何モノかに渡して、それを何百万世代、何千万世代も受け継いだ果てに、今の世界があるってことに対する畏敬の念があるのかな。子供のころにはそんな難しいこと、考えたこともなかったけど、最近になってそんなことを考え始めたよ。

 その中には、食べるものもいれば食べられるものもいただろうし、敵もいれば味方もいたに違いない。でもとにかく頑張って生きて、死んで…… 何千万年、何億年経過してみると、凄絶な生存競争を展開したモノたちが、仲良く化石になってたりするんだよね。

 そんなものを見ていると、悠久の時の流れの中では、激烈な争いすら、わずかな刻印を岩の上に残すだけなんだなあって、ちょっと哲学してしまったりするんですな、柄にもなく。

2017年6月20日 (火)

すべりこみセーフ!

 夜になって、なんと久々の雨になった。私はいなかったから知らなかったのだが、梅雨入りしてからちっとも雨が降ってなかったのだという。梅雨入り宣言前にはさんざん降って、梅雨入りしてからしばらく降らないってことは、今までもちょくちょくあったことだが、今年は、私がいなかった間から、帰国しても、ずっと降っていない(おかげで朝晩の水やりがしんどかった)。

 もしかしてこれは、晴れ男の私の「祟り」なのであろうか(私には「祟る」理由はありません。理由もなく祟るほどのわからんちんでもないつもりです)。なにしろ今回の外遊も、行く先々で土砂降りを止め続けた旅でございましたからな(私がいなくなったとたん、降り始めたそうな。恐ろしいことでございます)。かつては私が長期滞在をしたため、水不足に陥らせ、散水車が登場したこともございました(さすがに罪の意識が芽生え、「俺が外で活動していないときは、降ってもいいんだよ」と空に向かって話しかけたことがあるくらいです)。

 いずれにしても今日は、午前中から曇っていて、おかげで(湿度は高いものの)気温があまり上昇せず、適当に風もあって、過ごしやすかった。湿度から考えて、もうそろそろ降ってもいい頃だがなあ、と思っていたので(私の住んでいるところは「晴れの国岡山」でも、比較的雨が少ないところだが、とても幸運なことに「水不足」になった記憶がない。つまりは水不足にならない程度には、上流かどこかに雨が降っているのだ)、とりあえず、夕方とっとと走りに行って、帰ってからソッコーで、小鳥の餌場の建物部の仮組み立て&塗装(80%)、雨が降ると、せっかく完熟した作物の甘みが薄くなるので、急いで収穫(すでに薄暗かった)。

 さらには、もしも降水量が少なかったらと、水やりが必要なものには水やりをし、チョウセンブナの水たまりの睡蓮が、咲いたはいいが、網にひっかかって、閉じることができなくなっていたのを、網の高さを少し高くし、隙間からトンボが入らないように処置して(先日から、ここに産卵できないとイライラしているのか、シオカラトンボ&ムギワラトンボのカップルが執念深く狙っているので。ヤゴが孵化すると、稚魚には致命的なダメージがある)、終わったらさすがに暗かった。

 それから晩御飯を作って食べていると、降り始めましたな。もう準備は万全なので、明日の朝の水やりがサボれる程度には降っていいよ。滑り込みセーフ!ってやつでございます。ああ、忙しかった。しんどかった。(おかげでスピード感あるリズムが作れたけど)

 いい流れの時は、だいたいこんなパターンになりますね。悪い時には、走り出したとたんに雨が降り出したりして(やると決めたらやる人なので、雨が降っても走りますけど)。こうなったらもうやけくそですわ。自分で決めたことは、よほどのことがない限り、やる。それが私のやり方だからと意地になりますが、それでも不快なことは確か。不快はよくありません。楽しくない。達成感はあることも(ないことも)ありますが。

 達成感って、それだけでは実績にはならないことが、わりとよくあるんですよね。「自分的には頑張れた」なんて言っても、何にもなってないことって、けっこうありますから。「経過が大事だ。結果なんかに大した意味はない」なんてことを仰る御仁もおられますが、一所懸命やったのに、それが誰にも見向きもされないのは、けっこう寂しいことです。  私は基本的に、「経過が正しければ、いやでも結果に現れる」と考える方なので、やっぱ、結果は気になりますよ。裏を返すと、いい結果が得られないということは、経過のどこかに誤りがあったんではないだろうか、ってことでもあるんですけどね。

 おうおう、などと言っているうちに、わりと本気で降り始めましたよ。晴れ続きで地面が乾きすぎていたので、いいお湿りになるといいですね。とりあえず今日はもう、屋外ですることはないので、私は安心です。

2017年6月19日 (月)

本当の味わい

 あ~、我ながら、何度飲んでも、自分で淹れたアイスコーヒーが旨い。放っておくと、1日に20杯くらい飲みそうな気がするが、そこは自制しないといけない。美味しいものは、めったやたらと食べたり飲んだりしていては、美味しさがわからなくなる。感謝の気持ちがなくなる。でもとうとう我慢の限界がやってきまして、飲むカップがついにジョッキになってしまいましたよ。回数飲まないのだから、一度に飲む量を増やしてやろう、なんて。…人は弱い生き物だなあ。

 昔、初めて中国で生のトマトを食べたとき、白いものがてんこ盛りにかかっているので、「中国ではこんなにも塩をかけるのか」とあきれながら食ったら、これが砂糖で、けっこうひっくり返った。かの国では生トマトは砂糖で食べるのが一般的らしい。

 私はすかさず、「塩もってこい」と言ったが、今度は塩をてんこ盛りにされて、これまた閉口したことがある。賢しらにものをいう人がいて、その場の雰囲気に忖度したのか、「砂糖をかけたほうが、トマトの味がよくわかりますね」だって。私は内心、「あほかいなこいつ。トマト自体の味が一番わかるのは、トマトをそのまま食べたときに決まっているじゃあないか」と思ったが、一応口にはしなかった。人には体面っていうものがあるから、いくらあほかいなと思っても、言っていい時があれば、言わないほうがいい時もある(言いたい放題の作者にしては、エライ気の使いようでした)。

 食材の持ち味を最高の形で引き出す料理があるとすれば、私は間違いなく日本料理だと断言する。食材の持ち味を最大限引き出していくのが、日本料理の真骨頂とでもいうべきであって、そこにはまず「食材の確かさ」が土台になっていなければならない。

 食材が怪しげなものだったりすると、やれ調味料を加えたり香辛料を加えたりと、様々なものをどんどん加えていった結果、もとの食材の味などちっともわからなくなってしまうことも少なくない。これは日本人的には、とても残念なことのように思える。

 ここでまず断っておくけれど、それぞれの国や地方には、それぞれの環境や文化があるので、それを否定する気は毛頭ない。ただ私個人の味覚的にみた場合、残念な気がするだけのことである。間違っても異国で、素材の元の味が知りたいと、刺身を食べる気にはなれないし(下痢した経験あり)、現地の人と同じ食べ方をしても、私だけが腹を壊したことなど、何度もある。

 私のおなかの具合が他人にはわからないように、私も他人のおなかや舌の具合はわからない。だから一時、料理漫画が大流行したけど、「旨い」と作中の権威が言えば、登場人物が皆「旨い」とする。こんなことはあり得ない。所詮は原作者の味覚だけが基準になっているのだ。その証拠に、紹介されたものをかなりの種類再現してみたけど、描かれているのより私が旨いと感じる調理法は異なるケースのほうが多かったよ。

 極端な言い方をすれば、一種の味覚の基準を押し付けていただけなのが、多くの「料理漫画」だったんじゃないだろうか。もちろん例外もあると思うので、すべてがそうだとは言わないけどね(私の好む料理漫画は、味覚の押し付けをしていない作品でした)。

 ところで、かつて日本で食べることができたのに、現在では食べられないものもいくつもある。そしてそれが「旨い」と聞かされていては、チャンスがあれば食べてみたくなるのは、人間の素直な欲求ではないだろうか(あんたが食いしん坊だからでしょ!と言われれば、それでお仕舞だが)。

 オオサンショウウオという両生類がいる。今や中国大陸から、チュウゴクオオサンショウウオが日本国内に侵入していて、ちょっとした問題になっていたりするが、日本ではこれを食べると罪になる。特別天然記念物に指定されているからである。

 ところがどっこい、北大路魯山人の本には、魯山人自らが包丁を握り(弟子に料理させなかった!)、オオサンショウウオを食べるシーンが出ているものがある(本のタイトルを忘れちゃったが)。それはそれは美味しかったらしく、大変な感動があったようだ。特に「おっ」と思ったのは、私の出身大学の初代学長がその場に臨席し、一緒に珍味を堪能したらしい。

「こりゃ、チャンスがありしだい、食べるべきだな」 と私は思っていた。もちろん国内では違法である。私は可能な限り違法行為はしたくないので、違法でないところで食っちゃえばいいと、すぐに考える人だ。(一昨年だったか、カブトガニも食べましたね。本ブログで紹介いたしましたが)

 昔、中国では知らない人がいないといわれる超有名コメディアン、趙本山の『落葉帰根』という傑作(私は傑作だと思っている)映画の中で、趙本山がオオサンショウウオを食べるシーンがあり、この時の(映画の中での)代金が300元だかであったように覚えている。

「300元なら、どっちゅうことねえ金額だ」と中国の友人に話したら、「あほかいな。あんなもん一匹、日本円で20万近くするぞ。大きかったらもっと取られるかもしれない」と言われ、自分の経済状態を考えて、我慢していた。

 ところが今回、実は値下がりしたという。もちろん現在の中国でも、天然モノのオオサンショウウオを食べれば有罪である(天然ものと養殖ものを、どうやって見分けているのかがわからないが。たぶん出荷の時に養殖場から出たのは、養殖物なんでしょう)。ところが数年前から、養殖物に関しては食べてもよいということになったらしい。値段が下がったというjことは、養殖が順調に成功して、量産可能になったということだろう。

 で、行きました。

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 となりにあるペットボトルは、かなり大きい。だいたい2ℓ入りのペットボトルと、同じ長さか、それよりもちょっと大きいかな、というくらいの大きさである。これからオオサンショウウオの寸法を推測していただきたい。(重さは3㎏あった)。

 処理しているところはさすがに邪魔になるので行かず(行って料理されちゃうと困るし)、おとなしく待っていると、まずは骨の部分がスープになって出てまいりました。はい、これですね。

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 お肉の部分はどうなったかといいますと、中華鍋に鶏肉や豆腐、野菜なんかとぶち込んで、強火で炒めた感じ。

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 食べているといろんなものが現れます。

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 たぶんこれは左手かな。もうこうなったら、しっかり食ってあげたほうが成仏すると思うので(中国には、表向き宗教はございませんけどね。でもお寺もあれば道教の寺院もあるし…坊さんや道士がスマホで遊んでたりしますが…巨大な孔子様の像が老子と並んで、でで~ンと鎮座してたりしますから、何がなんやらわかりませんけどね)、しっかり食うべし。

 食感は魚と鶏の中間というところですか。両生類ですから、当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。でも20世紀最後の数年で、「個体の発生は系統発生を繰り返さない」ってのが証明されてしまいましたから、必ずしも中間の食感でなくてもいいんだけどね。

 大変残念だったのは、噂に聞いていた「サンショウウオは山椒の香りがする」というのが、まったくわからなかったことです。香辛料の使い過ぎで、サンショウウオ自体の香りが吹っ飛んだんでしょうね。とても残念無念、桃栗三年柿八年、梨のバカ目が十五年でしたね。

 ま、私の理屈から言えば、生きているサンショウウオにかぶりつけば、サンショウウオの味わいが一番よくわかったんでしょうけど、さすがにグロくてね。どんな寄生虫がいるかわかんないし。だいたいオオサンショウウオの口って、でっかいんですよね。俗に「口が耳まで裂けている」なんてことを言いますが、オオサンショウウオの場合(ていうか両生類の一般的傾向として)頸まで裂けてんのよね。

 我が家には長年イモちゃん(イモリ)がいるので、こいつに餌をやると、口をパカっと開けて追っかけてくるんですな。体調十数センチのイモちゃんでも迫力があるのに、オオサンショウウオだったら…… ああ、想像するのも嫌だ。

 だからオオサンショウウオの、本当の味わいを知るために、生きているこいつと格闘する気はございません。なんたって私は人間であって、人間は「自分が食べやすいように、食材を調理して食べる生き物」なんですから。

 その中で、食材の持った旨さを最大限発揮できるような料理人が、上手い料理人なんですよ!

2017年6月18日 (日)

出前(メール)は重なる?

 昼は暑かったけど、夜は実に心地よい。昨夜のお酒でリセットされたのか、意外に良く寝た。9時間近く寝たのは、旅行中以外では久々だ(私の旅行は、「寝るために行くのか?」と言われるくらい、よく寝る)。

 お酒というのは、変な「縛り」から解放される、素晴らしい作用がある。精神的にもそうだが、肉体的な「縛り」からも解放してくれることがあるようだ(変な風に解放されて、反社会的な行動に走る人もいたりするようですが)。お蔭で恒例の「眠らない病」になっていたのが、治りそうである(が、この気持ちいい夜の雰囲気は、また夜更かししてしまいそうな……)。

※ 昨夜はどうも、お世話になりました。ありがとうございました。またよろしくね!

 メールの返事を打っていたら、同時にchatもやってきて、またしても同時に複数の言語での会話をしなければならなくなった。完全に脳みそがでんぐり返る。若い頃から複数の言語に慣れていればこういうことも起こらないのだろうが、私の場合は必要を感じて、けっこう年がいってから覚えたもんで、さすがに苦戦する。

 でもどうしてこんな具合に「出前が重なる」のだろうか? おそらく、多くの人が、「さてメールでも」と思う時間帯が、さほど違わないからではないだろうか(時差の問題もあるが。以前、寝ていた午前3時半くらいに、泣きながら外国語で国際電話をかけてこられたのは、さすがに堪えた。お蔭でこっちは眠れなかったよ。せっかく寝付いたばかりだったのにね。かけてきた方は、もうそんなことがあったことなんか忘れてるみたいだが)。

 人には、睡眠時間が必要なのです(たとえ、短くても)。国が違えば、時差の問題で、自分が起きていても、こちらが寝ている時だってあるのです。って言っても、なかなか理解できないのかなあ。なにしろ普通に生活していれば、地球が丸くて、ほぼ24時間で1回自転しているなんて、感じないもんなあ。だから経度によって、世界各地では「正午」が異なり……なんて、面倒くさい説明なんか、今更やってられるか!(それぞれの国の、理科の授業で習っておけ、ってえの)

 今朝は、私の庭で完熟したトマトを食った。もう旨えのなんのって。こんなことなら、今までも作っとくべきだったなあ。お店で売られているのとは「別物」でございますよ。木熟れですからね。甘さが違う。だいたい農薬も使っていないし(私が作っているんだから、ここは保証できる)、妙な肥料を使わないし(そんな面倒なことを、この私がするはずないじゃん!)、結果的に大変健康的な作物ができる。

 なんとなくミニトマトなんかは、「どうやって食おうか」と悩みそうなくらいたくさん熟しそうで、楽しみである。トマト好きの私としては、わくわく……(すでにいくつか食べていて、味がいいのは確認済み)。植えてれば勝手に大きくなって、勝手に実がついて、勝手に熟していくのだから、こんないいことなしの花。

 昨日、拙宅においでになったMさんも、庭で(いい歳こいたおっさんが!)三節棍振って遊んでいる時(三節棍は、意外に身体と運動神経の老化防止にいいです。時々予想外のところに当たって絶句したり、苦悶したりすることがありますが…笑)に、一つご馳走したが、絶賛された。でもね、偉いのは私ではありません。我が家の庭と、太陽さんと、トマトさんです。

 ただ裏庭に「こんなもん、残しておいてもしょうがねえ」と、はつか大根を蒔いたのは、20日経ってもダイコンは頂けそうにないですね(蒔いてから今日で16日目)。看板に偽りあり? ま、ハツカネズミと似たような命名なのかも。慌てなくても、食べるものはいっぱいありますから、腹もたたないけどね。(ちなみに私は、ダイコンの葉っぱ…カイワレではなく。あるていど大きくなったダイコンの葉っぱ…が好きである。実は葉っぱが欲しくて蒔いたようなものなので、もう少し大きくしてから間引こうかと思っている。スーパーなんかで売ってるのはたいてい、葉っぱがついていないからね~)

 ちょっと横着をしなければ、こんな美味しいものが、お手軽に手に入るんだということを、この年になってようやく知りました。もちろん両親が、一人暮らしには広すぎるんではないかと思うような家を残してくれたから言えることなんですけどね。

 その分、メンテは大変ですが(手が届かないよ~)。ま、ご近所さんも、庭で物騒なものを振り回していたり、わけのわからない踊り(一般人には「型」とか「套路」は、踊りくらいにしか見えてないよね、きっと)をされるよりは、多少は安心かな?(畑の横でもやってますけど。自分の知らないことを、真剣な顔でやっている人をみると、人は不安になったりするものですから。ハワイの駐車場で、人を待っている時、何気なく空手の型をやっていたら、なんど半径30Mくらいの円形に、現地の人が取り巻いて見られていたという記憶があるもんで。日本人が日本の空手の型を、何気なく!やってるのを見るのは、現地の人には珍しかったのかも)

 これで自信をつけて、来年はもっと大規模に「明るい農村」を展開したら(私はたいてい夕方やるので、実は「薄暗い農村」である)、上手くいくかな? 今年はビギナーズラック的な感じがするんだけど。

 さて「釣り」はいつから再開しよう。懸案の鳥の餌場は、今週中に設置いたします。何が来るかな? 可愛い鳥だといいんだけどね。こればかりはやってみないとわかんない。

2017年6月17日 (土)

我が家のWIN-WIN

 日向は暑いけど、風が気持ちよい、最近の岡山でございます。今日はちょっと薄雲がかかっているのかな。ただ、先日まで脳天を直撃する日光に晒されていましたので、はるかに過ごしやすいです。(今年の夏は、帽子でも被ろうかな)

 今日は午後から(おっと、もう午後だ!)Mさんが来られるので、けっこう盛り上がるのではないかと。夕方はそのままのノリで、Mさんに送ってもらって『○○を語る会』へ乗り込んで、あらえっさっさー…… とはいかないか。

 なかなか多忙でございます。息があがる寸前かな。まあその方が、道を踏み外したりはしないんだけど。(私は暇でも、どこかの政務次官のように、「出会い系」などには嵌らないので、その心配だけはない。むしろ自然界との出会いを好む方なので、野や山、川、海に出る方が多い。小人閑居不善をなすというが、私の場合は自然を追っかけてしまうので、善悪はわからない)

 もういい加減に、鳥の餌場を作ってやんないとね。(旅行に出る予定があったので、先送りしていた。旅行から帰ると、草ぼうぼうで、草取りをしなければならなかった。そして今日にいたるも、草は元気である。餌場で雨宿りできるようにしてやると、小鳥は集まるかなあ、などと妄想は膨らむが、あまり増えすぎると、今度は害が生じるので、バランスを考えなければならない。このあたりが難しい。酒はほろ酔い、物事はほどほどがよい)

 で、バランスが取れてくると、今度は私が庭で暴れていても、ほとんど逃げなくなる。私が害を加える存在ではないと認識するからだろう。今までいろんな生き物を飼ってみたが、特に魚なんかだと、養殖モノよりは天然モノの方がよく慣れる場合が多かった。もちろん最初から最後まで、全然慣れないやつも少なからずいるが、これはもう諦めるしかない。慣れないけど、飼い始めたら、最後まできちんと面倒を見ること。

 餌場を提供するだけだと、基本相手の生活を助けてやっているだけ(こちらは不要物を片付けてもらっているので、WIN-WINの関係)なので、相手を尊重するのが一番。相手に自由にさせる代わり、こちらも自由にさせてもらう。お互いが譲歩しあえる範囲で付き合うのが一番だ。無理はいけない。長続きしないから。長続きしないと、結局相手にも害を与えてしまうことになりかねない。

 実は鳥を呼び込むのは、(腹黒い?)計算があったりする。作物を作ってるでしょ。すると害虫が来るよね、どうしても。この害虫を駆除してもらおうという(スケベ)根性が働いていたりするわけ。私がいちいちピンセットか何かを持って取るのは嫌だからね。ましてや害虫駆除のために薬物を使うのは、もっと嫌。

 ようするに、生物の多様化をやらかすきっかけを作ろうとしているだけなんだよね。後はやってきた生物同士で、何年か経過するうちに、適当なバランスを作り上げる(はずだ)。労少なくして、益多しというのが目標でございます。肉食系の小鳥がわずかに入ってくるだけで、青虫系統の害虫は激減するからね。

 でも巣箱までかける気はない。それでは小鳥が増えすぎて、バランスが崩れるからだ。エサを取って、自分の巣に持ち帰り、ヒナたちに与える(あるいは自分で食べる)ってのが理想。居座られたのでは、こちらも迷惑するから。

 そうですね、ちょうど時代劇かなんかで、地元のヤクザか何かのところへ、腕利きの浪人がやってきて、雇われた感じかな。「先生、お願えします」 「うむ」 でばっさりやって、「先生、ご苦労様でごぜえやした」 「うむ」 「つきましては、これはわずかではごぜえやすが」 「うむ」

 浪人は「うむ」しか言わないが、小鳥なら時に美しい声で鳴いてくれたりするものもいる。これは大きな付加価値である。さらに浪人には金子をあげたりしなくてはならないが、小鳥は私の食べ残しで十分だ。こんなに都合のいいWIN-WINは、そうないよ。まあ、小鳥の種類を、ある程度までしか選べないのが問題ッちゃあ問題なんだけど。贅沢言ってもキリないからね。

 ま、そんなこんなで、もういい時刻になった。シャワーでも浴びようっと。

2017年6月16日 (金)

なるようにすると、なるようになる(笑)

 ああ、我ながら(自分で淹れた)アイスコーヒーが旨い。喫茶店で読書でも、とは思うのだが(なかなか忙しくて、そんな優雅なこともできないけど)、喫茶店並みか、それ以上のコーヒーを淹れ始めたら、コーヒー飲みながら仕事とか読書とかが、どうしても自宅になってしまう。

 なんたって、「自分で淹れなければならない」労働以外では、差がつかないのだ。経済的なことを言えば、自分で淹れた方が、はるかに格安になる。ああ、大学生の頃から、コーヒーの凝った時期があってよかった。先日お邪魔した、海外の某国のコーヒーになら、百戦百勝する自信がある(大金持ちは、別次元にいるかも知れないけれどね)。

 いずれにしても、今日もてんてこ舞い。けっこう忙しかった。今日一日で何をしたか、いちいち書き出さなくてはわからないくらいだ(書き出す時間が勿体ないので、そんな時間の無駄はやらないけど)。ま、人生、忙しいうちが華ですけどね。

 お蔭で練習は、またしても深夜に持ち越しである。先日、師父から「練習はできるだけ、昼やるようにしなさい」と忠告されていたんだけどね。人は、昼活動するようにできているらしいから、活動しやすい時に活動するのが、最も合理的だ(生理的に人間は、午後4時頃から7時頃が、もっとも運動に適しているらしい。だいぶ前のアメリカのスポーツ関係の雑誌に、そんなことが書いてあった。逆にその12時間反対側、つまり午前4時から午前7時の間は、運動には不向きな時間なんだそうな…だからよほどのことがないかぎり、私は朝早く起きて、練習などしたことがない。朝どうしても運動したければ、せいぜい散歩まで。散歩すれば朝食までに空腹になる。朝ごはんをしっかり食べれば、一日を生きる活力が湧く。つまりは好循環の始まりなんですな)。ま、これは前の世紀の末ごろに、アメリカの雑誌で言われていたことだから、どの程度信用できるかはわからないけど。

 と、ここでMさんからメールがあり、お返事の電話をしていたので(けっこう長電話?)、何を書いていたかわからなくなってしまった(笑)。ま、忙しい時ってこんなもんです。でも、この忙しさは楽しいなあ。今日の予定は、この後手紙を一本書いて、封筒に詰めて、それから自分の仕事(? どこに練習を入れよう?)ですけど(これがエンドレスになると、明日の予定が怖いことになる)。

 まあいい気候だし、なんとなく、どうにかなりそうな気がいたしますけど(このルーズさがいい。大好きな雰囲気。気候は重要なファクター。これが35,6℃あって、湿度が80%以上あったら、すでに「ど~にでもなれ~」って状態なんだろうけどね)。できるときに、できることを、できるだけやっとく、ってのが鉄則ですから、あまりくよくよ考えない。

 くよくよしないと、お酒が美味しい。お酒が美味しいと、食事が美味しい(太る?)。栄養補給が十分だと、頑張りがきく。頑張って疲れると、昏々と眠ることができる(死んでんじゃないか?と心配になるくらい)。昏々と眠ると、いい夢を見る(ことが多い)。するとまた次の日頑張れる。 ……好循環だねえ。

 先日からゴーヤがちらほらと花を咲かせ始めた。今日の夕方「薄暗い農村(いつも夕方にするから、明るい農村ってわけにはいかない)」をやって、少しだけ杭を補強してやった。本格的な補強は、来週の予定だ。

 これもきっと、好循環の一角を占めているんではないかと思うので(私はゴーヤはあまり好きくない。でもレストランで食べるゴーヤ料理では、ゴーヤもそんなに苦くないので、どうやっているのか尋ねてみよう。…こんなことを繰り返して、私の料理のレシピは増えていく。これだって好循環の一つだ)、決して粗末には扱わない。

 だいたい苦手なこと、嫌いなことが自分の弱点になっていることが多いのだ。苦手や嫌いを苦にしないようにすれば、それだけ自分の弱点はなくなる。ただちょっと工夫したり、アプローチする方向を変えるだけの話である。

※ ということで、明日6月17日は、今月の『○○を語る会』でございます。材料の一部は、マスターの全面的な協力によって、本日夕刻、運び込まれました。さあて、なんでしょね?っと。 とにかく、よろぺこお願いいたしま~す!

2017年6月15日 (木)

ヒキガエルは意外に義理堅い?

 なんとムギワラトンボ、シオカラトンボのカップル(♂♀で体色が異なるから、わかりやすいよね)が産卵に来ていた。あそこここの水溜りに産卵する。産卵しても構わない水溜りなら、私はなんの拒絶もしない。トンボにだってトンボの都合ってもんがある。

 一つの水溜りだけに卵を産んだ場合、もしもその水溜りの環境が悪くなったら(最悪、埋め立てられるということだって考えられる)全滅してしまうから、あちこちに産卵するのはわかるのだけど、チョウセンブナのところは止めといて。

 ということで、その隣の、なんとミジンコが食物連鎖の頂点という、恐るべき水槽には、産卵を許可した(チョウセンブナのところは、トンボは侵入できないようにした。わかんないけどね、奴らも一所懸命だから。人間は、他の動物はバカだと思い上がりやすいけど、驚くほど賢かったりするからね)。これからはヤゴが食物連鎖の頂点になるかも知れない。(それでミジンコが全滅する可能性などございません)

 我が家の水溜りを全部ひっくり返したら、いったいどれほどのヤゴがいるのだろうか? 以前、移転する時に重たいので水だけ抜いたら、出るわ、出るわ。百近いヤゴがうようよと這い出してきて、びっくりした記憶がある。我が家にはトンボの天敵は少ないからね(クモもいるにはいるけど、最近のトンボは、蜘蛛の巣に引っ掛かるような間抜けはあまりいない)。

 K氏が、親切にも、私が受け取りにいくべき冷凍赤虫を持ってきてくれた。庭のトマトを見て、さすがに驚かれたようで(茎の発達のわりには、大変な豊作でございまして、先日食べたら、思わず声が出るほど旨かった! ちなみにキュウリも「甘かった」。普段、店で買うのとは、まったく別物である。もちろん横着者の私が作っているわけだから、植えた後は水やりしかしていない。…キュウリには昨夜、追い肥をやったくらい… 何もしなければ、野菜はこんなにも美味しくなるんだ、という典型。外見を、いかにもよさそうにしようと欲をかかなければ、素直に美味しくなるんだねえ。ただしトマトには、水やりもしてないけど)、裏庭に回って、ヒキガエルのオタマジャクシを入れていたプラケースを覗いて、またしても驚かれた。

「何、この小さいの?」

 どれどれ…… 哎呀! カエルになりたてのヒキガエルのおチビさんじゃないの。昨日のブログで「さよなら」も言わないで、行ってしまいやがった。とぼやいていたが、なんと、まだいた!

 体長は1㎝内外(ボウフラが湧いていたので、近々グッピーさんを投入しようかと思っていたのだが、ボウフラよりも大きいとは言えない)。これからあの偉大なガマガエルになるのであるが、いったい何十年かかるんでしょうね。児雷也になって、巻物を口に加えて印を結び、「むにゃむにゃ」でどろんっ! ったって、現代っ子には分かんないよねえ(私も知らないけど。昔そんな忍者劇があったんだと!)。

 ヒキガエルはカエルの中では非常に原始的なタイプなので、上陸した後、イモリやサンショウウオみたいに、流木やなんかの割れ目に隠れてるんだね。両生類の典型に近いパターンだ。それに比べ、普通のカエルは元気よく飛び跳ねておりますが。

 おそらく、山から連れ帰ったオタマジャクシのほとんどが、めでたくカエルに変態(変な態度のオジサンではありません、念のため)できたようである。あのまま山の水溜りの中にいたら、大変な生存競争(両生類は、わりとよく共食いをします)と、少量の水に、あまりに多くのオタマジャクシがいたため、ほとんど死んじゃっていたんだろうけど、我が家に来たお子さんたちは、気の毒にも、輸送中に亡くなった2~3匹を除き、皆元気にカエルになっちゃいました。

 この子たちが立派に成長して、我が家で産卵して(産卵数は大変多い。イモリ、サンショウウオなんかの何倍も生む)、その卵からオタマジャクシが出てきて、やっと一周期である。この段階でようやく「飼った」と自分で認定することにしているので(我が家で飼っているものは、多くがそう。我が家で産まれ、我が家の水と餌で育ち、箱入りのまま生涯を過ごしている)、先は長い。

 にしても「さよなら」も言わないで、行ってしまってなくてよかった。ヒキガエル、意外にいいとこあるじゃん! この義理堅さ(両生類の典型に近いだけなんだけど)を愛でて、ちょっと大きな水溜りを準備して、複雑な地形を作り、小さな羽虫なんかが多い、猫が来ないところ(蛇は不明)に移転させてあげようか。

 自然界では自分の足で移動しなければならないのだが、私が本人(本蛙?)たちの承諾も得ずに連行してしまったので、エサが手に入る、好適な環境の場所へは、私の労力で移動させなければならない。

 ま、それが「生き物を飼う」ってことなんだけど。

※ 今月の『○○を語る会』は6月17日の第三土曜日でございます。よろしくお願いいたします。

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