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2017年12月16日 (土)

以色侍人者色衰而愛弛(色をもって人に侍う者は、色衰えれば愛弛む)

 気温はあまり変わらなくても、晴れと曇りでは、感じる寒さが違いますね。光を直接浴びることの有難味がよくわかる「冬」でございます(夏は、大変だ!けど)。これからの季節、風の当たらない、陽のあたる場所が嬉しいですよね(たいていそういう場所は、どこかのネコに取られているけど。ネコは気持ちのいい場所探知機として、非常に高い精度を誇っております。各御家庭に一匹、猫はいかが? なんて馬鹿なことは言わない。ネコは、あれはあれで、けっこう面倒な生き物だから)

 ということで、今日はこれから用事が立て込むはずなので、早い目に打っておこうとPCに向かいましたが、ネタがないねえ。新聞もまだろくすっぽ目を通してないし。ただ先日(12月12日)の産経新聞・夜明けのエッセーには、ちょっとうるうるしましたね。タイトルは『折れたバット』だったっけ。

 私にも、幼い頃、決して豊かではなかったので、似たような経験がございます。人が買ってもらえるものが買えない。なら自作するしかないって。おかげで、決して器用ではないけれど、自作する習慣がついちゃいましたけどね(それはそれで、後になって大きく役立ちました…笑)。「艱難汝を玉にす」という言葉がございますが、ハンデを克服すると、そこには新しい可能性が出てくるので、やりたいことがあったら、ハンデを気にしないで「自分にできるやり方」でチャレンジするのが正解だと思います。

 名曲『マイ・ウェイ』でも歌っているじゃないですか、「俺には俺のやり方がある」って。「俺のやり方」は、自分なりに必死こいてやってみないと、できないもんね。そうしてできた『マイ・ウェイ』が万人に適しているかどうかは別として、それが自分の生きざまを作っていくわけだから。

 もちろんその過程で、この『夜明けのエッセー』の投稿者の方のように、ほろ苦いけど何とも言えない懐かしい思い出を残すこともあれば、大成功することもあるかも知れないし、逆に上手くいかなくて、苦いだけの思い出が残るかも知れないけれど、そのすべてが、後に続く人たちに語れる「値打ちのある話」になりますからね。この『折れたバット』は、久々に胸キュンでした。ありがとうございました!

 と思って、新聞受けから新聞を持ち帰っている最中に、見出しだけを見ましたけれど(その他の小さな文字のところを読んでいると、ひっくり返ってしまうのです。我が家の庭には、嫌でも練習しなければいけないような環境も作ってあって、朝一が歩法の練習から始まります。きちんと歩けてないと、こけちゃうんだよね…もちろん来客のためには、安全にあるける部分が広くとってありますが、私は使いません)、同じく産経新聞の一面に、「半島有事退避 有志連合で」とありまして「韓国、米以外と協議拒否」なんて書いてあるじゃないですか。

 驚いちゃったよね。どんな事情があってそうなのか知らないし、知ろうとも思わないけど、困った時には、何にでも縋り付きたくなるもので、道はたくさん残しているに越したことはないと思うんだけど、なんだか旅客船の事故の時を思い出しちゃったよ。救助は一番近い者とか、一番手が空いている者が、とっさの時には大きな力になるんで、友達は多い方が、いざという時に助かりますんですけどね(ちなみに酒を呑むときも楽しいし)。

 まあいいや、少なくともここ数年の間に、半島に行く予定はないし(もちろんオリンピックの観戦にも行きません! キッパリ)。昔、母が元気だった頃、「マツタケを食べに行こうっ!」てんで、わざわざ韓国にまで母を連れて行ったことがあったけど(マツタケは美味かったですよ。お蔭でお腹が裂けそうになるくらいまで、食い上げました。後で知り合いにも似たようなことをしたというのがいて、どれくらい食ったのか尋ねたら、その人は家族4人で行って、私と母が食べた量の半分くらいしか食べていなかった…笑)、もう母もいないし、私一人でなら、何処へでも行けるし。国内にだって、行きたいところは山のようにあるし……一番落ち着くのは、やはり日本の風景だろうし…ま、マンネリを嫌う性格ですから、いろんな所を覗いてみたい欲求はございますけどね。

 みんなから愛されているという自負がある人は、けっこう傲慢にふるまうこともある? 昔のドラマで出てきたじゃないですか(かなり昔かな?)。美人で、お金持ちでという少女が、あたかも私はみんなから愛され、崇拝されるのが当たり前の女王(あるいは王女)サマであるかのようにふるまうのが。

 でも現実には、その傲慢で驕慢な態度は、みんなは内心嫌っていたりするわけで。こうなるとなかなか世の中、思い通りにはいきませんわいな。美人で、気立てがよくって、人に親切ならば、誰からも愛されるし、困っていたら、人が助けに来てくれたりするものだろうけど、自分の羽振りがいい時に傲慢だった人は、落ち目になると誰も助けに来ないどころか、井戸に落ちた犬扱いされることも、ないとは言えないからねえ。

 ま、人にはそれぞれ、「自分のやり方」があるんだけど。私はそれを尊重いたします! はい。

2017年12月15日 (金)

妄想! ドラゴン

 いい日よりだったのにね、自分のために使える時間がなかった。それでも帰宅して、暗い中、竜になったときは、自分の時間でした。短かったけどね。

 私が一番不思議に思うのは(実は昨夜、事務局長N氏とも話したのだけれど)、竜っていったいどんな動きをするんだろう? どうして見たこともない動物の動きがマネできるのだろう?映画で見る恐竜の動きは、よくはできていても、しょせんは人が想像して作ったもの。手本がなきゃ、マネできないじゃん!(これについては先日、師父より、お答えをいただいているのだが、ここではそれを無視して話を進める。私は、私と師父との間の個人的な内容を公開するほど、お人よしでもない)

 竜に近いといえば蛇かなあ。でも蛇ってのは背骨の構造上、横方向にくねくね動けても、縦方向は得意ではなさそうだ。(とぐろ巻いてて、そこからジャンプして、ばったり倒れると、縦に動いているように見えるが、あれは自発的な動きではなく、地球重力によって起こる動きに過ぎない)。実際にかなりの距離、空中を滑空する蛇もいるけれど、空中では横方向に身体をくねらせている。

 これは魚類、両生類(カエルを除く)、爬虫類に共通の動きであって、中にはガラガラヘビのように、爬った後に斜めの平行線を残していくものもいる(だからサイド・ワインダーなんて名前がつく)。

 バシリスクなんて二本足で、水面を走る(イエス・キリストみたいという学者もいる。私はイメージが違うので、この説には賛成しないけど)ものもいるが、これも背骨の動きに注目すれば、爬行である。ようするに、横方向にくねくねとするのだ。

 これに対し竜(ドラゴン)はどうだろうか? 実物を見たことはないが、特殊撮影の映画などを見ると、縦方向にくねっている。懐かしいレイ・ハリーハウゼンの作品などを見ても、縦方向にくねっている。(どこからこういう動きを思いついたのだろうか?)ただし英雄に殺されて、死ぬときには、横方向にくねっているので、「う~~~ん……」とうなってしまわざるを得ない。

 背骨の縦方向のくねりは、哺乳類や鳥類の特徴なんだけどねえ(ちなみにクジラの仲間はすべて背骨の縦方向の波うちで泳いでいる。これは基本的に、犬や猫が走っているのと同じ動きをしている。運動期間が足かひれかだけの違いだ)。

 こう考えていくと、竜は爬虫類? それとも哺乳類? という疑問がわいてくるが(古代中国の伝説を紐解くと、竜は牛とか羊とか、いろんなものと交尾して、ハーフが生まれたとされているので…染色体の数が合ったのかねえ? そんな馬鹿なというお話ですが。すると哺乳類? 哺乳類」というからには哺乳するはずなので、竜のおっかさんが竜のベイビーに授乳している光景を想像してみるが、ちょっと頭痛がしてくる)、まあこれは分類学などというものが存在しなかった時代に誕生した、空想上の生き物なので、あまり気にしないほうがいいかもしれない。

 面白いのはカモノハシである。卵を産んで(爬虫類の特質)、授乳して(かあさんに乳首はない。汗腺が変化した器官から、ミルクが染み出すのをなめるんだそうな)育てる(こては哺乳類の特質)。こいつが陸上を、短い脚でダッシュしている姿を見ると、なんと爬虫類の横方向のくねり運動に、哺乳類の縦方向の波うち動作が加わっているのだ。(見るとなかなか愛嬌がある。一応、ワシントン条約かなんかで制約が加えられていると思うので、触る機会はないと思いますが、触ってはいけない。後足に蹴爪…鳥か?…があって、これには毒がございます。あまりに短い脚なので、効果的な武器には見えないんだけど)

 するってえと竜はカモノハシの仲間か? う~~ん…… イメージ湧かない。(竜…ドラゴン…の起源については、すでに本ブログでは、かなり前に取り上げており、私はたぶん正解ではないかと思っているが、面倒なのでもう一度書く気にはなれない)

 今日もこれからBBCが制作した動画をチェックしてみようと思うが、BBC制作の動画の中で、ラプトルの動きは秀逸だと思う(ずいぶん前から、素晴らしい動画をおつくりになっているが、真剣にこの手の動きをチェックしてみるきっかけになったのは、翼を4枚持つ恐竜、ミクロラプトルをどうやって飛ばしているのか、興味を持ったためでございます。番組の中で、食物連鎖の中で苦闘している姿として描かれていたので、もうその筋立てだけで十分面白かったですけどね)。後のほうに出てくるオビラプトルなんかは、基本、鳥の動きを使っているなとは思いましたが(首の前後運動が少ないのは、参考にした鳥が、首の長いダチョウなんかだったせいではないのかなあ?。首の比較的短い鳥は、首の動きで足の動きを引き出していくのが一般的だから)。

 ちなみにこの脊椎動物の背骨の動きを真似すると、意外に体幹の疲れは取れやすいので、私はもうだいぶ前から取り入れておりますけどね。理由は簡単。気持ちがいいから。気持ちがいいということ自体、ご先祖様な本来はそうやって動いていたかもしれないって可能性があるわけで。(ちなみに私はダーウィンの進化論は、まったく信じておりませんが…笑)

 でもねえ、竜っていったいどんな動き方をしてたんでしょうね?(答え:いなかったので、そんなことを考えること自体、無意味…笑)

 さて明日は『○○を語る会』、飲むぞ!

2017年12月14日 (木)

安全第一!

 十二月も中旬ということで、今年もそろそろ始まりましたな。高齢者の危険運転。いや、高齢者だからいかん、というのではございません。若くても危険運転はイカンのでございますが、そろそろ皆さん、運転が忙しさを反映し始めたなと思い出した頃から、日ごろあまり運転などしないのではないかと思えるような方が、妙に出歩き始めるんですな。運転は習慣ですから、毎日運転していれば、技能低下も緩やかになるはずですが、一気に運転しない生活になったりすると、気が付かないうちに、すべての能力が落ちていくんじゃないかな。

 今日もあったよ。なぜかしら私の前後をうろうろした車が、ウィンカーも上げずに、無意味な車線変更ばかりを繰り返す。こりゃアブねえなと思って、「関わり合いになるのはヤメっ」とばかりに抜き去ったんだけど、追い抜きざまに見たら、もういい歳の爺さん。助手席にはばあさんが乗っていたから、これから年の瀬(まだ、そこまではいってないと思うんだけど)のお買い物か。

 危ないから、せめて進路変更をするときには、ウィンカーくらいは上げようね。あなた一人が車転がしているわけじゃあないんだから。当然、日ごろあまり運転をしていないと、「感覚」が鈍る。で昔ばんばん飛ばしてた頃の記憶だけが生きてたりすると、危ないったらありゃしない。

 感覚が鈍くなっているからと、やたらととろとろ運転していたかと思うと、急発進なんかをやらかす。少なくともこんな車の200m以内には近づきたくない(本心をいうと、1㎞くらいかな。一台の車の動きが、ほかの車の動きに影響を与えて、それがどんどん広がっていくと、すぐに数百m単位で異常事態が発生するから)。

 また駐車で難儀しているのも見かけますが、おかげで駐車場の手前で大渋滞。一般道にまで渋滞が伸びていて、「事故でもあったのか?」と思って覗いてみたら、ただ駐車で手間取っているだけ。しかも照れ隠しなのか、けっこうに横柄な態度で…顔が怒ってた。怒るんなら自分に怒れよ(今日もございました!)。他人へ「迷惑」を、極力かけないように気を遣うのが、日本の伝統文化の一つだと思ってきたけど、お年寄りが率先して迷惑をかけちゃいけないよ

 高齢者の運転免許については、だいぶ前からいろんな対策が講じられているようだが、大切なのは「年齢制限」ではなくて、「適性」の問題ではないかと思うんだけどね、能力も含めた。若くても「適性」がない人(能力だけでなく、精神面でも)に運転されては、今年高速道路で起こった悲惨な事故のようなことは、なくなりません。

 車はすぐにでも凶器に変わるものです(あの質量で、あのスピードなら、運動エネルギーの大きさは推して知るべし。たとえ運転している人がひ弱な人でも、立派な凶器になります)。刀狩りが(割と)徹底している日本なのですから、何か効果的な対策を講じなければならないと思うんだけどね。

 とはいうものの、これから2週間余り、こういった危険は続きます(不思議に高齢者の運転は、正月になると、ピタっと止まります。年の瀬には、高齢者の行動力にスウィッチを入れるナニモノかが存在しているのだろうか…お元気なのは、とてもいいことなんですけどね)。私も気を付けますが、みなさんもくれぐれも…

 誰でも途中で死ななければ高齢者になっていくわけだけど、高齢者になっても、あまり人様に迷惑をかけないで生きてけるようにしたいもんですね。(昨日、身体の調整をしていただいたのだが、その時「若い!」と言われたので、若干調子に乗っている? 現役時代に比べればガタガタだけど、まあそれでも、そこそこは動けるかな…この「そこそこ」という言葉が、大変都合よい…笑。今は、昔のような「限界への挑戦」なんて気はさらさらないので…要するに晩酌が旨ければ、それで十分という程度…、どのくらい動けるかは、やってみないとわかんないけど。でも調子が悪くないのは、事実でございます。おそらく昨年よりは若返っていると思います。今に幼児に戻ってしまうぞ。…こうなれば退行か?…笑)

 現役時代でもそうだったけど、一番怖いのは「調子がよくないのに、なぜかしら調子がいい」と思い込んでしまうこと。調子が悪ければ悪いなりのやりかたはあるんだけど、これが調子いいと勘違いしてしまうと、とんでもないことが起こる。

 これは加齢でも同様で、「こんなこと、簡単だ」と思い込んでいると、実はそれを簡単にやるだけの能力が、すでに身体になかったりする。こうなると「簡単」どころか、「不可能」になっていることもあるわけで、それが「年寄りの冷や水」の正体でございますな。毎日やっていれば、能力の低下も緩やかだし、第一、自分でその時その時の能力が把握できているから、無茶はやらないようになるし。(無茶をやるというのは、能力低下や環境の変化に気づいてないときに起こりやすいです)

 まあ高齢者社会ということで、今、少しずつそちらのほうへも働きかけようかなあ、なんてことを思っていたりするので(健康に年を重ねるってのは、素敵なことではありませんか!不老不死を願ったりするより、はるかに健全な考えだと、私は思います。もちろん「不老不死」の研究から、多くの価値ある技術や物が誕生し、発展、発達したのは事実だけど)…実は、昨日、身体の調整をしていただいた後で、ほんの少し、その話題になりました。

 ということで、今日もこれから練習でございます。練習は毎日やっているけれど、今日のは特別か?というと、そんなこともございません。誰かが何かを質問でもしてくれば、それに合わせて変わることはあるけど。

 だいたいもともとバリエーションの豊富な人だからね、私は。

※ 今週の土曜日、『○○を語る会』、よろしくお願いいたします!

2017年12月13日 (水)

一緒くた!

 手が冷たい。ならば手袋をはめろ、と言われそうだが、どうも手袋というやつは、指先の感覚が鈍る(すぎる!)ので、好きになれない。(せいぜいバンテージまいたり、最高でパンチング・グローブくらいまでであるが、もちろんこれは防寒用ではない)

 靴下をはくのは当たり前なので(といっても、よほど寒くなるまでは素足が「私の主張」だが)、やはり敏感な部位は、わずかの感覚の違いも気になってしまうということでしょうか。

 たしかに人間の身体部位でも、腕とか足ならば、少々の擦り傷があっても、何かに夢中にでもなっていれば、完全に忘れていたりするが(試合から帰宅して、入浴した瞬間に、傷を負っていたことを思い出したり、初めて気が付いたりする)、もっと敏感な感覚器である目などは、小さなごみが入ったり、付着しただけでも、非常に鬱陶しい。敏感なものほど、わずかな変化が気にかかるものである。

 私は小さなころから癇癪もちであった。小さな変化が気になってしょうがない。でよく周囲の人に叱られていた。「この子はなんでこんなに気が短いんだろう」なんてね。でも大人になって救われたことがある。しかもそれは人ではなく、古代の著書にだ。

 もう何という書物だったか忘れてしまったが、「賢人ほど、わずかなことにでも腹を立てる」という意味合いだったと思う。理由は簡単、「賢人」にはわずかな違いと、それによって引き起こされるかもしれない「将来」が見えてしまうんだね。だから凡人が、「そんなこと、どってことないじゃん!」と見逃してしまうことにでも、怒りを発することがあるってこと。

 じゃあお前は「賢人」なのか?と聞かれたら、とても恥ずかしくて、「はい、そうです」とは言えない(言うやつがいたら、首を傾げるだろう)。しかしながら、自分の中の何かが違和感を感じ、警報を出しているんだろうと思う。

 その警報が、自らの利益だけから判断した利益ならば、これは究極の利己主義(たぶん。本能レベルまで値が深い利己主義で、当人も気づいていないレベル)の現れだろうが、これは「公益」のための反応だったら、これはもう「賢人」のレベルではなく、「聖人」である。こういう人に世の中のリーダーになっていただければ、その社会は、間違いなく悪い方向には向かないだろう。

 それだけ社会や、みんなのことが心配だから、つい腹を立ててしまうのだ(今の日本にもおられますよね、こういう方が)。これを見て「大人げない」とかなんとか言ったり、揚げ足を取ろうとする人間のほうが、はるかに悪質か、鈍感かのどちらかだ(こういう人は、いつの世にもおりますね)。

 もちろん前者はいい人で(これは疑う余地がございません)、後者はその足を引っ張っているから、いちゃいけません、とは言わない。世の中に存在できているのは「必要だから」であって、どちらにも存在価値は(きっと)あるんだと思う。本ブログでもよく言うことだけれど、どちらかの考え方に偏ってしまうと、善いことでもその裏返しのような欠点が現れるからで、いろんな角度から物事を見るためには、いろんな人が必要なのかもしれないと、最近の私は思っている。(だから高すぎる支持率は、怖いってえの! 何かのきっかけでオセロみたいに、全部逆転してしまうことがあるから…この逆は難しいんだけどね。高いものが落ちるのは簡単だけど、低いものが高くなるには、めちゃ苦労する)

 気が短い、気が長いと一口に言っても、気が短くなっている原因、気が長くなっている原因まで考えてみなければ、それだけで人を評価することは、公平を欠く恐れが多分にある。

ただの我儘で気が短いのか、それとも人が見通せない将来まで見る(感じる?)目をもっているから短期なのか。両者の間には大きな違いがございますからね(次元が違う)。同様に気が長いことだって、ただ鈍感なだけなのか、本当に度量が大きくて気長にふるまえるのかでは、天と地ほどの開きがある。それを一緒くたに評価されたんでは、評価される側は、堪ったもんじゃない。

 ということで、人を評価するうえでは、「観点の定め方」が大切だと思いますね。もちろん観点を定めるには、まず評価しようとする人が、様々な価値観を持っている必要があると思います。

 昔、『俺たちの勲章』」というTVドラマがあって、中村雅俊さん扮するアラシ刑事が「あんなきれいな人が、そんな悪いことするわけがない!」なんてセリフを吐いておりましたが(…懐かしいっ! その後きまって、松田優作さん扮する中野刑事が、馬鹿にしたような顔でけなしてましたけど…笑)、これなんてのは評価する人の価値観が、でたらめということですからね。

 でたらめな観点で評価した結果は、でたらめですから、これは信じるに値しません。ではでたらめな観点での評価にならないためにはどうすればいいのかといいますと、それはものごとをきちんと評価する尺度があるということでございます。

 この尺度に決め方はなかなか難しいのですが、一般的に、目指す目的によって尺度は変わります。

 昔々、まだ私が学生だったころ(大学生ではない)、学校で先生が、「あの子は頭がよい」なんてことを言っておられるのを偶然聞いて、愕然としたことがありました。「頭がよい」という判定基準は、いったい何なのでしょうか?

 学生時代ですから、運動神経抜群で、スポーツで素晴らしい実績を残しているけれど、その分学校の勉強がお留守になってしまう人だっています。テストで成績がよくなければ、頭もよくないのでしょうか?

 そんなことはありません。スポーツも、素晴らしい成績をおさめる人には、頭のよくない人はいません。体力さえあればパフォーマンスもいいというのは、低い次元の話であって、競技レベルが上がれば上がるほど、頭がよくなくてはついていけません。ただ忙しくて、学校の勉強どころではないかもしれないので、学業成績が優れているという保証はできませんが。

 トレーニングの特異性というのがあって、人はやったことだけが上手くなるのです。英語を一所懸命勉強しても、数学が上達することはありません。スポーツの練習に打ち込んだとしても、社会の点数が上がることはありません(あくまで一例としての話です)。

 それを「頭がいい」とかそうでないとか。人の頭は、学校での勉強だけのためについているわけではありません。むしろ学校での勉強のほうが、社会生活全体をみれば、ごくわずかかもしれません(進路選択で学業成績優先の判定をされるので、学生時代には学業が優先されるのは、客観的事実ですけどね。でもそれで頭の良しあしが決まるわけではありません)

 運動神経が発達しているのも、頭脳が発達しているわけだし、学業成績が優秀なのも、頭脳が学業に適応するように発達するという面では優れていますから、どちらも「頭がよい」のです。ただし、同じ土俵で評価するのは、難しいかもしれませんけどね。

 多面的に見て、判断しなければならないことを、強引に単純化し、さらにそれを絶対化してしまうと、何か一つの判断基準だけで、その人を評価してしまうことになります。こうなるといろんな問題が出てくるのは、人類の歴史の様々な局面で、何度となく証明されていると思うのですが、残念なことに、年号と人名を覚えるだけの歴史の勉強では、そんなことはわかりませんね(歴史を形作って、積み上げてきたのは人間なのに、どうして人間を見ないのだろう? きっと、試験問題が作りにくいからなんだろうね。年号と人名だけなら、採点が簡単そうだもの…笑)。

 せっかく世界中にこれだけの人間が住んでいるんだから、そろそろ本気で、人間を学ぶことを始めたらいかがなもんでしょうか。そうすれば今、この国だけでなく世界中に存在する問題の本質が、見えてくるような気がいたしますがね。

 見えてくれば、解決のしようもあるでしょう。見えてこなかったり、見ようとしなければ、解決は永遠にしないでしょうね。これが感覚を鋭敏にした学習であり、研究なんじゃないのかなあ…… 誰も彼もそ一緒くたにしか見ず(名前を覚えるだけって、そういうことでしょ?)、年号を覚えるだけって、数字に何か意味があるの? 年号ってのは縦横の関連付けをするために有用なのであって、それだけが意味を持っているわけじゃあないんだからね、ただの数字だもの。

2017年12月11日 (月)

交渉をなんと思っているのだ?

 寒っっいですね。とうとう寒さに負けて、エアコンにスウィッチを入れようとリモコンのボタンを押したら、無反応。長いこと使ってあげていなかったので、電池がパアになっておりました。使わないと機能が落ちたり、なくなったりするのは、人間の身体と同じでございます(しかも、それに気づかないという……)。

 今日はもうちょっと頑張らないといけないので(何もなければ、お風呂に入って寝ちゃえばいいんだけどね)、しょうことなくエアコンです。寒すぎてもペースダウンするから。(寒すぎても、平気で居眠りをするときはいたしますが…だいぢょぶか?生きてるか?)

 ここんとこ長らく、いやな作業をしていますので、そうでなくても気が滅入っちゃってるんだよね。せめて寒さくらいは取り除いてあげないと、自分がかわいそう。

 にしても、先月のアタマに外国から送ったはずの荷物、まだ届かない。あそこから送ったのは、時間がかかるのは知っていたけど、いくらなんでも遅すぎる。荷物を送ったことすら忘れてしまいそうぢゃないか!

 まさか地球の反対側を回って(つまり無茶遠回りして)、送ってきてるんじゃないだろうな?まあ日本以外の国なので、日本でものを送ったように、正確に、素早くなんて期待はしていないが、それにしても遅い。カタツムリでも、もうだいぶ前に届いてるんじゃないか?と感じるほど、遅い。

 それに比べたら、日本の運送業の人たちは「神様」だよ。正確に届けてくれるは、安全かつ速いわと、もう運送業の鑑でございますね(だから物を送ることに関して、詰めの赤ほどの心配もしない。送りに出しただけで、もう安心してるもん)。

 国民性の違いもあるから、「まあしょうがねえな」とため息をつきながら、ただ、待つしかないというのも、とても能無しのお話でございます。(でも待つっきゃない! 怒)

 こういった欲求不満は、肥満の原因になります(暇なので、つい口寂しくなって、手近なものをぼりぼり食べるから?ではないかと思っていますが。ですから手の届くところに、食べ物を置かないのが正解なんでしょうね)。一番いいのは、暇な時間は、すべて練習をやること!(これはダイエット効果抜群です)

 もちろん練習はやっているけど、それでもなんとなく時間をもったいないことをしているような気がして、これが次第に「罪の意識」に変わってくるんだよね(私は悪くないのに。悪いのはとろとろ送ってくる、某国の運送屋だ! …ちなみにこういったことが、その国の生産性とか能率に、大きな影響を与えていると、私は見ておりますんですけどね!)。

 まあ外国相手だと、日本国内を相手にしている時よりも、気長さは100倍以上にしておかないと、こちらがもたなくなってしまいます(にしても、遅いけどね)。だから「約束」しても、「まあやってくれればいいけどね」程度の認識でいたほうが無難です(私の友人たちは、日本人よりもはるかに律儀は人がほとんどだけど)。

 ということで、ぶつぶつ言いながら戦車の話を続けましょう。

 春秋期の戦は、だいたいが戦車が主力でした(最初は歩兵が主体でした。春秋期…それも初期…の戦に、英雄が馬に乗って登場などしたら、それは時代考証がズタボロです。遊牧民族ならいざ知らず、中原の戦は、みんなとぼとぼと歩いて戦場に行き、二本の足で戦場を駆け回り、二本の足で帰還したのです。戦車に乗れるのは、身分の高い貴族たちでしたからね)。

 このころの陣形は非常に単純なもので、戦車が並び、その間に歩兵がいるといった、たいして工夫を凝らしたものでもございません。しかも戦ものんびりとしたものでした。〇月〇日に▽▽の地で会戦しよう、なんて戦書を送り届け、両軍がそこへとことこ出向き、まあのんびりとやりあっていたわけです。

 しかもめったなことに、相手を全滅させるような激しい戦闘は行いませんでした。優劣が決まればそれで戦勝国と敗戦国が決まるわけで、その結果でそのあとの交渉が、勝敗にそって行われるようなものでしたから。

 だから魯の曹沫のように、戦闘で斉に三度も負け、魯の領土を減らしてしまったのに、いざ会談という席上で、斉の桓公を人質にとって、戦で負けて失った土地を、匕首を突き付けて取り戻すような、わけのわからんちんが現れるのです。国と国との交渉を、いったい何と考えておるのでしょうな。しかもそれを英雄豪傑扱いするなどとは、もってのほかでございましょう。

 それはさておき、当時の戦車はだいたい、横幅が3mくらい、馬を入れた前後が3mくらいあったようです。で乗っているのは3人。まずは御者は馬を御さなければなりませんから、これを省くわけにはまいりません。御者の左右には一人ずつ兵士が乗っており、指揮官は車左に乗ります。

 当時の戦車で使われた武器といえば、戈、殳、戟、酋矛、夷矛、とか剣、盾、弓とかと言われておりますが、これはだいたい車右が振り回したようです。

 考えてみればわかりますが、3mの長さを幅があれば、剣は戦車の上で振り回しても、せいぜいが味方を傷つけるくらいしかできません。主武器はやはり戈、殳、戟、酋矛、夷矛といったところになります。

 戈の形状についてはすでに述べましたが、戦車上で使うものは3m以上、4mくらいのものがあったようです。殳は竹の先を削って鋭くしたもので(簡単に言えば、竹やり)すが、竹は中空で、長さのわりに軽かったので、用いられたのでしょう。弓矢はまあ、当然といえば当然の武器でございますね。 

 おお、今日もあと3分。ここでいったんストップいたします。またよろしく!

2017年12月10日 (日)

「忘れる」は救い?

 朝は不思議な温かさだったんだけど、昼前から曇った。夕方になるまえから、小さな雨粒が…… 最近の天気予報は、なかなか正確でございます。(多少の時間的ずれや、違いはあっても)

 おかげさんで、今日も、やりたいと思っていたことの9割はできました(自分で忘れていたことはできなかったけど、これは私自身の落ち度なので、どなたにも怒りの矛先を向けることはできません。先日、某お店で籤を引かせてもらう機会があったんだけど、なんとあろうことか「当たり」…私は大変に籤運が悪い人で、今まで当たったことは、片手の指で数えられるくらいしかない… で、コルクボードを頂いてきちゃいました。もちろん物忘れ防止のために、気が付いたことを書いて貼っておくためでございます。アイデアなんかを貼った日には、壁一面のコルクボードがあっても足りないくらいだけどね…こんなにいろんな発想が湧くから、どんどん忘れるものが増えるんだろうけど。世の中、いいことばかりではございません。良いことの裏には、かならず欠点が現れます)。

 でまあ帰宅後、先日師父から助言を受けた(すべて「よくできている。非常に進歩している」という評価をいただき、注意などはただの一度としてされていないんだけど。なんでも私は、天真爛漫に練習に取り組んでいると、ほかの方からもお褒めの言葉に預かった…私が天真爛漫なんて、今まで想像もしなかったこと。エライことになってしまいました…笑… まあ、好きなようにやっているのがいいのかも)練習をやりました。

 幸いな「晴れ男」でございまして、練習をしている間は雨も待ってくれているみたいで、屋外でなかればできないことは、全部できましたよ。これで今晩も洗濯だ。汗びっしょりだもん。ありがたいことでございます。きっと誰かが助けてくれているんだろうね!(私にはだいたい誰かは、想像がついているけど)

 であまり寒くなかったのと、調子に乗っていい練習になったのとで、晩酌は「名酒」をいただくことに。私は「名酒」は冷やで飲むことにしているので、わざわざ冷蔵庫で冷やしていましたが(練習前に冷やした。もっともこの季節、冷蔵庫に入れようが入れまいが、たいして変わりはないかも)、飲むころには体温も下がっていて、寒かったなあ(今はほどよくアルコールが回って、とても暖かいハッピーな気分になっておりますが)。特に今日の肴を刺身などという冷たいものにしたのが(日本酒の名酒には、やっぱりお刺身でしょ?)、ますます寒かった原因。やはりこの季節、冷たいお酒を飲むときには、周囲を十分に暖かくするにこしたことはないようで。

 ということで、昨夜遅くから、ライフワークの内容が少しだけ変わりまして、ちょっとはペースアップしたみたいでございます。同じ作業ばかりを繰り返していると、いい加減モモチベーションが下がってしまって、ペースダウンしちゃうんだよね。たまには目先を変えないと。でも目先を変えてはいけない時もあるわけで、こういうときは必死に頑張るしかございません(ついついよそ事をしたり、居眠りをしたりしてしまうのは、こういうときでございます)。

 好きなことをしているつもりでも、いやなときとか、胸突き八丁とかはやってきます。こういうときは気分転換がけっこう効果的ですが(私は練習で身体を動かします。これで疲れて、寝てしまうこともあります…笑。こういう時は、「欲求不満がたまっていたんだな」と自分に言い聞かせ、自分を責めないのが大切です。自分を責めても責めなくても、たいして結果は変わりはしないんですから。なら責めないほうが、心の疲れ方が軽くてすみます)、気分転換最大の弱点は、やっぱり仕事は進んでいないという点ですね。いやいやながらでも、やった分は嘘をつきません。確実にやるべき仕事は減っています。

 やるかやらないかを決めるのは、やっぱり自分ですから、自分が決めたようにするのが一番ですね。そして決めたら「迷わない」。人間は弱い生き物ですから、ついつい迷うものですが、迷うことによって精神的疲労をするくらいなら、忘れてしまったほうが楽です(これも物忘れの原因か?)。忘れるということは「救い」の一種ですから、忘れることに過度の罪悪感を持たないほうがいいです。

 ということで春秋時代の戦車でございますね。最初の戦車は、近代(とは言っても、今の日本では馬車を見かけることすら滅多にございませんが)の荷馬車以下の乗り心地だったのではないかと思います。なにしろ地面からの衝撃を和らげるバネなんてものがなかった時代ですからね(しかもまだ、道路でさえ大して舗装されていない。ましてや戦場であれば、舗装した道路なんか期待できません)。それでも、馬の巨体と、馬車自体のサイズと重量によって、大きな威力を発揮したみたいです(というのは、春秋期に入って、戦に動員される洗車の数は、飛躍的に増加していますから。これって有効と判断された結果でしょう?)。

 その証拠に、紀元前11世紀の、周の武王が殷の紂王を滅ぼした牧野の戦では、紂王の軍勢だけで17万を動員したというのに、戦車の数は両軍合計して300輌だったのに、紀元前632年に晋と楚の間で戦われた城濮の戦いでは、晋軍だけで700輌、紀元前529年には晋で軍を検閲した時には4000輌の戦車があったというのですから、飛躍的な増加です。『孫子兵法』でも10万の軍勢には1300輌の戦車がどうたらこうたらとありますから、戦車人気はこの時代、非常に高かったのでしょう。

 ということで、気が付いたら今日もあと5分しか残っておりません。とりあえず次回をお楽しみに。(日本には戦車戦の時代はなかった…私が知る限り…ので、けっこう興味がございますんですけどね)

※今月の『○○』を語る会は、16日の土曜日でございます。よろしくお願いいたします。

2017年12月 9日 (土)

禊って、ものを忘れることなのかも……

 寒いぞ。だが私は帰宅した瞬間から、庭で変身した。暴れて気が付いたら、汗びっしょりだったので、風邪をひかないように、さっそく着替えをしたら、脱ぎ捨てた服と一緒に、それまでの記憶がすべてどこかに行っていた。

 昔々、親父から聞いた話がある。親父がまだ学生の頃だったんだそうな。あるおっさんが麗しい(?)女性と一緒に、旭川(岡山市中心部を流れる一級河川)の後楽園(日本三大名園の一つなのだそうだ)の近くで、ボートに乗ったのだそうな。

 それだけなら何の問題もないのだが、このおっさん、写生かなんかをしていた親父(私の)たちを、上手とか下手とか、からかってボートに乗ったらしい。(授業中の学生をおちょくるとは、何というおっさんだろうか! まあ、のどかな時代だったんだろう)

 ところがどっこい、そのおっさんと女性の乗ったボートは、旭川で転覆。幸いなことにおっさんもお嬢さん(私は見ていない。なにしろ私が生まれるはるか前のお話である)はずぶぬれにはなったものの、なんとか川岸に這い上がったらしい(あのあたりは中州があるから…その中州に作られたのが後楽園という公園である…なんとかなったんだろう)。

 で罰が悪いことに、行きがけにおちょくった学生たち(当然、私の親父もその中にいた)の傍を通らなければ帰れなかったらしい。すると学生のさるもの。「おっさん、行きがけの元気は、どこ行ったん?」、「旭川の中に捨ててきたんじゃろ?」

 禊というのは、水をかぶって身体を洗い清めるのが原典らしいが、デートの最中にボートが転覆して川にはまったのが、果たして禊になるのかどうか。私的にはきっと禊にはならないと子供心に思っていたが(親父にその話を聞かされたのは、子供も頃だった)、禊ってのは、自らの意思で穢れを落とそうという考えのもと、水で身を清めることなんではないかと思う。

 まあ現代では政治家のセンセイ方が、何らかのスキャンダルに見舞われたときによく「禊」なんてえことを聞くけれども、中にはまったく禊をしていないままの人もいたりするので、これから冬も深まっていくことだし、深山の大きな滝つぼにでも入って、しっかりと禊をしていただきたい(人が、結構います)。

 とは言っても、こんな禊はなかなかの荒行で、やるとそれまで思っていたことのすべてを忘れてしまっていることもちょくちょくある。ははあ、これで禊をすると穢れが取り除けるのかと感じたことは、何度かあった。

 私は「禊」などをする必要はなかったが、それでも真冬の滝行は何度も経験しているので(意外に気持ちがいい。そのわりに決まってその後、大風邪をひいたけど…笑。帰ってきて、その足で帰宅もしないで飲みに行ってたのがよくなかったのかね?)、ぜひお勧めしたい。(お医者さんに聞くと、あれは「やらない方がいいのだ」そうな。ま、健康によさそうではないけどね。でも「決意を固める」には、一つの儀式としては効果的だと思う部分も多々あります。もちろん強制的にさせるものではなく、あくまで自らの意思で挑戦するものだとは思いますが)滝を浴びた後、ほどなく全身が温かくなっていくのがわかりますからね(もちろん、濡れたままにしていたら、死ぬかもしれません。すぐに乾いたタオルで身体を拭いて、乾いた暖かい服装に替えることが絶対条件ですが)。生理学的には、きわめて当たり前の現象だけど。

 禊っていうのなら、最低はこの程度はやらないと。口先だけの禊なんて、いまさら誰も信じませんもんね。長さ1m超のつららがカーテンのようにぶら下がっているところでやんないと、少々のことでは穢れは消えません(ほんとかね? よゐ子の皆さんは、マネをしないほうがいいですよ! よゐ子でない人は、やった方がいいかも…冗談ですが)。滝つぼに行く前に川底の石の角にでも当たったひには、足が裂けちゃったんじゃないかと思うくらい痛いですもんね!それだけで十分な荒行でございます。

 と、寒いときに、もっと寒い話はこのあたりにいたしましょう。

 さてさて青銅器の時代ですが、中国では商(殷)の時代の戦争での主武器は戈でございました。しかしながら当然のこと、戦いには接近戦がございます。では接近戦では何を用いたかというと、そこは剣でございますね(この時代、すでに刀も現れております。あ、剣と刀の区別は大丈夫ですね? 諸刃の剣、片刃の刀と覚えておくと、大きな間違いは犯しませんよ)。ただ長さは、後世の長大なものではなく、せいぜいが40~50㎝くらいだったようです。すでにこの時代、銅に対する混ぜるべき錫の割合も残されており、かなり青銅の製造法については研究されていたんでしょうね。

《考工記》という書によれば、銅6に対して錫1ならば鼎、銅5に対して鈴ならば斧、銅4に対して錫1ならば戟(春秋期初期には戟はまだなかったはずなので、もうちょっと後の時代の書なんでしょう)、銅3に錫いならば大刃、銅5に錫2ならば矢、銅と錫が1:1ならば鉴燧(太陽光を集めて火をつける道具。ちょうどオリンピックの聖火の点灯と同じ原理ですね)に用いるべし、なんてことですから、古代の工匠もいろいろと研究したのでしょう。

 錫と銅の割合ですが、錫を増やせば増やすほど、堅いけど脆くなるので、このあたり、用途によって混ぜる割合を変えているところが、なかなかニクイところでございます。(実際には錫の含有量が17~20%が最も硬くなると言われております)

 こうして青銅製の武器は発達していくのですが、この頃の武器で最も豊富に出土しているのが、鏃でございます。鏃はその使われ方から考えてわかるように、矢を射たあと、回収することが難しいものです(基本、使い捨て?)。なので大量に生産されて大量に使用され、大量に遺棄されていたんでしょうね。この時代、すでに鏃の外見は、もう後世のものとほとんど変わりません(秦の六国平定期の鏃の作りは、非常に精巧なもので、狙ったところに飛びやすく作られておりますが、これは鏃の断面は正三角形…一辺の長さの誤差が0.2㎜以内というものです…であるのに対し、この時代のは断面は菱形のものが多く、時に扁平であったり、丸かったりするものがあります。菱形のものは風の影響を受けやすいという欠点があるんだよね。数年前の岡山市で発掘された鏃は、中国戦国期のものらしいといわれていましたが、あれは扁平で、祭祀に用いられたのではないか、なんてことが発表されておりましたな)。

 これからわかることは、遠くの敵に対しては矢を射かけ、近くにくれば戈で叩きのめし、肉弾戦になったら剣を使うという戦闘様式が「見えて」きますが、この時代、最も進化したのは、実は戦車でございました(後のタンクではないよ)。

 言ってしまえば馬車なのですが、乗っているのが兵士であって、戦闘に使われるものですね。戦車は歩兵しかいない状況では大変な脅威でございます(騎兵の登場は、もう少し後です。なにしろ裸馬を乗りこなすには、武器を扱うより先に、乗馬の技術が相当に優れなければなりません。裸馬に乗って、片手あるいは両手を手綱から放して乗るのは、すでにもう曲芸の域に達しています…これが騎馬軍団の誕生が後になった最大の理由ではないでしょうか)。なにしろ生身の人間に、体重は数倍はある馬が複数(当初はだいたい2頭だったようですが)引っ張った馬車が突撃してくるわけです。戈でどつかれたり、剣で切り付けられたり刺されたりしなくても、馬や馬車にぶつかっただけでも、運が悪ければ死んでしまいます(交通事故に遭うようなものです)。

 こうして春秋期には戦車戦が発達し、戦車による戦法が大規模になった時代でもありますが、これについてはまた後程。

※ 今月の『○○を語る会』は、16日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年12月 8日 (金)

寒いときの「無為自然」…暖かくすること!

 最近の天気予報は正確ですねえ。きっちりと寒くなりました。おかげで夕ご飯の時に、熱燗が進む、進む。またしても酒屋さんをもうけさせてしまいました。まあ日本経済の活性化に、爪の垢の中にいるかもしれないウィルスくらいの貢献はできたのかなと思います。

 ということで昨日の本ブログ、間違えてしまいましたので、訂正いたします。今年は日米開戦76年目でございました。引き算もできないようなので、もう一度小学校からやりなおします(小学校で受け入れてくれればの話ですが、毎晩晩酌をやっているような「不良」は、小学校に断られそうな気がいたします)。

 とはいうものの、どこかの国でイェルサレムがイスラエルの首都だって、認められたんですってねえ。私は難しいことはわからないけれど、よくもまあ、まだいくつも問題が未解決なのに、あれこれちょっかいをかけることができるもんだなあと、半ば呆れ、半ば感心しております。それともこの方のおつむの中では、ほかの問題はもう片付いているのかな?

 でも今大騒ぎの真っ最中の相撲界の言葉に、「勝負は下駄をはくまでわからない」というのがあります。またどこかの国には、「どんな仕事でも、思っているよりは時間もかかるし、苦労もする」なんて含蓄のある言葉がございます。お忙しいとは存じますが、もうちょっと言動は慎重でもよいのではないかと思いますけどね。(もちろん、優秀な人の行動は、私のように引き算すら間違えるアンポンタンにはわかりませんれど)

 一つ間違えば、多くの人間が犠牲になる危険もなくはないので、慎重にというのは、もっとも基本的な姿勢ではないかと思います。他人を大切にできない人は、他人からも大切にされないんだからね(きっと)。…自分だけが大切にされていればそれで満足って人もいないわけではないけれど。こういうのは、自分のしあわせのしわよせを、平気で他人におっかぶせるタイプですね。

 ま、個人に限ったわけではなく、国家単位でやっているところもあるみたいだけど(いやいや、仕事をやっていても、こんな輩は大勢おりますけどね)。『半沢直樹』で言ってた、「部下の手柄は上司の手柄、上司のミスは部下の責任」と絵に描いたような人も、いるいる、けっこういます(私のこれまでの人生でも、けっこうおりましたよ。知ったこっちゃないけどね)。

 みんな出世するのは嬉しそうだけど、出世するということは同時に、責任が重くなるってことだとは、あまり考えないらしいから。そして取るべきは自分個人の責任だけではなくて、部下とか呼ばれる他人の責任も取らなくちゃならなくなるんだよね。

 これは「自由」でいたい人には、結構な重荷だ。手枷足枷をつけたまま、全力疾走しろと言われているようなものだから。自由でいたければ、何かを代価として支払わねばならない。そんなことは当たり前ですね。

 こういった「自由」を尊重した古代の哲学者に、荘子(荘周)というおじさんがいます。老荘思想とか、老荘哲学とか言われて、中には大変にこの人を好むお方もおられます。たしかにいいこともたくさん仰っておられますが、自分の考えを、誰に対してか知らないけれど、「正当化」させようとするような言動は、ちょっと納得いかない部分もなくはありません。

 私が一番笑ったのは、お金がなくて(荘子は「自由」のために…一時期桑園の官吏をしたことがありましたが…基本宮仕えをいたしませんでした)困ったときに、梁の恵王(魏の恵王ともいいます。梁と魏は同じ国なので、同一人物です。ちなみにこの恵王の時に魏は桂陵の戦い、馬陵の戦いと、二度、斉の孫臏に大敗を喫してしまい、中原の覇者の地位から滑り落ちた王様であり、その後孟子が遊説に来た時に、「遠路はるばる、この私になんぞ良いお話でも持ってこられましたか?」と話しかけ、孟子が抽象的なことばかり言って、使い物になりそうにないとわかると、相手しなかった、賢い人でもあります。でも商鞅に逃げられているから、賢くない面もございますけど)にお金を無心しに行くお話があります。

 その時梁恵王は、「もうちょっと待ってくれたら、税金が入るから、その時になら大金をあげる」というのですが、荘子は轍にできた水たまりの中の魚の言葉を借りて、「その時では間に合わないのだよ」と上手に返しております(その後どうしたのかは書かれていません。とりあえず荘子はこの時に飢え死にはしていませんから、なんとかなったのでしょう)。

『荘子』という本自体が、なかなか面白い寓話集みたいな趣があるものなので、読む分には凝りはないのですが、これが「もしも現実の生活でそうだったら」と考えると、けっこう厳しいものがございます。

 勝手気ままに、自由に生きるのはいいけれど、お金に困って梁の恵王にお金を無心にいくときの荘子の気持ちはどうだったのでしょうか? 気ままにいきてようが自由だろうが、お腹は減ります。そのまま何も食べないでいれば、餓死してしまいます。ここに現実の世の中を生きていく上での苦労があるわけで、下げたくない頭の一つも下げなきゃならないし、やりたくもないことでもやらなきゃならないといった、自由気ままからは程遠いことも我慢しなければならないんですもんね。

 ちなみに私はできるだけ原書で読むことを心掛けておりますが、こういう無為自然などを唱えて勝手気ままに生きている人が、自分の生き方の正当性を無理にでも正当化しようと御託を並べている箇所を読んでおりますと、よく本を投げ出して「のーミソにボウフラが湧く!」と喚きながら、怒っております(これも私の「自由」でございます…笑)。

 いいじゃん! 自分で望むものを手に入れたのだから、それを引き換えに何を支払ったとしても。別にそれで人様に誇ることは何もないし、人さまだってそれ相応に、何者かの代償として、自分の生活を生きているんだし。

 人さまの生き方をぼーっと眺めて、何も言わない(迷惑をこうむらない限り)。それだって立派な無為自然だと思うよ(人さまに無為自然を勧めるよりも、よほど無為自然だと思いますけどね)。まあ人が「あなたの生き方は素晴らしい。どうすればそんなに素晴らしい生き方ができるのでしょうか?」と聞きに来れば、お話ししてあげても構わないかとは思うけれど。

 どうやら最近、この「無為」も「自然」も、尻尾くらいは捕まえたような気がするので、余計にそんなことを思い始めましたんですけど。もちろんこの「無為自然」というのは、私が学生時代にお話しをうかがった先生方や、社会人になってお話を伺った先生方が仰ったものとは、かなり違うような気がいたしておりますがね。

 ま、この「無為自然」が人類最高の叡智だとは、私は思いません。(……とうとう、道家思想にも限界を感じ始めてしまった…笑)まあ、人々が今よりももっと限られた情報しか仕入れることができず、様々な思想が発達しておらず、いろんな地域のいろんな賢い人との接触ができなかった時代の思想の一つでございましょうな。そう考えれば、けっこう救いはあるし、使える部分は使わせていただければいい、程度の認識になっていきますけどね。

 寒いですねえ。無為自然に従って、おとなしく震えておきますか? 人はそうはいたしませんもんね! ちゃんと、できるだけ寒くないようにするじゃないですか。エアコンがあればスウィッチを入れるし、ストーブがあれば天下するし、炬燵があれば入ってしまうし。なければ服でも着こんで震えながら我慢するしかありませんけどね。でもできるだけ暖かくしようといたします。それが本当の無為自然であって、だからこそ荘子だってお腹がすいたら、お金を無心に行ったわけですから。普通の人が荘子の真似をしないで、ちゃんとお勤めをして、嫌なことでも我慢して、その代償として快適な環境で生きるってのも、その人にとってそれがよければ、立派な無為自然だと、私は思うんだよね。

※今月の『○○を語る会』は16日(第三土曜日)です。よろしくお願いいたします。

2017年12月 7日 (木)

「戈」を「止」める

 最近の天気予報は、わりと正確だ。確かに今日は、昨日よりは凌ぎやすい。ということはこの後の天気が下り坂というのも当たる? これは嫌だねえ。いいほうへ外れるのは歓迎、悪いほうに当たるのは歓迎できない。人間は自分勝手な生き物なのだ。夜、私が屋外で活動していないときに降るのは、それほど毛嫌いしているわけでもないんだけどね。

 知らない間に十二月の七日となりまして、明日は七十二年前に日米が開戦した日だ。これについてはもう山盛り研究がなされていて、今更何を聞いても驚かないくらいだが(あいにく私が聞いた範囲では、宇宙人がそうさせたという説は、今のところない。神様がそうさせたという説もまたない。つまりは人間がそうさせ、そうしたということであるのだろう)。

 当時の記録フィルムなどを見る機会があるが、やはり人が死ぬのを見るのは、気分がよくない。ましてや私と同じ日本人が死ぬのを見るのは、飛び切り嫌だ(死体となっている映像や写真など、いくらでもあるが、これを見ると胸をかきむしりたくなるような気分になる)。私は基本的には戦争には大反対だ。

 しかしながら吹っ掛けられたら防衛はしなくてはならないと考えている(いつも本ブログでいうように、私は「専守防衛」である。だから相手が仕掛けてこなければ、戦ってはならないという考えである。人が死ぬのはもちろん、他の生き物だって人間に害をなさないかぎり、死んでいくのを見るのは嫌だよ)。

 しかしながら人類の文明は進歩した。仕掛けられてから反撃したのでは、手遅れになることもある。そうなればどうするか? 人を攻めようという人がいる限り、どうしてもわが身を守るために戦わねばならないとしたら、人を攻めようとする者にいてもらっては困るということになる。

 話してわかる相手なら話せばよい。だが交渉するには、価値観の共有が前提としてなければならない。(だから価値観を共有できない生き物と、仲良く付き合うことは不可能だと考えている。仲良くするには、必ず価値観の共有ということが前提になる)では価値観が共有できなければどうするのか? いわゆる「敬遠」である。相手を敬して遠ざける。できる限りこちらが相手を避けて通るのである。

 ではこちらが避けても、相手からどうしてもと近づいて来られたら、これはもう仕方がない。なるようにするしかない。こちらが生存したければ、相手を倒すしかない。こちらを攻めるものがいなくなれば、それ以上戦う必要もないし、こちらの安全が侵されることもないからだ。

 これが「戈(か)」を「止」めるということであり、先日も本ブログで述べたように、「武」という文字の持つ意味なのだ。そして相手の「戈」を止めるには、徹底して止めなければならない。可能ならば、相手が二度と「戈」を持たない状態にすることが、本来の「武」というものの実践ではなかろうかと考える。

 だから日本でいう、「武士は刀を鞘に納めた状態でものを解決する」ことができるようになればよいのだが、一番理想的なのは、「刀を持たないでも安全でいられる状態」であろう。しかしながら現実を無視して、何十段階もすっ飛ばして、いきなり理想を語るのは無謀である。(語ってもよいが、安全は保障できない…笑)

 だから鞘の中の刀は、いつでも研ぎ澄ませておかなければならない期間があるのだ。実力もないのに態度だけ大人みたいな人を時折みかけるが、こういった人は問題が実際に発生するととても見苦しい(今までの人生で、何度かこういう人を見ましたけどね…苦笑)。こちらも手助け」する気などにはなれないが(普段のビッグな態度を思い出し、その調子でやればいいじゃん!なんて思いますので)、妙に懐かれたりして困ってしまう。

 自分の抱えた悩みや問題を、すぐにこちらに転嫁してくるような輩とは、あまりお付き合いしないほうが身のためだ。あまり甘えさせると当たり前になり、ひいてはつけあがる。こういうやつに限って、こちらが困ったときには何の助けにもならないどころか、こちらのピンチに乗じて物を奪っていく(『兵法三十六計』にいう趁火打劫でございます。人の家の家事に付け込んで、火事場泥棒を働くというやつです)。そんなやつを守ってやるべき理由は、どこにもない。

 窮地に立った者を助けるのは、その人が十分な自助努力をしている場合が。自分でなんとか解決しようと奮闘しているのを見て、こちらに余裕があったり、ちょうどその人が必要としているものがあれば援助する。こういう人は、援助した後に気持ちがいい関係になることが多い。(ただし「お助けいたします」と言って、足を引っ張ってはならない。こういった困った善意を持った人もいるので、世の中、なかなか難しい。まったく悪気はなくても、こちらの足を引っ張ってるんだよね… こういう人も何度か見かけた。対処の仕方は、こちらは満面の笑みをたたえて、「ありがとうございます。ですが、もう間に合っておりますので」と、一刻も早くお帰りを願うことだ。冷淡に断ると恨みを買い、作らなくてもいい「敵」を増やしてしまうこともあるからだ)

 いずれにしても、鞘の中の刀は、いつも研いでいなければならない。あとは可能な限り抜かず、いつも満面に笑みをたたえて、人と相対することだ。そして満面に笑みをたたえて対することができない相手は、「敬遠」する。それでも寄ってくれば、鯉口を切ることも必要かなとは思いますけどね。こちらも生き延びなければならないので。

 さあてこれから練習だ。楽しいなっと。鞘の中の刀を研ぐ時間でございます(笑)。

 ※今月の『○○を語る会』は、16日(第三土曜日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年12月 6日 (水)

寝たら死ぬぞ?

 朝の寒さの埋め合わせでもするかのように、昼はわりと穏やかでございましたね。でもよるになると、また寒いよ。明日は少しは寒さが緩むようなことを言っていたけど、どうせこれからが「冬本番」だからね。まだまだ寒くなるんだろう。

 冬の初め、夏の初めは憂鬱だ。これからもっともっと寒くなるんだろう、とか、これからもっと蒸し暑くなるんだろうなと考えただけでも嫌になる。この「もっと悪くなる感」というのは、けっこう嫌なもんで、「ここらで下げ止まり(あるいは上げ止まり)」という期待感すら持てない。物極則反という安心感すらないのだから(本当にこの宇宙を支配する法則は、「物極則反」を保証してくれているのだろうか。地軸を23.4°傾けたまま、太陽の周囲を公転している地球人だけが持ってしまった、甘い考えではないのだろうか?。毎年回転していれば、季節は巡るので、こういった発想を持ちやすいかもしれないし)。

 気候だの天気だのは、そこに暮らす人間の考え方に大きな影響を与えますしね。人間に限ったことではないけど、生物は自分が暮らさなければならない環境に合わせて自分を適応させていきますから(適応できなければ滅ぶだけ。これは数多の生物の歴史が証明しています)。おかげで環境の変化に適応しすぎた小鳥やなんかが、人間の生活空間に入り込んできて、思いもかけぬ事件を起こしたり、起こしそうになったりいたします。

 そうそう、町中にイノシシが出現したんですってね。捕獲されたらしいけど、捕獲したあとはどうされるんだろう? 私にはほかほかと湯気を立てている「牡丹鍋」の映像が、すぐに脳裏に浮かびましたけど(時期が時期だけに。これから鍋がおいしい季節ですが、特に牡丹鍋は身体を温めてくれるからね)。これはもう、捕まえた人の「役得」としかいいようがございません。まあ苦労して捕まえたんでしょうから、そのくらいのご褒美があってもよいかなと、私は思いますけどね。

 倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱(倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る)なんてえことを昔から言いますが(なにしろ『管子』ですからね。春秋だ)、余裕がなければキレイゴトをいうこともできません。

 蓄えがなければ人は卑しくなるのもですし、食うものも着るものもなければ、恥のなんのとは言ってられませんもんね。まずは生存できること。そして生存が保証されること。それが「人として」「人らしく」生きる上での大きなキーワードではないでしょうか。

 すると食料が保証される環境や社会で暮らせることは、「人らしく」生きる上で、非常に大切だということになります。社会の指導者の役割の大きな一つに、生活を保障するというものがございますが、それができて初めて礼節の、栄辱のと道徳的なことをうんぬんすることができるように思います。(だから現代では、経済政策がまともに立てられない人は、社会の指導者である資格がないということになりますね。人々の生活が保障できないのですから…国会で足の引っ張り合いしかできない人は、間違っても指導者になってはイケマセン。せいぜい国民に話題を提供してくださる程度の地位に甘んじているくらいにしておいてくださいね)

 ということで、今日は動物がうとうとしている動画をちらっと見てしまったら、誘われてしまったのか自分も、うとうとしてしまっていて、時間がなくなりました(私の部屋は、まだ暖房を入れていないので…ボタンを押せば、それでいいんですけどね…とても寒く、「寝たら死ぬぞ」的な環境ですが)。今日はこのあたりで。

 ※ 今月の『○○を語る会』は16日の第三土曜日でございます。よろしくお願いいたします。

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