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2017年5月25日 (木)

罪を憎んで人も憎む?

 湿度は若干高めだが、よい具合の気温と風の具合である。にも拘わらず胸が苦しい。言っておくが恋煩いではない(そんないいもん、やってみたいよ! 若い頃は恋煩いは切なく苦しいものだったが、今は切望しておりますな! ちなみに私は一人なので、まったく問題はない)

 昨日は一日中雨が降り続いたせいか、今日の蚊の煩いこと! やつらも一日、血が据えなくて飢えていたのかも知れないが、血を恵んでやる謂れは全くないので、近寄ってきたら撃墜である。私は蚊は嫌いだ。たぶん好きな人は、多くはいないだろうが。

 昔から「罪を憎んで人を憎まず」なんてカッコいいことをいう人がいるが、蚊が血を吸うという行為を憎むだけで、蚊という存在を憎まなかったら、永遠に蚊に血を吸い続けられる。世の中はキレイゴトだけで動いているわけではない。蚊を殺さない限り、いくらでも血を吸われるし、痒みはおさまらない。

 しかしながらこんなことを言うと、「蚊は人ではないでしょ」などと、したり顔で言う人が出てくる。蚊は人ではない。では蚊と人とを分ける違いは何だ? 蚊は昆虫で、人は哺乳類で、などと生物学的分類をしてみてもはじまらない。

 蚊と、他者に害しかなさない人間の共通点は、「他者に害しかなさない」という点だ。外見がまったく異なっても、この一点については見事に一致している。こうなると、その「害」というものにたいして、どのように対処するかが問題になる。蚊は人類ではないから殺す。人は人類だから殺さない、なんてことを言い始めると、大変に面倒な捕鯨問題に似てくる。

 鯨を殺しちゃいけません。鯨は頭のいい動物なんです! 確かにその通りだ。牛肉は食べません、牛肉を1㎏作るのに、草は何キロ必要だと思っているのですか! だから人間は草を動物を食べちゃいけないんです。私だったら、「じゃ、あなただけ、草食ってなさい(私は「道草」はよく食うが、草は食わない…山菜は食べるけど)」でお終いだな。

 ま、かつての学校給食での鯨の味を知っている者としては、クジラが頭がいいかどうかなんて、考えたこともなかったし、学校給食で食べた鯨は、調理師さんたちの腕がよかったのか、大変に美味でした。あまり食べない子から分けてもらって、てんこ盛りにして食べてましたよ。(今の代用鯨の美味しくないことったらない!)

 鯨や牛に関して述べると話が長くなるので、ここは蚊に話を戻すが、蚊は殺してもいいけど、ねえっ! じゃあハエは? 

 ハエは不潔な生き物だ。何故かというと、どろどろになったものしか食べられないような口をしているから(ウジの頃は形状は違うが、内臓のつくりが発達していないらしい)、腐ったものとか排泄物とか、いわゆるばっちいものしか食べられない。そこでばっちいものに寄って行き、そこにとまって食べるからである。当然、足はばっちいものに触れるから、とてもばっちいことになる。

 だから私としては、仲良くはしないし、保護もしない。でも存在は認めている。なんせ彼らは、ばっちい物体を食べることで、自然界に分散させていき、とりあえず我々に直接的な害が少ない形にしてくれるからである。言ってしまえばばっちいところで、ばっちいものを浄化する働きを担っているんだね(腐海に棲む王蟲みたいなもんかな)。

 蚊はそうではないね。人の血を吸い、不快にしたり、伝染病を媒介する。いつもいうように、蚊には情状酌量の余地がない。何故かというと、他者に対して、よいことをちっともしないからだ。こういう存在に対しては、「罪を憎んで、人を憎まず」の精神では過ちを犯す。罪も人も憎めばいいのである。ついでに罪にも、罪しか犯さない存在にも、きっちりと相応の処罰を下せばいいのだ。

 これからちょうど盛んになる季節だが、この季節は、モノが腐りやすい。腐敗というのは微生物が働いて、人間に無益なものが作り出される現象であり、発酵とは人間に何かしら有益なものができる現象だ。判断基準は「人間にとって利があるかないか」である。

 こうなると微生物にとっては悲惨だ。自分の活動が、人が喜んでくれれば「発酵」、人が嫌えば「腐敗」となり、「発酵」のための微生物は大切にされたり可愛がられたりするが、そうでなければ「消毒」の名のもとに、除去されたり、殺害されたりしてしまう。人間とは、本来自分勝手な生き物なのである。

 こう考えると「罪を憎んで人を憎まず」なんて、結局、人間は多くの場合でやっていないことがわかるね。そして「罪も人も憎んだ」結果、清潔で、安全で、快適な生活が保障されたりしているのである。

 人間とはいっての自然に一部。自然の中で生き延びるためには、こういった容赦のない戦いを繰り広げて、今に至っているんだね。ちょっと消毒が不十分だったり、甘かったりすると、ますます強烈な奴が出てきたりするから、「やる時ゃ、やる!」って姿勢が大切なんだよね。

 もっとも実験室なんかじゃ、入る前に、消毒、更衣(手袋、マスク、帽子などなども含めて)とか、(もちろん手足も含めて)などという行為が、微生物に対する個人個人の徹底的な掃討作戦だし、滅菌室なんてのは、様々な処置で微生物がいない状態を作っているんだけど、これまた微生物にとっては、「徹底的な抹殺」以外の何物でもございませんな。

 罪を憎んで人を憎まず。これで救われる人も確かにいるだろう。でも時には、罪も人も憎まないといけない場合があると、人類の自然界での戦いが、教えてくれているんじゃないだろうか。

2017年5月24日 (水)

自然とのお付き合い

 まとまった雨でしたね(と言っても、直径10㎝の雨粒が落ちてきたのではない)。おかげで水やりの労働からは解放されましたが、人間が水やりをするのと、雨とでは、だいぶ大きな差があるようです。「一日で、えらい大きくなったなあ」と感じますもん。この調子だと、来月の中旬くらいからは、そろそろ収穫が期待できるかも。

 人間がひいこらいって行う水やりなんか、ちょっとした雨降りにもかなわない。単位面積あたりに与える水の量は、人間が水やりした方が多いような気がするんだけどね。本来水やりは、その植物が生えているところだけでなくて、もっと広範囲にわたってやらなければならないんだろうか。局所的に水をやっても、どこかへ逃げてっちゃうばかりなのかも知れないね。

 考えてみれば、もう五月の下旬。知らない間に、月日は過ぎていきます。今年の岡山県は、県北では雪が酷かったらしく、例年なら4月中旬には消える雪が、五月下旬になっても残っておりました。そして雪が残る中、雪解け水が溜まったところでは、イモリが婚活をしておりました(婚姻色を出していた……実はそんな中で、「おやじ」の足跡を見つけたんだけどね。湿地だから、足跡が残りやすいんだよね)。

 それにしても、ここ数年、春になったと山に行ってみると、シカの死骸が多いですな。私がここを訪れ始めた頃には、シカの死骸はほとんどなかったような気が(それでも、1年に1~2頭見かけたかな)するのだが、シカが増えたってことは、低い木の芽は食べられちゃうことになるので、決して嬉しくはない(植林している人の話だと、「植えても、植えても、食べられる」とか)。

 さらには鹿が持ち込む、招かれざる客がいる。ダニである。最近の私は、夏にはここで活動したりしなくなったからいいようなものの、ダニはよろしくないよ。血を吸って10倍くらいに膨れ上がったのを見ると、背筋が寒くなる。病気をまき散らしたりするし。昔ながらの「つつがなきや?」って挨拶が復活するかも知れない(この言葉は「ツツガムシ」から来ているんだとか)。

 本来人間の縄張りではないところに出向くのが悪いんだ、と言われれば、なんとなく納得してしまいそうになるけど、病気に罹ったら、納得どころではないからねえ。「自然と上手に付き合う」なんてことを言いますが、なかなか簡単なことではありません。こちらは上手に付き合っているつもりでも、小さな害虫にまでは、目が届かないから。

 たいていの場合は「上手に付き合っている」んではなくて、「上手に付き合っている気になっている」わけで、禍に出くわさないのは、ただ「運」がいいからだけなのかも知れませんからね。

 物事がうまくいくと、それは「実力」で、失敗すると「運が悪かった」ってことになる場合が多いんだけど、「運も実力のうち」って言葉もあるように、禍を避けるのもできる限り「運」に頼る割合を減らしていきたいものです。(科学の役割かも)

 まだ雨は降り続いているみたいです(夕方、ちょっと小降りだったので、外回りの用事はできましたが)。この調子だと、明日の朝も、水やりからは解放されそうです。(山から移植した、3本のサンショウの苗には、かなり気を使っていますが。なにしろ親木に「大事に育てるからね」と約束したもんで。1本はもう完全に急速成長モードに入ってしまいました。アゲハチョウ避けの網を、大きくしとかないといけません。残り2本も、新芽をふいてはいるのですが、こちらはまだ急速成長モードには入っていないので、目が離せません)

 そうこうしているうちに先日、Mさんが小鳥の餌場を作る材料を持ってきてくれたので、これも作らなきゃなりません。できたら害虫と、害虫の幼虫を食べる小鳥を集めることができれば、私の仕事はいくらか減ります(ただでエサだけやるわけではない。自然界はもちつもたれつです。我が家でもこの基本ルールは同じです)。

 一つ気に食わないのは、野良猫に、私が鳥の餌場を作ろうとしている近所を休憩所と勘違いしている奴が一匹いることです。餌場は地上1m20㎝くらいのところに設置する予定ですし、ネコに対するシールドもつける予定なのですが、小鳥が安心してエサを食べることができないとね。(ネコの餌場にする予定はありません。それはすでにだいぶ前、母が失敗していますから。鳥にエサをやっていたら、結局ネコが集まり始めて…… ただ野良猫がいるお蔭か、カラスなんかはやってきません。近くの電柱にはとまるんだけど)

 ネコは顔は可愛いですが(中には性格も可愛いのがいる)、やることは「殺し屋」ですからね。食物連鎖を壊さない程度に存在するのは問題ないのですが、食物連鎖の頂点の生き物が増えすぎると、あっという間に生態系は崩れ去りますから(ちなみに我が家では生態系の頂点が、時折無断でやってくる野良猫かな。あとはアオダイショウなんかもいるみたいですが、おとなしいもんです。昔はイタチもいましたっけ。今もいるかも知れない。では私の立場は? そりゃあ「神」ですよ!)

 暇を作って、猫の休憩場を、本来私の構想にあった練習場に変えれば、たぶんネコも来なくなるんでしょうけど、なかなか手が回りません。ああ、金と時間がほしい(助力も欲しいですが、いくら忙しくても「猫の手」は借りません。ネコが乱入すると、滅茶苦茶にされてしまいますから…猫には悪気はなくても… 昔、植物を植えるのに、庭を掘っていたら、猫が庭木に登って、いかにも興味津々といった体で見ておりました。で、植物を植えて翌日見たら、ひっくり返しやがってんの! ネコは顔は可愛いですが、やることは悪魔です)。

2017年5月23日 (火)

一枚上の交渉術

 今日も今日で、暑かった。とおもったのに、岡山市の最高気温は28.8℃。うっそ~。もっと高かったよね~。と思ったが、これは肉体労働をしていたせいか(儒教では、肉体労働なんて下賤の者がやることだ! だから私は儒教が大嫌いなのだ)。

 夕方ミジンコを採りに行った。思ったほどは取れなかったけれど(水なしでお茶碗一杯くらいかな?)、我が家の連中の一日分には十分すぎるほどだった。残りは明日以降に回しますね。一番喜んだのはグッピーかな? なにしろグッピーという魚は、なりは小さくても貪欲ですからね(飼い主の顔は覚えません。エサをくれたら誰にでも寄って行きます。あまい誘惑に弱いタイプだね。だから多くのマニアの家庭に、拉致監禁されているのかも。まあペットとしては、それでいいのかも)。私の感じでは、同じサイズのメダカの3倍は食べますね。

 ヒキガエルのオタマジャクシは、ミジンコと初対面なのか、思ったほど食が進んでいませんでした。こんな奴、いるんだよ。エサに慣れるまではちっとも食べないのに、食べ始めたら、恐ろしいくらい食べる奴が。まあ生きたミジンコ(ダルマミジンコ)だけに、水質を悪化させる心配がほとんどないので、こちらとしては気楽。

 タナゴ水槽では、私がミジンコを与えた瞬間は、「なに、これ? ちっぽけな!」なんて顔をしていても、10分も目を離していたら、一匹残らず食っていた、なんちゅう性格の悪さ!「いただきます」と「ごちそうさまでした」は、日本の食卓の基本だろ! 

 可愛かったのはチョウセンブナ(チョウセンブナと言っても、朝鮮原産ではない)。こいつは「お兄さん、ありがとう!」とは言わなかったけど(魚が言ったら、こりゃもう怪奇大作戦!)、全身で喜びを表現していたよ。また採ってくるからね。

 誰かにプレゼントあげても同じだけど、素直に喜んでいただけると、こちらとしても嬉しい。ケチをつけられたりすると、二度と付き合いたくない(かつてこんなことをした、某有名人がいたっけ! やっぱり今では全く没交渉になっちゃいましたけどね)。もらい上手ってのがいて、こんな人にプレゼントするのは、する側の喜びでもあるので、両方ともに幸福感が生まれて、とてもよい(そんな人もいますよね、私の身近にもいたりします)。こうなるとプレゼントは、お互いの幸せのためのアイテムになりますよね。

 ところがどっこい、プレゼントしてもらうのが当たり前になっちゃうと、これは悲惨。プレゼントが気に食わないと、明らかに不平不満が顔に出ちゃったりして。こうなると、プレゼントではなくて「賄賂を要求している」のと同じだ(ほれ、法律の問題になっちゃった)。

 プレゼントは好意や善意の現れだけど、賄賂の要求となると、欲望の公開だからね。人から何かしらのものをいただくのが当たり前になっちゃうと、ただのプレゼントでは満足できなくなって、「自分の希望を叶えるもの」をもらわなきゃ、満足できなくなる。しかも過不足なく。

 まあこんな手前勝手な奴とは、誰も付き合わなくなっていくので、最終的には、(たぶん)孤独な人生を終わることになると思うが、それでも人は死んでみないと人生の全体が見えてこないので、なかなか実感が湧かない。

 ただ、「最近、あいつは、以前のように貢ぐ君ではなくなったなあ」って感じることもあるようで、こうなると人は若干慌てる。慌てた結果、たいていの場合はダブルスタンダードになってしまう。つまり、自分が好き勝手やりたい分野では、好き勝手やるけど、自分が本当に困る分野では、援助は拒みません、なんて偉そうな態度になっていくのだ。

 援助は拒みません、なんてことをいう奴は、本来相手にする値打ちがない奴なんだけれど、「いい人」になりたい人は、それでもすすんで援助をしたがるから、ますますこういった手合いは頭のぼせる。のぼせを治すのは簡単で、相手にしてやんなきゃそれでいいんで、こちらとしても疲れないからいいんだけど、世の中にはお目出度い人がいて、どうしても人助けをして、「いい人」として見られたい人もいるらしい。

 ではなんでそんな面倒なことをしたがるのかと言えば、他者から「あの人はいい人だ」と言われたいからである。これって、立派な欲望なんだけどね。つまりは欲深い存在なわけだ。(こんな人は、自分に余裕がなくなったら、速攻で180℃態度が変わる。ま、人間らしくていいっちゃあいいんだけど)

 自分という存在が、どんな欲にまみれているかを知ることは、自分を知る第一歩だ。それを知らないで生きていたら、たとえ200歳まで生きたとしても、脳みその中はお花畑のままである。こんな人は、年長者だからといって、敬う必要はない。敬われるには「敬われるに足りる条件」がある。

 なんだか、どこかの、なりたての大統領とやらが、好き勝手なことを言っているらしい。こんな時は、「ああ、ご自分でやられたら?」と返すだけで十分である。キレイゴトを語るなら、キレイゴトを、自らの力量だけでやり遂げていただきたい。そうすれば説得力が発生するから、他者も聞く耳を持つかもしれない。やり遂げられなければ、「ああ、そうですか。どうぞご自由に」 このひとことで、自立するしかないことがわかんなきゃ、もう成熟した大人ではない。ご苦労さん!の一言でお終いだ。

 言葉で相手を攻撃する必要なんかない。言葉ってのは便利なものだ。岡山弁では、相手が言った言葉に対して、「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」と返す常套句がある(今はもう廃れたかな。私の親の世代までは、頻繁に使われていたような気がするんだが)。相手が何を言ってもいい。「そうかな、そうかな。そりゃあ、そりゃあ」

「そうかな」というフレーズは、相手が言った言葉を聞きましたよという意味である。つまりはなんとなく肯定されているような気分になる(絶対に応諾ではない)。非常に巧い「受け」言葉である。続く「そりゃあ、そりゃあ」とは標準語では「それは、それは」となる。「それはそれは」って何?

 なんとなく相手に感心したり、同調しているように聞こえる言葉である。だが「それでいい」とか「そいつは素敵だ」などとはどこにも表現していない。つまりは、相手を否定はしていないけれど、まったく肯定もしていなければ、受け入れてもいない言葉なのである。

 この常套句は実によくできていて、私の親の世代までは、とても上手にこの常套句を用いていた。実はこのフレーズが必要なのは、もしかしたら今なのかも知れないんだけどね。はっきりYes, Noを言うだけが能ではない。Yes, Noを言わないで物事を進めていくのも、立派なテクニックであると、私は思う(二元論の人々には、嫌われるかも知れないが)。

 うまくいったり、目的を達成できれば、立派な交渉術だ。

2017年5月22日 (月)

不公平!

 村田選手のタイトルマッチの判定を巡り、異論が続出しているらしい。私はちょうど呑み会で、見てなかったのでよかった。見てたらグラスを割ってしまうところだったようだ(我が家では、私が怒ったぐらいでは割れないように、丈夫なグラスを使っていますが……自分の性格を熟知しているので)。

 ホームタウン・デシジョンってえのは大昔からあるよね。でも逆ホームタウンデシジョンなんてのが存在するのは、私が知る限りは日本くらいのものじゃないかね。そんなにしてまで外国に遠慮しなくてもよさそうに思うのだが。

 スポーツ界は明らかに欧米主導である。欧米で作られたルールで、欧米人にあった企画で行われる。顕著な例としては、スキーのジャンプなんかは、もろこのパターンだ。スキー板に加わっている制限なんて、明らかに日本人に不利に(とはいわなくても、少なくとも有利にはならないように)どんどん改定されている。水泳の泳法に関するルール改正なんかも、同じようなことがあったと聞く。

 体力差と、ルール面での不利、そこを新たな技術開発と、選手の研鑽で越えていく、わが国のスポーツ界に最大限の賛辞を送りたい気分だが、本来スポーツ界は「公平な条件」で競技力を競うはずの世界だ。肉体的に恵まれているとは、必ずしもいえない日本選手が、工夫とたゆまざる努力で、様々なハンディを乗り越えているのを、どうしてルール改正などで制限したがるのかわからない。

 ではライオンやゾウに立ち向かうのに、徒手空拳でやれっていうのですか? 身体能力が違う相手に、工夫や研鑽で立ち向かうってのは、圧倒的な能力さを工夫でなんとかカバーしようとしている努力なんですよ。それこそが人類が、自然界で生き延びてきた原動力なんですが、それを否定するんですか(ドーピングは私も反対ですけどね。不健康になってまでやってどうするの? って問題ですよね)。

 ルールを最大限活用して勝つことは、人類が頭脳を使うからできることで、反則をして負けて「本当は俺の方が強かった」なんてうそぶいている人は、競技スポーツなんかやる資格はないわけで、反則しないでルール内で工夫して、相手を凌駕しようってのは、もしかしたら人間の本質なんじゃないですか?

 勝つためにルールをいじくるなんてえのは、それまでのルールに沿って競技力を高めてきた選手に対して、あまりにも無慈悲なんじゃないですか? ましてやわけのわからない判定なんかについては、もう言語道断ですね!

 もちろん人間のやることですから、完璧はありません。しかしながら大方の人間が納得できないような判定ならば、そういう判定を下した理由説明があってしかるべきです。理由を明快に説明できなければ、普通に考えて「審判資格はく奪」ってことになるのではないですか?

 私も長いこと、自分を含めてこういう世界にいましたから、納得できなかった裁定や審判は、一つや二つどころではなく、たくさん経験しています。おかげで人生が変わってしまった選手もいます。審判ってえのは、アマチュアスポーツでも人の人生を変えることがあるのですから、性根を入れてやってもらわなければなりません。

 性根を入れてできずに、「疑惑の判定」を行うような人に対しては、それなりの制裁が加えらなくては、やっている選手や、その選手をサポートしている人たち、ファンなどはおさまりませんよ。そして「疑惑の判定」を行えば、一番の被害を蒙るのは、その競技自体です。ファンが白けるからね。白けたら見なくなっちゃうもんね。

 かつてプロボクシングでKとかいう兄弟が話題になっていたことがあるけれど、あまりにひどいので、私は全然みなくなっていた(私の周囲には、こういう人がけっこう多かった)。幸いにK兄弟の後に、才能豊かな素晴らしいホンモノの選手が続出してきたので、再び見始めたんだけど、もしK兄弟の後、しばらくホンモノが現れなかったら、そのまま離れていったファンもいるんじゃないか。

「疑惑の判定」(ひどい時には「疑惑の解説」なんてえのもある。凄い技にコメントせず、どうでもいい技を、さも素晴らしくコメントする、などである)が招くのは、ファンの「シラケ」だけだ。そうでなくても近年は、競技団体などの努力が報われているのか、ファンの目が肥えてきているからね。少々の嘘は、テレビの前のファンにさえ見破られてしまうことが少なくない。

 一度下った裁定は、普通は覆らないものだが、明らかな誤審については、覆すと同時に、その判断を下した審判にも、相応のペナルティが下されるべきである。選手は一つ間違うと、生命の危険があるかも知れない場合だってある。そんな選手を、いい加減な審判(あるいは袖の下をつかまされて、最初から不正を働く気満々の審判)が裁くのは、絶対に許されるべきではない。少なくとも選手と同等の危険を背負わせるべきである。

 とまあ、私なんかは、こう考えてしまいますね。私自身も「生涯、絶対に納得できない判定」ってのを経験したことがあるので、特にそう感じますよ(その時の審判とは、私は、以後一切口をきいてない。おそらく死ぬまで口をきくことはないと思う。今、生きてるのか死んでるのかも知らないが)。

 審判が公平でなきゃ、選手はあほらしくてやってらんないよ。だから真央ちゃんは凄かったねえと、今更ながら感じます。審判面であれだけのハンディを背負っても、正々堂々と演技してたし、ちっとも悪びれてなかったし。(もちろんシドニーの篠原選手や、そのほかの大勢の、不可解な判定に泣いた選手のみなさんにも)

 私個人は、疑惑の判定を行った審判員は、選手がドーピング違反を犯したのと同程度の処分を下すべきだと考えています。誰か公の場で提案してくださいね。

2017年5月21日 (日)

自然を真似る?

 昨日よりちょっと涼しいな、と思ったら、なんと本日の岡山の最高気温は29.9℃だったんだそうな。おしいっ! なぜかしらこう感じてしまうのが不思議なところだ。30.0℃も29.9℃も、感じる側としてはそう違わないのだが、最高気温が30.0℃を超えれば「真夏日」で、25.0℃~29.9℃は「夏日」なんですね。「真」の字がつくかつかないかで、なんとなく残念な気がするのが不思議だ。

 まあ晴れてるのか曇っているのか、黄砂が覆っているのか、黄砂が覆っているのかわかんないような日だったので(黄砂が覆っているのだけは確かだった)、多少気温の上がり方が鈍かったのかな? それでも「蒸し暑い」と感じたから、何かほかに原因があったのだろうか。おかげさまでとうとう、食事後のコーヒーは、本日からアイスコーヒーに変わりました。アイスコーヒーには学生時代からちょっとうるさかったので、相も変わらず丁寧に(けれども短時間で)淹れます。ああ、おいしっ!

 先日採取してきた、ヒキガエルのオタマジャクシが、非常に元気になったので、そろそろ餌を考えなければなりません。「生餌」が一番なので、餌を採取してこなくては。たぶん彼らが生まれたところにはいなかったような生餌を探してくると思うので、成長が加速するかもしれません(栄養価が高いと思われるので)。

 なぜにヒキガエル?と思われるかもしれませんが、大学時代にいた東京では、ヒキガエルは古いお屋敷みたいなところ(の縁の下など)に住んでいたのに、岡山へ帰ってびっくり。お屋敷ではなくて、森林なんかにいるんですね(このオタマジャクシも森林の、かなり人里離れたところから連れ帰りました…実はオタマジャクシのいる水たまりの水が干上がりそうなくらい心細くなっていた。酸欠らしく、けっこう苦しそうなのもいたので、「全員は連れ帰れないけれど、ちょっとだけなら分担するよ」とばかりに、いつも車に載せているプラケースに入れて連れ帰ったのだ)。

 ヒキガエルは、カエルとしては原始的なタイプで、ジャンプが苦手だ(跳ぶと、頭からつんのめって、ひっくり返ります)。しかも手足が出てしっぽが消えたばかりの「なりたてのカエル」は、成長しきった成体に比べて「同種?」と疑うくらいのおチビさんです。ただ頑張って虫を食べてくれるということなので、我が家(我が家だって相当には年季ものだし)に導入してみようかと思いついたのですが、陸に上がったら、野良猫に襲われないよう、気をつけてやんないと。ネズミを捕るのがネコで、トリを取るのをトコ、ヘビを取るのをヘコとかいうらしいけど、カエルを捕まえるカコなんて聞いたことがないし。

 夕方、水槽の水替えを同時に2か所でやりながら、作物に水やりをするという離れ業(三か所で同時に物事が進行する)をやっていたら、もうちょいで事故が起こるところでした。巨大水槽の水を抜きすぎそうになったんですね(魚が全部ヒラメになっちゃう?)。危ないところで気が付いて、セーフだったけど。昔はよくやったもんです。水を入れすぎて「ノアの大洪水」とか、ね。

 ぎりぎりのタイミングで調整して物事が進行するのが、最も時間をロスしないんですが、何かで手間取ると、こういう事故が起こるんですね。でもなんとか無事に終了して、ほっと一息です(水替えの水は、この時期には作物の水やりに使ったりします。亜硝酸塩やら硝酸塩やらが豊富な水は、水槽の中では水質の悪化なんでしょうが、陸上植物にとっては宝になったりすることがありますからね)。

 うまく利用すれば、捨てるものなどない、なんて使い方も不可能ではないのでしょうが、この循環システムを作るのがなかなか難しい。ペットルームを作ったころは凝りまくって、水槽のろ過システムだけでも3種を併用してたし、上部ろ過槽には抽水性の植物が植わっていて、それようの照明なんかもつけていました(すごい勢いで成長します)。しかも上部濾過槽はたいてい三つ取り付けていて(水槽がでかいので、こんな遊びができた)、常に稼働しているのが2つで、一つは意識的に乾かしていたりしました。なぜかというと、「水際域」と作っていたんですね。水際域の浄化作用の強さは、かなりのものがありますから。

 で、水替えで捨てるはずの水は、きっちり水草水槽に入れて浄化&水草の生育に利用して、あとははるか以前に西ドイツ(東ドイツを合併する前の)で作られていたエーハイム(昔のエーハイムは壊れませんでしたよね~。さすがドイツものと感心していましたよ)、さらには巨大な水作も使っていたから、考えてみると、ろ過しシステムは4種混合だったわけだ(三種じゃなかった)。

 これも完全に稼働させるには、かなりの労力が必要で、やっぱり長続きはしなかった(3年近くは頑張ったと思うけど)。人間が「大自然」の真似をしようとすると、寿命が縮むなあと、あの頃はつくずく感じていましたなあ(それだけ、まだ暇と体力があったってことでもあるけど)。

 アマゾン原産の熱帯魚にはまっていたころ、友人と話をしたことがある。「どうして原産地の美しさが出せないんだろうか?」「せめて幅が50㎞、長さが500㎞、深さが20mくらいの水槽があったら、出せるんじゃない?」「だれがそんな水槽を管理できるっていうの」「やっぱり無理か」 間違いなく、一日で見回れるサイズではない。

 はい。自然を再現するなんて途方もない望みを抱くより、自然の片隅でひっそりと、ほかのものたちに紛れて、自然からの分け前をありがたくいただいて生きるほうが、はるかに楽です。あとは少しだけ自然界に働きかけて、その分、自分たちに好ましいものを分けていただければ、それで十分なのかも。

 スイレンが咲いた水たまりで、チョウセンブナが元気に泳いでいます。ずいぶん前にこの水たまりに入れたもので、冬の寒さにも、夏の暑さにも負けず、頑張っていたんだねえ。もうそろそろ交尾に時期がやってくるので、ちょっとだけ栄養をつけてやることにしました(もとよりこの水たまりでは、ミジンコが発生するようにはしてあった)。

 ずうっと放置していたので、エサをもらっているのに、逃げ隠れします。「そんな悪い性格の子に育てた覚えはないぞ」といっても、もう1年以上も放置しているから、忘れてるよね、養育の恩なんて。それにサイズの小さいのが何匹も一緒に泳いでいたから、人知れず昨年殖えていたのかも(これじゃあ、恩なんて感じるはずがない?)。

 大自然の真似はできないけれど、ほんの小さな環境ならば、マネができないこともないみたいです。

 …悟已往之不諫 知来者之可追 実迷途其未遠…   陶潜『帰去来辞』より

2017年5月20日 (土)

暑くなりました(ふうふう……)

 やっぱり! ということで、今日の最高気温は30.9℃(岡山市)なんだそうな。クソ暑いと思ったんだよ。ちょっと動いただけで、汗みどろだもん。でも今はシャワーを浴びて、気持ちのいい風に吹かれて、なかなかいい気分でございます。

 最近の天気の変化は、なかなか人間の身体には対応しにくいんじゃないかと思うくらい激しいように感じるんだけど、まだ岡山の県北には、ちゃっかり雪が残っていたりするんだ(例年なら4月中旬には消える)けど、まあ、変な年である。(そりゃあ、熊だって出てくるわな。きっと驚いて対応できないんじゃないかな、熊も。で、人間様はどんな過ごし方をしているのかが、気になって、覗き込みに来ているのかもしれない)

 ということで、これから呑みに出かけるからね! 作物の水やりは、帰宅してから(べろんべろん?)。日が照っている最中の水やりは感心しないからね。

 お山からお持ち帰りの山椒の苗も、3本中2本は、ほぼ確実に根付いた。最後の一本が乾燥しがちなところに植えたので(毎日、神経質に水やりをしてます。だって乾燥しがちとは言っても、水道から1m離れていないからね)、若干気になるが、ほかのはもう枝が伸び始めているから、もう少しだけメンテに気を付けようって感じですね(アゲハチョウ対策が大変だけど)。

 ということで、ここのところ急に気温が上がってきましたんで、熱中症にはご用心! 予想以上に汗をかいているよ(私もビールが手放せなくなりました。アルコール飲料は脱水を起こすからいかん、という説がありますが、そうかなあ。私はビールに限ってはいいような気がするんだけどね。水は2リットル飲むことは大変だけど、ビール大瓶3本なら、たいていの人は飲める…未成年の人はダメですよ…ような気がするんだけど。

 まあ、アルコールの分解も、ある種の「慣れ」ですから(体質的にアルコールが分解できない人に、無理強いはイケマセン。それと今まであまり飲んだことがない人に、大量に飲ませるのも、よくありません。それからビギナー、ベテランを問わず、一気飲みも感心いたしません)、飲んでるうちに強くなるので、20歳の誕生日から、特定の例外を除き、ほぼ皆勤賞で飲み続けている私なんかは、「飲まない」ことに「慣れていません!」もう生活のパターンになっちゃってるからねえ。今更「ビールは水分補給にならない」なんて言われても、説得力がまったくありません。

 そうそう、先日思いついて、1週間だけ試験的に禁酒したことがあります。その結果わかったこと。①経済的に楽 ②めちゃくちゃご飯を食べてしまう ③おかずを食べる量が減り、栄養のバランス維持に疑問を感じた ④夕ご飯にかかる時間が、飛躍的に短くなった  ⑤禁酒を禁止して飲み始めたら、めちゃくちゃ呑めた(ビールなどに対する飢餓状態だったのね、きっと) などなどの変化がありました。

 ただ私的には、夕ご飯時にDVDなどをよく見るので、精神衛生上は必ずしもよくないような気がいたしました。人はパンのみにて生きるものにあらず。心にもしっかりとした食べ物を与えないとね! だから夕ご飯時の飲酒は、栄養のバランスをとるためと、精神的な栄養補給に、非常に大きな意味を持ってるんですね。

 アルコール万歳! 今日もこれから、飲むぞ~っ! 岡山のお酒と、日本ではほとんど手に入らないお酒でも持参しようかなっと。それともう一つ、めったに食べることができないものも(何でしょね? お楽しみに。またマスターに面倒をかけちゃうことになるんだけど…サルでもできる程度の反省をします!)。

2017年5月19日 (金)

夏は来ぬ

 いい天気で、暑かったですねえ。今日の岡山市の最高気温は30.0℃だとかで、これはもう立派な夏ですよ。あまりの暑さに、帰宅後一番にシャワーを浴びなければ、やりきれなかった。

 ホトトギスの声は今月どこかで聞いた気がするので、あとは明日にでも蛍を見に行って、いればもう夏だよね。(クイナも早乙女も無視である。だいたい早乙女なんて、最近はとんと、わが岡山では見かけない。クイナなんて、まだ生息してんの? って感じである。あ、明日は『○○を語る会』でした。蛍を見に行くわけにはいかないなあ…… でもたぶん、もう姿を現しているころだよ)

 今年は花粉症(黄砂症?)が治る前に夏がきちゃった。おかげで肉体的な準備が不十分である。これから1~2週間で大急ぎでやんなくちゃ。ますはその第一として、汗腺の活動を活発化しなくちゃらない。こいつは若干の忍耐を必要とする作業なので(毎年やってますけど)、面倒なことは間違いない。

 体内の水分の循環が加速されるので、気持ちはいいんだけどね。水分補給には、若干気を付けないといけない(放っておくと、身体がカサカサになった感覚があります)。あとは睡眠時間に気を付けて、栄養補給に気を付けて、それで夏を迎える準備は完了するはずです。

 我々人類は恒温動物なので、周囲の環境にはあまり影響されないはずなのですが、気温が上がれば、否応なく活性化されます。これは本人の好む好まないには関係ありません(クーラーをガンガンに聞かせた部屋から、ずうっと出なければ、年中冬でいられますが)。強制的に夏仕様にされてしまうんですね。

 これではなんとなく情けないので、自分から進んで夏仕様の肉体に変えてしまおうというのが、私のやり方です。起こる変化で顕著なものといえば、身体が軽くなる。ビールがうまくなる。やたらとアイスコーヒーがほしくなる(あくまで個人的な好みの問題ですが。ちなみに私は自分で淹れるアイスコーヒーの美味さに、かなり自信があります)などなどがあります。

 で、夏を迎えるのですが、今年の天候は、変化があまりに急激なので、対応にちょっとだけ時間がかかりそうです。ま、そんなこんなで、忙しい日々になりそうです。

 今日は一ついいことをしました。道路を横断中のアオダイショウを、上手に回避いたしました。蛇という生き物はやたらと長いので、交通事故に遭うことが少なくないんだよね。でも多くは害獣を駆除してくれるので、益獣(獣でなく爬虫類なので、何と呼べばいいのか)なんだよね。とっさの急ハンドルで躱したけど、ひかなくてよかった!

 帰宅して、ミニバラの背後の草を取ったら、なんとなく間が抜けてしまいました。ユリが咲くにはまだ少し時間がかかるので、何を植えようかと悩んでいます。中くらいの背丈の、赤い花がいいんだけどね……

※ 明日は今月の『○○を語る会』でございます。よろしくお願いいたします。あまり暑くなきゃいいんだけどね……

2017年5月18日 (木)

何か変……

 一気に、「日陰が恋しい」日になりました。車を転がしていると、建物の影に入ってスマホをいじくる作業着姿のお兄さんがおりましたが、その気分、わかる、わかる。眉間のしわもわかる。なんたってまぶしいからね!

 それでも遠くの山は、まだまだ白い。この状況は、某「自称大国」が、わが国の西に存在する限り変わらないのか、あるいは地球の自転が逆転して(こりゃ大変だ。天変地異なんて生易しい表現では言い表せない、とんでもない現象が起こって、生物に壊滅的な打撃がある)、ジェット気流が逆方向に吹いてくれないと直りそうもない。どっちにしても、かなり難しい問題だ。だから喉の調子が悪くて、声が出ないのを我慢するしかない。

 昨日は、実にうまい具合に通り雨があったが、今日は朝の水やりを忘れなかったので、雨の「あ」の字の気配も感じられない(夕方…もしかすると深夜?…の水やりの準備は完了した。そうでなくても私は夜には強いので、夕方ないしは夜の水やりを忘れることは、家にいさすれば、まずない。へべれけに酔っぱらっていても、である)。今日は雨は必要ないからね、それでいいんだ。

 とまあ、岡山県南は順調に夏に向かっているのだが、なんと昨日和気町(けっこう南だ)にツキノワグマが出現したんだと! こりゃあクマったことだなあ。 っていうか、すでに私は先週、クマの足跡を見てたからね。「ほう、これは2日くらい前のもんだね、きっと」と思ったんだけど、あまり社会を騒がせたくないから、騒がなかった(山では騒ぐけど。クマ寄ってこないよ)

 クマって生き物は、外見はかわいいんだそうだが、身体能力はたいていの分野で人間を凌駕している。私は全盛期のウィリー・ウィリアムスではないので、素手でクマと殴り合いをする気はまったくない(ちなみにクマとやった後のウィリーとは、世界大会の会場で会ったので、握手してもらった。でっかい手だった。クマの爪の跡がちゃんと残ってたよ、前腕に。ま、脚の付け根が私のみぞおちまである人は、すでに同じ人類なのかな?と疑ってしまいましたけどね)。

 動物園とか、安全が確保された場所で会うのは、別にどうってことはないけれど、大自然の中で、野生の猛獣と出会うのは、あまりうれしいことではない。足場は悪いし、何がどこにあって、いつ、どういうことが起こるか予想できないからだ。

 試合場なら、平坦な場所で、可能な限り互いの条件を平等にしてやりあうわけで、公平性が確保されるから「競技会」として成り立つわけだけど(公平性が成り立たない国や地域もあるんだそうな。ホームタウンデシジョンってのは、どこでもあるもんだけど、それ以外の条件を変えられたら、こりゃあもう「試合」ではございません)、大自然は「競技会」なんてものを考えてはくれませんから、有利な状況に立ち、その場の条件を自分に有利に利用できるモノが強い。

 だから人が少々強い弱いなんか言っても、大自然の中でその実力が発揮できるかどうかは、まったくの疑問だ(たぶん実力の半分も出せないのではないか)。つまりは大自然で野生動物をやりあうのは、あちらの土俵で、あちらのルールに従って戦わなければならないので、相手にもよるけど、勝てる可能性は極めて低くなる。

 ま、先日クマの足跡を見かけたのは、かつて私がミニ山籠もりをした場所からそんなに遠くはなかったんだけどね(クマの速さなら30分はかからないだろう)。だからあの時のミニ山籠もりは、本当に怖かったんだよ。身を隠す場所もまったくない状態で、徹夜したんだけど(武器は持ってました。各種)、一晩中、極限の緊張というのを経験したんですね。だからあのミニ山籠もりは、私の人生で大きな影響を与えていると思っている。(やろうと思い立った時に、なんでもやっておくべきですね~。今じゃあ、絶対にやる気にならないよ)人生に感謝である。

 とまあ、今年は変な年なので、変な時期に、変な生き物が動いております(この20年間余りで、こんな年はなかった)。こういう時には予測がつかないことが起こるので、皆さんも十分注意して活動してくださいね!

※ ということで、今月の『○○を語る会』は今週の土曜日、5月20日でございます。よろしくお願いいたします。

2017年5月17日 (水)

甘さ

 なかなか不可解な天気であった。朝、水やりする間がなかったので、昼頃のにわか雨はありがたかったんだけどね、夕方はもうちょっとは降るかなあと思っていたら、空振りだった。おかげで私は「明るい農村」のこまごまとしたことをやっているつもりで、真っ暗になってしまい、何も見えなくなってやめた(先日はこの状態で草ぬきをして、草ではなく作物を抜いていた…涙)。

 支柱を建てようかなと思っていたら、Kさんが来てくれて、やはりトマトの出来が尋常ではないというお墨付きをいただいた。私はトマト大好き人間なので、ありがたいことだ。今は「キイチゴ」の実がなっているので、草ぬきのついでにいただいているけどね(とても美味しい。控えめな甘さが、うれしい)。とはいっても今日は、邪魔になったキイチゴは切り倒したんだけどね。人間は勝手な生き物なので、許してくださいませ。

 で今は、お師匠様から送っていただいた夏みかんを食べながら(これがまた美味しい。例年のものよりも甘みが強いようで、さらに美味しい。今年は出来がいいのかな?)、これを打っている。もしも希望があれば、今週の土曜日に持参してもいい。過大評価でなく、本当においしいから。

 だいたいお師匠様と勝負していた時なんか、お互いに過大評価なんかとは無縁だった。どちらも「超」がつく現実主義者だったからね(お師匠様は、決して私を甘やかしてくださいませんでした。私が一番感謝している点でもありますけどね。いつだって勝負の場では、真正面から叩き潰しに来てくださいましたもん。だから今の自分がいると思ってます)。今じゃあ好々爺?になられて、果物作りも、さすがに名指導者に恥じないものをお作りになって、かっこいい人生だと思いますよ。(好々爺のように見えて、やっぱり自然か何かと戦っておられるんじゃないかと思っていますけどね。人の本質は、変わるもんじゃないからね。

 戦う場所や状況や、戦いの目的が変われば、当然戦い方は変わります。それぞれの目的や状況によって、もっとも適した戦い方をするのが、私は「かっこいい」と思っちゃうんですよね! 近いうちにお邪魔したいなあ(「山荘?」に招待はされているんだけど……わかる人にはわかる、山荘への招待でございます…笑)。昔はお師匠様の家から通勤したこともあったしなあ……(ちなみに私の最大通勤距離は850㎞です。当然午前中には間に合わなくて、真っ暗な頃起きて、昼頃ようやく職場に到達いたしましたが。あの頃はまだ元気がよかった?) ま、何か私の勉強とかためになるとか思うと、フットワークは軽かったからねえ。(今は超重たい…涙)「矢も盾もたまらない」といった心境になってたんだよね。

 おかげで晩御飯の支度が遅くなっちゃって、面倒くさいので「イカ、鹿、豚の黄金炒飯」なんてけったいなものを作っちゃいました。(イカの代わりに蝶々が入れば、「イノ、シカ、チョウ」になって、花札だったんだけどね。大金持ちトランプ大統領にでも勝てそうだ。ただ悲しいことに、いろんなものを食べてきた私だが、蝶々を食べたことはない…食べたいとも思わないけど)

 簡単に言えば、冷蔵庫の中のものをなんでもぶち込んで作っちゃったって感じだけど、こいつが意外にうまかったんだねえ。「ええっ? こんな甘みが出るのっ?」って感じで。ちなみに私は、甘味料はあまり使わない人で(砂糖の分量なんか、料理レシピの五分の一くらいかな、せいぜい)、甘くはないはずなんだけど、素材が持っている旨さが出た結果として、意外な甘さになったのではないかと思っている。

 意外なところで、意外な「甘さ」に気づいてしまうのは、お師匠様との真剣勝負の日々を思い出させてくださるような気がして、なんとも言えない気分だ。厳しい勝負だったからこそ、今思い出してみると、素晴らしい味わいがある。無我夢中で、睡眠時間すら削りまくって(今でもあまり変わらないか? 習慣になっちゃったのかねえ)何もかも捨てて挑戦していたあの頃がなかったら、今の私は絶対にいなかったと思う。それが「ちょっと遅れて感じる甘さ、旨さ」なんだよね。

 自分の人生を振り返ってみて、「なんちゅうくだらない人生だ」とは思っているけれど、お師匠様に挑戦していた時代は、やっぱ自分の中で別格だよね。あの時代の自分には、「合格点」をあげてもいい。もう一度できるかと?問われたら、「う~~ん……(ということは、できない可能性が大きいということだ)」。

 実は今年も、あれこれとやんなきゃならないことが多いんだけれど、お師匠様のところへは行かないといけない(昨年もそんなこと思っていたんだけどね。行こうと思っていた時期に、ちょっとした妨害が入ったもんで、行けなかった)。今でもなかなか褒めてはいただけないんだけど、それが後になると、なんとも言えない「甘さ」に変わっていくんだよね。

 私は「師匠運」に恵まれた人だと思っているけれど、この幸運は最大限味わっておかないとね!

※ 今月の『○○を語る会』は、今週の土曜日(20日)でございます。よろしくお願いいたします。

2017年5月16日 (火)

時代おくれ

 花粉はもう終わっているはずなのに、まだ鼻が詰まる。山が白いから、黄砂のせいだろうとは思うけれどね。

 なんでもM学園のK理事長が、「新たな資料」を公開したんだそうな。しょーもな!何が今更、「新たな資料」なもんか! 北C鮮は新型ミサイルをぶっ放すわ、K国は新しい大統領が決まって、想像通り頓珍漢なことを言ってるわ、世界は動いているんだ。今更M学園問題の、どこが「新たな」んだ? あほみたい。

 まったく私個人の見解だが、そもそもあのM学園問題は、北C鮮の一連の動きに対する陽動か、あるいはまあどこかの蝋燭デモだとか、どこかの反大統領デモに関連した、一連の動きの一つとしてしか見てなかったけどね。

 いつも本ブログで言っているように、「偶然の一致」なんてことは、歴史をみてもほとんどないわけで、「偶然」に見えても、実は「必然」であって、どこかの誰かの意思が反映されていると思っているからね。歴史が好きで(親父の影響)、あれこれ漁ってきた結果が、「偶然」と思われていることのほとんどは、実は「必然」なのだということを確信することにつながった。親父は偉大だ。

 だから、すべてが一連の流れの中で起こっている動きだと思っているよ(もちろん、具体的な行動を起こされている方は、すごいなあと思ってはいるんだけどね。もしもこういった自発的に動く人がいなかったらどうなるのだろうか? 簡単である。そういう人を「作り上げていく」だけなのだ。歴史上、こういった「他者によって作られた人物」も、決して少なくはない。

 俗に、「時勢が英雄を生む」なんてえことを申しますが、もしもその「時勢」とやらが、誰かの意思によって作り上げていると考えたら、実は「英雄」すら、誰かによって作り上げられているだけなんじゃないかと思ったりする。(考えてもごらんよ。昭和初年のころ、人々を熱狂させた人が、もし平成の今いたとしたら、果たして熱狂は生まれただろうか? ビートルズが現代にいて、普通に活動していたら、果たしてあの『ビートルズに』なれただろうか…私はビートルズが好きで、ほとんどの曲は持っているんじゃないかと思うけど、客観的に見てそう思う。もちろん、ビートルズという存在と、彼らの活動があったからこそ、今の音楽界があるということには確信を持っているけれど。歴史の面白さはここにある。斎藤道三は織田信長よりも有名ではないけれど、では斎藤道三がいなかったら、果たして歴史上革命的な織田信長という人物は誕生しただろうか?というのと、よく似ている。時間軸の中では、なかなか先に生まれて、それなりの活動をした人には敵わないというのは、そういうことだ。その人の影響があったから、○○できたのだと言われれば、それを全否定することは困難だ)

 でもそんな中で、上っぱしりしてしまって、本質を忘れてしまっているとき、ふと本質を見直させてくれる存在は、大変ありがたい。たいていの場合は、何気ない瞬間の、一見何気ない一言だったりするんだけどね。

 こういう人は、特に目立ったり、大口をたたいたりはしない。ましてや自分「らしくない」こともやらない。ただただいつも通りに、気取らないしぐさで、気取らない言葉を吐くだけだ。それでもちゃんと、人が生きるってことを外していないんだよね。

「時代おくれ」という歌は、河島英五さんの歌だが、阿久悠さんの作詞だ。さすが、阿久悠さんだなあ。どこかの、無理ばかりをして、目立とう目立とうとばかりあくせくして、似合っているのかどうかわからないことに狂奔して、人の心もちっともわからず、時代の最先端を走っているつもりになりたい人の言動を見ていると、こっ恥ずかしくなっちゃうよ!

 いまさら「新たな資料」でもないでしょうが。もう誰も、あんたのことなんか見てねえよ! 見ているとしたら、何か特別な意図か、使命か、考えを持った人くらいだけなj¥んじゃねえの。

 自分の役を演じ終わったら、速やかに退場しなければならないのが、この世の習わしである。いつまでもいじいじしていると、そのうち、大変な税金が(あるいは出演料が)課せられることになるよ!なんたって、あんたの時代や演技は、もう終わっちゃっているんだからね!

 そうでなくとも歴史上の「必然」を感じさせなかった存在なんだから、こうなってしまってはすでに「ゴミ」か「雑音」以外の、ナニモノでもないんじゃないかと、私は思うね! そいつにとって舞台は魅力的に見えるんだろうけど、自分の役割が終わったら、速やかに退場しなくては、劇は進行していかないよ! 全体の流れが滞っちゃうんだ! さよなら、だね!

 ※今月の『○○を語る会』は、五月20日の第三土曜日でございます。よろしくお願いいたします。なお格闘の技は教えません。十年ほど前にこの店の対岸と思しき場所で、推手をやっていたら、警官を呼ばれた経験があるからね(苦笑)。誰がニコニコと、和気藹々の雰囲気で、喧嘩なんかするか(ただし、いろんな武道の高段者がいたことは、否定はしませんが…笑)。みんな酔っぱらっていい気分で、ニコニコと推手をやっていたんだ。言ってしまえば、一緒に踊っていた感じだったんだけどね。

 ちなみに警官に注意された後は、白けちゃった気分直しに、四次会でまたしても飲んだような記憶がある(笑)。これは警官の時代おくれというよりは、むしろKYという感じだったですけどね。 

 私にとって、突然推手が始まることは、全然珍しくない。いきなりハワイのホノルル空港ので、120㎏はあろうかという巨漢と始めて(当然日本人ではない)、空港の係官にあきれられたこともあるし。(すべては親愛の情の表現。ハグの前の遊びみたいなものだけど)

 でも説明して相手に理解させるのが面倒いから、もうやらなくなっちゃったんだよね。とても残念なことだけど(本心では、駆け付けた警官相手に、相手がこちらを取り押さえようとするのを推手で煙に巻いてしまいたいという欲求があるんだけど、日本の警官はくそまじめだから。おとなしく取り押さえられないと「公務執行妨害」とやらを取られそうなので、冗談がわかんない奴には、冗談は言わないことにしている)。でもスキンシップは、本当は大切なんだよ!

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